「沖縄方言で『翁(おきな)』は?」「那覇ならオジーと言い...なは...れ!」
【史料好きの倉庫(47)】
今回はいよいよ本シリーズの最終回、「沖縄県(琉球)の君主」の解説である。
1998年に一度だけ訪県し、5日間で那覇、読谷、勝連、今帰仁などの城跡を周回、さらに石垣島まで足を延ばした。
歴代の王統や王族については、沖縄県立図書館(未訪問)などで調べられるが、地方の領主については各家系の「家譜」を参照する必要がある。那覇市歴史博物館(未訪問)には前近代士族のうち相当な割合の家譜が所蔵されている。
◆舜天王統・英祖王統
琉球の初期王家とされる。後代、17世紀に編纂された琉球王国公式の史書『中山世鑑』に記されている。舜天王統は半ば伝説だが、英祖王統は史実通りではなくても、実在したと考えられている。いまだ沖縄本島の全体を支配するには至っていなかったが、詳細は未詳。
◆察度王統(中山王家)・北山王家・南山王家
14世紀から15世紀初頭に掛けて、沖縄本島には三つの王家が鼎立していた。三国のいずれも明王朝に朝貢して貿易を行っていたが、尚巴志によって滅ぼされた。
18世紀以降に編纂された公式の史書『中山世譜』によると、
中山国王・武寧(ぶねい)は「徳が無く政治が乱れ、民の支持を失った」、
北山国王・攀安知(はねじ)は「軽率にも裏切り者の甘言に乗せられて策を誤った」、
南山国王・他魯海(たるみぃ)は「酒色にふけり政治を省みず、民心を失った」と記載されている。
実際には三人が愚かな君主であったとの裏付け史料はなく、尚氏(第一尚氏→第二尚氏)による全島統一支配を正当化するために、「三バカそろい踏み」が捏造された可能性が高い。
◆尚家(第一尚氏)
1406年に尚巴志が創始した王統であり、初代の尚思紹は息子から推戴された形式上の君主であった。尚巴志は鉄の輸入により生産力→軍事力を増強したと考えられ、上記「三バカ」を次々に滅ぼして沖縄本島を統一、首里に王城を定め、明や安南・ジャワ・タイとの貿易を推進した。尚泰久のとき護佐丸(座喜味城・中城城)の乱や阿麻和利(勝連城)の乱を乗り切り、国の平安を祈って首里に「万国津梁鐘銘」を設置している。最後の王・尚徳は史書によると「暴虐無道」であったので(おそらく、これも第二尚氏によって捏造された話)、第一尚氏は滅亡した。
◆尚家(第二尚氏)
1469年、尚円(もとの名は「内間金丸」)が創始。前王家の尚徳が「急死」した後、史書によると「王府の一老人の提案によって推戴され、しかたなく」王位に就いた。実質的には尚円本人によるクーデターであったが、明に対しては前王朝の後継者として尚氏を名乗った。尚真のとき朝貢を拒否した石垣島の遠弥計赤蜂(おやけあかはち)を討伐して、離島支配を進めた。尚寧のとき1609年、薩摩の島津家久軍の侵攻を受け、以後は島津家に服属した(明や清との朝貢貿易は続けた)。1613年に奄美群島を薩摩藩に割譲したので、同地域は現在も鹿児島県に属している。廃藩置県の翌年となる1872年、王国は日本に直属することになって「琉球藩」とされ、1879年に至って日本の領土に編入された。
これで、本シリーズは終了である。しょーもないダジャレの題目に乗せて執筆したが、リンク先にある日本全国の大名・君主の一覧表は、皆さんの調べ物の便宜にご参照いただけると幸いである。ただし、素人が作表したものであるから、くれぐれもご自身の責任において活用されたい。
本年もありがとうございました。来る2023年もよろしくお願いします。
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