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2021年4月 5日 (月)

「三重県来たら何も、見えへん」「伊賀まで行きゃあ、いーがな」

【史料好きの倉庫(24)】

今回は「三重県の主要大名」の解説である。

幼少のとき、母の親戚一同で長島温泉へ遊びに行ったのが最初の訪県。高校生のときに部活の大会で二回ほど伊勢へ。その後、叔母(すでに他界)が桑名に住んでいたこともあり、用事があるときにはときどき出向いていた。また、30代のときに、津・亀山・神戸を車で周遊したこともあった。2014年には研修講師としてお招きいただき、伊賀上野まで出向いている。近世の城下町で訪れていないのは鳥羽ぐらいだ。

県立図書館(未訪問)に収録されている古文書は限定的だとのことなので、中世諸豪族も近世諸藩も、史料は各自治体の図書館等に所蔵されている場合があるが、北勢諸家(総体として勢州四家の一に数えられている)のような小規模なものは盛衰の全容を捉えるのが難しい。江戸期に編纂された『勢州軍記』『志摩軍記』等の軍記物も一定の史料的価値を有するが、誇張もあるため同時代史料を併せて参照したほうが良い。津藩については昭和になって藤堂一族の方が編纂した『藤堂姓諸家等家譜集』が存在し、伊賀付の諸家を含めた同藩重臣の家系が網羅されている。

◆伊勢国司 北畠家
南北朝時代に後醍醐天皇方として活動した公家・北畠親房の家系。勢州四家の一。顕能が伊勢国司に任じられて多気に居城を構え、堂上家でありながら伊勢南部に土着、代々国司を称し、幕府の守護(当初は半国守護)も世襲した。織田信長が政権を掌握するとその攻略を受け、信長の二男・信雄を家督にしたが、1576年、信雄によって一族は滅ぼされた。同族の中院家から親顕が入り、家名のみ再興したが、1630年に没して絶家となった。

◆長野(工藤)家
鎌倉期の藤原南家・工藤一族であり、長野城を拠点として中勢の安濃郡周辺に勢力を張った。勢州四家の一。織田信長の伊勢攻略を受けた後、信長の弟・信包を家督に迎えたが、1576年、北畠家とともに滅ぼされた。

◆関家
鎌倉期の伊勢平氏一族であり、亀山城を拠点として中勢の鈴鹿郡周辺に勢力を張った。勢州四家の一。一政は豊臣時代に松阪城主・蒲生氏郷の与力となり陸奥白河へ移転、氏郷の没後は三転して伯耆黒坂藩主となったが、内紛により改易され、子孫は5,000石の旗本として存続した。

◆九鬼家
言わずと知れた志摩の「九鬼水軍」。実態が明らかになるのは戦国中期の九鬼泰隆以降であり、澄隆のとき志摩の地頭諸家から攻撃を受け、領地を失う。嘉隆が家を再興して志摩を統一、鳥羽を居城として水軍を率い強大となるが、関が原の戦の際に石田方となり、敗戦後に自殺した。守隆は徳川方となって所領を安堵されたが、1632年、没後に継嗣をめぐって内紛が起き、九鬼家は摂津三田と丹波綾部とに分割移封され、水軍力を失った。

◆田丸藩
1619年以降に城主となった遠江出身の久野家は、紀伊徳川家の年寄五家の一であり、田丸城主として幕末まで存続した。正式な大名ではなかったが、万石以上(途中までは万石格)の城主として歴代表を掲げる。

◆長島藩
1625~49年に松平(久松)定房・定政兄弟が相次いで入封し、いずれも石高は一万石に満たなかったが、徳川家から準家門として遇されていた大名格の城主として、歴代表に加えた。

◆津藩
1608年に藤堂高虎が入封し、32万石余の大藩として明治維新まで存続した。本城は伊勢の津城であったが、伊勢の一部と伊賀一国とを領有し、伊賀上野城を支城とした。

◆西条藩→南林崎藩
◆東阿倉川藩
有馬氏倫と加納久通とは紀伊藩主であった徳川吉宗の謀臣であり、吉宗が将軍位を継承すると側用取次として吉宗を補佐し、1726年には両者とも並んで大名に列せられた。後代、有馬家は下野吹上、加納家は上総一宮藩主に移転している。

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