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2022年5月30日 (月)

「大分でコケたら、おお痛っ!」「竹田の人に、ケタケタ笑われるよ」

【史料好きの倉庫(44)】

今回は「大分県(豊州)の主要大名」の解説である。

1992年、他県を含めた旅行の最後に一度だけ行った。竹田市(岡城跡など)と大分市(府内城跡など)を訪れている。

中世の豊州(豊前南部、豊後)は大友家の領国であったが、同家が豊臣時代に没落したため、残されている文書のうち県史編纂時に活用された史料が主流である。江戸期の諸藩に関しては、県立図書館に府内藩の記録が所蔵されており、また中津藩、佐伯藩、岡藩などは刊行された史料が存在するが、各藩主家の系譜がどの程度詳細に記載されているか、個別に目を通したわけではないので、関心のある方はご自身で調査されたい。

◆大友家=豊後守護職
九州随一の「名門」であり、鎌倉期から豊臣時代まで大名として存続した。大友能直が源頼朝から豊後守護職と鎮西奉行の地位を与えられ、代々九州の御家人を統率する役割を担い、頼泰は元寇の際に現地へ下向した。親世以降は当主の系統が二分して争い、親繁のときに統合され、府内が居城となった。戦国期の親右・義長は領国経営の安定に努めたが、義鑑は内紛のため横死した。義鎮はキリシタンに傾倒するも内紛が収まらず、島津家の侵攻により耳川で大敗、豊臣秀吉から豊後一国を安堵されるが、吉統のとき1993年、文禄の役における命令違反を咎められて失領した。江戸期には高家として存続している。

◆中津藩
豊臣時代に黒田家が封じられ、関が原の戦後は入れ替わって細川家が入封したが、すぐ居城を小倉(福岡県)に移したので、中津は支城となった。1632年に小笠原長次が城主となり、1716年まで五代続いたが、その時期も事実上、小倉藩の支藩として位置付けられた。1717年に奥平昌成が10万石で中津へ入封し、ようやく独立大名の所領となり、明治まで続いた。

◆府内藩
江戸初期に府内藩主となった竹中重利は、豊臣秀吉の参謀であった重治(半兵衛)の弟であり、次代の重義は長崎奉行としてキリシタンを弾圧したが、1634年に不正行為を糾弾されて切腹させられた。1658年に松平(大給)忠昭が入封してからは、同家の領地として定着した。

◆岡藩=中川家
◆佐伯藩=毛利家
岡城主・中川秀成と佐伯城主・毛利高政は、いずれも豊臣秀吉のとき九州に封じられ、両家とも代々所領を守り、大名として明治まで続いた。全国的にも数少ない事例である。

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