【史料好きの倉庫(33)】
今回は「岡山県(吉備)の主要大名」の解説である。
中学生の修学旅行で倉敷美術館を見学したのが最初。それ以降、数回行っているが、訪れた城下町は岡山・津山・高梁(坂を登るのがキツかったことを覚えている...)ぐらいである。2004年に亡き母を同伴して旅行、後楽園などを散策し、瀬戸大橋から四国へも渡っている。2015年には業界の勉強会に出席するため岡山へ遠征、JR伊部駅まで足を延ばして備前焼の里を見学し(画像)、翌日には拙著を購入してくださった介護者市民団体代表にお会いするため、倉敷までお邪魔した。
吉備地方の中世諸豪族の多くは、鎌倉~室町期の系譜が判然としておらず、戦国期の動向は各地に伝わる地誌や同時代史料等を参照する必要がある。岡山藩主池田家に関する史料は岡山大学「池田家文庫」に所蔵され、重臣をはじめ家臣たちの系譜は、同文庫所収「奉公書」等に記述されている。中小藩の藩主家に関しては、各自治体の図書館に照会するのが良い(全県にわたる所蔵史料のネットワークで調べられる)。
◆浦上家
もとは播磨の豪族であり守護・赤松家に仕えた。嘉吉の乱で同家が没落した後、浦上則宗は再興のため尽力、赤松政則の不在中に領国の実権を掌握した。村宗は主家の赤松義村に反旗を翻し、1521年に義村を殺害、備前三石城を拠点に戦国大名となった。宗景は兄・政宗(争乱で被殺)と抗争し、1577年、間隙を縫って台頭した臣下の宇喜多直家に追放された。
◆荘家
備中の有力国人。戦国期に荘元資が猿掛城を拠点に勢力を張り、三代にわたって周囲の大勢力の間にあって存続し、三村家と抗争を繰り返したが、高資は三村家の監視下に置かれる状況となり、1570年、毛利家に松山城を攻略され戦死した。そのあと一族は帰農したと伝えられるが、系図上は毛利家から元清が入って穂田家となり、その息子・秀元は名字を毛利に復して長府藩の藩祖となった。
◆三村家
備中の有力国人。戦国期の三村宗親のとき成羽を拠点として、備中細川家の麾下で実力を伸長する。家親は毛利家に服属して備中の覇者となり、荘家の松山城に毛利家の代官格で在任しながら勢力を誇示したが、宇喜多直家に暗殺された。元親は毛利・宇喜多の和睦を好まずに背反し、毛利家の攻撃を受けて1575年に滅ぼされた。
◆宇喜多家
備前の国人であるが、戦国初期までの系譜は不明瞭である。宇喜多能家は浦上家の重臣として活躍するが、朋輩に攻殺され、興家は逃れて潜居したまま世を終えた。直家は浦上家に再出仕、謀略を用いて政敵を次々と滅ぼし、1570年には岡山城を築いて拠点とし、備前を乗っ取り美作を制圧し、織田家に服属した。秀家は豊臣秀吉の猶子となって574,000石を領有、大老として秀頼を補佐する立場になるも、家中ではキリシタン信徒(長船綱直・中村次郎兵衛・浮田太郎左衛門などが知られている)と日蓮宗信徒との対立が深まり、重臣たちが多数離反して弱体化した。関が原の戦で石田方の中心として奮戦するものの、惨敗して薩摩へ逃亡、のち幕府に出頭して八丈島へ配流され、子孫は明治に至ってようやく赦免された。
◆浅尾藩=蒔田家
蒔田広定は尾張の出身であり、豊臣秀吉から伊勢などに所領を与えられていたが、関が原の戦で石田方となって失脚。のち徳川家から許されて備中浅尾近傍に封じられた。定正は分知により8,316石となり、一万石を割り込んだため、子孫は代々大身の旗本として存続した。幕末の領主・広孝は1864年に高直しされて1万石となり、明治に至った。
◆足守藩=木下家
木下家定は浅野寧子(豊臣秀吉室「ねね」。高台院)の兄であり、秀吉のときに播磨姫路で25,000石を与えられ、関が原の戦後は備中足守に移された。勝俊は長嘯子と号し歌人として著名であったが、相続の不手際から所領を失い、足守領は勝俊の再従弟(=はとこ)浅野長晟に与えられた。長晟が兄・幸長の跡を継いで和歌山藩主へ転出すると、足守領は一時幕府預りとなった後、寧子の縁者であることから木下利房(勝俊の弟)が封じられ、再度木下家の足守藩が成立、明治まで存続した。
◆松山藩/高梁藩
前述の荘家や三村家の歴史に彩られた松山城は、臥牛山頂近くの高地にある山城である。江戸初期には備中国代官であった小堀正次とその子政一(=小堀遠州)が在城した。1744年以降は名門・板倉家の宗家が5万石を領知、幕末の老中・板倉勝静は戊辰戦争の際に、旧幕臣たちとともに五稜郭まで転戦して除封され、養子の勝弼が2万石を与えられて家を再興、明治に入り高梁藩と改称した。
◆岡山藩=池田家
江戸初期、岡山には徳川家康の外孫・池田忠継が28万石(のち38万石)で封じられ、年少であったが、隣国の播磨姫路の城主であった父・輝政が事実上管理していた。跡を継いだ忠雄(忠継の同母弟。32万石を継承)が没すると、嗣子の光仲は幼少のため因幡鳥取へ移され、代わって鳥取から従兄の池田光政が入封し、備前一国と備中の一部315,200石を領知し、山陽の大藩として明治まで続いた。
◆岡山新田藩/鴨方藩=池田家
◆虫明邑主 伊木家 その他5家
これらの7家は、池田(嫡系)家の分家・重臣であり、主家の転封に伴い、1600~17年は播磨(備前の一部を含む)、1617~32年は因幡・伯耆、1632年以降は備前(備中の一部を含む)と移転しているので、その経過を踏まえて理解されたい。
◆津山藩
1698年に松平宣富が10万石で封じられ、越前松平家の嫡流(越後騒動で改易された、もと高田藩主・松平光長の養子になった)として准国主並の格式を保った。途中、浅五郎が継嗣なく没したため、長煕は5万石に半減されたが、斉孝が将軍・徳川家斉の息子・斉民を養子に迎えたとき10万石に回復し、明治まで存続した。
◆成羽藩
1658年に備中成羽を与えられた山崎豊治は、一時期成羽藩主であった家治の二男であり、同家の丸亀藩主時代に分家して5,000石を領知していたが、宗家が無嗣絶家になった後に成羽へ移された。子孫は代々交替寄合として存続し、明治に至って治正のとき、高直しにより12,746石の大名となった。
◆鶴田藩=松平(越智)家
1866年、石見浜田藩主・松平武聡は第二次長州征伐に参戦したが、長州藩側の反攻を受けて浜田城を脱出し、翌年、飛び地である美作鶴田を仮の藩庁とした。その後は浜田へ復帰しないまま、廃藩置県を迎えた。
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