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2022年5月 7日 (土)

憲法記念日に寄せて

私は今年営業日だったが、一般的に祝日である5月3日は、「日本国憲法」が施行された日(1947年。今年は施行75年)である。

このところ、憲法を改正すべきか否かの議論が喧(かまびす)しくなっている。もちろん、ロシアによるウクライナ侵攻を受けた現象であることは、言うまでもない。

3日にも各地で「改憲」「護憲」それぞれの側からの集会や活動が行われている。私自身は「改憲論者」であるが、たとえ定休日であっても、集会に参加することまではしていない。国の基本法が75年も改正されないことが正常だとは思えないから、国政選挙で改憲を、特に九条の改正を主張する人が立候補した場合は、他の政策に大きな違和感がない限り、その候補者に票を入れている。

他方、「護憲」を主張する人たちの大部分は、何よりも平和憲法の根幹である「九条」を守れ、と主張する。そうすることによって日本の平和が守られる、との見解なのであろう。

さて、「護憲」を謳う以上、憲法そのものを守らなければならない(当然だが...)。そのためには、「A.国民による改正(護憲論者の人たちから見れば「改悪」)をさせない」だけでは不十分だ。憲法は国内法であり、外国はこれを守る義務はない。したがって、日本の平和を守るためには、「B.外国に日本を攻撃させない」ことも保証させなければならない。もし外国が日本に侵攻(「間接的侵略」も含む)して、政治の中枢を支配してしまえば、その力によって憲法はその国の都合が好い形に変えられてしまう。

そこで、「護憲論者」の方々に質問がある。

日本に敵対的、ないしは非友好的な国が、すぐ近くに四か国も存在する。(1)竹島を一方的に自国領土へ編入して返還せず、過去に日本と締結した条約の趣旨もしばしば蔑ろにしている韓国、(2)尖閣諸島(...のみならず、遠回しな表現ではあるが、沖縄全県と鹿児島県奄美群島も含む地域まで)への領有権を主張し、領海侵犯を繰り返す中国、(3)北方四島を実効支配して返還せず、周辺海域を艦船で威嚇するロシア、(4)国交がなく、日本を敵視してミサイル発射を繰り返し、その標的に位置付けてはばからない北朝鮮だ。

「護憲論者」の方々は、これらの諸国の政治指導者に対して、上記のBを実践してもらうために、日本国憲法の理念をどのように説き、どのような回答を得ているのか?

いや、(1)韓国については、散発的(志を同じくする人たちが統一して行動しているとは、とても考えられない)ではあるが、ときの大統領や首相に憲法九条の趣旨を伝え説いている人もいる(それも、逆に相手方から利用されている場合が多いと、個人的には思うが...)。しかし、韓国が「不法占拠している」竹島を返還する動きなど全く窺えない。ましてや、(2)中国・(3)ロシア・(4)北朝鮮については、そもそも働き掛けた事実さえほとんど確認できない。もちろん、政治工作の中には公開できない部分もあることは承知しているが、これまでの状況では、防衛力に不安を抱える国民が納得できる説明責任を果たしているとは認め難い。

いま、これらの国々が「これ以上の力による現状変更」をしない最大の理由は、日米安全保障条約があり、米軍が日本に駐留しているからだ。もちろん自衛隊の強化も重要な原因である。しかし多くの護憲論者は、米国寄りの安保に反対であり、かつ日本の防衛費を削減せよと主張している。

ならば、上記の国々で、護憲論者の方々がどのような活動をして、政治指導者とどのような対話をしたのか? それに対して、相手はどう反応、回答したのか? その事実をまず説明すべきである。たとえば国連本部や国際会議の場で九条の理念を説いて、そこに韓・中・露・北などの首脳も列席していた...などとゴマかしてもらっては困る。本当に憲法九条の理念が至上のものだと信じているのであれば、相手のホームグラウンドへ赴いて直談判するのに躊躇はないはずだ。

もちろん、(2)(3)(4)は民主的な体制を採っている国ではないから、「護憲論者の代表」がしかるべきルートを経由して対話を申し入れても、拒絶されることもあるだろうし、仮に対談が実現しても、活動家側の理念を否定されて終わり、になることもあるだろう。それならそれで、「わが国の憲法九条の趣旨を尊重し、攻撃してこないことを保証せよと、○○国家主席(大統領、委員長etc.)に対話を申し入れたが、断られた」「...説得したが、否定的な回答しか得られなかった」と報告してほしい。その上で、「そこで、次のステップでは、これらの国々に対して□□□の行動を実践する」と代替案を示してくれれば、少なくとも議論の対象とすることに差し支えない(賛同できるかどうかは別として)。

「護憲論者」の活動家には、日本国内で「護憲」を叫んでいる活動家たちが圧倒的に多い。日本は言論の自由が保障された民主的な体制の国であるから、いくらでも声を上げることができる。しかし、九条を「守ってもらいたい」相手のホームグラウンドで叫ばなければ、全く意味がない。失礼ながら、「お花畑で遊んでいる姿を見せられても、議論にならない」。これが私の正直な思いだ。

いまからでも遅くないので、護憲論者のみなさんには、北京へ、モスクワへ、ピョンヤンへ行き、自らの信じる理念にしたがって、相手を説得してもらいたいものである。もしくは、すでに実践しているのであれば、その「成果」を多くの国民に対して、わかりやすい形で開示してもらいたいものである。

その報告に接したあかつきには、「改憲」と同じテーブルに「護憲」も乗せ、議論の対象として比較検討することができるであろう。

2022年3月24日 (木)

ロシアのウクライナ侵攻に思うこと

2月24日、ロシアがウクライナに侵攻を開始してから、はや一か月になる。

この間、多くの論者がこの国際的な大事件について、さまざまな視点から報じてきた。

「後出しジャンケン」のつもりはないが、いろいろな素材が出揃ってから何か言おうと思っていた(正直なところ、仕事が超過密だったため、エントリーを書く余裕が無かったのだ)。昨日はウクライナのゼレンスキィ大統領が国会でオンライン演説をしたこともあり、一つの節目の時期となったので、私が着目すべきだと考えるいくつかの論点を整理してみたい。

(1)一方的な侵攻への非難は当然である
まず、これまでの経過はともかく、
ロシア・プーチン政権はゼレンスキィ政権のウクライナの領土へ一方的に侵攻し、多くの民間人を殺傷しており、かつ、それを自国の防衛のためと称して正当化している。主権国家が自国の利益のために他の主権国家を暴力で屈服させようとすることが、許されない暴挙であることは言うまでもない。世界の多くの人々がウクライナの国民を励まし、声援を送り、戦禍で亡くなった人たちを悼むことや、ロシアの現政権を非難することは、ごく自然だ。私自身も同じ気持ちである。

(2)「プーチンは悪」「ゼレンスキィは善」と断じるのは不適切だ
しかし、それだからと言って、この衝突に至る過程で、ウクライナ側の挑発がなかったことを示すものではない。日本の公安調査庁「国際テロリズム要覧」では、ロシアの極右過激組織「ロシア帝国運動」に触れるとともに、ウクライナの愛国者で形成される「アゾフ大隊」にも言及している。信頼筋からは、この愛国者組織がロシア系、親ロシア側の住民を殺害した情報も寄せられている。それぞれの組織が外国人戦闘員たちも抱えて相手方と戦闘を繰り返し、ついに今回の侵攻を招いた次第だ。いわば双方の相互作用が憎悪を増幅させたものであり、単純な善悪をもって論じるのは早計である。もし一方的に、プーチン氏が悪魔でゼレンスキィ氏が正義の味方だと思っている人がいたら、それは日本的な「二分割思考」の罠(さらに踏み込んで表現すれば「俳優ゼレンスキィ劇場」のプロパガンダ)にはまっているのだ(もちろん、対するロシア政府側のプロパガンダの問題もあるが...
)。国際政治は「相互作用」「謀略戦の応酬」からエスカレートして実際の戦争に至ることや、いまやサイバー攻撃などの情報戦が戦闘の前段階になっているのが常識であることを、私たちは知るべきであろう。

Ukraina

(3)各国はそれぞれの思惑で動いている
今回、かなり危機が迫るまで「当事者(ウクライナ)不在」の感があり、第二次世界大戦前のチェコスロヴァキアに似ている。プーチンvsバイデンの応酬が取り沙汰されていたのにもかかわらず、ゼレンスキーの名前は侵攻直前までほとんどの日本人に知られていなかった。米国・英国・フランス・ドイツ、そしてロシア寄りの中国・インドも、それぞれ自国・自陣営の利害のために動いている。純粋にウクライナ国民の最善を願って連帯を表明していた国は、どこにも存在しなかった。今後も原則的には同様な経過をたどることは自明だ。

(4)難民受け入れの門戸を広げよ
日本の法務省はもともと、朝鮮戦争の余波を懸念して、難民受け入れにたいへん消極的であった。インドシナ戦争の終末期(1975年)、欧米諸国の要請に押される形で、ようやく多くのインドシナ(ヴェトナム、カンボジア、ラオス)難民を国内に受け入れた。ところが、その後はまた門戸を閉ざしてしまっているので、クルド人など国際的に「迫害されている民」であることが明らかな人々でさえ、容易に難民認定されない状況が続いている。政府は「純血主義」に傾く右派・保守派の影響を受け、いつ起きるかわからない朝鮮半島有事を恐れて、国際的な信用を損じる愚策を採り続けてきたのだ。この機会に、ウクライナのみならず、世界各地から日本へ逃れてくる被弾圧民族を、新たな仲間として受け入れたらどうか? 家族ぐるみで来日する人たちの定住は少子高齢化対策にもなるのだから、一石二鳥ではないか。

(5)私たちは国際経済への影響を先読みすべき
私自身、いわゆる「経済オンチ(「オンチ」は差別用語ではなく自虐の呼称。念のため)」であるので、将来の予測は経済評論家たちの論考を頼りにするのが通例だ。しかし、そんな私でも、ロシアとの貿易途絶によるダメージ、たとえば小麦の供給減少による食品価格の上昇、原油価格の高騰によるガソリン・石油製品価格の上昇、パラジウムの輸入経路変更(おそらく今後は、価格の高い品が中国経由で入ってくる)による自動車価格の上昇により、身近な市場に大きな影響が及ぶことなどは、容易に予測できる。買い占めなどの独善的行為はもちろんいけないが、国民各自が自衛のため必要な物品の調達は、早目にしておくことが大切であろう。

(6)日本は安全保障の観点から、あくまでもウクライナを支持すべき
いま、日本がロシア、中国、北朝鮮などの友好的でない国々から侵攻されないのは、米国(核保有国)との同盟関係にあるからに他ならない(はっきり言って憲法九条は役に立っていない)。論者の中には、日本は中立的立場でロシアとウクライナとの和平に貢献すべきだと言う人たちがいる。もちろん、NATO加盟国であるトルコが試みたように、可能な範囲で何らかの仲介ができれば、それに越したことはない。しかし、ロシアへの経済制裁やウクライナへの人道支援に関しては、米国や西欧諸国と歩調を合わせるべきなのだ。いま、それをしなければ、今度は日本が安全保障上の危機にさらされた場合、どの国にも(状況によっては「同盟国」米国にさえ)支援してもらえないと思っていたほうが間違いない。たとえ国民生活に大きな影響が及ぶとしても、私たちの平和国家へそれ以上の甚大な結果をもたらさないために、国として「旗幟鮮明」にすることが、国際社会から求められている。

以上、言いたいことを言わせてもらったが、異論、反論などもあると思われる。コメントをいただいた場合、応接に値する意見には返信する場合もあるが、内容によっては無視、あるいは削除する場合もあることを、あらかじめお断りしておく。

2022年1月30日 (日)

「40年積み上げた信用を、5分で全部失いますか?」

最近、メディアを賑わせている記事の中には、相変わらず殺人事件や傷害事件が多く見受けられる。

まず、無差別の殺人事件が少なからず発生している。

いわゆる「劇場型犯罪」「拡大自殺」やその模倣犯罪などのため、理不尽に命を絶たれる人が跡を絶たない。まだまだ人生でやりたいことがたくさんあったのに、それが永久に不可能になり、突然生涯を終えさせられた人たちの無念を思うと、他人事とも思えず、悲しみに堪えない。

それらの犯人(今回のエントリーでは、犯罪の経過が明々白々であることを前提に、この呼称で統一する)の年代はさまざまだ。10代後半から80代までどの年代を取っても、一握りではあるが、この種の殺人事件を起こしてしまう人がいる。コロナ禍による閉塞感が影響していると評する論者もおり、無関係とは言わないが、コロナ禍以前からこの種の犯罪はしばしば見受けられている。「孤立」「引きこもり」「長年にわたる無職」だった犯人が相当数いることも確かだが、それにステレオタイプ化してはいけない。

もっとも、失うものが「ない」「たいへん少ない」人が犯人になってしまう場合が多いことも、これまた現実である。その意味では「信用」「名誉」「地位」などは、この種の破滅型・自暴自棄型の犯罪への抑止力になっているのかも知れない。

他方、無差別ではなく、誰かからの「何かのアクション」を受けて、短絡的に人を殺したり、人に暴力を振るったり威嚇したりする事件も、しばしば報道されている。他車の行為に腹を立てたことによる「あおり運転」もその好例だ。第三者から見ると、些細なトラブルが原因で、相手を殺したり傷付けたりする犯人の精神状態が、理解し難いかも知れない。

しかし、「立腹して相手に攻撃(反撃)したくなる」情動は、多くの人の心に発生するものなのだ。特に加齢に伴い、アドレナリンの分泌に影響される易怒性をコントロールするのが困難になると、予期しない暴発をしてしまって後悔することになるのだ。「高齢者は角が取れて丸くなる」は一面の真実を表しているのかも知れないが、不測のアクシデントやインシデントにより、それと相反する行為への動機付けが突発することも、日常茶飯事だと思っていたほうが良い。

私自身もときどき、他者からの些細なインパクトに立腹して、この情動を覚えることがある。そんなときには、自分自身に対して、こう問いかけることにしている。

「40年積み上げた信用を、5分で全部失いますか?」

幸いにも、この自己暗示?が奏効して、メディアに報じられる事件を起こさずに済んでいる日々である。

2021年11月15日 (月)

若き王者に声援を!

「竜王」は「名人(17世紀に創設)」と並ぶ、将棋界の最高峰のタイトルである。

1902年に十二世名人・小野五平が初めて、名人は当時の最高段位であった八段より上位だとして「九段」を自称したが、その後は名人すなわち九段相当と認識されたものの、段位もタイトルも設けられなかった。戦後すぐの1947年、読売新聞社(現称で統一する)が主催する「全日本選手権」が創設され、翌々年には「九段戦」も始まった(名人と九段とが番勝負を行って全日本選手権者を決定)。しかし、段位としての九段に昇段する棋士(名人経験者など)が何人か出たので、1962年には新たな「十段戦」に改編された。九段位・十段位は名人に次ぐ一般のタイトルの一つであったが、1987年には読売と将棋連盟との間で、名人位と同格である「一席(他のタイトル保持者より序列上位)」を認める合意がなされ(契約金の大幅増が条件だった)、竜王戦が開始されて現在(第34期)に至っている。

そして、竜王位も名人位も、他の六つのタイトルに比べると挑戦するまでの過程が長い。名人はA級棋士しか挑戦権争いに加わることができないので、まず順位戦でA級まで昇級しなければならない。竜王は誰でも挑戦できるので、若手棋士が飛躍する可能性はあるが、ランキング戦を勝ち抜いた上、さらに決勝トーナメントを勝ち上がり、挑戦者決定戦三番勝負で二勝しなければ挑戦者になれない。

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したがって、理屈から言えば、竜王位や名人位を獲得すると異論なく将棋界の覇者(の一人)と認められる...はずなのだが、多くの場合、現実にはそうならなかった。若い棋士が初めて竜王や名人になっても、まだ力不足のため他のタイトルに手が届かなかったからだ。それまでの間、先輩タイトルホルダーなどの棋士に「上座を譲る」ことも余儀なくされた。

初めて竜王または名人を獲得した棋士がそのまま第一人者となった前例は、直近で1972年、中原誠(永世五冠。敬称略、以下同)の名人位獲得(24歳)である。それまでは「大山康晴(名人・王位・王将)」と「中原(十段・棋聖)」だったのが(当時のタイトル数は5つ)、名人戦で中原が勝利したことにより、明確にタイトル数が入れ替わり、中原が過半を占めた。

その後、谷川浩司(十七世名人。1983年に21歳で名人)、羽生善治(永世七冠。1989年に19歳2か月で竜王)、佐藤康光(永世棋聖。1993年に24歳で竜王)、森内俊之(十八世名人。2002年に31歳で名人)、渡辺明(永世竜王・棋王。2004年に20歳で竜王)と続く大棋士たちは、みな最高峰の二つのどちらかで初タイトル、それも森内以外の人は20代前半までに獲得している(中原以降に両タイトルの片方または両方を獲得した棋士は他にも9人いるが、ここでは割愛する)。

しかし、これらの将棋史に残る大棋士のいずれもが、そこから複数冠保持者になるまでに年数を要しており、速い人でも一年半(森内)、遅い人は六年強(渡辺)掛かっている。羽生でさえ二冠獲得までには三年弱を要した。先輩棋士やライバル棋士が壁となって立ち塞がったから、すぐに誰もが認める覇者になれたわけではない。

ところが、この11月12~13日にかけて開催された将棋の竜王戦七番勝負第四局において、挑戦者の藤井聡太は、竜王であった豊島将之を破り、4勝0敗で竜王位を奪取した。19歳3か月の青年が、すでに保持している王位・叡王・棋聖と合わせて四冠となり、八大タイトルの半数を占め、名人である渡辺(棋王・王将)を凌いで、全棋士の序列一位となった。中原以来、実に49年ぶりの快挙である。

竜王になった時点で、すでに藤井は第一人者なのだ。しかも中原の名人就位に比べて五歳も若く、(49年前にはまだ竜王のタイトルが存在しなかったことを割り引いても)たいへんなスピード出世である。19歳と思えないほど品格も申し分なく、立ち居振る舞いはすでにして王者の風格を備えている。「羽生時代」が終わってから三年を経過して、疑いもない「藤井時代」が幕を開けた。

もちろん、先輩棋士たちがこのまま引き下がってはいないだろうし、藤井自身も負け越している相手もあれば、克服しなければならない課題も存在する。後輩たちの実力が追い付き、藤井のライバルとして覇を競う可能性も大きい。とは言え、年齢や伸びしろを考えると、しばらくの間は「藤井一強」を軸に将棋界が回っていくことは確実であろう。

若き第一人者の誕生を祝福しつつ、藤井竜王が初めて揮毫した「昇龍」の言葉通り、さらに精進を重ねて最高のパフォーマンスを発揮し、多くのファンを楽しませてくれることを心から願う。

(イラストはA&Pコーディネートジャパンのものを借用しました)

2021年9月 8日 (水)

エラい人たちは特別扱いなのだ!

天才バカボンのパパ風に。

 

(ここから)

あははは\(^o^)/

緊急事態宣言出ているけど、あちらでもこちらでも宴会なのだ。

国民には飲んで騒ぐなと言っているけど、自分らは遅くまでやっている店を探して、深夜までバカ騒ぎするのだ。

政治家さんも宴会なのだ。大事な会議だと言えばいいのだ。

厚生労働省のお役人さんも宴会なのだ。自分たちは医療や介護の現場にいないから、人にうつさないのだ。

地方公務員さんも宴会なのだ。自治体の自粛要請も違う部署だからよく知らなかったのだ。

テレビ局も五輪の打ち上げの宴会なのだ。ハメ外したついでに、非常階段も踏み外したのだ。

「宴会やってええんかい?」なんて言うのは野暮なのだ。赤信号はみんなで渡るのだ。

国民に叱られても、謝ってしまえば終わりなのだ。

みんなお給料減らされたけど、そのうち元に戻るのだ。

何年か経ったら忘れられてしまうのだ。

これでいいのだ!***\(^^)/***

(ここまで)

 

本当に「これでいいのか?」

筆者は一概に「飲んで楽しむこと」が悪いとは思わない。問題は別のところにあるのではないだろうか?

2021年9月 4日 (土)

謝罪しない高齢者

私の仕事はケアマネジャーなので、居宅介護支援・予防支援の利用者=顧客のほとんどは、高齢者の方々である。いま公益事業として浜松市の要介護認定調査員を受託しているが、調査でお邪魔する対象者の方々も同様である。

ときどき、利用者や対象者の方の、社会的地位が高い場合がある。地域の○○業界の指導者だった方など。総じて、その方々は礼儀正しく温厚である。横柄な方に出くわすこともあるが、ごく一握りであり、ほとんどの方は「地位が人を作る」との表現にふさわしく、私のような「若造(笑)」にも丁寧に応接してくださる。

ただし、〔あくまでも私の経験上であるが、〕この類型の方々の多くは、なかなか自論や自分の流儀を曲げない。「ルールは守るが、好きなようにやらせてくれ」である。中には「不適切な用語」を日常的に発する方もあり、訪問して辟易することも少なくない(なお、本日現在の利用者さんの中には、気になるほどの方はおられない)。

それが自分の家族や周囲にとどまっているのであれば問題ないのだが、世の中には往々にして、逸脱した言動を公開する人たちが登場することは、皆さん周知の通りだ。

困ったことに、「全国区」のエラい高齢者の中にも、そんな人たちがいる。

以下、二つの事例。

DHC会長の吉田嘉明氏(80)。以前から在日コリアンや朝鮮半島系日本人(日本国籍を取得した人たち)への攻撃的な言動が目立ったが、昨年11月に自社ホームページに掲げたメッセージ中で、対立する会社が起用するタレントの多くが在日コリアンであると指摘した(←指摘すること自体は、事実誤認がなければ決して間違った発言ではないが、氏からの具体的な判断根拠の説明は確認できていない)。加えて、その会社に対して、在日コリアンの人たちを貶める差別用語を使用した。これに対して多方面から抗議の声が上がり、当初だんまりを決め込んでいたDHCは、関係者に対し部分的かつ非公式に謝罪したと伝えられるが、吉田氏本人からはいまだ公的に何の謝罪もなされていない。

評論家の麻生千晶氏(83)。もともと、人を容姿で評する傾向があることが他の論者から指摘されていたが、今年6月、J-Castニュースのコラム内で、野球解説者(もと選手)の容貌が嫌いだった(←好き嫌い自体は本人の自由であり、それだけで終わっていればそれまでだった)ことを述べた文脈の中で、麻生氏が同解説者を「イケメンでない」「醜い」と思っているとしか受け取りようのない侮辱的な表現をした。それを読んだ相手の解説者は自身のインスタグラムで露骨に不快感を表明して抗議し、良識ある多くのネット民も、論評の中で人の容姿を論(あげつら)う態度を強く批判した。この事態を受けたJ-Castは同解説者に対して謝罪し、当該コラム自体を終了したが、麻生氏本人からはいまだに同解説者に対して何の謝罪もされていない。

この二例はいずれも本日現在で私が獲得した情報に基づいて記載した。誤認や追加情報があれば修正するので、お教えいただけるとありがたい。また、このお二人の過去の業績を否定したり誹謗中傷したりする意図は全くないことをお断りしておく。

さて、両者に共通しているのは、「言いっ放し」である。自分の個人的な感情や意見はあるだろうし、他者を傷付けないのであれば、それを公開しても差し支えないであろう。ところが、そこに差別用語や侮辱的表現が加わると、特定の集団や個人を傷付けるものになるのだ。であれば、社会のルールとしては当然、本人が公的に謝罪するのが妥当であろう。

ところが、地位が高くなると、簡単にそれができなくなる。そこに加齢に伴う思考の硬化が加わるとなおさらだ。

かくして、「老害」と呼ばれる状態が発生する。この用語自体、私はあまり使いたくはない。単に「柔軟な思考に欠ける」振る舞いをするのは、個人差こそあれ、誰しも高齢になると経験するものであり、それだけでは決して「老害」には当たらない。しかし、他者を傷付け、それを客観的に指摘されても、非を認めて謝罪することができないのであれば、これは「老害」とされてもいたしかたないであろう。

私自身は(市内の弱小職能団体の代表を務めたレベルだから...)全く地位の高い人ではないので、たぶん20年後に80代になっても、こうはならないだろう(笑)と安心しているが、それでもブログやFacebookで、気が付かないうちに逸脱表現をしてしまっていたら、早めにご指摘いただきたいと願っている。

2021年8月30日 (月)

何のための公益法人なのか?

プロスポーツの世界は、なかなか理念通りにはいかないものだ。美しい建前がある一方、その裏にはしばしば醜い現実が横たわっている。時として世間から批判を浴びるものの、しばらく経つと忘れ去られ、主役は次の世代へと移っていく。

これが世の常だと言われれば、そうかも知れない。

しかし、他方でそのスポーツの理念にのっとって、まっすぐな道をひたすら真摯に歩み、高みを目指すアスリートも少なくない。その人たちの努力が無になって良いはずはない。

だから、スポーツの理念に反するようなアスリートには、早く退場願いたいわけだ。

大相撲にもそんな力士がいる。特に私が強く感じるのが、「最強力士」白鵬である。

長い休場明けだった先の名古屋場所、千秋楽で大関(当時)照の富士を降し、全勝優勝を飾った。だが、多くの人が感じた通り、この相撲は「肘打ち」や「張り手」が目立つ見苦しい手段を重ねての勝利だった。前日の大関・正代との相撲も、土俵際ギリギリで仕切って相手を混乱させた異質の立ち合いであった。

この取り口を擁護する人もいる。立場によってそれぞれの意見があるだろう。

だが、私はこれを容認できない。

なぜなら、大相撲を主催する日本相撲協会は、「国技」である相撲道の普及をミッションとした公益財団法人であるからだ。もちろん、その実質は興業団体にほかならないが、公益法人格を帯びるプロフェッショナル集団である以上、守らなければならない規範がある。もし「相撲道」に反する攻撃を、これまで「禁じ手(反則)」と認めてこなかったのであれば、ルールそのものを改正するのが妥当だ。

そして、相撲は柔道・剣道との三択とは言え、中学校の体育の必修科目である。アマチュア相撲界では「張り手(ただし肩幅の外から距離を取っての張り手)」は禁止しているが、「肘打ち」は確か禁じ手と定められてはいない(もし私の記憶違いであれば訂正します)。なので、中学生が強そうな相手に負けたくないと思って、いきなら顔面に肘打ちを食らわしてケガをさせても、「禁じ手じゃないでしょ? 横綱だってやってるじゃない」になってしまう。「勝つためには何をやっても許される」見本を横綱が示しているのであれば、極端な話、たとえばキックボクシングの技術を持つ中学生力士が相手の頭を蹴っても、ルール上は問題がないことになる。これでは教育にならない。

数々のマナー違反を重ねている白鵬に、「注意」程度の弱い処分しかできないのであれば、何のための公益法人なのか?

これまでも心ある有識者から、ガバナンスの課題を数え切れないほど指摘されていた日本相撲協会。形式的に外部役員を参画させるのではなく、抜本的な改革を行わないと、世界のプロスポーツの潮流から取り残されるしかないであろう。

2021年3月27日 (土)

国際的な声価を得ること

大坂なおみ選手(23/女子テニス)が昇竜の勢いだ。

全米、ついで全豪も二度目の優勝を果たした。途中で苦戦しながらも連勝街道を驀進中(本日現在22連勝)であり、少なくともハードコートでは向かうところ敵なしの強者である。

しかし、同選手が評価を確立しつつあるのは、単に試合で勝ち続けているからだけではない。他の選手が簡単に真似できない資質と力量とを持っているからだ。

具体的には、

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・若くして王者の風格を備えている。無闇に奇策を弄せず、相手選手を正面から堂々と受けて立つ。

・自分を客体視して修正する能力がある。2019年に世界ランキング1位になったあと、メンタルの弱さもありスランプに陥ったが、それを直視して徐々に克服していった。

・勝ちを簡単に譲らない二枚腰である。有力な相手選手が大坂選手に「善戦しても最終的には敗れる」ことが続くと、対戦する前から「難攻不落の堅城」と映ってしまう。

・競技界を変容させるほどのインパクトを与える力がある。米国で白人の警察官に黒人の被疑者が殺害される事件があり、それを契機に全米で差別に抗議する運動が高まったが、大坂選手は全米オープンの7試合すべてにおいて、過去同様に犠牲となった黒人たち一人ひとりの名前を記したマスクを着用した。「スポーツに政治を持ち込むな!」との批判に動じず、「これは人権問題」との主張を貫き、観戦した多くの人々に感銘を与えた。真に一流であるプレイヤーは、他方で優れたパフォーマーとして振る舞うことができる。

・未達成のタイトル獲得や記録樹立への期待感がある。何と言っても23歳。まだまだ伸びしろをいっぱい持っている。全英や全仏などコートの質が異なる舞台でのプレーは、今後の課題でもあるが、大坂選手ならば遠からず制覇できるのでは、と希望的に予測するファンは多いであろう。「これからどこまで強くなるのか...」

これらの要素が重なり合って、魅力満点のスーパーヒロインを作り上げているのだ。大坂選手はいまや、米国在住のアスリートの中でも最高水準の一人として、人々から高く評価されており、国際的にも声価が高い。

さて、野球界にもスーパースターが存在し、日本や米国で広く知られているのはご存知の通りだ。

大谷翔平選手(26/MLB)。言わずと知れたロサンゼルス‐エンジェルス所属の投手兼打者である。

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ただ、大坂選手と比較した場合、大谷選手はいまだその地位を十分に確立したとは言い難い。度重なる右肘の故障のため、投手としては十分に成功を収めておらず、一流の打者としての活躍にとどまっていることがブレーキとなっている。

しかし、それがすべてではない。大谷選手には全米を巻き込むほどのインパクトがいま一つであることも確かだ。欲を言えば、野球界全体を変容させるパワーがほしい。大坂選手のように社会問題を前面に押し出すことだけが方法ではない。競技の枠内で圧倒的なパフォーマンスを成し遂げる形もある。「二刀流(two-way player)」だけでもMLBで前例のない登録選手であり、それを試合で発揮できるだけで日米野球界の至宝だと言って良い。今期のオープン戦で肩を慣らし、飛躍のシーズンにしてほしいものだ。

テニスと野球とを比較した場合、個人競技とチーム競技、世界的競技と特定の国々で盛んな競技との違いは確かにあるだろうが、大谷選手は日本や米国のみならず、さらに多くの野球を愛する人たちや、その枠を超えた社会の各方面から、称賛を浴びられるポテンシャルを持っていると、個人的には思っている。

また、大谷選手がデサントやアシックスの製品を身に着けてメディアに露出する行動は、スポンサーへの配慮が窺える。大坂選手も先日の全豪優勝インタヴューでは、右肩からジャージを外し、日清食品・ナイキ・ワークデイなどのロゴをカメラの前にさらしていた。自分にお金を払ってくれる企業に対してしっかりと敬意を払っているのだ。これもまた超一流アスリートの品格であろう。

両選手に限らず、真に実力のあるアスリートやプレーヤーは、惜しみなくその力を発揮して国際的な声価を得てほしいと、心から願っている。

(※イラストはグラパックジャパンの使用権フリーのものを拝借しました)

2021年3月17日 (水)

AI評価値の「功罪」

将棋の棋戦。最近はこれまでの地上波や衛星放送TVのみならず、ネットTVでも実況されているので、いわゆる「観る将」にとっては選択肢が増えた。

このライブ放映される対局をスポーツと同様に楽しむことができる便利な道具として、AIによって算出される「評価値」がある。スポーツなら対戦者のスコアの途中経過により、どちらが優勢なのか視聴者が一見して判断できるが、将棋の場合はある程度の棋力がないと優劣の判断が難しい。

そこで、棋力をあまり持ち合わせていない私のような将棋ファンにとっては、AIが示してくれる優劣のパーセンテージを見ることで、いまどちらが有利(不利)なのか、優勢(劣勢)なのか、勝勢(敗勢)なのか、一見して把握できるので、評価値はたいへん便利である。

しかし、何ごとも良いことばかりではない。以下、二つの対局結果から考えてみたい。

昨年12月25日、A級順位戦。豊島将之竜王(30)VS羽生善治九段(50/永世七冠)。128手で豊島竜王の勝ち。AI評価値が終盤に大きな変動を繰り返した末、最後は羽生九段94%、豊島竜王6%だったのにもかかわらず、羽生九段が「負けました」と、まさかの投了。

もう一つの例。

今年2月11日、朝日杯オープン戦準決勝。渡辺明名人(36)VS藤井聡太二冠(18)。138手で藤井二冠の勝ち。AI評価値では終盤、渡辺名人が勝勢となり99%、藤井二冠1%になった。ところが渡辺名人が123手目を着手した直後に大逆転、藤井二冠のほうが90%超えとなり、そのまま勝利。

どちらの対局も一手違いの難解な将棋であり、最終盤では両者とも一分将棋、すなわち記録係が「59秒」を読み上げるまでに次の手を指さなければならない状況だったことも、共通している。

前者は羽生九段が、二転三転する局面の最終盤で、豊島竜王の玉を寄せる勝ち筋がたった一つだけあったのを読み切ることができず、もはや自分の負けを挽回できないと信じてしまった。後者は渡辺名人が最終盤、自玉が寄らないようにしつつ藤井二冠の中段玉を詰められる唯一の手順を見落とし、悪手を指してしまった。

AI評価値はあくまでも、「最善手を指し続ければ勝つ確率」を示している。したがって、棋士にとっては59秒で発見することが至難の業である手順も、容易に分析して数字を出す。それは時として、人の感覚からかけ離れた表示になってしまう。

にわか「観る将」の目には、「勝っているのに投了してしまった」羽生九段や、「詰みを逃して自滅した」渡辺名人が、あたかも間抜けであるかのように映ったかも知れないが、決してそうではない。

むしろ、超弩級、最高水準の強者同士の対局だからこそ起きた珍事なのだ。両者とも秒読みに追われる一分将棋の状況のもと、人智を尽くしても読み切れなかった筋があったゆえの敗戦と理解すべきである。前者の豊島竜王、後者の藤井二冠、いずれも最強レベルの難敵に対して、苦戦しながらも最後まで力を振り絞って競り合ったことにより、自らの勝ちを招き寄せた。その実力を称えるべきなのだ。

AI評価値の数字だけを踏まえて対局者を評するのは、あまりにも非情であろう。

衛星放送やネットTVの解説者たちも、しばしば「評価値は決して対局者の現実の感覚に沿っていない」趣旨の発言をしている。AIが登場したことによりライブ放送の評価値に一喜一憂してしまうのは、健全な「観る将」に当たらないと、私は考えている。

その道にかけては天才的な人たちばかりが織り成す将棋の対局。日々過酷な勝負を繰り広げる棋士たちに敬意を表しながら、余裕を持って観戦する楽しみを持ちたいものだ。

2021年3月11日 (木)

忘れてはならないこと

東日本大震災が起きてから、きょうで十年になる。

あの日、私は事務所で仮眠していたが、グラリと揺れる体感で飛び起きた。直後には震源地は近くのどこかだと思っていたが、ネットの情報を見ていくうちに、東北だとわかって驚いた。そして次々と情報が入り、福島県方面で甚大な被害が起きていることを知り、たいへんなことが起きたことを実感した。日本全国への影響は必至だと思い、私たち他地域の者も、これから先、無事に生活を続けられるのか、不安が先に立ったことを覚えている。

この震災では、福島県浜通りに住んでいた私の叔父(母の弟)も住処を失い、その後は中通りの災害公設住宅に入った(2018年秋に他界)。

私自身は2014年になってようやく、現地へ赴く機会を得て、業界仲間の佐々木香織さん(相馬市)に案内していただいた(こちらのエントリー参照)。復興作業が進められている一方、災害の爪痕が生々しく残る浜通りを見学しながら、自然の営みの大きさと、その中で生き抜いている人たちの力強さとを、深く心に刻んだものだ(画像は2019年に佐々木さんからいただいた書状)。

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なお、佐々木さんは、ご勤務先の訪問介護事業所が諸事情により事業終了となったので、新たな働き場所を求め、転職されている。人も環境も、時とともに移ろっていく。

十年の時を経て、福島・宮城・茨城・岩手県の復興はいまだ道半ばである。その後に水害や再度の地震も発生し、原発の廃炉問題など、複雑に入り組んだ数多くの困難が地域に重くのしかかっている。

そして2021年。昨年来のコロナ禍は日本社会にも大きな課題をいくつも投げ掛けた。それはあたかも、「日本のみなさん、この十年、あなたたちは何を学んだのですか?」と私たちに問いかけ、十年の間に克服できなかったものを改めて浮き彫りにしたごとくである。かゆいところに手が届かない政策に始まり、差別、風評、誹謗中傷などの人を傷付ける行為に至るまで、十年前から一歩も進化していない振る舞いをする人たちが、いかに多いことか...

最も大切な「人の尊厳」「人間の尊厳」。それを守るために、私たちの社会の姿はどうあるべきなのか? この命題を解決し、達成する責任は、残された私たちの肩にかかっている。そのことを決して忘れてはならない。

十年を節目に、いまの世を生きる私たちが果たすべき役割について、黙想してみたい。

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