言葉狩りの弊害
12月9日は「障害者の日」である。
社会福祉士である筆者にとって、この日の意義付けは先刻承知のことであるが、別の視点から振り返ってみたい。
それは「差別用語」の事案である。
時代劇をほとんど見ない筆者にはよくわからないが、たとえば最近の「座頭市」では、悪役は座頭市に対して何と呼び掛けて罵倒するのだろうか? 「やい! この、たいへん目が不自由なヤツ!」とでも言っているのか?
さすがにこの表現は「ちょっと違うだろ?」と思うのだが、もし差別用語の排除を徹底すれば、こんな表現になってしまう。
私がドラマのプロデューサーや脚本家ならば、役者には当時使われていたであろう罵声のまま、「やい、このド○○○!」と言わせる。その上で「「○○○ら」とは人権意識の低い時代に使われていた差別用語であり、いまは視覚障害者に対して言ってはならない言葉です」とテロップを付ける。
他の障害を持つ人に対する差別用語も同様だ。たとえば「か□□(肢体不自由者に対し)」「き△△△(精神障害者に対し)」などは、私が生まれた時代にはまだ普通に使用されていた。それが人権意識の高まりとともに、不適切な表現にされるに至ったが、過去に使用されていた事実を消して良いものではない。
つまり、「かつてはこのような差別が行われていた」事実を明示した上で、それが対象者を侮辱し傷付けるものであるから、実社会では使用してはならないことをしっかりと教える。
これが本当の「反差別教育」であろう。障害者差別に限らず、民族差別など他の枠組みにも通じるものだ。
いま社会で行われていることは、言葉狩りの先行である。そのため、若者たちは「なぜその言葉を使ってはいけないのか?」をしっかり教えられる機会を持たない。だから何かの機会にそれらの言葉を掘り起こして、罪悪感もなく口にしたり書き込んだりしてしまうのだ。さらに、障害者の活動を特権とか利権とか批判している連中は、当事者たちを攻撃する言葉として、差別用語を平然と使う。
もちろん、反差別教育が徹底して行われたとして、このテの人間を減らせるにせよ、根絶させることは難しい。しかし、多くの市民が正しい理解をすることができれば、不適切な差別用語を繰り返す輩が排除される機運を醸成し、少数派の人たちが平穏に活き活きと過ごしていく社会を創り出すことができるのではないか。
介護業界における国語の指導を副業とする者として、この課題をみなさんとご一緒に考えてみたい。
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