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2020年11月

2020年11月30日 (月)

「地位が下がらないチャンピオン」の怪

大相撲11月場所はコロナ禍のために、福岡ではなく東京の国技館で開催された。大関・貴景勝関(24)と小結(元大関)照ノ富士関(28)との優勝争いとなり、最終的に決定戦(画像は自宅TV、NHKの中継画面)の結果、貴景勝関が二度目の優勝を飾った。

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さて、この場所で問題になったのが、看板力士の不在、とりわけ「横綱の不在」である。

白鵬関(35)は無観客の3月場所、13勝2敗で優勝したが、そのあと7月場所で途中休場、9月・11月と続けて全休。鶴竜関(35)は3月場所で12勝3敗、そのあと7月場所で途中休場、9月・11月と続けて全休。

11月場所後の横綱審議委員会はこの状態を看過できず、両横綱に対して「注意」の決議を出した。かつて稀勢の里関(現・荒磯親方)の八場所連続休場(うち全休四回)したときの「激励」より重い決議だ。横審は現任横綱二人が「延命を図っている」と見なしたのではないかと推測される。

その「延命」の理由、白鵬関は「年寄株の未入手」、鶴竜関は「日本国籍の未取得」だと報じられている。いずれも日本相撲協会に親方として残ることを前提とした話なので、二人それぞれが本心では他の道を考えているのであれば、当たっていない話かも知れない。とは言え、親方にならない道を選んだとしても、引退してすぐ何かを始める具体的な計画がないのであれば、現役を続けるしかない。

そこで障壁になるのは、「土俵に上がる以上は、横綱にふさわしい成績を上げなければならない」点なのだ。すなわち、「優秀な成績」または「引退」の二択しかないのである。通常はもう一つの選択肢、「降下(降格)」の道がある。大関以下にはそれが許されているから、地位が降下しても再起して巻き返すことができる。横綱は陥落しないので、それができない。いまの二横綱が外国出身であることはひとまず措いて、この二択しかなければ、現役を続けるために不本意ながら「休場」することになってしまう。

これは他のスポーツや頭脳(卓上・盤上)競技と比較しても異常である。それが横綱の「伝統」だとの考え方も、説得力に欠ける。国際的に見ると、どんなスポーツや競技にも発祥地で受け継がれてきた伝統があり、「チャンピオン」の決め方にもさまざまな「しきたり」があったが、いずれもそれを克服して近代化、現代化している。

たとえば将棋の「名人」(諸説あるが遅くとも17世紀前半から)は相撲の横綱(実質的には18世紀末から)より古い称号であるが、日本将棋連盟は1935年に終身名人制を廃止して実力名人制を開始した(ちなみに日本囲碁界のほうの名人戦開始は、これよりもかなり後年である)。これにより、翌期の七番勝負で挑戦者を退けて防衛できなければ、名人はその地位を失うことになった。名人と対等な地位の「竜王(1988年創設)」も同じ。かつては失冠後一年に限り認められていた「前名人」「前竜王」の呼称もいまは存在しない。将棋界のレジェンドであり、前人未到のタイトル99期を獲得した羽生善治氏も、いまの公称は「羽生九段」であり、資格を得ている「十九世名人」「永世竜王」等の称号も、名乗るのは原則として引退後となる。

他方、フィギュアスケートの「olympic champion(五輪優勝者)」や「world champion(世界選手権優勝者)」。アイスショーなど、競技以外の場では、過去の実績が出演料や滑走順などに影響することもあり、これらの肩書が通用する。日本中を感動の渦に巻き込んだ「トリーノの女王」荒川静香氏の場合は「(2004)world champion and (2006)olympic champion」となる。
しかし、競技の場では、五輪
は4年ごと、世界選手権は1年ごとに新たな大会が開催され、そのたびに国際スケート連盟が公認する称号保持者は入れ替わるから、前述の肩書はあくまでも「過去の最高位」の表記に過ぎない。直近の大会で優勝したタイトルホルダーは、「current」(=現在の)を付けて区別されており、前年以前のタイトルホルダーがずっとチャンピオンでいられるわけではない。成績が悪ければ地位が下がるから、当然のように国際大会でシードもされず、さらに降下すれば国の代表選手にさえ選ばれないことにもなる。その時点の実力に見合った競技者としてのパフォーマンスしか認められない。

このように見ていくと、「地位が下がらないチャンピオン」は、現代スポーツや頭脳競技の中で、かなり異質な存在なのだ。

もし、横綱にも降格制度があれば、稀勢の里関のように大きな負傷を抱えてしまった人が、時間を掛けてじっくりと治療した後、下がった地位からやり直すことによって、もっと長く活躍できたと思われる。現に照ノ富士関は、大関から序二段まで降下した後、再浮上して7月場所では二度目の幕内優勝に輝いているのだから。
過去、同様なことを期待できた横綱は他にも何人か存在した。残念でならない。

日本相撲協会はそろそろ、伝統の呪縛から離れ、大きな変革のために英断を下すべき時期ではないだろうか。

2020年11月25日 (水)

「愛知を数字で表すと...、あ、一?」「名古屋は...な、五や!」

【史料好きの倉庫(23)】

今回は「愛知県(尾三)の主要大名」の解説である。

名古屋で生まれた(母は里帰り出産だった)私にとっては「準地元」になる。母に連れられて幼少のときから頻繁に名古屋との間を往復した。学生時代から30代のころまでは、豊橋にもしばしば買い物へ行き、他の城下町では田原、岡崎、刈谷、挙母、犬山を訪れている。門前町であるが、豊川へも何度か出向いた(2017年には市の介護保険関係事業者協議会からご依頼いただき、講演に伺った。研修講師としては他に知多市の連絡組織へ一度お邪魔している)。コロナ禍で最近は愛知県へ行っていないが、名古屋市中村区(母の実家)と津島市にそれぞれ叔母が健在なので、今後も赴くことがあろうかと思う。画像は母の先祖からの菩提寺である遍慶寺。

織田・豊臣・徳川の三英傑が愛知県出身であり、三河武士の本貫であるが、中世の諸豪族の系譜は意外と不明瞭な場合が多い。最も多いパターンは、諸家の傍流から興り、江戸幕府の創業に与って大名に出世した家が、自分の家を同族の中の主流であるかのように系譜を改竄してしまい、それがそのまま自らの家譜や『寛政重修諸家譜』等に記載されて現代まで伝わっている形である。この場合には各地に残されている同時代史料を比較参照しながらの考証が必要になる(もちろん、すべてがそうではなく、水野や戸田のように主流だった家が近世大名化した場合もあるが)。江戸期の諸藩主家については、それぞれの城下町の史料で確認するのが良い。尾張徳川家に関しては藩士の系譜集『士林泝洄』があり、また名古屋市立の蓬左文庫や鶴舞図書館にも重臣家の史料が所蔵されているので、閲覧に便利である。

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◆吉良家
室町期には足利一門の中でも特別に家格が高い「御一家」の筆頭に位置付けられた名門。西条・東条の二流に分かれて代々継承されたが、諸国の守護には任命されず、三河の地方豪族の規模にとどまった。1563年に東条の吉良義安が西条を併せ領し、義弥は姻親に当たる徳川家康から吉良領を安堵され、朝廷との間の儀礼を司る高家となった。1702年、義周のとき赤穂浅野家の浪士たちに江戸屋敷を襲撃され、隠居(祖父)義央を殺害された「忠臣蔵事件」により改易されたことは、広く世に知られている。

◆斯波家
室町期には足利一門の中で管領を輩出する名家「三管」の一であり、尾張・越前・遠江の守護でもあった。斯波義健の跡目争いが応仁・文明の乱の一因となる。義寛のとき朝倉家の下剋上により越前を失い、義達のとき今川家に浸食されて遠江を失った。尾張守護として細々と存続したものの、1561年、義銀のとき織田信長によりその地位を追われた。

◆織田家
現存する系図には、織田弾正忠家(信長の家)が織田敏定(清須城主)から分かれたとされているが、これは筋目に近く見せかけるための作為である。実際には敏定から清須織田家と岩倉織田家が分かれており、弾正忠家はそれ以前、おそらく室町期の勝久から分かれた傍流の一家だと推測される。弾正忠家については「歴代武家政権」のページに掲載した。

◆松平家
現存する系図には、安祥松平家(家康の家)が嫡流だとされているが、これは後世の作為であり、実際には本来の嫡流であった松平太郎左衛門家から岩津松平家が分かれ、さらに安祥松平家が分出した。安祥松平家については「歴代武家政権」のページに掲載した。

◆菅沼家
◆奥平家
いずれも三河北部の豪族であり、田峯菅沼家・野田菅沼家・奥平家は今川・武田・松平(徳川)の強隣の狭間にあって、生き残るために苦闘している。菅沼(野田)定盈は今川家滅亡後に徳川家康に服属、奥平定能は一時武田家に従属するも、のち息子の信昌とともに家康麾下に属し、長篠の戦でも徳川方を貫いた。他方、菅沼(田峯)定吉は武田勝頼方として行動したため、武田家滅亡後に処刑され、定利は定盈を頼って家康に臣従、奥平信昌の二男・忠政を養子にしたが、忠隆のとき無嗣断絶となった。定盈の家も大名となり、孫・定昭のとき無嗣断絶となったが、定実(定昭弟)が旧領に近い三河新城7,000石を与えられ、交替寄合として存続した。奥平家の嫡流(信昌の長男・家昌の系)は後代の豊前中津藩主。

◆牧野家
現存する系図では氏勝以降しか知られていないが、1529年、嫡流であった牧野信成が松平清康に討たれて滅亡し、その後に長山一色城の出羽守系と、牛窪本郷城の右馬允系との二系が並立したと推測される。後者が近世牧野家の家系で、子孫は越後長岡藩主。

◆三宅家→田原藩
現存する系図では師貞以降しか知られていないが、1558年までは加茂郡伊保を拠点とした三宅清貞・高貞の系が主流であった。梅坪(のち衣=挙母)を拠点とする師貞の家系は江戸期に入って大名となり、再三挙母に復封するも、康勝が田原へ転封され、そのまま同地に定着した。三河国内に居所を有しながら明治まで存続した稀少な家である。

◆犬山藩
江戸期に入ると、徳川家康の四男・松平忠吉(居城は清洲)、ついで家康の九男・徳川義直(居城は名古屋)が尾張に封じられ、犬山は小笠原吉次(転出)、平岩親吉(無嗣絶家)と「附家老」が城主となり、成瀬正成以降は同家が尾張藩の筆頭家老として定着した。明治維新の際に独立して犬山藩となった。

◆尾張藩=徳川家
徳川御三家の一。家康の九男・義直が甲府から転入して尾張一国と三河の一部を領知、後に美濃の一部と信濃木曽地方を加増され、619,500石となった。藩主・宗春は将軍・徳川吉宗と対立して廃位され、没後も罪人扱いされたが、将軍・徳川家斉が自分の子を藩主に「押し付け養子」する際に、藩士の反発を緩和するため宗春の名誉を回復し、権大納言を追贈している。

◆寺部領主 渡辺家
松平家の譜代家臣で「槍の半蔵」と称された勇将・渡辺守綱を祖とする。守綱は尾張藩主・徳川義直に附属されて家老となり、寺部14,000石を領知し、代々世襲した。成瀬・竹腰らと並ぶ幕下附属衆六家の一である。

2020年11月20日 (金)

「静岡で、市増加...してないよ」「磐田の合併を、いわった...からね」

【史料好きの倉庫(22)】

今回は「静岡県の主要大名」の解説である。

磐田市出身、浜松市在住の私にとって「本貫地」である。仕事では県内各地へ幾度となく出向いており、それこそ県の「四隅」のケアマネジャー連絡組織(「天竜区」=北西の隅、「御殿場・小山」=北東の隅、「賀茂地区」=南東の隅、「湖西市」=南西の隅)まで講師として訪問している。他には磐田市、袋井市、掛川市、菊川市、川根本町、島田市、焼津市、静岡市への出講経験がある(介護支援専門員の法定研修を除く)。
しかし、城下町については意外にも少ししか往来していない。中世の城では二股城、犬居城、井伊谷城、堀江城、頭陀寺城、高天神城、近世の城では浜松城、掛川城、横須賀城、田中城、駿府城ぐらいである。他に幼少のとき立ち寄った場所があったかもしれないが、記憶に残っていない。

中世諸豪族の系譜については、戦国期までに滅びてしまったものが多く、まとまった形の史料を見付けるのは難しい。県立中央図書館をはじめ、各市町の図書館にある研究資料等を参照するのが良いが、大部分の諸家は系譜が錯綜し、詳細が解明されていない部分が少なくない。近世には各藩主の定着率が低く、浜松藩に代表されるようにしばしば藩主家が交替した。また明治に入り、徳川宗家が駿府に移封されたことから、それまでの中小諸藩は千葉県へ移転してしまったので、同県側に史料が存在する場合もある。

画像は宝永山側から見た富士山。以前の法定研修で講義する際に、県当局を通して、県観光協会所蔵のものを借用した。

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◆堀越公方 足利家
「公方」と言えば聞こえは良いが、実は室町幕府から派遣された関東公方・足利政知が、古河公方・足利成氏の与党に阻まれて鎌倉へ入れず、伊豆の堀越に留まったもの。二代目の茶々丸(諱は未詳)のとき、伊勢盛時(=北条早雲)に滅ぼされた。

◆今川家=駿河守護
言わずと知れた東海道を代表する守護大名。しかし本来は駿河一国の守護であり、遠江を制圧したのは16世紀に入った今川氏親のときである。義元が桶狭間の戦で討死した後、氏真時代には急速に衰退し、1569年には東西から武田・徳川に攻め込まれて領地を失う。大名としては失格だったが、氏真は文化人としては一流の人であり、その家系である江戸期の今川家は高家となって、朝廷との橋渡しをする儀礼的な役割を担った。なお、氏真の八代後の子孫に米沢藩主として明君の誉れ高い上杉治憲(=鷹山)がいる。

◆富士大宮司
富士本宮・浅間大社の社家であったが、領主として豪族(武家)を兼帯していた。室町期から戦国期まで今川家の被官であり、のち武田家から徳川家へと主を変え、江戸期に入る富士信家のとき社家専任となり、幕府から浅間大社一帯の領有を認められていた。

◆井伊家
遠江国引佐郡井伊谷(いまの浜松市北区)に興り、平安朝期から在庁官人であった由緒ある家系。しかし、南北朝時代に道政系(南朝の宗良親王を奉じた一族)と泰直系とに分かれ、室町期には渋川(直貞系)と井伊谷(時直系)とに分かれるなど、分裂・統一を繰り返した。そのためか系譜が錯綜しており、継承関係が不明瞭である。戦国期には今川家の被官となったが、井伊直親が今川氏真に誅殺された後、女性の直虎が一時的に当主となって家を守った。直政は徳川家康に仕えて家運を取り戻し、家康の関東移封に随従して上野箕輪へ転封、関が原の戦後は近江佐和山(子孫は彦根)に封じられ、江戸幕府の柱石となる。

◆岡部家
駿河国志太郡岡辺(いまの藤枝市内)に興り、平安朝末期に在庁官人であった家系。しかし、鎌倉中期から室町中期までは、同時代史料に登場しない空白期間であり、系譜通りに継承されたか定かではない。代々今川家の被官であったが、岡部正綱が徳川家康の家臣となり、長盛は近世大名に転進、子孫は和泉岸和田藩主となった。傍流の岡部親綱は今川家の重臣となり、元信は武田家に仕え、1581年、高天神城の戦で徳川勢を迎え撃ち敗死した。

◆天野家
伊豆国田方郡天野(いまの伊豆の国市内)に興り、天野遠景は源頼朝に随従して転戦、政景は鎌倉幕府の有力御家人となって、関東・近畿・中国地方にも所領を与えられたが、のち嫡流の動向は不明。遠江周智郡に拠る景経の系統が犬居天野家となり、事実上の主流として戦国期に今川家被官となった。今川家の衰亡に伴う混乱期、1563年に秋葉城主の藤秀が当主になるが、景貫が武田・徳川の間を変転したので、1573年に徳川家康の攻撃を受けて所領を失った。

◆小笠原家
本項目の同家は「高天神小笠原家」として知られるが、もとは信濃小笠原家の一族で、小笠原長高が各地を流浪した後に今川家に仕え、春義のとき遠江高天神城主となった。氏清は今川家の没落後、徳川家康に臣属したが、信興は武田勝頼に降伏し、武田家の滅亡後は北条家へ逃れた(小田原開城の際に殺害されたとも言われる)。義頼は家康から家の再興を許され、子孫は紀伊藩士であったが、曽孫・胤次は藩主・徳川吉宗の輔臣の一人となったため、吉宗の将軍就位に随従して江戸へ上り、旗本に昇格している。

◆大沢家
藤原氏の持明院流(公家)の子孫であり、遠江堀江を代々領有したが、室町期の系譜は裏付けに乏しい。江戸期に入る大沢基宿のとき、徳川家康から南朝の末裔・木寺宮との縁故関係を考慮されて、吉良家とともに高家となり、朝廷との橋渡しをする儀礼的な役割を果たした。

◆飯尾(いのお)家
室町幕府の奉行人であった飯尾家の一族であるが、飯尾長連やその父とされる親実が、系譜の上で嫡流とどうつながるのかは未詳。賢連が引間(浜松)城主となり、連竜のとき1568年、今川氏真に誅殺されて滅亡。なお、飯尾家の時代に浜松を代表する「凧揚げ祭り」が発祥した。

◆江川家
伊豆の国人領主。戦国期には北条家の被官であった。江川英長のとき徳川家康に仕え、従前の所領を大幅に削減されたものの、本領の近傍一帯の支配を任せられ、実質的には数千石格の旗本として韮山代官を世襲した。幕末に江川英竜(坦庵)が出ている。

◆浜松藩
江戸初期の城主・松平忠頼以降、東海道の一拠点としての譜代中級藩であり、老中になれる家柄の大名が交替で入封したため、浜松城は「出世城」と呼ばれる。最後の藩主・井上正直は1868年、徳川宗家の駿府入封に伴い、上総国内へ移封した。他の中小藩も同様である。

◆駿河府中藩/静岡藩
江戸時代前期には徳川頼宣(のち紀伊へ転封)、徳川忠長(失脚)の所領。その後は長らく藩は置かれず、城代支配であった。大政奉還後の1868年、明治新政府から江戸(旧幕府)420万石を没収された徳川宗家を継承した家達が、六分の一の70万石で復家を許され、廃藩置県までの短期間、静岡藩として存続した。

◆相良藩
1767年、側用人から老中へ昇進する過程の田沼意次が入封し、5万石を領知する。意次が失脚すると、政敵・松平定信によって城は破却され、孫・意明は陸奥下村へ左遷されたが、三代後の意正は若年寄として幕政に参画し、1万石ながら相良へ帰還することができた。1868年、徳川宗家の駿府入封に伴い、上総国内へ転封。

2020年11月 8日 (日)

片付け下手の断捨離(8)-個人情報が含まれているもの

60歳が近付いたころから、自宅に集積してあった不要なものを処分する作業を続けている。

その工程で相当量発見されたのが、個人情報や個別事業所の情報が含まれた書類だ。

指定居宅介護支援事業者としての範囲内で実践した業務については、保存期間が二年間と定められている。たとえば利用者Aさんが施設へ入所して居宅介護支援が終了した場合、その日から二年を過ぎたら所定の方法で破棄している。これは事業所の責任者として常にチェックしながら滞りなく実施しており、問題が生じているものではない。

しかし、私は「社会福祉士事務所」の看板も掲げており、これまで有償、無償でいくつかの活動に関与してきた。その過程で、自宅にかなりの分量の個人情報や個別事業所の情報が集まり、明確な処分方法が定められていないまま、積み置いてしまっていた。たとえばMAF=浜松外国人医療援助会の受診者情報(画像は当時の報告書-なお、こちらには個人情報は非掲載)や、静岡県社会福祉士会第三者評価事業の対象候補事業者名情報や、参加していた活動団体メンバーの住所や電話番号が記載されている書類である。

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本来ならば、明瞭な規定がなくても、専門職の倫理綱領に照らして、適切な時期までに処分しなければならなかったのであるが、私の怠慢のため放置してしまっていた。汗顔の至りであり、お恥ずかしい限りだ。

先日来、これらの書類をすべてシュレッダーにかけて破棄した。今後もまだ出てくるかも知れないが、もちろん、見付け次第同様に処理するつもりである。

処分過程で自分の歩みを振り返りながら、結構いろいろなことに携わってきたんだなぁ、と感慨深い。MAFでは保健師さん、薬剤師さん、理学療法士さんと組んで、外国人無料検診会の...「会場総合案内(!)」をしたこともあった。他に適切な配属部署がなかったので(笑)。それこそ介護のケアチームが一つ作れそうな専門職がそろった組み合わせだったが...(^^;

いちケアマネジャーとして単線で仕事に没頭してきた人生ではなく、さまざまな活動に参画できたことが、結果的に本職のケアマネジメントをより豊かなものにしてくれたのではないかと、勝手に評価している。

年齢こそ高くなったが、今後も何か自分の力を役立てることができる機会があれば、前向きに考えていきたい。

2020年11月 3日 (火)

おかしな論評に惑わされるな!

すでに何回か自ら開示している通り、まことにお恥ずかしいことだが、私は20代の未熟な(←これは言い訳にならない)時期、勤務していた施設に入居する複数の利用者さんに対し、いまならば「虐待」「アビューズ(=不適切な応接。行政用語の「虐待」より広い範囲で捉えた呼称)」に相当する行為を何度もした。

もちろん、すでに他界された対象者の方々に心の中で謝罪しても、いまさらその罪が消えるわけではない。しかし、それらの過去の行為への深刻な悔恨を踏まえ、後進の介護従事者に向かい、「決して虐待をしてはならない! 可能な限りアビューズをしてはならない!」と説くことは、許されるであろうし、むしろ、むかし愚かな行為をした先輩として、しなければならないことであろう。

これを私たちの日常生活に当てはめてみれば当然のことだ。たとえば、一人暮らしの高齢者の居宅に、電気工事や水道工事の職人とか、金融機関の営業員とかが入ってきて、仕事をしたついでにその「顧客」である高齢者をぶん殴ったとしたら、到底それは正常な振る舞いではない(ごくまれに、その類の被害がネット等で伝えられることはあるが...)。暴行がバレた後に、「俺、仕事のストレスがたまってたんだ」と述懐したとしても、それで犯した行為が酌量される話ではない。まともな社会人であればそんな行為はしない。施設や事業所や訪問先における介護従事者による「虐待」は、異常な光景でしかない。もともと介護の仕事に不向きな性格の人間が業界に紛れ込んでいたのだ。

ところが、この「異常」があたかも「日常」であるかのように断じる人たちがいる。大きく分けると三種類ある。

第一は、介護業界に関する知識や理解が不十分であるため、介護施設や高齢者施設の多くで、密室の中、しばしば虐待が行われていると誤認してしまう人たち。私たち業界人から見ればこれは「浅見」に違いないのだが、悪意なくそう思い込んでしまう人たちが一定数いることは、現実として受け止める必要があるだろう。関係者が努力して、これらの人たちに正しい知見を持ってもらい、考え方を修正してもらうため努める必要がある。

第二は、何らかの経過で思考に偏りが生じ、介護業界が巨大な悪だと信じ込んでしまっている人たち。その多くは精神疾患を抱えている。原因となっている脳の状態そのものを治療させないと、業界非難をやめさせることは難しい。

そして第三は、自分(著書とか講演とか動画とか...)を売り込むために、介護業界があたかもトンデモ業界であるかのような発信を続け、介護従事者たちを叩き続ける人たちである。「人を傷つけて稼ぐ」類型に入る人たちだと言えよう。

この三番目の人たちの振る舞いは恥ずべき行為だ。まっとうな介護従事者にとっては大迷惑でしかない。

よく考えていただきたい。上記の例であれば、電気工事や水道工事の職人はあちこちの家で暴力を振るうとか、金融機関の営業員はしばしば訪問中に顧客を殴っているとか、私が語ったとしても、誰が信じるだろうか? 介護業界では日常的に虐待が行われているかのような論評は、それと同じことなのだ。

ほとんどの介護従事者は、質の高低にバラツキがあったとしても、利用者には施設で、事業所で、訪問先の居宅で、より良い日々を過ごしてもらうため精励している。力及ばず、工夫が足りず、理想に程遠い水準の介護にとどまることはあるかも知れないが、意図的に利用者を傷つけることは通常やらない。それが職業倫理である。「密室だから見えない」→「だから介護従事者は利用者に対して好き勝手な行為をしている」は我田引水の飛躍にほかならず、荒唐無稽も甚だしい。

それがまかり通るのならば、「著作のある人」「講演活動をする人」「動画を発信する人」たちは、結構さまざまな場面で人を傷つけていることになるが、もちろんそれは一部の人たちの不適切な行為であり、総体としては間違いであることは言うまでもない。

しかし悲しいことに、このテの煽り論評をする知名度の高い人たちには、それぞれ結構な「信者」がいるのである。舌鋒が鋭く刺激的であるほど、理解力や判断力に乏しい人たちを惹き付けてしまう。それが上記第一、第二の類型の人たちを増産し、さらなる「介護従事者性悪説」へと結び付いていく。

それらの著名な発信者たちは、将来、自分自身が介護を受ける立場になったときに、何を思うのだろうか?

みなさんには、この種の人たちが発するおかしな論評に接しても決して惑わされないために、自らの頭で情報を分析する能力を培っていただきたい。

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