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2021年4月

2021年4月 8日 (木)

「滋賀で、詩が...浮かばない」「近江の琵琶湖、おぉ!見や!」

【史料好きの倉庫(25)】

今回は「滋賀県(近江)の主要大名」の解説である。

素通りすることが多い県だが、1980・1990(画像)・2014年にそれぞれ用事で彦根を訪れ、国宝の城を眺めながら城下町を散策した。2013年に「びわ湖ホール」で楽劇を鑑賞したが、他の城下町へ出向くこともなく、帰路、長浜城址に立ち寄った程度。

六角家・京極家・浅井家をはじめとする中世大名に関しては、系譜の錯綜が少なくない。近世に編纂された軍記物の類は信憑性が低く、京にも近いことから同時代の日誌類、または各寺院に保存されている文書類を参照するのが望ましい。近世藩政期の近江には中小大名が多く、『寛政重修諸家譜』を参照するほか、各自治体の図書館等に照会する必要がある。彦根城博物館には、井伊家から寄託された古文書類が「彦根藩井伊家文書」として保管されており、重臣の系譜はここで調べることが可能である。

Hikonejo1990

◆京極家=江北三郡守護
近江の守護であった佐々木→六角家の庶流。南北朝期には京極高氏が代表的な「ばさら大名」として知られている。室町期、本国の近江では三郡の守護にとどまったが、他に飛騨・出雲・隠岐の守護職を兼任した。戦国期には浅井家の台頭により統治者の実権を失ったが、豊臣時代の高次は徳川家と縁戚になって若狭小浜へ移り、子孫は出雲松江、のち讃岐丸亀の藩主となった。

◆朽木家
佐々木家の庶流であった朽木家は、室町幕府に近い立場であり、幕府衰退期には敗残の将軍を庇護して忠勤を励んだ。朽木元綱は豊臣秀吉から本領を安堵され、関が原の戦では石田方から徳川家康に内応し、戦後は家康から9,590石を安堵され(2万石からの減封とされているが、実はもともと正しくは9,590石だったとの説もある)、交替寄合として存続した。分家が丹波福知山藩主となっている。

◆浅井家
古代の浅井郡司の末裔かと言われる。戦国期に浅井亮政が主家の京極家を凌駕し、小谷を居城として江北の支配者となった。長政は織田信長の妹婿になったが、のち信長に抗して滅ぼされる。三人の娘、茶々(豊臣秀吉側室)・初(京極高次室)・江(徳川秀忠室)が著名である。

◆小堀家
坂田郡の豪族。小堀正次は1585年から近江を離れ、豊臣秀長、その没後は秀吉に重用され、備中代官に任じられた。政一(遠江守)は庭園作りの達人「小堀遠州」として名高く、1619年に近江へ戻り、伏見奉行に任じられて小室に封じられた。政方のとき不正のため失脚し、改易されている。

◆石田家
坂田郡の豪族であるが、存在が知られるのは戦国期に入った石田蔵人のときである。その曽孫・三成は豊臣秀吉に重用されて奉行の一人となり、近江派(いわゆる淀君派)の領袖として政権の実務を仕切ったが、関が原の戦に敗れて滅亡した。

◆彦根藩=井伊家
徳川家康の家臣筆頭であった井伊直政が、関が原の戦後、18万石で石田三成の旧領・佐和山を領有した。長男・直継が彦根城を築いて移転したが、病弱だったため上野安中を与えられ分家となる。弟の直孝が彦根城を継承、幕政に参画して功績があり、加増されて30万石に達した。その後は譜代大名の柱石として大老を何人も輩出したが、幕末の直弼が強権政治(「安政の大獄」)を推進したことが裏目に出て、京の桜田門外で暗殺され、藩は10万石を減じられて明治維新を迎えた。

◆朝日山藩=水野家
山形藩主であった水野忠弘は、大政奉還後、奥羽越列藩同盟に参加して新政府軍に抵抗したが、敗北して山形城を中心とする村山郡内の所領を没収された。代わりに近江朝日山で5万石を与えられ立藩したが、ほどなく版籍奉還→廃藩置県を迎えた。

 

2021年4月 5日 (月)

「三重県来たら何も、見えへん」「伊賀まで行きゃあ、いーがな」

【史料好きの倉庫(24)】

今回は「三重県の主要大名」の解説である。

幼少のとき、母の親戚一同で長島温泉へ遊びに行ったのが最初の訪県。高校生のときに部活の大会で二回ほど伊勢へ。その後、叔母(すでに他界)が桑名に住んでいたこともあり、用事があるときにはときどき出向いていた。また、30代のときに、津・亀山・神戸を車で周遊したこともあった。2014年には研修講師としてお招きいただき、伊賀上野まで出向いている。近世の城下町で訪れていないのは鳥羽ぐらいだ。

県立図書館(未訪問)に収録されている古文書は限定的だとのことなので、中世諸豪族も近世諸藩も、史料は各自治体の図書館等に所蔵されている場合があるが、北勢諸家(総体として勢州四家の一に数えられている)のような小規模なものは盛衰の全容を捉えるのが難しい。江戸期に編纂された『勢州軍記』『志摩軍記』等の軍記物も一定の史料的価値を有するが、誇張もあるため同時代史料を併せて参照したほうが良い。津藩については昭和になって藤堂一族の方が編纂した『藤堂姓諸家等家譜集』が存在し、伊賀付の諸家を含めた同藩重臣の家系が網羅されている。

◆伊勢国司 北畠家
南北朝時代に後醍醐天皇方として活動した公家・北畠親房の家系。勢州四家の一。顕能が伊勢国司に任じられて多気に居城を構え、堂上家でありながら伊勢南部に土着、代々国司を称し、幕府の守護(当初は半国守護)も世襲した。織田信長が政権を掌握するとその攻略を受け、信長の二男・信雄を家督にしたが、1576年、信雄によって一族は滅ぼされた。同族の中院家から親顕が入り、家名のみ再興したが、1630年に没して絶家となった。

◆長野(工藤)家
鎌倉期の藤原南家・工藤一族であり、長野城を拠点として中勢の安濃郡周辺に勢力を張った。勢州四家の一。織田信長の伊勢攻略を受けた後、信長の弟・信包を家督に迎えたが、1576年、北畠家とともに滅ぼされた。

◆関家
鎌倉期の伊勢平氏一族であり、亀山城を拠点として中勢の鈴鹿郡周辺に勢力を張った。勢州四家の一。一政は豊臣時代に松阪城主・蒲生氏郷の与力となり陸奥白河へ移転、氏郷の没後は三転して伯耆黒坂藩主となったが、内紛により改易され、子孫は5,000石の旗本として存続した。

◆九鬼家
言わずと知れた志摩の「九鬼水軍」。実態が明らかになるのは戦国中期の九鬼泰隆以降であり、澄隆のとき志摩の地頭諸家から攻撃を受け、領地を失う。嘉隆が家を再興して志摩を統一、鳥羽を居城として水軍を率い強大となるが、関が原の戦の際に石田方となり、敗戦後に自殺した。守隆は徳川方となって所領を安堵されたが、1632年、没後に継嗣をめぐって内紛が起き、九鬼家は摂津三田と丹波綾部とに分割移封され、水軍力を失った。

◆田丸藩
1619年以降に城主となった遠江出身の久野家は、紀伊徳川家の年寄五家の一であり、田丸城主として幕末まで存続した。正式な大名ではなかったが、万石以上(途中までは万石格)の城主として歴代表を掲げる。

◆長島藩
1625~49年に松平(久松)定房・定政兄弟が相次いで入封し、いずれも石高は一万石に満たなかったが、徳川家から準家門として遇されていた大名格の城主として、歴代表に加えた。

◆津藩
1608年に藤堂高虎が入封し、32万石余の大藩として明治維新まで存続した。本城は伊勢の津城であったが、伊勢の一部と伊賀一国とを領有し、伊賀上野城を支城とした。

◆西条藩→南林崎藩
◆東阿倉川藩
有馬氏倫と加納久通とは紀伊藩主であった徳川吉宗の謀臣であり、吉宗が将軍位を継承すると側用取次として吉宗を補佐し、1726年には両者とも並んで大名に列せられた。後代、有馬家は下野吹上、加納家は上総一宮藩主に移転している。

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