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2021年4月

2021年4月30日 (金)

「大阪なら、おお!サッカー」「浪速で、なにわともあれスポーツや!」

【史料好きの倉庫(27)】

今回は「大阪府の主要大名」の解説である。

1970年、両親に連れられて万博観光に行ったのが最初。その後は用事があるときに行く程度だが、素通りのほうが多く、府内の観光・宿泊は数回程度。大阪以外の近世城下町は高槻しか行ったことがない。最近は2013年に歌劇鑑賞のため「いずみホール」まで出向き、2016年には関西ラーメン道の仲間と交流するために訪問した(画像はその翌日に行った高槻教会・高山右近像)。

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応仁の乱以降、下剋上の影響により細川家や畠山家が没落し、摂津・河内・和泉の大名豪族にも勢力の消長が見られたが、家系の調査には京都府の場合と同じく、中央の公家による日記などの同時代史料の照会が欠かせない。大阪(当時は大坂)を拠点とした豊臣家が滅亡すると、三国の要地には徳川譜代の諸大名が配置されたため、江戸中期までに多くの藩主が入れ替わった。府内の公共図書館等には関心が薄かったので、特に訪ね歩くこともしていない。

◆細川(惣領・刑部・阿波守・典厩)家
鎌倉前期、足利家の庶流として誕生。室町幕府の時代には管領家の一として、広く天下に勢力を拡張した。細川清氏が南朝方に与して戦死した後、その従弟の頼之(京兆家)が惣領家となり、摂津など四か国の守護を世襲、勝元は管領となり幕府の権を握り、妻の父・山名持豊と張り合ったことが契機となり、応仁の乱を勃発させるに至った。政元が横死すると内紛により衰退し、家臣の三好家、ついで松永久秀に実権を奪われた。刑部家・阿波守家はそれぞれ和泉半国守護であり、前者は戦国末期に細川(長岡)藤孝が登場、織田信長の手配により丹後へ移り、子孫は肥後熊本藩主として続いた。典厩家は西成郡守護の家系。

◆池田家
摂津豊島郡に興った豪族であり、後世の岡山藩主池田家とは別の系統である。室町期の池田充政は豊かな経済力を持つ地域の実力者として知られた。貞正は細川家の内乱に巻き込まれて自殺するが、信正が家を再興、池田城を拠点とする戦国大名となった。織田信長時代には勝正・知正の抗争が止まずに没落し、江戸期に入って重信が豊島郡内に封地を与えられたが、1614年、家臣の詐欺事件に巻き込まれて改易された。

◆高山家
摂津島下郡に興り、高山友照のとき高槻を居城とした。重友(右近)は敬虔なキリシタンであり、豊臣秀吉により茨城へ転封、のち信仰を守って秀吉から勘当され、加賀前田家から扶持を与えられて高岡に居住した後、1615年にマニラへ追放されて病没した。2016年、ローマ教皇フランシスコから広義の殉教者と認定され、福者に列せられた。

◆石山本願寺
浄土真宗の教主である。15世紀末、教勢拡大の立役者・蓮如が石山御坊(大阪城の地)を拠点の一つと定めた。曽孫・証如のとき、1532年に山科本願寺が焼亡したので、以後は石山を本拠地として強大な兵力を有し、事実上、中規模の戦国大名に等しい勢力を誇った。1591年に顕如が没すると、徳川家康の介入により本願寺は東西に分裂し、現在に至っている。

◆麻田藩=青木家
青木一重は豊臣秀吉の家臣として摂津麻田に封じられ、関が原の戦後も豊臣秀頼に仕えたが、大坂の陣では京都所司代・板倉勝重に脅されて参戦できず、そのために戦後は処罰されずに済み、江戸幕府に仕えた。子孫は代々、そのまま麻田1万余石を領知した。

◆狭山藩=北条家
北条氏規は小田原領主・北条氏政の弟であり、小田原落城後に豊臣秀吉から河内丹南郡内に封地を与えられた。氏盛は宗家の氏直の所領(下野国内)を相続し、1600年に実父・氏規の後嗣となって1万石を知行、子孫は代々狭山藩主を継承して北条家の家系を伝えた。

◆大坂城代(江戸時代)
江戸期の大坂(現代の大阪)城代
には、畿内に所領を与えられて大坂を拠点にする者と、城主でありながら城代在任中は京都に駐在する者とがあり、はじめは前者の場合が多かったが、江戸中期からは後者が一般的になった。本項では前者に該当する諸大名の所領や石高の変遷を一通り掲載し、就任前と退任後の封地にリンクできるようにした。

◆吉見藩=遠藤家
遠藤胤城は千葉氏庶流、美濃の東(とう)家の嫡流である名門。江戸中期からは代々、近江三上藩主であったが、明治になってから1870年、藩庁を和泉吉見に移転。翌年には廃藩置県を迎えたため、わずか一年余の藩主に終わった。

2021年4月20日 (火)

「京都で踊りまくる教徒どす」「丹後ならタンゴの一択!(^^;」

【史料好きの倉庫(26)】

今回は「京都府の主要大名」の解説である。

幼少時、両親に連れられて京都へ行った記憶があり、そのあとは中学の修学旅行、また学生時の個人旅行などで立ち寄った。社会人になってから、京都はもっぱら素通りする地になり、2006年に丹後へ旅行して舞鶴(田辺)・宮津の城下を訪れた。2014年には研修講師としてお招きを受け、その翌日に代表者のお車に乗せていただき、天橋立や福知山城下を周回することができた。画像はそのとき立ち寄った、明智玉(=「細川ガラシャ」)ゆかりのカトリック宮津教会。2016年には知人の画家と一緒に、京都でラーメンを賞味した

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室町幕府の政庁があった京都であるが、諸大名たちによる政争の舞台でもあったため、主要大名の家系は、公家の日記をはじめとする同時代史料を照らし合わせながら、複雑に入り込んだ部分もかなり解明されている。室町幕府の滅亡に伴って、京都の幕臣も四散したが、江戸期まで存続して旗本になったものは「寛政重修諸家譜」に収録されており、細川家に仕えた諸家は熊本藩関連史料でたどることができる。近世諸藩関係史料は、各自治体の図書館等で閲覧できるものがある

◆一色家=丹後守護
足利将軍家の一族で、室町幕府の四職(侍所頭人に任じられる家)の一であった。南北朝期には本貫である三河の守護に補されたこともあるが、一色教親以後の戦国期にはもっぱら丹後の大名として存続した。織田信長によって細川家が丹後の統治者として送り込まれると、しばらく一色家と共存関係にあったが、義定が1582年の本能寺の変で明智光秀に加担したため、細川家によって謀殺され、義清も細川家に敗死して滅亡した。

◆伊勢家=政所執事
よく知られている武家故実、「伊勢流」を伝えた家。伊勢貞継は足利尊氏に随従して上総(鎌倉期、足利家が守護を務めていた)から山城へ本拠を移し、のち二階堂家に替わって政所執事となった。以後、伊勢家が執事を世襲し、殿中の礼法である伊勢流を代々継承した。嫡流の貞興は本能寺の変で明智光秀に加担したため滅亡したが、甥の貞衡が将軍・徳川家光に仕えて礼法の師範となり、子孫は幕臣として故実を継承した。他に薩摩藩の重臣となった家系もある。なお、庶流の伊勢貞長流は室町幕府の申次衆となり、備中伊勢家から養子に入った盛時が駿河へ下向し、北条を仮冒して小田原北条家を興している。

◆小笠原(備前守)家
こちらもまた武家故実、「小笠原流」を伝えた家である。信濃守護・小笠原家の庶流であり、京都小笠原家とも呼ばれた。小笠原氏長以降は幕府の奉公衆の一人として在京しており、弓馬の礼法である小笠原流を代々継承した(他方、宗家の信濃小笠原家も礼法を継承し、江戸期には庶流の赤沢小笠原家などが幕臣となって小笠原流を伝えたが、京都小笠原家時代のものとはいささか異なるとされている)。稙盛のとき所領を失い、秀清(=少斎)は丹後国主・細川忠興の客分となったが、関が原の戦の直前、石田方に屋敷を囲まれた忠興夫人・明智玉を介錯して自害した。長光・長定(玄也)兄弟は忠興に伴って豊前へ移り、長光は累増されて5,000石となり、細川家とともに熊本へ移転、子孫は代々熊本藩の重臣の地位にあった。他方、長定はキリシタンの教えを捨てず、1636年に妻や九人の子どもたちとともに殉教した(2008年、家族全員がローマ教皇から「福者」に列せられた)。

◆丹波国主・亀山藩
羽柴秀勝(織田信長四男)と羽柴秀勝(三好吉房二男。豊臣秀吉の甥)はいずれも秀吉の養子であるが、同名の別人である。紛らわしい「秀勝」の襲名がいかなる状況下でなされたのか? 秀吉の政権掌握後、邪魔になった前・秀勝が「消されて」、後・秀勝がすり替わったと推察する論者もいるが、実際のところは未詳。江戸中期からは形原松平家の所領となったが、明治に入ると伊勢亀山藩と分別するため、亀岡藩と改称。そのまま現在の市名に至っている。

◆丹後国主・宮津藩
長岡藤孝(=幽斎)は和泉半国守護・細川元常(伯父)の養子となったが、織田信長に服属して山城の勝竜寺城を居城とし、長岡一帯を領知、1573年に将軍・足利義昭が追放されると、細川の名字に決別して「長岡」を称した。忠興は室町幕臣であった一族の細川輝経(細川奥州家)の名義上の養子となり、外見上は長岡から細川に復した形となった。江戸中期からは本庄玉(=桂昌院。将軍・徳川綱吉の母)の実家に連なる本荘(本庄)松平家の所領。

◆京都所司代(江戸時代)
江戸期の京都所司代には、畿内に所領を与えられて京都を拠点にする者と、城主でありながら所司代在任中は京都に駐在する者とがあり、はじめは前者の場合が多かったが、江戸中期からは後者が一般的になった。本項では前者に該当する諸大名の所領や石高の変遷を一通り掲載し、就任前と退任後の封地にリンクできるようにした。

2021年4月 8日 (木)

「滋賀で、詩が...浮かばない」「近江の琵琶湖、おぉ!見や!」

【史料好きの倉庫(25)】

今回は「滋賀県(近江)の主要大名」の解説である。

素通りすることが多い県だが、1980・1990(画像)・2014年にそれぞれ用事で彦根を訪れ、国宝の城を眺めながら城下町を散策した。2013年に「びわ湖ホール」で楽劇を鑑賞したが、他の城下町へ出向くこともなく、帰路、長浜城址に立ち寄った程度。

六角家・京極家・浅井家をはじめとする中世大名に関しては、系譜の錯綜が少なくない。近世に編纂された軍記物の類は信憑性が低く、京にも近いことから同時代の日誌類、または各寺院に保存されている文書類を参照するのが望ましい。近世藩政期の近江には中小大名が多く、『寛政重修諸家譜』を参照するほか、各自治体の図書館等に照会する必要がある。彦根城博物館には、井伊家から寄託された古文書類が「彦根藩井伊家文書」として保管されており、重臣の系譜はここで調べることが可能である。

Hikonejo1990

◆京極家=江北三郡守護
近江の守護であった佐々木→六角家の庶流。南北朝期には京極高氏が代表的な「ばさら大名」として知られている。室町期、本国の近江では三郡の守護にとどまったが、他に飛騨・出雲・隠岐の守護職を兼任した。戦国期には浅井家の台頭により統治者の実権を失ったが、豊臣時代の高次は徳川家と縁戚になって若狭小浜へ移り、子孫は出雲松江、のち讃岐丸亀の藩主となった。

◆朽木家
佐々木家の庶流であった朽木家は、室町幕府に近い立場であり、幕府衰退期には敗残の将軍を庇護して忠勤を励んだ。朽木元綱は豊臣秀吉から本領を安堵され、関が原の戦では石田方から徳川家康に内応し、戦後は家康から9,590石を安堵され(2万石からの減封とされているが、実はもともと正しくは9,590石だったとの説もある)、交替寄合として存続した。分家が丹波福知山藩主となっている。

◆浅井家
古代の浅井郡司の末裔かと言われる。戦国期に浅井亮政が主家の京極家を凌駕し、小谷を居城として江北の支配者となった。長政は織田信長の妹婿になったが、のち信長に抗して滅ぼされる。三人の娘、茶々(豊臣秀吉側室)・初(京極高次室)・江(徳川秀忠室)が著名である。

◆小堀家
坂田郡の豪族。小堀正次は1585年から近江を離れ、豊臣秀長、その没後は秀吉に重用され、備中代官に任じられた。政一(遠江守)は庭園作りの達人「小堀遠州」として名高く、1619年に近江へ戻り、伏見奉行に任じられて小室に封じられた。政方のとき不正のため失脚し、改易されている。

◆石田家
坂田郡の豪族であるが、存在が知られるのは戦国期に入った石田蔵人のときである。その曽孫・三成は豊臣秀吉に重用されて奉行の一人となり、近江派(いわゆる淀君派)の領袖として政権の実務を仕切ったが、関が原の戦に敗れて滅亡した。

◆彦根藩=井伊家
徳川家康の家臣筆頭であった井伊直政が、関が原の戦後、18万石で石田三成の旧領・佐和山を領有した。長男・直継が彦根城を築いて移転したが、病弱だったため上野安中を与えられ分家となる。弟の直孝が彦根城を継承、幕政に参画して功績があり、加増されて30万石に達した。その後は譜代大名の柱石として大老を何人も輩出したが、幕末の直弼が強権政治(「安政の大獄」)を推進したことが裏目に出て、京の桜田門外で暗殺され、藩は10万石を減じられて明治維新を迎えた。

◆朝日山藩=水野家
山形藩主であった水野忠弘は、大政奉還後、奥羽越列藩同盟に参加して新政府軍に抵抗したが、敗北して山形城を中心とする村山郡内の所領を没収された。代わりに近江朝日山で5万石を与えられ立藩したが、ほどなく版籍奉還→廃藩置県を迎えた。

 

2021年4月 5日 (月)

「三重県来たら何も、見えへん」「伊賀まで行きゃあ、いーがな」

【史料好きの倉庫(24)】

今回は「三重県の主要大名」の解説である。

幼少のとき、母の親戚一同で長島温泉へ遊びに行ったのが最初の訪県。高校生のときに部活の大会で二回ほど伊勢へ。その後、叔母(すでに他界)が桑名に住んでいたこともあり、用事があるときにはときどき出向いていた。また、30代のときに、津・亀山・神戸を車で周遊したこともあった。2014年には研修講師としてお招きいただき、伊賀上野まで出向いている。近世の城下町で訪れていないのは鳥羽ぐらいだ。

県立図書館(未訪問)に収録されている古文書は限定的だとのことなので、中世諸豪族も近世諸藩も、史料は各自治体の図書館等に所蔵されている場合があるが、北勢諸家(総体として勢州四家の一に数えられている)のような小規模なものは盛衰の全容を捉えるのが難しい。江戸期に編纂された『勢州軍記』『志摩軍記』等の軍記物も一定の史料的価値を有するが、誇張もあるため同時代史料を併せて参照したほうが良い。津藩については昭和になって藤堂一族の方が編纂した『藤堂姓諸家等家譜集』が存在し、伊賀付の諸家を含めた同藩重臣の家系が網羅されている。

◆伊勢国司 北畠家
南北朝時代に後醍醐天皇方として活動した公家・北畠親房の家系。勢州四家の一。顕能が伊勢国司に任じられて多気に居城を構え、堂上家でありながら伊勢南部に土着、代々国司を称し、幕府の守護(当初は半国守護)も世襲した。織田信長が政権を掌握するとその攻略を受け、信長の二男・信雄を家督にしたが、1576年、信雄によって一族は滅ぼされた。同族の中院家から親顕が入り、家名のみ再興したが、1630年に没して絶家となった。

◆長野(工藤)家
鎌倉期の藤原南家・工藤一族であり、長野城を拠点として中勢の安濃郡周辺に勢力を張った。勢州四家の一。織田信長の伊勢攻略を受けた後、信長の弟・信包を家督に迎えたが、1576年、北畠家とともに滅ぼされた。

◆関家
鎌倉期の伊勢平氏一族であり、亀山城を拠点として中勢の鈴鹿郡周辺に勢力を張った。勢州四家の一。一政は豊臣時代に松阪城主・蒲生氏郷の与力となり陸奥白河へ移転、氏郷の没後は三転して伯耆黒坂藩主となったが、内紛により改易され、子孫は5,000石の旗本として存続した。

◆九鬼家
言わずと知れた志摩の「九鬼水軍」。実態が明らかになるのは戦国中期の九鬼泰隆以降であり、澄隆のとき志摩の地頭諸家から攻撃を受け、領地を失う。嘉隆が家を再興して志摩を統一、鳥羽を居城として水軍を率い強大となるが、関が原の戦の際に石田方となり、敗戦後に自殺した。守隆は徳川方となって所領を安堵されたが、1632年、没後に継嗣をめぐって内紛が起き、九鬼家は摂津三田と丹波綾部とに分割移封され、水軍力を失った。

◆田丸藩
1619年以降に城主となった遠江出身の久野家は、紀伊徳川家の年寄五家の一であり、田丸城主として幕末まで存続した。正式な大名ではなかったが、万石以上(途中までは万石格)の城主として歴代表を掲げる。

◆長島藩
1625~49年に松平(久松)定房・定政兄弟が相次いで入封し、いずれも石高は一万石に満たなかったが、徳川家から準家門として遇されていた大名格の城主として、歴代表に加えた。

◆津藩
1608年に藤堂高虎が入封し、32万石余の大藩として明治維新まで存続した。本城は伊勢の津城であったが、伊勢の一部と伊賀一国とを領有し、伊賀上野城を支城とした。

◆西条藩→南林崎藩
◆東阿倉川藩
有馬氏倫と加納久通とは紀伊藩主であった徳川吉宗の謀臣であり、吉宗が将軍位を継承すると側用取次として吉宗を補佐し、1726年には両者とも並んで大名に列せられた。後代、有馬家は下野吹上、加納家は上総一宮藩主に移転している。

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