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2020年10月

2020年10月28日 (水)

「還暦」の節目に思う

きょう10月28日(水)、60歳の誕生日を迎えた。

世間ではこれを「還暦」と称する。本来、「数え年」六十一歳を指す言葉であり、干支が一回りして生まれた年と同じになるため、「暦が還る」ことになるのだ。

振り返ってみれば、結構やりたいことをしてきた半生だったなと感じている。

(1)学生時代までは古代・中世史学の研究者を目指していたが、その力量は不十分だと感じ、「古代史」「中世史」は趣味の世界へと転換した。

(2)途中で方向転換して「老人福祉」の道に進み、挫折することなく、その分野が老人福祉から高齢者福祉、さらに「介護」となっても、そのまま働き続けることができた。

(3)他方で、国際福祉の方面へ進みたかった思いがあり、若いときには不完全燃焼の感があったが、浜松で外国人医療支援に関する組織に参画することによって、ある程度はその分野に携わることができた。

(4)介護支援専門員の資格を取り、間もなく当時稀であった「ケアマネジャー開業」に踏み切った。(2)(3)で開拓したさまざまな人たちとの結び付きが奏効して、自分の仕事も一時期を除き順調に進めることができ、また、地域の介護システムを作っていく作業にも加わり、介護支援専門員の指導的立場にある者の一人として、それなりの立ち位置を獲得することができた。

(5)これらの流れを受けて、全国的にも多くの業界内外の仲間とお付き合いすることができ、講師などの依頼を受けたり、著書を世に出したりすることができた。

以上を総括すると、大して成功した部類には入らないものの、自己実現ができた半生だと言うべきであろう。

一つの節目なので、好きなワインで祝杯を上げている(^^*

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さて、60代。もともと基礎体力が平均以下であった私としては、今後は一層体力面の制約が増えるであろう。本業のほうも関連する事業のほうも、以前からはかなり縮小している。しかし、自分が必要とされる場があれば、これからも出向いて行って活動したいと考えている。

そのためのご提案があれば(内容にもよるが)なるべく前向きに検討したいので、遠慮なくご連絡いただきたい。

2020年10月26日 (月)

ヴェルディ歌劇の面白さ(16)

舞台芸術で「多様性」は重要な要素だ。それは国際的にも大きな潮流であるに違いない。

しかし、古典的な芸術である歌劇には「奇をてらった演出」が不似合いな場合がある。ヴェルディの歌劇、おもに中期の作品でよく感じる。

最近は(特にコロナ禍以降は)劇場でヴェルディを鑑賞していないので、もっぱら購入したDVD・BDや、録画したCSで視聴しているが、同じ演目でも、演出によって受ける印象が大きく違う。それは舞台芸術としての評価にも影響する。

ワーグナーの作品と比較してみよう。ワーグナーは自ら楽劇の台本を書き、そこでは超自然現象を交えた神話や伝説を素材としており(「ニュルンベルクのマイスタージンガー」を除く)、作曲者自身が意図した主題は読み取れるものの、「こんな狙いもあるのではないか」と豊かな解釈をする余地が大きい。奇想天外な舞台構成も一つのバリエーションとして認められ、多彩な演出がそれぞれ一定の評価を受け、聴衆に受け入れられる場合が多い。

他方、ヴェルディの歌劇は台本作家が書いたものであり、現実に展開される人間模様が素材である。前期には台本と相性が悪く不本意な作品になった歌劇もいくつかあるが、中期以降はほとんどの作品で自分自身の構想と整合させている。

そして、前期には祖国イタリアへの愛国的な作品が多く見られたが、中期には「社会派」と称されるように、世の中の不条理を洗い出している作品が多い。非定住民差別を核にした「トロヴァトーレ」、先住民(南米)差別を前面に押し出した「運命の力」、宗教対立を基調に据えた「ドン‐カルロス」など。

これら中期の傑作は多くの劇場で上演されており、演出家にとっては腕の振るいどころなのかも知れない。しかし、中には奇策を弄し過ぎて、演出家の自己満足に陥ってしまい、聴衆に何を訴えたいのか肝心な部分がボケてしまうことがしばしば見受けられる。最近では黙役を登場させる演出もちらほら散見するが、その黙役の動きが何を意味しているのかを聴衆に理解させられないと、悲惨な評価を受ける結果になってしまう。

むしろ、ヴェルディ中期の作品を味わうのであれば、オーソドックスな演出のほうが望ましいのだ。

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たとえば2017年オランジュ音楽祭の「リゴレット」(画像。CSから録画)。指揮アラン‐ギンガル、リゴレットがレオ‐ヌッチ、ジルダがネイディーン‐シエラ、マントヴァ公爵がセルソ‐アルベロ。

シャルル‐ルボーの演出では、舞台後方に巨大な玩具(中世の道化師が用いていた)がゴロンと横に転がしてあり、その上がゆるい坂になっていて、登場人物が坂の上側から出たり入ったりできるようになっている。これはある意味、リゴレットの運命の象徴であろう。それ以外は全く現代フランスの背景や衣装であり、21世紀のスーツやドレスをまとった上流階級の人物が役を演じていて、他に変わった趣向は見られない。

しかし、その普通の「フランスの上流階級の社交場」で、堂々と「障害者差別」や「性暴力」が展開されるのだ。西アジアやアフリカの戦場でもなく、中南米のスラム街でもない。これを視た聴衆の多くは、障害者差別や性暴力が自分たちの日常と決して無縁ではないんだよ、との強いメッセージを受け取るであろう。これはまさにヴェルディ自身が意図したところであり、ルボーはそれを効果的に表現するのに成功している。ヌッチ(当時75歳!)、シエラ、アルベロ(この人のハイDは劇場で実際に聞いたことがある)の三人の歌唱が圧倒的であるから、舞台に余計なものをあれこれ付け加える必要もない。

このような演出がヴェルディ中期の歌劇の醍醐味を生かしているのだ。時代は現代に移しても差し支えないが、設定をゴチャゴチャと複雑にしないほうが良質な演出となり、心ある聴衆を惹き付けるのである。

「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」。

この言葉を玩味したい。

2020年10月17日 (土)

手抜き料理

ネットで最近、「冷凍餃子は手抜き料理なのか?」と議論になったらしい。

個人的には、冷凍餃子が手抜き料理だろうがそうでなかろうが、全く構わない。子どもがいる家庭で親が腕を振るいたいのなら別だが、私のような中高年の一人暮らしの場合、餃子を一から自作しなければならない理由は何もない。いや、子どもがいたって、片方の親が専業主婦(夫)か自宅での仕事か、それに近い状態ならばともかく、外で相当時間働いている場合は、帰宅してから作るのはとても疲れるはずだ。結婚生活を経験していない私にも、それはよく理解できる。しっかり時間を掛けて調理するのは休日ぐらいで十分だと思う。数十年前の高度成長期、夫が帰宅すれば妻がしっかり手を掛けて夕食を用意してくれる状況がメジャーだったころとは、時代が全く違う。

私も一から餃子を作ったことはない。母が存命のときに食材をデリバリーしてもらっていたが、そのころにときどき注文した餃子はすでにミンチが作られた状態だったので、小分けにして皮にくるんで焼くだけであった。いまはもっぱら地元「五味八珍」の冷凍餃子を買ってきて、それを焼いて、もやしをゆでて(他の品のこともある)添えるだけの手抜き版(画像)である。

20200718gyoza

自分の場合、週二回(水・日曜日)の休日には、食材を下ごしらえして何がしか自作することが多い。週五回の営業日には帰宅が19:30前後になり、それから調理するとなると、むしろ手抜きが当たり前になるため、レトルトのカレーとか市販のパスタソースとか、あまり時間と手間をかけないものを選択する。費用面でも、食材からがんばって作るほうが必ずしも安上がりだとは言えないのだ。

ご飯類は市販の粉末製品を使うのが、日頃の手抜きパターンになっているが、それでも少し工夫して何かを添えるのは楽しい。

20200918chahan

この画像はチャーハンの素を使って混ぜただけだが、別に買ってあったヤングコーンを切らないまま豪快に入れてみたところ、なかなかイケる味になり満足した。

下の画像はチキンライスの素を使い、別に買ってあったコーンを混ぜたもの。ほうれん草をゆでて(一回分には少し多かったかも...)おしたしにして一緒に食べてみたところ、これも好く合っている。

20201016chickenrice

早い話が、手抜きだろうと何だろうと、「美味しければ良い(笑)」

逆に、「手を抜かない」料理のグレードを求める人は、家族に負担を強いるのではなく、自分自身が作るか、お金を掛けて外食などへ行けば良いのである。家庭の経済状態や、家族それぞれの健康状態(望ましい栄養配分など)を勘案しながら、どんな生活スタイルを送るのか、各自が判断すべきことだろう。ましてや他人の家の台所事情を「○○は手抜きだ」などと論評するのは、大きなお世話だ。

自分の家庭に最も適した食生活は、自分たちで作り上げる。それが最善だと私は考えている。

2020年10月11日 (日)

ネット民たちは何を標的にしたいのか?

もし、ネット上で、

「ある50代半ばの未婚男性が、80代後半の母親に洗濯も調理もしてもらっている」

との情報が、前段も後段もなく単独で流れたとしよう。

すると、かなりの割合の人が、ネガティヴな人物像、いわゆる「子供部屋おじさん」を想定してしまうだろう。

ところが、この文章に続いて、

「この男性は、地域の介護業界ではケアマネジャーの指導的立場にあり、研修講師なども務め、著書もある。自分の母親にはリハビリの視点から、できる限り家での役割を担うように仕向けている」

と、説明が続いたらどうだろうか?

おそらく、最初の単品の文章だけの場合とは、印象が大きく異なってくるに違いない。

実はこの男性、数年前の私自身のことである。私と二人暮らしだった母(2018年3月に他界)は、2017年初頭に「準寝たきり」になるまで、段階的に縮小しながらも、「主婦」の意識が強く、相当部分の家事をこなしていた。母のADL低下予防にもなり、私も助かっていたので、一石二鳥だった。

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とは言え、私は著名人のように仕事や家庭の状況が知られているわけではない。したがって、もし何かの機会に、冒頭に掲げた紹介文(?)だけが独り歩きして、そこにコメントを書き込む欄が設けられていたら、「50過ぎても母親に依存かよ!」「コイツ自立してねえよな!」「お母さんもこんな息子を持つと苦労するねぇ!」等々、揶揄・嘲笑を絡めたコメントが相次いだであろうと想像される。

去る9月29日、両親と弟(46)と同居する神戸市のアルバイトの54歳男性が、母親にしてもらっている洗濯をめぐって弟とケンカになり、見かねた母親が警察に通報、男性が傷害で逮捕される事件があった(神戸新聞の記事)。昨日現在、続報は伝えられていない。

さっそくこれを引用した記事紹介サイトやまとめサイトなどにコメントが殺到している。もちろん、暴力沙汰がいけないことは当然だが、それを批判するだけにとどまらないコメントが多数見られた。大半はこの男性が(および弟も)自立していないことに対する、揶揄・嘲笑を絡めた内容なのである。

私の率直な疑問は「このネット民たちは何を標的にしたいのか?」である。

男性についても弟についても、生活歴、職歴、疾患歴、そして何よりも、これまでの家族関係などの情報が全く伝えられていない。この状況で、適切な批判ができるはずがない。

すなわち、コメントした人たちの多くは、匿名をいいことに「憂さ晴らし」をしているとしか思えない。誤解を恐れずに言えば、世の中にはこんな「劣る」人間がいるんだ、と差別的に嗤い、その揶揄・嘲笑を公開の場に書き込むことによって、自分はこんなヤツよりもずっと立派だ、と言いたい、主張したいのだろう。

しかし、情報がわからないのだから、それは全く的外れの発言である可能性もある。たとえば男性はアルバイトを掛け持ちするなどして結構な稼ぎがあり、地域でも紳士として尊敬されている人なのかも知れない。弟は何かの重大な精神疾患等を抱えて、療養中なのかも知れない。母親が警察に通報したのはケンカが常習的だったからではなく、むしろ意外な展開に恐怖を感じたからなのかも知れない。もちろん、これは推測の一つの極端な例に過ぎないが、登場人物のすべてにあらゆる可能性があり、それが判明しないことには、批評できるものではない。

コメントの中には少数だが、いわゆる8050問題の一類型である可能性や、家族ソーシャルワークの対象である可能性について言及したものがあった。こういう慎重なコメントをする人たちは登場人物を軽々しくステレオタイプ化しない。

さて、「差別的」「揶揄・嘲笑」のコメントは、「誹謗中傷」と紙一重である。と言うより、男性の実名が報道されていたら、内容によっては正当な批判に該当しない、誹謗中傷に相当するものも存在する(仮に男性が本当に「子供部屋おじさん」だったとしても、批判は暴力沙汰に関する内容にとどまるべきであり、誹謗中傷して良い理由にはならない)。

つまり、状況がわからないまま第三者を標的にしてネットで「憂さ晴らし」をすれば、それは民事事案、書き込んだ内容によっては刑事事案にもなり得るのだ。

最近、これを逆手に取った新手の炎上商法が登場している。資金力のある発信者がブログやSNSや動画のエントリーをわざわざ炎上させ、弁護士に依頼して誹謗中傷に当たるコメントの発信者の特定に持ち込み、賠償させるビジネスだ。ネット誹謗中傷への法規制強化が進めば、このテのビジネスを展開する人間が増えてくることが予測される。おそらく、この連中の「カモ」にされるのは、「憂さ晴らし」パターンの中で特に過激な言葉を使う人たちとなろう。

標的を明確化した上で正当な批判をするのであれば、このような商法に引っ掛かることもない。逆に、知的体力に欠け、情報や背景もわからないのにコメントを書き込む人たちは、あとでたいへんな「負債」を払わせられることになる。

まさに、冒頭に記した「ある50代半ばの...」の文章だけを読んで、「さあ、子供部屋おじさんの登場だ!」とばかり叩き始める人たちは、すでに危険地帯に足を踏み込んでいると考えて差し支えない。

私たちは、実名だろうが匿名だろうが、状況をしっかり把握して、的確な論評や批判を展開するように心掛けたいものだ。

2020年10月 7日 (水)

通所系・短期入所系サービスの特例加算に物申す

新型コロナウイルスの感染拡大防止をめぐって、医療機関に限らず、介護サービス事業所も対応に追われてきたことは、多くの市民がご存知だと思う。

そのような中、厚生労働省から6月1日付で、事業所の対応を適切に評価する観点から特例の加算を設けるとして、「新型コロナウイルス感染症に係る介護サービス事業所の人員基準等の臨時的な取扱いについて(第12報)」なるものが発出された(以下、単に「第12報」と称する。後出の略称「第13報」-6月15日発出-も本来のタイトルは同じ)。

本ブログには介護業界以外の読者もおられるので、詳細な内容は省略するが、おもな部分の概要は以下の通りである。

・通所系サービス(通所介護・地域密着型通所介護・認知症通所介護/デイサービス、通所リハビリ/デイケア)については、定められた日数を上限に、利用者が実際に滞在利用した時間に二時間を増した保険点数を算定できる。

・短期入所系サービス(短期入所生活介護・短期入所療養介護/ショートステイ)については、定められた日数を上限に、通常のケアプランに基づく利用であっても、緊急短期入所受入加算を算定できる。

・利用者負担(一割から三割)が発生する。

・介護支援専門員(ケアマネジャー)と連携し、利用者から事前の同意を得る必要がある。

さて、これはいわゆる「箱物」事業所のうち、利用者の出入りが頻繁にある通所系と短期入所系のサービスについて評価したものであり、方向性自体はおかしなものではない。

しかし、現実の運用においてはさまざまな問題が起きている。

(1)介護支援専門員にとっては業務が増加している。
「第13報」では、「当該取扱いを適用する場合には、居宅サービス計画(標準様式第6表、第7表等)に係るサービス内容やサービスコード等の記載の見直しが必要となるが、これらについては、サービス提供後に行っても差し支えない。」となっている。そのため、介護支援専門員は「サービス利用票・提供票(第6表)」と「同上、別表(第7表)」とを利用実績(特例加算の算定を含む)の数字に合わせて再作成しなければならない。たとえ当該月の予定として表を発行するときに特例加算をすでに組み込んでおいたとしても、事情により利用回数が予定より(減った場合はともかく)増えて、特例加算の回数も増えた場合には、再発行は必須となる。介護支援専門員は実績確定後には速やかに利用者を訪問し追認してもらう必要がある(郵送+電話だと、どの部分の算定がどう変わっているのか理解するのが困難な利用者やキーパーソンも少なくない。持参して説明してさえも毎回「何これ?」などと聞き返される場合もある)が、これは感染拡大予防のため居宅訪問を電話等での状態確認に替えられるとした以前の通知と、全く相反するものでしかない。私自身も居宅訪問の頻度は増えている。

なぜ「介護支援専門員は給付管理を的確に行えば、第6表と第7表の見直しや再作成をしなくても良い」とならなかったのか? その根っこには介護支援専門員(ひいては介護業界全体)に対する厚労省の「不信のモデル」が尾を引いているのではないかと、私は感じている。詳しくは拙著『これでいいのか?日本の介護』に述べたので、ここでは触れない。

(2)利用していない部分のサービスに対する利用者負担が延々と発生する
この加算は利用者の負担が発生するのに加え、その終期が定められていない。新型コロナウイルスの影響で収入が減っている家庭が多い状況で、たとえ月々数十円から数百円であっても、それは新たな負担となる。ましてや、保険対象限度額を超過してサービス利用している一割負担の利用者にとっては、点数の十倍以上の金額を負担しなければならないことになる(たとえ同意してもらっても、はみ出した月に限って事業者側が配慮して加算を取らない裁量は認められているが、その月は国保連のほうへ介護報酬を請求する際にも加算を算定しないことになってしまうから)。すでに事業者に対しては介護慰労金(コロナ禍で苦労した職員対象)やかかり増し経費支援金など、都道府県による緊急包括支援も実施されており、利用者から延々と負担を求める大義は薄れている。

(3)臨時の取り扱いが続くことは、制度の仕組みから望ましくない。
この加算はあくまでも、一時的な特例であり、速やかに正規の報酬改定がなされるべきである。来年3月に介護報酬改定があるため、厚生労働省としてはそこで整理するつもりなのであろうが、これまでも介護報酬は三年ごとにすべてが変わるのではなく、途中での変更が加えられたことは何度か起きている。今回も5月から議論されていたのであれば、社保審の介護給付費分科会に諮った上で、10月から通所系と短期入所系に関して、部分改定する余裕はあったはずだ。臨時の取り扱いとなった経過が不明瞭である。

(4)同意しなくても不利益な扱いを受けないはずであるが、実際には事業所からその点についての丁寧な説明がなく、むしろ不本意ながら同意せざるを得ない状況に追い込まれている場合がある。
これには特殊な地域性である(独占・寡占など)とか、介護支援専門員がサービス事業所と同じ法人に所属しているとか、さまざまな要因が考えられるが、利用者側がそこのサービスを受け続けないと不利な立場にある場合、事実上は対等な立場での同意になっていないことが想定される。不当な事例に対しては行政が介入すべきなのは当然であるが、利用者側から事業所に対してものを言いにくい状況である事例は、全国的に少なからぬ地域で発生していることが、SNSなどにより報告されている。
私の利用者さんでの中には、事業所から半ば強要されたなどの明らかな不当事例は見当たらないが、それでも行き先に友人が多い方などの中には、ご自分だけ不同意でも何がしかの差別的な扱いが生じないか、懸念している方もおられることが窺えた。逆に、地縁関係が薄く、通所は一つの地域資源だと割り切っているキーパーソンさんには、最初から同意されなかった方もあった。
同意・不同意をめぐって受益者側を当惑させる加算が好ましいものだとは言えない。

結論から言えば、この加算自体を一時的なものとして評価するが、すでに(地域差はあるものの)多くの事業所で一通りの感染予防対策が確立している現状では、早々に終了させるのが望ましい。

とは言っても、現実にはこのまま来年の3月まで続くであろうことが予測される。

そこで、いったん同意したが、もうこの辺りで終了したい方(利用者さんやキーパーソンさん=利用者の意思を当面代位されている方)のために、こんな参考書式を作成した。各自の自己責任で、日本全国のどなたがお使いになっても差し支えない。気に入らない表現があれば、ご自身で加工してくださって全く構わない。口頭では言いにくいがこんな書面があれば事業所へ通告しやすい場合など、活用してくだされば幸いである。

また、あなたやあなたのご家族の担当介護支援専門員(ケアマネジャー)が、この「途中でも同意を終了できる」権利について、全く話題にもしない人であれば、そもそも権利擁護の基本を身に着けていないと考えられるので、早々に見限って他の介護支援専門員に乗り換えたほうが良いことを、ご忠告しておく。

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