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2021年8月

2021年8月30日 (月)

何のための公益法人なのか?

プロスポーツの世界は、なかなか理念通りにはいかないものだ。美しい建前がある一方、その裏にはしばしば醜い現実が横たわっている。時として世間から批判を浴びるものの、しばらく経つと忘れ去られ、主役は次の世代へと移っていく。

これが世の常だと言われれば、そうかも知れない。

しかし、他方でそのスポーツの理念にのっとって、まっすぐな道をひたすら真摯に歩み、高みを目指すアスリートも少なくない。その人たちの努力が無になって良いはずはない。

だから、スポーツの理念に反するようなアスリートには、早く退場願いたいわけだ。

大相撲にもそんな力士がいる。特に私が強く感じるのが、「最強力士」白鵬である。

長い休場明けだった先の名古屋場所、千秋楽で大関(当時)照の富士を降し、全勝優勝を飾った。だが、多くの人が感じた通り、この相撲は「肘打ち」や「張り手」が目立つ見苦しい手段を重ねての勝利だった。前日の大関・正代との相撲も、土俵際ギリギリで仕切って相手を混乱させた異質の立ち合いであった。

この取り口を擁護する人もいる。立場によってそれぞれの意見があるだろう。

だが、私はこれを容認できない。

なぜなら、大相撲を主催する日本相撲協会は、「国技」である相撲道の普及をミッションとした公益財団法人であるからだ。もちろん、その実質は興業団体にほかならないが、公益法人格を帯びるプロフェッショナル集団である以上、守らなければならない規範がある。もし「相撲道」に反する攻撃を、これまで「禁じ手(反則)」と認めてこなかったのであれば、ルールそのものを改正するのが妥当だ。

そして、相撲は柔道・剣道との三択とは言え、中学校の体育の必修科目である。アマチュア相撲界では「張り手(ただし肩幅の外から距離を取っての張り手)」は禁止しているが、「肘打ち」は確か禁じ手と定められてはいない(もし私の記憶違いであれば訂正します)。なので、中学生が強そうな相手に負けたくないと思って、いきなら顔面に肘打ちを食らわしてケガをさせても、「禁じ手じゃないでしょ? 横綱だってやってるじゃない」になってしまう。「勝つためには何をやっても許される」見本を横綱が示しているのであれば、極端な話、たとえばキックボクシングの技術を持つ中学生力士が相手の頭を蹴っても、ルール上は問題がないことになる。これでは教育にならない。

数々のマナー違反を重ねている白鵬に、「注意」程度の弱い処分しかできないのであれば、何のための公益法人なのか?

これまでも心ある有識者から、ガバナンスの課題を数え切れないほど指摘されていた日本相撲協会。形式的に外部役員を参画させるのではなく、抜本的な改革を行わないと、世界のプロスポーツの潮流から取り残されるしかないであろう。

2021年8月22日 (日)

「山口で買うなら、や...まぁ...グッチか」「長州で贅沢税、徴収するぞ!」

【史料好きの倉庫(35)】

今回は「山口県(防長)の主要大名」の解説である。

過去四回訪県。最初は1989年で、萩・山口・秋吉台・長府を巡り歩いた。1992年に(福岡県とセットで)下関・防府、1995年に(島根県とセットで)須佐を周遊。直近は2003年、母に同伴した旅行(広島県とセット)で萩を再訪し、旅行する機会に乏しかった母に初めて日本海を見せてやることができた。

諸家の史料は山口県文書館が長州藩主・毛利家から寄託を受けた「毛利家文庫」に所蔵されている。系譜類は『近世防長諸家系図綜覧』『萩藩諸家系譜』(いずれもマツノ書店。筆者は前者のみ所蔵)の両書に詳しくまとめられており、前者には戦国期までの大内家や一門の系譜も収録され(ただし、大内一族の主要な諸家が軒並み滅亡して詳細が不明となっていたので、その後の新研究によって明らかになった点も少なくない)、後者で仁保(三浦)家をはじめ長州藩の(重臣以外も)上級武士の系譜を閲覧できる。

Choshuhan

◆厚東家
長門厚狭郡の豪族。平安朝中期から知られ、厚東武光が霜降に築城して拠点とした。武実が建武政府、のち室町幕府の長門守護となり、四代継承するが、義武のとき1358年に大内家の攻撃を受けて居城を失い、豊前に逃れるも次第に消息を絶った。

◆大内家
周防吉敷郡大内に興り、12世紀の大内盛房は周防権介に就任し、以後は在庁官人として勢力を拡大した。弘世は南朝方の周防守護に就任、室町幕府方に転じて厚東家を駆逐し、山口に拠点を築いて周防・長門両国の守護となった。義弘は三管・四職に次ぐ家格となり、持世のとき筑前を勢力圏に収め、豊前の守護も兼ねた。政弘・義興二代は中央の政局に関わりながら、領国の安定、対外貿易、文化の発展に努めたが、義隆は統治能力に欠け、陶晴賢の離反を招いて自殺に追い込まれた。義長は晴賢に擁立されて大友家から入嗣したが、1557年に毛利家の攻撃を受け長府へ逃れ、包囲されて滅亡した。

◆内藤家
都濃郡の豪族。鎌倉御家人であったが、内藤盛貞(肥後守)のとき大内家に服属し、長門守護代を世職とした。嫡家の隆世は大内義長に殉じて滅亡したが、隆春は姉の尾崎局が毛利隆元の妻であった縁により、毛利家の重臣として家を存続した。元盛は毛利輝元の密命を受けて大坂へ入城、夏の陣で徳川方に捕縛され自殺、息子の元珍も輝元の意思で切腹させられた。元宣は毛利秀就から再出仕を許され、子孫は長州藩重臣の寄組として1,300余石を知行した。

◆仁保(三浦)家
相模三浦家の一族である三浦(平子)重経が、源頼朝から周防国内に所領を与えられた。南北朝期には継続して室町幕府方であり、室町期の盛郷のとき大内家に服属した。隆在のとき毛利家に従属、元忠は毛利輝元の近臣から入嗣して16,000石余の高禄を与えられたが、養子の虎法師が没していったん無嗣絶家となった。元精が微禄ながら家を再興し、長州藩士として続いた。

◆毛利家→長州藩
鎌倉期の安芸吉田時代に始まり、領土の拡大、縮小、変更を経ながらも、途切れ目なく明治維新まで継続した大家(藩)である。そのため、通し番号は安芸時代から一貫させ、かつ輝元までは広島県のページにも重複させて掲載した。

◆毛利(伊予守)家→長門府中藩/豊浦藩
◆清末藩=毛利家
毛利元清は宗家から分かれて一家を創設したが、次の秀元は一時輝元の養子になったこともあり、関が原敗戦以降は長門府中を領する6万石の分家大名ながら、江戸幕府から准国持の特例をもって遇された。その嫡系は1718年、元矩が没して無嗣絶家となり、清末を領知していた分家の匡広が47,000石で長府藩を再興し、子孫は5万石の城主格大名となった。清末のほうは匡広の七男・政苗に分与され、両家とも明治まで続いた。

◆岩国藩=吉川家
吉川広家は徳川家康の謀略を受け、従兄・毛利輝元が関が原に参戦しないよう画策したが、戦後は思惑に反して家康が輝元の所領を112万石から36万石余に大減封したため、輝元との間に溝が生まれた。そのため長州毛利家から岩国領3万7千石(のち公称6万石)を分与されながらも、分家大名として承認・推挙を得られず、江戸期を通じて非大名の陪臣格(幕府からは特例をもって遇される)であった。幕末に至って領主の経幹が宗家と和解し、明治に入ってから(実は経幹の没後)長州藩の推挙を得て「岩国藩」となった。

2021年8月11日 (水)

「広島でこっそり芸を、披露しま...」「三原から、見張られるぞ!」

【史料好きの倉庫(34)】

今回は「広島県(芸備)の主要大名」の解説である。

学生時代に一人旅をしたのを皮切りにして、広島・三原・竹原・鞆・福山などの旧城下を目当てに何度か訪県。直近では2003年、母(2018年帰天)に同伴して広島に宿泊し、宮島を観光した思い出がある(画像)。

室町期の諸豪族は大部分が鎌倉御家人の庶流などの名族であり、その多くは毛利家に服属して戦国期を生き抜き、関が原の戦後は周防・長門へ移転したので、諸家の系譜は山口県文書館を訪れて調査するのが良い(各家とも、後世の編集・粉飾が施されている場合があるので要注意)。広島藩浅野家の記録は、散逸したり原爆で消失したりしたものもあるが、広島県立・市立図書館に所蔵されている史料を比較参照して、重臣をはじめ家臣諸家の系譜をたどることが可能。福山藩に関しては福山市図書館(未訪問)で調べられる。

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◆武田家
甲斐武田家の庶流。南北朝期の武田氏信から室町期の信栄までは安芸に本拠を置いたが、分郡守護にとどまった。信賢が若狭へ移転すると、叔父の元綱が安芸銀山城に拠って安芸武田を継承したが、子孫は大内家や毛利家に圧迫されて衰亡、信実のとき銀山を退去して(その後については諸説ある)、大名としての武田家は終焉した。

◆小早川(竹原)家
鎌倉期に分出した小早川家の庶流。惣領家(沼田高山城の小早川家)と対立することが多く、室町期の小早川弘景は一時期、将軍・足利義教の決裁で「惣領職」を得ており(惣領家の持平・煕平兄弟が抗争したため)、義教の没後に取り消されたものの、実力で高山城を攻略し、講和で惣領家の敬平に譲歩させた。隆景は毛利家から養子に入り、竹原家と惣領家とを併せて小早川家を統合、筑前へ転封されて豊臣政権の大老に就任している。後嗣の秀秋は浅野寧子(豊臣秀吉の妻ねね)の甥であり、関が原の戦で石田方を裏切って徳川家康の勝利を招いたが、情緒不安定となり若死にして絶家となった。

◆熊谷家
鎌倉御家人となった熊谷直実(一の谷の合戦で平敦盛を討ち取ったことで知られる)の子孫。直時のとき安芸へ下向して三入荘を領有、南北朝期には庶流の熊谷蓮覚が南朝方として奮戦している。嫡流家は足利方であり、戦国期には有力国人として武田家→大内家に随従、信直(伊豆守)のとき毛利元就の被官となって一門に列した。元直(メルシオル)は敬虔なキリシタンであり、関が原の戦後は毛利輝元の防長移転に伴い、自らの所領半減も甘受して萩城の構築に携わったが、益田元祥との些細な論争を口実に、輝元から兵を差し向けられ、斬首されて殉教した。2008年、ローマ教皇ベネディクト16世から列福され「福者(beatus)」の称号を贈られている。なお、孫の元貞は毛利家から家名再興を許され、寄組(重臣)の家系として明治まで続いた。

◆宍戸家
鎌倉初期の有力御家人・八田知家は安芸高田郡に所領を与えられたが、四男の宍戸家政は本貫の常陸宍戸にとどまった。朝家のとき本拠を安芸に移し、甲立五竜城を築いて勢力を張り、元家(安芸守)は常陸宍戸家から入って家運を興隆させた。戦国期の隆家は毛利元就の娘婿になって
毛利一門に列し、元続は関ヶ原の戦後、毛利家に伴って長門国内へ移転した。

◆天野家
鎌倉後期、伊豆→遠江天野家の庶流である天野遠顕が安芸賀茂郡志芳を所領とし、次の顕義が南北朝期に安芸へ下向して米山城を築いた。興定のとき毛利家の傘下に入り、元定は後嗣がなく毛利元就の七男・元政を養子に迎え、以後は毛利一門に列して、防長移転に従い周防三尾、のち右田へ移った。同族の金明山天野家も天野隆重のとき毛利家に服属し、元嘉以降は長州藩の上級武士として存続している。

◆村上(因島)家
室町期、能島村上家の一族である村上顕長が分出、代々安芸因島を本拠に水軍を保持した。吉充(二世)は厳島合戦で毛利元就に味方し、以後は毛利家の傘下に入って活動した。元充は毛利家の左遷に伴い周防へ移り、以後は代々、三田尻(旧能島)村上家の指揮のもとに長州藩船手組を務めている。

◆広島藩=浅野家
浅野長晟は長政(浅野寧子=北政所の義弟)の二男であり、大坂夏の陣の功によって和歌山から広島へ栄転し、安芸一国と備後半国を領知した。以後、代々継承して明治に至っている。忠臣蔵事件で知られる播磨赤穂の浅野家は、長晟の弟・長重に始まる分家である。

◆広島新田藩=浅野家
広島藩浅野家の分家であり、1730年に浅野長賢が宗家から蔵米3万石を分与され、藩主は江戸定府であり、青山内証分家と呼ばれた。最期の藩主・長厚は版籍奉還に際して宗家に合併し、華族の地位も辞退したので、旧大名の中では唯一、爵位を与えられなかった。

2021年8月 4日 (水)

「岡山に、おかまや、鍋持ち込むぞ」「倉敷で、暮らす気か?」

【史料好きの倉庫(33)】

今回は「岡山県(吉備)の主要大名」の解説である。

中学生の修学旅行で倉敷美術館を見学したのが最初。それ以降、数回行っているが、訪れた城下町は岡山・津山・高梁(坂を登るのがキツかったことを覚えている...)ぐらいである。2004年に亡き母を同伴して旅行、後楽園などを散策し、瀬戸大橋から四国へも渡っている。2015年には業界の勉強会に出席するため岡山へ遠征、JR伊部駅まで足を延ばして備前焼の里を見学し(画像)、翌日には拙著を購入してくださった介護者市民団体代表にお会いするため、倉敷までお邪魔した。

吉備地方の中世諸豪族の多くは、鎌倉~室町期の系譜が判然としておらず、戦国期の動向は各地に伝わる地誌や同時代史料等を参照する必要がある。岡山藩主池田家に関する史料は岡山大学「池田家文庫」に所蔵され、重臣をはじめ家臣たちの系譜は、同文庫所収「奉公書」等に記述されている。中小藩の藩主家に関しては、各自治体の図書館に照会するのが良い(全県にわたる所蔵史料のネットワークで調べられる)。

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◆浦上家
もとは播磨の豪族であり守護・赤松家に仕えた。嘉吉の乱で同家が没落した後、浦上則宗は再興のため尽力、赤松政則の不在中に領国の実権を掌握した。村宗は主家の赤松義村に反旗を翻し、1521年に義村を殺害、備前三石城を拠点に戦国大名となった。宗景は兄・政宗(争乱で被殺)と抗争し、1577年、間隙を縫って台頭した臣下の宇喜多直家に追放された。

◆荘家
備中の有力国人。戦国期に荘元資が猿掛城を拠点に勢力を張り、三代にわたって周囲の大勢力の間にあって存続し、三村家と抗争を繰り返したが、高資は三村家の監視下に置かれる状況となり、1570年、毛利家に松山城を攻略され戦死した。そのあと一族は帰農したと伝えられるが、系図上は毛利家から元清が入って穂田家となり、その息子・秀元は名字を毛利に復して長府藩の藩祖となった。

◆三村家
備中の有力国人。戦国期の三村宗親のとき成羽を拠点として、備中細川家の麾下で実力を伸長する。家親は毛利家に服属して備中の覇者となり、荘家の松山城に毛利家の代官格で在任しながら勢力を誇示したが、宇喜多直家に暗殺された。元親は毛利・宇喜多の和睦を好まずに背反し、毛利家の攻撃を受けて1575年に滅ぼされた。

◆宇喜多家
備前の国人であるが、戦国初期までの系譜は不明瞭である。宇喜多能家は浦上家の重臣として活躍するが、朋輩に攻殺され、興家は逃れて潜居したまま世を終えた。直家は浦上家に再出仕、謀略を用いて政敵を次々と滅ぼし、1570年には岡山城を築いて拠点とし、備前を乗っ取り美作を制圧し、織田家に服属した。秀家は豊臣秀吉の猶子となって574,000石を領有、大老として秀頼を補佐する立場になるも、家中ではキリシタン信徒(長船綱直・中村次郎兵衛・浮田太郎左衛門などが知られている)と日蓮宗信徒との対立が深まり、重臣たちが多数離反して弱体化した。関が原の戦で石田方の中心として奮戦するものの、惨敗して薩摩へ逃亡、のち幕府に出頭して八丈島へ配流され、子孫は明治に至ってようやく赦免された。

◆浅尾藩=蒔田家
蒔田広定は尾張の出身であり、豊臣秀吉から伊勢などに所領を与えられていたが、関が原の戦で石田方となって失脚。のち徳川家から許されて備中浅尾近傍に封じられた。定正は分知により8,316石となり、一万石を割り込んだため、子孫は代々大身の旗本として存続した。幕末の領主・広孝は1864年に高直しされて1万石となり、明治に至った。

◆足守藩=木下家
木下家定は浅野寧子(豊臣秀吉室「ねね」。高台院)の兄であり、秀吉のときに播磨姫路で25,000石を与えられ、関が原の戦後は備中足守に移された。勝俊は長嘯子と号し歌人として著名であったが、相続の不手際から所領を失い、足守領は勝俊の再従弟(=はとこ)浅野長晟に与えられた。長晟が兄・幸長の跡を継いで和歌山藩主へ転出すると、足守領は一時幕府預りとなった後、寧子の縁者であることから木下利房(勝俊の弟)が封じられ、再度木下家の足守藩が成立、明治まで存続した。

◆松山藩/高梁藩
前述の荘家や三村家の歴史に彩られた松山城は、臥牛山頂近くの高地にある山城である。江戸初期には備中国代官であった小堀正次とその子政一(=小堀遠州)が在城した。1744年以降は名門・板倉家の宗家が5万石を領知、幕末の老中・板倉勝静は戊辰戦争の際に、旧幕臣たちとともに五稜郭まで転戦して除封され、養子の勝弼が2万石を与えられて家を再興、明治に入り高梁藩と改称した。

◆岡山藩=池田家
江戸初期、岡山には徳川家康の外孫・池田忠継が28万石(のち38万石)で封じられ、年少であったが、隣国の播磨姫路の城主であった父・輝政が事実上管理していた。跡を継いだ忠雄(忠継の同母弟。32万石を継承)が没すると、嗣子の光仲は幼少のため因幡鳥取へ移され、代わって鳥取から従兄の池田光政が入封し、備前一国と備中の一部315,200石を領知し、山陽の大藩として明治まで続いた。

◆岡山新田藩/鴨方藩=池田家
◆虫明邑主 伊木家 その他5家
これらの7家は、池田(嫡系)家の分家・重臣であり、主家の転封に伴い、1600~17年は播磨(備前の一部を含む)、1617~32年は因幡・伯耆、1632年以降は備前(備中の一部を含む)と移転しているので、その経過を踏まえて理解されたい。

◆津山藩
1698年に松平宣富が10万石で封じられ、越前松平家の嫡流(越後騒動で改易された、もと高田藩主・松平光長の養子になった)として准国主並の格式を保った。途中、浅五郎が継嗣なく没したため、長煕は5万石に半減されたが、斉孝が将軍・徳川家斉の息子・斉民を養子に迎えたとき10万石に回復し、明治まで存続した。

◆成羽藩
1658年に備中成羽を与えられた山崎豊治は、一時期成羽藩主であった家治の二男であり、同家の丸亀藩主時代に分家して5,000石を領知していたが、宗家が無嗣絶家になった後に成羽へ移された。子孫は代々交替寄合として存続し、明治に至って治正のとき、高直しにより12,746石の大名となった。

◆鶴田藩=松平(越智)家
1866年、石見浜田藩主・松平武聡は第二次長州征伐に参戦したが、長州藩側の反攻を受けて浜田城を脱出し、翌年、飛び地である美作鶴田を仮の藩庁とした。その後は浜田へ復帰しないまま、廃藩置県を迎えた。

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