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2021年10月

2021年10月29日 (金)

「香川県の池は、蚊が湧かん?」「多度津まで、たどっ...て調べろ」

【史料好きの倉庫(37)】

今回は「香川県(讃岐)の主要大名」の解説である。

過去、三回訪県した。一回目は1991年、高松市内から丸亀城などを散策。その後、所属団体の用事で再訪。2004年には亡き母に同伴して、電車で瀬戸大橋を渡って県に入り、金毘羅宮の門前町を散策した後、一緒に地元名店の讃岐うどんを賞味している。

中世の讃岐に興亡した諸豪族の歴史は、不完全ながら残存する系譜や同時代史料が頼みとなるが、守護・細川家に随伴して中央の政局に関与した者も多く、系譜上の混乱を免れない。近世の諸藩、特に多度津藩については香川県立図書館(未訪問)で史料を閲覧できる。高松藩松平家歴代当主の親族関係については、続群書類従完成会『徳川諸家系譜 巻3』に詳しい。

◆香西家
香川郡の豪族。讃岐守護であった細川(京兆)家のおもだった被官の中では珍しく、平安朝期から讃岐に土着していた家である。南北朝期、香西資忠は細川家の麾下に入り、元資は細川勝元の重臣となって応仁の乱を機に勢力を拡大したが、元長(元資の孫。嫡家を継がず)は京で細川澄之を奉じて対立勢力と戦い敗死した。讃岐の本領を拠点とした元定は、瀬戸内の塩飽水軍と結託して興隆期を現出するが、佳清のとき長宗我部元親の進攻に遭い、1585年には豊臣秀吉の四国征討を受けて滅亡した。

◆十河家
山田郡の豪族。古代の讃岐公の子孫とされる。室町期までの十河家は目立たない存在だったが、戦国期に入って十河景滋に後継がなく、三好長慶の弟・一存を養子に迎えたことにより、三好政権の一翼を担うことになった。存保は阿波守護・細川真之と抗争し、織田信長に服属を申し送ったが、長宗我部元親の進攻に遭い、豊臣秀吉に救援を求めた。1585年、存保は豊臣政権下で2万石を領知するも、九州征討へ出陣して戦死、所領は収公されて生駒親正に与えられた。嫡子・千松丸は1589年に毒殺され、十河家は断絶した。

◆高松藩
生駒親正は豊臣秀吉の四国鎮圧後、讃岐一国171,800石を与えられ、四代目の高俊に至ってお家騒動が勃発、出羽矢島へ配流されるに至った。松平頼重は徳川(水戸)頼房の長男であったが、事情により水戸藩の家督を継げなかったので、1642年に12万石をもって高松城に封じられ、幕府の顧問官「常溜」の家格を世襲して、明治まで存続した。

◆丸亀藩
山崎家治は近江の出身であり、豊臣政権下で栄転して丸亀5万石に封じられたが、三代で無嗣断絶となった。京極高和は出雲松江藩主であった伯父(実は父)の忠高が没した後、いったん播磨竜野に封じられて家名を継ぐことを許され、1658年に至って丸亀城を与えられた。石高は分知により揺れ動いたが、1694年以降は5万千余石に定着した。

◆多度津藩
丸亀藩主・京極高豊は死に臨み、継嗣の高或が幼少であったため、庶子である高通に分知することを遺言に残したので、1万石の支藩、多度津藩が発足した。実際に多度津陣屋を構築したのは、四代藩主・高賢のときである。

2021年10月 3日 (日)

「徳島で商売して、得しま(^^」「阿波でアワてると損するぞ!」

【史料好きの倉庫(36)】

今回は「徳島県(阿波)の主要大名」の解説である。

47都道府県のうち、最後に到達したのがこの県だ。1999年に兵庫県から高速バスに乗り、鳴門海峡を渡って、初めてJR徳島駅前に降り立ったとき、「全県制覇したぞ!」と感動したものだ。そのときは徳島城、大歩危と祖谷渓(画像右)、那賀川の平島公方墓所(画像左)などを観光した。数年後に所属団体の用事で同県を再訪している。

戦国期の阿波の豪族は、三好家の滅亡に前後して姿を消してしまい、地元に残る同時代史料を参照して系譜をたどるのが一般的であるが、多くは詳細が知られていない。蜂須賀家時代の史料は徳島大学(未訪問)に所蔵されている家臣成立書並系図がある。刊行された『徳島藩士譜』でも参照できるが、こちらは重臣も含め各家の歴代当主のみを記載した簡略なものである。

1999tokushima

◆三好家
戦国期「下剋上」の代表選手とされる一族。もとは鎌倉期に阿波守護であった小笠原家の庶流であり、室町期には細川家(阿波屋形)の守護代であった。三好長輝(之長)以来中央の政局に関与し、長慶は摂津・河内を拠点として細川政権に取って替わり、畿内の実権を掌握したが、家臣・松永久秀の台頭を許し、次代の義継に至って滅亡した。他方、阿波では長慶の弟である義賢が、守護・細川持隆を自殺させて勝瑞城の主となり、国政を執ったが、長治のとき細川真之(持隆の子)・長宗我部元親の攻撃を受けて滅ぼされた。

◆一宮家
三好家の同族であり、南北朝期から阿波一宮大宮司の名跡を継承し、武家と社家とを兼ねている。戦国期には三好家の傘下にあったが、一宮成祐のとき長宗我部元親に与して本領を安堵され、のち織田家に内応したため、元親に咎められ切腹させられた。子孫は蜂須賀家の時代に大宮司に再任し、名字を小笠原に改めて存続している。

◆赤松家(住吉領)
播磨守護であった赤松家の当主・則房が1585年に阿波住吉1万石に封じられたが、阿波一国の主・蜂須賀家の客分的な地位だったこともあり、統治の実態は未詳。則英は関が原の戦で石田方に味方し、戦後は自殺して廃絶した。

◆徳島藩=蜂須賀家
豊臣政権の参謀として知られる蜂須賀正勝(小六)の家系。蜂須賀家政が阿波一国を領知して渭津に居城を置き、関が原の際には石田方の毛利輝元軍に進駐を許したため、剃髪して隠居した。至鎮は徳川方に参戦していたので、戦後に所領を安堵され、大坂の陣の功により淡路を加増されて、二国256,940石の主となった。光隆のとき城の名を徳島と改称し、明治まで続いて廃藩置県を迎えたが、事実上の藩主の血統は、江戸中期から松平(高松)→佐竹→徳川(将軍家)と変転している。

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