【史料好きの倉庫(42)】
今回は「長崎県の主要大名」の解説である。
1989年と1997年、二回訪県した。いずれもカトリック教会を巡礼する旅であったので(画像左は一回目のときミサに参列した平戸教会、右は二回目のとき立ち寄った雲仙教会)、城下町は一回目に平戸、諫早(佐賀藩領)、二回目に大村、島原などを「ついでに周回した」程度である。
松浦・大村・五島・宗などの旧族大名が江戸期にもそのまま存続したので、各藩関係の系譜史料はそれぞれ平戸市・大村市・五島市・対馬市にある図書館や博物館で所蔵されている。ただし、他県の旧族大名同様、藩政期の家系が古い系譜類を作為している可能性があるため、閲覧には注意が必要である。有馬家・西郷家や竜造寺・鍋島家領の地域については、同時代史料や佐賀県で収蔵されている史料が有益である。イエズス会をはじめとするキリシタン関係の史料は、日本の大名を外から眺めたものとしては貴重だが、ローマ字転写の間違いや事象の誤解など、正確性に関する課題も多い。
◆宗家→対馬藩
対馬の在庁官人であり、惟宗氏の支族だと考えられる。鎌倉期には少弐家の地頭代→守護代であり、南北朝期の宗経茂が朝鮮貿易を掌握し、室町期の貞茂が島主権を確立して対馬守護を世襲した。一族は多くの支流に分かれ、戦国大名化した将盛・晴康はいずれも傍系から入って相続したため、系譜に混乱が見られる。義智は豊臣秀吉の命により朝鮮へ侵攻し、貿易は一時途絶したが、徳川家康の時代になり再び日朝の仲介役となって国交修復を果たした。義方以降は10万石格の国持大名となったが、朝鮮貿易の縮小により財政的に窮迫し、加えて幕末には英国やロシアの軍艦来航により、内外の情勢不安のまま明治維新を迎えた。
◆松浦家→平戸藩
松浦郡一帯に分布した巨族。嵯峨源氏の支流とされるが真偽は不明。平安朝末期、松浦直の子どもたちが多くの流派に分かれ、一揆=松浦党を結成した。嫡流は相神浦(あいこのうら)松浦家であり、元寇の際には定が一族を率いて奮戦している。南北朝期から庶流の平戸松浦家が台頭し、南北朝期には勝が平戸に築城、孫の真のときには嫡家に対抗して松浦を公称した。戦国期には嫡流家との抗争が続いたが、興信・隆信(道可)が嫡流家を降伏させて被官化、壱岐をも制圧した。鎮信(法印)はキリシタンの布教を承認、壱岐を併合し、豊臣秀吉、のち徳川家康から本領を安堵された。隆信(宗陽)のときキリシタンを迫害する一方、オランダとの貿易で利潤を得るが、鎮信(天祥)のときオランダ商館が出島へ移されたので、以後は他藩と変わらない財政構造を有する6万3千石余の平戸藩として存続した。幕末維新の際には明治新政府のため積極的に協力している。
◆五島(宇久)家→五島藩
宇久島に発する豪族であり、先祖は名族に仮託されているが、実は末羅国造の後裔か。平安朝の時期には松浦党に属していた。南北朝期の宇久覚(伊豆守)・勝(尾張守)父子の代には福江に本拠を築いている。戦国期の純定はキリシタンの布教を後押しし、純玄は豊臣秀吉から本領を安堵され、名字を五島と改めた。玄雅は関が原で徳川方となり、後にキリシタンを迫害して家の存続を図った。盛勝のとき富江領を分知して1万2千石余の五島藩となり、明治維新まで継続した。
◆大村家→大村藩
藤津郡・彼杵郡の豪族。出自ははっきりしないが、仁和寺の荘官として大村に土着した一族である。元寇のとき大村家信が活躍して台頭、室町期の純治のとき本拠地に築城した。戦国期の純忠はキリシタンに入信、天正遣欧使節の派遣元の一人となった。喜前は豊臣秀吉、後に徳川家康から本領を安堵され、キリシタンを迫害して領主権力を確立、2万7千石余の大村藩政の基礎を築いた。代々継承して幕末に至り、他藩に率先して明治新政府に協力した。
◆有馬家
高来郡の豪族であり、大村家同様、出自が不明瞭である。鎌倉期から南北朝期には日野江城を拠点として勢力を培った。戦国期の有馬貴純から晴純に至る時期には、周囲の諸郡に勢力を拡大した。晴信はキリシタンに入信し、天正遣欧使節の派遣元の一人となったが、竜造寺家に抗して所領を死守、豊臣秀吉に本領4万石を安堵された。しかし、秀吉の禁教令により打撃を受け、さらに徳川家康の時代には旧領回復を図って汚職事件に巻き込まれ、死に追いやられた。息子の直純は家康の養女の夫であったため連座を免れ、日向延岡へ転封されたので、有馬の地は松倉家の所領となった。
◆島原藩
島原半島の有馬家が左遷された後、日野江城には松倉重政が入封したが、次の勝家は苛政により島原の乱を惹起したので、乱の平定後に改易、斬首された。そのあと高力家の時代を経て、深溝松平家の松平忠房が1669年、栄転されて島原城に入り、18世紀の一時期(戸田家時代)を除き、代々島原藩を統治して明治に至った。
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