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2021年11月

2021年11月15日 (月)

若き王者に声援を!

「竜王」は「名人(17世紀に創設)」と並ぶ、将棋界の最高峰のタイトルである。

1902年に十二世名人・小野五平が初めて、名人は当時の最高段位であった八段より上位だとして「九段」を自称したが、その後は名人すなわち九段相当と認識されたものの、段位もタイトルも設けられなかった。戦後すぐの1947年、読売新聞社(現称で統一する)が主催する「全日本選手権」が創設され、翌々年には「九段戦」も始まった(名人と九段とが番勝負を行って全日本選手権者を決定)。しかし、段位としての九段に昇段する棋士(名人経験者など)が何人か出たので、1962年には新たな「十段戦」に改編された。九段位・十段位は名人に次ぐ一般のタイトルの一つであったが、1987年には読売と将棋連盟との間で、名人位と同格である「一席(他のタイトル保持者より序列上位)」を認める合意がなされ(契約金の大幅増が条件だった)、竜王戦が開始されて現在(第34期)に至っている。

そして、竜王位も名人位も、他の六つのタイトルに比べると挑戦するまでの過程が長い。名人はA級棋士しか挑戦権争いに加わることができないので、まず順位戦でA級まで昇級しなければならない。竜王は誰でも挑戦できるので、若手棋士が飛躍する可能性はあるが、ランキング戦を勝ち抜いた上、さらに決勝トーナメントを勝ち上がり、挑戦者決定戦三番勝負で二勝しなければ挑戦者になれない。

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したがって、理屈から言えば、竜王位や名人位を獲得すると異論なく将棋界の覇者(の一人)と認められる...はずなのだが、多くの場合、現実にはそうならなかった。若い棋士が初めて竜王や名人になっても、まだ力不足のため他のタイトルに手が届かなかったからだ。それまでの間、先輩タイトルホルダーなどの棋士に「上座を譲る」ことも余儀なくされた。

初めて竜王または名人を獲得した棋士がそのまま第一人者となった前例は、直近で1972年、中原誠(永世五冠。敬称略、以下同)の名人位獲得(24歳)である。それまでは「大山康晴(名人・王位・王将)」と「中原(十段・棋聖)」だったのが(当時のタイトル数は5つ)、名人戦で中原が勝利したことにより、明確にタイトル数が入れ替わり、中原が過半を占めた。

その後、谷川浩司(十七世名人。1983年に21歳で名人)、羽生善治(永世七冠。1989年に19歳2か月で竜王)、佐藤康光(永世棋聖。1993年に24歳で竜王)、森内俊之(十八世名人。2002年に31歳で名人)、渡辺明(永世竜王・棋王。2004年に20歳で竜王)と続く大棋士たちは、みな最高峰の二つのどちらかで初タイトル、それも森内以外の人は20代前半までに獲得している(中原以降に両タイトルの片方または両方を獲得した棋士は他にも9人いるが、ここでは割愛する)。

しかし、これらの将棋史に残る大棋士のいずれもが、そこから複数冠保持者になるまでに年数を要しており、速い人でも一年半(森内)、遅い人は六年強(渡辺)掛かっている。羽生でさえ二冠獲得までには三年弱を要した。先輩棋士やライバル棋士が壁となって立ち塞がったから、すぐに誰もが認める覇者になれたわけではない。

ところが、この11月12~13日にかけて開催された将棋の竜王戦七番勝負第四局において、挑戦者の藤井聡太は、竜王であった豊島将之を破り、4勝0敗で竜王位を奪取した。19歳3か月の青年が、すでに保持している王位・叡王・棋聖と合わせて四冠となり、八大タイトルの半数を占め、名人である渡辺(棋王・王将)を凌いで、全棋士の序列一位となった。中原以来、実に49年ぶりの快挙である。

竜王になった時点で、すでに藤井は第一人者なのだ。しかも中原の名人就位に比べて五歳も若く、(49年前にはまだ竜王のタイトルが存在しなかったことを割り引いても)たいへんなスピード出世である。19歳と思えないほど品格も申し分なく、立ち居振る舞いはすでにして王者の風格を備えている。「羽生時代」が終わってから三年を経過して、疑いもない「藤井時代」が幕を開けた。

もちろん、先輩棋士たちがこのまま引き下がってはいないだろうし、藤井自身も負け越している相手もあれば、克服しなければならない課題も存在する。後輩たちの実力が追い付き、藤井のライバルとして覇を競う可能性も大きい。とは言え、年齢や伸びしろを考えると、しばらくの間は「藤井一強」を軸に将棋界が回っていくことは確実であろう。

若き第一人者の誕生を祝福しつつ、藤井竜王が初めて揮毫した「昇龍」の言葉通り、さらに精進を重ねて最高のパフォーマンスを発揮し、多くのファンを楽しませてくれることを心から願う。

(イラストはA&Pコーディネートジャパンのものを借用しました)

2021年11月12日 (金)

「高知の地鶏をコーチンと言ったら...」「土佐の人に笑われた、とさ」

【史料好きの倉庫(39)】

今回は「高知県(土佐)の主要大名」の解説である。

三十年も前、1991年に一度だけ訪県。高知城や播磨屋橋(画像)、また江戸期の支藩や土居(重臣の分封地)が置かれていた中村、佐川、安芸などを周遊した。

一条家は公家であったため、系譜は中央貴族の日記等の同時代史料に詳しい。長宗我部家時代の諸豪族はみな関が原の戦までに解体してしまい、歴代の詳細が不明なものもあり、藩政期に編纂された数種の史料が頼りである。土佐藩山内家について、一門や重臣の系譜は山内文庫や土佐国群書類従等に収録されている。これらの史料の多くはオーテピア高知図書館(以前の高知県立図書館、他館と合併して現在の形になった)に所蔵されており(筆者が県立図書館を訪問した当時は家老諸家の系譜が欠落していたが、いまは諸史料から補充されていると思われる)、中世・近世の主立った諸家の流れは、同館でまとまって調査することが可能である。

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◆一条家
関白であった公家・一条教房は退任後に幡多郡へ下向し、中村を居城として土着した。房家以降は代々土佐国司を世襲し、国内諸豪族の調整役も務めた。兼定は長宗我部元親に追放されて領国を失い、政親のとき家系は断絶したが、明治に至って京の一条家から実基が分家、土佐一条家の名跡を再興した。

◆安芸家
◆香宗我部家
◆大平家
◆山田家
◆津野家
◆吉良家
◆本山家
守護代の細川(遠州)家が16世紀初めに姿を消した後、国内に割拠した「土佐の七守護」である(長宗我部を数に入れ、香宗我部または山田を加えない説もある)。戦国期には一条家を国司と仰ぎながら、合従連衡を繰り返した。長宗我部国親-元親が勢力を拡大する過程で、これらの諸家を滅ぼしたり養子を送り込んだりして制圧していった。江戸期に子孫が郷士として残った家もあるが、前述の通り系譜が不明瞭になっているものも少なくない。

◆長宗我部家
長岡郡に興る。長宗我部兼光は鎌倉末期に岡豊城を築いて本拠とした。信能のとき守護・細川家に与力、元親(備前守)のとき国司・一条家と接近した。兼序は1508年、本山家など国人諸豪族の連合軍に攻撃されて敗死する。空白期間を経た後、再興した国親が家勢を回復して周囲の諸勢力を攻略した。元親(宮内少輔)は1575年に
土佐一国を統一、1585年には四国を制覇したが、豊臣秀吉の討伐を受け、降伏して土佐一国のみを安堵された。盛親は関が原の戦で石田方となって改易され、のち大坂へ入城して豊臣方として戦い、捕えられて処刑された。

◆山内家=土佐藩
1600年、関が原で徳川方として戦った遠江掛川城主・山内一豊が、戦後の褒賞として土佐一国を与えられ、高知城を築いたことに始まる。以後、同家は江戸期を通じて土佐の国主であった。幕末には豊信(容堂)が公武合体論を引っ提げて幕府の政策に関わったが、行き詰まって大政奉還の建白に転じ、明治維新を迎えるに至った。木造天守として現存する高知城は、同じ城主が築いた掛川城の復元工事の際に、たいへん参考になっている。

2021年11月 8日 (月)

「愛媛でコケた? え?悲鳴...」「宇和島で、うわっ!しま...ったと」

【史料好きの倉庫(38)】

今回は「愛媛県(伊予)の主要大名」の解説である。

自分でも意外なことに、学生時代(1985年)に旅行したのが唯一の訪県。宇和島城や松山城(いずれも現存天守)を見学し、道後温泉に宿泊した記憶がある。大洲や今治へも行きたいと思うが、なかなか機会がない(お金もない)。

中世伊予の諸豪族は来島(久留島)家を除き、大名として消滅してしまったので、系譜をたどるには同時代史料を比較参照するのが良い(ただし、西園寺家のように詳細が不明瞭な家もある)。近世には江戸前期から明治まで一つの家が通して統治した藩が多く、地元の自治体が史料を編纂する過程で収集した家譜や記録の類が調査の役に立つと思われる(私が実際に回ったわけではないので、関心のある方は県内の各自治体に照会されたい)。

◆河野家
鎌倉御家人、室町期の伊予守護。承久の乱で一時没落した後、河野通有が元寇の際に功を立てて勢力を回復。南北朝期に通朝が細川頼之の攻撃を受け敗死し、通堯は一時南朝方に味方するも、のち幕府に帰順して守護職に復帰、湯築城を本拠とした。戦国期には宗家と予州家との対立が続き、晴通が両家を統一するが、通直(兵部少輔)のとき長宗我部元親に降伏、1585年に豊臣秀吉から所領を没収された。

◆村上(能島)家
◆来島家
信濃源氏の一族には違いないが、南北朝期までの系譜は詳らかでない。室町期に村上義胤が伊予・安芸に跨る瀬戸内水軍の長として活動、子どもたちの代に能島・来島・因島(安芸)の三流に分かれ、戦国期には水軍の勢威を誇って近隣の諸大名と合従連衡した。能島村上家は毛利家に従属し、関が原の戦後は毛利家の左遷に従って周防三田尻へ移転した。来島家は豊臣秀吉から風早郡内に所領を与えられ、関が原では石田方に味方して徳川家康から所領を没収されたが、のち赦免されて豊後森へ転じた。

◆西園寺家
家名から察せられる通り、公家の閑院流西園寺家の一族である。西園寺公良が所領であった伊予宇和郡に下向し、公俊のとき松葉城を築いた。その後の系譜は異同があり判然としないが、実充のとき黒瀬城に本拠を移している。公広は長宗我部元親に降伏し、豊臣秀吉の四国征討により所領を没収され、1587年に至って、宇和郡に封じられた戸田勝隆に謀殺された。

◆宇都宮家
下野宇都宮家の一族。南北朝期に伊予喜多郡に土着し、宇都宮豊房のとき大洲城を本拠とした。戦国期の豊綱は喜多郡を一円支配し、河野家と争ったが、河野・毛利の連合軍に敗退して降伏し、所領を奪われてしまい、備後で客死した。

◆今治藩
藤堂高虎は豊臣時代に板島(宇和島)藩主であったが、関が原の功により国分山、のち今治を与えられて20万石を領知し、伊勢津へ転封した後も飛地として1635年まで今治を保有、養子の高吉に統治させた。その後、準家門の松平(久松)定房が3万石、のち4万石で今治に封じられるが、宗家の松山藩からは独立した大名として明治まで存続した。

◆大洲藩
関が原の戦後、脇坂安治が5万余石で大洲に封じられたが、安元のとき信濃飯田へ移転した。加藤貞泰は1617年、伯耆米子から6万石で大洲へ入封し、明治まで存続した。維新後に城は破却されたが、白石城(宮城県)・掛川城(静岡県)に続き、2004年に天守閣が木造で復元されている。

◆宇和島藩
1614年に伊達秀宗が10万余石で入封し、宇和郡一円を領知して明治まで世襲した。他の十万石級の諸藩に比べ、当主の官位が侍従、さらに(在任が長いと)少将と高いのは、幕府から伊達本家(仙台藩)に準じる「准国持大名」の格で遇せられたことによる。幕末の藩主・宗城は開明君主として著名。

◆小松藩
一柳直頼はもともと、西条藩一柳家から小松を分与され支藩として家を発足させたが、その本家のほうが1665年に廃絶してしまったので、以後は独立した大名として明治まで存続した。

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