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【史料好きの倉庫(27)】
今回は「大阪府の主要大名」の解説である。
1970年、両親に連れられて万博観光に行ったのが最初。その後は用事があるときに行く程度だが、素通りのほうが多く、府内の観光・宿泊は数回程度。大阪以外の近世城下町は高槻しか行ったことがない。最近は2013年に歌劇鑑賞のため「いずみホール」まで出向き、2016年には関西ラーメン道の仲間と交流するために訪問した(画像はその翌日に行った高槻教会・高山右近像)。
応仁の乱以降、下剋上の影響により細川家や畠山家が没落し、摂津・河内・和泉の大名豪族にも勢力の消長が見られたが、家系の調査には京都府の場合と同じく、中央の公家による日記などの同時代史料の照会が欠かせない。大阪(当時は大坂)を拠点とした豊臣家が滅亡すると、三国の要地には徳川譜代の諸大名が配置されたため、江戸中期までに多くの藩主が入れ替わった。府内の公共図書館等には関心が薄かったので、特に訪ね歩くこともしていない。
◆細川(惣領・刑部・阿波守・典厩)家
鎌倉前期、足利家の庶流として誕生。室町幕府の時代には管領家の一として、広く天下に勢力を拡張した。細川清氏が南朝方に与して戦死した後、その従弟の頼之(京兆家)が惣領家となり、摂津など四か国の守護を世襲、勝元は管領となり幕府の権を握り、妻の父・山名持豊と張り合ったことが契機となり、応仁の乱を勃発させるに至った。政元が横死すると内紛により衰退し、家臣の三好家、ついで松永久秀に実権を奪われた。刑部家・阿波守家はそれぞれ和泉半国守護であり、前者は戦国末期に細川(長岡)藤孝が登場、織田信長の手配により丹後へ移り、子孫は肥後熊本藩主として続いた。典厩家は西成郡守護の家系。
◆池田家
摂津豊島郡に興った豪族であり、後世の岡山藩主池田家とは別の系統である。室町期の池田充政は豊かな経済力を持つ地域の実力者として知られた。貞正は細川家の内乱に巻き込まれて自殺するが、信正が家を再興、池田城を拠点とする戦国大名となった。織田信長時代には勝正・知正の抗争が止まずに没落し、江戸期に入って重信が豊島郡内に封地を与えられたが、1614年、家臣の詐欺事件に巻き込まれて改易された。
◆高山家
摂津島下郡に興り、高山友照のとき高槻を居城とした。重友(右近)は敬虔なキリシタンであり、豊臣秀吉により茨城へ転封、のち信仰を守って秀吉から勘当され、加賀前田家から扶持を与えられて高岡に居住した後、1615年にマニラへ追放されて病没した。2016年、ローマ教皇フランシスコから広義の殉教者と認定され、福者に列せられた。
◆石山本願寺
浄土真宗の教主である。15世紀末、教勢拡大の立役者・蓮如が石山御坊(大阪城の地)を拠点の一つと定めた。曽孫・証如のとき、1532年に山科本願寺が焼亡したので、以後は石山を本拠地として強大な兵力を有し、事実上、中規模の戦国大名に等しい勢力を誇った。1591年に顕如が没すると、徳川家康の介入により本願寺は東西に分裂し、現在に至っている。
◆麻田藩=青木家
青木一重は豊臣秀吉の家臣として摂津麻田に封じられ、関が原の戦後も豊臣秀頼に仕えたが、大坂の陣では京都所司代・板倉勝重に脅されて参戦できず、そのために戦後は処罰されずに済み、江戸幕府に仕えた。子孫は代々、そのまま麻田1万余石を領知した。
◆狭山藩=北条家
北条氏規は小田原領主・北条氏政の弟であり、小田原落城後に豊臣秀吉から河内丹南郡内に封地を与えられた。氏盛は宗家の氏直の所領(下野国内)を相続し、1600年に実父・氏規の後嗣となって1万石を知行、子孫は代々狭山藩主を継承して北条家の家系を伝えた。
◆大坂城代(江戸時代)
江戸期の大坂(現代の大阪)城代には、畿内に所領を与えられて大坂を拠点にする者と、城主でありながら城代在任中は京都に駐在する者とがあり、はじめは前者の場合が多かったが、江戸中期からは後者が一般的になった。本項では前者に該当する諸大名の所領や石高の変遷を一通り掲載し、就任前と退任後の封地にリンクできるようにした。
◆吉見藩=遠藤家
遠藤胤城は千葉氏庶流、美濃の東(とう)家の嫡流である名門。江戸中期からは代々、近江三上藩主であったが、明治になってから1870年、藩庁を和泉吉見に移転。翌年には廃藩置県を迎えたため、わずか一年余の藩主に終わった。
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