心と体

2023年12月 9日 (土)

言葉狩りの弊害

12月9日は「障害者の日」である。

社会福祉士である筆者にとって、この日の意義付けは先刻承知のことであるが、別の視点から振り返ってみたい。

それは「差別用語」の事案である。

時代劇をほとんど見ない筆者にはよくわからないが、たとえば最近の「座頭市」では、悪役は座頭市に対して何と呼び掛けて罵倒するのだろうか? 「やい! この、たいへん目が不自由なヤツ!」とでも言っているのか?

さすがにこの表現は「ちょっと違うだろ?」と思うのだが、もし差別用語の排除を徹底すれば、こんな表現になってしまう。

私がドラマのプロデューサーや脚本家ならば、役者には当時使われていたであろう罵声のまま、「やい、このド○○○!」と言わせる。その上で「「○○○ら」とは人権意識の低い時代に使われていた差別用語であり、いまは視覚障害者に対して言ってはならない言葉です」とテロップを付ける。

他の障害を持つ人に対する差別用語も同様だ。たとえば「か□□(肢体不自由者に対し)」「き△△△(精神障害者に対し)」などは、私が生まれた時代にはまだ普通に使用されていた。それが人権意識の高まりとともに、不適切な表現にされるに至ったが、過去に使用されていた事実を消して良いものではない。

つまり、「かつてはこのような差別が行われていた」事実を明示した上で、それが対象者を侮辱し傷付けるものであるから、実社会では使用してはならないことをしっかりと教える。

これが本当の「反差別教育」であろう。障害者差別に限らず、民族差別など他の枠組みにも通じるものだ。

いま社会で行われていることは、言葉狩りの先行である。そのため、若者たちは「なぜその言葉を使ってはいけないのか?」をしっかり教えられる機会を持たない。だから何かの機会にそれらの言葉を掘り起こして、罪悪感もなく口にしたり書き込んだりしてしまうのだ。さらに、障害者の活動を特権とか利権とか批判している連中は、当事者たちを攻撃する言葉として、差別用語を平然と使う。

もちろん、反差別教育が徹底して行われたとして、このテの人間を減らせるにせよ、根絶させることは難しい。しかし、多くの市民が正しい理解をすることができれば、不適切な差別用語を繰り返す輩が排除される機運を醸成し、少数派の人たちが平穏に活き活きと過ごしていく社会を創り出すことができるのではないか。

介護業界における国語の指導を副業とする者として、この課題をみなさんとご一緒に考えてみたい。

2023年6月21日 (水)

名古屋城復元に関する大きな誤解

先に6月3日、名古屋城天守の木造復元に関する市民討論会が開催されたが、その際に「車いすの人たちが最上階まで観覧できる」エレベーター等の設置をめぐり、議論が白熱した。途中で、設置反対派の「健常者」から、障害者を非難する言葉や差別用語が飛び交うなど、常軌を逸した発言が続き、混沌とした討論会になったと伝えられている。

見聞きした範囲での話だが、筆者の正直な感想を一言で言えば、「この討論会は不要だった」。

多くの市民の間には、どうも大きな誤解があると思う。

障害者差別解消法の第五条(2016施行)によれば、「行政機関等及び事業者は、社会的障壁の除去の実施についての必要かつ合理的な配慮を的確に行うため、自ら設置する施設の構造の改善及び設備の整備、関係職員に対する研修その他の必要な環境の整備に努めなければならない」。また同法第七条の二によれば、「行政機関等は、その事務又は事業を行うに当たり、障害者から現に社会的障壁の除去を必要としている旨の意思の表明があった場合において、その実施に伴う負担が過重でないときは、障害者の権利利益を侵害することとならないよう、当該障害者の性別、年齢及び障害の状態に応じて、社会的障壁の除去の実施について必要かつ合理的な配慮をしなければならない 」となっている。

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それでは、「負担が過重でないとき」とはどのような意味なのか? 当然だが事例ごとに千差万別であるから、同法の施行令などに具体的な基準が示されているわけではない。

同法の基本方針によると、(1)事務・事業への影響の程度(事務・事業の目的・内容・機能を損なうか否か)、(2)実現可能性の程度(物理的・技術的制約、人的・体制上の制約)、(3)費用・負担の程度、(4)事務・事業規模、(5)財政・財務状況、これらの5項目に関して、過重にならないことが掲げられている。筆者はこの5項目に加えて、(6)他者の健康や安全に不利益や脅威を与えないことも、当然加えられるべきだと考える。

基本方針によれば、これらの諸点については、行政機関等及び事業者と障害者の双方が、お互いに相手の立場を尊重しながら、建設的対話を通じて相互理解を図り、代替措置の選択も含めた対応を柔軟に検討することが求められる、とされている。したがって、河村たかし市長が、復元天守の二階まで行くことができれば合理的配慮だと言えると解釈していること自体が誤っている。合理的配慮の度合いは、行政機関の首長の主観をもとに決められるものではないからだ。

他方で、障害者側(個人・団体)からの要求に対して、何が何でも100%の実現を目指すのが同法の趣旨ではない。だからこそ「お互いに相手の立場を尊重しながら、建設的対話を通じて相互理解を図る」必要がある。その建設的対話の当事者は「行政機関等及び事業者」と「障害者」である。この中に、合理的配慮自体を否定する(昇降設備自体に反対する、ましてや障害者を差別視する)一般市民を交えること自体が間違いだ。だから筆者は市民討論会自体が不要であると断言したのだ。

エレベーターが良いのか? 電動かごが良いのか? 他の方法があるのか? また、車いす利用者が最上階まで行くことは、上記(1)~(6)に抵触しないのか? 議論を尽くした上で協調点を見出し、その結果として、ほとんどの障害者が最上階まで観覧できる方法について双方了解したのであれば、市当局が「○○年までに史実通り復元する。他方で△△年までに昇降装置を設置する」と発表して踏み切れば良い。

あるいは河村市長や市当局が、内外の景観も含めた「史実に忠実な復元」を目指すのであれば、市長の主張にのっとった説明を丁寧に行い、障害者団体の理解を求めることも一つの考え方であろう。たとえば「(1)事業目的を尊重するのならば、景観を損なわないために、天守から離れた位置に外付けの昇降装置を備え、支援が必要な人が来場した際に装置を城へ近接させて利用する。ただし、それを設置すれば(3)(5)著しい建設費用と維持費用が掛かり、バリアフリー復元の見本として来場者数が増えることを見込んでも、他部門の無駄な経費を削減しても、市の財政逼迫は免れない(→(6)それによって配慮が必要な属性を持つ他の人たちへの福祉施策が後退する、または一回ごとに装置を移動させるため他の来場者に脅威や著しい不便をもたらす)」など、具体的な数字の試算やオペレーションの想定により、明らかな「過重」であることを丁寧に説明して、納得してもらうことも必要だ。

「やらずもがな」の市民討論会のため、心を大きく傷付けられた障害者の人たちの思い、察するに余りある。

河村市長には旧態依然たるポピュリズムのパフォーマンスを事とするのではなく、さまざまな属性を持つ一人ひとりの名古屋市民に寄り添った市政を展開してほしいと、(母の実家が名古屋市にある)筆者は願っている。

(※画像=城のイメージは(株)メディアヴィジョン(いまは社名変更?、または解消?)発行の、使用権フリーのものを借用しました)

2021年12月17日 (金)

どうやら高血圧に

筆者は10月に満61歳を迎えて、間もなく二か月になる。これまで同様、仕事にも勤しんでおり、個人的にも大きな変化のない一人暮らしを続けている。

しかし、最近になって気になることが生じた。

血圧が高いのだ。

これまで数年間、下(拡張期血圧)はおおむね70~80台、冬は90台とやや高めだったが、上(収縮期血圧)は120~139と境界値付近で推移してきた。

ところが、この秋の半ばごろからは、上が140台のことが増えている。暖かい部屋から寒い部屋へ移動したあと測定すると、150を超すことがあり、ヒートショックのリスクも考え併せると、そろそろ危険水域に差し掛かっていると感じている。

原因はいろいろ考えられる。

まず、仕事の現況。居宅介護支援の運営基準やケアプランの様式が変わったことにより、不慣れな書類をいくつも準備しなければならなくなった。それに加えて法定の主任介護支援専門員更新研修の受講(4~5年に一回必修。いまはオンラインで9日間)があるため、気持ちの余裕がなくなっている。これが第一の理由であろう。原因を取り除くためには、研修が終了し(年明けに残り2日)、必要書類の準備を終えるまで待つしかないかも知れない。

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次には、アルコールや塩分を好む傾向。飲酒は毎日ワインを1/3本程度なので、気持ちの安定のため当分はやめない予定(^^; 減塩には気を遣わなければならないので、少なくとも朝食のスープ(毎日)や、昼食のラーメンのスープ(週2~3回)、夕食にときどき味わう味噌汁(月2~3回)のスープなどは、飲む量を控え目にしていく。自宅と事務所に画像の紙を貼って、なるべく「満足する一歩手前」で自制するように心掛けたい。

最後に、加齢。こればかりは不可抗力である。血管の弾力性が失われてしまうのだから。

食生活を改善するため、これまでもときどき食べていた降圧効果のある食物、ほうれん草、バナナ、納豆、イワシなどを、意識して鋭意摂取していくつもりだ。

注意を促してくれる家族もいない身なので、後悔しないように努めようと思う。

2021年12月 8日 (水)

新型コロナ(15)-新変異株に「うろたえるな!」

新型コロナウイルスが世界に蔓延してから、間もなく二年になる。

その間、私たちは社会生活の中で、数々の制約を強いられてきた。マスク着用、「不要不急」の外出制限、多人数での飲食の制限、イベントでの参加者同士の距離確保や声出し禁止、等々。

感染症を引き起こすウイルスである以上、国や自治体が市民社会を守るために、予防策を講じなければならないことは当然だ。その一環として各所で上記の対策が励行されることに、私は反対するものではない。

他方、以前のエントリーで述べた通り、その感染予防策が個人、組織、地域、共同体(地方、国)のいずれのレベルでも、過剰な段階に至ったことにより、本来守られるべきである「人の尊厳」「人間の尊厳」が危機に瀕することになった。

もちろん、私自身も新型コロナウイルスに感染したくないし、自分が媒体になって他の人(特に「顧客」である高齢者)に感染させたくない。そのために可能な予防策は日々実践しているつもりだ。現在でも私は、利用者や介護者を前にしたとき、店舗へ入ったときなどには必ずマスクを着用するし、(経済的事情もあるが...)二年近くにわたり会食にも参加していない。

しかし、この状況が世間一般の自然なルールと化していることには、大いなる違和感を覚える。

政府は東京五輪やパラリンピックを強行する政治的決断を下しながら、相次ぐ第三波、第四波、第五派に対して緊急事態宣言や蔓延等防止措置を延々と発出し続けた。その間に新型コロナのいわば主力を占めていた「デルタ株」が、おそらく弱毒化や自壊作用を引き起こし、10月以降は散発的なクラスター等の発生を除き、日本国内での感染拡大が下火になっている。

ならば、この期間に現行の「二類感染症(結核・SARS・MERSなどのレベル)」から「五類感染症(ウイルス性肝炎・新型以外のインフルエンザなどのレベル)」に変更すべきではなかったか? 

そうすることによって保健所の膨大な負担(これまで、他部署・民間の保健師や、同等の力量を持つ看護協会所属の看護師までが駆り出されてきた)をいったん終結させ、かかりつけ医の裁量によって入院、隔離等の対応を判断できることになれば、自治体の負担は大幅に減り、その力を感染対策の他の部分に振り分けることができるはずだ。むしろ病床逼迫を来たさないための対策は、そのほうが効果的に推進できるかも知れない。

また、私たちも「人間らしい」社会活動を取り戻すことができる。たとえば、高齢者施設において、人権侵害とも思える家族の面会制約なども、厚生労働省や自治体が「縛り」の高札を降ろすことにより、施設長の裁量で、コロナ禍以前に近い形に戻すことができる(あえて非人間的な制約を続ける施設は、社会的に批判を受け、利用希望者が減る)。

現実には、二類→五類に反対する人たち(個人、組織)がいることを、もちろん私も承知している。純粋に科学的見解から反対している人たちもいれば、利権を手離したくない人たちもいるだろう。逆に、あまりにも感染症を軽視し、認識不足から安易な制約解除を推進する人たちも、残念ながら存在する。

これらを総合的に判断して大所高所から決断するのが、政治の役割なのだ。

子どもたちが一緒に遊ぶこともできず、健全に成長できない社会や、仕事を失ったり心を病んだりして自殺する若者が増える社会は、望ましい姿なのだろうか? この状況でさらに一年、二年と経過すれば、日本経済は立ち直ることができなくなり、日本の市民社会は取り返しのつかないところまで破壊されてしまうかも知れない。

それは単に国内の問題にとどまらない。日本に(表向きはともかく、内実は)敵対的な他の国にとって、思う壺ではないか?

このほど「オミクロン株」が蔓延しつつあるが、確かに感染力が強いとは言え、重症化しにくいとの情報も示されつつある(今後、評価が変わってくるかも知れないので、念のため)。これを恐れていては何も進まないことは確かだ。ウイルスはそもそも変異するものなのだから、世界の各地で今後も次から次へと、新たな変異株が生まれるであろう。

日本国民、とりわけ政治家の皆さんは、この新しい変異株に「うろたえるな!」

私たちは冷静にその実態を分析しつつ、正しく恐れるべきだ。そして五年後、十年後、二十年後の日本の姿を見据えた、最も望ましい選択をすべきであると、私は訴えたい。

2021年6月 8日 (火)

数字の「6」を嫌う理由

人間、誰しも、脳裏に焼き付いている幼少時の風景があるものだ。

私が幼稚園に入園して間もない4歳のとき、6月の初め、麻疹(はしか)に罹って熱を出したので、かかりつけ医でペニシリンを注射してもらったところ、全身に薬疹が出てしまった。両親はそのときまで、私が薬物アレルギーであることに気が付かなかったのだ。

熱は次第に退いたが、薬疹はなかなか治まらなかった。私が醜くなった自分の顔を見たくないと泣きじゃくったので、母が鏡台に布を掛けてくれた。幼稚園へ行くのが嫌で、月末まで20日余り休んでしまった。

それ以来、6月が嫌いになり、さらには「6」が最も嫌いな数字になった。

最近は新幹線で空席があると「6A」や「6E」に座ったり、訪問先で脱いだ靴をわざわざ靴箱の六番目に入れたり、何とか克服しようと努力しているのだが、心に染み着いた嫌悪感はなかなか拭い去ることができないものだ。

表計算でも空白が六段生じると、わざわざ一段加えるか削るかして、「6」を回避している。

ただでさえ、6月は梅雨のため気持ちが晴れない日が多い月である。そこに加えて、私の場合は幼少時のネガティヴな体験が影を落として、一層この月が嫌いになってしまった。

このところ、入院したり入所したりする利用者さんが多く、対応に追われている。これも「6月」の相性の悪さがもたらしているのかな? などと考えてしまう。

とは言うものの、特効の解決方法が見つかるわけでもない。これはこれで自分が背負ってしまったものなのだから、上手に付き合いながら人生を過ごしていくしかないか、と割り切ることにしよう。

2021年5月30日 (日)

プロにあるまじき行為を放置するな!

大坂なおみ選手(テニス)が物議を醸している。

...と言っても、いま話題になっている全仏オープンでの「記者会見拒否」の件ではない。

5月12日、大坂選手はイタリア国際(ローマ)の2回戦で、ジェシカ‐ペグラ選手(米国)に敗退した。その際、ラケットを数回、地面に叩きつけて破壊した。

翌13日、ラケットを提供するYONEXが、「今回のような行為は決して望まない。世界で影響力がある選手なので、ジュニア世代やキッズたちが真似することを危惧する。また同様な行為があった場合は、マネジメント会社経由で注意させていただく(要旨)」との声明を発表した。ネットでの意見(誹謗中傷は除外した穏当な批評)でも、同選手の行為を非とするものが大勢を占めた。同選手に限らず、過去、歴史に残る大選手たちの何人もが同様な破壊行為をしているが、それらも含めて望ましくない行為だとする意見が圧倒的であった。

ところが、もとテニス選手だった神和住純氏(法政大教授)の見解は異なるらしい。

詳細は、デイリー新潮の記事内に引用されているが、要旨は、「選手がラケットを壊すのは、試合の悪い流れを断ち切ってスッキリしたいからだ。精神的な駆け引きが勝敗を決めるので、卓球やバドミントンに比べて長時間の試合にもかかわらず、集中力を維持させなければならない。その中で感情的にラケットを壊すこともある。批判されて当然ではあるが、その愚行もまたプレー同様、温かい目で見守ってほしい」である。

この意見は全く誤っている。

自分が日々の仕事で使用する道具を大切にする、少なくとも粗末に扱わないのは、社会人の基本である。どんな仕事であれ、道具を破壊するのは、プロフェッショナルにあるまじき所業である。「批判は甘受するが、試合の展開によっては起こり得る行為」として放置してはならない。7年前、松山英樹選手(ゴルフ)がドライバーを地面に叩きつけたときも、世論の大勢は決して松山選手を擁護しなかった。最低の行為だからだ。

長時間の試合で動きが激しく、緊張を強いられることは、破壊行為の理由にならない。他にも同様な競技があるとは思うが、少なくともテニスプレイヤーの場合は、その地位にふさわしい国際的な称賛と報酬とを受けている。払った努力が報われない競技ではない。「チャンピオンになるのは楽でないが、対価は少ない競技」とは性格が違う。「集中力の維持」もプロに求められる条件である。一個何万円(このクラスの選手ならもっと高い?)のラケットを破壊しなければ、それができないとしたら、チャンピオンの資質に欠けていることにならないか?

大坂選手は恵まれた環境にあったから、幼少時にラケットを難なく入手できたかもしれない。しかし、世界、特に開発途上国には、たとえテニスの才能があっても、貧困のためラケット一本さえ容易に手に入らず、泣く泣く選手への道を諦める子どもたちが数え切れない。その子たちにとって、テレビなどで世界一流のテニスプレイヤーがラケットを破壊する場面を見ることは、どれほど悲しいことだろうか。

もし百歩譲って、神和住氏の見解に沿って「温かく見守ってほしい」のであれば、このようにすれば良い。

公益事業として「ラケット普及基金(仮称)」を設立し、ラケットを破壊した選手は、所属団体への罰金ではなく、基金に対して多額の罰金を払う(金額はランクに応じて、たとえば大坂選手クラスならば一千万円とか...)。その収益は、開発途上国で一定の成績を上げた千人の子どもたちにラケットを無償配布するのに使用される。もちろん、単に罰金を払えば良いのではなく、公式に会見して謝罪することも条件にする。

個人的には、これまで通り大坂選手に声援を送りたい。日本が誇る世界最高クラスのプレイヤー。だからこそ、次の世代を担う子どもたちに見られても、恥ずかしくない振る舞いを見せてほしい。テニスを愛する多くの人々から尊敬される存在になってほしいのが、私の願いである。

2021年1月30日 (土)

新型コロナ(14)-私たちに問われているもの

日本で新型コロナウイルスの蔓延が始まって、はや一年になる(日本国民で初めての陽性者が報告されたのが昨年1月28日)。

私たちは、さまざまな不自由や困難と向き合いながら生活することを余儀なくされてきた。そして、このコロナ禍の中で、私たちは多くの課題に直面している。

その課題のうち最大のものは、次の二つだと私は考えている。

一つは「人の尊厳」。

もう一つは「人間の尊厳」。

この二つの意味には重なる部分もあるが、切り分けて捉えている。

前者は、一人ひとりの「人」が尊重されつつ、日々を生きられることの大切さ。

後者は、その「人」と「人」とが、社会の中で関係性を保ちながら、望ましく生活できることの大切さ。

私たちの人生に欠かせない車の両輪だ。

コロナ禍で、多くの人たちが当たり前のように享受してきたこの二つの尊厳が脅かされる現実を、私たちは目の当たりにした。

「人の尊厳」の軽視。巣籠もりに起因するDVの増加、感染者への誹謗中傷、医療従事者への誹謗中傷、いわゆる「マスク警察」「自粛警察」「時短警察」等の誤った正義感に基づく行為、葬祭の過剰な感染予防体制(家族の死に目に会えない、お世話になった親戚の葬儀に参列できないなど)、等々...

「人間の尊厳」の軽視。帰省(やむを得ずに)する学生や里帰り出産する妊産婦への非難、高齢者施設での面会禁止(代替の方法も工夫してもらえない場合など)、想像性の欠如に基づく行為(軽率な飲み会やBBQなど)、蔓延のリスクを無視する自己主張(飛行機内でのマスク着用拒否など)、品物が本当に必要な(無いと生活できない)人たちを脅かす異常な買い占め、在住外国人への理不尽な制約(母国へ戻れない技能実習生、入管から仮放免されても就労できない難民申請者など)、血眼になって煽動するメディアの視聴率稼ぎ、政治家や官僚による他人事モードの空虚な発信、等々...

これらの行為が報じられるたびに、悲しくなる。

日本ではこんな状況だが、国によっては民族・宗教や貧困・飢餓などの問題が大きく、さらに深刻さを増しているところもあるだろう。

読者の多くは、J.スウィフト(1667-1745)の「ガリヴァー旅行記」を読んだことがあるだろう。その最終章「フウイヌム国渡航記」に登場する「ヤフー」なる類人猿は、人間の退化した姿であり、汚物を投げ付けたり、貴重な石を奪い合ったり、あたかも人間が本能のままに振舞ったらこうなるのだと言わんばかりに描写されている。先に掲げた「人の尊厳」や「人間の尊厳」を傷付ける言葉や行為は、この「ヤフー」を想起させる。換言すれば、言動の主やそれが飛び交う原因を作り出した人たちは、自分たち自身の「人の尊厳」「人間の尊厳」を貶めているのと変わらない。

これまで抑制されていた人間の負の側面が、コロナ禍を機に表面化してしまったのだろうか?

私たちはそうあってはならないのだ。これらを反面教師として、「人の尊厳」「人間の尊厳」の大切さをいま一度見直し、その二つを守るためにどう発言し、振る舞い、活動しなければならないのかを、いまこそ模索していかなければならない。

地球規模で起こった災厄に違いないが、その災厄がもたらした試練は、私たちに対し、「人類はどうあるべきか」と問い掛けている。

この大きな命題に応えられたとき、私たちの輝かしい未来に向けての再出発が始まるであろう。

2020年8月 2日 (日)

飲食店がんばれ!

このところ、「新しい生活様式」を実践していることもあり、外食の回数がかなり減った。テイクアウトやワインの家飲みは相変わらずなのだが、お昼をインスタントラーメン(定休日)やお惣菜パン(営業日)で済ませることが増えたので、飲食に掛ける費用は少し節約できた。その反面、外で食べる楽しみが減り、何となく欲求不満のようなものを感じていた。

さて、私は営業日に浜松市北区方面へ行くことは珍しいのだが、一昨日の昼食では久しぶりに、以前何度か食べに行ったことがある「ステーキのあさくま・三方原店」まで足を延ばした。店舗に関係のある知人から、期間限定の割引クーポンをいただいたので、プチ贅沢をと思い立ったのだ。

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13時過ぎに入る。幹線沿いなので、普段は平日のこの時間でも結構客が多く、賑わうのだが、新型コロナの影響で県外ナンバーの車が大幅に減ったこともあり、店内はかなり空(す)いていた。

夏のランチは胃腸に負荷をかけないように気を付けているので、比較的軽めのプレーン‐チキンを注文。

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ご飯と野菜類はサラダバーへ取りに行く。感染対策として、客ごとにトングが配付され共用はせず、マスク・手袋を着けてから(客が多い時間帯には店員が案内するとのこと)好きなものを取り分けて選ぶ。トング画像の左側はトマト‐ガーリックご飯。以前は白飯以外に雑穀米があったが、いまは変更したようだ。

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ドリンクバーも同様。手袋着用は表示されていなかったが、ジュース類の機械の横にアルコール液が備えてあった。ボタン(不特定多数の人が触れる場所)を押した後、飲み物が出ている間に手指を消毒するのに具合が良い。

仕事も過密ではない日だったので、ゆったりと食事を楽しむことができた。

飲食店に逆風が吹いているいま、過剰な自粛が経済を破滅させると警鐘を鳴らす論者も多い。実際、大部分の店では厳しい予算の中から捻出して、可能な範囲の感染予防策を採っている。問題はむしろ、自分が「万一」潜伏期間や無症状であるかも知れない可能性を認識せず、「感染源制御」のためのマスクも着用しなかったり、むやみに人の口に入るものに触れたり、近い距離でしゃべりまくったりする客の側にあるのではないか。

一部にいい加減な飲食店はあるだろうし、そこがクラスターになる危険性は多く潜んでいるから、公的機関や業界団体等による指導が必要なことは言うまでもない。しかし、しっかり対策を採っていたはずの飲食店からもクラスターが発生している。サービスを提供する側に100%を求めてしまうと、どの業界でも仕事は何も進まないのだ。サービスの受益者側も、「客」としての倫理に沿った行動を心掛けなければならないだろう。

「自粛」とは本来、「自ら」適切な対策(うつさない・うつされない)を十分に講じた上で、「粛々」と社会活動を続けることだと、私は考えている。行き過ぎた自粛軽視・経済偏重の論調(たとえば堀江貴文氏のツイートなど)には賛成できない点も多いが、他方、長い歴史の中でウイルスと共存してきた人間が、新型コロナのために人間らしい生活ができなくなってしまうとしたら、望ましいことではない。それぞれの業界で注目されている取り組み(たとえば松本幸四郎氏らの八月花形歌舞伎など)のように、工夫次第で可能なことはいくらでもあるのだから。

「食」の楽しみに潤いを与え続けてもらうために、「飲食店がんばれ!」とエールを送り続けたい。

2020年7月 8日 (水)

新型コロナ(13)-政策はどうあるべきか?

前回より続く)

世論調査では現内閣の支持率が下がっている(調査の主体によってバラツキがあるので、数字は掲げない)。調査方法によって特定の結果が出やすい問題はあるものの、概して新型コロナ対策以前よりも、現在のほうがかなり低落していることは間違いない。

そして興味深いのは、政権与党(自由民主党・公明党)の支持率が下がっているのにもかかわらず、野党の多く(立憲民主党・国民民主党・共産党)は支持率があまり上がらず、むしろ時期的には結構下がっている政党もあることだ。このところ明確な支持率上昇を見せているのは一党(日本維新の会)ぐらいか。大阪府知事が目に見える活躍をしていることが影響していると思われるが。

内閣支持率や各政党の支持率は、新型コロナウイルス対策だけで決まるものではない。他にさまざまな要因が考えられる。とは言え、この2月以降の社会情勢を考えると、新型コロナウイルス対策への評価が大きな比重を占めるのは間違いないと言えよう。

さて、内閣や政権与党の支持率が下がったことは、その政策が大きく誤っていたことを意味するものではない。内閣や政党が「こうする」「こうしたい」ことと、市民が「いま、こうしてほしい」こととの乖離が大きければ、適切な政策であっても支持されないこともあるし、望ましくない政策であっても支持されることがある。野党が提案した政策の場合もまたしかり。

つまり、政策に対する評価は、前後の大きな流れを踏まえた長期的な視点でなされなければならないのだ。

その視点から眺めた場合、現政権の政策は、こと新型コロナに関する限り、大きな過ちがあったとは考えられない。確かに世界的な感染症のパンデミックは、過去にも例があったが、新型コロナは従来の感染症とはかなり性格を異にする未知のウイルスであるだけに、難しい対応を迫られた。最善かどうかは評価が分かれるところだが、少なくとも第一波の感染拡大を封じ込めることには成功し、医療崩壊や介護崩壊(地域的には見受けられたが)を最小限に食い止めることができた。

政策を批判する権利は、国民が当然持っている権利だ。しかし、非常事態に批判ばかりしていた人たちは、果たして建設的な行為をしたと言えるだろうか? 一部の野党系と見なされる個人や団体は、普段から「選挙で選ばれた人たちが責任を持つべき」と主張しているのにもかかわらず、これまでのエントリーでも触れた通り、「発注者」である「被選議員により選出された総理の内閣」でなく、「受注者(マスク製造企業、持続化給付金の取り扱い団体など)」を叩きに行っているのだ(押し掛ける、電話で詰問するなど)。その行為が作業を遅らせているとしたら、全く自己矛盾しているではないか。事態が落ち着いてから、事業のあり方を総括して批判するのが筋ではないか。

私自身は政策について、細部の反省点はいろいろと存在するものの、大枠で妥当だったと考えている。

難しいのは今後の経済回復である。国民全体を覆っている生活水準の低下、失業の増大、投資の減退をどう建て直していくのか? 観光再建による「Go to キャンペーン」なども、しばらくは「焼け石に水」であろうし、新型コロナの第二波・第三波にも留意する必要がある。

多くの国民は、一気に経済を「V字」回復をさせたいと願っているであろう。しかし、今回の日本の場合には、傷付いた個体が無理をせずに、待ちの姿勢でじっと体力を涵養する、「レ型」の回復を図るほうが望ましい。その間に政府が国内各産業の建て直しと並行して、国民生活のセイフティネットとなり得る十分な福利厚生策を打ち出せるかが大きな課題になる。この機会に国の無駄遣いを徹底的に洗い出すことも大切であろう。

国際競争力を落とさないことも求められる。経済に限らず、外交や防衛にも力を割いて日本の存在感を高める必要がある。今回の新型コロナを奇貨として、中国や北朝鮮をはじめ、いくつかの国が軍事力拡大路線を進もうとしている。日本は米国やオーストラリア等の近隣国との適切な連携を保ちながら、国民の安全を確保していくことが必須である。

東京五輪が一年遅れで無事開催されるのかも、政策の成否を占う一つのポイントになろう。もちろん、そのためには新型コロナを封じ込めるための国際協調が絶対条件だ。米国がWHOから脱退するとなれば、新型コロナ「火元」の中国とは別の意味で、日本が果たすべき役割は重要さを増す。

現政権が低空飛行と言われながらも、持ち前の柔軟さで難局を乗り切っていくことに、また、各野党もそれぞれ旧弊から脱して、国の再建のため政権与党に必要な協力をしながら、積極的な対案を繰り出していくことに、期待したい。

2020年7月 5日 (日)

新型コロナ(12)-施策(これまでの)をどう評価するか?

前回より続く)

まず、新型コロナウイルスとは関係ありませんが、
このたびの熊本県周辺の豪雨で亡くなられた方々をお悼みするとともに、球磨川流域をはじめとする、被災された住民の方々に、心からお見舞いを申し上げます。
簡単な言葉で表せるものではないことは十分承知していますが、一日も早い生活の復旧を願わずにはいられません。

さて、本題に戻って。

いったん個人の問題から目を転じて、国の政策・施策について私見を述べてみたい。他国の例も引き合いに出す必要があるかも知れないが、私自身が各国の施策について深い知見を持っているものではなく、また、基本的に安易な国際比較には大きな意味がないと考えていることを、あらかじめお断りしておく。

政策全体を眺める前に、まずは新型コロナウイルスの感染が始まった後の、個別の施策について論じてみよう。

これまで大きな話題となったのは、大型クルーズ船「ダイヤモンド‐プリンセス」への対応、公立学校への一斉休校要請、布マスク配布、緊急事態宣言、国民生活への支援策などだ。

(1)「ダイヤモンド‐プリンセス」への対応
英国船籍、米国企業が経営している豪華客船。2月1日に感染者の乗船が判明し、3日に横浜港に帰港。そのまま船全体が長期的な検疫体制に突入し、乗客・乗員を合わせて3,700人余が船内にとどまることを余儀なくされた。706人の感染者、うち4人の死亡者が出ながらも、神奈川県等の医療機関の協力により、3月末までに事態は終息し、同船は3月25日に出航した。
この対応については米国や英国のメディアから批判が寄せられたが、ウイルス自体の感染メカニズムも十分に判明していない時期に、日本の厚生労働省が一手に担い対応したものである以上、批判の多くは失当であろう。当の米国や英国からはほとんど医療的な救援を受けなかった中で、日本の対応は試行錯誤しながらも、可能な範囲の対策を施したと評価することができる。何よりも、ここでの経験がこの後の国内感染予防対策に生かされたことは、一つの成果であったと言えよう。途中で一部の関係者による見解の齟齬が見られた場面はあったが、個人的に採点するならば90点。

(2)一斉休校要請
いまから振り返ると、「無用の策」だったと見る向きが強い。しかし、これは後出しジャンケンだと言わざるを得ない。2月末時点での最大の課題は、ドイツなどに比べて感染対応できる専用ベッド数が大幅に少ない日本で、いかに医療崩壊を最小限に食い止めるかであった。このとき、いまだ都道府県をまたいだ人の移動は一定程度行われており、生活様式も多くは蔓延以前の状態であった。そのため、大人に比べて多動であり、かつ感染症に関する理解に乏しい児童たちが、学校での勉学や活動のさなかにクラスターを発生させて感染爆発を起こし、それまで準備された医療体制では対応し切れなくなる恐れは、十分にあったのだ。ただし、そのための一斉休校であった趣旨が十分に浸透していなかったことは遺憾であるが。
その後、このウイルスの性質上、児童たちは(一型糖尿病などの基礎疾患や一部の難病などを抱える子を除き)総じて感染しても無症状または軽症に終わることが多いことが判明し、広く知られるようになった。いまの時点では適切な対策を採りながら、学校のスケジュールを平常通り動かすことが妥当であろう。当時の対応に限っては75点。

(3)布マスク配布
これは多くの人から「愚策」と評されている。私の見解は前々回のエントリーを参照されたい。いまなお介護現場に「第二弾」として布マスクを配布しようとしている見当違いまで含めると、私の評価は厳しいようだが35点としておく。

(4)緊急事態宣言
まず、2月28日の北海道を皮切りに、都道府県単位でいくつかの自治体が独自の緊急事態宣言等を発出した。これは感染拡大が続くことを憂慮して、域内の住民に不要不急の外出自粛や、一部業種の営業自粛を要請したものである。その後、4月7日には政府が8都道府県に緊急事態宣言を発令し、4月16日にはそれを全国に広げた。そして5月25日、感染の拡大に歯止めがかかった時点で、政府は宣言を解除し、6月19日にはこれまで制限を要請していた都道府県境を越える人の移動を緩和した。
これで感染拡大がいったん収まったことにより、私たちは停滞していた経済を「新しい生活様式」に沿ってどう回していくか、ある種の「塩梅(あんばい)」ないし「緩急」を身に着けることができたと考えられる。過度の自粛も望ましくなければ、全く旧式のままの社会生活再開も望ましくないことを、国民が体得できる期間となった。また、その間に新型コロナの正体、怖れなければならない面もあれば、一種の特殊なカゼ程度に受け止めて十分な面もあることが次第に判明し、首都圏等で医療崩壊を脱したことも相まって、余裕を持って対策を講じられるようになったことは大きい。
今後の予測については稿を改めて述べたいが、昨今になって東京や一部地域で再び多くの感染者が判明しているとは言え、その多くは若年層であり、重症者や死者が増えたものではない。将来はともかく、当面は再度緊急事態宣言を出す可能性は低い。これは4~6月に「時間稼ぎ」ができたことが大きいと見ている。一連の流れを採点すると、やや甘いが85点か。

(5)特別定額給付金・持続化給付金・家賃支援給付金などの支援策
私たち日々の生活を送る市民にとって、最大の関心ごとである。次回の政策総論でも分析してみたい。
総じて、各方面の利害調整に手間がかかり、政府の決定までに時間がかかり過ぎたことや、委託先の団体の性格に疑義があることが、批判の対象となっている。しかし、「あそこの国はもっと充実している」とされている他国の支援策を見ても、多くの国の場合、そのすべてが報じられている通り迅速に実施されているものでもなく、日本の支援策が劣悪だというものでもない。
とは言え、「のちの千金より、いまの一飯」がほしい人たちにとっては、後手後手感は免れない。また、さまざまな属性の人たちに対し、十分にカバーできていない面も課題として残る。反面、公的支援策ばかりに頼らない、個人や企業の自助努力も求められるであろう。60点としておく。
なお、本日現在の支援策については、首相官邸の該当ページを参照されたい。

そして、次には政策全体を振り返ってみよう。

次回へ続く)

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