文化・芸術

2017年6月19日 (月)

ヴェルディ歌劇の面白さ(9)

ヴェルディの歌劇は過去六回鑑賞しているが、『椿姫』は初めてである。多くのヴェルディ‐ファンは早いうちにこの作品を体験するだろうから、七作目でやっと『椿姫』なのは珍しいかも知れない。

マッシモ‐ディ‐パレルモ劇場の引っ越し公演で、会場は地元浜松のアクトシティ大ホール。とは言え、確か十年ぐらい前に一度入っただけの劇場。ホームタウンなのになぜかアウェイ感。上野の東京文化会館のほうが、年一回程度は行っていただけに、ホーム感がある(^^; 第二幕に入るあたりでようやく違和感が解消した。

指揮はフランチェスコ‐イヴァン‐チャンパ、演出はマリオ‐ポンティッジャ。キャストはヴィオレッタがデジレ‐ランカトーレ、アルフレードがアントニオ‐ポーリ、ジェルモンがセバスティアン‐カターナ、フローラがピエラ‐ビヴォーナ、ほか。

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ランカトーレは容姿もヴィオレッタ役向きであり、第一幕にやや不安定な箇所があったものの、おおむね全編を通してドラマティコ‐ソプラノを朗々と歌い込み、秀逸な歌唱。第三幕のアリア「過ぎ去った日よ、さようなら」は豊かな表現力の演技とも相まって、素晴らしい出来であった。

ポーリは正統派のリリコ‐テノールで、音程が正確なのが長所。第一幕では控えめな演技で純情なアルフレードをよく表現していた。ランカトーレとの二重唱も相性好く、ブレを感じさせない歌唱。第二幕のカバレッタの末尾「...この恥辱を晴らすぞ!」のところでは(たぶん一部の聴衆が期待した)ハイC(=二点ハ音)を出さず、会場の拍手がやや少なかったが、若手歌手が長く声を維持して活躍するためには、無理をしないのが賢明であろう。

カターナは傲然とした家父長的なジェルモン役を粛々とこなし、特に第二幕「プロヴァンスの海と陸」、息子(アルフレード)の心には全く響かない設定で、聴衆にはじっくり聴かせて魅了しなければならない難しいアリアを、自然体で歌いこなし、喝采を浴びていた。

チャンパの指揮はオーソドックスで聴きやすいものではあったが、ドラマの転換点、特に第三幕では、ポイント切り替えのように緩急を意識的に調節していた。ポンティッジャの演出は照明の使い方が巧みであり、第三幕のシェーナ&二重唱でヴィオレッタ役のランカトーレが「こんなに苦しんだのに、若くして死ぬなんて!」の歌いに入るところから、彼女の顔に全く光が当たらないようにして絶望を表現するなど、随所に工夫が見られた。

ただ、せっかくの好演の価値を減じたのは、聴衆のマナーの悪さである。途中で携帯音が鳴り出すことが(聞き取れただけで)4回。そのうち1回は音を止めようともしなかったらしく、延々と鳴り続けていた。これは絶対にしないように、あらかじめ電源オフまたは消音にしなければいけないのだが、第一幕開始前に入り口で係員が小さな声で注意を促していた程度で、アナウンスは無かったと記憶している。これが東京文化会館ならば、幕の始まりごとにアナウンスが行われるし、鑑賞に来る聴衆も回を重ねている人たちばかりだから、社会常識として心得ており、せいぜい不注意で切り忘れた人の携帯音が1回鳴るか鳴らないかである。浜松は田舎だなぁ、と嘆息してしまった。

そんなことはあったものの、全体として心に残る『椿姫』であった。

なかなか身動きできない立場になってしまったので、次の歌劇(ワーグナーなら「楽劇」)鑑賞がいつになるかは見通しが立たないが、頻度は減っても、これは趣味の一つとして続けていきたいと思っている。

また、この公演には、浜松市や静岡県の医師会で重い役を歴任され、介護支援専門員の連絡組織でも私の前任者でおられた岡﨑博先生が来られていた。同先生は海外へもときどき鑑賞に行かれるとのことである。会場で顔見知りの方に出会うことはそれほど多くはないが、意外な同好の士の存在を知ることも、歌劇鑑賞の面白さなのかも知れない。

2016年9月29日 (木)

ワーグナー楽劇の面白さ(5)

だいぶ前のことだが、今月11日(日)、東京文化会館で二期会「トリスタンとイゾルデ」を鑑賞してきた。何かと多忙ですぐにレビューが書けずに、本日になってしまったが。

指揮はヘスース‐ロペス‐コボス、演出はヴィリー‐デッカー。キャストはトリスタンが福井敬、イゾルデが池田香織、マルケ王が小鉄和広、クルヴェナールが友清崇、ブランゲーネが山下牧子、メロートが村上公太。

歌唱は池田のイゾルデが最高で、第一幕から第三幕まで終始舞台を支配、終幕の「愛の死」までずっと聴き応えのあるすぐれた歌唱だった。福井のトリスタンはやや声量に頼った面があったものの、第三幕の長大な「譫妄」の場面では巧みな演技と相まって、絞り出すような歌唱の技術力が光り、「聴かせる」ヘルデンテノールとして強く印象に残った。

小鉄のマルケ王は抑制された動きに伴う落ち着いた歌唱が秀逸。友清のクルヴェナールはやや抑揚が大き過ぎる感があったが、聴き辛いほどではない。山下のブランゲーネは安定感があり、特に第二幕、愛を語る恋人たちの背後で警鐘を鳴らす部分は下支えする脇役の効果が抜群であった。

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ロペス‐コボスの指揮は、節目のところでオケの速度を落としてじっくり聴かせる手法に優れ、特に第三幕でそれが効果を発揮していた。デッカーの演出は、場の閉鎖性を象徴する壁と、主役二人の愛を象徴するボートとを大道具として一貫させたものであり、この楽劇の特異性を際立たせていた。また第二幕の終わりで主役二人が剣でそれぞれの両眼を切り裂いて失明し、それが第三幕の再会の場面で互いに抱擁できない悲劇へと結び付く、独特な展開を披露した興味深いものであった。

終演後、新宿に場を移して知人と会食し、意見交換などしながら有意義なひと時を過ごすことができた。この件については、また後日のエントリーで触れる機会があろうかと思う。

2016年2月18日 (木)

ヴェルディ歌劇の面白さ(8)

本日、東京文化会館で10か月ぶりに歌劇を鑑賞。演目はヴェルディの「トロヴァトーレ」。東京二期会である。

それこそ高校生の頃に、両親にねだってレコードを買ってもらったほどだから、この歌劇に接してからずいぶん長いのだが、舞台を観たのは初めてなのだ。

指揮はアンドレア‐バッティストーニ(敬称略。以下同)。近頃、とみに名声を増している若手指揮者の代表で、日本にもファンが多い。CS放送では何作品か録画しているが、ナマで観るのはもちろんこれが最初。緩急を巧みに操り、ドラマの展開にピッタリの指揮ぶりであった。

演出はロレンツォ‐マリアーニ。CS録画ではちょうどパルマ王立の「トロヴァトーレ(2010)」が手元にあるが、ここから五年余を経て工夫を加えている。背景の太陽と月とを表す大きな円を、歌手が出入りする花道の一つとしても使い、正面から三方に道が延びているように見せ、立体性を高めている。

マリアーニ自身がプログラム中で語っているように、前後のヴェディ作品に比べると「トロヴァトーレ」は非現実的なおとぎ話のような世界になる。そのストーリーと、登場人物の感情がこもった迫真のドラマとを両立させる難業に挑み、成果はかなり聴衆に伝わったのではないかと思う。ただ、マンリーコとルーナ伯爵の衣装が、いささか童話的な面を強調し過ぎた安直な色合いだったこと、第四幕のアズチェーナ錯乱の部分で左手前の「(火刑をイメージさせる)炎」を燃やさなかったことは、期待された効果をやや損じたであろうか。

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歌手はアズチェーナ(メゾソプラノ)の中島郁子が圧倒的で、会場を支配していた。特に第三幕で両手首を縄で縛られ、兵士役のバレエダンサーに左右から交互に引っ張られる姿勢で歌う「縄で苦しめるなんて、この恥知らずめ」は、プロの歌唱技術の醍醐味を存分に披露。マンリーコ(テノール)の城宏憲も、予定出演者の体調不良で急遽代役をすることになったにもかかわらず、他の出演者との絡みで違和感もなく、リリコ・スピントの歌唱も十分聴き応えがあった。

レオノーラ(ソプラノ)の松井敦子も、腰を落としてリリカルな美声をたっぷり聴かせる名演。ルーナ伯爵(バリトン)の成田博之はやや音程に不安定な箇所があったが、感情の高ぶりを巧みに表現していて、全体としては合格点か。フェルランド(バス)の清水那由太は第一幕の冒頭で聴衆を惹き付ける難役を無事にこなし、第三幕まで安定していた。

最近は諸事情により、歌劇鑑賞も思うに任せないが、TVやDVDだけを楽しんでいても、歌劇愛好家だと言えないことは確かだ。海外まで鑑賞に行く余裕はとてもないが、若手・中堅の邦人歌手を応援する意味合いも含め、国内のヴェルディやワーグナーの上演を年1~2回は楽しんでみたい。

2016年1月30日 (土)

シェイクスピアの「影」

今年はウィリアム‐シェイクスピア(William Shakespeare / 1564-1616)の没後400年になる。言うまでもなく、英国史上最大の文学者・劇作家であり、その業績は不朽である。

私も幼少時から、シェイクスピア文学には親しんできた。『ハムレット』『オセロ』『リア王』『ヴェニスの商人』などの物語は、演劇として観賞する機会こそなかったが、私を古典文学に親しませるきっかけとして十分な役割を果たしてくれた。

さて、シェイクスピアの偉大な業績は認めつつ、この人に対して、史学の面から批判を加えても良いであろう。すなわち、宮廷の保護を受けた「御用劇作家」として、英国の史実をゆがめた責任である。もちろん、シェイクスピアはあくまでも文学者・劇作家であり、史家ではない。しかし、シェイクスピアの作品が人気を博してからは、観賞した多くの人々が、劇中の登場人物を史実の反映と受け取るのは自然の勢いであり、間違った人物像が英国をはじめ世界の人々の間に定着してしまっている。

その最たるものが、『リチャード3世(1593)』『マクベス(1606)』である。

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まず、史実のイングランド王リチャード3世(1452-85、位1483-85)は、兄の息子エドワード5世を廃位・幽閉して王位に即いたが、短い治世だったにもかかわらず、紋章院の設置、国王や有力者による議会を通さない権力乱用の禁止、また、徳税(強制献金)の廃止など、見るべき業績があった。

しかし、リチャードを攻め滅ぼしたヘンリ7世(エドワード3世の五代の子孫であったが、曽祖父のときに王位継承権を放棄していた)は、自分の王位継承を正当化するため、「リチャードが血なまぐさい暴君だったので、神の意思により自分が取って代わった」との虚構を作り上げた。

その虚構はリチャードの仇敵であった人たちの派閥によって作り上げられ、シェイクスピアによって完成したと言うべきであろう。まさにヘンリ7世の孫・エリザベス1世の治世に、『リチャード3世』が上演されているのだから。

続いて、史実のスコットランド王マクベス(1005?-57、位1040-57)。当時のスコットランドで、王位継承権を持つ人たちによる抗争が繰り返されていたことは事実であるが、マクベスはその中にあって無能なダンカン1世を殺害し、政敵バンクォウも粛清して、力で王位を獲得した。信仰心に篤く(在位中にローマ巡礼をしたほどだ)、武勇すぐれた国王であったのである。

それどころか、むしろ注目されるべきなのは王妃グロッホ(=「マクベス夫人」)である。この人は初代国王ケニス1世の七代の子孫に当たり、系図から見る限りは嫡流の中の嫡流、(当時の考え方では)最も正当な王位継承者と見なして差し支えない。ところが二代前の国王マルコム2世によって、グロッホや(前の夫との間に生まれた)息子ルーラッハは、王位継承権を奪われてしまう。したがって、グロッホにとってダンカン1世殺害は、本来持っていたはずの権利を回復したものに過ぎない。

現実にはダンカンの息子マルコム3世が、マクベス、ついでルーラッハを攻め滅ぼし、グロッホの系統は断絶した。皮肉なことに、マクベス一代は強盛を誇っていたスコットランドの国勢は、マルコム3世の頃から揺らぎ始める。しかし王統のほうは代々マルコムの子孫が継承し、13~14世紀にはイングランドの介入によってズタズタにされながらも、女系を通してブルース王家、そしてステュアート王家へと続くのだ。

このステュアート王家こそ、マクベスに殺されたバンクォウの直系の子孫であり、その九代目のジェイムズ6世は継嗣のないエリザベス1世の後継者として、イングランド王も兼位した(ジェイムズ1世)。シェイクスピアが『マクベス』の劇中、魔女の魔法により、マクベスの目の前で国王の姿をしたバンクォウの子孫を次々と登場させる場面があるが、これはジェイムズ1世への賛美なのである。

宮廷作家がダンカンとバンクォウとの共通の子孫に当たる新王ジェイムズ1世を寿(ことほ)ぐのであれば、この先祖二人を殺したマクベス夫妻をボロクソに貶めるのが一番である。かくして、「数か月で(本当は17年在位したのだが・・・)滅びた暴君」マクベスと、「稀代の悪女」マクベス夫人という、虚構ができ上がった。

この二つの作品は、シェイクスピアが「御用劇作家」とされるゆえんであり、彼がパトロンのために史実を曲げた「影」の部分であると言うことができよう。

人物の評価は一面的であってはならないとの教訓になる。

2015年4月24日 (金)

歌舞伎初鑑賞

去る19日、名古屋の中日劇場で初めて歌舞伎を鑑賞した。「四月花形歌舞伎」の夜の部「新・八犬伝」である。

一応「レビュー」を書くが、何十回と観ている歌劇の場合と違い、全くの初心鑑賞者であるから、練れた文章はとても書けない。むしろ、歌劇好きの人間が初めて歌舞伎を鑑賞したディスカバリーものの類としてご笑読いただきたい。途中、誤認や言葉の誤用もあろうかと思われるので、お気付きの方はご指摘くださるとありがたい。

脚本は今井豊茂(敬称略、以下同)、演出は奈河彰輔・片岡秀太郎、出演は市川猿之助(口上のみ)、片岡愛之助、市川右近、市川門之助、市川男女蔵、坂東竹三郎、坂東秀調、ほか。

ストーリーは滝沢馬琴の八犬伝の挿話を改作した創作であり、最後は大天狗・崇徳院と八犬士とが、他日の再戦を期して痛み分けに終わるというもの。

まず感じたのが、打楽器まで含めると音楽が常に鳴り響いていること。ご政道批判が禁じられていた江戸時代、あくまでも音曲の一種だとの建前で上演された名残だと思われるが、台詞の背景で何かの音楽が絶え間なく奏でられており、独特の緊迫感であった。

次に、出演者はみな役者である。もちろん歌の場面もあるが、歌手主体の舞台芸術ではない。歌劇の場合はあくまでも歌唱が中心だから演技がぎこちない歌手もいるが、歌舞伎ではいくら声が好くても、演技が稚拙だと様にならないであろう。

また、出演者がこれだけ身体を使うのであれば、消費するエネルギーは並々ならぬものだ。特に幹部俳優と取り手たちの大立ち回りは、かなりの時間続けられるから、これは演武と言うか、一種のスポーツに等しい。さらに主演級の人たちには役の早替りやアクロバティックな演技が加わる。大詰で男女蔵が舞台の脇から刀を投げ、それを舞台中央の愛之助が発止と受け取る場面など、作り物の刀であっても一つ間違えば大怪我につながるだけに、何百回と練習を重ねたことであろう。

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観客の拍手は、短めに収めるのがマナーのようだ。間を置かずに次の場面に移るほうが、座が白けずに済むということか。また、通の鑑賞者は幹部俳優が見得を切るような場面で、「○○屋!」と声を掛けるのが当たり前になっていた。

まあ、初心鑑賞者が感じ取ったのは、このような点ぐらいである。

私が日本の伝統芸術である歌舞伎をこれまで一度も見たことがなかったのには、異に思われるかも知れないが、逆に自分が日本語・日本文化についての内容を執筆しようとしているときに、初めてこの空間を体験できたのは、一つの機縁かも知れない。今後も機会があれば、また肌合いの異なる演目を鑑賞してみたいと心組んでいる。

このたびは、ご自身も腰元・仲居・女田楽の三役で出演されていた役者の市川澤路さんが、諸事ご教示くださっただけでなく、終演後にはお疲れにもかかわらず、飲食をともにしてくださった。また、澤路さんと親交があり、昨年何度かお会いした神戸在住のケアマネジャー小田原貴之さんにも、鑑賞に際していろいろとご案内いただいた。お二方には改めてお礼を申し上げたい。

2015年4月14日 (火)

ヴェルディ歌劇の面白さ(7)

11日(土)、一年ぶりに新国立劇場で歌劇を鑑賞した。演目はヴェルディの「運命の力」。

この歌劇の真髄は、主人公のドン‐アルヴァーロにどこまでも不運が襲い掛かるところにある。きわめて暗く悲劇的な内容のドラマだ。それだけに、部分的にはコミカルな場面が挟み込まれ、メリハリがつけられているのだが、ストーリー全体を暗雲が覆っていることが、このドラマの特徴を際立たせている。

指揮はホセー‐ルイス‐ゴメス(敬称略。以下同)。奇をてらわないオーソドックスな指揮で聴きやすかったが、一部の歌手やオケの管楽器と合わせ切れない部分があったようだ。ご愛嬌か(^^;)

演出はエミリオ‐サージ。おもな特徴は三つ。一つ目は、最初からいきなり赤い幕にスペイン貴族のお歴々の名前が所狭しと書き連ねてあり、この貴族連中によるムラート(インディオとスペイン人との間に生まれた子)であるドン‐アルヴァーロに対する身分差別の厳しさが、すべての根源にあることを強烈に見せつけられること。二つ目は、舞台が20世紀前半に設定されており、剣が銃に代わり、人々が共同作業でセットを片付けるなど、事物や人物の所作が、現代劇的な内容に変更されていること。

三つ目は、第四幕で聖画を描いた三方の薄い幕が登場人物によって次々と取り払われ、最後にドン‐アルヴァーロが絶望のうちに取り残されるという、1862年のロシア、サンクト‐ペテルスブルクで初演されたときの姿を一部再現していることだ。初演ではアルヴァーロが教会を呪って崖から身投げするのだが、ヴェルディはイタリア上演の際に台本作家のギスランツォーニに諮ってここを書き直している。今回の演出は、あえて反キリスト教的な部分を復活させた点が面白い。故・遠藤周作も言っているように、現実に私たちが直面するのは、神の怒り、懲罰、沈黙であって、神の愛を実感するのは難しいのだから。

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歌手もまずまずのキャスティングであった。

特に良かったのが、レオノーラのイアーノ‐タマール(ソプラノ)と、修道院長(一般的には「グァルディアーノ神父」と呼ばれているが、padre guardianoとは修道院長である司祭の意味なので、普通名詞である)の松位浩(バス≧バッソ‐プロフォンド)。この二人の第二幕第二場のシェーナ&二重唱は、重々しい掛け合いから始まって場を熱く盛り上げ、音楽をどんどん昇華させていく、すばらしい出来であった。またタマールが第四幕第二場、岩山の場で歌うメロディーア、「神よ、平安を与えたまえ」はまさに圧巻! 会場から万雷の拍手が!

ドン‐アルヴァーロのゾラン‐トドロヴィッチ(テノール)、ドン‐カルロのマルコ‐ディ‐フェリーチェ(バリトン)もたっぷりと聴かせてくれた。演出が第三幕の中で両者の決闘未遂の場を省いていたので、第四幕第一場、修道院での対決の場にエッセンスが凝縮されていたのも効果的だった。他方、フラ‐メリトーネのマルコ‐カマストラ(バリトン)はやや声量不足、プレツィオシッラのケテワン‐ケモクリーゼ(メゾ‐ソプラノ)は音程が不安定で少々聴きづらかった。トラブーコの松浦健(テノール)はまずまずコミカルな味を出していたと思う。

これで、「椿姫」と「アイーダ」の間に作られたヴェルディの傑作四品を一巡鑑賞したことになる。四作ともヴェルディ歌劇のスケールの大きさを感じさせる珠玉の作品である。愛好する人たちが増えることを願ってやまない。

2014年2月23日 (日)

ヴェルディ歌劇の面白さ(6)

20日(木)、上野の東京文化会館で二期会公演、ヴェルディの『ドン・カルロ』を鑑賞してきました。

指揮はガブリエーレ‐フェッロ(敬称略、以下同)、演出はデイヴィッド‐マクヴィカー。キャストはフィリッポ2世がジョン‐ハオ、ドン‐カルロが山本耕平、ロドリーゴが上江隼人、王妃エリザベッタが安藤赴美子、エボリ公女が清水華澄、宗教裁判所長が加藤宏隆、テバルドが青木エマ、修道士が倉本晋児、レルマ伯爵が木下紀章、天からの声がチョン‐ヨンオク。

ヴェルディの全26作品の中で、最も壮大であり、かつ深刻な悲劇と言われています。当時の「世界の半分(スペイン・ポルトガルとその全領土)」の君主であったフィリッポ2世(=フェリーペ2世)と、王子ドン・カルロ(=カルロス)との相克を題材にしたドラマであり、これにカルロと同年の王妃エリザベッタ(=エリザベート)が絡む構図。本来カルロの婚約者だったエリザベッタが、父王の王妃になってしまう(これはフィクションですが)ことが発端となり、大貴族ロドリーゴと女官長エボリを含めた5人の登場人物の、愛と憎悪、友情と敵意とが複雑に交錯します。そこにカトリックとプロテスタントとの対立が表面化し、「仮借のない」宗教裁判所長が介入することで、第四幕あたりからドラマは極度の緊張に達します。

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もともとこのオペラは「ドン‐カルロス」としてフランス語の台本に作曲されましたが、ヴェルディ自身が何度も改訂を加えたことにより、現在もいくつかの版が残っています。イタリア語に訳されて「ドン・カルロ」となり、これも四幕版と五幕版とがありますが、20日の公演は五幕版のほうでした。

キャストは全四公演を二公演ずつ分担するダブルキャストで、20日は若手中心のいわばBキャストでしたが、総じて「聴かせる」上演でした。中でも清水のエボリが出色の出来で、第二幕「ヴェールの歌」、第四幕のアリア「むごい運命よ」は、いずれも聴衆からブラヴォーの嵐。安藤のエリザベッタも劇的な役を見事にこなし、第五幕のアリア「世のむなしさを知るあなた」は圧巻。女声二人の活躍で全体が華やかに彩られました。ハオ・山本・上江の男声陣も好演。加藤と倉本はやや声量不足との指摘を免れず、要所を締める二人のバスに、もう少し迫力があればさらに良かったのですが・・・。

フェッロの指揮は聴かせどころでテンポをやや緩め、じっくり腰を落としてオケを響かせるスタイル。マクヴィカーの演出は限られた予算(?)の中で同じセットを終始通して活用しながら、台の上げ下げで場面を表現するという秀逸なもの。オペラ初心者にもわかりやすい設定でしたが、台本にはない、フィリッポ2世とエリザベッタとの間に生まれた娘(乳児)が登場する場面、台本では修道士に連れ去られるカルロが、騎士たちに斬殺されてしまう(史実では幽死)場面などは、甘いロマンに浸ることを許さない現実の冷徹さを表現したものとして、特徴的だったと感じました。

2013年12月13日 (金)

ヴェルディ歌劇の面白さ(5)

7日(土)、上野の東京文化会館でトリノ王立歌劇場引っ越し公演、ヴェルディの『仮面舞踏会』を観賞。

指揮はジャナンドレア‐ノセダ(敬称略、以下同)、演出はロレンツォ‐マリアーニ。キャストはリッカルドがラモーン‐バルガス、アメーリアがオクサナ-ディカ、レナートがガブリエーレ‐ヴィヴィアーニ、ウルリーカがマリアンネ‐コルネッティ、オスカルが市原愛、サムエルがファブリツィオ‐ベッジ、トムがホセ‐アントニオ‐ガルシア。

もともと、この歌劇の題材は、スウェーデン国王グスタフ3世が仮面舞踏会の最中に暗殺された事件(1792)だったのですが、当時の官憲の圧力により、舞台設定がストックホルムから英領ボストンに変更され、同時に登場人物の名前も変えられました。その後、ストックホルム版も復活して、ときどき公演されています。今回の上演はボストン版でした(写真はプログラムです)。

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マリアーニの演出の特徴は、舞台が白・黒・赤の三色で埋め尽くされていたという一点に尽きます。白と黒は単純な善悪の区別ではなく、同じ人物(たとえばレナート)の衣装が白になったり黒になったりと、登場人物の心理的変化を微妙に表現しています。赤について言えば、第一幕でウルリーカがリッカルドの死を予言したとき、リッカルドの顔に赤いスポットライトが当たる場面は秀逸。また第三幕では、レナートとアメーリアの愛が育まれた場所だったベッドの赤い枠が、折れて床に倒れていたのが象徴的でした。

歌手はバルガスがリッカルドを好演。やや抑揚をつけ過ぎて、一部、声が小さくて聞こえにくかった箇所がありましたが、演技は見事でした。ヴィヴィアーニのレナートは朗々としたバリトンの歌唱で会場を魅了し、ディカのアメーリアも出色の出来でした。ベッジのサムエルはあまり目立ちませんでしたが、コミカルな歌唱で第二幕の「レナート嘲笑」の場面を聞きごたえあるものにしていました。対照的にコルネッティのウルリーカは、会場からの拍手は多く寄せられたものの、声の揺れがやや大きく、私の耳では聞きづらい歌唱でした。

その夜は江戸川区で開業する同業者と食事。翌日、午前中はいくつか書店などを散策しましたが、最後に八重洲ブックセンターへ立ち寄ったとき、介護関係の書籍のコーナーで、何と自分の著書が平積みにされているのを発見してビックリ!

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地元ではほとんど書店の店頭にさえ見かけないので、驚きでしたが、そこそこに需要はあるんだなあと思い、嬉しい気持ちで浜松へ帰りました。

2013年9月24日 (火)

ワーグナー楽劇の面白さ(4)

先週の21日(土)、びわ湖ホールまで「ワルキューレ」を観賞に行ってきました。

指揮は沼尻竜典、演出はジョエル‐ローウェルス。キャストはジークムントが福井敬、フンディングが斉木健詞、ヴォータンが青山貴、ジークリンデが大村博美、ブリュンヒルデが横山恵子、フリッカが小山由美。

歌唱は青山のヴォータンが傑出していました。神々の長としての厳しさ、父親としての優しさや苦悩、いずれも演技とともに迫力満点。声の安定度から言えば抜群で、まさに「聞かせる」ヴォータンと称すべき。

小山のフリッカ、福井のジークムントは秀逸でしたが、ともに「声量で稼いでいる」面があったかな? との印象です。横山のブリュンヒルデは第二幕より第三幕のほうが調子が良かった様子。斉木のフンディングと大村のジークリンデにはやや物足りなさがありましたが、大きな不満が残るほどではありません。全体として歌手は好演だったと評価できます。

沼尻の指揮は穏当で緩急よろしきを得ていたと思いましたが、ローウェルスの演出はどの場面で何を言いたいのかわかりにくく、観客の自由解釈に委ねるスタイルがかえって音楽とのミスマッチを生んでしまった感があります。オーソドックスな演出が良いというわけではありませんが、回想場面などで奇をてらった部分があり、何に焦点を当てて観賞するのか絞りにくい演出でした。028

その夜にはレストランで近江牛のステーキを味わい、翌22日には大津から今津、長浜を回って、初めて琵琶湖を一周してきました。浜松に居るといつも仕事と隣り合わせであるため、なかなか解放感を味わうのが難しいので、今回は骨休めの良い機会でした。

2013年7月22日 (月)

ヴェルディ歌劇の面白さ(4)

ヴェルディの歌劇には、「決して妥協しない」人物が登場します。前半期の作品に登場する人物にも、そのようなキャラクターがときどき垣間見られるのですが、特に後半期の作品では、三人の人物が顕著です。

その三人とは、「シチリアの晩鐘」中のジャン‐プロシダ(ジョヴァンニ‐ダ‐プローチダ、バス)、「運命の力」中のドン‐カルロ(バリトン)、そして「ドン‐カルロス」中の大審問官(バス)です。この三人はそれぞれのドラマの中で、策を弄して主人公やヒーロー・ヒロインを陥れる敵役ではありません。むしろ確信犯的に「これが正義だ」と信じ込み、右顧左眄せず、目的に向かって一直線に突き進みます。その行動ゆえに、巻き込まれた人たちにさまざまな悲劇が襲いかかります。

ジャン‐プロシダはシチリアの医師で、目的は「祖国の独立」です。そのためにはフランスの占領軍の殲滅が至上命題です。フランス総督モンフォールを暗殺しようとして失敗し、その際にかつて同志だったアンリ(アッリーゴ)の素性が判明すると、彼を「フランス人」として敵視し、さらに彼と独立派の象徴である公女エレーヌ(エレーナ)との結婚式まで民衆蜂起に利用して、ついには鐘を打ち鳴らす音を合図にモンフォールの殺害、フランス軍打倒を達成するという、徹底した祖国愛の持ち主です。現代の過激派・テロリストに通じるものがあります。

ドン‐カルロはセビーリャの貴族で、その目的は「父の復讐と家の名誉の回復」。妹のレオノーラと恋人のドン‐アルヴァーロの二人が密通して、父のカラトラーヴァ侯爵を殺害したと誤認し、北イタリアの陣営で偶然出会ったアルヴァーロの釈明にも全く耳を貸しません。その後、ついには修道院までアルヴァーロを追い詰め、彼と決闘して逆に瀕死の重傷を負わされながら、岩屋で隠遁生活を送っていたレオノーラを見つけ、彼女を刺してから自分も死にます。ドン‐カルロには、南米先住民の血統のアルヴァーロに対する明確な差別感情があり、それが復讐心に拍車をかけています。

大審問官は90歳の視覚障害者として登場し、その目的は「カトリック共同体の死守」です。国王フィリップ2世が側近のロドリーゴに惑わされて異端(プロテスタント)の思想に理解を示していると断じ、その態度がスペインの国家体制を揺るがしていると非難、王子ドン‐カルロスとロドリーゴが処刑に値すると考え、妥協を認めません。エボリ公女が蜂起させた民衆に対しても、高圧的に国王への忠誠を要求し、恐れた民衆たちを黙らせます。最終幕でも国王とともにカルロスと王妃エリザベートを処断しようとしますが、先王カルロス5世に扮した修道士に阻止されます。宗教国家の権力の象徴として描かれています。

この三人は、まさに仮借なき強い意思の人であり、ドラマを引っ張っています。演じる歌手には、他を圧倒する声量が求められるでしょう。残念ながらこの三作品はいまだ劇場で鑑賞する機会がありませんが、ヴェルディのオペラではヒーロー(おもにテノール)やヒロイン(おもにソプラノ)だけでなく、存在感の大きな低音の脇役にも注目したいものです。

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