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2021年5月

2021年5月30日 (日)

プロにあるまじき行為を放置するな!

大坂なおみ選手(テニス)が物議を醸している。

...と言っても、いま話題になっている全仏オープンでの「記者会見拒否」の件ではない。

5月12日、大坂選手はイタリア国際(ローマ)の2回戦で、ジェシカ‐ペグラ選手(米国)に敗退した。その際、ラケットを数回、地面に叩きつけて破壊した。

翌13日、ラケットを提供するYONEXが、「今回のような行為は決して望まない。世界で影響力がある選手なので、ジュニア世代やキッズたちが真似することを危惧する。また同様な行為があった場合は、マネジメント会社経由で注意させていただく(要旨)」との声明を発表した。ネットでの意見(誹謗中傷は除外した穏当な批評)でも、同選手の行為を非とするものが大勢を占めた。同選手に限らず、過去、歴史に残る大選手たちの何人もが同様な破壊行為をしているが、それらも含めて望ましくない行為だとする意見が圧倒的であった。

ところが、もとテニス選手だった神和住純氏(法政大教授)の見解は異なるらしい。

詳細は、デイリー新潮の記事内に引用されているが、要旨は、「選手がラケットを壊すのは、試合の悪い流れを断ち切ってスッキリしたいからだ。精神的な駆け引きが勝敗を決めるので、卓球やバドミントンに比べて長時間の試合にもかかわらず、集中力を維持させなければならない。その中で感情的にラケットを壊すこともある。批判されて当然ではあるが、その愚行もまたプレー同様、温かい目で見守ってほしい」である。

この意見は全く誤っている。

自分が日々の仕事で使用する道具を大切にする、少なくとも粗末に扱わないのは、社会人の基本である。どんな仕事であれ、道具を破壊するのは、プロフェッショナルにあるまじき所業である。「批判は甘受するが、試合の展開によっては起こり得る行為」として放置してはならない。7年前、松山英樹選手(ゴルフ)がドライバーを地面に叩きつけたときも、世論の大勢は決して松山選手を擁護しなかった。最低の行為だからだ。

長時間の試合で動きが激しく、緊張を強いられることは、破壊行為の理由にならない。他にも同様な競技があるとは思うが、少なくともテニスプレイヤーの場合は、その地位にふさわしい国際的な称賛と報酬とを受けている。払った努力が報われない競技ではない。「チャンピオンになるのは楽でないが、対価は少ない競技」とは性格が違う。「集中力の維持」もプロに求められる条件である。一個何万円(このクラスの選手ならもっと高い?)のラケットを破壊しなければ、それができないとしたら、チャンピオンの資質に欠けていることにならないか?

大坂選手は恵まれた環境にあったから、幼少時にラケットを難なく入手できたかもしれない。しかし、世界、特に開発途上国には、たとえテニスの才能があっても、貧困のためラケット一本さえ容易に手に入らず、泣く泣く選手への道を諦める子どもたちが数え切れない。その子たちにとって、テレビなどで世界一流のテニスプレイヤーがラケットを破壊する場面を見ることは、どれほど悲しいことだろうか。

もし百歩譲って、神和住氏の見解に沿って「温かく見守ってほしい」のであれば、このようにすれば良い。

公益事業として「ラケット普及基金(仮称)」を設立し、ラケットを破壊した選手は、所属団体への罰金ではなく、基金に対して多額の罰金を払う(金額はランクに応じて、たとえば大坂選手クラスならば一千万円とか...)。その収益は、開発途上国で一定の成績を上げた千人の子どもたちにラケットを無償配布するのに使用される。もちろん、単に罰金を払えば良いのではなく、公式に会見して謝罪することも条件にする。

個人的には、これまで通り大坂選手に声援を送りたい。日本が誇る世界最高クラスのプレイヤー。だからこそ、次の世代を担う子どもたちに見られても、恥ずかしくない振る舞いを見せてほしい。テニスを愛する多くの人々から尊敬される存在になってほしいのが、私の願いである。

2021年5月19日 (水)

「和歌山から、わが家ま...で何キロ?」「紀伊で、聞い...てくれ」

【史料好きの倉庫(30)】

今回は「和歌山県(紀州)の主要大名」の解説である。

30代始めに初めて訪県、和歌山市と周辺、そして高野山まで足を延ばした。その数年後に、こんどは和歌山から南紀へ回り、白浜温泉に泊まって田辺城址を観光した。三回目は2015年、和歌山城から紀伊風土記の丘を散策した後、夜は業界仲間の五人で和歌山ラーメンを食べながら語り合ったものだ(画像)。

中世の紀州では巨大な勢力が出現しなかったこともあり、高野山に関する史料は相当保存されているが、他地域を含めても、戦国前半期までの大名豪族の家系に関する史料は乏しい。そのため信頼度はともかく、後世の編纂物に頼る面も大きい。江戸期には紀伊徳川家が(高野山領を除く)全域を統治し、藩政の歴史は『南紀徳川史』にまとめられている。また、和歌山県立文書館には同書を含めた豊富な史料があり、全部揃っているわけではないが、年寄(≒家老)級をはじめとする重臣諸家の系図が所蔵されている。

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◆堀内家
いわゆる「熊野水軍」の家。水軍自体は平安朝末期から知られるが、堀内家は戦国期に台頭して勢力を貯え、堀内氏虎は新宮を拠点として水軍を統括していた。氏善は関が原の戦で石田方に与力したため、所領を没収されたが、氏久は大坂夏の陣の後に徳川家から赦免され、旗本となった。

◆鈴木家
いわゆる「雑賀党」の家。戦国前半期までの系譜は未詳。鉄砲伝来により和泉の堺から調達することが可能になった後、鈴木重秀(=雑賀孫市)は鉄砲隊を組織して織田信長に抵抗、1585年に至って豊臣秀吉に滅ぼされた。その後、後継者の重朝が鉄砲隊を率いて豊臣秀長に仕え、雑賀地域で1万石を領知したが、関ヶ原の戦で石田方に与力して失領、水戸徳川家の家臣になっった。

◆紀伊藩=徳川家
徳川御三家の一。家康の十男・頼宣が駿府から転入して紀伊一国と伊勢の一部とを領知、555,000石となった。五代藩主・吉宗が八代将軍、さらに十三代藩主・慶福が十四代将軍・家茂となり、それぞれ徳川宗家を継承している。

◆田辺藩=安藤家
安藤直次は徳川家康の加判(閣僚)を務めて遠江掛川城主となり、のち駿府藩主・頼宣に附属され、頼宣の紀伊転封に伴い、田辺38,800石を与えられて、最上位の老職となった。子孫は代々、年寄(附家老)と城主とを世襲、明治に至って大名に昇格した。

◆新宮藩=水野家
水野重央は徳川家康の家臣であったが、駿府藩主・頼宣に附属されて遠江浜松城主となり、頼宣の紀伊転封に伴い、新宮35,000石を与えられて、安藤家と並び最上位の老職となった。子孫は代々、年寄(附家老)と城主とを世襲、明治に至って大名に昇格した。

◆貴志邑主・三浦家
三浦為春は上総勝浦の正木家当主であり、妹の万(養珠院)が徳川家康の側室になった縁で徳川家に仕えた。万の息子である駿府藩主・徳川頼宣に附属されて遠江浜名城に配され、頼宣の紀伊転封に伴い、貴志城8,000石を与えられた。のち、城は廃止されたが、孫・為隆のときまでに加増されて16,300石に至り、子孫は年寄の一人として代々貴志邑主を世襲した。

2021年5月17日 (月)

「奈良県行ったら城巡りに、ならへん」「郡山も? こーりゃまぁ...」

【史料好きの倉庫(29)】

今回は「奈良県(和州)の主要大名」の解説である。

少年時から何回か旅行に出向いているが、もっぱら寺社が中心で、残念ながら城下町散策をしたことがない。強いて言えば、20代のころ、櫛羅の滝を見物に行き、途中で旧藩の街並みを通過した程度。

室町期の大和国は、興福寺に事実上の守護権が与えられていたので、同寺の関連文書をはじめとする諸史料に、筒井家などの衆徒(法体の武家)、越智家・箸尾家などの「国民」(俗人武家)の家系に関する記述がある。江戸期には中小藩が分立しており、各藩主の家系に関しては各々の自治体が所蔵する史料での調査となる。

◆興福寺一乗院
◆興福寺大乗院
鎌倉・室町期には興福寺が大和国の検断職を与えられ、事実上の守護としての権限を行使した。特に一乗院と大乗院の両門跡は、摂関家の子弟が入室することが慣例となり、高い格式を背景に守護権を分かち合った。一乗院の覚慶は足利将軍家から入室し、後に還俗して将軍・足利義昭となっている。織田信長は1573年、興福寺の守護権を終了させ、その後の興福寺は武力を擁しない単なる名門寺院となった。

◆越智家
高市郡の国民で、大和四家の一。国内を二分した大和永享合戦に敗れて中絶するが、越智家栄が高取城を本拠として再興し、家の全盛期を現出して室町幕政にも参与した。戦国期には他の諸豪族と合従連衡して勢力を保ったが、豊臣時代に入り家秀は筒井家の与力となり、1583年に謀殺されて滅亡した。

◆箸尾家
広瀬郡の国民で、大和四家の一。大和永享合戦に敗れて中絶した後、箸尾春代が家を再興し、大勢力の間を変転して家を保ち、戦国期には大和国衆としての連合勢力に加わった。箸尾為政が筒井家に誘殺された後に同家の勢力下に置かれたが、豊臣時代に筒井家が伊賀へ転封すると、高春は大和に残り、豊臣秀長、ついで増田長盛に仕えた。

◆十市(とおち/とおいち)家
十市郡の国民で、大和四家の一。大和永享合戦では筒井方(幕府方)だったのにもかかわらず、家は一時中絶し、十市遠清が家を再興した。遠忠のとき最盛期を迎えたが、その没後は衰退する。藤政は筒井家の傘下に置かれ、同家に伴って伊賀へ移転したが、筒井家の滅亡後に帰農した。

◆筒井家
大和四家の筆頭・代表的な存在。大和永享合戦後、順永のとき官符衆徒の地位を確立した。順昭のとき戦国大名としての地位を確立、順慶は松永久秀に対抗して大和国衆の利害を代表し、織田信長に服属して大和一国を支配した。定次は豊臣秀吉のとき伊賀へ転封された後、江戸期に入ってからキリシタンとして信徒を保護したため、家の内紛を理由に改易、切腹させられた。

◆柳生家→柳生藩
添上郡出身の豪族。代々柳生荘を所領としてきたが、柳生家厳は松永久秀の被官になったため、1577年に織田信長から所領を没収された。宗厳(石舟斎)は山中に閑居し、剣術の達人として名を成した。宗矩は徳川家康に仕えて石田方に対する謀略戦を担い、のち徳川秀忠の兵法師範を務めた功績により、12,500石で柳生の旧領に復帰することができた。宗冬以降は将軍家の剣法指南役を代々継承して明治に至った。

◆松永家
松永久秀は素性が知れない人物であり、戦国期の下剋上の代表選手である。三好家の家臣であったが、権謀術数により勢力を急拡大、大和国を軍事占領し、将軍・足利義輝を襲殺して事実上の畿内支配者となった。織田信長が上洛すると降伏して服属するが、1577年、信長に反旗を翻して滅亡した。

◆大和国主/郡山藩
豊臣時代には秀吉の異父弟・秀長の分国であり、江戸期には譜代の重鎮が封じられた。1709年に柳沢吉里が入封して15万余石を領知、代々継承して明治に至るが、歴代の藩主は幕政に参与するものがなかった反面、信鴻・保光など文化人を多く輩出している。

◆竜田藩
◆小泉藩=片桐家
片桐且元・貞隆の兄弟は豊臣家の家臣であったが、大坂冬の陣を前に豊臣家を退去、夏の陣が終わった後、それぞれ旧領の竜田と小泉とに復封され、竜田藩はのち無嗣断絶した。小泉藩は貞昌(宗閑)が茶道石州流を起こし、藩主は代々宗匠の地位も継承して明治に至った。

◆布施藩→新庄藩→櫛羅藩
桑山一晴は江戸期になって大和布施を領知、子孫は葛下郡新庄を所領としたが、1682年に一尹のとき改易された。他方、1680年に永井直円が、当主(兄)が殺害され絶家となった永井宗家の名跡相続を許され、(広域の)新庄領内の一部を中心として1万石で封じられた。直幹のとき葛上郡櫛羅に陣屋を置き、明治まで続いている。

2021年5月12日 (水)

「兵庫県で、ヒョー!護憲?」「播磨でビラ貼りま...っせ」

【史料好きの倉庫(28)】

今回は「兵庫県の主要大名」の解説である。

前回の地と同様、素通りしてしまった場合が多い。1970年の万博の際、芦屋(父の勤務先の宿泊所があった)に泊まったのが最初。学生時代に姫路城へ観光、社会人になってから研修のため神戸を、旅行で赤穂を訪問。震災後は四国へ渡る途上、淡路島に立ち寄って洲本城址を見学し、また初めて丹後へ行った帰路、篠山に立ち寄った。2014年に神戸を再訪し(画像)、関西ラーメン道の仲間たちと初めて飲んでいる。直近では、2019年のイベントで、同じ人たちをはじめ、広く全国の仲間たちと交流を広げることができた。

県全体が、真ん中の播磨を囲み、北は但馬から南は淡路まで、さらに丹波や摂津の一部まで加えた広大な範囲にわたる。中世には複数の大名勢力が割拠していたが、赤松家や山名家に関する系譜類は後世に伝わっている。戦国期の諸大名についても、京都に近いため、中央の日記類などの同時代史料が参考になり、比較的家系を調べやすいものが多い。江戸期は中小大名が分割統治しているので、県立の施設よりも竜野・尼崎など各自治体の図書館等で編纂・保管されている諸史料が調べやすいと聞いているが、私自身が改めて訪問したものではないので、確かなことは言えない。

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◆山名家→村岡藩
但馬の大名として知られるが、もとは上野(群馬県)の出身。鎌倉期には新田庶流の弱小御家人であったが、山名時氏が足利尊氏の部将として功を上げ、但馬守護に任じられ、また侍所頭人となって「四職(ししき)」の一家に名を連ねた。時義のとき大いに勢力を伸長、一族合わせて十一か国の守護を兼ね「六分一殿」と称されたが、明徳の乱で没落。持豊(=宗全)が家勢を建て直し、嘉吉の乱の後は赤松家を討滅した功により重んじられ、一族で八か国の守護を占め、細川勝元と張り合って応仁の乱の端緒を作った。政豊以降は順次衰退に向かい、戦国期には但馬出石と因幡天神山との両系に分かれたが、いずれも戦国末に所領を失った。江戸期には天神山系の豊国(=禅高)が但馬村岡6,700石に封じられ、子孫は代々交替寄合として存続。義済のとき明治に入って11,010石に高直しされ、大名に列した。

◆播磨国主・姫路藩
羽柴秀吉は織田信長から播磨一国を所領として与えられ、秀吉が豊臣政権を樹立すると弟の秀長を播磨に封じたが、のち大和へ転じた。関ヶ原の戦後は徳川家康の娘婿・池田輝政が一国を領知、光政が鳥取へ転じて本多家が姫路に入ると、以後は15万石級の大名の所領として定着した。1749年以降は酒井家が藩主であり、大老・老中を輩出する家として、譜代大名では井伊家に次ぐ家格であった。

◆三田藩
戦国末に山崎家が入封する前、有馬則頼の祖父・則景や父・重則が三田城主であったとされるが、拠点は播磨国内の淡河であったと考えられるので、本表では割愛した。1633年に入封して明治に至った九鬼家は、志摩・九鬼水軍の嫡流である。

◆洲本藩
淡路国は江戸初期まで独立大名の所領であったが、関が原の戦後に徳島藩蜂須賀家の所領に加えられ、以後は家老の稲田家が洲本城代を世襲した。幕末に稲田家の家臣たちが徳島からの独立騒動を起こし、紛糾した末、明治新政府の裁定により稲田家主従は兵庫県貫属とされ、北海道開拓に参画することになって静内へ移住した。

◆赤穂藩
1632年に広島浅野家の分家である浅野長直が入封し、三代目の長矩が1701年に刃傷事件のため切腹、翌年の忠臣蔵事件を引き起こした。1706年に森長直が2万石で赤穂藩主となり、代々継承して明治に至った。

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