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2024年2月18日 (日)

多様性を声高に唱える人ほど、多様性に不寛容ではないのか?

社会福祉士(一応...)の一人として思うこと。

社会にはさまざまな属性を持つ人々が共住している。私自身、個人としては「男性」「19XX年生まれ」「静岡県出身」「独身(結婚歴がない)」「カトリック教会の信徒」、また社会の中では「浜松市で仕事をしている人」「社会福祉士」「介護支援専門員」「中道右派(政治的に)」などの属性を持っている。

これらの属性が、他者を傷付けるものでない限り、他者から尊重されるのが、社会のあるべき姿である。すなわち「多様性を尊重する」ことだ。

たとえば、カトリック教会は本来、同性婚を「罪」と位置付けていた。いまもなお、教会の秘跡としての「婚姻」の対象とは認めていないが、シビル‐ユニオン(市民としての法律上の婚姻)は否定しない立場だ。すなわち、同性愛者である信徒がミサに参列して聖体拝領の秘跡に与ることは、全く問題はない。信徒が同性愛者であっても、個人としては他の信徒と同様、司祭から祝福を受けることができる。

もちろん、ジェンダー平等の理想から見ると、いまだ不十分な点は少なくない(女性司祭が認められていないなど)が、保守的なカトリック教会でさえ、時代の流れを踏まえ、段階的に多様性を尊重する方向へ動きつつあるのだ。

さて、日本社会を顧みると、必ずしも理想とする方向へ進んでいない。たとえば、これまで多様性の尊重を訴えてきた人たちが、その趣旨に沿っているとは言い難い言動をした事案も見受けられる。

「宇崎ちゃん騒動(2019)」「戸定梨香騒動(2021)」などはその好例であろう。女性の性的な部分の強調が不適切であると主張した人たち(おもに女性の個人や団体)は、その体型の女性(希少であるが、街でもときどき見掛ける。筆者の仕事の上でも、何十年の間に数名程度だが、同様に胸の部分が大きめの体型の女性に会ったことはある)を差別していることに気が付いていなかった。そのため、表現の自由への抑圧だと主張する人たちの反発に遭い、激しい議論を巻き起こしている。

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また昨年、埼玉県営プールでの水着撮影会が、特定政党の女性議員たちの要求を契機として(直接の因果関係はないとされているが...)中止された事案も、これを不当な介入だと考える人たち(当事者の女性たちを含む)からの強い反発により、大きな社会問題になった。

一部のフェミニストの人たち(...だけではないが...)が女性の「ジェンダー」を尊重するあまり、「自分たちにとって受け入れ難い」表現のすべてに「非を打つ」ことになっていないだろうか? 許容範囲をたいへん狭くしてしまい、その外側にあるものは、たとえ女性(たち)自身による自己実現行動の一環であっても、否定してしまうことになっていないだろうか?
(これらは一例として掲げたものであり、フェミニストの人たちをことさらに批判する意図はない。念のため)

これらの行動の根にあるのは、偏狭な視点に基づく「不寛容」である。多様性を声高に唱える人たちが、かえって自分たちの「間尺に合わない」多様な人たちを排除する、まことに皮肉な現象が起きている。

その結果、表現を抹殺する動きが、かえって「言葉狩りの弊害」で述べた、見当外れの反差別教育にも結び付く。事情を深読みしない人たちを中心に、水面下で歪な感情が広がり、互いの多様性を尊重する機運が遠のく。コロナ禍の最中に頻発した「マスク警察」「他県ナンバー警察」の類いの極端な行動に走る人たちも登場する。社会的に行き過ぎた規制が創出されれば、それに反対する市民たちが推進した人たちを「ノイジー‐マイノリティ」と攻撃する。「不寛容」が相手方の「不寛容」を増大させる事態になる。

筆者は、このような社会を決して良いものだとは思わない。

それぞれの主張をする市民たちが、互いに対立する側の見解にも耳を傾け、向き合ってコンセンサス(合意)とコンフロンテーション(対置)とを繰り返しつつ、議論を重ね熟成させた末に、合意に基づいて真に多様性を尊重する社会が形成されるのが、望ましい姿であろう。

日本社会がその方向へ進むことを、心から願っている。

2024年1月 8日 (月)

抗えない自然の力

元日の夕方に発生した能登半島地震は、文字通り日本中を震撼させる災害となった。

何しろ当地・浜松でもグラッと揺れて(震度3)、一瞬「屋外へ逃げるべきか?」と迷ったぐらいだから、現地の当事者である石川県周辺の方々の驚愕と混乱は、たいへんなものであっただろう。

この地震で多くの家屋が倒壊したことなどにより、多数の死傷者が出た。特に、正月休みで実家に帰省していていて(中には例年は帰らないのに、十数年ぶりに帰っていた人もある)、不運にもこの震災に巻き込まれた人が少なくない。まだまだ充実した社会生活を送ることができたはずの若い人たちが、人生半ばで終幕を強いられてしまった。亡くなった人たちの無念の思いも、遺された家族の悲嘆も、言葉では言い表せない大きなものがあろう。

また、避難所に身を寄せている人たちの多くが、物資が充足されていない中で、当面の健康・衛生管理や今後の生活に大きな不安を抱えて、気持ちが安まる暇(いとま)もないと察する。

人智を尽くしても、自然の力には抗えない。日常から備えることによりある程度の減災はできても、完全に被害を無くすことは将来にわたっておそらく不可能である。

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かつてシー‐シェパードの代表、ポール‐ワトソン(Paul F. D. Watson)は、2011年の東日本大震災の直後に、"Tsunami"のタイトルで、このような詩を公開した。

Neptune’s voice rolled like thunder thru the sky (海神の声は空をつんざく雷鳴のように巻き起こり)
Angrily he smote the deep seabed floor     (彼は怒って深い海底を打った)
From the shore echoed mankind’s mournful cry (岸から人々の悲鳴がこだまする中で)
…The sea rose up  and struck fast for the shore (...その海は盛り上がり、岸を目がけて襲い掛かった)

From out of the East with the rising sun    (東の果てから昇る太陽とともに現れる)
The seas fearful wrath burst upon the land   (海の恐るべき憤怒は陸地を引き裂く)
With little time to prepare or to run      (備えたり逃げたりする余裕もなく)
Against a power no human can stand     (自然の力の前には誰も立っていることができない)

(筆者訳)

ワトソンは環境テロリストとも称されており、私が嫌いな活動家ではあるが、この詩は脚韻もしっかり踏んでおり、読み手にも趣旨が明確に理解できる良作だと思う(当時、英語力の乏しい一部のネット民から、あたかも彼が大震災を「天罰」だと言っているかのように非難されたが、もちろん誤解だ)。

今回の能登半島地震についても、「ああしておけば」「こうしておけば」と悔やむ人たちも多いだろうが、たとえ備えがあっても、それを超える大きな力が加われば、被災を免れないのが現実である。すでに起きたことを振り返りながら、私たちは一歩一歩前へ進んでいくしかない。私自身は直接支援活動に参加できる立場ではないので、事態が流動しているいまの時点で、何かを提案したり論評したり、また政府や自治体の対応を批判することは控えたい。

ただただ、被災された方々の心の平安をお祈りする。

四つのプレートの境目にある日本。来るべき東南海(南海トラフ)地震へ向けて、少しでも被害を減らすために、私たちは何をすれば良いのか? これから市民レベルで、そして全国民レベルで、議論を深めていこう。

2023年11月29日 (水)

許されざる行為

当県の社会福祉法人を舞台に、お金をめぐる大きな事件が起きた。

静岡市清水区で特別養護老人ホーム(介護福祉施設)B施設を経営する社会福祉法人の前理事長Sが、自分の部下ということになっている高校の先輩Kが経営する企業の口座に、法人の資金を還流させて横領したとされるものである。

このKが大物タレントM氏の夫(事件発覚後に離婚)であったことも、大きな話題となっている。

Sは元警察官だと報じられた。いかなる事情で社会福祉法人の理事長に選任されたかわからないが、他県も含め複数の法人で経営者を歴任している。Kは清水区の社会福祉法人で「会長」を自称し、後輩であるSを支配下に置いて、法人の資金を私的に流用していたと考えられる。

私たちの常識によると、B施設を含めた特別養護老人ホーム(介護福祉施設)では、その大部分が限られた介護報酬の中で、工夫に工夫を重ねながら財政をやり繰りしている。決して豊かな内部留保があるわけではなく、繰越金を確保していくことにより、次年度以降の経営ができるように努めている。よほどの金満家(個人・企業)でもバックについていない限り、現在提供しているサービスの水準を維持するのに四苦八苦しているのだ。零細なコミュニティビジネス(筆者など)に比べればかなり水準は高いものの、職員の給与は他業種から見れば平均値を下回ることが多い(今回はその給与さえ適切に支給されなかったことから、事件が発覚した)。

しかし、事情を知らない一般市民が、この記事を見聞きしてどう思うだろうか?

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「介護事業って、お金のあるところにはあるんだろ? もうかる人がいるのなら報酬を増やさなくても良い。私たちの介護保険料や税金だって、そのために上げてほしくないよね!」

こんな印象を持つ人たちが少なくないのではないか。

最近、介護従事者が利用者を殺傷、虐待して逮捕される事案が増えているから、市民たちは「不良介護職員」への憤りを強めているであろうが、まだこれらは「個」の職員による行為であるから、私たちは「介護に不向きな人が起こした事案であり、大部分の職員は適切なケアのため勤しんでいる」と弁明することができる。しかし今回の事件のように、組織を舞台にした事案は、市民感情を直撃することになる。

KとSの愚行が、介護現場で働く人たちに対する世論を歪めることになったとしたら、こんな理不尽はない。まさに許されざる行為であろう。

一度失われた業界の信用を取り戻すために、どれほどの時間が必要になるだろうか。

2023年8月19日 (土)

「席次」を軽視するなかれ!

かつて、筆者が自分の所属する職能団体の役員(代表者の次席。序列二位)をしていた時期、こんなハプニングがあった。

別の職能団体(創立百年と歴史が古く、政治力も大きい団体)からの提案で、両団体の役員が対面して協議をすることになり、当団体から四名(一名は非役員)が出向いた。会議室ではいわゆる対面式で、先に先方団体の役員五名が片側を占め、代表者が真ん中(奥から三番目)に座っていた。ところが、当団体があとから入って行ったとき、先頭を歩いていた代表者が、四席のいちばん奥に座ろうとした。私はすぐ気付いて、代表者に奥から二番目に座るように促し、私が一番奥に着席して事なきを得た。この場合、第一席の人同士が正面から向き合う形になるために、先方団体は奥から(4)(2)(1)(3)(5)、当団体は奥から(2)(1)(3)(4)が正しい座り方なのだ。やりとりの最中、先方の代表者が「団体として未熟だなぁ」と言わんばかりに笑みを浮かべていたのを覚えている(両代表はきわめて近しい協働関係にあったので、もちろんこの一件だけで信頼を損ねたことでは全くない。念のため)。

「席次」に関する最低限の知識を備えていないと、相手側の失笑を受けることになりかねない。

登壇して画像を撮ったりメディアに相対したりする場合、真ん中が第一席だが、和式と洋式(事実上の国際式)とでは、左右の上下が異なる。

日本の伝統である和式の席次は、最上位者の左(向かって右)が第二位、右(向かって左)が第三位、以下、左第四位、右第五位と続く。

一方、洋式の席次を踏まえた国際式の席次では、左右が逆になる。最上位者の右(向かって左)が第二位、左(向かって右)が第三位となる。

さて、しばらく前に日大で行われた、アメリカンフットボール部員の不祥事に関する会見で、「席次」が話題になっている。経済ジャーナリストの磯山友幸氏が、会見の席次を踏まえて、林真理子氏がお飾り理事長であると評したのだ。

この会見では、向かって右手から三人が登壇し、そのときには林理事長が先頭だった。ここまでは問題ない。ところが、林氏はそのまま奥(向かって左)に着席し、真ん中に酒井健夫学長、手前(向かって右)に澤田康広副学長が座った。あらかじめ職名と氏名が記載された紙が席に貼ってあったので、日大側が決めた席次であることは明らかだ。

メディアに向き合っていわば「ひな壇」に並ぶのであるから、ドメスティックな色彩が強い(あくまでも筆者の個人的な評価であるが...)日大であることを考えれば、磯山氏が理解している通り、和式の席次によって、序列が(1)酒井氏(2)澤田氏(3)林氏の順だと受け取られてもしかたがない。

磯山氏の指摘に対し、異論も唱えられている。学長は教学に最高責任を持つ立場であるから、実質的に理事長と同等であるので、今回は主として説明する立場である以上、真ん中に座るのは問題ないとの見解だ。

しかし、これはおかしい。それならば大学側がそのように説明すべきである。何の説明もないまま理事長が「向かって左端」に座っている場面を見せられれば、マナーを心得ている誰もが「学長が理事長より上座なのか?」との疑問を持つ。法人としての会見である以上、「法人の代表者」が最上席に座るのが社会通念である。たとえ会見の大部分で酒井氏が受け答えすることを想定していたとしても、あくまでも真ん中に着席するのは林氏であるべきだろう。もし「現実的な力関係」を反映した並びをあえて演出したとすれば、日大組織の実体を露呈してしまったことになる。

形式偏重の面倒な議論だと思う読者がおられるかも知れないが、「席次」はゆるがせにできない問題なのだ。上座・下座をめぐる手配が適切さを欠くと、亀裂や重大な誤解が生まれることも少なくない。

の事例に限らず、私たちはニュースで見聞きする事案などに敏感になり、他者から指弾を受けない整然とした組織活動を心掛けたいものである。

2023年7月22日 (土)

甚だしいメディアの劣化(2)

かつてアイドルだったタレントが何か事件を起こして、報道されるたびに思う。

知名度の高い人はいつまで、すでに脱退したグループや組織の名前で「元○○」と呼ばれなければならないのだろうか? 中には脱退して20年、30年になる人もいる。メディアの側は視聴者や読者の耳目を引き付けたいので、すぐに過去の肩書きや経歴を持ち出してくるのだが、何かあるたびに名称を出されるグループや組織の現在のメンバーにとっては、迷惑千万に違いない。

さて......、

20日、滋賀県大津市で、40歳の男性が離婚した元妻の自宅へ侵入し、元妻とその父親をクワで襲撃して負傷させ、殺人未遂の容疑で警察に逮捕された。

この容疑者が将棋の元プロ棋士(八段)であったことから、メディア(テレビ、雑誌など)は彼の棋士としての半生を延々と伝えている。もちろん、どんな事件であっても、それを引き起こした人物の経歴を報道することは常の話であり、それ自体には何の問題もない。

しかし、容疑者は2021年に棋士から引退したのみならず、2022年には日本将棋連盟から退会している。つまりプロの将棋界にとっては、いまや直接的な関わりは何もない一個人である。

にもかかわらず、少なからぬ報道の中で、容疑者と現在の将棋界とを結びつけるかのような論評が見受けられる。中には事件のタイトルに「将棋界に激震」「将棋界を揺るがす」などの表現を用いているものもある。容疑者がかつて対戦した相手として、羽生九段(永世七冠)や藤井竜王/名人の名前を出しており、あたかも将棋界の体質が影響しているかのように印象操作している(と筆者には受け取れる)社もある。

全容が明らかになっていると言えない面もあるが、この事件の輪郭は以下の通りだ。

「30代(当時)の男性の妻が、子どもを連れて家を出て行き、一方的に離婚した。男性は子どもに面会できない状態が続いていることに激怒し、元妻を相手取って子どもの親権の回復を主張していたが、結果的に敗訴した。納得できない男性は元妻を誹謗中傷し、刑事責任を問われて執行猶予付きの有罪判決を受けた。ところが、さらに精神的に追い詰められた男性は、元妻の家に侵入して凶行に及んだ

つまり、これは子どもの親権をめぐる社会問題なのである。

すでに一昨日の事件については、共同親権の是非をめぐって、「子どもに会えない側の親が苦痛を味わうのが理不尽なので、共同親権を認めるべき(推進派)」「暴力的な親に親権を認める危険は大きく、単独親権が望ましい(反対派)」など、ネットでもさまざまな見解が飛び交っている。

日本将棋連盟は何のコメントも出していないし、出す必要もない。そもそも「将棋をめぐる事件」では全くない。

メディアが容疑者の属性として「元棋士」を強調することは、この問題の本質をきちんと報じないのに等しい。前述したネット上の意見は、これまで親権問題に取り組んでいた人たちを中心に、関心のある人たちに限られている感がある。いま、離婚や再婚、ステップファミリー、同性婚など、家族のありかたはどんどん多様化している。その中では、一人ひとりの子どもにとってどうすることが最善なのか? 筆者のような子育て経験のない人も含め、多くの市民が議論に加わるのが、日本社会の行く末のために望ましいはずだ。それこそ多様な意見を調整する役割を持つ「こども家庭庁」の出番でもある。

表題を「元棋士が...」とすれば、ミスリードになる危険性が大きい。才能あふれた高段者だったはずの元棋士の変転を嘆く人たちの気持ちは理解できるが、多くの視聴者・読者の関心が「将棋界」へ向いてしまうと、本質とは関係ない部分が大きな比重を占めてしまう。議論喚起のためにはマイナスでしかない。

ここにもメディアの劣化が窺えるのは、残念なことだと言えよう。

2023年6月 6日 (火)

G7広島サミット雑感(2)

前回から続く)

 広島サミットについて思ったこと第二弾。

(5)習近平政権に譲歩は不要
 このサミットの共同声明の中には、中国に関する言及が随所に見られた。参加首脳の中には、フランスのマクロン大統領のように、中国との適切な距離感をめぐって日本や米国と一線を画する姿勢を取った人もいる。共同声明では中国にこれまでと同様の対応を求めながら、新たに「外交団への干渉をやめよ」と要求する一方、「建設的かつ安定的な関係を構築する用意がある」と追加している。
 これは習近平政権に十分配慮した内容であり、マクロン政権が(上記の基本姿勢とは裏腹に)ヌヴェル‐カレドニ(=ニューカレドニア)の独立問題をめぐり習政権と水面下で対立していることなども計算に入れると、G7としてはかなり抑制した表現を選択したと言える。したがって、中国の孫衛東外務次官から呼び出されて抗議を受けた垂秀夫大使が、毅然とした態度で反論し、中国側を批判したのは当然だ。日本の対中外交は「譲歩すれば争いを避けられる」の姿勢が目立つが、国際的にはむしろ垂氏の対応がスタンダードであろう。

(6)ウクライナ侵攻に相当するのは「台湾有事」ではない
 とは言え、台湾をめぐって中国が事態を緊迫化させている現実がある。この「台湾有事」に関しては、国民の大部分が大きな誤解をしている。「ロシアによるウクライナ侵攻」は、ロシア側から見れば「一応国境線が引かれていたけれど、〔自国系=ロシア系住民の割合が多いので〕本当はウチの領土」である地域に攻め入ったものだ。中国から見た台湾はこれに該当しない。台湾は「もともと。ウチの一地方」なのだから。
 そして、中国側にとっての「再議すべき領土」は、沖縄県や鹿児島県奄美群島を指す(先方が「むかしは中国系の住民」だと主張する市民の人口が本当はどの程度なのかは、ひとまず措くとして)。鄧小平政権時代から、中国の公的機関が発行した地図には、奄美群島までの離島が中国の色で囲まれている。すなわちロシアによるウクライナ侵攻に該当するのは、「台湾有事」ではなく、将来想定され得る「沖縄・奄美有事」なのだ。日本国民はこれに対して真剣に備えなければならない時代に差し掛かっている。

(7)食糧を確保するためには国民的な努力が必要
 このウクライナ侵攻に伴う穀物や燃料などの国際的な不足を契機に、サミットの中で国際的な食糧安全保障について協議されたことは一つの前進である。とは言え、それは日本国民が食糧を確保できることを意味しない。私たち日本国民が現在のように、食べ物を粗末に扱う姿勢を続けていると、声明で食糧安全保障を唱えても、多くの国の市民たちには響かない。
 まだまだと思っていても、世界規模の飢餓がいつの間にか日本にも忍び寄っている。これを回避するためには、国民レベルで前述のような不遜な考え方を改めていくことも大切だが、他方で国として「取引材料」を持つことも求められる。たとえば、資源貧困国だとばかり思われていた日本でも、近年は南鳥島のレアアースや種子島のメタンハイドレート、さらに伊豆青ヶ島の金などの産出が期待されている。
現場に人材を集め(○○年までに資格を取れば高給で優遇するなど、若者たちを勧誘しても良い)、最新の技術を駆使して、一日も早く採掘にこぎ着けることも必要であろう。それらを一定程度の強制力を持たせた国の統制下に置き、「日本から△△を提供するので、食糧を分けてください」と要請する展開が望ましい。

(8)結局、みな自国が大事
 壊されている世界平和を再構築するために、国際協調は大きな意義を持つものであり、そのために今回のG7広島サミットのような機会が重要であることは間違いない。しかし他方で、参加国それぞれ自国が大事であることも冷厳な現実だ。縮小開催された形になったクアッドにしても、日・米・豪・印それぞれの思惑がある。中国と国境紛争を繰り返しているインドは、水面下では中国との間で「落としどころ」を探っているのが正直なところであり、かなりの場面で日本とは「同床異夢」である可能性が強い。
 あくまでも今回のサミットは一つの通過点であり、今後の各国の駆け引きが、どの分野でそれぞれの勢力圏を維持・拡大するかを左右する。日本国民の一人として、これから各国が展開する権謀術策の渦中で、日本が取り残されないことを祈りたい。

 以上、思いつくままに列挙してみた。ご笑覧ください。

2023年5月25日 (木)

G7広島サミット雑感(1)

先日、広島で開催されたG7サミット。1975年の当初はG6(カナダは翌年から参加)で始まり、また途中の一時期、G8(ロシアが1998-2013参加)になったこともあったが、紆余曲折を経て第49回を数える。

今回はさまざまな意味で、世界の注目を集めた会議となった。その成果について、絶賛するものから酷評するものまで、百花繚乱と表現すべき、さまざまな見解の論評が行き交っている。

筆者は政治評論家でもなければ、政界や財界の人たちとお付き合いがあるわけではない。とは言え、自国が主催国となって開催された会議であるから、当然のことながら高い関心を持って眺めていた。閉幕したいま、この会議を眺めた自分の所感を、箇条書きに整理して述べてみたい。

(1)課題は多く残ったが、一定以上の「成功」であった
 総合的にはこの会議の成果を評価したい。「自由・民主主義」「法の支配」「市場経済」など共通の価値観を持つ(七か国ごとの政権によってかなりの温度差があるものの、いまのところ基盤の部分は何とか共有している)各国首脳が一堂に会して、国際社会に対し、とにもかくにも同じ方向性のヴィジョンをう打ち出すことができた意義は大きい。

 そして各論。

(2)プーチン政権への非難は当然である
 大きな主題の一つに、ロシアによるウクライナ侵攻への対処がある。この点についての答えは明確だ。
 たとえ「過去にスターリンが線引きしたもの」であろうが、すでに両国間の合意により画定された国境を越えて、武力による侵攻を行ったのはロシアのプーチン政権側であり、この事実には一点の疑義もない。百歩を譲って、ミンスク議定書の破綻の原因が主としてウクライナのゼレンスキー政権側にあり、ウクライナ領内のロシア民族や親ロシア勢力の人たちが、ウクライナの極右勢力に殺害されたり権利を侵害されたりする事実があったにせよ、それは侵攻を正当化する理由にはならない。ましてやミンスク合意の時点ですでにロシアが実効支配していたクリミアをはじめ、占領した土地を「住民投票の結果」と称して一方的に自国の領土に併合する行為は、国際法違反以外の何ものでもない。
 この戦争を終結させるためには、何年かかろうが、ロシアが「2014年以降の占領地域」から全面撤退して、そこから両国国境の帰属に関する事案を仕切り直すことが唯一の選択肢だ(少なくとも当分の間、プーチン政権側は絶対に承知しないとは思うが...)。
 G7および同盟諸国がプーチン政権を非難することは理にかなっている。日本はNATOに加盟していなくても、米国と「同盟関係」にある以上、協調路線(もちろん米国の言いなりになるのではなく、日本側の提案や意見をしっかり主張しなければならないが...)を取らなければ「背盟」となる。極端な話、日米安保を廃棄されても文句は言えない。独力でロシアや中国と戦える軍事的な準備をしていない以上、これが既定路線であろう。

(3)ゼレンスキー政権を正義の味方と位置付けるのは不適切だ
 しかし、ウクライナ側に問題がないわけではない。上記ミンスク議定書の破綻も含め、ゼレンスキー政権側の民族主義的な立場からの策動(ロシア系住民への権利侵害を含む)があり、ロシア側を挑発したことは明らかだ。
 また、G7サミットでゼレンスキー大統領は真っ先に(?)イタリアのメローニ首相と喜色満面でハグする姿が放映され、しばらく前に自ら西欧を訪問した際にも、最初にイタリアへ飛んでメローニ氏と懇談して支援を要請しているが、同氏はムッソリーニ礼賛者の極右政治家として知られており(首相就任後はその色をやや薄めている)、ゼレンスキー氏がメローニ氏との親近感を見せ付けることにより、プーチン政権側が非難する通りの「ネオナチ」だと評されてもしかたがない。
 さらに、米国のバイデン政権は、ゼレンスキー政権側を一時期批判していたが、侵攻後は軍産複合体の利益を反映させ、武器供与を通してウクライナ民族主義勢力とうまく結び付いた(ユダヤ系ネットワークを介して手を結んだものと推測する)と言えよう。
 独裁的な政治手法(ある種のポピュリズム)や個人的な蓄財などの問題も軽視できない。
 日本政府の外交当局は氏の政権が抱える実態を正確に把握した上で国際政局に臨まないと、痛い目を見ることになる。「ゼレンスキー氏が正しいから支援する」のではなく、「ウクライナの現状を憂慮して人道的な見地から支援をする」姿勢を取ることが求められる。

(4)核兵器がなくなっても国際平和は来ない
 広島サミットの一つの大きな主題が「核なき世界」の実現へ向けてのメッセージであった。全参加国の首脳が原爆資料館を見学し、慰霊碑に献花したことは、たとえ一つの出発点に過ぎないとは言え、大きな意義を有するものであろう。
 しかし現実には、米国はもちろん、英国・フランス・インドも核兵器を手放す方向性は全くない。またドイツ・イタリア・カナダはNATOを通じて、日本・韓国・オーストラリアは米国との軍事同盟を通して、それぞれ「核の傘」のもとにあるため、核廃絶運動との関わりは限定的なものとならざるを得ない。
 他方でロシア・中国・北朝鮮が国際的な非難を回避するために、EMP攻撃(人間の殺戮よりも都市機能の破壊を目的とした特殊な核攻撃)も含めた戦略を練っているとしたら、国際的な折衝はさらに難航するであろう(筆者はその専門家ではないので詳細な分析はしない)。
 加えて述べると、将来本当に「核廃絶」が実現したとしても、戦争したい国や政治家は通常兵器の性能向上を目指すことになるので、局地的な戦争が発生すると殺傷行為が残虐化して、惨禍はより大きくなる可能性があることも、頭に置いておくべきだ。「核廃絶」を目指して今回のサミットに不満を表明する人たちは、この点について理解しているのだろうか?

(5)~(8)その他の諸点
 以上、重要なポイントを掲げたが、他にも言及しておきたいことがいくつか散見された。長くなるので、後日、稿を改めて述べてみたいと思う。

次回へ続く)

2023年3月12日 (日)

「迷惑行為」の源流

回転寿司など飲食店内での、愚かな若者たちによる迷惑行為が、ネットで話題になっている。他人の、また共用の食べ物や飲み物に自分の唾液を付けたり、異物を吹き掛けたりする行為。おぞましい光景でしかない。

これらは「若気の至り」の愚行とは言っても、その多くは「犯罪」である。その行為が動画として拡散された結果、当該の飲食店を経営する企業は、株が暴落するなどの大きな打撃を受けている。巨額の損害を被った飲食店側が、客の減少を恐れず、行為の当人や保護者に損害賠償を求める姿勢を固めているのは当然だ。迷惑行為をした者も、動画を撮影して拡散した者も、単なる「悪ふざけ」では済まされないことを知るべきであろう。それは模倣犯などに対する一定程度の抑止効果を持つ。

ただ、これらの行為を愚かな若者たちの「承認欲求」の暴走としてではなく、若者たちが「食べ物を大切にしていない」事実から眺めると、別の構図が見えてくる。

そもそも、大人たちが東京五輪で余った弁当を大量廃棄している国で、その姿を見ている子どもたちや若者たちが、食べ物を粗末に扱うのは当然の帰結なのだ。

かつてのミラーノ万博(2015)でもリオ五輪(2016)でも、すべてではないが余った食料を調理し直してホームレスなどの困窮者に配分するシステムが働き、食物ロスを効果的に減らすことができた。東京五輪の組織委員会側の人たちは、これらの経験知に学ぶことを怠った。それどころかご丁寧に、配分の対象となり得る路上生活者の多くを、あらかじめ競技場建設のために周辺から立ち退かせてしまっていた(なお、新型コロナウイルス感染対策として競技が無観客試合に変更されたことにより、ボランティア人数が減ってしまったので、それが大量廃棄の主因になったと考えられるが、本稿でその構造的課題については論じない)。

これだけではない。最近は改善されているが、コンビニにおける「恵方巻」などの、売れ残った季節ものの大量廃棄も、心ある人たちからの批判の的になっている。また迷惑行為とまで言えないかも知れないが、インスタ映えのために食べ物の画像を撮影し、相当量を残して立ち去る人たちの行為も同様であろう。

さかのぼれば、1993年米騒動の際に、市民たちの多くが輸入したタイ米を廃棄した(無論、安易にブレンド米を推奨するなどの農政側にも多くの問題があったが、市民の責任はなかったとは言わせない)愚行の繰り返しだと言うことができる。

これらの状況を踏まえて考察すると、近い将来、日本国民が飢餓に直面しても、世界の人々は「日本には、本当は廃棄するほど食べ物はたくさんあるんでしょ?」と認識するであろうから、よほどの見返りでもない限り、輸出してくれないに違いない。つまり、「食べ物を粗末に扱う」意識が国民の間に浸透してしまっている現実は、日本の国際的孤立を招くかも知れないほど、憂慮すべき事態なのだ。

政策側がこのような国民意識の根本的な変革を図ろうとせずに、国連の提唱に乗っかってコオロギなどの昆虫食を軽々しく導入するのは、実に笑止千万である(真摯に昆虫食の開発に取り組む人たちを貶める意図は決してない。あくまでも政策の適否の話だ)。タンパク質の重要性を説きながら、余剰牛乳の活用に力を傾注しようともせず(安易に牛を殺すな!)、鯨肉の積極的な利用も推進していない(IWCがなんと言おうが、ある程度の鯨を捕獲していかないと、長期的には海の生態系が崩れる)。昆虫食導入の前に、日本国民がしなければならないことはたくさんある。

劣悪な食糧政策のために、私自身を含めた多くの国民が餓死しないことを願うばかりだ。

まず「食べ物を作ってくれた人たちに感謝して、決して粗末に扱わない」ことを、日頃から肝に銘じたい。

2022年10月25日 (火)

モニタリング敗戦???

過去、日本の将棋界に、大山康晴(1923-92)なる棋士がいた(敬称略。以下同)。

1958年から72年にかけて、名人を含めたタイトルの過半数を保持し続けた第一人者であり、失冠してもまた大山の手元にタイトルが戻ってきた。とにかく憎たらしいほど強かった。「タイトルは取った以上、防衛しなけりゃいけない」の名言は、タイトルに挑戦するだけで精いっぱいだった同時代のトップ棋士からは、全く異次元の人の言葉として受け止められた。

「大山時代」に誰かがタイトルに挑戦してきても、五番勝負や七番勝負で最終局(4-3、3-2)まで行くことはまれで、多くの場合はその前に終わらせた。番勝負を「最終的に勝ち抜く」戦略は群を抜いていたから、相手の棋士にとって巨岩のごとき壁であり、難攻不落の堅城となって立ちはだかった。ポスト大山を期待された二上達也(羽生善治の師匠)や、「神武このかたの天才」と称された加藤一二三が、いずれも獲得タイトル数の合計がひとケタ(二上は5期、加藤は8期)に終わった原因は、青年期に大山から何度も跳ね返されたことが大きい。

その大山でも、加齢や若手の台頭には抗えず、第一人者の地位を中原誠に奪われたのが1972年。それから半世紀、将棋界は中原時代→谷川浩司を中心とする争覇の時代→羽生時代→渡辺明を中心とする争覇の時代を経て、藤井(聡太)時代に入る。

さて、藤井のタイトル初挑戦は一昨年の棋聖戦だが、その第一局で渡辺に勝ったあとのインタビューで、「勝てて良かったですが、番勝負ですから」とあっさり答えた動画を見たとき、「この人は17歳にして、大山レベルの勝負術を持っているのではないか?」と直感した。

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もちろん、百戦錬磨の渡辺を意識した謙虚な言葉だったと思われるが、その後の彼の歩みがすごい。この棋聖戦で初タイトルを獲得して以来、計十回のタイトル戦を経て、藤井はまだ一度も敗退していないのだ。すべて「奪取」または「防衛」なのである。

特に印象に残ったのは、豊島将之の挑戦を受けた昨年の王位戦七番勝負と、永瀬拓矢の挑戦を受けた今年の棋聖戦五番勝負である。

前者は、藤井がまだ豊島に対する苦手意識を払拭できていないところで挑戦を受け、藤井の真価を占う試金石になると思われていた。そして第一局、二日目の早い時間に豊島が完勝した。ところがインタビューで藤井は「正確に指されてしまった」と言い、三日後の棋聖戦第三局では渡辺を破って3-0で防衛した。もし「すべての棋戦の全対局に勝」とうとしたら、どんな大名人でも無理が出て、かえって勝率を落としてしまう。決して手を抜いたわけではなく、棋界で勝ち抜く藤井の戦略の一端として、あえて王位戦第一局を、二日制対局での豊島の強さを測るモニタリング局にしていた印象がある。果たして第二局以降、藤井が押され気味の対局もあったものの、四連勝して4-1で王位を防衛した。

後者は、藤井が「練習仲間」である永瀬との初のタイトル戦を迎えた。永瀬は第一局を何と二度の千日手に持ち込み、二回目の指し直し局で「体力勝ち」しており、最強の相手を自分の土俵に引きずり込む見事な勝ち試合であった(余談だが、大相撲の情けない大関連中には、永瀬の爪の垢でも煎じて飲んでほしい!)。ところが、永瀬にとって皮肉なことに、しばらく前まで対局の間隔が空き過ぎて、勘が鈍っていた藤井は、いわば「気の置けない先輩から三局も教えてもらった」ことによって勝負感覚が覚醒してしまい、本来の調子を取り戻した。苦戦しながら第二局を勝つと、そのまま三連勝して3-1で棋聖位を防衛した。

つまり、藤井にとって第一局は番勝負の一場面であり、それだけで一喜一憂するものではないのである。この冷静な勝負戦略は全盛期の大山を彷彿とさせる。

いま展開されている藤井の竜王防衛戦でも、挑戦者の広瀬章人が第一局を制した。中原時代に活躍した棋士・田丸昇が「Number」の中でこの対戦を評しているが、末尾で大山の番勝負に言及している。もちろん、少なからぬ年輩プロ棋士たちが藤井の番勝負を見て、往年の大山の姿を重ね合わせているに違いない。

これもまた「モニタリング敗戦」ではなかったか? 番勝負では初めて対峙する広瀬の指し回しを体感して、対抗策を組み立てることが目的だったのではないか?

果たして第二局は難解な展開になりながら、結果的に藤井が勝利して、本日現在は1-1のタイになっている。それまでの間、A級順位戦の斎藤慎太郎戦、棋王戦トーナメントの豊島将之戦と、危なげないほどの順調な勝ち方をしているのだから、第一局の敗戦が尾を引いていないことを示して余りあるものであろう。

この竜王戦の結末がどうなるのか? また、今後の藤井がどこまで大山の域に近付いていくのか? 私たち「観る将」にとっては大きな楽しみだ。

2022年8月21日 (日)

甚だしいメディアの劣化

7月19日、フィギュアスケートの羽生結弦選手(27/ソチ五輪およびピョンチャン五輪の男子シングル金メダリスト)が会見を開き、自身の今後の進路について表明した。

私はこの会見をあとで断片的に見聞きしたに過ぎない(全部は視ていない)が、「引退ではない。高校野球からプロ野球へ進むのを引退と言わないのと同じ」「プロのアスリートとしてスケートを続けていく」の言葉に、

「ああ、ついに羽生選手はエリジブルから外れるんだな」と、何の疑問もなく了解したものだ。

この「エリジブル(=eligible。競技選手として適格である者の意)」はISU(国際スケート連盟)のシステムなので、一般の人たちにとってわかりにくいことは事実だ。私はスケート靴を履いたことさえ全くないが、荒川静香氏(40/トリーノ五輪の女子シングル金メダリスト)の活躍以来、多少はスケートについて知識を得ていたので、羽生選手が会見で述べた言葉の意味はすぐに理解できた。スケートにおける「プロ転向」はもちろん「引退」とは異なる。同選手は何も難しいことを語っているわけではない。

ところが、一部メディアがこの会見に噛み付いたのだ。「『引退ではない』の発言は意味不明」「ファンにわかりやすい説明を」などなど...

それらの記事を読んで、「何を抜かしてるんだよ!」と思った。これらの(一部かも知れないが)メディアで仕事をする記者やデスクの勉強不足は噴飯ものでしかない。わからなければ自分で調べて整理してから、読者が理解できるように解説するのが、自分たちの職務であろう。…と言うより、事前のスクープ(これはこれで問題だが...)によって「プロ転向」が予測できたのだから、先に調べてから会見へ行くべきではないのか? それがメディアとしての「プロの仕事」であるはず。

選手側の表明内容に責任があるかのような言い方は、小学生が家に帰って「こんなわかりにくい宿題を出す先生が悪い」と駄々をこねているレベルであり、天下に恥をさらしているようなものだ。偉大なチャンピオンに対して礼を失すること甚だしい。

罵倒ばかりしていてもしかたがないので、記事(要点)の模範例を作ってみた。以下の通り。

「『羽生選手が競技生活に別れ』。

フィギュアスケートで二度の五輪金メダルに輝いた羽生結弦選手が会見を開き、国際スケート連盟の競技選手(エリジブル)の登録を終了して、今後はアイスショーで演技するプロスケーターの道を歩むことを発表しました」

このように書けば、記載された意味は明々白々であろう。その上で必要ならば、「エリジブル」について囲みまたは注記で解説すれば良いだけの話だ。

スポーツにしても(将棋のような)頭脳競技にしても、いや、私たち介護業界を含め、あらゆる分野の業界にはそれぞれ特有のシステムがある。各メディアにはそれぞれ担当部署があるはずだ。自分が配属された以上、まずは勉強すべきである。それが「お客様(読者)」に対する義務であろう。

その努力をせずに報道しようとする姿勢を見聞きすると、メディアの劣化としか言いようがない。今回は羽生選手の会見がわからないとゴタゴタ言っていた一部メディアを例として掲げたが、最近は他のメディアも多くは、また別のところで同様な手抜きをしている状況だ。小学生レベルの記事しか書けないのであれば、読者が離れていくのは火を見るよりも明らか。また、それはその業界で働く人たちに対しても非礼なのである。

自社の「商品」の劣化を食い止めることが、多くのメディアにとっても課題と言えそうだ。

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