回転寿司など飲食店内での、愚かな若者たちによる迷惑行為が、ネットで話題になっている。他人の、また共用の食べ物や飲み物に自分の唾液を付けたり、異物を吹き掛けたりする行為。おぞましい光景でしかない。
これらは「若気の至り」の愚行とは言っても、その多くは「犯罪」である。その行為が動画として拡散された結果、当該の飲食店を経営する企業は、株が暴落するなどの大きな打撃を受けている。巨額の損害を被った飲食店側が、客の減少を恐れず、行為の当人や保護者に損害賠償を求める姿勢を固めているのは当然だ。迷惑行為をした者も、動画を撮影して拡散した者も、単なる「悪ふざけ」では済まされないことを知るべきであろう。それは模倣犯などに対する一定程度の抑止効果を持つ。
ただ、これらの行為を愚かな若者たちの「承認欲求」の暴走としてではなく、若者たちが「食べ物を大切にしていない」事実から眺めると、別の構図が見えてくる。
そもそも、大人たちが東京五輪で余った弁当を大量廃棄している国で、その姿を見ている子どもたちや若者たちが、食べ物を粗末に扱うのは当然の帰結なのだ。
かつてのミラーノ万博(2015)でもリオ五輪(2016)でも、すべてではないが余った食料を調理し直してホームレスなどの困窮者に配分するシステムが働き、食物ロスを効果的に減らすことができた。東京五輪の組織委員会側の人たちは、これらの経験知に学ぶことを怠った。それどころかご丁寧に、配分の対象となり得る路上生活者の多くを、あらかじめ競技場建設のために周辺から立ち退かせてしまっていた(なお、新型コロナウイルス感染対策として競技が無観客試合に変更されたことにより、ボランティア人数が減ってしまったので、それが大量廃棄の主因になったと考えられるが、本稿でその構造的課題については論じない)。
これだけではない。最近は改善されているが、コンビニにおける「恵方巻」などの、売れ残った季節ものの大量廃棄も、心ある人たちからの批判の的になっている。また迷惑行為とまで言えないかも知れないが、インスタ映えのために食べ物の画像を撮影し、相当量を残して立ち去る人たちの行為も同様であろう。
さかのぼれば、1993年米騒動の際に、市民たちの多くが輸入したタイ米を廃棄した(無論、安易にブレンド米を推奨するなどの農政側にも多くの問題があったが、市民の責任はなかったとは言わせない)愚行の繰り返しだと言うことができる。
これらの状況を踏まえて考察すると、近い将来、日本国民が飢餓に直面しても、世界の人々は「日本には、本当は廃棄するほど食べ物はたくさんあるんでしょ?」と認識するであろうから、よほどの見返りでもない限り、輸出してくれないに違いない。つまり、「食べ物を粗末に扱う」意識が国民の間に浸透してしまっている現実は、日本の国際的孤立を招くかも知れないほど、憂慮すべき事態なのだ。
政策側がこのような国民意識の根本的な変革を図ろうとせずに、国連の提唱に乗っかってコオロギなどの昆虫食を軽々しく導入するのは、実に笑止千万である(真摯に昆虫食の開発に取り組む人たちを貶める意図は決してない。あくまでも政策の適否の話だ)。タンパク質の重要性を説きながら、余剰牛乳の活用に力を傾注しようともせず(安易に牛を殺すな!)、鯨肉の積極的な利用も推進していない(IWCがなんと言おうが、ある程度の鯨を捕獲していかないと、長期的には海の生態系が崩れる)。昆虫食導入の前に、日本国民がしなければならないことはたくさんある。
劣悪な食糧政策のために、私自身を含めた多くの国民が餓死しないことを願うばかりだ。
まず「食べ物を作ってくれた人たちに感謝して、決して粗末に扱わない」ことを、日頃から肝に銘じたい。
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