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2022年8月13日 (土)

時代小説の虚実

私が愛読している本のうちに、佐伯泰英氏の『居眠り磐音・江戸双紙』シリーズがある。過去、NHK木曜時代劇でも『陽炎の辻』としてシリーズ化された。改作版が文春文庫から刊行されているが、私は双葉文庫の旧版のほうを全51巻揃えて所蔵しており、時折、好きな部分を読み返している。

この作品には、主人公である直心影流「尚武館」を運営する剣術家・坂崎磐音(架空の人物)の敵役の中心人物として、老中・遠江相良(静岡県牧之原市)藩主の田沼意次(1719-88)と若年寄の意知(1749-84)の父子が登場する。術策を弄して尚武館を破滅させようと企む二人は、権力に驕って国政を壟断する悪役として表現されている。実在の田沼父子はかつて喧伝された賄賂政治の代表格ではなく、むしろ開明政治家の代表であったことが、研究者によって明らかにされつつあるので、あくまでも小説の中の田沼父子ということになるのであろう。

ところで、この小説の第40~43巻で「鈴木清兵衛(すずき せいべえ)」なる人物が登場する。田沼父子に抱えられて「江戸起倒流」の剣道場を経営し、門弟三千人の隆盛を誇っていた。そして、尚武館や磐音に近い人たちに対し、繰り返し卑劣な攻撃(背後から忍び寄って突き殺すとか、毒矢を射かけるとか)を仕掛けるが、道場に乗り込んできた磐音との勝負に完敗し、武名が地に堕ちてしまう。この恥辱を逆恨みして身を隠した清兵衛は、最後の第51巻で再び登場し、またも卑劣な手段で磐音を殺そうとするが、逆に磐音に斬られて死ぬ。

さて、史実の鈴木清兵衛 邦教(くにたか。1722-90)は幕臣(蔵米100俵+月俸5口)であり、幕府の鉄炮箪笥奉行や西の丸裏門番頭を歴任した旗本なのだが、その姿はこの小説とは全く異なる。何よりも、清兵衛は「柔術家」であり、剣術家ではない(もちろん武士である以上、何らかの形で剣術は身に着けただろうが、それを業としていたわけではない)。

それどころか、「起倒流」は柔術の主流の位置にあり、後世の講道館柔道にもつながる大きな流れの中心だったのである。何代にもわたる伝統的な柔術を、師である滝野遊軒(貞高)から継承したのが鈴木清兵衛であり、弟弟子の竹中鉄之助であった(嘉納治五郎は竹中の孫弟子に当たる)。

「柔道(いまの柔道とは少し異なるが)」の名称を唱えた清兵衛は、多くの門弟を抱え、老中・松平定信をはじめ、高位の弟子何人かにも教えていた。単に身体の鍛錬のみならず、人の上に立つ武士としての道、健全な精神を目指した柔術指導をしていた。当時にあって尊敬される武術家の一人であったと言えよう。

したがって、清兵衛が剣術の勝負において卑劣な振る舞いをした『居眠り磐音』の記述は、全くの虚構以外の何物でもない。

田沼父子ほど名前が知られていないので、柔道や柔術に関心の薄い人は、小説に登場する見下げ果てた人物が実在の鈴木清兵衛だと信じてしまうかも知れない。これでは良くないと思ったので、事実を記載しておく。

(仮にも柔道史上で一時代を代表する人物である以上、佐伯氏も小説を書く際に少し配慮したほうが良かったのではないかと、個人的には感じている。故人には人格権が存在しないのだから、小説で何を書いても名誉毀損にならないと考えているのであれば、少し違うのではないか)

清兵衛について詳しく知りたい人は、ネットで史料の所在も検索できるので、時間を作って調べてみることをお勧めしたい。

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