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2021年7月

2021年7月28日 (水)

「島根で何か買わないと、しまんねぇ」「松江なら、ま、杖...だな」

【史料好きの倉庫(32)】

今回は「島根県の主要大名」の解説である。

1989年に津和野へ行き、乙女峠まで巡礼。1995年には益田・出雲(大社・風土記の丘)・松江を周遊。三度目の訪県は2018年、安来地域介護支援専門員協会からのお招きを受け、研修講師としてお邪魔した後、代表の方とそのご友人のご厚意で、松江城周辺をご案内いただき、観光することができた(画像)。

戦国期の出雲と隠岐は尼子家の勢力圏であり、他の有力豪族も含め、系譜をたどるには現地の同時代史料が中心となるが、歴代の詳細が未解明の豪族も多い。石見の益田家・吉見家の関係史料は、移転先の山口県にも存在している。近世については、松江藩の史料が県立図書館(未訪問)で参照できるのに対し、津和野藩の史料は地元と東京都に分散している(個人的にはキリシタン殉教史以外にあまり興味がなく、調べなかった)など、バラツキがある。

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◆益田家
平安朝後期から石見に土着した豪族。益田兼高が鎌倉御家人となり、以後代々にわたり所領を拡大した。貞兼は大内、尼子の間にあって山陰の一大勢力となり、益田には中世文化が開花した。藤兼のとき毛利家の被官となったが、元祥は毛利輝元の防長移転に伴い、長門須佐へ移転した。

◆隠岐家
佐々木庶流ではあるが、鎌倉期(表では「前・隠岐家」)と室町・戦国期(表では「後・隠岐家」)とは別系統なので、両者を一つにつなぐ系図は誤り。後者の隠岐清綱は京極家の守護代となって甲ノ尾に築城、子孫は尼子家の被官となった。為清は尼子勝久擁立に参画するも、その重臣・山中幸盛と対立して敗死。経清は毛利家に服属した叔父の清家を殺害するが、吉川家に攻殺されて滅亡。清家の男・才太郎は吉川家に仕えている。

◆吉見家
武蔵吉見家の一族であり、吉見頼行が元寇を機に石見へ下向、津和野に築城して拠点とした。頼弘は惣領家(能登吉見家)から独立、信頼以降は大内家に与力するが、正頼は毛利元就の陶晴賢打倒に協力して毛利家に従属した。広長は毛利輝元の防長移転に伴い長門大井浦へ移るが、処遇が不満で一時出奔し、帰参するも後年、自殺に追い込まれた。その後、吉川家から就頼が入って再興したが、ここで吉見の家系は途絶え、以後は「大野毛利家」として周防大野を代々領知した。

◆尼子家
京極家の一族。尼子持久が守護代として出雲へ出向し、清定は月山富田城を拠点に実質的な出雲の統治者となった。経久は1508年に自立、出雲・隠岐をはじめ周辺各地を勢力下に収めた。晴久は8か国の守護になったが、1540年以降は大内家、のち毛利家の進出により勢力が後退した。義久は1566年に毛利家の総攻撃を受け、富田城を明け渡して降伏し、一時期監禁された後、毛利家の防長移転に随従して両国内に移り、1,000石余の所領を与えられた。他方、旧臣・山中幸盛(鹿之介)らが新宮尼子家の勝久を擁立して再興を図ったが失敗し、勝久は毛利軍に包囲されて切腹した。

◆津和野藩
江戸初期に宇喜多一族の坂崎直盛が封じられたが、大坂夏の陣の後、
幕府に争論を唱えて滅亡した。亀井政矩は茲矩の息子であり、父が尼子家の旧臣を抱えて因幡鹿野城主になった跡を継ぎ、1617年に津和野へ転封され、以後は明治まで代々継承した。乙女峠のキリシタン殉教事案は、最後の藩主・茲監に仕えた大国隆正や福羽美静をはじめとする幹部が、強い国学・神道の推進派であったことが影響している。

◆浜田藩
1649年以降は譜代中藩の采地となり、何度か藩主家が入れ替わっている。1836年に徳川準家門の松平(越智)斉厚が61,000石で入封し、四代続いたが、最期の藩主・武聡は第二次長州征伐の石州口において長州藩の反攻を受け、飛び地の美作鶴田へ逃れ、浜田領は長州の占領下に置かれた。

◆松江藩=松平(越前)家
江戸期に入ってからの出雲は、堀尾家→京極家と藩主が交替した後、1638年に松平(越前)直政が186,000石で封じられ、徳川家門の城地となった。松江城を拠点に文化を花開かせ、特に治郷(不昧)は茶人としても知られている。

2021年7月 1日 (木)

「鳥取砂丘で、とっ...トリックアート?」「伯耆行く前に、箒で放棄しろよ(^^;」

【史料好きの倉庫(31)】

今回は「鳥取県(因伯)の主要大名」の解説である。

1995年に一度だけ訪れているが、鳥取市へは行かず、米子と倉吉との城下町を散策した。これ以外には、電車で素通りしたことはあるが、下車してはいない。

戦国期を通じて、強力な大名が登場せず、同時代史料以外に目ぼしい典籍が残されていない。鳥取藩池田家に関する史料は、同家から県博物館(訪れたことはない)に寄贈されており、修復途上のため原本を閲覧できるものは多くないが、着座=家老級の重臣の系譜であれば、明治から大正にかけて編纂された『鳥取藩史』にまとめて記載されている。

◆南条家
東伯耆の豪族。山名家の被官から、尼子→(失領して流浪)→毛利→織田と、帰属先を次々と変えて戦国期を生き残り、南条元続は豊臣時代に羽衣石を居城として6万石を領知した。しかし元忠は関が原のとき石田方に与して改易、大坂城に入るも、冬の陣の際に徳川方に内応を試み、露見して切腹させられた。

◆鳥取藩
1632年から池田(相模守)家が32万5千石で入封し、因幡一国と大山領を除く伯耆国を統治。初代の池田光仲は徳川家康の外曽孫に当たり、松平の称号を与えられて準家門の格式であった。

◆鹿奴藩
◆若桜藩
江戸初期には両所とも大名が存在したが、1632年から鳥取藩池田家の所領となる。池田家には東館新田藩・西館新田藩と称される分家大名二軒が存在したが、いずれも鹿奴・若桜と直接の関係は持たなかった。そのため1868年に両家がそれぞれ鹿奴藩・若桜藩を自称するも、明治政府から正式な呼称として認められず、1870年には本家に吸収されて廃藩となった。

◆米子領
◆倉吉領
いずれも伯耆国内の城地であり、1632年から鳥取藩領となる。城主の荒尾家は尾張知多郡の豪族であり、荒尾成房は池田輝政の六重臣の一人となって、二男(池田光仲の父)忠継の附家老になった。成利・嵩就兄弟は光仲に随従して因伯へ移転、それぞれ米子城・倉吉城(幕府からは一国一城令の例外として認められた)を預かり、鳥取藩の家老を世襲する一方、各自の城では「自分手政治(事実上の領主としての自治)」を許され、両家とも明治に至った。

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