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2021年5月12日 (水)

「兵庫県で、ヒョー!護憲?」「播磨でビラ貼りま...っせ」

【史料好きの倉庫(28)】

今回は「兵庫県の主要大名」の解説である。

前回の地と同様、素通りしてしまった場合が多い。1970年の万博の際、芦屋(父の勤務先の宿泊所があった)に泊まったのが最初。学生時代に姫路城へ観光、社会人になってから研修のため神戸を、旅行で赤穂を訪問。震災後は四国へ渡る途上、淡路島に立ち寄って洲本城址を見学し、また初めて丹後へ行った帰路、篠山に立ち寄った。2014年に神戸を再訪し(画像)、関西ラーメン道の仲間たちと初めて飲んでいる。直近では、2019年のイベントで、同じ人たちをはじめ、広く全国の仲間たちと交流を広げることができた。

県全体が、真ん中の播磨を囲み、北は但馬から南は淡路まで、さらに丹波や摂津の一部まで加えた広大な範囲にわたる。中世には複数の大名勢力が割拠していたが、赤松家や山名家に関する系譜類は後世に伝わっている。戦国期の諸大名についても、京都に近いため、中央の日記類などの同時代史料が参考になり、比較的家系を調べやすいものが多い。江戸期は中小大名が分割統治しているので、県立の施設よりも竜野・尼崎など各自治体の図書館等で編纂・保管されている諸史料が調べやすいと聞いているが、私自身が改めて訪問したものではないので、確かなことは言えない。

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◆山名家→村岡藩
但馬の大名として知られるが、もとは上野(群馬県)の出身。鎌倉期には新田庶流の弱小御家人であったが、山名時氏が足利尊氏の部将として功を上げ、但馬守護に任じられ、また侍所頭人となって「四職(ししき)」の一家に名を連ねた。時義のとき大いに勢力を伸長、一族合わせて十一か国の守護を兼ね「六分一殿」と称されたが、明徳の乱で没落。持豊(=宗全)が家勢を建て直し、嘉吉の乱の後は赤松家を討滅した功により重んじられ、一族で八か国の守護を占め、細川勝元と張り合って応仁の乱の端緒を作った。政豊以降は順次衰退に向かい、戦国期には但馬出石と因幡天神山との両系に分かれたが、いずれも戦国末に所領を失った。江戸期には天神山系の豊国(=禅高)が但馬村岡6,700石に封じられ、子孫は代々交替寄合として存続。義済のとき明治に入って11,010石に高直しされ、大名に列した。

◆播磨国主・姫路藩
羽柴秀吉は織田信長から播磨一国を所領として与えられ、秀吉が豊臣政権を樹立すると弟の秀長を播磨に封じたが、のち大和へ転じた。関ヶ原の戦後は徳川家康の娘婿・池田輝政が一国を領知、光政が鳥取へ転じて本多家が姫路に入ると、以後は15万石級の大名の所領として定着した。1749年以降は酒井家が藩主であり、大老・老中を輩出する家として、譜代大名では井伊家に次ぐ家格であった。

◆三田藩
戦国末に山崎家が入封する前、有馬則頼の祖父・則景や父・重則が三田城主であったとされるが、拠点は播磨国内の淡河であったと考えられるので、本表では割愛した。1633年に入封して明治に至った九鬼家は、志摩・九鬼水軍の嫡流である。

◆洲本藩
淡路国は江戸初期まで独立大名の所領であったが、関が原の戦後に徳島藩蜂須賀家の所領に加えられ、以後は家老の稲田家が洲本城代を世襲した。幕末に稲田家の家臣たちが徳島からの独立騒動を起こし、紛糾した末、明治新政府の裁定により稲田家主従は兵庫県貫属とされ、北海道開拓に参画することになって静内へ移住した。

◆赤穂藩
1632年に広島浅野家の分家である浅野長直が入封し、三代目の長矩が1701年に刃傷事件のため切腹、翌年の忠臣蔵事件を引き起こした。1706年に森長直が2万石で赤穂藩主となり、代々継承して明治に至った。

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