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2021年5月19日 (水)

「和歌山から、わが家ま...で何キロ?」「紀伊で、聞い...てくれ」

【史料好きの倉庫(30)】

今回は「和歌山県(紀州)の主要大名」の解説である。

30代始めに初めて訪県、和歌山市と周辺、そして高野山まで足を延ばした。その数年後に、こんどは和歌山から南紀へ回り、白浜温泉に泊まって田辺城址を観光した。三回目は2015年、和歌山城から紀伊風土記の丘を散策した後、夜は業界仲間の五人で和歌山ラーメンを食べながら語り合ったものだ(画像)。

中世の紀州では巨大な勢力が出現しなかったこともあり、高野山に関する史料は相当保存されているが、他地域を含めても、戦国前半期までの大名豪族の家系に関する史料は乏しい。そのため信頼度はともかく、後世の編纂物に頼る面も大きい。江戸期には紀伊徳川家が(高野山領を除く)全域を統治し、藩政の歴史は『南紀徳川史』にまとめられている。また、和歌山県立文書館には同書を含めた豊富な史料があり、全部揃っているわけではないが、年寄(≒家老)級をはじめとする重臣諸家の系図が所蔵されている。

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◆堀内家
いわゆる「熊野水軍」の家。水軍自体は平安朝末期から知られるが、堀内家は戦国期に台頭して勢力を貯え、堀内氏虎は新宮を拠点として水軍を統括していた。氏善は関が原の戦で石田方に与力したため、所領を没収されたが、氏久は大坂夏の陣の後に徳川家から赦免され、旗本となった。

◆鈴木家
いわゆる「雑賀党」の家。戦国前半期までの系譜は未詳。鉄砲伝来により和泉の堺から調達することが可能になった後、鈴木重秀(=雑賀孫市)は鉄砲隊を組織して織田信長に抵抗、1585年に至って豊臣秀吉に滅ぼされた。その後、後継者の重朝が鉄砲隊を率いて豊臣秀長に仕え、雑賀地域で1万石を領知したが、関ヶ原の戦で石田方に与力して失領、水戸徳川家の家臣になっった。

◆紀伊藩=徳川家
徳川御三家の一。家康の十男・頼宣が駿府から転入して紀伊一国と伊勢の一部とを領知、555,000石となった。五代藩主・吉宗が八代将軍、さらに十三代藩主・慶福が十四代将軍・家茂となり、それぞれ徳川宗家を継承している。

◆田辺藩=安藤家
安藤直次は徳川家康の加判(閣僚)を務めて遠江掛川城主となり、のち駿府藩主・頼宣に附属され、頼宣の紀伊転封に伴い、田辺38,800石を与えられて、最上位の老職となった。子孫は代々、年寄(附家老)と城主とを世襲、明治に至って大名に昇格した。

◆新宮藩=水野家
水野重央は徳川家康の家臣であったが、駿府藩主・頼宣に附属されて遠江浜松城主となり、頼宣の紀伊転封に伴い、新宮35,000石を与えられて、安藤家と並び最上位の老職となった。子孫は代々、年寄(附家老)と城主とを世襲、明治に至って大名に昇格した。

◆貴志邑主・三浦家
三浦為春は上総勝浦の正木家当主であり、妹の万(養珠院)が徳川家康の側室になった縁で徳川家に仕えた。万の息子である駿府藩主・徳川頼宣に附属されて遠江浜名城に配され、頼宣の紀伊転封に伴い、貴志城8,000石を与えられた。のち、城は廃止されたが、孫・為隆のときまでに加増されて16,300石に至り、子孫は年寄の一人として代々貴志邑主を世襲した。

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