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2020年11月20日 (金)

「静岡で、市増加...してないよ」「磐田の合併を、いわった...からね」

【史料好きの倉庫(22)】

今回は「静岡県の主要大名」の解説である。

磐田市出身、浜松市在住の私にとって「本貫地」である。仕事では県内各地へ幾度となく出向いており、それこそ県の「四隅」のケアマネジャー連絡組織(「天竜区」=北西の隅、「御殿場・小山」=北東の隅、「賀茂地区」=南東の隅、「湖西市」=南西の隅)まで講師として訪問している。他には磐田市、袋井市、掛川市、菊川市、川根本町、島田市、焼津市、静岡市への出講経験がある(介護支援専門員の法定研修を除く)。
しかし、城下町については意外にも少ししか往来していない。中世の城では二股城、犬居城、井伊谷城、堀江城、頭陀寺城、高天神城、近世の城では浜松城、掛川城、横須賀城、田中城、駿府城ぐらいである。他に幼少のとき立ち寄った場所があったかもしれないが、記憶に残っていない。

中世諸豪族の系譜については、戦国期までに滅びてしまったものが多く、まとまった形の史料を見付けるのは難しい。県立中央図書館をはじめ、各市町の図書館にある研究資料等を参照するのが良いが、大部分の諸家は系譜が錯綜し、詳細が解明されていない部分が少なくない。近世には各藩主の定着率が低く、浜松藩に代表されるようにしばしば藩主家が交替した。また明治に入り、徳川宗家が駿府に移封されたことから、それまでの中小諸藩は千葉県へ移転してしまったので、同県側に史料が存在する場合もある。

画像は宝永山側から見た富士山。以前の法定研修で講義する際に、県当局を通して、県観光協会所蔵のものを借用した。

Houeizan

◆堀越公方 足利家
「公方」と言えば聞こえは良いが、実は室町幕府から派遣された関東公方・足利政知が、古河公方・足利成氏の与党に阻まれて鎌倉へ入れず、伊豆の堀越に留まったもの。二代目の茶々丸(諱は未詳)のとき、伊勢盛時(=北条早雲)に滅ぼされた。

◆今川家=駿河守護
言わずと知れた東海道を代表する守護大名。しかし本来は駿河一国の守護であり、遠江を制圧したのは16世紀に入った今川氏親のときである。義元が桶狭間の戦で討死した後、氏真時代には急速に衰退し、1569年には東西から武田・徳川に攻め込まれて領地を失う。大名としては失格だったが、氏真は文化人としては一流の人であり、その家系である江戸期の今川家は高家となって、朝廷との橋渡しをする儀礼的な役割を担った。なお、氏真の八代後の子孫に米沢藩主として明君の誉れ高い上杉治憲(=鷹山)がいる。

◆富士大宮司
富士本宮・浅間大社の社家であったが、領主として豪族(武家)を兼帯していた。室町期から戦国期まで今川家の被官であり、のち武田家から徳川家へと主を変え、江戸期に入る富士信家のとき社家専任となり、幕府から浅間大社一帯の領有を認められていた。

◆井伊家
遠江国引佐郡井伊谷(いまの浜松市北区)に興り、平安朝期から在庁官人であった由緒ある家系。しかし、南北朝時代に道政系(南朝の宗良親王を奉じた一族)と泰直系とに分かれ、室町期には渋川(直貞系)と井伊谷(時直系)とに分かれるなど、分裂・統一を繰り返した。そのためか系譜が錯綜しており、継承関係が不明瞭である。戦国期には今川家の被官となったが、井伊直親が今川氏真に誅殺された後、女性の直虎が一時的に当主となって家を守った。直政は徳川家康に仕えて家運を取り戻し、家康の関東移封に随従して上野箕輪へ転封、関が原の戦後は近江佐和山(子孫は彦根)に封じられ、江戸幕府の柱石となる。

◆岡部家
駿河国志太郡岡辺(いまの藤枝市内)に興り、平安朝末期に在庁官人であった家系。しかし、鎌倉中期から室町中期までは、同時代史料に登場しない空白期間であり、系譜通りに継承されたか定かではない。代々今川家の被官であったが、岡部正綱が徳川家康の家臣となり、長盛は近世大名に転進、子孫は和泉岸和田藩主となった。傍流の岡部親綱は今川家の重臣となり、元信は武田家に仕え、1581年、高天神城の戦で徳川勢を迎え撃ち敗死した。

◆天野家
伊豆国田方郡天野(いまの伊豆の国市内)に興り、天野遠景は源頼朝に随従して転戦、政景は鎌倉幕府の有力御家人となって、関東・近畿・中国地方にも所領を与えられたが、のち嫡流の動向は不明。遠江周智郡に拠る景経の系統が犬居天野家となり、事実上の主流として戦国期に今川家被官となった。今川家の衰亡に伴う混乱期、1563年に秋葉城主の藤秀が当主になるが、景貫が武田・徳川の間を変転したので、1573年に徳川家康の攻撃を受けて所領を失った。

◆小笠原家
本項目の同家は「高天神小笠原家」として知られるが、もとは信濃小笠原家の一族で、小笠原長高が各地を流浪した後に今川家に仕え、春義のとき遠江高天神城主となった。氏清は今川家の没落後、徳川家康に臣属したが、信興は武田勝頼に降伏し、武田家の滅亡後は北条家へ逃れた(小田原開城の際に殺害されたとも言われる)。義頼は家康から家の再興を許され、子孫は紀伊藩士であったが、曽孫・胤次は藩主・徳川吉宗の輔臣の一人となったため、吉宗の将軍就位に随従して江戸へ上り、旗本に昇格している。

◆大沢家
藤原氏の持明院流(公家)の子孫であり、遠江堀江を代々領有したが、室町期の系譜は裏付けに乏しい。江戸期に入る大沢基宿のとき、徳川家康から南朝の末裔・木寺宮との縁故関係を考慮されて、吉良家とともに高家となり、朝廷との橋渡しをする儀礼的な役割を果たした。

◆飯尾(いのお)家
室町幕府の奉行人であった飯尾家の一族であるが、飯尾長連やその父とされる親実が、系譜の上で嫡流とどうつながるのかは未詳。賢連が引間(浜松)城主となり、連竜のとき1568年、今川氏真に誅殺されて滅亡。なお、飯尾家の時代に浜松を代表する「凧揚げ祭り」が発祥した。

◆江川家
伊豆の国人領主。戦国期には北条家の被官であった。江川英長のとき徳川家康に仕え、従前の所領を大幅に削減されたものの、本領の近傍一帯の支配を任せられ、実質的には数千石格の旗本として韮山代官を世襲した。幕末に江川英竜(坦庵)が出ている。

◆浜松藩
江戸初期の城主・松平忠頼以降、東海道の一拠点としての譜代中級藩であり、老中になれる家柄の大名が交替で入封したため、浜松城は「出世城」と呼ばれる。最後の藩主・井上正直は1868年、徳川宗家の駿府入封に伴い、上総国内へ移封した。他の中小藩も同様である。

◆駿河府中藩/静岡藩
江戸時代前期には徳川頼宣(のち紀伊へ転封)、徳川忠長(失脚)の所領。その後は長らく藩は置かれず、城代支配であった。大政奉還後の1868年、明治新政府から江戸(旧幕府)420万石を没収された徳川宗家を継承した家達が、六分の一の70万石で復家を許され、廃藩置県までの短期間、静岡藩として存続した。

◆相良藩
1767年、側用人から老中へ昇進する過程の田沼意次が入封し、5万石を領知する。意次が失脚すると、政敵・松平定信によって城は破却され、孫・意明は陸奥下村へ左遷されたが、三代後の意正は若年寄として幕政に参画し、1万石ながら相良へ帰還することができた。1868年、徳川宗家の駿府入封に伴い、上総国内へ転封。

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