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2020年11月25日 (水)

「愛知を数字で表すと...、あ、一?」「名古屋は...な、五や!」

【史料好きの倉庫(23)】

今回は「愛知県(尾三)の主要大名」の解説である。

名古屋で生まれた(母は里帰り出産だった)私にとっては「準地元」になる。母に連れられて幼少のときから頻繁に名古屋との間を往復した。学生時代から30代のころまでは、豊橋にもしばしば買い物へ行き、他の城下町では田原、岡崎、刈谷、挙母、犬山を訪れている。門前町であるが、豊川へも何度か出向いた(2017年には市の介護保険関係事業者協議会からご依頼いただき、講演に伺った。研修講師としては他に知多市の連絡組織へ一度お邪魔している)。コロナ禍で最近は愛知県へ行っていないが、名古屋市中村区(母の実家)と津島市にそれぞれ叔母が健在なので、今後も赴くことがあろうかと思う。画像は母の先祖からの菩提寺である遍慶寺。

織田・豊臣・徳川の三英傑が愛知県出身であり、三河武士の本貫であるが、中世の諸豪族の系譜は意外と不明瞭な場合が多い。最も多いパターンは、諸家の傍流から興り、江戸幕府の創業に与って大名に出世した家が、自分の家を同族の中の主流であるかのように系譜を改竄してしまい、それがそのまま自らの家譜や『寛政重修諸家譜』等に記載されて現代まで伝わっている形である。この場合には各地に残されている同時代史料を比較参照しながらの考証が必要になる(もちろん、すべてがそうではなく、水野や戸田のように主流だった家が近世大名化した場合もあるが)。江戸期の諸藩主家については、それぞれの城下町の史料で確認するのが良い。尾張徳川家に関しては藩士の系譜集『士林泝洄』があり、また名古屋市立の蓬左文庫や鶴舞図書館にも重臣家の史料が所蔵されているので、閲覧に便利である。

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◆吉良家
室町期には足利一門の中でも特別に家格が高い「御一家」の筆頭に位置付けられた名門。西条・東条の二流に分かれて代々継承されたが、諸国の守護には任命されず、三河の地方豪族の規模にとどまった。1563年に東条の吉良義安が西条を併せ領し、義弥は姻親に当たる徳川家康から吉良領を安堵され、朝廷との間の儀礼を司る高家となった。1702年、義周のとき赤穂浅野家の浪士たちに江戸屋敷を襲撃され、隠居(祖父)義央を殺害された「忠臣蔵事件」により改易されたことは、広く世に知られている。

◆斯波家
室町期には足利一門の中で管領を輩出する名家「三管」の一であり、尾張・越前・遠江の守護でもあった。斯波義健の跡目争いが応仁・文明の乱の一因となる。義寛のとき朝倉家の下剋上により越前を失い、義達のとき今川家に浸食されて遠江を失った。尾張守護として細々と存続したものの、1561年、義銀のとき織田信長によりその地位を追われた。

◆織田家
現存する系図には、織田弾正忠家(信長の家)が織田敏定(清須城主)から分かれたとされているが、これは筋目に近く見せかけるための作為である。実際には敏定から清須織田家と岩倉織田家が分かれており、弾正忠家はそれ以前、おそらく室町期の勝久から分かれた傍流の一家だと推測される。弾正忠家については「歴代武家政権」のページに掲載した。

◆松平家
現存する系図には、安祥松平家(家康の家)が嫡流だとされているが、これは後世の作為であり、実際には本来の嫡流であった松平太郎左衛門家から岩津松平家が分かれ、さらに安祥松平家が分出した。安祥松平家については「歴代武家政権」のページに掲載した。

◆菅沼家
◆奥平家
いずれも三河北部の豪族であり、田峯菅沼家・野田菅沼家・奥平家は今川・武田・松平(徳川)の強隣の狭間にあって、生き残るために苦闘している。菅沼(野田)定盈は今川家滅亡後に徳川家康に服属、奥平定能は一時武田家に従属するも、のち息子の信昌とともに家康麾下に属し、長篠の戦でも徳川方を貫いた。他方、菅沼(田峯)定吉は武田勝頼方として行動したため、武田家滅亡後に処刑され、定利は定盈を頼って家康に臣従、奥平信昌の二男・忠政を養子にしたが、忠隆のとき無嗣断絶となった。定盈の家も大名となり、孫・定昭のとき無嗣断絶となったが、定実(定昭弟)が旧領に近い三河新城7,000石を与えられ、交替寄合として存続した。奥平家の嫡流(信昌の長男・家昌の系)は後代の豊前中津藩主。

◆牧野家
現存する系図では氏勝以降しか知られていないが、1529年、嫡流であった牧野信成が松平清康に討たれて滅亡し、その後に長山一色城の出羽守系と、牛窪本郷城の右馬允系との二系が並立したと推測される。後者が近世牧野家の家系で、子孫は越後長岡藩主。

◆三宅家→田原藩
現存する系図では師貞以降しか知られていないが、1558年までは加茂郡伊保を拠点とした三宅清貞・高貞の系が主流であった。梅坪(のち衣=挙母)を拠点とする師貞の家系は江戸期に入って大名となり、再三挙母に復封するも、康勝が田原へ転封され、そのまま同地に定着した。三河国内に居所を有しながら明治まで存続した稀少な家である。

◆犬山藩
江戸期に入ると、徳川家康の四男・松平忠吉(居城は清洲)、ついで家康の九男・徳川義直(居城は名古屋)が尾張に封じられ、犬山は小笠原吉次(転出)、平岩親吉(無嗣絶家)と「附家老」が城主となり、成瀬正成以降は同家が尾張藩の筆頭家老として定着した。明治維新の際に独立して犬山藩となった。

◆尾張藩=徳川家
徳川御三家の一。家康の九男・義直が甲府から転入して尾張一国と三河の一部を領知、後に美濃の一部と信濃木曽地方を加増され、619,500石となった。藩主・宗春は将軍・徳川吉宗と対立して廃位され、没後も罪人扱いされたが、将軍・徳川家斉が自分の子を藩主に「押し付け養子」する際に、藩士の反発を緩和するため宗春の名誉を回復し、権大納言を追贈している。

◆寺部領主 渡辺家
松平家の譜代家臣で「槍の半蔵」と称された勇将・渡辺守綱を祖とする。守綱は尾張藩主・徳川義直に附属されて家老となり、寺部14,000石を領知し、代々世襲した。成瀬・竹腰らと並ぶ幕下附属衆六家の一である。

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