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2019年7月10日 (水)

音楽の著作権をどう考えるべきか

このたび、JASRAC(日本音楽著作権協会)の職員が「主婦」として、Y社(本社は当地・浜松)が経営する銀座の音楽教室に二年近く「潜入」して受講していた事案が、話題になっている。

Y社をはじめとする「音楽教室を守る会」が、教室での楽曲演奏にまで著作権使用料を徴収するのはおかしいとして、JASRACと裁判で係争している中、この「主婦」はヴァイオリン講師の模範演奏について、「講師が伴奏に合わせて弾く様子は、まるでコンサートを聞いているかのように美しく聞こえた」と証言し、JASRAC側の主張を裏付けたのだ。

この事案をめぐって、あたかも「JASRAC→悪」「音楽教室→正義」であるかのような議論が支配的になっている。

JASRACに対する批判は、多くの論者から寄せられている。著作権料の徴収対象がカラオケ店やBGMを流す店などにも拡大し、また、徴収した著作権料をクリエイターに払わない場合もある(例:短い小節なら作詞者に配分しない、雅楽の演奏にも徴収した、etc.)と報じられており、これが「権利を守る」正当な行為に相当するのか、疑問を持つ人たちも少なくない。中には誇大な報道もあり得るので、実態が報道の通りなのか不明瞭ではあるが、JASRAC自体が大きな利権を得ていることは否定できないであろう。

その流れに沿って、今回のJASRAC職員の「潜入」も、教室側との信頼関係を踏みにじるスパイ行為であると評する論者が圧倒的に多い。

しかし、これはちょっと違うのではないだろうか。

まず、楽曲を用いて収益を得る場合は、作詞家や作曲家に対して正当な対価を支払う義務がある。これは作詞家や作曲家の権利を守るためには大切なことである。こちらもいま話題になっている過去の海賊版サイト「漫画村」が、いかに漫画家や出版社の正当な権利を侵害してきたかを考えれば、クリエイターの著作権が守られなければならないことは自明である。

JASRACが作詞家や作曲家に代わって管理している楽曲であれば、当然ながら楽曲の有償使用者は、JASRACに著作権使用料を支払う義務がある。作詞家や作曲家がJASRACの取り分を除いた適切な配分を受けているかどうかは、JASRACと作詞家や作曲家との問題であり、楽曲の使用者が介入すべきものではない。

次に、カラオケ店やBGMを流す店はともかく、音楽教室までが「楽曲の有償使用者」に該当するかの点である。

今回、多くの教室経営主体が「音楽教室を守る会」を結成、協働して裁判を起こしているが、Y社(...を含めた一部の音楽教室。以下、音楽教室「Y」という)は、他の大手や街中のところどころにある中小零細の音楽教室(以下、音楽教室「T」という)とは、性質がかなり異なることが判明している。

音楽教室「T」では、穏当に音楽文化を一般の人たちに伝えて、その対価を得ることが営業活動である。その後、そこで学んだ若い人が演奏家として育つための橋渡し程度はするかも知れないが、それ以上の営業活動に踏み込むことは通常はない。

他方、音楽教室「Y」では、自社で契約する演奏家をプロフェッショナルとして活動させ、メディアでの仕事に結び付けている。しかもY社の場合、伴奏システムまで自社側で用意しているので、ある程度の技術を持つ受講者が本気で習得に臨み、一定の過程を経れば、比較的容易に「演奏家」レベルまで到達する。この繰り返しによってY社側で「使える」プロ演奏家が(レベルはともかく)増加していく。これでは、単なる「音楽教室」ではなく、「稼げる演奏家の養成所」と見なされても、しかたがないのではなかろうか。

すなわち、Y社はコングロマリットとして総合的な音楽ビジネスを展開しており、音楽教室もその一環だと考えられるのだ。したがって、「講師が伴奏に合わせて弾く様子は、まるでコンサートを聞いているかのように美しく聞こえた」と証言した「潜入」職員の感覚は正常であり、JASRAC側の意を呈して虚構の「コンサート」を作り上げたとは言い難い。

長く浜松のため貢献している大企業なので、悪くは言いたくないのだが、残念ながら、先日、知人の演奏家(決して作曲者=JASRAC側に近い人=ではない)から耳にした話も、上記の判断を裏付けている。

だから、ここで「JASRACは悪だ」「音楽教室は正義だ」と決めつけた論評をしてしまうと、私がかねてから日本人の思考形態の特徴だと見なしている「二分割思考」の弊害に陥ってしまう。

この事案については、「ただの音楽教室(音楽教室「T」型)なのか? それとも、楽曲を有償使用したビジネス(音楽教室「Y」型)なのか?」の実態から判断して、著作権使用料徴収の是非を問うべきだと愚考する。裁判所にはこの点を賢察しつつ、判決を出してほしいと思う。

日本の音楽文化を守るためには、係争中の事案はともかく、今後、JASRACの幹部を含めた有識者や各方面の関係者が顔を合わせる場を増やし、議論を深めてほしい。クリエイターの権利をどう守り、他方で楽曲の有償、無償での使用の形態を法律や社会通念でどう定義し、線引きをするのか、利害関係者が対立を超え、知恵を出し合って、望ましい音楽文化のありかたを語り合い、方向付けていってほしいと願っている。

2019年6月26日 (水)

冷静に読み解くべき報告書

最近、以下の二つの報告書が話題になっている。

(1)金融庁が公表した金融審議会「市場ワーキング・グループ報告書 高齢社会における資産形成・管理」

(2)財務省が公表した財政制度等審議会「令和時代の財政の在り方に関する建議」

この両者に関して報道された内容が、人々を騒がせているのだ。

特に(1)は、「夫65歳、妻60歳の夫婦世帯では、30年間に公的年金以外の資産が2000万円必要」との試算だけがクローズアップされ、それを野党が意図的に政治問題化させ、与党は不器用な火消しに追われるといった、ドタバタ政治劇の混乱を招いている。

また、(2)の中にあった年金関係の数字が抹消されたことも、一部の市民から問題視されている。加えて、私たちの介護業界では、(2)のうちケアマネジャーなどの介護業界に関する内容が、安かろう悪かろうを推進し、良質な事業者をツブしかねない愚策だと非難されている。

そこで、〔自分の専門外の分野については十分に理解できていないことは承知の上で〕両者の全体に目を通してみた。

まず(1)であるが、読んでみたところ、報道されている話とは全く異質の印象を受けた。

これは、「余裕のある中高年世代に対する資産運用の勧奨」と、それに対する「金融機関向けの手引書」なのだ。だから、まだ導入部に過ぎない「人口動態等」の箇所で、勇み足よろしく米国の「プルーデント‐インベスタールール」を紹介している(P.8)。「この段階で早々とこんなコラム出すなよ!」と失笑してしまった。

つまり、「年金」の話題は、「資産運用」と「金融機関用手引」を引き出すための糸口に過ぎないのであり、そもそも主題ではない。もちろん、年金に関する試算にはそれだけの根拠があるのだろうが、そもそも一定以上の富裕層が志向する生活水準を前提にしたものであるから、私たち庶民には縁の薄い話(笑)なのだ。

したがって、この数字をネタにして一部野党が攻撃したのは事実「煽り」と言って差し支えないし、与党が報告書を「受け取らなかった」のも拙策だ。いや、受け取らないなら受け取らないでよかった。「ワーキンググループの段階の報告書なので、受理しなかった」と躱せば良かったのだ。受け取らないのにその内容についてあれこれ応酬しているから、かえって話がややこしくなってしまった。

続いて、(2)である。こちらは国政に占める比重は(1)よりもズンと重い。審議会による「建議」の形を採っているが、これが財務省の「意思」だと考えて良い。

まず、財政再建に向けて、オランダの財務大臣室に掲げてあったギリシア神話の絵まで紹介して、危機を警告している(P.9、資料Ⅰ-6-1)。オランダの場合、欧州債務危機の波及を受けての経済回復が緩やかであること、EUとの協調と移民対策との兼ね合いが長期にわたる重要課題であること、中小政党の政策の摺り合わせで連立政権が成立していること、などなど、日本とは国情の違いが大きいので、わざわざ引き合いに出すのはどうかと思うが、ま、それはひとまず措いておこう。

次に、社会保障に関する部分。私が着目したのは、薬局業務のうち、薬剤師の業務を対物業務から対人業務へシフトさせていくとした点である(P.19)。おそらくこの先には、AIの活用による薬剤師業務の省力化、ICT化も見越した見解であろう。ケアマネジメントにおいてもAIの活用が期待されているが、専門性を有する人間でなければできない部分をどう評価していくのか? それを調剤業務の報酬にどう反映させていくのか? 隣接する私たちの業界から見ても興味深い。

そして、上に述べた、介護業界の心ある論者たちから、愚策だとボロクソに叩かれている点。介護サービス価格の透明性向上・競争推進のために(P.23)、ケアマネジャーが複数の事業所のサービス内容と利用者負担額、つまり支払うお金を比較して紹介することで、より良いサービスがより安価に提供される仕組みのために働くべきとされている(資料Ⅱ-1-44)。これはまさしく現場を理解しない暴論であり、いまの時点で他業種に比較しても、職員に満足な給与さえ払えない介護報酬≒公定価格なのである。ここからさらに割り引きすることを期待するのは無理難題でしかない。ましてやケアマネジャーは必要な利用者に対して必要なサービス(たとえ利用者負担が多くなっても)を調整するのが役割であり、価格引き下げの片棒を担ぐものでは全くない。失礼千万である。この点に関しては、愚策だとの見解に全く同感である。業界から有能な人材が去っていく結果しか招かないことは、火を見るより明らかだ。

それから、年金に関連する部分。上記(1)の報告書をめぐる騒動を受け、マクロ経済スライドに関する部分の書き換えが行われたのは事実である(P.26)。しかし、他方で政府が推し進めてきた在職老齢年金制度の廃止(によって、働いて多くの収入があっても年金額を減らされないことになる高齢者の就労意欲を促進するのが目的)については、将来の年金受給者の給付水準の低下にも言及し、高所得者に対するクローバックの可能性にまで踏み込んで提議しており(P.29)、決して現実を軽視したものではない。この課題については、短絡的に反応するのではなく、国民皆が真剣に考えなければならないのではないだろうか。

あまり多岐にわたるので、私自身が該博な知識を持たない部分も多いが、他にも二点ほど気になった部分がある。

一つは、文教・科学技術の項目に関して、大学における研究環境の閉鎖性、硬直性が指摘され、日本の研究人材の国際流動性や国際共著論文数が主要先進諸国の中で劣っていることへの指摘である(P.46)。私たちの業界では、(専門職能団体が中心になってまとめているので)学術研究とはいささか趣を異にするのかも知れないが、先年、国のシンクタンクが事業として『適切なケアマネジメント手法の策定に向けた調査研究事業報告書(2018)』を編纂している。ここで言及されたケアマネジメントの「標準化」なる代物を謹んで拝見し(笑)、国際的なケアマネジメントの潮流であるナラティヴ‐ベイズド‐アプローチが著しく軽視された(としか言いようがない)作品を目の当たりにした私にとっては、実にうなづける指摘だなあと納得してしまった。
他の学問分野についてはよくわからないが、同様な傾向が顕著であるとしたら、日本人研究者のドメスティックな欠点を露呈しているものであり、英語力の不足などのさまざまな要因があろう。今後、業界を超えて克服していかなければならない。

もう一つは、社会資本整備の項目に関して、PPP/PFIの民活導入について論じ、そこでコンセッション方式の事例拡大を推進すべきとする方向性である(P.56)。コンセッション方式導入を勧奨する以上、従来型PFIであるとか、DBO方式であるとか、他の手法と比較した長所・短所について、当該社会資本の受益者が十分に理解した上で採否を決定していくのが筋であろう。私の見落としでなければ、今回の建議ではこの比較が明瞭に示されていない(資料Ⅱ-4-19)。規制緩和と連動した行政責任の縮小だけでは、市民生活に混乱を招く恐れが大きい。経営主体が外資系企業であればなおさらのことである。財政再建を錦の御旗にする財務省は推進に意欲満々なのかも知れないが、悔いを千載に残すことになってほしくないものだ。

以上、ざっと読んだ限りの感想である。賛成論も異論・反論も大いに歓迎する。ただし、必ず全体に目を通してからお願いしたい。

2019年6月12日 (水)

再教育が必要なのだろうか

きょうは珍しく、児童(少子化)に関連する話をエントリーしてみる。

私自身が未婚であり、(本日現在まで)子育て経験はない。なので、街角で子どもを同伴している親(母親の場合が多いが、土日には父親が一緒に居る姿も結構見かける)を傍目で眺めながら、子どもを一人前の大人に育てるため奮闘している姿に、微笑ましくなることが多い。

もちろん、時折だが社会常識に沿っていない親を見かけることはある。どんな事情があってそうするのか、なかなか察することはできないし、私自身が実害でも受けない限り、あえて口出しすることはしていない。親のそんな姿を見た子どものほうは大丈夫かな? と心配になることはあるが。もっとも、これは一握りの例であり、大部分はごく普通の常識的な親だ。

いずれにせよ、この子どもたちは自分たちの老後を支えてくれる世代である。元気に育っていってほしいと思う。

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しかし、残念なことに、世の中にはそう考えない人がいることも現実だ。親たちが社会常識に反する振る舞いをしていなくても、子どもたちや親たちに対して露骨に不快感を示す人たちが、相当数の割合でいる。それが単なる不満や、苦情程度に収まっていれば、まだ個人の意見として理解できないわけではないが、犯罪にまで至ることがある。

6月5~6日の間に、東京都足立区で、数人の幼稚園児の自宅郵便受けへ、「朝、駐車場で子供を騒がせるな。静かにさせろ。できなければ何があっても文句を言うな」との脅迫文が投函されていた。保護者が警察へ届け出て、捜査の結果、71歳の男が容疑者として逮捕された。男は容疑を認め(脅迫の意図については否認)、「毎朝のことで騒音に耐えかねた」と供述しているという。

この人物の姓を見て、同じ姓の男(たぶん血縁ではなく、偶然であろう)が数年前に起こした、とある事件を思い出してしまった。

2015年、東京都の有楽町駅でベビーカーに乗っていた1歳児の頭を、64歳(ならば現在は68歳ぐらい)の男が拳で殴打した。母親の悲鳴に驚き、父親がすぐに男を取り押さえ、警察に突き出したので、男は逮捕された。「ベビーカーが邪魔だったので殴った」と供述していた事件。

どちらの男にも共通するのは、子どもや親に対する病的な憎悪である。普通は、ベビーカーが邪魔だと思っても、子どもを殴ることはしない。普通は、幼稚園のバスを待っている子どもの声がやかましいと思っても、親を脅迫することはしない(ちなみに、私自身、営業時間の関係上、朝起きるのが遅いので、家の前を通る小学生の大きな声で起こされることはあるが、『ああ、もうそんな時間か』と思うだけで、一度として迷惑だと感じたことはない)。

もう一つ共通する点がある。それは二人とも「団塊の世代」であることだ。前者はおそらく1947年生まれ、後者はおそらく1950年生まれで、厚労省が白書にうたう「団塊世代(1947~49年生まれ)」より一つ若いが、実はこの年までの出生数が著しく多いので、広義の「団塊の世代」は、1947~50年生まれと考えて差し支えない。

日本中を騒がせた大事件でもないので、二人の家族関係や背景を検索しても明らかではなかった。憶測は控えたいが、家族がいないか、または、いても孤立に近い状態だったのではないだろうか?

もちろん、子育てに不寛容なのはこの二人だけではない。確かにこの二人がやったことは異常であるが、自宅の近くに幼稚園や保育所の設置計画が持ち上がると、地域の静穏が乱されると思い反対する住民(おもに中高年以上だが、若い世代にもある)は、日本中の各地に存在する。ある意味、この二人がしたことは、多くの市民が抱いている気持ちを、過激に表現しただけだと言えるかも知れない。幼稚園教諭や保育士たちの技術的な課題も存在している(ヨーロッパの福祉先進国では、幼児たちを無理に抑制しなくても、あまり騒がせずに遊ばせる技術が進んでいるとの報告もある)。また、ベビーカーを電車に乗せる親の一部には、他の乗客や通行人への配慮が欠落しているとの意見もある。不満や苦情を訴える側が一方的に非常識でズレていると言うのは、過当であろう。

だからと言って、暴力や脅迫が許されて良いはずはない。当たり前だ。

この二人のような行為が頻発した場合、単に社会不安を誘発するだけではない。若い子育て世代の間に、「自分たちが働いて納める税金を、何でこんな〔子育てを妨害する〕ジジイたちのために使われなければならないのか?」との声が高くなれば、団塊の世代に対する批判が強まり、世代間の憎悪を増長させ、地域社会の人間関係がさらに不寛容になる恐れがある。

そうならないために、私たちは何をすれば良いのだろうか。

この二人のような人だけではなく、すべての住民、特に中高年以上を対象とした「再教育」が必要なのかも知れない。いまの日本の少子高齢化により、社会の持続にとって危機的な事態が近付いていること。それを考慮すると、自宅近くだけ子どもの騒音がないようにしてほしいなどの「総論賛成、各論反対」は、もはや許される状況にはないこと。地域全体で理解し合って子育てをすることが、自分自身の老後を支えてもらう豊かな社会の構築につながること。等々。単なる「学習会」ではなく、おもに周囲に子どもがいない人たちには、地域の幼児や小児と実際に触れ合ってもらう機会もほしい。

もっとも、そんな再教育の場を設けたとしても、上記の二人などは参加しないかも知れない。それならば逆に、彼らを孤立させないために、地域でどう声掛けをすれば良いのか? 次なる課題を皆で協議していくことが大切だ。

地域包括ケアシステムが目指すものは、高齢者や障害者だけのための仕組みづくりではない。誰もが住みやすい街をどう建設していくのか、構成員が全員参加する形で、知恵を絞っていきたいものである。

(※画像はグラパックジャパンのものを借用しました)

2019年5月14日 (火)

ようやく「普通」になった?日本

令和の時代が幕を開けて、はや二週間になる。

平成の30年余については、さまざまな振り返りがあるだろう。

こんなデータがあるので、読者のみなさんにご一覧いただきたい。

 

【G20諸国の指導者の変遷(1989-2019。臨時代理は除く)】

日本の内閣総理大臣         18代(17人)

中国の最高指導者             4人

韓国の大統領                   7人

インドネシアの大統領        6人

インドの首相                  10代(9人)

トルコの政権担当者         11人

サウーディ‐アラビアの国王 3人

南アフリカの政権担当者     7人

欧州連合(EU)委員長       5人

イタリアの首相               17代(13人)

英国の首相                     6人

フランスの大統領             5人

ドイツの首相                   3人

ロシアの実質的政権担当者 3人

カナダの首相                   6人

米国の大統領                  6人

メキシコの大統領             6人

アルゼンチンの大統領      8人

ブラジルの大統領            8人

オーストラリアの首相       9代(8人)

 

途中で大統領・首相・(一党独裁の国では)党書記長などの肩書が変わっても、政治指導者であった期間は通して一人と数えた。また、軍事委員会主席や軍政評議会議長などの地位にあった人物でも、公的な肩書を有して事実上政権を担っていた人物は数に入れたが、公的な肩書を持たないインフォーマルな実力者は含めていない。あくまでも何らかの形で「現職」にあった首脳の代数・人数である。

そして、このように一覧表にすると、ここ30年は首脳の代数・人数とも、日本が最多なのである。

日本以外の国で、首脳経験者の人数が二ケタなのはトルコとイタリアだけ。ドイツとロシア(旧ソ連から。「事実上」で数えた)に至っては、絶対君主国であるサウーディ‐アラビア並みだ。中国もそれに近い。

もちろん、政治指導者が民主的なプロセスで選ばれていない国もあることや、長期政権が人権侵害をもたらしている国も少なくないことは百も承知だ。しかし、政策の安定的継続や対外的な代表の重要性を考えた場合、政治指導者がクルクル変わることも、決して望ましくないのではないだろうか。

国際的に見れば、日本の現政権の長さは「普通」のレベルである。私個人としては、外交や防衛に関しては大枠支持・一部批判、社会保障や教育に対しては大枠批判・一部支持、経済・産業・科学技術・国土政策その他は是是非非で評している。だが、「長期政権」であること自体については、基本、プラスに評価できる。

確かに政権の綻びはいろいろと垣間見られるが、そもそも「独裁者」を嫌う日本の風土では、長期政権の弊害がそれほど大きくなるとは考えられない。この点については拙著『これでいいのか?日本の介護』第7章も参照されたい。

「地球儀を俯瞰する外交」に対してはさまざまな視点からの評価があるだろう。しかし、6年半の間、対外的な「顔」が安定していたことは、日本の国力をアピールするためにも大きな意味を持っていたはずだ。一年やそこらで頻繁に総理が変わっていた一時期、世界各国の首脳たちは、日本政府をどこまで信用して良いのか心もとなく感じていたとしても、不自然ではあるまい。

いまの政権与党が続くとしても、野党が政権交代するとしても、今後、簡単に総理が入れ替わるような状況は、国民の利益に鑑みて、ご免こうむりたい。次の総理以降も、長期安定政権を目指してほしいものである。

2019年4月 2日 (火)

元号あれこれ

新しい元号「令和」が発表された。

私自身はクリスチャンなので、公的な文書以外は原則として西暦を使っているが、決して長い伝統を持つ元号の意義を否定するものではない。令(よ)き和(やわら)ぎを求めて、国民が力を合わせていくことにより、望ましい社会が建設されることを願いたい。

これまでの元号の数は膨大であり、日本だけを振り返っても「令和」は248番目となる。これらの元号すべてを頭の中で西暦に置き換えることは、常人には不可能に近い。それができる人は日本中探しても数えるほどではないだろうか。私自身、昭和、大正、明治、慶応、元治...とさかのぼって、宝暦(元年は1751年)辺りまでがやっとである。それ以前では、享保、元禄、寛永、慶長、天正など、特筆すべき事件などがあった元号だけは、何とか西暦と対照できるのだが...

さて、その多彩な元号の歴史の中から、いくつか興味深い話題を紹介してみよう。

(1)政変に始まり、タタリに終わった「延喜(901-23)」

醍醐天皇の元号。後代、「延喜の治」と理想化された天皇の時代であったが、実際に醍醐天皇がどの程度力を発揮できたかは明瞭でない。むしろ、この時代は菅原道真が大宰府へ追放された「昌泰の変」直後の、物々しい政情のうちに始まった。そして道真は没後、平安朝で最大級の「怨霊」になってしまう。政敵の藤原時平が若くして死去。他にも道真と敵対した人々が次々と不運な死を遂げ、醍醐天皇の皇太子・保明親王まで若死にするに至って、朝廷は道真のタタリに全面降伏する事態となった。長く続いたこの元号もついに終焉、「延長」に改元されている。

(2)強引に改元するも失政で崩壊した「建武(1334~36/38)」

後醍醐天皇の元号。配流先の隠岐から帰還して鎌倉幕府を打倒した天皇は、簒奪者・王莽を滅ぼして古代の漢王朝を再興した光武帝(世祖)に自らを擬し、臣下からの「武」字を回避すべしとの進言を退けて光武帝の元号「建武」を転用、「建武の新政」を開始する。しかし時代錯誤の武士軽視や土地の配分の失敗により、世論は天皇に背反し、足利尊氏をはじめとする諸国の武士が離反したことにより、新政は二年で崩壊、天皇は早々に「延元」と改元してしまった。面白いのは離反した武家側が担いだ北朝の光明天皇の朝廷がしばらく「建武」を使い続け、南朝より二年半も遅れて「暦応」と改元していることか。

(3)延々と改元させてもらえなかった「応永(1394-1428)」

後小松天皇・称光天皇の元号。歴代元号のうちでは昭和、明治に次ぐ三番目の長さである。実はその前から改元は2~3年ごとに行われ、将軍・足利義満は嘉慶、康応、明徳と続く代々の元号制定に事実上の決定権を行使してきた。ところが明徳のあと「洪徳」を提案したところ、朝廷側から「洪水を招く字はよくない」とハネられてしまった。怒った義満は、改元された「応永」を「改元させない」ことで権力を誇示する方策を採る。これは次の将軍・足利義持にも受け継がれ、称光天皇は即位して代替わりしたのにもかかわらず、16年も改元できずに過ごし、義持の没後ようやく「正長」と改元できたが、それから三か月で亡くなってしまった。

(4)改元していきなり不吉な事件が起こった「嘉吉(1441-44)」

後花園天皇の元号。辛酉の年に当たり、政治的変革を回避するため、前の元号「永享」から改元された。ところが改元してわずか4か月後、良い元号とは裏腹に、政権の最盛期にあった将軍・足利義教が播磨守護家の隠居・赤松満祐に暗殺される大事件が勃発。混乱した室町幕府では、実力者の山名持豊(宗全)が中心となって出兵、満祐を攻め滅ぼすことができたが、後継の将軍・足利義勝は間もなく10歳で死去。その次の将軍が決まらないまま(数年後に足利義政が就位)、民間では「公方を欠きつ」と皮肉られ、ほどなく「文安」に改められている。

(5)中国から「直輸入」した「元和(1615-24)」

後水尾天皇の元号。大御所・徳川家康は大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼした後、「禁中並(ならびに)公家諸法度」を朝廷に突き付け、今後は原則として中国の元号のうち吉例を勘案しながら直輸入することとした。こうして選ばれたのが唐の章武皇帝(憲宗)時代の「元和」で、帝が安史の乱以降の地方政権乱立状態だった唐王朝を、一時的ながら再統一した時期の元号なのである。戦国時代が終焉して「和を元(はじ)む」の意味もある。しかし、朝廷側有識者の反発は強く、改元後一年も経たずに家康が没したこともあり、将軍・徳川秀忠は次の改元「寛永」から態度を軟化させて、朝廷が提案した日本の独自元号を幕府が追認する形に事実上改めた。

(6)災害続きのため土壇場で姿を消した「明和(1764-72)」

後桜町天皇・後桃園天皇の元号。『尚書』堯典の「百姓昭明、協和万邦」から採っており、「昭和」と同じ出典である。老中・田沼意次が政権基盤を固めていく時代。ところが田沼の不運は、在任中にしばしば災害(天災・人災)に見舞われたこと。その最初が明和九年(1772)に発生した江戸の大火だった。加えてこの年には風水害や疫病も起こったため、識者から「メイワクネンは迷惑年」だとの議論が勃発し、朝廷も幕府も凶事を回避する動機から、年末に至って「安永」に改めている。

(7)まぼろしの元号「令徳」

孝明天皇のとき、1864年に提起された元号案。甲子の年に当たるので政治的な変革を避けるために改元が提案されたが、孝明天皇側から示された第一案が「令徳」で、第二案が「元治」。出典はともかく、令徳の真意は「徳川に指令する」、元治の真意は「はじまりの治世」であり、天皇の側に「王政復古」への強い意志があったことは明らかだ。幕府側はさすがに「令徳」は受け入れられなかったので、結果的に「元治」で妥協し、改元された。もしこのとき「令徳」が採用されていたら、「令和」を待たずに「令」の字を冠した元号が登場していたかも知れない。
なお、「令和」の「令」は旧暦二月の美称「令月」の「令」であり、「よい」「うつくしい」の意味なので、誤解なきように。

以上、元号にまつわるエピソードをいくつか紹介したが、長い元号の歴史の中には、他にも私が知らないトピックがいろいろと存在したであろう。また機会があれば、それらを拾い上げてみたい。

2018年10月 4日 (木)

「暗闇の浜松」を経験して

自然災害に対しては、「備えが必要」と言われていても、ふだん縁が薄いとなかなか本格的な備えをする気になれないものだ。私自身、人為的なスインパクトに対しては比較的用心するほうだが、自然に対してはあまり用意周到な人間ではないので、いざ直面すると何かとボロが出てくることになる。

このたびの台風24号。沖縄から入り、日本列島を縦断して北海道へ抜けていった。日本列島を縦断した形であるが、意外にも最も大きな物的被害を受けた町の一つが、浜松だったのだ。

もともと、9月30日(日)には名古屋で叔父(9月初に死去)の三十五日の法要に参列する予定であった。ところが、台風が東海地方に30日の午後接近することが報じられ、JRでは新幹線も在来線も、運転見合わせとなった。とすると、名古屋まで行っても浜松に戻れなくなってしまう。翌日の午前中、事務所に居なければならない(月の1日であるから各事業所からのFAXが殺到するのに加え、三か月先の短期入所の予約を入れなければならない)私は、やむを得ず法要を欠席することにした。

そこで、せっかく浜松に残ったのだからと、早目に買い物を済ませて帰宅。暴風雨の被害を避けようと雨戸を全部閉め、吹き荒れる嵐の中で夕食をいつも通りに摂って、そのあとCDを聴き、23時ころにシャワー浴をしていたところ、その最中に停電。

意外なことに、薄明りでも浴室内の物品の輪郭は何とか弁別できた。全裸だったので、急いで動いて転倒や負傷をしないように気を付けながら、そのままシャワーを終えて、服を着てからおもむろに懐中電灯を点けた。

30日の夜は、暗闇の中で何もできず、いつもの感覚から数時間程度で復旧するだろうと思い、なかなか寝付かれずに電気が通じるのを待ったが、結局は暗いままで睡眠不足の朝を迎えた。

10月1日(月)、スマホのバッテリーが減りつつあるのを心配しながら、停電情報を見たところ、何と浜松全域と周辺一帯がまるごと停電状態!

家の飲み水は3~4日間大丈夫だが、食べ物は家電無しでは口にできないものが多く、何日分か買い足す必要がある。懐中電灯の単一乾電池は予備のものを保管してあったが、スマホを充電する術がない。家に居ながらにしては市内の被害状況の把握ができなかったので、最悪の場合は、昨日行くはずだった名古屋の叔母宅まで行って(JRは一部運行再開していた)充電させてもらうことまで想定して、まずは自宅を出て事務所に向かう。

途中、信号機は大部分が滅灯していて、交差点では十分注意し、譲り合いながら慎重に通過した。心配しながら事務所に到着したところ、幸いにもすでに復旧しており、すぐにスマホを充電。地域のコンビニは過半が閉店しており、開いていたところも「火を通さずに食べられる」ものは大半が売り切れ。朝のうちは加工肉・魚の缶詰類が売れ残っていたので、ひとまず停電継続に備えて食料を確保。

この日は、業務上必要な連絡を取っても、相手方のうち半数程度は停電のため電話が通じない状態。前月の実績も例月の1日の半分程度しか送られて来ず、逆に短期入所の予約を入れてもFAX不通の事業所があった。ともあれ、必要最低限の用件について関係事業者とのやりとりはできたので、不十分ながら一日の仕事を終了。PCで停電情報を確認するも、私の自宅がある地域は「調査中」の表示になっていたので、もう一晩は暗闇で過ごすことを覚悟して帰宅。帰る途中、いくつかの区域が信号機も外灯も消えた暗闇状態で、自宅周辺もまた同様であった。

冷蔵庫にはやや冷気が残っていたので、最低限の食物を取り出して急いでドアを閉め、あり合わせのものを組み合わせて夕食。

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暗闇では何もすることがないので、本県出身の故・加藤剛の追悼でもしようと、懐中電灯の明かりを頼りに、海音寺潮五郎の『平将門』(加藤が主演したNHK大河の原作)を読み返してみた。

まだエコキュートのぬるま湯が出たため、簡単にシャワーを浴びて、日付が変わり、そろそろ寝ようかと思っていたとき、電気が復旧! 急いで家電関係のスイッチや接続などを一通り点検して、安堵してから就寝した。

2日(火)の朝、事務所へ出勤するときには、いまだに相当な数の箇所の信号機が滅灯したままであった。前日には少なかったFAXの実績も次々と送られてきたが、中には同一法人の離れた事業所の番号からのものもあり、市内一帯の完全復旧は少し先になりそうだと実感。帰路でも、一部区域で真っ暗なところがあったので、不安な気持ちで停電三夜目を迎える人たちのことを思うと、自宅の電気が復旧したからと言って、素直に喜べなかった。

3日(水)になって、TVで報じられるところによると、山間部には倒木で道が塞がってしまったところがあり、そこから先の復旧がいまだしであるとのこと。周囲に買い物に行く店もない地域で、住民の方々は不便この上ない生活を強いられているであろう。関係機関の協力により、一分でも早く電気が使える生活に戻ることを願いたい。

今回の台風による「浜松大停電」は、北海道の地震に伴う大停電とは比較にならない小規模な災害だったかも知れない。しかし、これだけの広域で大規模な停電が起こったことは、私たちにとって大きな教訓になった。備えが不足していた部分や、不測の事態への対処法など、いろいろな課題を焙り出してくれたと思う。

また、電気業界においても、少子高齢化により熟練した技術者が減りつつあることは現実である。これからこのような災害が起こったとき、復旧にはより多くの時間を要することになるであろう。待たなければならない時間に、私たちが何をしなければいけないのか。特に災害弱者の人たちに対する地域での助け合いなどを考慮に入れて、マニュアルを準備することも大切であろう。

あまり頻繁に来てもらっては困るが、同様なことが再度発生した際には、周章狼狽せずに粛々と行動したいものである。

2017年9月15日 (金)

「敵」だからこそ必要な窓口

北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)危機が、深刻さを増している。

米国は北朝鮮の挑発的行動に強い制裁を加える態度で臨み、日本もこれに同調している。これに対して、北朝鮮側は一層反発して、ミサイルや核兵器の開発をさらに推進している。

多くの日本国民から見れば、北朝鮮の核兵器・ミサイル開発は一方的な暴挙である。しかし立場を入れ替えれば、米国や韓国と休戦状態-いまだ戦争中-である同国に取って「当然の自衛措置」以外の何物でもないことも、また現実である。同国からはリビア(2011年、旧ガッザーフィ政権破滅)の例が引き合いに出されるが、むしろ私はウクライナ(2014年、クリミア半島喪失)の例のほうが北朝鮮指導部の核兵器開発への意思を加速させたと考えている。

ウクライナが旧ソ連から継承した核兵器を放棄してロシアへ移管した際に、ロシアに加え米国・英国が参加してウクライナの領土保全を約したにもかかわらず、親ロシア派による一方的な住民投票の形で、クリミア半島をロシアに奪われているのだ。もしウクライナが核兵器を保有していたら、展開は異なっていたとの思いは、北朝鮮指導部のみならず、世界の多くの人に共通するものであろう。したがって、米国側が「北朝鮮が核兵器を放棄すれば政権存続を保障する」との言明をしたとしても、北朝鮮側からは信用できないのは自明の理なのだ。

私は読者がご存知のように、防衛力強化論者である。明確な形でなくても、日本を事実上の敵国と見なして恫喝を続ける国に対しては、同盟国と連携しつつ、自らも着々と防衛能力を強化して、相手国から攻撃されにくい状況を作ることが必要だとの考えである。

しかし、それは「対話の窓口を閉ざしても良い」ことと同じではない。むしろ逆だ。味方ならば窓口はいくらでも作れる。「敵」だからこそ、対話の窓口をどこかに開いておくことが必要なのだ。特に北朝鮮危機は米国・韓国と防衛上の歩調を合わせることが求められるが、その中でも、日本として独自外交を展開できるための仕掛けはしておかなければならない。そうしないと、全面的な同盟国との一蓮托生になりかねない。

独自外交の余地を残しておくことは、決して同盟国に対する裏切りではない。むしろ状況によっては、同盟を補強する役割を発揮することもある。偶発的な事態が起こっても相手国側の真意を確認する術がなければ、かえって深刻な状況を招く恐れもあるのだから、パイプを残しておくことは必須であろう。

現在の政府与党が北朝鮮との間にどの程度の広さの窓口を持っているのか、判然としない。おそらく何らかのパイプはつながっていると推測されるが、自民党内の右派勢力が強くなれば、パイプは細く頼りなくなるかも知れない。

東京新聞の望月衣塑子記者が政府の記者会見の場で、「北朝鮮の要求に応えるような働きかけを米国・韓国に対してやっているか?」と質問したことは、右派(特にネット民)から一斉攻撃されているようだが、政権与党が独自外交をする用意があるのかを質す意味では、鋭い視点だったと思う(ただし、同記者は被選議員でもないのに私見・憶測を述べて記者の本分を逸脱したり、限られた質問時間を独占したりと、他の問題があるので、基本的に氏のスタンスを私は支持しない)。菅官房長官は「北朝鮮に聞いてくれ」とはぐらかしたようだが...

この後、アントニオ猪木議員が訪朝して、北朝鮮の複数の幹部と対談したことは、対話するパイプを維持しておくためには大きな意味のあることだ。少なくとも北朝鮮側からは、日本側に対し窓口を開いていることを示したことになる。猪木氏が構想している議員団の訪朝が果たして現実的なのかは何とも言えないが、氏の見解「日本側が窓口を閉ざしているのでは」は正鵠を射た指摘である。猪木氏を北朝鮮の傀儡だと非難する見解は、全くの的外れであろう。

その窓口を北朝鮮側が有利に使おうとしたら、日本側は毅然として自国の主張をコンフロントすれば良い。国内の「親北勢力」に配慮する必要はない。テーブルに示した相互の主張が本当に折り合えない内容であったら、平行線をたどるのはやむを得ないが、テーブルそのものを壊してしまってはいけない。

今回の危機は、総理をはじめ閣僚、関係議員、官僚の人たちも難所だとは思うが、何と言っても全国民の生命がかかっているのである。高度な政治的判断を誤らず、主権国家日本に取って最善の道を賢明に選択してほしいと願う。

2016年6月 5日 (日)

「仁義なき政争」

・・・日頃は、自分たちこそが平安(ヘイワ)主義者だと称している政治家たちが、その信条を否定しかねない相手に出くわすと、「死ね」などと汚い言葉で罵倒し、反対勢力を黙らせるため、場合によってはお抱えの暴力集団さえ使用して恥じるところがないのだ。これまでの「法(のり)」そのものに瑕疵があったことを棚上げして、安倍氏がそれを破ったことに難癖を付ける行動は、筋道から外れた挑発としか思われない。外部勢力と結託して安倍氏を攻撃する行為まで、自分たちの目的のために正当化してしまっているのだから、もはや仁義を踏みにじる無法勢力と変わるところがないではないか!・・・

おっと! 酔った勢いで「前九年の役(1051-62)」の話をしてしまった... f(^_^;)

21世紀に話を戻そう。

まず、現政権による政策のすべてが良いとは、もちろん私も思わない。社会保障政策などには、当事者の立場から見て「No!」と言いたい部分がたくさんあることは事実だ。

しかし、政権批判をするにしても、議会制民主主義の基本原則にのっとった方法でするのは当然である。

振り返ると、昨年秋の国会内外において安保法制に反対する勢力の動きには、(国会前デモの妥当性を否定する意図はないが)多くの場面で、基本原則から逸脱した言動が見られている。具体的には、政権側の一つの政策の是非を論じるのが真の目的ではなく、政権打倒を目的にする人たちが、純粋な「安保法制反対論者」とは異質の行動原理によって動いているという意味である。

今年に入ってからも同様な状況が続いている。先の「介護離職についての考察(2)」で示した保育所問題に関する論議も、その一例だ。政権の子育て政策の不備を攻撃していた第一野党の幹部議員が自身の燃料費疑惑を追及されると、こんどは第一野党側の市民活動家たちが一斉に、現総理の燃料費支出が著しく過大であると騒ぎ立てた。一国の総理が国を代表して内外を動き回るためには、さまざまな交通機関で膨大な燃料費を要するのは当然であり、与野党が逆になれば逆の結果になる。現総理は外遊時の宿泊費用も、あの渦中の東京都知事に比べると、何分の一かに抑えており、むしろ無駄遣いを控えるべく配慮していると言えよう。

第一野党の幹部議員が燃料費を浪費するなど公人として不適格であれば、まず更迭すべきであり、代わりに育児問題に該博な他の議員が中心となって、この問題を政権側と議論しなければならない。しかし、そのような段取りを履まずネガティヴ‐キャンペーンに終始するのであれば、幹部議員の行為を正当化して地位を温存させたい党利党略主義としか受け取れないではないか。

さらに、先日のサミットで抽出された課題に関する第一野党の政権攻撃は、お粗末としか言いようがない。英国の風刺画に津波の姿をした「愚か者」として描かれた前ロンドン市長の顔を、日本の現総理の顔と間違える。「the financial crisis」がリーマン‐ショックの意味であると知らずに、英語版資料にリーマン‐ショックが出てこないからこれは政権側の情報操作だと騒ぐ。とにかく目に入った材料を何でも政権の揚げ足取りに使って自爆するという、官邸からも失笑を買う一連の行為は、心ある市民を落胆させるに十分過ぎるほどであろう。

強固な支持基盤を持つ別の某野党は、こんな第一野党の足元を見透かして、反政権側勢力での存在感上昇を果たしつつある。しかし某野党には、現総理にヒトラーのヒゲを付けた顔をドラムに描いて叩きまくった元ロッカーの議員に象徴されるように、何が何でも現政権を「極右」と位置付けてイメージダウンさせようとする意図が見え見えである。

また、同じ反政権側勢力の一部は、悪質なプロパガンダも展開している。

沖縄の女性殺害事件をめぐる対応で、米軍関係者の家族たちが、祈りの言葉を書いたプラカードを掲げて路上に立ち、頭を垂れている光景が報道された。N教団(米国に拠点)が関係者に呼びかけて主催した和解へ向けての行動である。ところが、反政権側の活動家たちは、この行動の中心人物がK教団(日本に拠点)幹部と握手して、もらったバッジを付けていたことから、K教団が人々をダマしていると強弁しているのだ。日米安保を維持・推進する勢力(政権与党に近い側)を攻撃する材料が見つかれば、なりふり構わず持ち出すのであろうか?

そもそも、N教団であろうがK教団であろうが、宗教団体が争いを煽るのならともかく、異なる立場の人たちの融和を図る活動が、なぜ「ダマす」ことになるのか? これがもしN教やK教ではなく、私の信仰であるカトリックを指した発言であったら、悪質な誹謗中傷として容認できないであろうし、私の知人や私と同じ団体の成員の発言であれば、撤回と謝罪を要求するであろう。しかも「ダマしている」と言い放った個人・団体の中には、九州の国立大学の教員まで含まれていることを確認している。この教員の専攻は人権教育であり、反差別教育も含まれているというから驚きだ。特定の宗教の信者を差別視する人間が反差別教育をすること自体、お笑いものではないか。
(K教団は過去、国内で悪質商法とされて訴訟が起こされたことがあるが、仮に宗教団体にそのような側面があったとしても、信仰とは別の事案として対応されるべきものであることは、拙著『口のきき方で介護を変える!』中に明記した。もしこの教員が両者を分別する能力を欠いているのならば、資質自体に重大な疑問がある)

ヘイトスピーチに反対だと称する人たちが、他方で「ヤンキー(米軍ではなく米国人)‐ゴー‐ホーム!」とシュプレヒコールを揚げるのも同様である。タレントや商社員など軍関係者でない米国人が心ない罵声を浴びている事実も報告されている。政権反対なら何でも正しいという身勝手な論理を通したい人たちが、このような愚かな行為をするのだ。朝鮮半島の人たち、フィリピン・ブラジル・ペルーなどの人たち、米国人たち、どこの人たちに対するヘイトスピーチも、許されてはならないのは当然だ。

長々と述べてきたが、一言で言えば「仁義なき政争」である。相手方を叩き落とすためには何でもアリになってしまっている、ということだ。

現政権与党が野党だった時期にも、逆のアクションがなかったとは言わない。しかし、いまの反政権側に比べると、基本原則からの逸脱はかなり少なかった。だから愛想をつかす市民が少なく、政権奪還に成功したとも取れる。

私がいまの時点で支持する政党は、政権与党の二政党のどちらでもない。だからと言って、自分が支持する政党の政策がすべて正しいとは思わない。賛同すべきところは賛同し、批判すべきところは批判しながら、他の諸政党と比較して最も自分の考えと共通する部分が大きい政党として認められる場合、はじめて一票を投じるつもりだ。

当地・浜松における私の友人・知人にも、さまざまな政党の支持者がおられる。少なくとも私が日常的にお付き合いしている方々は、おおむね民主主義の基本原則を履んだ議論の応酬ができる、良識のある方々なので、逸脱行動はされないと信じているが。

「仁義なき政争」は横目で見ながら、冷ややかにスルーした上で、自分の信条に従い、民主主義の基本原則にのっとって、政治的な意見を述べていきたい。それが成熟した民主主義社会において市民の取るべき態度であると考える。

2015年9月12日 (土)

二分割思考の落とし穴

このたびの大雨により、当地・浜松では、一部地区に冠水があったものの、被害は少なかった。他方、茨城県をはじめ、北関東や南東北のいくつもの地域が、河川の堤防の決壊、冠水などにより、甚大な被害を受けた。水害被災地の方々には、心からお見舞いを申し上げたい。

さて、このようなときに決まって登場するのが、メディアやネットを媒介にした、「犯人は〇〇だ!」型の論説である。特に事案発生直後は、飛び交う情報も玉石混淆であるから、なおさらこの類の論説が大手を振ってまかり通ることになりやすい。

今回の水害について言えば、おもに前政権に連なる人たちが非難の対象とされている。具体的には、防災に関する公共事業を仕分けした人たち、自衛隊(救助に当たる人たち)にかける費用を削減した人たち、太陽光発電を推進した人たちや、それらの政策に乗って実際に作業をした人たち、たとえば堤防を削ってソーラーパネルを設置した事業者などが標的として叩かれている(逆に、現政権側で非難されている人たちもいるが、概して少数である)。その中で、個人名や事業者名まで槍玉に上がっている。

特に、いま安全保障法案に関して現政権が反対派側(前政権側を含む)からの強い批判にさらされているだけに、このたびの水害は、政権を支持する人たちが反撃して前政権側の「愚策」を批判する格好の材料になっている。

もちろん、上に挙げた人たちの多くには、それぞれ責任の一端はあるだろう。政権を取った驕り、政権に連なる驕りから、長期的な展望を欠いた施策や事業を一方的に推進した人たちもいることは確かである。良かれと思って推進したことが裏目に出て、拙策となってしまった面もあるかも知れない。

しかし、特定の政党や事業者を「犯人」として叩く考え方は、「情報を操作したい」人たちの罠に陥りやすいのだ。

これは日本人に特有な思考体系であり、「二分割思考」と呼ばれている。白と黒、善と悪、正と邪、純と不純などが代表的なものである。

「悪玉」を叩くことで、「善玉」を支持する市民は快哉を叫ぶ。しかし次に起こるのは、「悪玉」を排除する運動である。たとえば、政策の思惑と関係なく、科学的な論証に基づいて真面目に(住民に迷惑を掛けずに)太陽光発電を推進したい事業者が、地域で不当な権利侵害を受ける。あるいは、客観的な根拠に基づいて、自衛隊の本当に不要な設備の削減を主張した論者が、ネットで攻撃されて炎上する。

また、「悪玉」=「真犯人」ではないことが多い。今回の水害も、巨視的に見れば地球温暖化の大きな影響の一つとして、日本上空に線状降水帯が発生したことによるものである。この気候変化を作り出したのは、長期的に温室効果ガスを排出してきた、日本を含む先進国の国民すべてである。一定以上の年齢の人であれば、あなたも、私も犯人の一人ということになる。

この気候変化が不可逆的なものであれば、犯人探しよりも、より被害を少なくする減災対策が急がれるものであり、悪玉を叩いている暇があったら、国民全員で効果的な対策を議論していくほうがよほど建設的だ。もちろん、まさしく既往の愚策や拙策があれば、これを望ましい方向へ転換させていかなければならないのは当然であろう。悪玉叩きがくだらないと言っても、批判された人たちが現実を無視して開き直っても(誤ったことを続けても)構わないと言っているのではない。

私が強調したいのは、市民の思考が誤った認識に基づいて進展してしまうと、事案の根本的な解決から遠ざかってしまうということだ。「二分割思考」にはそのような落とし穴があることを、多くの人たちに理解してもらいたいのである。

この「二分割思考」についても、近刊の自著(第7章)で述べておいた。世に出るまで、いましばらくお待ちいただきたい。

2013年10月10日 (木)

「きりすて教」信者の人間に告ぐ!

10月7日、京都地裁で画期的な判決が下されました。朝鮮学校やそこに通う生徒たちに対して、街宣で「ヘイトスピーチ(憎悪の言葉)」を繰り返していた団体に対し、損害賠償を命じるものです。この団体は2009年、両親が在留特別許可を認められなかった(中学生の女の子には許可が下りた)フィリピン人一家に対する悪質な街宣活動を繰り返したことでも知られています。これをはじめ、数多くの機会にいくつもの国の(日本に在住する)人々に対し、数々の暴言を織り交ぜたシュプレヒコールを展開しており、良識ある人々から非難されています。

私は個人的には日本の外交・国防を強化すべきという考え方に立っています。わが国は、過去、日本の侵略戦争により迷惑をかけた国からの要求であっても、筋が通らない内容であれば断固として突っぱねるべき、また一方的な「反日」宣伝を許さないための積極的なロビー活動を展開するべきであると考えています。

しかし、たとえ日本国とある国、A国との関係が悪化している、あるいは断絶状態にあるからと言って、日本に居住しているA国やA国系の善良な人たちが、肩身の狭い思いや、いたたまれない思いをすることがあってはなりません。A国からの一部の日本在住者が、もし本当に「反日」の主張をしているのであれば、それには別の法令や社会規範に基づき粛々と対応すべきでしょう。裏を返せば日本人には、日本の風土を愛するA国の人に快適な生活を送ってもらう責任があります。とにかく民族的憎悪を煽る「ヘイトスピーチ」は許されない、これは先進国であれば当たり前の常識と理解すべきなのです。

その意味で、上記の判決を歓迎すべきことは言うまでもありませんが、この問題の背景には「人種差別」「民族差別」にとどまらない大きな問題をはらんでいます。いわゆる「誰かを叩かなければ気が済まない人たち」の存在です。

たとえば、すでに述べた「生保受給者」の問題。「あいつらがいるから自分たちの権利が奪われて(縮小されて)いる」と思う(思わされてしまっている)市民が少なくないという現実があります。人によってそれは「働くシングルマザー」であったり、「引きこもりの人々」であったり、「精神障害者」であったり、さらには「認知症の高齢者」であったりと、さまざまです。冒頭に述べた団体に参加、共鳴する人たちにとってみれば、「在日外国人」が自分たちの「権利を横取りする、憎むべき連中」なのでしょう。

悲しいことに、社会の閉塞感が、少なからぬ日本人の心の中にこの「排除の論理」を形成してしまっているようです。そのような論理で行動する人たち、それに共鳴する人の頭の中には、連鎖的に「信仰」と言っても良いほどの、強固な観念が根を張ってしまいます。「キリスト教」ならぬ「きりすて教」と表現しても良いでしょうか?

この「きりすて教」信者の皆さんに問いたい。

「同じ社会に住む人を排除することで、本当に実りある豊かな生活ができるんですか?」

いま、あなたは排除する側の人間かも知れない。しかし、あなたがそのような論理を認めるということは、将来、あなたが何らかの事情で排除される側になってしまっても、それを受け止めるということでしょうか? そのようなイマジネーションを働かせることができず、単に自分たちの間尺に合わない人たちを切り捨てようとするのであれば、おなたの心は何と貧弱なことでしょうか?

「きりすて教の信者よ! 次に切り捨てられるのは、あなたです!」

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