過去、日本の将棋界に、大山康晴(1923-92)なる棋士がいた(敬称略。以下同)。
1958年から72年にかけて、名人を含めたタイトルの過半数を保持し続けた第一人者であり、失冠してもまた大山の手元にタイトルが戻ってきた。とにかく憎たらしいほど強かった。「タイトルは取った以上、防衛しなけりゃいけない」の名言は、タイトルに挑戦するだけで精いっぱいだった同時代のトップ棋士からは、全く異次元の人の言葉として受け止められた。
「大山時代」に誰かがタイトルに挑戦してきても、五番勝負や七番勝負で最終局(4-3、3-2)まで行くことはまれで、多くの場合はその前に終わらせた。番勝負を「最終的に勝ち抜く」戦略は群を抜いていたから、相手の棋士にとって巨岩のごとき壁であり、難攻不落の堅城となって立ちはだかった。ポスト大山を期待された二上達也(羽生善治の師匠)や、「神武このかたの天才」と称された加藤一二三が、いずれも獲得タイトル数の合計がひとケタ(二上は5期、加藤は8期)に終わった原因は、青年期に大山から何度も跳ね返されたことが大きい。
その大山でも、加齢や若手の台頭には抗えず、第一人者の地位を中原誠に奪われたのが1972年。それから半世紀、将棋界は中原時代→谷川浩司を中心とする争覇の時代→羽生時代→渡辺明を中心とする争覇の時代を経て、藤井(聡太)時代に入る。
さて、藤井のタイトル初挑戦は一昨年の棋聖戦だが、その第一局で渡辺に勝ったあとのインタビューで、「勝てて良かったですが、番勝負ですから」とあっさり答えた動画を見たとき、「この人は17歳にして、大山レベルの勝負術を持っているのではないか?」と直感した。

もちろん、百戦錬磨の渡辺を意識した謙虚な言葉だったと思われるが、その後の彼の歩みがすごい。この棋聖戦で初タイトルを獲得して以来、計十回のタイトル戦を経て、藤井はまだ一度も敗退していないのだ。すべて「奪取」または「防衛」なのである。
特に印象に残ったのは、豊島将之の挑戦を受けた昨年の王位戦七番勝負と、永瀬拓矢の挑戦を受けた今年の棋聖戦五番勝負である。
前者は、藤井がまだ豊島に対する苦手意識を払拭できていないところで挑戦を受け、藤井の真価を占う試金石になると思われていた。そして第一局、二日目の早い時間に豊島が完勝した。ところがインタビューで藤井は「正確に指されてしまった」と言い、三日後の棋聖戦第三局では渡辺を破って3-0で防衛した。もし「すべての棋戦の全対局に勝」とうとしたら、どんな大名人でも無理が出て、かえって勝率を落としてしまう。決して手を抜いたわけではなく、棋界で勝ち抜く藤井の戦略の一端として、あえて王位戦第一局を、二日制対局での豊島の強さを測るモニタリング局にしていた印象がある。果たして第二局以降、藤井が押され気味の対局もあったものの、四連勝して4-1で王位を防衛した。
後者は、藤井が「練習仲間」である永瀬との初のタイトル戦を迎えた。永瀬は第一局を何と二度の千日手に持ち込み、二回目の指し直し局で「体力勝ち」しており、最強の相手を自分の土俵に引きずり込む見事な勝ち試合であった(余談だが、大相撲の情けない大関連中には、永瀬の爪の垢でも煎じて飲んでほしい!)。ところが、永瀬にとって皮肉なことに、しばらく前まで対局の間隔が空き過ぎて、勘が鈍っていた藤井は、いわば「気の置けない先輩から三局も教えてもらった」ことによって勝負感覚が覚醒してしまい、本来の調子を取り戻した。苦戦しながら第二局を勝つと、そのまま三連勝して3-1で棋聖位を防衛した。
つまり、藤井にとって第一局は番勝負の一場面であり、それだけで一喜一憂するものではないのである。この冷静な勝負戦略は全盛期の大山を彷彿とさせる。
いま展開されている藤井の竜王防衛戦でも、挑戦者の広瀬章人が第一局を制した。中原時代に活躍した棋士・田丸昇が「Number」の中でこの対戦を評しているが、末尾で大山の番勝負に言及している。もちろん、少なからぬ年輩プロ棋士たちが藤井の番勝負を見て、往年の大山の姿を重ね合わせているに違いない。
これもまた「モニタリング敗戦」ではなかったか? 番勝負では初めて対峙する広瀬の指し回しを体感して、対抗策を組み立てることが目的だったのではないか?
果たして第二局は難解な展開になりながら、結果的に藤井が勝利して、本日現在は1-1のタイになっている。それまでの間、A級順位戦の斎藤慎太郎戦、棋王戦トーナメントの豊島将之戦と、危なげないほどの順調な勝ち方をしているのだから、第一局の敗戦が尾を引いていないことを示して余りあるものであろう。
この竜王戦の結末がどうなるのか? また、今後の藤井がどこまで大山の域に近付いていくのか? 私たち「観る将」にとっては大きな楽しみだ。
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