日記・コラム・つぶやき

2018年5月19日 (土)

一つの節目

きょうは、このところの気温の乱高下が収まり、風薫る爽やかな土曜日となった。

私にとって一つの節目となる、母の納骨式。カトリックでは仏教の四十九日のような習慣はなく、遺族が司式司祭と相談した上で納骨の日を決めれば良いことになっている。名古屋の叔母夫妻や従妹の都合を聞き、5月19日が第一候補に挙がったので、浜松教会の山野内神父様にご都合を伺ってご快諾いただき、この日に実施することになった。

親戚一同に通知してから一か月余、準備することは結構多い。出欠や交通手段の確認、石材店へ依頼して墓石に母の名前・生没年月日を彫字、埋葬届の提出(墓地管理事務局へ)、草取り・清掃、会食の手配など、期日が限られている中で、仕事の傍ら一人でいろいろと必要な段取りをこなしてきた。

朝10時までに仕度を済ませ、玄関を掃き清めてから、骨箱を大切に抱えて外に出る。母が48年守ってくれた家から出発するときである。その重みは簡単に言い尽くせない。

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墓前に到着すると、自分が準備したシンプルな花だけでなく、従兄(父の甥)が早めに到着して、白い花を加えて華やかに飾ってくれていた。ふだんはあまり気の利かない人なのだが、こんな一面があるのかと、少し見直したものだ。

参列したのは私を含め9名。従兄弟姉妹たちの中に、土曜日は仕事が入っていて来られなかった人も多く、少人数のセレモニーとなった。

11時から開式。神父様の講話を含め、15分ほどで終了。そのあと、一人ひとりに各自のやり方で祈りを捧げてもらった。どの宗派の流儀であろうが、故人の平安のために心を込めた祈りであれば、神様は耳を傾けてくださるはずであるから。

式が終了した後、近くのイタリア料理店「ラ・アリタリア」で会食。ここは十何年か前の8月7日、母の誕生祝いのディナーを賞味した店である。

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自宅や事務所からは遠いのだが、味には定評があるので、私も何年かに一回は足を運んでいる。母の記念の意味もあり、この店へ早目に予約を入れて、席を設けることになった。

前菜から魚料理、肉料理、デザートまで、変わらぬグレードの高さに大満足。列席した親戚たちも、口々に「美味しかった」と評していた。人数が少なかったことが幸いして、席上では母方の親族と父方の親族とが歓談する場面もあり、楽しいひとときを過ごすことができた。

これで「喪中」モードも終了した形である。母の遺品などの後始末はまだまだ残っているが、適当に時間を見つけて、少しずつ整理していきたい。

それよりも、自分に課せられた使命をいま一度問い直し、「何ができるのか?」と、あらゆる可能性を模索してみることが大切だと感じている。「誰にでも心を開いて」をモットーにしてきた母の生きかたは、私にとっても大きな学びになった。私自身、母とはスタイルこそ異なるにせよ、自分の殻に閉じこもらず、仕事や活動について語り合える仲間を探し求めて、全国各地の人たちとの交信を積み重ねてきた。その路線の上に、これからの自分の「道」が開かれているであろう。

まずは、現在の仕事を着実に続けながら、早ければ今年中にも機会を見つけて、新たな企画に取り組んでみようと考えている。

2018年5月 5日 (土)

関連する法令改正にご注意!

一つの業界で長くプロフェッショナルとして仕事をしていると、その業界の分野に関連する制度や政策の動向には(人によって得意不得意な部門はあるにせよ)精通していく。当たり前だ(でなければ、その人の能力に問題がある)。

しかし、どの業界も他の分野と少なからず関連しているのだから、必要に応じて周縁の分野に関する制度や政策についても知っておかないと、誤りや損失を招く恐れがある。私たちの介護分野に関しても、また然りである。

たとえば、2012(平成24)年7月から、住民基本台帳法が改正され、介護保険の適用対象となる外国人が、それまでの「日本滞在一年以上」から「日本滞在三か月超」となった。これは介護保険関連の制度改定ではほとんど注目されておらず、外国人集住地域の一つである当・浜松市でも前年度末の事業者説明会では市当局から言及されなかったので、私(当時、市の介護支援専門員連絡組織の代表だった)が市当局へ要請して、市内の介護支援専門員が集まる機会に行政説明をしてもらっている。

さて、介護関連の職能団体、業界団体、サービス事業所運営団体の中には、特定非営利活動法人、いわゆるNPO法人で事業を運営しているところも少なくない。実は今般、このNPOに関わる改正点があるのだ。

2016(平成28)年6月、特定非営利活動促進法が改正され、NPO法人の資産総額変更登記が不要になった代わりに、貸借対照表の公告が義務付けられることになった。これは今年=2018(平成30)年10月1日より施行される。

したがって、法人の定款中、公告の方法(多くのNPO法人では終わり近くの条文)に、「官報に掲載して行う」ことが明記されている(複数の方法併記であっても、官報掲載が含まれている)場合には、毎事業年度、貸借対照表の公告を官報に掲載しなければならない。もともと自治体や関連団体が提供してきたNPO法人定款例の記載がそうだったので、それをなぞって定款を作成したところは、みな同様な記載になった。ただし、これは法改正以前、法人の解散などの特別な場合にのみ公告することを想定したものである。

もし、貸借対照表の公告を官報に掲載すると、通常はどう縮小しても二枠(一枠は1段6分の1=2.9cm×6.1cm)以上を要する。そのため、毎事業年度これを行うとすれば、毎年72,978円以上の出費となる。

先日、私が所属している某職能団体の事務方がこれに気付いていなかったことを、事務方と電話で話していて偶然把握した。そこで、理事会に諮った上で、来月の定時総会において定款を変更したらどうか?と意見を出しておいた。7万円超は決して少ない金額ではない。改正が事前にわかっていたのにもかかわらず、ケアレスミスで出費を強いられたとしたら、大きな損失だ(直前に所轄庁から提出を求められ、あわてて臨時の「委任状総会」を開くとしても、ハガキ代や人件費などでそれ以上の出費になってしまう)。事前に回避できたのは幸いであった。

そこで、介護業界関係の職能団体、業界団体、サービス事業所運営団体などのNPO法人の中に、定款で公告方法を「官報掲載」と定めておられるところがあったら、定時または臨時総会などの機会に定款を変更されることをお勧めしたい。特にサービス事業所の多くは、日夜苦労して節約に努めながら厳しい運営をされているところがほとんどであろう。ゴールデンウィークを過ぎてから定時総会を予定されている法人も多いと推測するので、定款変更議案の作成がそれに間に合うことを願っている。

変更の具体例は内閣府NPOホームページに示されているので、参照されたい。
https://www.npo-homepage.go.jp/uploads/201702-kaisei-bs-koukoku-ex.pdf

2018年3月24日 (土)

人生の締め括りかた

いま、母が帰天したあとの事後整理を、必要なことから少しずつ進めている。昨日、年金受給権者死亡届を提出し、ひとまず第一段階が終わったところである。これから相続や預金の整理、また並行して会葬お礼や納骨の準備にかかることになる。

これまでの経過を振り返ると、母が前日に急変してから丸一日も経たないうちに死去していて、かつ、おおむね私一人で葬送の段取りをした割には、われながらスムーズに対応できた。

5日の朝、母の死亡診断がなされてから、すぐに教会の担当者Sさんと連絡を取り、氏の案内に従って教会が契約している葬儀社H社へ直接電話、まず病院から自宅への遺体搬送を依頼すると同時に、とりいそぎ8日の斎場の予約を取った。再度Sさんへ電話して神父様に問い合わせていただき、通夜と葬儀ミサ・告別式の開始時刻を決定、どの程度の人数に連絡するのかも(会場の割付に影響するので)おおむね内定させた。病棟で母のエンジェル‐ケアをしてもらい、H社の柩送の車が到着するまでの間に、母の実家(名古屋)の叔母夫妻、従妹(叔母の娘)への連絡、利用予定だった各介護サービス(5か所)へのキャンセルとお礼の電話もすべて完了した。

この間、一時間強。前日の母の様子から心の準備がある程度できていたとは言え、自分でも信じられないほど冷静で迅速な手順を踏んだと思う。

私自身が介護業界に居ることも、速やかに段取りできた要因ではあるが、何よりも、母自身が事前意思によって、連絡する範囲や葬儀のスタイルを決めてあったことが大きい。

16年前、父を葬送した際には、教会との連絡も、葬儀社の手配も、参列者への応接も、何かと後手後手に回って、弥縫的なフォローに追われ、手伝ってくれた親戚まで巻き込んで迷惑を掛けてしまった。そのことへの反省もあり、今回は可能なところから準備をしていたのは正解であった。昨年の1月、母の著しい体調不良で終末も予測されたとき、いくつかの点について本人の意思を確認しておいたことも幸いした。

母には、葬儀社は教会と連絡が取りやすいH社へ依頼することを、あらかじめ伝えてあった。また、母本人が近親者以外への連絡を望まなかったので、新聞掲載や自治会などへの通知はせず、親戚以外からのお花料やお供えも辞退して、簡素に執り行うことで合意していた。教会の信者の中では、聖歌隊などの典礼奉仕者の方々は別として、母と昵懇だった3名ほどの方(前のエントリーに登場したKさん・Sさん・Wさん)だけに声掛けすることについても、本人の了解を得ておいた。

事前に確認していなかったことだが、あえて母の気持ちを汲み取って、私の独断で行ったのは二点だけ。

一つは遺体の湯かんと化粧。母は2011年からベル麻痺を患い、顔面がやや歪んでしまったことを苦にしていた。息を引き取ってからは麻痺が消え、左右対称の端正な顔に戻ったので、最後は綺麗に化粧してもらって旅立たせようと思い、H社と契約している専門のメイクサービスを依頼した。質素な葬送の中、思いを込めてここだけはお金をかけている。私も所在を知らなかった母の着物と長襦袢とを、名古屋の叔母が箪笥の中から探し出してくれたので、化粧のときそれを着せてもらった。

もう一つは、葬送のあと、母が昨年まで食べ物などのやりとりをしていた数名の近所の方に電話して、弔問に来てもらったことである。母の口から名前が出なかったので葬儀の連絡はしなかったが、直後のお知らせだけはしておくのが、礼節を大切にした母の気持ちに沿うと判断したからだ。

このように、百点満点ではなかったかも知れないが、母の意思を全面的に尊重した葬送ができたので、ひとまず安堵している次第である。

一般的に「終活」と称されるが、「人生の締め括り方」は百人百様だ。個人差はあるものの、一定の年齢に達したら、自分の流儀を家族や親しい人に伝えておくことも大切であろう。不慮の事故や事件による死去の場合はともかく、通常の場合は事前に自らの意思を示しておくことで、葬送を執り行う遺族もあまり迷わずにいろいろな手配ができ、滞りなく厳粛に本人の旅立ちを送ることができるのだ。

生前の振る舞いや業績と、人生の締め括りの上手さとは、また別の話であろうと強く感じている。

2018年3月 9日 (金)

「行っていいよ」

私の母は1926(大正15)年8月7日、名古屋市中村区で、二男六女(夭折した者を含む)の三番目(二女)として出生した。高等女学校を卒業後、戦時中には軍需工場で働き、戦後は実家で病弱な父親と兄(私から見れば祖父と伯父)とを抱え、銀行などで働いて家計を支えた。

1953年、父と結婚して名古屋を離れ、磐田市中泉のアパートに居住。1960年に私が生まれたころには、仕事をやめて専業主婦になっていた。父は勤務先で大したポストに就けなかったのにもかかわらず、見栄を張って気前良く散財する性癖があったため、母は家計を緊縮して節約するのに苦労しながら、貯蓄にいそしみ、1970年にいまの自宅を手に入れ、家族で浜松市(現・西区)の家へ転居した。

私が大学へ入り、東京に出て生活したことで、母は自分の時間を十分に持てたはずなのだが、母が一人で他出するのを父が極端に嫌ったので、後味の悪い結果を避けたかった母は、旅行一つ行くことがままならず、不自由を余儀なくされた。そこで、その代償として、もともと編み物で師範の資格を持つほど器用であった母は、手芸を中心とした趣味活動に打ち込むようになった(なお、父の帰天後は、私が同伴して4回ほど旅行に出かけている)。

浄土真宗の家庭に生まれ、曹洞宗の家に嫁いだ母であったが、1965年に私を磐田聖マリア幼稚園へ入園させたことを機に、イエス‐キリストからのお招きをいただくことになる。浜松に転居してからは教会と疎遠であったが、磐田教会のインド国内ハルルへの対外支援活動「愛の泉」に参加、子どもの里親として学費支援に協力するようになってから、再び教会の活動に近づく機会を得た。父が2002年に帰天(臨終洗礼)した後、母も教会の洗礼を望むようになったので、2006年には私が所属するカトリック浜松教会の小林陽一神父様に数回ご来宅いただき、公教要理のいわばダイジェスト版によるご指導を受けた。2007年に浜松教会にて受洗(霊名マリア)。

高齢になってからも趣味活動を続け、地域でも豊かな人付き合いを続けていた母であったが、体力の限界もあり活動から一つずつ引退していった。2011年に顔面神経麻痺を患ったのを機に、少しずつ身体的な制約が加わり、これまで一人でこなしていた家事も、掃除→買い物→調理と、少しずつ私が手伝う部分が増えていった。それでも洗濯だけは私の衣類も含め、一人でがんばって続けていた。

教会へは私が同伴してときどき赴いていたが、次第にミサ参列が難しくなったので、自宅での短い祈りを日課にしていた。2016年に一度だけ、私と一緒に教会へ行き、山野内公司神父様から霊的指導をいただいている。そのときの神父様のご助言は、「死へ向かうことよりも、いま一日一日をどう生きるかを大切にしましょう」。

2017年1月19日から高熱が続き、薬の副作用か、一時は味覚異常で摂食できなくなり、慢性心不全を持っていたことから予後が危ぶまれたが、味覚が正常に戻るに連れ、本人の努力もあって食欲が回復した。要介護3の状態になり、ADLも低下したとは言え、自宅内ではときどき見守りがあれば身の周りのことがこなせるようになり、介護サービスを受けながら平穏な在宅生活を送っていた。私の手料理が美味しいと喜んで食べてくれることも多かった。「私は神様に生かされているんだね」と何度も話していた。

交替で来宅するホームヘルパーさんたちには、信頼してケアを任せていた。また、隔週で利用・滞在するショートステイの職員さんや他利用者さん、陽気で懇切丁寧な管理指導をしてくださる訪問歯科衛生士さんなどとも、意欲的にコミュニケーションを取り、春夏秋冬、楽しい日々を過ごしたことが多かった。昨年の誕生日には、「私、91かね。まだ若いな。もう少し生きなければ」と言っていたものだ。

2018年に入り、正月の餅も連日無事に食べ、気になっていた右上下の第三大臼歯(おやしらず)の抜歯を済ませて、復活祭が来たらこれまでと違う美味しいものでも食べようか、と話し、本人も楽しみにしていたのだが...

3月4日(日)の昼食(インスタントラーメン)を普通に摂り、私も休日だったので二階の部屋へ引き上げて仮眠。ところが15時に階下の母の居室へ行くと、「胸が痛い! さっきから呼んでいるのよ...」と言い、姿勢を転々と変えながら発汗、苦悶していた。すぐ訪問看護に緊急相談、無理せずに救急車を、との助言に従い、聖隷三方原病院へ救急搬送、16時過ぎに入院となった。循環器科の医師の診断によると、心筋梗塞で心臓が止まりそうな状態。カテーテル手術等の侵襲は年齢から難しいので、点滴と医療用麻薬(苦痛緩和)の処置になるが、一般的にきょう一日のうち、早ければ1~2時間とのこと。

急遽、母の大親友だったOさん(70代前半、女性)に病院まで来てもらった。二人で母と話しながら見守っているうちに、18時半ごろには応答がなく下顎呼吸になり、心電図モニターの表示が著しく不整、かつ弱くなったので、二人で手足を握ったりさすったりしながら看取りモードに入った。その後、ややモニターの表示が落ち着いたので、Oさんにお礼を言って帰宅してもらった。麻薬が奏効したのか、自分で枕の位置を直し、発汗のため上半身の布団を手で除けるなど、少し力を取り戻した感があった。

モニターは弱目ながら安定が続いたため、21時30分ごろにいったん帰宅しようと、母の手を握って、「一度、家へ帰るよ。明日必ず来るからね」などと言っていたら、母はかすれ声ながらはっきり、「行(い)っていいよ」と返してくれた。私が母から聞いた最後の言葉。これまでの母の姿勢から推し測れば、単純に帰宅して良いとの意味ではなく、私に「自分の道を進め」と、背中を強く押してくれたものだと思う。

翌5日(月)の朝、朝食・ゴミ出し・洗濯などを終えて、身支度が終わった直後、病院から「下顎呼吸が始まったので、すぐ来てください」との電話が入った。間髪を置かず車で出発して、雨の中、25分ほどで病院に到着。病棟に駆け付けたときは8時57分、母はすでに目を開けず、身体を動かす力も残っていなかった。

母の手を握り、「お母さん! 本当によくがんばったね。長い間本当にありがとう」と声を掛けると、それを聞いて安堵したのか、5分後の9時2分にモニターの数字がすべてゼロを示し、息を引き取った(医師による死亡確認は9時6分)。入院して18時間のがんばりを経ての収束。残念ながら自宅での「大往生」はかなわなかったが、推測する限り、ただ一人の家族である私に看取られて91年6か月の人生を終えた母は、まずは幸せだったと言えるのではないだろうか。

母から息子である私への最後の教訓は、一年以上前、すでに聞いてあった。「誰にでも心を開いて付き合いなさい」。母が日頃から実践してきたことだ。そのために地域から「人が好過ぎる」と言われたこともあったが、またそれゆえに多くの人から愛されてきた。

7日(水)にカトリック浜松教会で行われた通夜では、同じ町内で母と親しかったWさん(女性。教会の信者)が、母と交流した思い出を話してくださった。またショートステイ利用施設(地理的に教会から近い)の職員5人が、訃報を聞き駆け付けてくださった。

8日(木)、山野内神父様の司式により、教会で葬儀ミサから告別式。母本人の意思を尊重して、親族など母をよく知る限られた人たちだけに声を掛けて執り行ったので、「義理で弔問するその他大勢」もおらず、とても好いインティミットな別れの場になった。出棺の後、親族以外でも、Oさん夫妻、および、母の代母(受洗の母親代わりの役)の娘さんであるK教授(女性)と、前述の幼稚園で53~51年前、新任のとき私のクラスを担当したS園長(女性)とが、一緒に斎場まで行って拾骨までしてくださった。KさんもSさんも教会の信者で、晩年に受洗した母にとっては、教会共同体での数少ない友であったのだ。

強く、自分の信念を持って生き抜いた母の生活態度は、私にとってもこの上なく大きな学びであった。おそらく、これからも遺影(元写真の撮影者はOさんの旦那さん)を見るたびに、「行っていいよ」と励ます声を聞くことだろう。

ちょうど、5日も8日も雨になったことから、アイルランドの口碑(oral tradition)の中にあった言葉を思い起こす。

「一生を晴ればれと生きた善人ならば、帰天した日と葬儀の日は、浄罪(天国へ行く前に、生前の罪を償って清めること)の日なので雨が降る」

母の一生を振り返って、まさにこの言葉が当てはまるなあ、と勝手に解釈している。イエス‐キリストの足元に膝まづきながら、生前のいくつかの小罪を改悛し、それから神の国へ旅立ったのではないだろうか。

悲しさや寂しさは免れないが、家族としてもっとも身近にいた人の生きざまを範としながら、今後、私自身も強く生き抜いていけるよう、心を新たにしたい。

2018年1月30日 (火)

永遠のローマ?

家の中を整理していると、思いがけないものを発見することがある。

昨年末、冬になったので防寒具を出そうと、あまり出し入れしなかった引き出しを開けてみたところ、奥のほうにしまい込んであったものを見つけた。

それは、画像のマフラーである。

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17年前、ローマへ巡礼したとき、西欧は4月下旬にもかかわらず、季節外れの寒波に見舞われていた。到着して早々、マフラーを持って来れば良かった! と後悔した私は、取り急ぎ、カゼをひかないうちに調達しようと、衣類を扱っている店に立ち寄ったのだが、店の人からは、もう時期的にマフラーを置いていないと言われ、

「サッカーの店へ行きなさいよ!」

と告げられた。そもそもサッカーに縁のなく、サポーターのグッズについて無知だった私は、聞き間違いかな?と思いながら、半信半疑でサッカー用品を扱う店を訪れ、マフラーがあるか尋ねたら、店の人がこれを出してきたのだ。

「ここはローマだから、ローマ(=ASローマ。セリエAのクラブチーム)のマフラーを買ってくれ!」

こう言われたので、とにかく何か襟巻の類さえあれば良かった私は、一も二もなくこれを購入した。

さて、このマフラーを首に巻き付けてローマ市内を観光していると、現地の若い人たちがこれに注目したらしく、近くに寄ってきた。

「あなたは日本から来たの?」

「そうだよ」

「なら、ナカタの応援に来たんだな。きのうナカタが一点入れたぞ!...」

早い話が、当時ASローマで活躍していた中田英寿選手を応援するためにイタリアまで来たものと、勘違いされてしまったのだ! 「いやいや、私はただの観光客なので...」とその場を逃れたのだが...(^^;

イタリアではサポーターたちの地元クラブチームへの思い入れは、相当熱が入っているようだ。ま、「永遠のローマ」の象徴であるオオカミのシンボルを用いているこのチームは、日本のJリーグのチームよりもずっと歴史が古いのだから、当然かも知れないが...

そんな面白いエピソードを持つ一品だが、帰国後、大切にしまい込んで、使わないままになっていた。先の12月になって、偶然これを発見したので、寒波が厳しいこの冬の防寒具として重宝している。

さすがに日本では、サッカーのサポーターおじさんと間違われることはないだろうが、私がこれを着用して道を歩く姿は、若い人たちの眼には結構アンバランスに映っているかも知れない。

当分、冬の間は「永遠のローマ」仕様で行こうかと思っている(^^)v

2018年1月 3日 (水)

年末年始の過ごし方

2018年、明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

さて...

正月三が日も大事なく過ぎそうであり、明日からは仕事モードになる。特段のことが起こらない限り、私の年末年始の過ごし方は、ここ数年、パターンがほぼ定まっている。

12月28日に仕事納め。

12月29日から冬休みで、まずは部分的に掃除。いろいろ事情があり、この時期に大掃除を集中的にはやらないことにしている。とは言え、家の片付けなど、前日までになかなかできなかったことをこなすのは、この日になる。今回は母が午後にショートステイから帰宅したので迎え入れた。

12月30日は短時間だけ事務所に出向く。今回はこの日に退院された利用者さんがいたので、居宅訪問して退院直後の状態を確認、ケアプランを更新した。

12月31日、年末最後のパン朝食。午前中に買い物。昼食は年越しそばを食べ、年内に済ましておいたほうが良い家事は午後から処理。夕食後、原則としてTVは見ずに、自分の精神の糧になる読書やDVD(またはBD)視聴をする。カウントダウンはTVでBSジャパンのジルヴェスター‐コンサートを鑑賞するのが定番。今回は母が別のTVでNHK「ゆく年くる年」を見ていたので、日付が変わってから新年のあいさつを交わした。

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1月1日、この日から朝食を餅に切り替え。カトリック教会の典礼暦では「神の母聖マリアの祝日」である。浜松教会では年越しのミサもあるが、こちらに出ていると母が就寝する時間になってしまうので、行ったことはない。今年は10時からのミサに参列、一年の始まりの日に、神から与えられた自分の役割を思い起こし、気持ちを新たにするひとときだ。仏教や神道の人たちにとっての「初詣」とはちょっと違う面もあるが、重なる部分もあるだろう。帰宅後は地元浜松の総菜屋から購入したおせち料理で昼食を摂るが、品目が多彩で十分楽しめる。夕方から日テレ(当地では静岡第一テレビ)の「笑点」2時間スペシャルを視聴。

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1月2日、朝はおせちの残りを食べ切り、午前中はゆったり過ごす。午後から短時間、事務所に出向き、たまっている前月の実績(各サービス事業者からの「利用者○○様には、この日にこのサービスを提供した」報告書面)FAXと、年賀状とを整理し、電話着信も確認する。今回は特段急用らしい着信もなかったので、手短に書類を処理して、夕方には行きつけの量販店へ立ち寄って今年最初の買い物を済ませた。

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1月3日、唯一の「外出しない日」である。よほど特別なことがない限り、この日は終日在宅。日中は読書やDVD視聴が中心。夜間はNHK総合の「ニューイヤー・オペラコンサート」を視聴するが、最近は夕食時間の関係で、録画で鑑賞することが多くなっている。また、今回は1月中旬に他県へ出講予定であるため、その準備もした。明日からやらなければならない用務を、怠りなく進められるように、少し先まで予定を確認しておく。

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毎年、こんな感じである。

この期間の夕食のおかずは、ほぼ手製の一品料理になっている。母と二人だから、それで十分なのだ。栄養バランスには配慮しているつもりだが、レパートリーもあまり多くないので、どうしてもパターンが限られてしまうのはやむを得ない。今回は12/30だけが地元店舗で冷凍販売している浜松餃子だったが、12/31がガーリックチキン、1/1がオイルサーディン焼き、1/2がビーフシチュー、1/3がえび・ブロッコリー・たけのこ炒めであった(それぞれ前掲の画像通り)。

正月休みに私が例年同様の生活を送れるのは、12/31や1/2に開店しているスーパーの店員さんや、医療依存度の高い利用者さん宅へ訪問してくださる看護師さんなどが働いているからこそのことである。連休の最終日であるきょうは、これらの方々に感謝しつつ、明日からの仕事に勤しみながら、ステイクホルダーのみなさんに少しでも満足していただけるように努めたいと、思いを新たにする日でもあった。

2017年12月30日 (土)

2018年もよろしくお願いします☆

この一年、私にとって二つの大きな「イベント」があった。

一つは、2月から母が要介護状態となり、唯一の家族である私が、ケアマネジャーの仕事を続けつつ、介護や家事をワンオペで担う状況になったこと。

もう一つは、6月に県や市の介護支援専門員職能団体における役職から引退して、業界では1999年以来18年ぶりに無役となったことだ。

もともと、2014年の春あたりから、母のADL(日常生活動作)が低下気味になり、私の行動がかなり不自由になったことは確かだ。特に静岡県レベルでの役職は(場所にもよるが、おおむね)片道一時間以上かけて静岡市まで出掛けなければならず、私にとっていささか負担になっていた。そのため、県ケアマネ協会の役員や事務局からは、会の運営に関して自己中心的、非協力的だと思われたこともあっただろう。二年前に退陣するのも一つの選択であったかも知れないが、諸事情により留任せざるを得ず、今年に至ってしまったのは遺憾に思っている。

さて、介護者としての制約と役職退任、この両者の相乗作用(?)により、私の行動範囲は大幅に縮小することになった。不在中の母の介護を確保するために短期入所生活介護を利用しないと、浜松から外へ出掛けることが難しくなり、かつ、職能団体の役職にあることにより他のケアマネジャーに先んじて取得できた「裏情報」の類が、退任後は入ってこなくなったのである。

この状況から生じる、私のアクティヴィティ低下リスクを補ってくれたのは、SNSのフェイスブックを中心につながっている、全国の業界仲間のみなさんであった。

SNSの優れたところは、全国に散らばっている仲間たちの動向をリアルタイムに近い形で把握できることだ。加えて、介護報酬改定に関係する省庁や団体の動きなどについても、そこに関与している、あるいは関心を持っている仲間がシェアしてくれることにより、最新情報や外部から知り難い情報を獲得することが可能になる。全く便利な社会になったものだ。

私自身、引きこもりにならないように、機会こそ減ったが、業界仲間のみなさんと会うことを心掛けた。8月(浜松)や10月(東京)の飲み会は、私自身が仕掛けた交流の場である。SNSでつながっているとは言え、離れた土地に住んでいる人たちはそれぞれ多用であるから、こちらが受動的な姿勢でいるとなかなか会って話してもらえない。NHK大河で脚光を浴びたかもしれないが、浜松は便利な都市に映りながら、わざわざ立ち寄るとなると、案外素材に乏しい町でもある。

したがって、当地に居ながら情報弱者にならないためには、自分から人が集まる場を作ることは大切である。裏を返せば、(介護負担の分量にもよるが、)介護者として行動が不自由、不便になっても、アクティヴィティを持ち合わせていれば、交流の機会は訪れるのだ。

このことを実感した一年であったので、来年は可能であれば、昨年同様何かを企画して、浜松に人寄せすることを検討したい。主題はやはり、介護業界全体を覆っている「人材不足」あたりになるだろうか。

実現するかどうかは、母の体調や私自身の体調にも左右されるが、現場でさまざまな取り組みをしている人たちが集い、知恵を出し合う場ができればと願う。企画も一人では荷が重いので、協力してくださる方も必要になるだろう。

2018年。分相応なことしかできないにせよ、力の出し惜しみだけはしたくない。

こんな私ですが、来たる年にも変わりなきご声援やご交誼を、よろしくお願いします。

2017年12月19日 (火)

「浜松のラーメン」以外なら...

当地・浜松が本店のラーメン店に関しては過去二回、県都・静岡市のラーメンも一回、当ブログのエントリーで紹介しているが、浜松や静岡に限らず、周辺地域にも美味しいラーメン店はいくつも存在する。とは言え、用事がなければなかなか足を向けることもない。

この機会に、最近一年ぐらいに入店した中で、自分が美味しく感じた店をいくつか挙げてみよう。

島田の「ル‐デッサン」、シャモだしの醤油ラーメン。

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フランス料理のシェフを長く勤めたオーナーが経営する異色のラーメン店。店内がとてもおしゃれで、他の店では味わえない独特の雰囲気と味覚がある。ローカル局で紹介されたのを見て、一度ぜひ行きたいと思い、所用で島田へ赴いた際に好機だとばかり足を運んだのだが、期待を裏切らない出来であった。次に行けるのはいつのことか...

袋井から浜松へ進出した(現在、本店は磐田)「破天荒・風雅」の黒ラーメン。味玉入り。

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浜松店は東区の旧東海道沿いにあるため、ときどき入店している。メインはつけ麺の店なので、夏はつけ麺にすることが多いが、中太の全粒粉麺を使っているので、ラーメンのほうも歯ごたえがあって美味しく食べられる。味玉の具合がちょうど私好みの味付けで半熟固めなのも好い。「破天荒」ではラーメンのベースが共通、あとは各店のシェフの工夫に任されているとのこと。

磐田市福田にある「地鶏ラーメン・一鳳」のいそ塩ラーメン+味玉。

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茨城の地鶏ラーメン研究会からののれん分け店だが、独自の味を工夫している。特にいそ塩は北海道の昆布だしと宮城の岩のりを使用、トロミ感のあるスープがたまらない。メンマが大きめに切ってあって軟らかいのにも満足。車で30分以上かかるのにもかかわらず、年数回出向いている店はここ一軒ぐらいだ。

静岡県ではないが、隣県・三河の「丸源」肉そばも掲げておこう。

Marugennikusoba

全国展開して多くの店舗を抱えているので、ご存知の方も多いだろう。私がときどき行くのが浜松住吉店。看板の肉そばのみならず、醤油、醤油とんこつ、旨塩、どれも秀逸である。ただ、店員さんの掛け声が元気過ぎるため、私にとってはやや苦手で、間遠になっている。グレードはどの品も標準以上で、十分に満足できる水準だ。

他にも、私が知らない人気店がいくつもあると思うので、浜松周辺の方は、ぜひご教示いただきたい。自分の健康(?)のためにも「ラーメン道」を楽しみたいと考えている。

2017年12月18日 (月)

浜松の「ラーメン以外」なら...

この三年ほど、月に10回以上の割合でラーメンを食べているが、もちろん外食がすべてラーメンだというわけではない。

浜松には和・洋・中・アジア・ラテンアメリカなどの各種料理店が百花繚乱で、選ぶには事欠かないのだ。

当地を来訪される方の便宜を意識して、事務所近くの店で、私が比較的よく食べる品目を紹介しておこう。

まずは事務所から東へ徒歩15分ほどのところにある、「東勝軒○秀(まるひで)」のつけ麺。

Toshokentsukemen

つけ麺をラーメンの一形態に分類する人がいるかも知れない。日本におけるつけ麺の隆盛は、この店の大師匠である「大勝軒」の故・山岸一雄が、東池袋で「もりそば」の名称で開発したことが契機となったものであり、いまや全国でさまざまなつけ麺の店が味を競っている。この「○秀」は東池袋の大師匠の味を継承しながら、スープをより濃厚にして油膜で冷めないように工夫するなどのイノベーションを果たしており、冬は特に美味しく感じる。

次に、駅から北へ徒歩3分、「山西刀削麺(とうしょうめん)」の麻辣刀削麺。

Sanseitoushoumen

ラーメンとは異なり、断面が不ぞろいで食感のある極太麺が特徴的で、熱々のスープにとても好く合っている。中国人のオーナーシェフさんだとのことで、現地のホンモノを浜松で味わえるのは幸運。

こちらは、駅に隣接するアクトプラザ5階、「サゴー浪漫舘」の天丼。

Sagoromankantendon

宴会料理もランチも浜松地元の食材が中心。この天丼は、野口英世さんを出してお釣りがくるリーゾナブルな値段。ここでは宴会料理も浜松らしい組み合わせのものを提供しており、業界仲間とはたまにご一緒している。8月には開業16周年を口実にした飲み会も開催した。

それから、同じアクトプラザの地下にある「クマール」のアールーサーグ。

Kumarcurry

ほうれん草とじゃがいものカレーで、長く愛好している。昼食でカレーを食べるのは道筋の関係でこの店ぐらい。オーナーのクマールさんはインドのブッダガヤのご出身で、浜松で4か所ほど店舗を経営し、本場の味を客に楽しませてくれる。アクトプラザの店では年一回程度だがディナーを摂ることもあり、そのときはシュリンプ‐ビルヤーニーとサーグ‐マトンを注文するのがおおむね定番となった。

最後に、市内だけで13店舗を展開する「五味八珍」の浜松餃子。

Gomihattingyouza

浜松餃子と言えば、もやしが添えてあるものを思い浮かべる方が多いかも知れないが、もやしは必須ではなく、大切なのは豚肉やキャベツなどに地元の食材を使うことだ。駅ビルのメイワン店などの各店舗では、もちろん浜松餃子を食べられるのだが、ここでは冷凍餃子を家庭向けに販売しているので、私もときどき購入して、家で調理している(画像)。トリセツに書いてある通り、仕上げにゴマ油を垂らすのがミソ。

以上、ラーメン以外で比較的食べる機会が多い(...と言っても、ラーメンに比べると少ないことも事実だが...)品目を紹介してみた。

他に、私はめったに食べに行かないが、浜松には古くから永住する朝鮮半島の人たちや、ブラジルやペルーから移住している労働者も多いので、駅近くや集住地区には韓国料理や南米系料理の店も散見する。多様性も当地の大きな魅力の一つだ。

食文化の発展が、そのまま町の発展に結び付く浜松であってほしい。

2017年11月22日 (水)

得難い体験

原因は自分の失敗であっても、損失を補って余りある成果を得られることがある。今回のエントリーはそんな話だ。

17日に、豊川市介護保険関係事業者連絡協議会会長・平田節雄さんからのご依頼をいただき、同団体の全体研修会において、『口のきき方で介護を変える』に関する演題、「人と人との会話」についてお話をさせていただいた。

平田さんは浜松でお仕事をされていたときからの旧知の方で、昨年のジョアン開業15周年のつどいには、ご多用にもかかわらず駆け付けてくださっている。今回は協議会の役員さんたちと検討される中、介護の現場で使われる会話の重要性が主題になり、著作もある私にオファーくださったとのことである。

この演題では、これまでにも何度か出講しているが、時節の変化に合わせて部分的に内容を変更している。とは言え、根幹の部分が揺らぐものではない。

本ブログの読者であればすでにご存知の通り、私が「話し言葉」だけを独立させて論じることはない。介護に従事する人たちの職業人としての基盤がしっかりしていなければ、仕事で会話術を活用できないと考えているから、心構えや姿勢の話が前面に出る。

20171117toyokawa2

講演の途中で三回ほど、参加者のみなさんに、近くの席の方とディスカッションしていただく機会を設けた。研修は講師が一方的に話すのではなく、それぞれの体験から分かち合うことも大切だと思っているので、演習に代わるものとして短時間のディスカッションをはさんだ次第だ。

参加者の中には、現実の会話のしかたよりも、理想・理念ばかり話していると思われた方があったかも知れないが、私の側は、実践できない理想・理念を話しているつもりは毛頭ない。多くの参加者にとって、たとえ一部分、一節でもお役に立つ内容があれば、活用していただきたいと願っている。

さて、実はこの会場とつながっている公共駐車場に車を停めようとしてバックした際に、不覚にも死角に入った鉄柱の位置が目に入らず、衝突して物損事故を起こし、後部のガラスが大破してしまった。

駐車場管理会社に謝罪し、担当者の方に立ち会っていただき現場を検分した。その際、担当者の方から、このまま浜松まで帰ると、ガラスの破片で後続車に損害を与える恐れがあるから、レッカー車を依頼したほうが良いとの助言をいただき、損保会社に事情を説明して、レッカー車を派遣してもらうことになった。

しばらくして株式会社EXCELなる業者のレッカー車が来て、担当の山本さんという40代半ばの方が、私の車を積載してくださった。原則として運ぶのは車だけとのことだったが、いつもの整備屋で代車を借りないと自分が困ると保険会社に要求して了解を得たことを盾に、無理にお願いして助手席に同乗させていただいた(...ので、同乗に至ったのは山本さん側の責任ではないことを付言しておく)。

ま、経過はともあれ、現場から整備屋までの約一時間半の行程で、全く異なるクルマ業界の山本さんと、ディスカッションする機会を得た。

そのとき、山本さんが語ってくださった内容が、まさに私が先刻、介護事業者のみなさんに対してしゃべった内容と、基本部分を共有していたのだ。

20171117toyokawa3

具体的には「顧客本位の応接、気配り」「説明責任」「コミュニケーションの中での気付き(コーチング)」「職場仲間の尊重」「仕事ができることへの感謝」などといった、当日介護業界のみなさんに対してしゃべったことを、そのままクルマ業界に置き換えればこうなるよね、と言わんばかりの話を、いろいろお聞きすることができた。

山本さんがご自身のプライベートなことも交えて話してくださったので、細かい内容は割愛するが、氏が終始、敬語で話され、タメ口などきかなかったことは明記しておく。

「人」ではなくクルマという「モノ」を直接のサービス対象にする業界の現場最前線でも、意識の高い中堅社員なら当たり前のように、これらの項目を実践されていることには、大きな刺激を受けたのが正直なところだ。

クルマ業界でもこういう方がいるのだから、ましてや、「人」に直接向き合う介護業界で、これらができていない中堅職員(たとえば主任介護支援専門員)は、恥を知るべきである。

もちろん、理想通りにはいかないのが世の常で、山本さんもご自分の側では意識して取り組んだつもりでも、顧客や後輩職員から受け止めてもらえなかったご経験も含め、正直な実感を話されていた。業界は違えど、人間関係の円滑化や人材育成に難しさが伴うことは、共通の悩みであろう。

また、クルマ業界では、大手はともかく、中小企業では労基法遵守は不可能に近いようである。多くの事業者では、厳密な法令遵守ができるところまで人員を増やせば、社員の生活が苦しくなるほど人件費を切り詰めないと、経営していけない状況だとのことだ。私たち介護業界でもクルマを活用しているが、知らずしてこのような多くの企業に「無理」を強いている現実を忘れてはならない。

アクシデントから生まれたディスカッションであり、損保の保険料が次年度はおそらく数万円上がることが予測されるので、財政的には確かにダメージではあった。しかし、自らの家庭事情による制約から、他業種の人とまとまった時間を取って語る機会がほとんと無い現在の私にとって、この一時間半は、お金では買えない貴重な学びの時間であり、得難い体験であった。

山本さんには心から感謝して、今後のご活躍をお祈りしたい。

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