日記・コラム・つぶやき

2019年7月 3日 (水)

人を傷つけて稼ぐのがそんなに楽しいか?

誤解なきようにお断りしておくが、このタイトルは、殺傷事件の犯人などが自らの事件に関する手記や著作を発刊して稼ぐことを意味するものではない。

あくまでも合法的な方法の範囲内で、他人を不幸にしたり苦しめたりすることで、収入を得ている人(たち)のことだ。

このテの人や組織には三つぐらいのパターンがある。一人の人や一つの組織が複数のパターンを兼ねている場合もある。

(1)差別したり侮蔑的に捉えたりしている属性の相手を貶め、自分(たち)に同調する人たちの賛同を集める

(2)情報弱者に対して、自分(たち)の一方的な評価に依拠した、信頼性や実効性に乏しい情報や物件を売る

(3)偏った過激な主張を掲げ、標的を定めて罵倒・攻撃し、自分(たち)に同調する人たちの賛同を集める

(4)その他(品薄のものを買い占めて転売するとか、虚構のブームを煽って品物を売るとか、...etc.)

この人たちの「稼ぐ」手法はさまざまだ。おもに、(1)はブログ・動画を用いたアフィリエイト、(2)は有料サロン等の会員制組織の運営、(3)は賛同者からのファンディングが主流だが、それに限らず、複数の手法を組み合わせて「稼いで」いる人たちも少なくない。一部では、違法性を疑われかねないギリギリのところまで手を出す連中も存在することが知られている。

この人たちに共通するのは、既成の権威やシステムを誹謗中傷、罵倒して、あたかも自分たちが時の人、正義の人であるかのように振舞うことだ。その点では悪質な一部の(あくまでも一部である)新興宗教にも通じるものがある。また、自分たちの手法の結果として起こったことへの社会的な非難を浴びても、責任を取らない、または責任を取ったポーズだけ見せて逃げる点も共通している。

多くは善良な社会人であった、貶められた人たちや、価値のないモノを買わされた人たちや、標的にされ攻撃された人たちが、どれだけ傷つこうが、自分(たち)の知ったことではない。限界が近付くまではやりかたを改めないし、そろそろ限界だと思えば早々に見切りをつけて撤退し、恬として恥じることなく、また新たな手口で同様な行為を繰り返す。

私は最近、自分自身で情報発生源を探り、自分の頭で妥当性を考える癖が付いているので、この類の人たちには引っ掛かることはめったにない(と思っている)が、それでも一時的、部分的に評価する場合はある。もちろん、大枠で「偽物」だと判明した時点で、基本的には信頼しない(ただし全否定ではなく、真に価値のある見解があれば、それに限って評価する可能性はあるが)。

この人たちは私の言葉などに対して、どうせ聞く耳を持たないだろうが、それでも言いたい。

「あなた(たち)は、人を傷つけて稼ぐのがそんなに楽しいですか?」

人の幸せを願って日々仕事をしている私たちの職域から眺めると、この人たちは全く異質の存在にしか見えない。なぜ、そのような生き方ができる社会になってしまったのか? 私たちも三思する必要があるだろう。

2019年5月21日 (火)

それが「諦める」理由なのか?

先日、亡き母と親しかった方(女性)と、短い時間であるが、話す機会があった。

この方は年齢70代初めで、旦那さんと二人暮らしである。内蔵的な疾患は持っているが、いまはご夫婦とも元気で、畑仕事や趣味活動には前向きに参加している。

この方には娘さんがお二人、どちらも40代前半で独身なのだが、娘さんたちについてこんなことを語っていた。

「うちの長女(会社の中間管理職)は仕事を仕切っていくのが忙しく、ご縁が無いのよ」

「下の娘さんはどうなんですか?」

「二女(病院の中間管理職)も多忙なのに加えて、自分が看護師だから、いろいろなことがわかってしまっている。いまの自分の年齢だと、出産しても障害を持つ子どもが生まれる確率が高い。だからもう結婚も諦める考えになってしまっているの。もし将来、ご縁があるとしても、育児とは関係ない『パートナー』ってことになるのかな」

それが二女さんの正直な気持ちであれば、十分に理解できるし、ネガティヴに評価するつもりは全くない。

生まれてくる子どもが障害(種別はどうあれ)を持っていれば、親の負担は大きい。介助に要する時間や費用、補助具の調達等の生活環境整備に要する時間や費用は、障害の程度にもよるが、「健常者」の子どもたちに比べると大きなものがある。特に、夫となった人が、仕事の多忙などにより障害を持つ子どもの養育に十分協力してくれない場合、妻の側が一人で抱え込む事態にもなりかねない。

この二女さんが「結婚・出産・育児」を諦めた真の理由は、ご本人に会って話してみないことにはわからない。しかし、医療の専門職である以上、「命」の重さに格差があるなどと考える人では決してないだろう。また、高齢出産で障害を持った子どもが生まれると決まったわけでは全くない。

本来、障害を持つ子どもが生まれてきても、親とともに社会でその子たちを支えていくことが、日本が目指す「高福祉」の理想だったはずだ。しかし、現在の日本社会は、その理想とは程遠いところにある。残念だが。

だからこそ、この二女さんの「諦め」を助長することにもなってしまうのであろう。

もし、障害を持つ子どもが生まれても、確実に支えてもらえる社会であれば、この二女さんの選択も、異なったものになるのかも知れない。

そんなことを思ってみる。

2019年4月 9日 (火)

母の追悼を終えて

去る4月7日(日)、母の帰天一年のつどいを開催した。

はじめは曇りがちの天気だと予報されていたので、心配していたが、当日になってみると、朝から夕方までずっと「晴れときどき曇り」であり、イベント向きの日になった。昨年のエントリーでも述べたが、母の場合は亡くなった日と葬儀の日とが「贖罪のため」の雨天であり、そのあとは納骨式も、命日の墓参も、そしてこの帰天一年のつどいも、すべて好天に恵まれている。一生を晴ればれと生きた母にふさわしい。

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開始時刻は11:20と、午前の遅めの時間帯に設定した。叔母夫妻が、また従姉妹たちも多くは夫妻そろって、名古屋、津島(愛知県)、桑名(三重県)、そして遠くは郡山(福島県)から駆け付けて、母のために祈ってくれた。いつも親族が睦み合うことを願っていた母にとっては、とても嬉しいことだったに違いない。

墓参のあとは、母もご縁があった墓園近くのイタリア料理店「ラ・アリタリア」で会食。納骨式のときにも同じ店を選択。12名であったが、店側のご厚意で貸し切りにしてくれた。

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ここは上質な素材を使った(ソースに頼らない)料理を出してくれるので、満足度はたいへん高い。親戚一同が久々に集合したこともあり、お互いの近況を報告しながらの、賑やかな会食となった。

昼食は14:00に終了。車で来た人たちには自宅へ寄ってもらい、お茶とお菓子でしばし休息。叔母や従姉妹には、母の遺した衣類のうち、リユースできそうなものを持って行ってもらった。いわば「形見分け」である。自分が確保していても宝の持ち腐れ、箪笥の中で埃をかぶっているよりも、身内に活用してもらうほうが良いに決まっているから。

15:30になって散会。親戚たちはそれぞれ東名・浜松西IC(家から車で5分)経由で帰って行った。

これで母の追悼は一区切りである。仏教なら三回忌、七回忌と重ねるだろうが、カトリックには特段その習慣はない。個人的には、これからも母の生きざまを決して忘れないだろうし、折々の節目に墓参したり祭壇の下を飾ったりするだろう。他方で、故人を追悼する一連のセレモニーには幕を引き、自分自身が力強く生き続けることが大切なのだ。

次の展開は、私にとって未知の世界になるのかも知れない。どの道を進むにせよ、いつも神のお恵みあれかしと祈りながら、日々を送りたいと思っている。

2019年4月 2日 (火)

元号あれこれ

新しい元号「令和」が発表された。

私自身はクリスチャンなので、公的な文書以外は原則として西暦を使っているが、決して長い伝統を持つ元号の意義を否定するものではない。令(よ)き和(やわら)ぎを求めて、国民が力を合わせていくことにより、望ましい社会が建設されることを願いたい。

これまでの元号の数は膨大であり、日本だけを振り返っても「令和」は248番目となる。これらの元号すべてを頭の中で西暦に置き換えることは、常人には不可能に近い。それができる人は日本中探しても数えるほどではないだろうか。私自身、昭和、大正、明治、慶応、元治...とさかのぼって、宝暦(元年は1751年)辺りまでがやっとである。それ以前では、享保、元禄、寛永、慶長、天正など、特筆すべき事件などがあった元号だけは、何とか西暦と対照できるのだが...

さて、その多彩な元号の歴史の中から、いくつか興味深い話題を紹介してみよう。

(1)政変に始まり、タタリに終わった「延喜(901-23)」

醍醐天皇の元号。後代、「延喜の治」と理想化された天皇の時代であったが、実際に醍醐天皇がどの程度力を発揮できたかは明瞭でない。むしろ、この時代は菅原道真が大宰府へ追放された「昌泰の変」直後の、物々しい政情のうちに始まった。そして道真は没後、平安朝で最大級の「怨霊」になってしまう。政敵の藤原時平が若くして死去。他にも道真と敵対した人々が次々と不運な死を遂げ、醍醐天皇の皇太子・保明親王まで若死にするに至って、朝廷は道真のタタリに全面降伏する事態となった。長く続いたこの元号もついに終焉、「延長」に改元されている。

(2)強引に改元するも失政で崩壊した「建武(1334~36/38)」

後醍醐天皇の元号。配流先の隠岐から帰還して鎌倉幕府を打倒した天皇は、簒奪者・王莽を滅ぼして古代の漢王朝を再興した光武帝(世祖)に自らを擬し、臣下からの「武」字を回避すべしとの進言を退けて光武帝の元号「建武」を転用、「建武の新政」を開始する。しかし時代錯誤の武士軽視や土地の配分の失敗により、世論は天皇に背反し、足利尊氏をはじめとする諸国の武士が離反したことにより、新政は二年で崩壊、天皇は早々に「延元」と改元してしまった。面白いのは離反した武家側が担いだ北朝の光明天皇の朝廷がしばらく「建武」を使い続け、南朝より二年半も遅れて「暦応」と改元していることか。

(3)延々と改元させてもらえなかった「応永(1394-1428)」

後小松天皇・称光天皇の元号。歴代元号のうちでは昭和、明治に次ぐ三番目の長さである。実はその前から改元は2~3年ごとに行われ、将軍・足利義満は嘉慶、康応、明徳と続く代々の元号制定に事実上の決定権を行使してきた。ところが明徳のあと「洪徳」を提案したところ、朝廷側から「洪水を招く字はよくない」とハネられてしまった。怒った義満は、改元された「応永」を「改元させない」ことで権力を誇示する方策を採る。これは次の将軍・足利義持にも受け継がれ、称光天皇は即位して代替わりしたのにもかかわらず、16年も改元できずに過ごし、義持の没後ようやく「正長」と改元できたが、それから三か月で亡くなってしまった。

(4)改元していきなり不吉な事件が起こった「嘉吉(1441-44)」

後花園天皇の元号。辛酉の年に当たり、政治的変革を回避するため、前の元号「永享」から改元された。ところが改元してわずか4か月後、良い元号とは裏腹に、政権の最盛期にあった将軍・足利義教が播磨守護家の隠居・赤松満祐に暗殺される大事件が勃発。混乱した室町幕府では、実力者の山名持豊(宗全)が中心となって出兵、満祐を攻め滅ぼすことができたが、後継の将軍・足利義勝は間もなく10歳で死去。その次の将軍が決まらないまま(数年後に足利義政が就位)、民間では「公方を欠きつ」と皮肉られ、ほどなく「文安」に改められている。

(5)中国から「直輸入」した「元和(1615-24)」

後水尾天皇の元号。大御所・徳川家康は大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼした後、「禁中並(ならびに)公家諸法度」を朝廷に突き付け、今後は原則として中国の元号のうち吉例を勘案しながら直輸入することとした。こうして選ばれたのが唐の章武皇帝(憲宗)時代の「元和」で、帝が安史の乱以降の地方政権乱立状態だった唐王朝を、一時的ながら再統一した時期の元号なのである。戦国時代が終焉して「和を元(はじ)む」の意味もある。しかし、朝廷側有識者の反発は強く、改元後一年も経たずに家康が没したこともあり、将軍・徳川秀忠は次の改元「寛永」から態度を軟化させて、朝廷が提案した日本の独自元号を幕府が追認する形に事実上改めた。

(6)災害続きのため土壇場で姿を消した「明和(1764-72)」

後桜町天皇・後桃園天皇の元号。『尚書』堯典の「百姓昭明、協和万邦」から採っており、「昭和」と同じ出典である。老中・田沼意次が政権基盤を固めていく時代。ところが田沼の不運は、在任中にしばしば災害(天災・人災)に見舞われたこと。その最初が明和九年(1772)に発生した江戸の大火だった。加えてこの年には風水害や疫病も起こったため、識者から「メイワクネンは迷惑年」だとの議論が勃発し、朝廷も幕府も凶事を回避する動機から、年末に至って「安永」に改めている。

(7)まぼろしの元号「令徳」

孝明天皇のとき、1864年に提起された元号案。甲子の年に当たるので政治的な変革を避けるために改元が提案されたが、孝明天皇側から示された第一案が「令徳」で、第二案が「元治」。出典はともかく、令徳の真意は「徳川に指令する」、元治の真意は「はじまりの治世」であり、天皇の側に「王政復古」への強い意志があったことは明らかだ。幕府側はさすがに「令徳」は受け入れられなかったので、結果的に「元治」で妥協し、改元された。もしこのとき「令徳」が採用されていたら、「令和」を待たずに「令」の字を冠した元号が登場していたかも知れない。
なお、「令和」の「令」は旧暦二月の美称「令月」の「令」であり、「よい」「うつくしい」の意味なので、誤解なきように。

以上、元号にまつわるエピソードをいくつか紹介したが、長い元号の歴史の中には、他にも私が知らないトピックがいろいろと存在したであろう。また機会があれば、それらを拾い上げてみたい。

2019年3月26日 (火)

ダメなコンサルの見分けかた

経営コンサルタント(以下、「コンサル」という)なる職業がある。

私が身を置く介護業界でも、昨今の制度改正...と言うよりむしろ改悪による、事業経営の厳しさを受けて、コンサルに対する注目度は高まっているようだ。

ところで、これは(ケアマネジャーも含め)どの職種にも言えることだが、コンサルも資質・能力の落差が大きい。

残念なことに、私が過去、仕事上で出くわしたコンサルは、いずれも能力に問題ありと言い切って差し支えない人物であった。宮仕えのときから現在に至るまで、コンサルを名乗る何人かの人物とさまざまな形で接触する機会があったが、「これはダメだな」「このテの人とご縁を持ちたくない」と感じた人ばかりだったと記憶している。早い話が、コンサルとしては用無しの人だ。

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むろん、そのレベルの人ばかりではなく、優れたコンサルも数多く存在する。実力十分であるコンサルの方に出会えた法人や事業所は、好いご縁によって良い仕事ができる可能性が強い。幸せであろう。

しかし、玉石混淆の中から見分けるのは、なかなか難しい。

そこで、あなたが事業経営者や事業所管理者の立場にあり、組織を代表してコンサルを依頼することになった場合に、ご参考にしていただける、ダメなコンサルの見分けかたを伝授しよう(^^)v

(1)財布のヒモをゆるめないコンサル

「ケチ」と同義語ではない。節約して効果的にお金を使う、良い意味での「ケチ」はむしろ評価されるべき。ここでは、「初期投資をしない」意味に取ってほしい。
まずは、あなたが自分の会社や事業所で作った製品(なければ、著書でも自作のアイディアでも何でも良い)をコンサルに売ってみよう。ちゃんと自分がお金を出して入手した上で、その価値について論評するのが有能なコンサル。〔モノによって、すぐ買えるもの、購入しにくいものの差異はあるにせよ、〕その商品を端(はな)から買う気がないコンサルは、「おたくの組織に関心を持っていません」と言っているのに等しい。本気度を疑うに十分だ。

(2)組織の内部に入って観察しないコンサル

コンサル選びで失敗する最大の原因は、たいてい「組織を外からしか見てくれない」ところにある。いつもスーツ姿で改まって来社・来所するのではなく、社員や職員と同じように地味な、またはラフな服装で事業所の中に入り込み、時間をかけて人の動きを観察しながら、課題の核心を抽出し、アセスメント(事前評価)するぐらいは、仕事の入口では当たり前だ。その姿勢に欠けているコンサルに頼るのは、あとで時間やお金の無駄遣いになる公算が大きい。

(3)働く人に敬意を払わないコンサル

まず、ステータス差別。たとえば会社の清掃員があいさつしても、あいさつを返さない人はレッドカード。それから、年代や性別による差別。たとえば20代の女性社員を軽く扱って「若い女の子」などと表現する年輩の人(おもに男性コンサル)などがこれに相当する。自分たちの世代の、それも特に男性に対する過剰な自負の意識を持っていれば、ニュートラルに社員・職員を観察することなどできない。
組織は働く人の集合体である以上、属性に関係なく、それを構成する全員が主役。一人ひとりの「人」を尊重しないコンサルに、組織に対して的確に助言できる資質があるはずはない。裏を返せば、そのコンサル本人こそ、自分自身が見下しているレベル程度の価値しか持たない人間なのだと、アイロニカルに評価するのが良いだろう。

(4)その事業の利用客を最優先に考えるコンサル

これは意外かも知れない。だが、利用客・顧客(≦その組織から見たステイクホルダー)満足度の向上は、その組織側の人間が考えることなのだ。コンサルの出番ではない。
コンサルが利用客最優先の指導・助言をしたらどうなるか? 利用客の要望を極大化させた理想論が先行して、働く人たちに無理を強いることも出てくるだろう。そうなれば職場に対する不満も増えて、サービスの質が低下する。
コンサルの仕事は、働く人がその職場で働きやすいように仕向け、働く人が余裕を持って利用客を尊重できる環境を作ることだ。ここを間違えているコンサルの指導・助言は、ピント外れになってしまう恐れが強いので、要注意である。

(5)地位の高い人物、著名な人物や団体との関係をチラつかせるコンサル

このテの話は、いわば「虚仮(コケ)脅かし」の類であり、実際には名前が出ている人や団体と有機的なつながりを持たない空虚な関係であることが多い。自分の存在を大きく見せたいがために、そんな話ばかりするのだ。ホンモノの大物コンサルから、そんな話はめったに出てこない。虎の威を借りなくても、おのずと品格や力量を備えているのだから。

以上、おもな点を掲げてみた。他にもあるのだが、それは機会を改めて。

このように整理してみると、この5条件、たとえば(2)(3)(5)は「ダメな主任ケアマネジャー」とも共通するし、コンサルに限った話ではない。人として、専門家として信頼に値するのかどうかは、業種や職種を超えて共通する面が多いようにも思われる。

ま、とにかく、こんな時代だ。あなたやあなたの組織が三流・四流のコンサルにダマされて、お金をドブに捨てる羽目にならないことを願う。

2019年3月 5日 (火)

一年の節目に

母が天に召されてから、早や一年になる。

息を引き取る直前の5分間。あのとき握った母の手の温もりは、いまだに忘れられない。

人生の締め括りかたは百人百様だ。母の場合、死をもたらしたのは急性疾患(心筋梗塞)であった。しかし、母はずっと前から周到に心の準備をしていたと思う。まだ家事ができていた時期にも、延命治療をしない方針や、万一の場合には従妹(母の姪)に応援を頼む段取りなど、私との間で少しずつ、終末に向けての決めごとを増やしていった。

2017年の1月末に、高たんぱくの飲み物しか摂取できず、寝たきり状態になったとき、「誰にでも心を開いて付き合いなさい」との言葉、遺訓を私に伝え、葬儀に誰を呼ぶか、呼ばないかについても私と相談した。そこから持ち直して食事が摂れるようになり、安定期を迎え、一年余も平穏に生き永らえた。実際に死が迫ったとき、母はいっとき動揺したかも知れないが、最終的には思い残すことなく、神のみ手にすべてを委ねることができたと信じている。

そんなことを思い巡らしながら、節目の墓参をした。前日までの雨続きがウソのような好天。

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平日なので、墓参に来る人もまばらだ。枯れた古い花を捨て、墓石を洗い、草取りをした後、新しい花を飾って、「主の祈り」「アヴェ・マリア」「栄唱」を唱える。静かな雰囲気の中で、母に、そして父にも、自分が力強く生きていくことができるように、神への執り成しを頼んだ。

「こんどは大勢で来るからね」と言って墓園を辞去する。来月には「帰天一年のつどい」と称して、名古屋の叔母夫妻をはじめ、身内の連中を招いて、墓参と会食をすることになっている。

昼食の時間、たまには少しの贅沢をと、「ステーキのあさくま」三方原店で、チキンステーキ+オニオンマスタード。ここは料金が高めだが、ごはんやパスタも含めたビュフェ式のサラダバーが無料で楽しめるのだ。

帰宅してから、そろそろ提出しなければならない確定申告の用紙を清書してまとめる。

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夕食のときには、母が愛好していた「丸一魚店」の品を祭壇の前に供えた。特にマグロのフレークは大好物だったので、店から行商に来た日には、母自身が毎週必ず購入していた。母の死後も、最低月一回は私が食べたい品を注文している。ヒラメの刺身やカキフライ(冬期)、カツオのたたき(夏期)などが定番だ。

さて、明日は「灰の水曜日」。カトリック教会では四旬節の入口なので、ここから節制の期間に入る。復活祭へ向けた心の準備が求められる。

母の遺訓を心に留め、日ごろの自分の振る舞いを省みながら、日々の仕事に勤しみたい。

 

2019年2月19日 (火)

寒い日の楽しみ(^^*

あまり多彩(多才)ではない私の趣味の一つは、週に2~3回手掛けている自己流の(...とは言え、一応汎用のレシピを参考にしている)クッキングである。他人にお裾分けできるほどの腕はないが、個人的に賞味するものは時間のあるときに努めて作っている。亡き母にも一応満足してもらえていたので、そこそこの水準かなと勝手に思っているが。

ただし、レパートリーがあまり多いわけではない。せいぜい20~30品目程度。また、鍋やフライパンを使う炒め物などに偏っていることも事実だ。

この冬、気温の低下は例年ほどではないにせよ、体感温度が低く感じられる日が結構多かったので、冬に温まることができる料理にいくつか挑戦してみた。

ベテランの主婦(主夫)から見れば、この程度は日常茶飯事かも知れないが、私にとってはそれなりに頭を使った品目だ。以下に紹介させていただく。

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まず、ありふれた一品。朝食用の「ぜんざい」である(上の画像)。これは生協の切餅とゆであずきとを使えば、ごく手軽に作ることができる。ゆであずきに水を加え、いったん沸騰させたら弱火で5分ばかり、焦げないようにお汁粉をかき回しながら作るのがコツ。

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次には、牡蠣とエリンギのアヒージョ(上の画像)。牡蠣は塩を擦り込んで洗ってから真水で洗うのが良いようだ。ポイントはにんにくと唐辛子とを最初からオリーブオイルに入れて香りを出しておくこと、油の量に応じて塩を加減すること、弱火で牡蠣がふくらむまで煮込むこと、などだろうか。

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それから、鶏肉のクリームシチュー(上の画像)。ルーは水で薄めた牛乳にコンソメを加え、ローリエで風味を出す。にんじんと玉ねぎは最初から煮込んだが、じゃがいもは形が崩れないために、弱火にする直前に入れてみた。逆にトロミを出したいのであれば、じゃがいもを早めに入れるべきだろう。鶏肉は先に軽く炒めておき終盤の段階で入れ、ブロッコリーは下ゆでしておけば、火を止める少し前でも良い。

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最後は、合いびき肉とマッシュポテトのグラタン(上の画像)。これは初挑戦ではなく、毎年一回ぐらいは作っているので、通算すると確か4回目ぐらいになろうか。ひき肉に玉ねぎとしいたけのみじん切りを加え、トマトケチャップでしっかり炒める。その上に牛乳に浸したマッシュポテトを載せ、チーズやパン粉やバターを置き、オーブンでしっかり加熱。皿をすぐに手でつかめないほどアツアツに仕上げる。

こんな具合に、寒い日には自分の間尺や嗜好に合う料理を作って楽しんでいる次第だ。

自己流のクッキングであっても、レパートリーを増やしていくことは、人間にとって欠かせない「食」に対する認識を深めることにつながり、人生の学びと潤いにもなる。中高年になるまで調理経験が無かった方、浅かった方(特に男性)には、最初は簡単なものからでも良いので、ぜひ一品か二品、折を見て手製の料理を作ってみることをお勧めしたい。多くの方にとって、自分の引き出しを広げる契機になるのではないかと思う。

2019年1月 8日 (火)

ちょっと違う正月風景

この正月の風景は、私にとって、これまでとはかなり異なったものになった。

学生時代、年末年始には家に帰省していたことを考えると、生まれて初めて、一人で迎える正月になったわけである。

最大の変化と言えば、今年はついに「おせち」を食べなかったことであろう。

母が自分でおせちを準備できなくなってからは、昨年まで数年の間、地元惣菜店「知久屋」が出している良質のおせち(12,000円)を購入し、母と二人で楽しんでいた。しかし母が世を去ったいま、一人では費用がかかり過ぎるので、終了することに。

かと言って、自分でおせちを作る気もなく、結局、持ち帰り寿司「すし兵衛」の藤寿司(1,300円。画像)を予約注文。元日、浜松教会のミサに参列した後に店で受け取り、自宅へ持ち帰った。

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これだけでは寂しいので、あらかじめ「丸一魚店」でカズノコ(画像)を購入。本来なら一箱単位、結構な値だったが、そこは30年以上買っているなじみの店、バラ売りにしてくれたので、9本(1,500円分)だけ購入した。黒豆や伊達巻などは市販の廉価のものにしたので、かなり節約できた計算だ。夕方には定番になった第一テレビの「笑点スペシャル」を視た後、夕食はあり合わせのものでテキトーに。

なお、朝は元日から餅を食べているが、これも今年からは、年末に搗いた米屋さんの餅ではなく、市販の切り餅に変更した。煮かたに気を付ければ、味に遜色はない。良い時代になったものだ。

2日の夕食。気分だけでもちょっと華やかにいこうと思い、タケノコ・ブロッコリー・卵をごま油で炒めて賞味。

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3日の夕食。やはり三が日に海老は欠かせない。年末に買ってあったものを冷凍食品の枝豆と一緒に塩炒めにした(ちなみに、毎年10月には冷凍ものではなく、本場・丹波篠山の黒枝豆を購入して食している)。夜はこれも定番になった、NHKの「ニューイヤー・オペラコンサート」を視聴。

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4~5日は営業日なので、すでに正月モードは終了。前月分の実績整理を中心とした仕事に埋もれる。夕食は加工品のありふれた食事で(笑)。

6日(日曜日)の夕食。冷凍庫にあった残り物の海老と、冷蔵庫にあった残り物の卵とネギを、そろそろ使ってしまおうかと思い、エビチリ&ふわ卵の一品にしてみた。

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7日からは全く通常モードになっている。

2019年の正月はこんな感じだった。少しは「新春」を意識しながらも、自分にとって一番適したスタイルで日々を送ることができるのは、一人暮らしの特権かも知れない。

これからも、あまり「型」に捉われない日常を過ごすことになりそうだ(^^*

2018年12月30日 (日)

年の瀬に

長いようで短かった2018年も、間もなく幕を閉じようとしている。

この一年は私にとって、大きな変転の年であった。

2月には、介護者との二足の草鞋を履いたために業務範囲を縮小していた影響で、利用者さんの数が13名と、事業所が存続できるギリギリのところまで減ってしまった。

3月5日に母が帰天(死去)。人生二回目(学生時代以来)の一人暮らしになる。

5月に母の納骨を終え、気持ちに区切りを着けたあと、事業所を建て直すために、市の要介護認定調査を受託することにした。

8月には開業17周年を迎え、ささやかな記念の飲み会。

9月。介護支援専門員の職能団体等で務めていた「公益性のある役割」からほぼ撤退してしまった以上、こちらをやらねばなるまいとようやく重い腰を上げ(笑)、初めて複数の地域包括支援センターから「予防支援の業務」を受託して、「公益性」を維持(ま、弁護士の先生が会からの割り当てで国選弁護を引き受けるようなものですかね(^^;)。

10月初めには台風24号の影響で、自宅の一部が壊れ、続く停電の余波もあって、数万円の損害を受ける。その程度で済んだのは幸いだったが...

12月に至って、「貧乏ヒマ無し」状態ではあるが、しっかり業績回復して(利用者さんは要介護の方が24名、要支援の方が3名)、食べていけるようになった。まずは一安心。

こんな一年だったが、順調に仕事が回っているので、終わり良ければ...の感がある。

さて、母の他界を契機にして、生活のスタイルを見直し、いくつかの部分で方向転換することになった。

そのうち特筆すべきなのは、母が好んで続けていた時節などの贈答を終了したことだ。お中元やお歳暮はこれまでも最低限の相手のみにしていたが、今回はその方々にも了解を得て、原則として今年で最終にすることになった。

地元の物産を差し上げたりいただいたりすることは、生活の中での楽しみではあるし、伝統的な一つの風物詩には違いない。しかし、贈る側、受け取る側の双方に負担がかかることも確かだ。特に私が受け取る場合は、他の家族がいないのだから、どうしても自分が決まった時間帯に在宅しなければならず、自由が制約されてしまう。

また、全国的に物流業界は人手不足なので、儀礼的な贈答を減らして、わずかでも働く人たちの負担を減らすことは、一つの見識であろう。

そんな思いから、これまでの慣習を変えた次第である。

来年は気分一新して、余力があれば新たな企画でもやりたいと考えているが、体力が許すかどうか、いまの時点では何とも言えない。しかし、これまで同様、全国各地の(特に若手の)業界仲間たちとは、お付き合いを広げていきたいと願っている。

こんな私ですが、2019年もよろしくお願いします(^^*

2018年11月26日 (月)

浜松周辺「塩ラーメン」の競演

ラーメン食べ歩きは私の楽しみの一つだが、最近は醤油、とんこつ、味噌などよりも、塩系のラーメンを食する割合が増えてきた。自分の嗜好が変わりつつあるのかも知れないが...

これまでにも述べてきたように、浜松周辺では個性的なラー店が百花繚乱の様相を呈しているので、もちろん塩系もいろいろな店が力作の一品を仕上げて待っていてくれる。

今回は、そのうち特に好きで頻繁に行く店を、4か所紹介しよう。

(1)『海老蔵』の「味玉塩らーめん/白」

有玉なので、東区でも中区・北区との境目に近い場所にある。地理的な条件から、月一回開催されるケアマネジャーの勉強会が終わったあと、夕食に立ち寄ることが多い。平打ちの太麺は腰が入って何とも歯ごたえがあり、「白」はかつお味の白濁スープで、そこに塩を利かせた味が巧みにブレンドされている。ボリュームがあり、大切りのチャーシューが豪快。味玉は私が知るラー店のうちでも随一で、このスープには実にマッチしている。

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(2)『破天荒・風雅』の「桜エビ塩」

東海道沿いで、天竜川駅の近く。以前は仕事の都合でこの方面に出向くことが多かったが、最近は買い物に前後して食事することが多い。よく注文するのがマー油味の「味玉・黒」だが、数か月前にこの「塩」の美味しさを発見。桜エビ本体は4つ程度だが、スープを飲むとエビの出汁が口の中いっぱいに広がる。中太縮れ麺は全粒粉麺なので、食欲をそそる一品でもある。桜エビ不漁のニュースもあり、この品が今後も続くかが心配。

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(3)『麺's Natural』の「鶏SOBA・汐」

萩丘なので中区でも北寄りに位置。事務所からはやや遠いが、北の方面へ仕事で出向いたときの昼食に利用している。フランス産の岩塩とトリュフ塩のスープで、他では味わえない独特の透き通った塩ダレを活用。豚のレアチャーシューと鶏チャーシューもバランスが好く、細麺の盛り付けも整っている。生醤油とブラックもあるが、個人的には「汐」がイチオシ。なお、ここは無化調の店としても知られている。

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(4)『けい蔵』の「煮干し中華・塩」

領家に最近できた店。ただし、この煮干し系は、師匠店の「武蔵」や兄弟子店の「なかの」で何回か食べている。それらの店では一時「99%煮干し」や「極煮干し」があり、私のテイストに合っていた。いまはメニューから無くなってしまったが、『けい蔵』の煮干し中華はそれを継承する一品。程良い煮干しの出汁が塩とマッチして海鮮風味を引き立てている。中太麺と細麺とが選択でき、どちらも相性は悪くない。

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この四品はいずれ劣らない味覚なので、他店の麺を交えながら、1~2か月の間に周回しながら食する習慣が身に着いてしまった。

塩系に限って言えば、少し遠い地域まで広げると、以前紹介した浜北区於呂『おえかき』の「ふわまる・塩」や、磐田市福田『一鳳』の「いそ塩」があり、それぞれ近くまで出向くたびに足を延ばしている。また、諸事情により未体験だが一度は賞味したい品として、北区細江町『貴長』の「塩ラーメン(あおさを練り込んだ緑麺)」など、他にも3~4品が挙げられるだろう。

総じて、浜松の各店が妍を競うように、美味しさを引き出した塩系のラーメンを創造しているので、食べる側としては選択に困らない状況である。ラー店の数やバリエーションに乏しい地域から見ると、うらやましい話なのかも知れないが、これも多様性の街である浜松の一つの楽しみとして、享受したいものだ。

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