「奈良県行ったら城巡りに、ならへん」「郡山も? こーりゃまぁ...」
【史料好きの倉庫(29)】
今回は「奈良県(和州)の主要大名」の解説である。
少年時から何回か旅行に出向いているが、もっぱら寺社が中心で、残念ながら城下町散策をしたことがない。強いて言えば、20代のころ、櫛羅の滝を見物に行き、途中で旧藩の街並みを通過した程度。
室町期の大和国は、興福寺に事実上の守護権が与えられていたので、同寺の関連文書をはじめとする諸史料に、筒井家などの衆徒(法体の武家)、越智家・箸尾家などの「国民」(俗人武家)の家系に関する記述がある。江戸期には中小藩が分立しており、各藩主の家系に関しては各々の自治体が所蔵する史料での調査となる。
◆興福寺一乗院
◆興福寺大乗院
鎌倉・室町期には興福寺が大和国の検断職を与えられ、事実上の守護としての権限を行使した。特に一乗院と大乗院の両門跡は、摂関家の子弟が入室することが慣例となり、高い格式を背景に守護権を分かち合った。一乗院の覚慶は足利将軍家から入室し、後に還俗して将軍・足利義昭となっている。織田信長は1573年、興福寺の守護権を終了させ、その後の興福寺は武力を擁しない単なる名門寺院となった。
◆越智家
高市郡の国民で、大和四家の一。国内を二分した大和永享合戦に敗れて中絶するが、越智家栄が高取城を本拠として再興し、家の全盛期を現出して室町幕政にも参与した。戦国期には他の諸豪族と合従連衡して勢力を保ったが、豊臣時代に入り家秀は筒井家の与力となり、1583年に謀殺されて滅亡した。
◆箸尾家
広瀬郡の国民で、大和四家の一。大和永享合戦に敗れて中絶した後、箸尾春代が家を再興し、大勢力の間を変転して家を保ち、戦国期には大和国衆としての連合勢力に加わった。箸尾為政が筒井家に誘殺された後に同家の勢力下に置かれたが、豊臣時代に筒井家が伊賀へ転封すると、高春は大和に残り、豊臣秀長、ついで増田長盛に仕えた。
◆十市(とおち/とおいち)家
十市郡の国民で、大和四家の一。大和永享合戦では筒井方(幕府方)だったのにもかかわらず、家は一時中絶し、十市遠清が家を再興した。遠忠のとき最盛期を迎えたが、その没後は衰退する。藤政は筒井家の傘下に置かれ、同家に伴って伊賀へ移転したが、筒井家の滅亡後に帰農した。
◆筒井家
大和四家の筆頭・代表的な存在。大和永享合戦後、順永のとき官符衆徒の地位を確立した。順昭のとき戦国大名としての地位を確立、順慶は松永久秀に対抗して大和国衆の利害を代表し、織田信長に服属して大和一国を支配した。定次は豊臣秀吉のとき伊賀へ転封された後、江戸期に入ってからキリシタンとして信徒を保護したため、家の内紛を理由に改易、切腹させられた。
◆柳生家→柳生藩
添上郡出身の豪族。代々柳生荘を所領としてきたが、柳生家厳は松永久秀の被官になったため、1577年に織田信長から所領を没収された。宗厳(石舟斎)は山中に閑居し、剣術の達人として名を成した。宗矩は徳川家康に仕えて石田方に対する謀略戦を担い、のち徳川秀忠の兵法師範を務めた功績により、12,500石で柳生の旧領に復帰することができた。宗冬以降は将軍家の剣法指南役を代々継承して明治に至った。
◆松永家
松永久秀は素性が知れない人物であり、戦国期の下剋上の代表選手である。三好家の家臣であったが、権謀術数により勢力を急拡大、大和国を軍事占領し、将軍・足利義輝を襲殺して事実上の畿内支配者となった。織田信長が上洛すると降伏して服属するが、1577年、信長に反旗を翻して滅亡した。
◆大和国主/郡山藩
豊臣時代には秀吉の異父弟・秀長の分国であり、江戸期には譜代の重鎮が封じられた。1709年に柳沢吉里が入封して15万余石を領知、代々継承して明治に至るが、歴代の藩主は幕政に参与するものがなかった反面、信鴻・保光など文化人を多く輩出している。
◆竜田藩
◆小泉藩=片桐家
片桐且元・貞隆の兄弟は豊臣家の家臣であったが、大坂冬の陣を前に豊臣家を退去、夏の陣が終わった後、それぞれ旧領の竜田と小泉とに復封され、竜田藩はのち無嗣断絶した。小泉藩は貞昌(宗閑)が茶道石州流を起こし、藩主は代々宗匠の地位も継承して明治に至った。
◆布施藩→新庄藩→櫛羅藩
桑山一晴は江戸期になって大和布施を領知、子孫は葛下郡新庄を所領としたが、1682年に一尹のとき改易された。他方、1680年に永井直円が、当主(兄)が殺害され絶家となった永井宗家の名跡相続を許され、(広域の)新庄領内の一部を中心として1万石で封じられた。直幹のとき葛上郡櫛羅に陣屋を置き、明治まで続いている。
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