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2021年4月20日 (火)

「京都で踊りまくる教徒どす」「丹後ならタンゴの一択!(^^;」

【史料好きの倉庫(26)】

今回は「京都府の主要大名」の解説である。

幼少時、両親に連れられて京都へ行った記憶があり、そのあとは中学の修学旅行、また学生時の個人旅行などで立ち寄った。社会人になってから、京都はもっぱら素通りする地になり、2006年に丹後へ旅行して舞鶴(田辺)・宮津の城下を訪れた。2014年には研修講師としてお招きを受け、その翌日に代表者のお車に乗せていただき、天橋立や福知山城下を周回することができた。画像はそのとき立ち寄った、明智玉(=「細川ガラシャ」)ゆかりのカトリック宮津教会。2016年には知人の画家と一緒に、京都でラーメンを賞味した

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室町幕府の政庁があった京都であるが、諸大名たちによる政争の舞台でもあったため、主要大名の家系は、公家の日記をはじめとする同時代史料を照らし合わせながら、複雑に入り込んだ部分もかなり解明されている。室町幕府の滅亡に伴って、京都の幕臣も四散したが、江戸期まで存続して旗本になったものは「寛政重修諸家譜」に収録されており、細川家に仕えた諸家は熊本藩関連史料でたどることができる。近世諸藩関係史料は、各自治体の図書館等で閲覧できるものがある

◆一色家=丹後守護
足利将軍家の一族で、室町幕府の四職(侍所頭人に任じられる家)の一であった。南北朝期には本貫である三河の守護に補されたこともあるが、一色教親以後の戦国期にはもっぱら丹後の大名として存続した。織田信長によって細川家が丹後の統治者として送り込まれると、しばらく一色家と共存関係にあったが、義定が1582年の本能寺の変で明智光秀に加担したため、細川家によって謀殺され、義清も細川家に敗死して滅亡した。

◆伊勢家=政所執事
よく知られている武家故実、「伊勢流」を伝えた家。伊勢貞継は足利尊氏に随従して上総(鎌倉期、足利家が守護を務めていた)から山城へ本拠を移し、のち二階堂家に替わって政所執事となった。以後、伊勢家が執事を世襲し、殿中の礼法である伊勢流を代々継承した。嫡流の貞興は本能寺の変で明智光秀に加担したため滅亡したが、甥の貞衡が将軍・徳川家光に仕えて礼法の師範となり、子孫は幕臣として故実を継承した。他に薩摩藩の重臣となった家系もある。なお、庶流の伊勢貞長流は室町幕府の申次衆となり、備中伊勢家から養子に入った盛時が駿河へ下向し、北条を仮冒して小田原北条家を興している。

◆小笠原(備前守)家
こちらもまた武家故実、「小笠原流」を伝えた家である。信濃守護・小笠原家の庶流であり、京都小笠原家とも呼ばれた。小笠原氏長以降は幕府の奉公衆の一人として在京しており、弓馬の礼法である小笠原流を代々継承した(他方、宗家の信濃小笠原家も礼法を継承し、江戸期には庶流の赤沢小笠原家などが幕臣となって小笠原流を伝えたが、京都小笠原家時代のものとはいささか異なるとされている)。稙盛のとき所領を失い、秀清(=少斎)は丹後国主・細川忠興の客分となったが、関が原の戦の直前、石田方に屋敷を囲まれた忠興夫人・明智玉を介錯して自害した。長光・長定(玄也)兄弟は忠興に伴って豊前へ移り、長光は累増されて5,000石となり、細川家とともに熊本へ移転、子孫は代々熊本藩の重臣の地位にあった。他方、長定はキリシタンの教えを捨てず、1636年に妻や九人の子どもたちとともに殉教した(2008年、家族全員がローマ教皇から「福者」に列せられた)。

◆丹波国主・亀山藩
羽柴秀勝(織田信長四男)と羽柴秀勝(三好吉房二男。豊臣秀吉の甥)はいずれも秀吉の養子であるが、同名の別人である。紛らわしい「秀勝」の襲名がいかなる状況下でなされたのか? 秀吉の政権掌握後、邪魔になった前・秀勝が「消されて」、後・秀勝がすり替わったと推察する論者もいるが、実際のところは未詳。江戸中期からは形原松平家の所領となったが、明治に入ると伊勢亀山藩と分別するため、亀岡藩と改称。そのまま現在の市名に至っている。

◆丹後国主・宮津藩
長岡藤孝(=幽斎)は和泉半国守護・細川元常(伯父)の養子となったが、織田信長に服属して山城の勝竜寺城を居城とし、長岡一帯を領知、1573年に将軍・足利義昭が追放されると、細川の名字に決別して「長岡」を称した。忠興は室町幕臣であった一族の細川輝経(細川奥州家)の名義上の養子となり、外見上は長岡から細川に復した形となった。江戸中期からは本庄玉(=桂昌院。将軍・徳川綱吉の母)の実家に連なる本荘(本庄)松平家の所領。

◆京都所司代(江戸時代)
江戸期の京都所司代には、畿内に所領を与えられて京都を拠点にする者と、城主でありながら所司代在任中は京都に駐在する者とがあり、はじめは前者の場合が多かったが、江戸中期からは後者が一般的になった。本項では前者に該当する諸大名の所領や石高の変遷を一通り掲載し、就任前と退任後の封地にリンクできるようにした。

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