学問・資格

2023年11月25日 (土)

しょーもないケアマネをグループワークでどう料理するの?

いささか物騒な題名であるが、これは2009年、静岡県介護支援専門員協会のとある研究会に参加した際に、「困ったケアマネジャーさんって結構いるよね」みたいな話になったので、筆者がトリセツ(?)を作ってメンバーに示したものだ。

14年前の発題だが、いまでも十分通用すると思ったので、若干の校正を加えて再現したものである。

もとは表形式になっているが、ブログのエントリーにアップしにくいので、枠を取り払って箇条書きにしてみた。いささか長くなるが、ご笑覧いただきたい。

◆「確信犯的」囲い込みケアマネ
 ・定義:悪意で囲い込みをやるのではなく、逆に本人は善意のかたまりで、自分の所属先のサービスが至上であると信じている。そのため他法人のサービスは安心して位置付けられないから、紹介しない。
 ・処方箋:自法人を客観視できるためのトレーニングが必要。たとえば地域の各デイサービスに対して、機能訓練とか入浴介助とか、それぞれの部門について地域のケアマネジャーから匿名で点数を付けてもらい、皆で比較してみる。自法人の事業所だけが至上ではなく、利用者のニーズに適するサービス調整が大切であることを、参加者が共有できる場を作る。

◆コピペ‐ケアマネ
 ・定義:サービスがいつもワンパターン。課題分析は一応やるものの、視野が狭いのでそこから複数の解決手段を選択する段取りができない。「二言目にはリハビリ」「詰まるところはデイサービス」の人たち。
 ・処方箋:当人が初級者であることをズバリ指摘する。より具体的には、ケアプラン作成演習などの場で、課題分析からサービス提供に至る一連の流れを振り返る作業を何度もやってもらうしかない。ただ、一人だけ凹むと雰囲気が悪くなるので、グループで課題を共有する流れを作るのが好い。利用者の一つの課題に対する解決の選択肢が多岐にわたることを、メンバーが常に確認し合うように、意図的に仕向けていく。

◆一品料理ケアマネ
 ・定義:利用者や家族から希望されない限り、一品サービスだけ利用に結び付けて、それで責任が果たせたと思っている。給付管理が成立してしまえばお金になるので、ニーズの掘り起こしが面倒になり積極的に行わない。
 ・処方箋:たとえば、ケアマネジャーや介護サービス職員がニーズの確認を怠ったために、刑事事件で警察の事情聴取を受けたり刑事責任を問われ(疑われ)たりした事例を研修で取り上げ、「かえってお金も名誉も失うかも...」と、リスクマネジメントの見地から危機感を持ってもらうのも一策である。

◆なんちゃってケアマネ
 ・定義:「一応」ケアマネジャーになってはいるが、片手間仕事の意識が強く、自分がケアマネジャーだというアイデンティティを持ち得ない。
 ・処方箋:現場で実務に就く以上、責任感を持って仕事をすることの大切さを認識させる。グループスーパービジョンのロールプレイで、「この種のケアマネにケアプランを立ててもらう立場の利用者」の役をやってもらうのも一案である。

◆「オレオレ症候群」ケアマネ
 ・定義:利用者の課題を解決しようという思いが強過ぎると、自分が、自分が、と、どんどん前に出てしまい、利用者のほうが引いてしまう。
 ・処方箋:ベテランの社会福祉士(威厳のある人!)を指導者として登場させる。バイステックの7原則のうち、「統制された情緒的関与」「意図的な感情表出」の二点をテーマにソーシャルワークの演習を行い、自己覚知を試みる。

◆昔の名前で出ています♪ ケアマネ
 ・定義:かつては地域のケアマネジメントを担う指導的立場にあったが、いまは主流から外れているのにもかかわらず、いまだに業界の指導者だと自任している。
 ・処方箋:気持ち好く振る舞ってもらえば良い。かつて地域で功績があったことは事実。指導者のほうが後輩の立場なのだから、相手を先輩として敬い、自尊心をくすぐった上で、得意部門を生かしてもらうべくポジティブに誘導していく(ただしホントに重要な役には就けずにホしておく!)のも、人材活用のポイント。

◆放浪ケアマネ
 ・定義:転職を繰り返すタイプ。ただし建設的な転職もあるので、決して転職を重ねること自体がマイナスではない。ここに掲げるのは、自分の労働環境への不満ばかり口にして、利用者に対しての責任感が希薄な人のことである。
 ・処方箋:グループワークの場で、各メンバーが自事業所の労働環境について語る場を指導者が設け、「あらゆる面で理想的な職場」など存在しないのだと理解させる。たとえば指導者から、「次に転職するときには、利用者ごと転職したらどうですか?」と勧めてみる。利用者側にとって、頻繁にケアマネジャーが変わることは迷惑にほかならないことを認識してもらう。

◆「オヨヨ」ケアマネ
 ・定義:身の丈に合わない自称やハッタリで注目されても、現実には中身がない。人前では自分が知っている著名な業界人の名前を並べ立てるが、実際に役立つネットワーキングができておらず、コーディネート能力も欠如している。
 ・処方箋:はっきり言えば業界から消えて欲しいタイプである。それでも仕事を続けるのなら、会合や研修の場で偉そうなことを述べ立てても、指導者やメンバーが相手にせず受け流し、徹底して無視するのが良い。当人が空虚な引き出ししか持ち合わせない、いかに哀れな小物であるかを自ら痛感させる。それでも悟らなければ手の打ちようがない。

以上。いかがだろうか?

筆者自身も、気付かないうちにこれらの類型のどれかに当てはまっていないか、日頃から振り返っている。

地域のケアマネジャー仲間にこのテの人たちがいると結構扱いにくい。とは言え、日本全国でケアマネジャーの人材不足が取り沙汰される昨今、路線から大きく外れる人を出さない工夫も大切だ。地域のケアマネジャー連絡組織の指導者さんをはじめとする主任介護支援専門員さんたちには、多少なりとも参考にしていただければ幸いである。

2019年11月20日 (水)

片付け下手の断捨離(2)-中国史関連書籍

前回より続く)

幼少のころから世界史に興味を持っていた私であるが、小学5・6年生から中学生になる時期、特に中国古代史に強い関心を持ち、十代のうちに、『史記』に始まって『隋書』あたりまでの「正史」を、斜め読みながら通読した。ちなみに、大学では東洋史学専修課程に進み、卒業論文の主題は6世紀の陳王朝であった。

そのため、「断捨離」がいちばん難しいのが、この中国史関連書籍である。

まず、上記の「正史」。手元にあるのは中華書局から発刊された膨大な分量のものであり、「二十四史」のうち『漢書』から『明史』まで、および『清史稿』が、いくつかの書棚や箱に分散、収納してある。いまでも「えぇっと、○○書の△△伝は...」といった感じで、しばしば引っ張り出して参照している。これらは私がいつか自分の家に居られなくなるときまでは、おそらく手放せないであろう。

『史記』と『資治通鑑』、および史論、訳本、事典類は、一つの書庫にまとめてある(画像)。「断捨離」をするのであれば、こちらの書庫が先ということになる。

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たとえば、「アジア歴史事典」は第一巻の発刊が1959年と、すでに60年を過ぎている。その間に新しい研究がどんどん進み、いまやこの事典の記述は全く時代遅れとなった。また、インターネットの普及により、歴史用語などの専門的知識を手軽に閲覧できる時代にもなっている。

また、史書類は原漢文で読めば良いのだから、訳本を重宝して残しておいても、あまり意味がない(逆に小説類は原文を四苦八苦して読むよりも、「名訳」で読んだほうが面白いので、あえて訳本だけしか買わなかった)。

処分するとしたら、まずこの辺りから始めることになりそうだ。放置しておいても埃が溜まるだけなので、早目に整理を進めたい。

次回へ続く)

2019年6月 5日 (水)

東大卒のプライドは東大卒にしかわからない!

今回は、最近メディアを騒がしたいくつかの衝撃的な事件のうち、二つを取り上げてみたい。

4月19日、池袋で元上級官僚・I氏(88)の運転する車が暴走して、母子二人の命を奪い、九人に重軽傷を負わせた事故。

6月1日、練馬区の元上級官僚・K氏(79)が自宅で長男を刺殺した事件。

両事件とも、発生後にさまざまな視点からの議論が巻き起こっている。

前者に関しては、高齢者の運転技術や、警察や報道のありかたに関するものが多い。被疑者であるI氏が容疑者ではなく「さん」付けで報道されたこと。そしてI氏が退院後も容疑を実質否認しているのにもかかわらず警察に逮捕されていないので、もとの身分を忖度されたのかと評されていること。また、同年齢程度の高齢者の多くは運転能力に疑問があると考えられること。これを契機に運転免許証を返納する高齢者が急増したこと。等々。

後者に関しては、直前に発生した川崎の殺傷事件と関連付けた論評が主である。K氏の長男(44)が川崎の加害者(51歳。自殺)に類似した「ひきこもり」生活を送っていたこと。家庭内暴力があってK氏が身の危険を感じていたところ、長男が近くの小学校の運動会について「うるさい」と怒ったので、川崎同様の事件を起こさせないため殺害に踏み切ったこと。一人で抱え込んで公的機関に一度も相談しなかったこと。等々。

そして、さまざまな議論が交わされている中で、保健・福祉関係者をはじめとする多数意見は、前者について「高齢者は運転免許を返納しよう」、後者について「家族の生活課題を抱え込まずに地域資源を活用しよう」へ向かいつつある。

だが、あえて異論を一言。

I氏やK氏に対し、早くから上記のように提案しても、おそらく解決に結び付かなかった。

妨げになっているのが「東大卒のプライド」なのである。

(...もっとも、最近は東大の「権威」も低下しているので、「東大卒のプライド」にも変化が見られる。ここでは40代ぐらいから上の、一定以上の年代のOB・OGに共通するプライドの意味に使う)

誰も(←私が見聞する限り)二つの事件に共通するこの代物に斬り込んでいない。「上級官僚のプライド」に踏み込んだ論調はいくつも見受けられるが、両者はイコールではない。

上級官僚に限らず、大企業の経営者や役職者として成功した富裕な人とか、学会や業界の重鎮などは、他にも少なからず存在する。誰もがそんな知人を三人や四人持っている。つまり、数は少ないが自分の周囲にも結構いる存在なのだから、その人たち特有のプライドを感じることも、機会は少ないが日常の中でときどきあると思われる。外面からであっても、それらを理解するのはさほど難しくない。

だが、「東大卒のプライド」はそんな簡単に理解できるものではない。いや、おそらくこれは、該当する者(修了した学部・学科に関係なく)でなければ理解できないと思ってもらったほうが良い

そう言い切ってしまうと、「それでは評論のしようがないじゃないか!」と反論されるかも知れないが、それでも私はうなづくしかない。

I氏の場合。氏は事故について謝罪しつつも、「ブレーキが利かなかった」と言い張り、アクセルを踏み込んだことを否認している。他方で警察はブレーキに故障が認められないと結論付けている。この点について論者は、I氏の「認知症の兆候」、あるいは「正当化」「自己弁護」「隠蔽」の意思だと推測する。

私に言わせれば、これらは的外れだ。I氏の思考の中では、どこまでも「ブレーキが利かなかった」のである。間違えてアクセルを踏み込むはずはないのである。自分の行為は「ブレーキを踏み続けた」のに「利かなかった」以外にあり得ない。事故のとき、同乗の妻に対して「ああ、どうしちゃったんだろう」と言ったとされる言葉が、それを正直に表している。

ではI氏は亡くなった母子に対して申し訳なさを感じていないのかと言えば、決してそうではないと思う。自分の車が事故を巻き起こしたことについて、言いようのない慙愧を覚えているのではないか。しかし、その原因はあくまでも「自分は安全運転していたのに、ブレーキが利かなかった」なのである。I氏自身もそうとしか言いようがないのだと思う。

K氏の場合。氏は「長男が川崎のような事件を起こすかも知れないと案じて殺害に踏み切った」と供述しているという。長男の引きこもりは以前からあったのだから、同居した直後に公的機関などの社会資源に相談すれば良かったという人たちがいる。著名なソーシャルワーカーもそう言っている。

私は言いたい。それができない(できなかった)のだ。

結果から推測する限りであるが、何と言われても、できないものはできないのである。K氏の思考の中には、「他人に迷惑がかからないように、自分たち(家族)の中で始末する」のが唯一の選択だったのだ。K氏ほど人脈が豊かな人が、その気持ちさえあれば、自分の知人を通して適切な専門職に相談するのはたやすいことだったと判断される。しかし、それはK氏にとって容認できる手段の外であった。

理解に苦しむ読者が多いであろうことは承知しているが、この両氏の行動の根にあるのが「東大卒のプライド」である。

この二人の事例を見て気が付いたこと。「受援力」=「支援を求め、受ける力」の言葉があるが、「東大卒のプライド」は「受援力」の欠如に結び付いている。

なので、このプライドはある意味、危険な存在なのかも知れない。I氏やK氏の事例から見る限り、多くの人から見れば、「東大卒のプライド」の所産は、実体として「愚劣」に映るに違いない。

しかし、他方でこのプライドは、当人が「辛い、苦しい状況」に陥ったとき、歯を食いしばって耐え抜く原動力でもあるのだ。そして、その力が、政治、経済、科学技術、文化、社会保障などの多くの分野で、輝かしい成果を実らせてきたことも、また疑いのない事実なである。

I氏とK氏には、亡くなった人に対して心から贖罪することと、自らの心の安らぎがもたらされることを願いたい。

併せて、該当するすべてのOB・OGが抱いている「東大卒のプライド」が、社会にとって望ましい方向のエネルギーに転化されることを祈りたい。

2017年10月18日 (水)

輝いてください☆

浜松の、いや周辺の市町も加えて、静岡県西部地区の介護業界は、ある意味「大きな田舎」である。関東や関西、あるいはその他の地域で、当地より一歩も二歩も先んじたアクションが起こり、それが全国的に大きなうねりを作ろうとする形勢にあっても、なかなかそれらの動きについて行くことができない。

介護業界の括りにかかわらず、保健、医療、あるいは福祉の業界では、「やらまいか精神」で注目すべき活動をしている人たちが当地にも結構見受けられるのだが、なかなか「全国区」でのダイナミックなアクションに結び付いていると言い難いのは、寂しい限りである。

私も、かつてはブログや掲示板、あるいは同業のMLなどをきっかけに、全国各地を旅しながら業界の友人たちと交流させていただき、最近はFacebookの助けもあって、多くのすばらしい仲間とネットで結び付くことができたが、2月に母が要介護状態になってからこのかた、行動が制約され、なかなか自分から他県まで出かける機会を持てずにいた。

そこで、去る14日、他の用事も兼ねて東京へ一泊ツアーを敢行。数人の方にお声掛けしてディナーにお誘いしたのだが、ご用事で参加できなかった方もあり、新宿の「KICHIRI」で三人の方とテーブルを囲むことになった。

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相模原市在住の認知症介護指導者・認知症ケア専門士、阿部敦子さんは、「認知症ONLINE」のサイトで認知症介護小説『その人の世界』を執筆されている。家族側や支援者側から見た認知症の姿ではなく、徹底した利用者目線で一人ひとりに「何が起こっているのか?」を導き出そうとする短編小説の連作は、利用者本位の介護を究めようとするすばらしい試みだ。すでに29作まで紹介されている。

都内在住の管理栄養士、林裕子さんは、患者(利用者)本位の在宅医療で全国から注目されている、悠翔会在宅クリニック・在宅NSTチームに所属されている。他の医療職と協働して、「摂食」「栄養」「嚥下」などの側面から多くの人たちの在宅生活を支える、訪問栄養指導のスタッフのお一人である。一般にはまだまだ普及していない訪問管理栄養士としてのお仕事をされている。

奥平幹也さんは、以前のエントリー「人と会い、人と語り...(2)」にもご登場いただいた。その後、「ミライ塾」はNHKの番組でも取り上げられ、その取り組みが全国的に紹介されたこともあり、最近は各地を回るなどのご多忙な日々が続く。

実は阿部さんと林さんとは、FB上で私の「ダジャレ友達(正しくは「言葉遊びの友達」かな?)」でもあるのだが、お目にかかるのは今回が初めてであった。お会いしてお二人ともステキな女性であるとの認識を新たにしたことは、説明の要もないと思う(^^*

(なお、顔出しNGの方がおられたので、画像は料理のみである)

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阿部さんは、現在のところ本業の傍ら、短編小説をポランティアで執筆されている。奥平さんから、他の方のことはともかく、阿部さんの作品は対価を受けるだけの価値があると思うとのご意見があった。私も、せっかくの力作が悪用・盗用などされないように、著作権を守る手立てを講じるべきだと述べさせていただいた。阿部さんも今後の対応については考えるところがあったようだ。

個人的には、保健・医療・福祉に携わる方すべてに、ぜひ『その人の世界』を全編お読みいただきたいと思う。阿部さんにはさらに書き続けていただき、いずれこの小説が紙媒体で出版され、業界の教科書になることを期待したい。

奥平さんの「ミライ塾」塾生たちは、すでに三期目に入っている。この塾は介護の現場で働きながら奨学金を返済し、そのあとは一人ひとりに合った職業に就いて(もちろん、介護でも良いのだが)、社会に羽ばたいていくのが理想だ。しかし、しっかり足元固めをして独り立ちしようと研鑽を怠らない学生が多い一方で、中には若さゆえの気のゆるみや、社会人としての経験の浅い面が露呈してしまう学生もいる。現実には奥平さんがそれらの課題解決に向けてサポートしているとのお話があった。

学生のフォローアップは、学生の就労先法人→関連団体からの支援を受けているとは言え、奥平さんの過重負担が大きくなっているようだ。ミライ塾の取り組みが画期的なものであるだけに、長く続けられることを思えば、お一人に負担がかかる状況が軽減されることは大切である。学生の卒業までに社会人として磨き上げていくのがミライ塾の目指すところだ。今後はどこかの基金を活用するなどして、サポートしてくれる要員を確保できないものか。喫緊の課題になろう。

談話の中で、一般的に奨学金を返せない人が増えている事情は、就労してからの収入が伴わないなどシステム上の問題がないとは言えないが、本人の意識に係る要因が大きいとの議論もなされた。林さんもご自身の経験を踏まえ、借りたものは責任を持って計画的に返済すべきことを指摘された。私も同意見だ。

林さんからは、栄養士の給与が医療職の中ではいまだ低く抑えられている現状のお話があった。給与待遇面のみならず、一般的には管理栄養士が在宅訪問する場面は限られており、悠翔会さんのように在宅NSTを推進する医療機関は少数だ。栄養士さんたちが活躍することで、高齢者などの入院に至るリスクを減らし、医療、介護双方の社会保障費を抑制する効果もあるのだ。林さんも複数の業界誌などにお仕事での取り組みを投稿されているが、今後は市民啓発にも一層力を注ぐ必要があるかも知れない。

ちなみに、林さんはおもに電車を使って利用者さんを訪問されており、本当は自転車も併用したいらしい。私自身、ケアマネジャーとしての居宅訪問は徒歩やバス利用の割合が多いので、安易に車を使わないスタイルには共感できる。

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私から見れば一回り以上若い方々とのトークであったが、とても実りある時間であった。自分自身の生涯学習のためには、これからも年代に関係なく、価値のあるお仕事をしている方とは、親しく交流していきたいと考えている。

トークに付き合ってくださった方々(および、今回参加いただけなかった方々を含め)は、それぞれの分野で先駆的な方である。しかし、いまだ介護業界、保健・医療・福祉業界の中で、ふさわしい声価を得ていないというのが、私の正直な感想だ。ヒーローやヒロインを作ることが業界にとって良いという意味ではない。より多くの人たちに携わってほしい分野を開拓していく人、いわば牽引車のような人が、どの分野にも必要なのだ。その人たちがスポットライトを浴びることにより、協働する人たちが増え、私たちの業界、ひいては市民社会に大きく寄与することになるのだから。

阿部さん、林さん、奥平さん。もっともっと輝いてください☆ 及ばずながら、私もできる限り応援します!

2017年10月11日 (水)

研修で「話す側」になろう!

30代~40代前半の中堅どころに位置する介護業界仲間の動向をネットで眺めていると、「○○研修会」「△△学会」「□□講演会」といった場に出向いて、多くの知見を身に着けようと努めている人たちが多く見られる。日常業務が多忙な中で、時間や費用を確保して各種研修の場に出掛けているのには、たいへん敬服する。

しかし、このような研修に参加した記事を見ていて、残念になることもある。

それは、中堅どころで才能も力量も備えていると思われる人が、もっぱら「聴く側」「受講する側」に回っているのを、散見することだ。

もちろん、聴くこと、受講することの意義を過小評価しているのではない。ただ、講義・講演する側になれる、少なくともパネリストぐらいは務められる力のある人が、なかなかそのような役回りを担った話を聞かないと、どうしても気になってしまうのだ。

その原因は一人ひとり異なるので、それぞれがどんな状況で講師やパネリストにならないのかはわからない。「能ある鷹は爪を隠」して韜晦しているのか、遠慮深い性格でいつも出番を辞退しているのか、頭角を現しているのになかなか周囲が認めてくれないのか、勤務先などの制約によって表舞台に立つ機会を持てないのか。

私自身が宮仕えのとき、(決して有能だったわけではないのだが)鳴かず飛ばずだった理由は、この最後の項目に当てはまる。旧勤務先が常態的に職員の突出した行動を抑える傾向にあった。そのため、研修や企画の講師やパネリストとして声がかかるようになったのは、開業した40代になってからだ。

いまでこそ普通に講師業もこなしているが、40代初めにいくつかの団体からボツボツ呼んでもらえるようになった時期には、人前で話すだけでも心拍数が上がってしまい、なかなかまとまりの良い話をするのに難渋したことを記憶している。慣れるためにも、若いうちに講師やパネリストの場数を踏んだほうが良い。自分自身の経験からだが。

特に、主任介護支援専門員であれば、更新までの五年間に講義の一つや二つはこなすのが当たり前であるべきだ。所定の研修の企画・ファシリテーターとて参画するのならまだしも、年四回参加していれば主任更新が可能との要件は、もっぱら受動的な研修参加だけでも更新できるわけであるから、甘過ぎると言わざるを得ない。

ただし、地域によっては地域包括支援センターの受託法人が自法人の主任に講義枠を割り当てる「お手盛り」もあるようなので-そのような義務的な講義はあまり経験値にならないのだが-公的な研修の場で誰もが講義の機会を持てるわけではない。むしろ、(宮仕えか開業かを問わず)バックを持たない介護支援専門員が狭い地域の枠を超えて、所属都道府県内外の関係団体から講師として招いてもらえるレベルの力を持つことが望ましい。

介護福祉士などの現場介護職員、特にリーダーの立場にある人たちも、講師やパネリストとして登壇する機会を持つことが、自分自身の知見・研鑽・実践を言語化して披露する好機となるだろう。

中堅どころの業界仲間たちが、「話す側」「講義をする側」になる場面を増やすことにより、さらに活き活きと良い仕事をしてくれることを願っている。

2015年11月30日 (月)

誘拐、外転、仮説形成

モーツァルトのオペラに「後宮からの誘拐=Die Entführung aus dem Serail」なる作品があることは、音楽関係者でなくてもご存知のことであろう。

ところで、このオペラのタイトルを英訳すると、"The Abduction from the Seraglio"になる。

「アブダクション」とは論理学で、「仮説形成」の意味に使われる。「ディダクション=deduction(演繹)」「インダクション=induction(帰納)」とともに、論証のための三段論法として活用されている。ケアマネジメントに関する論理的思考について、学術研究でもよく使われる用語であるが、その同じ単語に「誘拐」の意味が存在するとなると、いささか物騒だ。しかし現実には、北朝鮮による拉致被害なども「abduction」の用語で表記されている。

そこで、英和辞書で「abduction」を引いてみたところ、「仮説形成」「誘拐」以外に、「外転」の意味もあることがわかった。

では、それぞれの語源はどうなっているのだろう?

「誘拐」「外転」を意味する「abduction」は、「abduct(動詞)」に対応している。これはラテン語の「abducere」が語源であり、「外側へ転じさせる」、それが派生して「略取する」意味になる。

ところが、「仮説形成」を意味する「abduction」は、近代ラテン語「abductio」に基づくものであり、それはさらにギリシア語「アパゴーゲー」の訳だという。

面倒なことになったが、とにかく「アパゴーゲー」を辞書で引いてみた。すると、「外へ引っ張ること」の意味とは別に、「本来の場所に連れて行くこと、もとの所有者に戻す=支払うこと」などの意味があるのだ。

「魚は水中でしか生息できない」そして「A地域の断層には魚の化石がある」→だから「A地域は昔は海(または湖、川)だった」といった「アブダクション」を見ると、確かに「本来のところ」に落ち着くには違いない。前提次第で誤謬が生じる可能性もあるが、大枠で言えばギリシア語の語源の通りになる。C.S.パース(1839-1914)が命名した理由が何となくわかったような気がする。

それでは、「ディダクション」と「インダクション」はどうだろうか?

「deduction」→「演繹、推論」とともに、「差し引き」の意味もある。こちらは中世ラテン語から中世英語を経由して、二つの意味に分化したようだ。動詞では前者が「deduce」、後者が「deduct」と分別されている。

「induction」→「帰納、誘発」とともに、「導入、就任」の意味もある。これも同様、中世ラテン語→中世英語経由である。動詞では前者が「induce」、後者が「induct」である。

それでは、「abduction」には「abduce」という動詞があるのか? 調べてみたところ、近世には「abduce」があったのだが、後に「abduct」に同化してしまったらしい。これは「外転」のほうの意味を超えるものではない。

まとめると、「仮説形成」の「abduction」だけが近代になってから作られた単語であり、系統を異にしていると言えるのではないか。結果的に「誘拐」「外転」と同じ名詞で表記されはしたが、論理学の用語として定着したということだろう。

類似している三つの英語も、語源を考えると面白い相違が見られるものだ。

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