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2017年9月15日 (金)

「敵」だからこそ必要な窓口

北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)危機が、深刻さを増している。

米国は北朝鮮の挑発的行動に強い制裁を加える態度で臨み、日本もこれに同調している。これに対して、北朝鮮側は一層反発して、ミサイルや核兵器の開発をさらに推進している。

多くの日本国民から見れば、北朝鮮の核兵器・ミサイル開発は一方的な暴挙である。しかし立場を入れ替えれば、米国や韓国と休戦状態-いまだ戦争中-である同国に取って「当然の自衛措置」以外の何物でもないことも、また現実である。同国からはリビア(2011年、旧ガッザーフィ政権破滅)の例が引き合いに出されるが、むしろ私はウクライナ(2014年、クリミア半島喪失)の例のほうが北朝鮮指導部の核兵器開発への意思を加速させたと考えている。

ウクライナが旧ソ連から継承した核兵器を放棄してロシアへ移管した際に、ロシアに加え米国・英国が参加してウクライナの領土保全を約したにもかかわらず、親ロシア派による一方的な住民投票の形で、クリミア半島をロシアに奪われているのだ。もしウクライナが核兵器を保有していたら、展開は異なっていたとの思いは、北朝鮮指導部のみならず、世界の多くの人に共通するものであろう。したがって、米国側が「北朝鮮が核兵器を放棄すれば政権存続を保障する」との言明をしたとしても、北朝鮮側からは信用できないのは自明の理なのだ。

私は読者がご存知のように、防衛力強化論者である。明確な形でなくても、日本を事実上の敵国と見なして恫喝を続ける国に対しては、同盟国と連携しつつ、自らも着々と防衛能力を強化して、相手国から攻撃されにくい状況を作ることが必要だとの考えである。

しかし、それは「対話の窓口を閉ざしても良い」ことと同じではない。むしろ逆だ。味方ならば窓口はいくらでも作れる。「敵」だからこそ、対話の窓口をどこかに開いておくことが必要なのだ。特に北朝鮮危機は米国・韓国と防衛上の歩調を合わせることが求められるが、その中でも、日本として独自外交を展開できるための仕掛けはしておかなければならない。そうしないと、全面的な同盟国との一蓮托生になりかねない。

独自外交の余地を残しておくことは、決して同盟国に対する裏切りではない。むしろ状況によっては、同盟を補強する役割を発揮することもある。偶発的な事態が起こっても相手国側の真意を確認する術がなければ、かえって深刻な状況を招く恐れもあるのだから、パイプを残しておくことは必須であろう。

現在の政府与党が北朝鮮との間にどの程度の広さの窓口を持っているのか、判然としない。おそらく何らかのパイプはつながっていると推測されるが、自民党内の右派勢力が強くなれば、パイプは細く頼りなくなるかも知れない。

東京新聞の望月衣塑子記者が政府の記者会見の場で、「北朝鮮の要求に応えるような働きかけを米国・韓国に対してやっているか?」と質問したことは、右派(特にネット民)から一斉攻撃されているようだが、政権与党が独自外交をする用意があるのかを質す意味では、鋭い視点だったと思う(ただし、同記者は被選議員でもないのに私見・憶測を述べて記者の本分を逸脱したり、限られた質問時間を独占したりと、他の問題があるので、基本的に氏のスタンスを私は支持しない)。菅官房長官は「北朝鮮に聞いてくれ」とはぐらかしたようだが...

この後、アントニオ猪木議員が訪朝して、北朝鮮の複数の幹部と対談したことは、対話するパイプを維持しておくためには大きな意味のあることだ。少なくとも北朝鮮側からは、日本側に対し窓口を開いていることを示したことになる。猪木氏が構想している議員団の訪朝が果たして現実的なのかは何とも言えないが、氏の見解「日本側が窓口を閉ざしているのでは」は正鵠を射た指摘である。猪木氏を北朝鮮の傀儡だと非難する見解は、全くの的外れであろう。

その窓口を北朝鮮側が有利に使おうとしたら、日本側は毅然として自国の主張をコンフロントすれば良い。国内の「親北勢力」に配慮する必要はない。テーブルに示した相互の主張が本当に折り合えない内容であったら、平行線をたどるのはやむを得ないが、テーブルそのものを壊してしまってはいけない。

今回の危機は、総理をはじめ閣僚、関係議員、官僚の人たちも難所だとは思うが、何と言っても全国民の生命がかかっているのである。高度な政治的判断を誤らず、主権国家日本に取って最善の道を賢明に選択してほしいと願う。

2016年6月 5日 (日)

「仁義なき政争」

・・・日頃は、自分たちこそが平安(ヘイワ)主義者だと称している政治家たちが、その信条を否定しかねない相手に出くわすと、「死ね」などと汚い言葉で罵倒し、反対勢力を黙らせるため、場合によってはお抱えの暴力集団さえ使用して恥じるところがないのだ。これまでの「法(のり)」そのものに瑕疵があったことを棚上げして、安倍氏がそれを破ったことに難癖を付ける行動は、筋道から外れた挑発としか思われない。外部勢力と結託して安倍氏を攻撃する行為まで、自分たちの目的のために正当化してしまっているのだから、もはや仁義を踏みにじる無法勢力と変わるところがないではないか!・・・

おっと! 酔った勢いで「前九年の役(1051-62)」の話をしてしまった... f(^_^;)

21世紀に話を戻そう。

まず、現政権による政策のすべてが良いとは、もちろん私も思わない。社会保障政策などには、当事者の立場から見て「No!」と言いたい部分がたくさんあることは事実だ。

しかし、政権批判をするにしても、議会制民主主義の基本原則にのっとった方法でするのは当然である。

振り返ると、昨年秋の国会内外において安保法制に反対する勢力の動きには、(国会前デモの妥当性を否定する意図はないが)多くの場面で、基本原則から逸脱した言動が見られている。具体的には、政権側の一つの政策の是非を論じるのが真の目的ではなく、政権打倒を目的にする人たちが、純粋な「安保法制反対論者」とは異質の行動原理によって動いているという意味である。

今年に入ってからも同様な状況が続いている。先の「介護離職についての考察(2)」で示した保育所問題に関する論議も、その一例だ。政権の子育て政策の不備を攻撃していた第一野党の幹部議員が自身の燃料費疑惑を追及されると、こんどは第一野党側の市民活動家たちが一斉に、現総理の燃料費支出が著しく過大であると騒ぎ立てた。一国の総理が国を代表して内外を動き回るためには、さまざまな交通機関で膨大な燃料費を要するのは当然であり、与野党が逆になれば逆の結果になる。現総理は外遊時の宿泊費用も、あの渦中の東京都知事に比べると、何分の一かに抑えており、むしろ無駄遣いを控えるべく配慮していると言えよう。

第一野党の幹部議員が燃料費を浪費するなど公人として不適格であれば、まず更迭すべきであり、代わりに育児問題に該博な他の議員が中心となって、この問題を政権側と議論しなければならない。しかし、そのような段取りを履まずネガティヴ‐キャンペーンに終始するのであれば、幹部議員の行為を正当化して地位を温存させたい党利党略主義としか受け取れないではないか。

さらに、先日のサミットで抽出された課題に関する第一野党の政権攻撃は、お粗末としか言いようがない。英国の風刺画に津波の姿をした「愚か者」として描かれた前ロンドン市長の顔を、日本の現総理の顔と間違える。「the financial crisis」がリーマン‐ショックの意味であると知らずに、英語版資料にリーマン‐ショックが出てこないからこれは政権側の情報操作だと騒ぐ。とにかく目に入った材料を何でも政権の揚げ足取りに使って自爆するという、官邸からも失笑を買う一連の行為は、心ある市民を落胆させるに十分過ぎるほどであろう。

強固な支持基盤を持つ別の某野党は、こんな第一野党の足元を見透かして、反政権側勢力での存在感上昇を果たしつつある。しかし某野党には、現総理にヒトラーのヒゲを付けた顔をドラムに描いて叩きまくった元ロッカーの議員に象徴されるように、何が何でも現政権を「極右」と位置付けてイメージダウンさせようとする意図が見え見えである。

また、同じ反政権側勢力の一部は、悪質なプロパガンダも展開している。

沖縄の女性殺害事件をめぐる対応で、米軍関係者の家族たちが、祈りの言葉を書いたプラカードを掲げて路上に立ち、頭を垂れている光景が報道された。N教団(米国に拠点)が関係者に呼びかけて主催した和解へ向けての行動である。ところが、反政権側の活動家たちは、この行動の中心人物がK教団(日本に拠点)幹部と握手して、もらったバッジを付けていたことから、K教団が人々をダマしていると強弁しているのだ。日米安保を維持・推進する勢力(政権与党に近い側)を攻撃する材料が見つかれば、なりふり構わず持ち出すのであろうか?

そもそも、N教団であろうがK教団であろうが、宗教団体が争いを煽るのならともかく、異なる立場の人たちの融和を図る活動が、なぜ「ダマす」ことになるのか? これがもしN教やK教ではなく、私の信仰であるカトリックを指した発言であったら、悪質な誹謗中傷として容認できないであろうし、私の知人や私と同じ団体の成員の発言であれば、撤回と謝罪を要求するであろう。しかも「ダマしている」と言い放った個人・団体の中には、九州の国立大学の教員まで含まれていることを確認している。この教員の専攻は人権教育であり、反差別教育も含まれているというから驚きだ。特定の宗教の信者を差別視する人間が反差別教育をすること自体、お笑いものではないか。
(K教団は過去、国内で悪質商法とされて訴訟が起こされたことがあるが、仮に宗教団体にそのような側面があったとしても、信仰とは別の事案として対応されるべきものであることは、拙著『口のきき方で介護を変える!』中に明記した。もしこの教員が両者を分別する能力を欠いているのならば、資質自体に重大な疑問がある)

ヘイトスピーチに反対だと称する人たちが、他方で「ヤンキー(米軍ではなく米国人)‐ゴー‐ホーム!」とシュプレヒコールを揚げるのも同様である。タレントや商社員など軍関係者でない米国人が心ない罵声を浴びている事実も報告されている。政権反対なら何でも正しいという身勝手な論理を通したい人たちが、このような愚かな行為をするのだ。朝鮮半島の人たち、フィリピン・ブラジル・ペルーなどの人たち、米国人たち、どこの人たちに対するヘイトスピーチも、許されてはならないのは当然だ。

長々と述べてきたが、一言で言えば「仁義なき政争」である。相手方を叩き落とすためには何でもアリになってしまっている、ということだ。

現政権与党が野党だった時期にも、逆のアクションがなかったとは言わない。しかし、いまの反政権側に比べると、基本原則からの逸脱はかなり少なかった。だから愛想をつかす市民が少なく、政権奪還に成功したとも取れる。

私がいまの時点で支持する政党は、政権与党の二政党のどちらでもない。だからと言って、自分が支持する政党の政策がすべて正しいとは思わない。賛同すべきところは賛同し、批判すべきところは批判しながら、他の諸政党と比較して最も自分の考えと共通する部分が大きい政党として認められる場合、はじめて一票を投じるつもりだ。

当地・浜松における私の友人・知人にも、さまざまな政党の支持者がおられる。少なくとも私が日常的にお付き合いしている方々は、おおむね民主主義の基本原則を履んだ議論の応酬ができる、良識のある方々なので、逸脱行動はされないと信じているが。

「仁義なき政争」は横目で見ながら、冷ややかにスルーした上で、自分の信条に従い、民主主義の基本原則にのっとって、政治的な意見を述べていきたい。それが成熟した民主主義社会において市民の取るべき態度であると考える。

2015年9月12日 (土)

二分割思考の落とし穴

このたびの大雨により、当地・浜松では、一部地区に冠水があったものの、被害は少なかった。他方、茨城県をはじめ、北関東や南東北のいくつもの地域が、河川の堤防の決壊、冠水などにより、甚大な被害を受けた。水害被災地の方々には、心からお見舞いを申し上げたい。

さて、このようなときに決まって登場するのが、メディアやネットを媒介にした、「犯人は〇〇だ!」型の論説である。特に事案発生直後は、飛び交う情報も玉石混淆であるから、なおさらこの類の論説が大手を振ってまかり通ることになりやすい。

今回の水害について言えば、おもに前政権に連なる人たちが非難の対象とされている。具体的には、防災に関する公共事業を仕分けした人たち、自衛隊(救助に当たる人たち)にかける費用を削減した人たち、太陽光発電を推進した人たちや、それらの政策に乗って実際に作業をした人たち、たとえば堤防を削ってソーラーパネルを設置した事業者などが標的として叩かれている(逆に、現政権側で非難されている人たちもいるが、概して少数である)。その中で、個人名や事業者名まで槍玉に上がっている。

特に、いま安全保障法案に関して現政権が反対派側(前政権側を含む)からの強い批判にさらされているだけに、このたびの水害は、政権を支持する人たちが反撃して前政権側の「愚策」を批判する格好の材料になっている。

もちろん、上に挙げた人たちの多くには、それぞれ責任の一端はあるだろう。政権を取った驕り、政権に連なる驕りから、長期的な展望を欠いた施策や事業を一方的に推進した人たちもいることは確かである。良かれと思って推進したことが裏目に出て、拙策となってしまった面もあるかも知れない。

しかし、特定の政党や事業者を「犯人」として叩く考え方は、「情報を操作したい」人たちの罠に陥りやすいのだ。

これは日本人に特有な思考体系であり、「二分割思考」と呼ばれている。白と黒、善と悪、正と邪、純と不純などが代表的なものである。

「悪玉」を叩くことで、「善玉」を支持する市民は快哉を叫ぶ。しかし次に起こるのは、「悪玉」を排除する運動である。たとえば、政策の思惑と関係なく、科学的な論証に基づいて真面目に(住民に迷惑を掛けずに)太陽光発電を推進したい事業者が、地域で不当な権利侵害を受ける。あるいは、客観的な根拠に基づいて、自衛隊の本当に不要な設備の削減を主張した論者が、ネットで攻撃されて炎上する。

また、「悪玉」=「真犯人」ではないことが多い。今回の水害も、巨視的に見れば地球温暖化の大きな影響の一つとして、日本上空に線状降水帯が発生したことによるものである。この気候変化を作り出したのは、長期的に温室効果ガスを排出してきた、日本を含む先進国の国民すべてである。一定以上の年齢の人であれば、あなたも、私も犯人の一人ということになる。

この気候変化が不可逆的なものであれば、犯人探しよりも、より被害を少なくする減災対策が急がれるものであり、悪玉を叩いている暇があったら、国民全員で効果的な対策を議論していくほうがよほど建設的だ。もちろん、まさしく既往の愚策や拙策があれば、これを望ましい方向へ転換させていかなければならないのは当然であろう。悪玉叩きがくだらないと言っても、批判された人たちが現実を無視して開き直っても(誤ったことを続けても)構わないと言っているのではない。

私が強調したいのは、市民の思考が誤った認識に基づいて進展してしまうと、事案の根本的な解決から遠ざかってしまうということだ。「二分割思考」にはそのような落とし穴があることを、多くの人たちに理解してもらいたいのである。

この「二分割思考」についても、近刊の自著(第7章)で述べておいた。世に出るまで、いましばらくお待ちいただきたい。

2013年10月10日 (木)

「きりすて教」信者の人間に告ぐ!

10月7日、京都地裁で画期的な判決が下されました。朝鮮学校やそこに通う生徒たちに対して、街宣で「ヘイトスピーチ(憎悪の言葉)」を繰り返していた団体に対し、損害賠償を命じるものです。この団体は2009年、両親が在留特別許可を認められなかった(中学生の女の子には許可が下りた)フィリピン人一家に対する悪質な街宣活動を繰り返したことでも知られています。これをはじめ、数多くの機会にいくつもの国の(日本に在住する)人々に対し、数々の暴言を織り交ぜたシュプレヒコールを展開しており、良識ある人々から非難されています。

私は個人的には日本の外交・国防を強化すべきという考え方に立っています。わが国は、過去、日本の侵略戦争により迷惑をかけた国からの要求であっても、筋が通らない内容であれば断固として突っぱねるべき、また一方的な「反日」宣伝を許さないための積極的なロビー活動を展開するべきであると考えています。

しかし、たとえ日本国とある国、A国との関係が悪化している、あるいは断絶状態にあるからと言って、日本に居住しているA国やA国系の善良な人たちが、肩身の狭い思いや、いたたまれない思いをすることがあってはなりません。A国からの一部の日本在住者が、もし本当に「反日」の主張をしているのであれば、それには別の法令や社会規範に基づき粛々と対応すべきでしょう。裏を返せば日本人には、日本の風土を愛するA国の人に快適な生活を送ってもらう責任があります。とにかく民族的憎悪を煽る「ヘイトスピーチ」は許されない、これは先進国であれば当たり前の常識と理解すべきなのです。

その意味で、上記の判決を歓迎すべきことは言うまでもありませんが、この問題の背景には「人種差別」「民族差別」にとどまらない大きな問題をはらんでいます。いわゆる「誰かを叩かなければ気が済まない人たち」の存在です。

たとえば、すでに述べた「生保受給者」の問題。「あいつらがいるから自分たちの権利が奪われて(縮小されて)いる」と思う(思わされてしまっている)市民が少なくないという現実があります。人によってそれは「働くシングルマザー」であったり、「引きこもりの人々」であったり、「精神障害者」であったり、さらには「認知症の高齢者」であったりと、さまざまです。冒頭に述べた団体に参加、共鳴する人たちにとってみれば、「在日外国人」が自分たちの「権利を横取りする、憎むべき連中」なのでしょう。

悲しいことに、社会の閉塞感が、少なからぬ日本人の心の中にこの「排除の論理」を形成してしまっているようです。そのような論理で行動する人たち、それに共鳴する人の頭の中には、連鎖的に「信仰」と言っても良いほどの、強固な観念が根を張ってしまいます。「キリスト教」ならぬ「きりすて教」と表現しても良いでしょうか?

この「きりすて教」信者の皆さんに問いたい。

「同じ社会に住む人を排除することで、本当に実りある豊かな生活ができるんですか?」

いま、あなたは排除する側の人間かも知れない。しかし、あなたがそのような論理を認めるということは、将来、あなたが何らかの事情で排除される側になってしまっても、それを受け止めるということでしょうか? そのようなイマジネーションを働かせることができず、単に自分たちの間尺に合わない人たちを切り捨てようとするのであれば、おなたの心は何と貧弱なことでしょうか?

「きりすて教の信者よ! 次に切り捨てられるのは、あなたです!」

2013年7月 6日 (土)

誰かを叩かなければ気が済まない人たち

フィギュアスケートの元世界女王(2回)・安藤美姫選手が4月に女の子を出産したとのこと。親族など周囲との意見の違いを乗り切って、子どもの命を守った選択には、心から祝福し、拍手を送りたいと思います。

ところが、この素晴らしい生き方に水を差すどころか、批判、さらに誹謗中傷するような人たちが、少なからず存在することは現実です。

まず、穏当なところでは、「五輪を目指すのであれば、妊娠・出産そのものに慎重であるべきだった」というもの。これはまっとうな意見のように見えますが、実はおかしい。そもそも、安藤選手は元・世界女王とは言え、現在は日本スケート連盟の強化選手ではありません。強化選手が五輪を目指すための費用を支給されているのに、自分の身体能力に影響を及ぼす選択をしてしまい、それを隠していたというのであれば、批判の対象になり得ますが、強化選手でない以上、安藤選手には国民に対する何の責任もないはず。これほどの実績を持つスケーターですから、五輪を目指す以上、あらゆる阻害要因を回避してほしかったという人たちの思いはともかく、批判するのは筋違いでしょう。

次に、「アイスショーで稼げるビッグなスケーターなのに、ファンに出産を隠していたのは道義的に問題ではないか」とする考え方。ファンの心理が理解できないわけではありませんが、あくまでも妊娠・出産はショーやメディアへの露出を休止している間のできごとですから、別に安藤選手がファンを裏切ったものではありません。事実をいつ開示するかどうかは本人の判断でしょうし、子どもを産んだからもう安藤選手のファンをやめるという人がいたら、その人はもともと真のファンではなかったということです。

そして問題なのは、この話題についてスキャンダラスな報じ方をする一部のメディアと、それに煽られて誹謗中傷を行う一部のネットユーザーなど、モラルに欠ける人たちでしょう。安藤選手が静かに見守ってほしいと希望しているのに、子どもの父親の素性をほじくり出そうとしたり、女性アスリートが未婚の母となったことをおとしめたりするような連中。

この人たちの心の中は、どれほど荒涼とした風景なのでしょうか? ほんの二年余り前、大震災の直後、開催会場までホーム(日本)からアウェイ(ロシア)に変えられてしまった世界選手権で、かつての五輪女王を破って世界女王に返り咲き、傷ついた祖国の人々の自信を取り戻してくれたヒロインに対する、敬意のかけらも見られませんね。さらに、子どもの人権をどう考えているのか?

安藤選手をおとしめるメディアや誹謗中傷する人たちの多くは、「誰かを叩かなければ気が済まない人たち」ではないでしょうか? つまり「あいつが悪い!」{「あいつが変だ!」と叫ぶことで、閉塞感から解放されたいという人たちです。しかし、このような知的体力に欠ける思考の近くには、大きな罠が隠れています。先般、「生保騒動」でも触れましたが、国民感情を扇動して政策への支持を固めようとする人たちの画策です。誰か「悪い人(たち)」を作っておいて、「こういう人(たち)を出さないために、政策をこちらへ向けましょうね」というアピールです。

祝福されるべき安藤選手の出産への卑劣なバッシングが、一部地域の保守的な政治家や教育者が推進している時代錯誤的な「子どものため、常に親が家に居るべき」という動きを促進させ、働きながら子育てをする女性たちの肩身が狭くなる事態を招くことがないように、願っています。もはや少子高齢化対策は待ったなしの段階なのですから。

2013年5月11日 (土)

生活保護受給を「恥ずべき行為」におとしめる「恥ずべき人たち」

2012年4月、ある国会議員による、ある芸能人(高額所得者)の親の生活保護受給への批判を皮切りに、一連の「生保騒動」、そして現政権による保護費切り下げへと、情勢が動いていることは、ご存知だと思います。

ところで、この一連の「生保騒動」、本当はどのような構造だったのか、皆さんは頭の中で整理できているでしょうか?

まず、「不正受給」、あるいは「適正と言えない受給」は、あくまでも個別の受給者に関わる問題です。すなわち、AさんならAさん、B世帯ならB世帯という受給者に対し、自治体の担当部局が適・不適を判断して対処すべき問題です。AさんやB世帯が不適正な受給をしていたからと言って、生保受給者全体が集団として批判されるいわれは全くありません。そもそも、保護基準に該当し、行政が審査の結果、適正と認めた受給については、虚偽や隠蔽が行われていない限り、不正でも何でもありません。

次に、「適正に受給しているが、使途が制度の趣旨にそぐわない」という問題。飲酒したり、パチンコに興じたりするのが、受給者の自立支援に沿っているのかということですね。

これには二つの課題があります。まず、生活保護費の使い方に関する適切な指導が十分になされていないことです。行政のケースワーカーの数は限られており、専門性が高い人ばかりではありません。生保受給者の自立支援に携わるNPOや独立型社会福祉士などの活用も、いまだしといった状況です。この状況で、受給者すべてに聖人君子のような生活を送れなどと要求するのは、全く現実を無視したものです。

もう一つは生保の「補足性の原理」。すなわち、足りない部分を補うという原則です。就労することで収入が生じると、その部分が保護費から削減されます。しかし、実際には受給者が就労できたからといって、すぐに常勤社員になれるわけでもない。ほとんどの人は非常勤の期間雇用という不安定な身分で仕事をして、そこから常勤社員への「昇格」を目指さなければならないのです。その前の時点で保護費を削られてしまえば、スキルアップのためにかけられる費用も確保できず、地位向上も望めず、結局は雇用の調節弁として扱われてしまい、失職を余儀なくされることになってしまう。真の「自立」の段階に至るまでの経過措置期間を支えるシステムが欠如しているのに、「仕事が続かない」受給者の側を批判の対象にすることは間違っています。

さらに、この「生保騒動」、そもそも「騒いで」いるのは誰なのか? という点です。

私は現在、所得税と地方税とを合わせて、年間およそ24万円を納税しています。しかし、私から見るとケタ違いの収入があって、年間2,400万円納めている人もいるでしょう。この高額納税者にとってみれば、自分が納める税金のうち、生保受給者のために「使われてしまう」金額は、私の100倍にもなるわけです。したがって、生保に「ムダな(と称されている)」お金をかけないことが、結局は自分たちの税金をより「有効な(と称されている)」方面に使うことに直結します。

でも、よく考えてみれば、その「有効」な税金の使い途を政策決定している人たちの多くは、高額納税者、もしくはそれに近い人たちなんですよね。その人たちが、自分たちが損をするようなところに、保護費切り下げで浮いた税金の多くを投入するのでしょうか?

また、「生保騒動」を煽った人たち、たとえばテレビのキャスターやコメンテイターなども、その多くは高額納税者です。自分自身が生保を受給している人は、ほとんど世論形成の場面に登場せず、日常の姿を断片的に切り貼りされて(その多くは、報じる側に都合の良いようにですが)テレビや新聞・雑誌で放映され、キャスターやコメンテイターから興味半分に弄ばれている。しかし現実には、大部分の受給者はやむを得ない事情で、否応なく貧困に陥り、生保に頼らざるを得なくなっている。もちろん、そうなった過程には大なり小なり、各自の自己責任も存在するかも知れませんが、そもそも社会保障は貧困に陥った原因を究明して給付を査定するのが趣旨ではないはず。

もう、おわかりですよね? 「生保騒動」演出のどこがおかしいのか・・・。

「生保受給者より少ない収入なのに、受給せずにがんばっている人たちがいる」という「美談」を聞いて、「不適正受給者」に憤りを覚えた方へ一言。本来、公的扶助は「スティグマ(恥辱の烙印)」なく受けられるべきものです。生保を「受給せずにがんばる」動機が、受給することをあたかも「恥ずべき行為」であるかのように印象付けた世論操作から生じているとすれば、これこそ大きな汚点でしょう。そういう環境を作り出した(おもには)高額納税者のほうが、よほど「恥ずべき人たち」ではないのですか?

必要な人に十分な公的扶助が給付され、一人でも多くの人が自立生活に向けて再出発できることを、私は心から願っています。

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