パソコン・インターネット

2020年10月11日 (日)

ネット民たちは何を標的にしたいのか?

もし、ネット上で、

「ある50代半ばの未婚男性が、80代後半の母親に洗濯も調理もしてもらっている」

との情報が、前段も後段もなく単独で流れたとしよう。

すると、かなりの割合の人が、ネガティヴな人物像、いわゆる「子供部屋おじさん」を想定してしまうだろう。

ところが、この文章に続いて、

「この男性は、地域の介護業界ではケアマネジャーの指導的立場にあり、研修講師なども務め、著書もある。自分の母親にはリハビリの視点から、できる限り家での役割を担うように仕向けている」

と、説明が続いたらどうだろうか?

おそらく、最初の単品の文章だけの場合とは、印象が大きく異なってくるに違いない。

実はこの男性、数年前の私自身のことである。私と二人暮らしだった母(2018年3月に他界)は、2017年初頭に「準寝たきり」になるまで、段階的に縮小しながらも、「主婦」の意識が強く、相当部分の家事をこなしていた。母のADL低下予防にもなり、私も助かっていたので、一石二鳥だった。

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とは言え、私は著名人のように仕事や家庭の状況が知られているわけではない。したがって、もし何かの機会に、冒頭に掲げた紹介文(?)だけが独り歩きして、そこにコメントを書き込む欄が設けられていたら、「50過ぎても母親に依存かよ!」「コイツ自立してねえよな!」「お母さんもこんな息子を持つと苦労するねぇ!」等々、揶揄・嘲笑を絡めたコメントが相次いだであろうと想像される。

去る9月29日、両親と弟(46)と同居する神戸市のアルバイトの54歳男性が、母親にしてもらっている洗濯をめぐって弟とケンカになり、見かねた母親が警察に通報、男性が傷害で逮捕される事件があった(神戸新聞の記事)。昨日現在、続報は伝えられていない。

さっそくこれを引用した記事紹介サイトやまとめサイトなどにコメントが殺到している。もちろん、暴力沙汰がいけないことは当然だが、それを批判するだけにとどまらないコメントが多数見られた。大半はこの男性が(および弟も)自立していないことに対する、揶揄・嘲笑を絡めた内容なのである。

私の率直な疑問は「このネット民たちは何を標的にしたいのか?」である。

男性についても弟についても、生活歴、職歴、疾患歴、そして何よりも、これまでの家族関係などの情報が全く伝えられていない。この状況で、適切な批判ができるはずがない。

すなわち、コメントした人たちの多くは、匿名をいいことに「憂さ晴らし」をしているとしか思えない。誤解を恐れずに言えば、世の中にはこんな「劣る」人間がいるんだ、と差別的に嗤い、その揶揄・嘲笑を公開の場に書き込むことによって、自分はこんなヤツよりもずっと立派だ、と言いたい、主張したいのだろう。

しかし、情報がわからないのだから、それは全く的外れの発言である可能性もある。たとえば男性はアルバイトを掛け持ちするなどして結構な稼ぎがあり、地域でも紳士として尊敬されている人なのかも知れない。弟は何かの重大な精神疾患等を抱えて、療養中なのかも知れない。母親が警察に通報したのはケンカが常習的だったからではなく、むしろ意外な展開に恐怖を感じたからなのかも知れない。もちろん、これは推測の一つの極端な例に過ぎないが、登場人物のすべてにあらゆる可能性があり、それが判明しないことには、批評できるものではない。

コメントの中には少数だが、いわゆる8050問題の一類型である可能性や、家族ソーシャルワークの対象である可能性について言及したものがあった。こういう慎重なコメントをする人たちは登場人物を軽々しくステレオタイプ化しない。

さて、「差別的」「揶揄・嘲笑」のコメントは、「誹謗中傷」と紙一重である。と言うより、男性の実名が報道されていたら、内容によっては正当な批判に該当しない、誹謗中傷に相当するものも存在する(仮に男性が本当に「子供部屋おじさん」だったとしても、批判は暴力沙汰に関する内容にとどまるべきであり、誹謗中傷して良い理由にはならない)。

つまり、状況がわからないまま第三者を標的にしてネットで「憂さ晴らし」をすれば、それは民事事案、書き込んだ内容によっては刑事事案にもなり得るのだ。

最近、これを逆手に取った新手の炎上商法が登場している。資金力のある発信者がブログやSNSや動画のエントリーをわざわざ炎上させ、弁護士に依頼して誹謗中傷に当たるコメントの発信者の特定に持ち込み、賠償させるビジネスだ。ネット誹謗中傷への法規制強化が進めば、このテのビジネスを展開する人間が増えてくることが予測される。おそらく、この連中の「カモ」にされるのは、「憂さ晴らし」パターンの中で特に過激な言葉を使う人たちとなろう。

標的を明確化した上で正当な批判をするのであれば、このような商法に引っ掛かることもない。逆に、知的体力に欠け、情報や背景もわからないのにコメントを書き込む人たちは、あとでたいへんな「負債」を払わせられることになる。

まさに、冒頭に記した「ある50代半ばの...」の文章だけを読んで、「さあ、子供部屋おじさんの登場だ!」とばかり叩き始める人たちは、すでに危険地帯に足を踏み込んでいると考えて差し支えない。

私たちは、実名だろうが匿名だろうが、状況をしっかり把握して、的確な論評や批判を展開するように心掛けたいものだ。

2018年6月21日 (木)

AIとケアマネジメント(3)

前回より続く)

さて、私が最も好きな炭水化物系(主食系)食品は「のり茶漬け」である。

これは少年時から一貫して変わっていない。

しかし、このことを公開するのは全く初めてである。亡くなった母以外の人には、これまで一度も「のり茶漬けが一番好きだ」と言及したことはないし、HPやブログやFBに画像を載せたこともない。せいぜい、のり茶漬けのメーカーの商品情報を、過去数回クリックして閲覧した程度だ。

おそらく、私と昵懇な人たちを含め、ほとんどの知人が私のことをラーメン大好き人間だと認識しているのではないか。私がブログやFBに掲載する画像はラーメンが圧倒的に多く、他にはパスタ、カレー(+ライスまたはナン)、パン(お惣菜タイプ)、チャーハン、つけめんなどがある。

FBや@NiftyやGoogleなどは、当然だがICTを駆使して私のエントリーやコメントから個人情報を収集している。しかしながら私のエントリーなどの中に「のり茶漬け」のキーワードが圧倒的に少なければ、それはラーメン、パスタ、カレーなどに比べてマイナーな情報としてしか扱われない。そのため、私に対して開示される広告は、ラーメン関係を中心に、運営会社が私の関心を引きそうだと見なしているものが多い。「のり茶漬け」に関する広告を見ることは全くと言っていいほど、ない。

しかし、「IoT」の普及によって、生活の中のさまざまなグッズがネットでつながることになると、状況は変わってくる。

たとえば私が食品庫からのり茶漬けの素を取り出す、食器入れから大きめの茶碗を取り出す、炊飯ジャーからご飯を盛る、ポットからお湯を注ぐなどの一連の動作が、週に3~4回行われることがデータとして記録されれば、私がブログやFBなどで言及していなくても、私が「のり茶漬け」を好んで食べる事実がクラウドに蓄積されてデータ化され、かなりの精度で、「ジョン‐トラブッたはのり茶漬けが大好物だ」と結論付けられるであろう。

このような個人の行動を最先端のICTによってクラウドに何千人分、何万人分と集積すれば、AIが人の日常生活行動を読み取るためのビッグデータとなる。進化するAIは、このデータをもとに私の食生活プランのベースになる部分を割り出して、サンプルを示すことができるであろう。さらにそこに対して、いくつかのバリエーションを加えることも可能になると考えられる。

他方、AIでは絶対に踏み込み切れないであろう部分も存在する。たとえば理屈抜きに、「いま死んでもいいから○○系のラーメン食いてぇ!」と思ったときに、私の心を読んで、スジュールや機動力、健康状態などをすべて総合した上で、私の欲望を優先させ、のり茶漬けの合間に的確な頻度でラーメンを割り付けることは、AIには困難であろう。

これが、私のことをよく知っている「食生活プランナー」の達人であれば、私の顔色や習性を敏感に読み取って、「週何回ののり茶漬け、昼食は月1回は△△屋、月1回は◇◇屋のラーメン、ただしインターバルは□□日以上置いて...」みたいな割り付けをして、それに基づいたアドバイスができるかも知れない。体調による変動にも臨機応変に修正できる能力が期待される。

また、すべての人がIoTの便利な生活を実現する金銭的な余裕があるわけではなく、余裕があってもすべての人がそれを望むわけではない。防犯などに活用できるメリットは確かに大きいが、他方で生活全体を監視されるのと同じことになるから、大衆が全面的にIoTを導入する動機には、何らかの抑制がかかることが予測される。

とすれば、ビッグデータが存在したとしても、そこからAIが人の生活に関するすべてを統御することは現実的に不可能であると考えて良い。

当然であるが、生活全般を側面的に支援すべきケアマネジメントも、AIによって全面的に取って代わられることはないことになる。

この課題は実に深い。政府が推進しているSociety5.0の動向を注視しながら、機会を改めて論じてみたい。

2013年12月29日 (日)

2013年、自分の三大ニュース

2013年もあと2日余りです。

今年、自分の身に起こった変化と言えば、次の三つでしょうか。

・新刊書『口のきき方で介護を変える!-支援に活かす55の会話』(厚有出版)が発刊されたこと。8月29日発行、昨年の『介護職の文章作成術』に続く第二弾です。これで一応、マイナーながら、「もの書き」の仲間入りを果たした形になります。

・フェイスブック(FB)にアカウント登録したこと。慎重派の私はこれまでSNS交流に参入しませんでしたが、上記新刊書の発刊を契機に、9月に入ってからFB登録。本日までに「友達」64人を数えるに至りました。ただし、自分は不器用な人間で過剰な情報への対応能力に乏しいので、リクエストする場合も承認する場合も、(1)面識のある方 (2)以前から掲示板のHNを知っていて、どこの誰か「正体」がわかる方 (3)旧稿『作文教室』または新刊書を一冊でも買ってくれた方 (4)カトリック教会信者の方、以上の方々に限らせていただいています。それでも、業界ではHNで結構著名な方(中にはお会いしたことがない方も)からのリクエストをいただくなど、交流範囲が広がっているので、自分自身の情報獲得経路を多極化することができたことは、大きな成果でした。

・ヴェルディの歌劇を鑑賞したこと。これまでオペラ体験はほとんどワーグナーばかりだったのですが、今年は3月に「アイーダ」、6月に「シモン‐ボッカネグラ」、12月に「仮面舞踏会」、そして来年ですが、2月に「ドン‐カルロ」と、生誕100周年記念のヴェルディ鑑賞が相次いでいます。ワーグナーと同じ年に生まれ、異なる道を歩んだヴェルディの作品を味わうことで、同時にワーグナー作品の奥深さへの理解も進んだと理解しています。

そして・・・来たる2014年にはどんな変化があるんでしょうか?

ただ一つ言えることは、自分自身が行動変容を拒絶していたら、社会変革もできないことは確かでしょう。良き仲間たちと連帯しながら、構造的課題に一石を投じたい。そのために、新たな一歩を踏み出したいと望んでいます。

今年も一年、いろいろな方々に支えていただきました。この場を借りて、改めてお礼を申し上げます。

2013年10月 2日 (水)

非死不可(死ぬっきゃない)?

これはハマり過ぎるとヤバイ! と思いました。何しろ名称が「死ぬっきゃない」なんです。

非死不可→Fei-si-bu-ke(フェイスーブークー、中国語。ただしどれくらいの割合の中国人がこの字を充てているかは不明)、つまりFacebookのことです。

私がアカウント登録したのは9月8日のことで、『口のきき方で介護を変える!』を贈った相手のうち、お一人の方がフェイスブック(以下、FBと略称します)で紹介してくださったということを、別の知人から聞いたことがきっかけです。「これは、自分も登録して確認しないとお礼も言えないから・・・」というのが動機だったのですが、まだ一か月にも満たないのに、現在「友達」が42人。こちらからリクエストした人と、逆にリクエストを受けた人とが半々ぐらいでしょうか。

自分のホームを開くと、「友達」の近況が次々と送信されてきます。中には一日に何回も送信してくる方もいます。全部に目を通せませんから、注目する話題だけを読んで「いいね!」をクリックして、そのうちさらに「突っ込みたい」話題だけにコメントを送ります。相当絞り込んでも、結構な時間を使います。私はモバイルで送受信しない考え方ですから、PCに向かっているとき、集中して時間をかけるので、コメントのやりとりが多いと労力も並ではありません。

慣れていくと、上手に手を抜いて、チョイスしたりスクリーニングしたりしながらコミュニケーションを取っていくのでしょうが、FB初心者のオジサンにとってみれば、まだまだ「持て余している」段階のようです。このまま「友達」が増えていくと、「中毒」にハマりかねないので、そろそろ使いこなす術を身につけていかなければ、と真剣に悩んでいます(笑)。

それでも、離れた地域の業界仲間との情報交換には、FBはさすがに威力を発揮します。上手に使えば、難局を乗り切るための有力な媒体なのかも知れません。

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