「愛媛でコケた? え?悲鳴...」「宇和島で、うわっ!しま...ったと」
【史料好きの倉庫(38)】
今回は「愛媛県(伊予)の主要大名」の解説である。
自分でも意外なことに、学生時代(1985年)に旅行したのが唯一の訪県。宇和島城や松山城(いずれも現存天守)を見学し、道後温泉に宿泊した記憶がある。大洲や今治へも行きたいと思うが、なかなか機会がない(お金もない)。
中世伊予の諸豪族は来島(久留島)家を除き、大名として消滅してしまったので、系譜をたどるには同時代史料を比較参照するのが良い(ただし、西園寺家のように詳細が不明瞭な家もある)。近世には江戸前期から明治まで一つの家が通して統治した藩が多く、地元の自治体が史料を編纂する過程で収集した家譜や記録の類が調査の役に立つと思われる(私が実際に回ったわけではないので、関心のある方は県内の各自治体に照会されたい)。
◆河野家
鎌倉御家人、室町期の伊予守護。承久の乱で一時没落した後、河野通有が元寇の際に功を立てて勢力を回復。南北朝期に通朝が細川頼之の攻撃を受け敗死し、通堯は一時南朝方に味方するも、のち幕府に帰順して守護職に復帰、湯築城を本拠とした。戦国期には宗家と予州家との対立が続き、晴通が両家を統一するが、通直(兵部少輔)のとき長宗我部元親に降伏、1585年に豊臣秀吉から所領を没収された。
◆村上(能島)家
◆来島家
信濃源氏の一族には違いないが、南北朝期までの系譜は詳らかでない。室町期に村上義胤が伊予・安芸に跨る瀬戸内水軍の長として活動、子どもたちの代に能島・来島・因島(安芸)の三流に分かれ、戦国期には水軍の勢威を誇って近隣の諸大名と合従連衡した。能島村上家は毛利家に従属し、関が原の戦後は毛利家の左遷に従って周防三田尻へ移転した。来島家は豊臣秀吉から風早郡内に所領を与えられ、関が原では石田方に味方して徳川家康から所領を没収されたが、のち赦免されて豊後森へ転じた。
◆西園寺家
家名から察せられる通り、公家の閑院流西園寺家の一族である。西園寺公良が所領であった伊予宇和郡に下向し、公俊のとき松葉城を築いた。その後の系譜は異同があり判然としないが、実充のとき黒瀬城に本拠を移している。公広は長宗我部元親に降伏し、豊臣秀吉の四国征討により所領を没収され、1587年に至って、宇和郡に封じられた戸田勝隆に謀殺された。
◆宇都宮家
下野宇都宮家の一族。南北朝期に伊予喜多郡に土着し、宇都宮豊房のとき大洲城を本拠とした。戦国期の豊綱は喜多郡を一円支配し、河野家と争ったが、河野・毛利の連合軍に敗退して降伏し、所領を奪われてしまい、備後で客死した。
◆今治藩
藤堂高虎は豊臣時代に板島(宇和島)藩主であったが、関が原の功により国分山、のち今治を与えられて20万石を領知し、伊勢津へ転封した後も飛地として1635年まで今治を保有、養子の高吉に統治させた。その後、準家門の松平(久松)定房が3万石、のち4万石で今治に封じられるが、宗家の松山藩からは独立した大名として明治まで存続した。
◆大洲藩
関が原の戦後、脇坂安治が5万余石で大洲に封じられたが、安元のとき信濃飯田へ移転した。加藤貞泰は1617年、伯耆米子から6万石で大洲へ入封し、明治まで存続した。維新後に城は破却されたが、白石城(宮城県)・掛川城(静岡県)に続き、2004年に天守閣が木造で復元されている。
◆宇和島藩
1614年に伊達秀宗が10万余石で入封し、宇和郡一円を領知して明治まで世襲した。他の十万石級の諸藩に比べ、当主の官位が侍従、さらに(在任が長いと)少将と高いのは、幕府から伊達本家(仙台藩)に準じる「准国持大名」の格で遇せられたことによる。幕末の藩主・宗城は開明君主として著名。
◆小松藩
一柳直頼はもともと、西条藩一柳家から小松を分与され支藩として家を発足させたが、その本家のほうが1665年に廃絶してしまったので、以後は独立した大名として明治まで存続した。
« 「香川県の池は、蚊が湧かん?」「多度津まで、たどっ...て調べろ」 | トップページ | 「高知の地鶏をコーチンと言ったら...」「土佐の人に笑われた、とさ」 »
「旅行・地域」カテゴリの記事
- 「沖縄方言で『翁(おきな)』は?」「那覇ならオジーと言い...なは...れ!」(2022.12.29)
- 「鹿児島の人は、過誤しませんね」「薩摩じゃ、札、間...違えないから」(2022.11.27)
- 「宮崎から帰るのは、イヤじゃけ!」「飫肥は哀愁を、おび...てるよね」(2022.07.31)
- 「大分でコケたら、おお痛っ!」「竹田の人に、ケタケタ笑われるよ」(2022.05.30)
- 「熊本まで行...く、間(ま)、持っとるか?」「天草で、あんまん食うさ(^^;」(2022.05.22)
「趣味」カテゴリの記事
- 自作チャーハンの楽しみ(2023.08.12)
- 「62の手習い?」(2023.01.28)
- 「沖縄方言で『翁(おきな)』は?」「那覇ならオジーと言い...なは...れ!」(2022.12.29)
- モニタリング敗戦???(2022.10.25)
- 「鹿児島の人は、過誤しませんね」「薩摩じゃ、札、間...違えないから」(2022.11.27)
「日本史」カテゴリの記事
- 記憶/記銘力の自己診断(?)(2024.06.23)
- 「沖縄方言で『翁(おきな)』は?」「那覇ならオジーと言い...なは...れ!」(2022.12.29)
- 「鹿児島の人は、過誤しませんね」「薩摩じゃ、札、間...違えないから」(2022.11.27)
- 時代小説の虚実(2022.08.13)
- 「宮崎から帰るのは、イヤじゃけ!」「飫肥は哀愁を、おび...てるよね」(2022.07.31)
« 「香川県の池は、蚊が湧かん?」「多度津まで、たどっ...て調べろ」 | トップページ | 「高知の地鶏をコーチンと言ったら...」「土佐の人に笑われた、とさ」 »
コメント