日記・コラム・つぶやき

2018年11月26日 (月)

浜松周辺「塩ラーメン」の競演

ラーメン食べ歩きは私の楽しみの一つだが、最近は醤油、とんこつ、味噌などよりも、塩系のラーメンを食する割合が増えてきた。自分の嗜好が変わりつつあるのかも知れないが...

これまでにも述べてきたように、浜松周辺では個性的なラー店が百花繚乱の様相を呈しているので、もちろん塩系もいろいろな店が力作の一品を仕上げて待っていてくれる。

今回は、そのうち特に好きで頻繁に行く店を、4か所紹介しよう。

(1)『海老蔵』の「味玉塩らーめん/白」

有玉なので、東区でも中区・北区との境目に近い場所にある。地理的な条件から、月一回開催されるケアマネジャーの勉強会が終わったあと、夕食に立ち寄ることが多い。平打ちの太麺は腰が入って何とも歯ごたえがあり、「白」はかつお味の白濁スープで、そこに塩を利かせた味が巧みにブレンドされている。ボリュームがあり、大切りのチャーシューが豪快。味玉は私が知るラー店のうちでも随一で、このスープには実にマッチしている。

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(2)『破天荒・風雅』の「桜エビ塩」

東海道沿いで、天竜川駅の近く。以前は仕事の都合でこの方面に出向くことが多かったが、最近は買い物に前後して食事することが多い。よく注文するのがマー油味の「味玉・黒」だが、数か月前にこの「塩」の美味しさを発見。桜エビ本体は4つ程度だが、スープを飲むとエビの出汁が口の中いっぱいに広がる。中太縮れ麺は全粒粉麺なので、食欲をそそる一品でもある。桜エビ不漁のニュースもあり、この品が今後も続くかが心配。

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(3)『麺's Natural』の「鶏SOBA・汐」

萩丘なので中区でも北寄りに位置。事務所からはやや遠いが、北の方面へ仕事で出向いたときの昼食に利用している。フランス産の岩塩とトリュフ塩のスープで、他では味わえない独特の透き通った塩ダレを活用。豚のレアチャーシューと鶏チャーシューもバランスが好く、細麺の盛り付けも整っている。生醤油とブラックもあるが、個人的には「汐」がイチオシ。なお、ここは無化調の店としても知られている。

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(4)『けい蔵』の「煮干し中華・塩」

領家に最近できた店。ただし、この煮干し系は、師匠店の「武蔵」や兄弟子店の「なかの」で何回か食べている。それらの店では一時「99%煮干し」や「極煮干し」があり、私のテイストに合っていた。いまはメニューから無くなってしまったが、『けい蔵』の煮干し中華はそれを継承する一品。程良い煮干しの出汁が塩とマッチして海鮮風味を引き立てている。中太麺と細麺とが選択でき、どちらも相性は悪くない。

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この四品はいずれ劣らない味覚なので、他店の麺を交えながら、1~2か月の間に周回しながら食する習慣が身に着いてしまった。

塩系に限って言えば、少し遠い地域まで広げると、以前紹介した浜北区於呂『おえかき』の「ふわまる・塩」や、磐田市福田『一鳳』の「いそ塩」があり、それぞれ近くまで出向くたびに足を延ばしている。また、諸事情により未体験だが一度は賞味したい品として、北区細江町『貴長』の「塩ラーメン(あおさを練り込んだ緑麺)」など、他にも3~4品が挙げられるだろう。

総じて、浜松の各店が妍を競うように、美味しさを引き出した塩系のラーメンを創造しているので、食べる側としては選択に困らない状況である。ラー店の数やバリエーションに乏しい地域から見ると、うらやましい話なのかも知れないが、これも多様性の街である浜松の一つの楽しみとして、享受したいものだ。

2018年11月 5日 (月)

「死者の月」に当たり

世間では先週、ハロウィーンでにぎわっていたようだ。もともと日本社会には縁が薄かった米国輸入の祝祭が、1990年代あたりから注目され、民間ベースで各地の行事などに取り入れられた結果、近年は渋谷を中心として、全国的に異様な盛り上がりを見せている。

ところで、このハロウィーンは何の祝祭かと言うと、実は11月1日に定められているカトリック教会の「諸聖人の日」のいわば前夜祭なのだ。それも、元来はキリスト教が入ってくる以前に10月31日に行われていたケルト人ドルイドたちの祭りを、アイルランドやスコットランドの教会側が、地元ベースで結び付けたものである。したがって、公式にはカトリック教会の祝祭日になっているものではない。

このハロウィーンが、アイルランドやスコットランドからの移民によってアメリカ大陸へ伝えられ、全米的な大衆文化として広まった。それが日本でも、これを商機と捉える関連企業をはじめとする利害関係者によりPRされ、SNSなどネットを介して普及してきたのである。

さて、カトリック教会では、信仰のために大きな業績があった人たち、特に列聖された人たち(聖ペトロなど)や殉教者たちを記念し、神への取り次ぎを願って、11月1日に「諸聖人の日」を祝う。

その翌日、11月2日は、キリストを信じて帰天したすべての死者を祈念する「死者の日」である。信仰に生きた人たちに敬愛の念を捧げ、神に向かって執り成してくれるように祈願する。この日に限らず、11月を通して、一か月が「死者の月」とされている。

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浜松教会では、4日(日曜日)のミサの前に、信徒会の役員さんが今年帰天した信徒の名前を読み上げてくださった。私の母の名も入っていた。

主日のミサは山野内神父様の司式で行われ、祈願文の中ですべての死者のために祈りが捧げられた。講話では「神を愛することで、自分も神から愛される」意味について、説いてくださった。その話を聞いていて、私は教会のテーマを思い出した。

あと二か月を残すのみとなったが、2018年の浜松教会のテーマは、サレジオ会(山野内神父様の所属修道会)が掲げる「主よ、その水をください(画像)」である。ヨハネ福音書4章15節にある挿話。井戸に水を汲みに来たサマリア人の女性に対し、イエス‐キリストが「私が与える水を飲む者は決して渇かない」と言ったので、女性はイエスに「主よ、その水をください」と願ったエピソード。

ここでイエスが言われた「水」は、真理のことである。

キリストを信じて生きた人たちは、二千年の長きにわたって、その「水」を受け継ぎ、次の世代に伝えてきた。そこには人間社会をより理想に近付けようとする悠久の営みがあった。

私の母は晩年に受洗したので、典型的なキリスト者の生活を送ってはこなかったかも知れない。しかし、母が私に遺した訓戒「誰にでも心を開いて付き合いなさい」は、イエスの教えを母なりに受け継いだものにほかならないであろう。母はそれを自分の身に着けた流儀として、人生を生き抜いた。そしてそれを息子である私に伝えていく...

「死者の月」である11月、このようなことを題材に黙想しながら、自分が歩むべき道を模索してみたい。

仏教の「お盆」とはかなり異なるが、亡くなった親族を敬愛して偲び、その霊魂の働きによって、いま生きている自分たち家族の発展と平安とがもたらされるように願う点では、共通するものも大きいだろう。ハロウィーンの単発的なお祭り騒ぎに終わるのではなく、これを契機として、宗教が異なる多くの人たちにも、私たちの祈りの一か月を理解してもらえると幸いである。

2018年10月17日 (水)

1分なら遅れても良い???

私が「プロフェッショナルの心構え」を本格的に学び始めたのは、開業する前年、39歳のときだ。

こう言うと、「なら、それまではアマチュアの感覚だったの?」と思われるかも知れないが、もちろん、それ以前も職業人としての自負はあった。しかし、勤務先では「プロの心構え」の類を体系的に教わる機会に乏しく、また残念なことに、上司や先輩の多くが、プロの資質に欠ける面を少なからず持っていたことも影響して、「こうでなければプロではない」条件をあまり意識することはなかった。

そのため、開業して何年かのうちに、利用者さんや介護者さんに叱られ、恥をかきながら、「プロの心構え」を曲がりなりにも身に着けることになった。私を叱責してくださった方々のおかげで、いまでは逆に、後進を指導する場で、私のほうが「プロの心構え」を説く機会をいただいている。

そして、大切な心構えの一つが、時間厳守の姿勢である。

ケアマネジャーの場合は、おもに月例の居宅訪問や、サービス担当者会議への出席(私は駐車場所も無い小さな事務所しか持っていないので、いつも利用者さんのお宅や他事業所に場所を借りている)の際に、定刻を守るように心掛けることである。

昨日訪問した利用者Aさんの介護者Bさんから、こんな話があった。

「Aも私も、自分で会社を経営してきました。〔二人の業種は異なるが、〕どちらも時間を守らないと信用を失う仕事だったため、いつも十分な余裕を持って行動していました。なので、あなたやあなたの紹介するサービス事業者さんには、決めた時間をしっかり守っていただきたい」

このAさん・Bさんとは二年近いお付き合いだが、利用当初のころからそう言われていた。約束しておきながら若干遅刻して、謝罪しなかった事業者に対しては、容赦なく苦情が浴びせられた。

私自身、過去、別の利用者さんの介護者さんから、苦情を言われたことがある。「自分は仕事を持っているから、定時で動いている。遅れる場合は必ず事前に連絡してほしい」。ちなみに、そのとき遅刻したのは、定刻からわずかに1分。

あとに仕事や所用を控えている人にとっては、1分でも遅れてこられると迷惑なのだ。私が来宅したときに要するおよその時間を測った上で、次の行動予定を入れる。当然ながら、後ろへずれてしまうと、あとの時間設定が厳しくなる。「1分ぐらいなら遅れても良い」などという論理は、相手次第では通用しないのである。

Aさん・Bさんのように、遅刻に対して不快感を示す利用者さん(または介護者さん)は、常に3~4名はおられるので、遅れる可能性がある場合には必ず事前にお断りして了解を得ることにしている。もちろん、それ以外の方も含めて、すべての利用者さんに対し、交通事情などのやむを得ない理由により1分でも遅刻した場合には、必ず「少々遅くなりまして申し訳ありませんでした」と陳謝している。例外として、定刻より早過ぎると困ると言われている場合に限っては、逆に意識して定刻ちょうど、または若干遅れて訪問することはあるが。

業種によっては、時間があまり厳密でなく、ゆるいところもあるだろう。しかし、それらの業種では、「○時□分ピッタリ」を守らなくても、お客≒受益者を待たせることがない業務内容である場合が多い。

裏を返せば、日時を定めて居宅訪問し、またはサービス担当者会議等に出席するケアマネジャーの多くが、「1分程度なら遅れても良い」と思っているのであれば、市民からも「利用者を待たせて負い目を感じない程度の職業」としか評価してもらえず、報酬や社会的地位が上がることは望めないであろう。

それは、『これでいいのか? 日本の介護』P.63~65に記述した、利用者さんにタメ口を利くケアマネジャーや、業務上の秘密を守らないケアマネジャーと同レベルだと言っても良い。

「お客さんを1分でも待たせるのは恥ずかしいことだ」と思うケアマネジャーが、増えてほしいものである。

2018年10月 4日 (木)

「暗闇の浜松」を経験して

自然災害に対しては、「備えが必要」と言われていても、ふだん縁が薄いとなかなか本格的な備えをする気になれないものだ。私自身、人為的なスインパクトに対しては比較的用心するほうだが、自然に対してはあまり用意周到な人間ではないので、いざ直面すると何かとボロが出てくることになる。

このたびの台風24号。沖縄から入り、日本列島を縦断して北海道へ抜けていった。日本列島を縦断した形であるが、意外にも最も大きな物的被害を受けた町の一つが、浜松だったのだ。

もともと、9月30日(日)には名古屋で叔父(9月初に死去)の三十五日の法要に参列する予定であった。ところが、台風が東海地方に30日の午後接近することが報じられ、JRでは新幹線も在来線も、運転見合わせとなった。とすると、名古屋まで行っても浜松に戻れなくなってしまう。翌日の午前中、事務所に居なければならない(月の1日であるから各事業所からのFAXが殺到するのに加え、三か月先の短期入所の予約を入れなければならない)私は、やむを得ず法要を欠席することにした。

そこで、せっかく浜松に残ったのだからと、早目に買い物を済ませて帰宅。暴風雨の被害を避けようと雨戸を全部閉め、吹き荒れる嵐の中で夕食をいつも通りに摂って、そのあとCDを聴き、23時ころにシャワー浴をしていたところ、その最中に停電。

意外なことに、薄明りでも浴室内の物品の輪郭は何とか弁別できた。全裸だったので、急いで動いて転倒や負傷をしないように気を付けながら、そのままシャワーを終えて、服を着てからおもむろに懐中電灯を点けた。

30日の夜は、暗闇の中で何もできず、いつもの感覚から数時間程度で復旧するだろうと思い、なかなか寝付かれずに電気が通じるのを待ったが、結局は暗いままで睡眠不足の朝を迎えた。

10月1日(月)、スマホのバッテリーが減りつつあるのを心配しながら、停電情報を見たところ、何と浜松全域と周辺一帯がまるごと停電状態!

家の飲み水は3~4日間大丈夫だが、食べ物は家電無しでは口にできないものが多く、何日分か買い足す必要がある。懐中電灯の単一乾電池は予備のものを保管してあったが、スマホを充電する術がない。家に居ながらにしては市内の被害状況の把握ができなかったので、最悪の場合は、昨日行くはずだった名古屋の叔母宅まで行って(JRは一部運行再開していた)充電させてもらうことまで想定して、まずは自宅を出て事務所に向かう。

途中、信号機は大部分が滅灯していて、交差点では十分注意し、譲り合いながら慎重に通過した。心配しながら事務所に到着したところ、幸いにもすでに復旧しており、すぐにスマホを充電。地域のコンビニは過半が閉店しており、開いていたところも「火を通さずに食べられる」ものは大半が売り切れ。朝のうちは加工肉・魚の缶詰類が売れ残っていたので、ひとまず停電継続に備えて食料を確保。

この日は、業務上必要な連絡を取っても、相手方のうち半数程度は停電のため電話が通じない状態。前月の実績も例月の1日の半分程度しか送られて来ず、逆に短期入所の予約を入れてもFAX不通の事業所があった。ともあれ、必要最低限の用件について関係事業者とのやりとりはできたので、不十分ながら一日の仕事を終了。PCで停電情報を確認するも、私の自宅がある地域は「調査中」の表示になっていたので、もう一晩は暗闇で過ごすことを覚悟して帰宅。帰る途中、いくつかの区域が信号機も外灯も消えた暗闇状態で、自宅周辺もまた同様であった。

冷蔵庫にはやや冷気が残っていたので、最低限の食物を取り出して急いでドアを閉め、あり合わせのものを組み合わせて夕食。

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暗闇では何もすることがないので、本県出身の故・加藤剛の追悼でもしようと、懐中電灯の明かりを頼りに、海音寺潮五郎の『平将門』(加藤が主演したNHK大河の原作)を読み返してみた。

まだエコキュートのぬるま湯が出たため、簡単にシャワーを浴びて、日付が変わり、そろそろ寝ようかと思っていたとき、電気が復旧! 急いで家電関係のスイッチや接続などを一通り点検して、安堵してから就寝した。

2日(火)の朝、事務所へ出勤するときには、いまだに相当な数の箇所の信号機が滅灯したままであった。前日には少なかったFAXの実績も次々と送られてきたが、中には同一法人の離れた事業所の番号からのものもあり、市内一帯の完全復旧は少し先になりそうだと実感。帰路でも、一部区域で真っ暗なところがあったので、不安な気持ちで停電三夜目を迎える人たちのことを思うと、自宅の電気が復旧したからと言って、素直に喜べなかった。

3日(水)になって、TVで報じられるところによると、山間部には倒木で道が塞がってしまったところがあり、そこから先の復旧がいまだしであるとのこと。周囲に買い物に行く店もない地域で、住民の方々は不便この上ない生活を強いられているであろう。関係機関の協力により、一分でも早く電気が使える生活に戻ることを願いたい。

今回の台風による「浜松大停電」は、北海道の地震に伴う大停電とは比較にならない小規模な災害だったかも知れない。しかし、これだけの広域で大規模な停電が起こったことは、私たちにとって大きな教訓になった。備えが不足していた部分や、不測の事態への対処法など、いろいろな課題を焙り出してくれたと思う。

また、電気業界においても、少子高齢化により熟練した技術者が減りつつあることは現実である。これからこのような災害が起こったとき、復旧にはより多くの時間を要することになるであろう。待たなければならない時間に、私たちが何をしなければいけないのか。特に災害弱者の人たちに対する地域での助け合いなどを考慮に入れて、マニュアルを準備することも大切であろう。

あまり頻繁に来てもらっては困るが、同様なことが再度発生した際には、周章狼狽せずに粛々と行動したいものである。

2018年5月19日 (土)

一つの節目

きょうは、このところの気温の乱高下が収まり、風薫る爽やかな土曜日となった。

私にとって一つの節目となる、母の納骨式。カトリックでは仏教の四十九日のような習慣はなく、遺族が司式司祭と相談した上で納骨の日を決めれば良いことになっている。名古屋の叔母夫妻や従妹の都合を聞き、5月19日が第一候補に挙がったので、浜松教会の山野内神父様にご都合を伺ってご快諾いただき、この日に実施することになった。

親戚一同に通知してから一か月余、準備することは結構多い。出欠や交通手段の確認、石材店へ依頼して墓石に母の名前・生没年月日を彫字、埋葬届の提出(墓地管理事務局へ)、草取り・清掃、会食の手配など、期日が限られている中で、仕事の傍ら一人でいろいろと必要な段取りをこなしてきた。

朝10時までに仕度を済ませ、玄関を掃き清めてから、骨箱を大切に抱えて外に出る。母が48年守ってくれた家から出発するときである。その重みは簡単に言い尽くせない。

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墓前に到着すると、自分が準備したシンプルな花だけでなく、従兄(父の甥)が早めに到着して、白い花を加えて華やかに飾ってくれていた。ふだんはあまり気の利かない人なのだが、こんな一面があるのかと、少し見直したものだ。

参列したのは私を含め9名。従兄弟姉妹たちの中に、土曜日は仕事が入っていて来られなかった人も多く、少人数のセレモニーとなった。

11時から開式。神父様の講話を含め、15分ほどで終了。そのあと、一人ひとりに各自のやり方で祈りを捧げてもらった。どの宗派の流儀であろうが、故人の平安のために心を込めた祈りであれば、神様は耳を傾けてくださるはずであるから。

式が終了した後、近くのイタリア料理店「ラ・アリタリア」で会食。ここは十何年か前の8月7日、母の誕生祝いのディナーを賞味した店である。

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自宅や事務所からは遠いのだが、味には定評があるので、私も何年かに一回は足を運んでいる。母の記念の意味もあり、この店へ早目に予約を入れて、席を設けることになった。

前菜から魚料理、肉料理、デザートまで、変わらぬグレードの高さに大満足。列席した親戚たちも、口々に「美味しかった」と評していた。人数が少なかったことが幸いして、席上では母方の親族と父方の親族とが歓談する場面もあり、楽しいひとときを過ごすことができた。

これで「喪中」モードも終了した形である。母の遺品などの後始末はまだまだ残っているが、適当に時間を見つけて、少しずつ整理していきたい。

それよりも、自分に課せられた使命をいま一度問い直し、「何ができるのか?」と、あらゆる可能性を模索してみることが大切だと感じている。「誰にでも心を開いて」をモットーにしてきた母の生きかたは、私にとっても大きな学びになった。私自身、母とはスタイルこそ異なるにせよ、自分の殻に閉じこもらず、仕事や活動について語り合える仲間を探し求めて、全国各地の人たちとの交信を積み重ねてきた。その路線の上に、これからの自分の「道」が開かれているであろう。

まずは、現在の仕事を着実に続けながら、早ければ今年中にも機会を見つけて、新たな企画に取り組んでみようと考えている。

2018年5月 5日 (土)

関連する法令改正にご注意!

一つの業界で長くプロフェッショナルとして仕事をしていると、その業界の分野に関連する制度や政策の動向には(人によって得意不得意な部門はあるにせよ)精通していく。当たり前だ(でなければ、その人の能力に問題がある)。

しかし、どの業界も他の分野と少なからず関連しているのだから、必要に応じて周縁の分野に関する制度や政策についても知っておかないと、誤りや損失を招く恐れがある。私たちの介護分野に関しても、また然りである。

たとえば、2012(平成24)年7月から、住民基本台帳法が改正され、介護保険の適用対象となる外国人が、それまでの「日本滞在一年以上」から「日本滞在三か月超」となった。これは介護保険関連の制度改定ではほとんど注目されておらず、外国人集住地域の一つである当・浜松市でも前年度末の事業者説明会では市当局から言及されなかったので、私(当時、市の介護支援専門員連絡組織の代表だった)が市当局へ要請して、市内の介護支援専門員が集まる機会に行政説明をしてもらっている。

さて、介護関連の職能団体、業界団体、サービス事業所運営団体の中には、特定非営利活動法人、いわゆるNPO法人で事業を運営しているところも少なくない。実は今般、このNPOに関わる改正点があるのだ。

2016(平成28)年6月、特定非営利活動促進法が改正され、NPO法人の資産総額変更登記が不要になった代わりに、貸借対照表の公告が義務付けられることになった。これは今年=2018(平成30)年10月1日より施行される。

したがって、法人の定款中、公告の方法(多くのNPO法人では終わり近くの条文)に、「官報に掲載して行う」ことが明記されている(複数の方法併記であっても、官報掲載が含まれている)場合には、毎事業年度、貸借対照表の公告を官報に掲載しなければならない。もともと自治体や関連団体が提供してきたNPO法人定款例の記載がそうだったので、それをなぞって定款を作成したところは、みな同様な記載になった。ただし、これは法改正以前、法人の解散などの特別な場合にのみ公告することを想定したものである。

もし、貸借対照表の公告を官報に掲載すると、通常はどう縮小しても二枠(一枠は1段6分の1=2.9cm×6.1cm)以上を要する。そのため、毎事業年度これを行うとすれば、毎年72,978円以上の出費となる。

先日、私が所属している某職能団体の事務方がこれに気付いていなかったことを、事務方と電話で話していて偶然把握した。そこで、理事会に諮った上で、来月の定時総会において定款を変更したらどうか?と意見を出しておいた。7万円超は決して少ない金額ではない。改正が事前にわかっていたのにもかかわらず、ケアレスミスで出費を強いられたとしたら、大きな損失だ(直前に所轄庁から提出を求められ、あわてて臨時の「委任状総会」を開くとしても、ハガキ代や人件費などでそれ以上の出費になってしまう)。事前に回避できたのは幸いであった。

そこで、介護業界関係の職能団体、業界団体、サービス事業所運営団体などのNPO法人の中に、定款で公告方法を「官報掲載」と定めておられるところがあったら、定時または臨時総会などの機会に定款を変更されることをお勧めしたい。特にサービス事業所の多くは、日夜苦労して節約に努めながら厳しい運営をされているところがほとんどであろう。ゴールデンウィークを過ぎてから定時総会を予定されている法人も多いと推測するので、定款変更議案の作成がそれに間に合うことを願っている。

変更の具体例は内閣府NPOホームページに示されているので、参照されたい。
https://www.npo-homepage.go.jp/uploads/201702-kaisei-bs-koukoku-ex.pdf

2018年3月24日 (土)

人生の締め括りかた

いま、母が帰天したあとの事後整理を、必要なことから少しずつ進めている。昨日、年金受給権者死亡届を提出し、ひとまず第一段階が終わったところである。これから相続や預金の整理、また並行して会葬お礼や納骨の準備にかかることになる。

これまでの経過を振り返ると、母が前日に急変してから丸一日も経たないうちに死去していて、かつ、おおむね私一人で葬送の段取りをした割には、われながらスムーズに対応できた。

5日の朝、母の死亡診断がなされてから、すぐに教会の担当者Sさんと連絡を取り、氏の案内に従って教会が契約している葬儀社H社へ直接電話、まず病院から自宅への遺体搬送を依頼すると同時に、とりいそぎ8日の斎場の予約を取った。再度Sさんへ電話して神父様に問い合わせていただき、通夜と葬儀ミサ・告別式の開始時刻を決定、どの程度の人数に連絡するのかも(会場の割付に影響するので)おおむね内定させた。病棟で母のエンジェル‐ケアをしてもらい、H社の柩送の車が到着するまでの間に、母の実家(名古屋)の叔母夫妻、従妹(叔母の娘)への連絡、利用予定だった各介護サービス(5か所)へのキャンセルとお礼の電話もすべて完了した。

この間、一時間強。前日の母の様子から心の準備がある程度できていたとは言え、自分でも信じられないほど冷静で迅速な手順を踏んだと思う。

私自身が介護業界に居ることも、速やかに段取りできた要因ではあるが、何よりも、母自身が事前意思によって、連絡する範囲や葬儀のスタイルを決めてあったことが大きい。

16年前、父を葬送した際には、教会との連絡も、葬儀社の手配も、参列者への応接も、何かと後手後手に回って、弥縫的なフォローに追われ、手伝ってくれた親戚まで巻き込んで迷惑を掛けてしまった。そのことへの反省もあり、今回は可能なところから準備をしていたのは正解であった。昨年の1月、母の著しい体調不良で終末も予測されたとき、いくつかの点について本人の意思を確認しておいたことも幸いした。

母には、葬儀社は教会と連絡が取りやすいH社へ依頼することを、あらかじめ伝えてあった。また、母本人が近親者以外への連絡を望まなかったので、新聞掲載や自治会などへの通知はせず、親戚以外からのお花料やお供えも辞退して、簡素に執り行うことで合意していた。教会の信者の中では、聖歌隊などの典礼奉仕者の方々は別として、母と昵懇だった3名ほどの方(前のエントリーに登場したKさん・Sさん・Wさん)だけに声掛けすることについても、本人の了解を得ておいた。

事前に確認していなかったことだが、あえて母の気持ちを汲み取って、私の独断で行ったのは二点だけ。

一つは遺体の湯かんと化粧。母は2011年からベル麻痺を患い、顔面がやや歪んでしまったことを苦にしていた。息を引き取ってからは麻痺が消え、左右対称の端正な顔に戻ったので、最後は綺麗に化粧してもらって旅立たせようと思い、H社と契約している専門のメイクサービスを依頼した。質素な葬送の中、思いを込めてここだけはお金をかけている。私も所在を知らなかった母の着物と長襦袢とを、名古屋の叔母が箪笥の中から探し出してくれたので、化粧のときそれを着せてもらった。

もう一つは、葬送のあと、母が昨年まで食べ物などのやりとりをしていた数名の近所の方に電話して、弔問に来てもらったことである。母の口から名前が出なかったので葬儀の連絡はしなかったが、直後のお知らせだけはしておくのが、礼節を大切にした母の気持ちに沿うと判断したからだ。

このように、百点満点ではなかったかも知れないが、母の意思を全面的に尊重した葬送ができたので、ひとまず安堵している次第である。

一般的に「終活」と称されるが、「人生の締め括り方」は百人百様だ。個人差はあるものの、一定の年齢に達したら、自分の流儀を家族や親しい人に伝えておくことも大切であろう。不慮の事故や事件による死去の場合はともかく、通常の場合は事前に自らの意思を示しておくことで、葬送を執り行う遺族もあまり迷わずにいろいろな手配ができ、滞りなく厳粛に本人の旅立ちを送ることができるのだ。

生前の振る舞いや業績と、人生の締め括りの上手さとは、また別の話であろうと強く感じている。

2018年3月 9日 (金)

「行っていいよ」

私の母は1926(大正15)年8月7日、名古屋市中村区で、二男六女(夭折した者を含む)の三番目(二女)として出生した。高等女学校を卒業後、戦時中には軍需工場で働き、戦後は実家で病弱な父親と兄(私から見れば祖父と伯父)とを抱え、銀行などで働いて家計を支えた。

1953年、父と結婚して名古屋を離れ、磐田市中泉のアパートに居住。1960年に私が生まれたころには、仕事をやめて専業主婦になっていた。父は勤務先で大したポストに就けなかったのにもかかわらず、見栄を張って気前良く散財する性癖があったため、母は家計を緊縮して節約するのに苦労しながら、貯蓄にいそしみ、1970年にいまの自宅を手に入れ、家族で浜松市(現・西区)の家へ転居した。

私が大学へ入り、東京に出て生活したことで、母は自分の時間を十分に持てたはずなのだが、母が一人で他出するのを父が極端に嫌ったので、後味の悪い結果を避けたかった母は、旅行一つ行くことがままならず、不自由を余儀なくされた。そこで、その代償として、もともと編み物で師範の資格を持つほど器用であった母は、手芸を中心とした趣味活動に打ち込むようになった(なお、父の帰天後は、私が同伴して4回ほど旅行に出かけている)。

浄土真宗の家庭に生まれ、曹洞宗の家に嫁いだ母であったが、1965年に私を磐田聖マリア幼稚園へ入園させたことを機に、イエス‐キリストからのお招きをいただくことになる。浜松に転居してからは教会と疎遠であったが、磐田教会のインド国内ハルルへの対外支援活動「愛の泉」に参加、子どもの里親として学費支援に協力するようになってから、再び教会の活動に近づく機会を得た。父が2002年に帰天(臨終洗礼)した後、母も教会の洗礼を望むようになったので、2006年には私が所属するカトリック浜松教会の小林陽一神父様に数回ご来宅いただき、公教要理のいわばダイジェスト版によるご指導を受けた。2007年に浜松教会にて受洗(霊名マリア)。

高齢になってからも趣味活動を続け、地域でも豊かな人付き合いを続けていた母であったが、体力の限界もあり活動から一つずつ引退していった。2011年に顔面神経麻痺を患ったのを機に、少しずつ身体的な制約が加わり、これまで一人でこなしていた家事も、掃除→買い物→調理と、少しずつ私が手伝う部分が増えていった。それでも洗濯だけは私の衣類も含め、一人でがんばって続けていた。

教会へは私が同伴してときどき赴いていたが、次第にミサ参列が難しくなったので、自宅での短い祈りを日課にしていた。2016年に一度だけ、私と一緒に教会へ行き、山野内公司神父様から霊的指導をいただいている。そのときの神父様のご助言は、「死へ向かうことよりも、いま一日一日をどう生きるかを大切にしましょう」。

2017年1月19日から高熱が続き、薬の副作用か、一時は味覚異常で摂食できなくなり、慢性心不全を持っていたことから予後が危ぶまれたが、味覚が正常に戻るに連れ、本人の努力もあって食欲が回復した。要介護3の状態になり、ADLも低下したとは言え、自宅内ではときどき見守りがあれば身の周りのことがこなせるようになり、介護サービスを受けながら平穏な在宅生活を送っていた。私の手料理が美味しいと喜んで食べてくれることも多かった。「私は神様に生かされているんだね」と何度も話していた。

交替で来宅するホームヘルパーさんたちには、信頼してケアを任せていた。また、隔週で利用・滞在するショートステイの職員さんや他利用者さん、陽気で懇切丁寧な管理指導をしてくださる訪問歯科衛生士さんなどとも、意欲的にコミュニケーションを取り、春夏秋冬、楽しい日々を過ごしたことが多かった。昨年の誕生日には、「私、91かね。まだ若いな。もう少し生きなければ」と言っていたものだ。

2018年に入り、正月の餅も連日無事に食べ、気になっていた右上下の第三大臼歯(おやしらず)の抜歯を済ませて、復活祭が来たらこれまでと違う美味しいものでも食べようか、と話し、本人も楽しみにしていたのだが...

3月4日(日)の昼食(インスタントラーメン)を普通に摂り、私も休日だったので二階の部屋へ引き上げて仮眠。ところが15時に階下の母の居室へ行くと、「胸が痛い! さっきから呼んでいるのよ...」と言い、姿勢を転々と変えながら発汗、苦悶していた。すぐ訪問看護に緊急相談、無理せずに救急車を、との助言に従い、聖隷三方原病院へ救急搬送、16時過ぎに入院となった。循環器科の医師の診断によると、心筋梗塞で心臓が止まりそうな状態。カテーテル手術等の侵襲は年齢から難しいので、点滴と医療用麻薬(苦痛緩和)の処置になるが、一般的にきょう一日のうち、早ければ1~2時間とのこと。

急遽、母の大親友だったOさん(70代前半、女性)に病院まで来てもらった。二人で母と話しながら見守っているうちに、18時半ごろには応答がなく下顎呼吸になり、心電図モニターの表示が著しく不整、かつ弱くなったので、二人で手足を握ったりさすったりしながら看取りモードに入った。その後、ややモニターの表示が落ち着いたので、Oさんにお礼を言って帰宅してもらった。麻薬が奏効したのか、自分で枕の位置を直し、発汗のため上半身の布団を手で除けるなど、少し力を取り戻した感があった。

モニターは弱目ながら安定が続いたため、21時30分ごろにいったん帰宅しようと、母の手を握って、「一度、家へ帰るよ。明日必ず来るからね」などと言っていたら、母はかすれ声ながらはっきり、「行(い)っていいよ」と返してくれた。私が母から聞いた最後の言葉。これまでの母の姿勢から推し測れば、単純に帰宅して良いとの意味ではなく、私に「自分の道を進め」と、背中を強く押してくれたものだと思う。

翌5日(月)の朝、朝食・ゴミ出し・洗濯などを終えて、身支度が終わった直後、病院から「下顎呼吸が始まったので、すぐ来てください」との電話が入った。間髪を置かず車で出発して、雨の中、25分ほどで病院に到着。病棟に駆け付けたときは8時57分、母はすでに目を開けず、身体を動かす力も残っていなかった。

母の手を握り、「お母さん! 本当によくがんばったね。長い間本当にありがとう」と声を掛けると、それを聞いて安堵したのか、5分後の9時2分にモニターの数字がすべてゼロを示し、息を引き取った(医師による死亡確認は9時6分)。入院して18時間のがんばりを経ての収束。残念ながら自宅での「大往生」はかなわなかったが、推測する限り、ただ一人の家族である私に看取られて91年6か月の人生を終えた母は、まずは幸せだったと言えるのではないだろうか。

母から息子である私への最後の教訓は、一年以上前、すでに聞いてあった。「誰にでも心を開いて付き合いなさい」。母が日頃から実践してきたことだ。そのために地域から「人が好過ぎる」と言われたこともあったが、またそれゆえに多くの人から愛されてきた。

7日(水)にカトリック浜松教会で行われた通夜では、同じ町内で母と親しかったWさん(女性。教会の信者)が、母と交流した思い出を話してくださった。またショートステイ利用施設(地理的に教会から近い)の職員5人が、訃報を聞き駆け付けてくださった。

8日(木)、山野内神父様の司式により、教会で葬儀ミサから告別式。母本人の意思を尊重して、親族など母をよく知る限られた人たちだけに声を掛けて執り行ったので、「義理で弔問するその他大勢」もおらず、とても好いインティミットな別れの場になった。出棺の後、親族以外でも、Oさん夫妻、および、母の代母(受洗の母親代わりの役)の娘さんであるK教授(女性)と、前述の幼稚園で53~51年前、新任のとき私のクラスを担当したS園長(女性)とが、一緒に斎場まで行って拾骨までしてくださった。KさんもSさんも教会の信者で、晩年に受洗した母にとっては、教会共同体での数少ない友であったのだ。

強く、自分の信念を持って生き抜いた母の生活態度は、私にとってもこの上なく大きな学びであった。おそらく、これからも遺影(元写真の撮影者はOさんの旦那さん)を見るたびに、「行っていいよ」と励ます声を聞くことだろう。

ちょうど、5日も8日も雨になったことから、アイルランドの口碑(oral tradition)の中にあった言葉を思い起こす。

「一生を晴ればれと生きた善人ならば、帰天した日と葬儀の日は、浄罪(天国へ行く前に、生前の罪を償って清めること)の日なので雨が降る」

母の一生を振り返って、まさにこの言葉が当てはまるなあ、と勝手に解釈している。イエス‐キリストの足元に膝まづきながら、生前のいくつかの小罪を改悛し、それから神の国へ旅立ったのではないだろうか。

悲しさや寂しさは免れないが、家族としてもっとも身近にいた人の生きざまを範としながら、今後、私自身も強く生き抜いていけるよう、心を新たにしたい。

2018年1月30日 (火)

永遠のローマ?

家の中を整理していると、思いがけないものを発見することがある。

昨年末、冬になったので防寒具を出そうと、あまり出し入れしなかった引き出しを開けてみたところ、奥のほうにしまい込んであったものを見つけた。

それは、画像のマフラーである。

Muffler

17年前、ローマへ巡礼したとき、西欧は4月下旬にもかかわらず、季節外れの寒波に見舞われていた。到着して早々、マフラーを持って来れば良かった! と後悔した私は、取り急ぎ、カゼをひかないうちに調達しようと、衣類を扱っている店に立ち寄ったのだが、店の人からは、もう時期的にマフラーを置いていないと言われ、

「サッカーの店へ行きなさいよ!」

と告げられた。そもそもサッカーに縁のなく、サポーターのグッズについて無知だった私は、聞き間違いかな?と思いながら、半信半疑でサッカー用品を扱う店を訪れ、マフラーがあるか尋ねたら、店の人がこれを出してきたのだ。

「ここはローマだから、ローマ(=ASローマ。セリエAのクラブチーム)のマフラーを買ってくれ!」

こう言われたので、とにかく何か襟巻の類さえあれば良かった私は、一も二もなくこれを購入した。

さて、このマフラーを首に巻き付けてローマ市内を観光していると、現地の若い人たちがこれに注目したらしく、近くに寄ってきた。

「あなたは日本から来たの?」

「そうだよ」

「なら、ナカタの応援に来たんだな。きのうナカタが一点入れたぞ!...」

早い話が、当時ASローマで活躍していた中田英寿選手を応援するためにイタリアまで来たものと、勘違いされてしまったのだ! 「いやいや、私はただの観光客なので...」とその場を逃れたのだが...(^^;

イタリアではサポーターたちの地元クラブチームへの思い入れは、相当熱が入っているようだ。ま、「永遠のローマ」の象徴であるオオカミのシンボルを用いているこのチームは、日本のJリーグのチームよりもずっと歴史が古いのだから、当然かも知れないが...

そんな面白いエピソードを持つ一品だが、帰国後、大切にしまい込んで、使わないままになっていた。先の12月になって、偶然これを発見したので、寒波が厳しいこの冬の防寒具として重宝している。

さすがに日本では、サッカーのサポーターおじさんと間違われることはないだろうが、私がこれを着用して道を歩く姿は、若い人たちの眼には結構アンバランスに映っているかも知れない。

当分、冬の間は「永遠のローマ」仕様で行こうかと思っている(^^)v

2018年1月 3日 (水)

年末年始の過ごし方

2018年、明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

さて...

正月三が日も大事なく過ぎそうであり、明日からは仕事モードになる。特段のことが起こらない限り、私の年末年始の過ごし方は、ここ数年、パターンがほぼ定まっている。

12月28日に仕事納め。

12月29日から冬休みで、まずは部分的に掃除。いろいろ事情があり、この時期に大掃除を集中的にはやらないことにしている。とは言え、家の片付けなど、前日までになかなかできなかったことをこなすのは、この日になる。今回は母が午後にショートステイから帰宅したので迎え入れた。

12月30日は短時間だけ事務所に出向く。今回はこの日に退院された利用者さんがいたので、居宅訪問して退院直後の状態を確認、ケアプランを更新した。

12月31日、年末最後のパン朝食。午前中に買い物。昼食は年越しそばを食べ、年内に済ましておいたほうが良い家事は午後から処理。夕食後、原則としてTVは見ずに、自分の精神の糧になる読書やDVD(またはBD)視聴をする。カウントダウンはTVでBSジャパンのジルヴェスター‐コンサートを鑑賞するのが定番。今回は母が別のTVでNHK「ゆく年くる年」を見ていたので、日付が変わってから新年のあいさつを交わした。

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1月1日、この日から朝食を餅に切り替え。カトリック教会の典礼暦では「神の母聖マリアの祝日」である。浜松教会では年越しのミサもあるが、こちらに出ていると母が就寝する時間になってしまうので、行ったことはない。今年は10時からのミサに参列、一年の始まりの日に、神から与えられた自分の役割を思い起こし、気持ちを新たにするひとときだ。仏教や神道の人たちにとっての「初詣」とはちょっと違う面もあるが、重なる部分もあるだろう。帰宅後は地元浜松の総菜屋から購入したおせち料理で昼食を摂るが、品目が多彩で十分楽しめる。夕方から日テレ(当地では静岡第一テレビ)の「笑点」2時間スペシャルを視聴。

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1月2日、朝はおせちの残りを食べ切り、午前中はゆったり過ごす。午後から短時間、事務所に出向き、たまっている前月の実績(各サービス事業者からの「利用者○○様には、この日にこのサービスを提供した」報告書面)FAXと、年賀状とを整理し、電話着信も確認する。今回は特段急用らしい着信もなかったので、手短に書類を処理して、夕方には行きつけの量販店へ立ち寄って今年最初の買い物を済ませた。

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1月3日、唯一の「外出しない日」である。よほど特別なことがない限り、この日は終日在宅。日中は読書やDVD視聴が中心。夜間はNHK総合の「ニューイヤー・オペラコンサート」を視聴するが、最近は夕食時間の関係で、録画で鑑賞することが多くなっている。また、今回は1月中旬に他県へ出講予定であるため、その準備もした。明日からやらなければならない用務を、怠りなく進められるように、少し先まで予定を確認しておく。

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毎年、こんな感じである。

この期間の夕食のおかずは、ほぼ手製の一品料理になっている。母と二人だから、それで十分なのだ。栄養バランスには配慮しているつもりだが、レパートリーもあまり多くないので、どうしてもパターンが限られてしまうのはやむを得ない。今回は12/30だけが地元店舗で冷凍販売している浜松餃子だったが、12/31がガーリックチキン、1/1がオイルサーディン焼き、1/2がビーフシチュー、1/3がえび・ブロッコリー・たけのこ炒めであった(それぞれ前掲の画像通り)。

正月休みに私が例年同様の生活を送れるのは、12/31や1/2に開店しているスーパーの店員さんや、医療依存度の高い利用者さん宅へ訪問してくださる看護師さんなどが働いているからこそのことである。連休の最終日であるきょうは、これらの方々に感謝しつつ、明日からの仕事に勤しみながら、ステイクホルダーのみなさんに少しでも満足していただけるように努めたいと、思いを新たにする日でもあった。

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