日記・コラム・つぶやき

2024年12月30日 (月)

人材不足-現場からの雑感

2024年も間もなく終わろうとしている。

私が開業する準備に取り掛かっていた2000年末、自分自身が飛躍することへのワクワク感はもちろんだが、開始して間もない介護保険制度に対する期待も少なからず抱いていた。

あれから24年。四半世紀に近付こうとしているいま、その期待はなく、この制度の現実に対する大きな不安が目の前に横たわっている。

11月の時点で、介護事業者の倒産が過去最多になったと、メディアでもしきりに報じられた。訪問介護では介護報酬引き下げを契機とした単体での営業継続困難があり、通所介護や短期入所生活介護などを含めると、競争で大手事業者に敗れた中小事業者の撤退などが、おもな理由とされている。他方で、業務の担い手の減少により、退職者が出ても新規職員を採用できず、廃業のやむなしに至った事例も報告されている。

現場ではより強く体感するのが、年々深刻になる業界全体の人材不足である。

私個人の実感としては、〔全国的にも同様だが、〕当地の業界で最も不足しているのがホームヘルパー(訪問介護員)、次いでケアマネジャー(介護支援専門員)であろう。

前者については、事業所によって温度差がある。零細でも堅実な組織経営を行い、職員が働きやすい職場は、複数の責任者級の職員が中心となって長く続いており、〔将来はともかく〕当面は安定感がある。そうとは言い難い事業所では人員不足が起き、「以前は週N回行けていたけれど、今後は一回減らしてください」などと要請してくるところもある(…だからと言って代わりの事業所を探すのにも苦労するので、利用者さん側に大きな不便がない限り、なるべく同じ事業所で続けてもらうように努めている)。

後者については、自分自身がケアマネジャーであるだけに、身をもって痛感している。

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この数年間を顧みると、他の居宅介護支援事業所で誰かが退職した場合、地域包括支援センターが後任を探すのが難しく、私に担当を依頼してきた事例が相当数存在するのだ。

居宅介護支援および介護予防支援の契約者の中で、2018年は14人中4人、2019年は5人中1人、2020-21年は6人中1人、2022年は19人中11人、2023年は9人中1人、2024年は7人中2人。実に7年間で60人中20人! 新規利用者さんの三分の一は、「後釜のケアマネジャーがいないので担当してくれ!」という状況で、直接もしくは地域包括支援センターの仲介により、仕事を譲ってもらった「引き継ぎケース」なのだ。

私のような六十代半ばの一人親方であっても頼りにしていただけること自体は、ありがたい話ではある。しかし、これは前任者の職場で、ケアマネジャー(有資格者)の人事異動や募集による新規採用が難しかったことを意味している。そう考えると、先行きが不安にならざるを得ない。

当然、私自身もいずれは引退するときが来る(後継者が見付かるかどうかはわからない)。そのときに、果たして自分の現利用者さんたちを引き受けてくれる居宅介護支援事業所があるのだろうか? 幸い、利用者さんの居住地域がかなり分散しているので、少人数ずつ振り分けて依頼すれば何とかなるだろうとは見込んでいるが。

多くの論者からは、処遇改善加算の欠如(今年の改定により介護報酬は少し上昇したが、物価高には全く追い付く金額ではない)、シャドウワーク(無報酬でやらざるを得ない業務)の増加、本来業務におけるルールの煩雑化、更新研修受講の負担(受講費用の金銭的負担、事例準備の労力負担、補講が無いことによる欠席の困難さ=「病気にもかかれない」、etc.)などが原因として挙げられている。これらが影響して、ケアマネジャーから離職する人数が新たに就任する人数を上回っていることが、人材不足を招いていると評されている。現場の人間としては、確かにその通りだと思う。

(なお、ケアマネジャーにとって更新研修そのものは必要だと私は理解している。ただし、上記のさまざまな負担や、一部の団体・企業・研究者の利権が絡む点については、是正しなければならないとの意見である。真にケアマネジャーのための更新研修になっていない面が大きい)

この状況を改善するには、国の抜本的な改革を待つしかないのだが、財務省や厚生労働省で開かれている審議会・委員会・検討会等の結果を見聞きする限り、的外れな意見の応酬ばかりで、現場から見るとほとんど期待できない。私も間もなく高齢者になるのだが、私の予防プランやケアプランを作成してくれるケアマネジャーは登場するのか?

それを心配してもしかたがないので(笑)、今夜はいただきもののワインで自作の夕食を賞味しながら、一年を振り返ることにしよう。

2024年11月30日 (土)

主役はあなたではない

先般実施された兵庫県知事選挙について、当選した知事の広報戦略全般を担ったと称するPR会社の社長が公開した内容が、物議を醸しており、公職選挙法に違反するのではないかとの疑惑も噴出している。

公選法云々はともかく、この社長はプロフェッショナルとして失格である。

その理由は、クライエント(ビジネスでは「クライアント」と表現することが多い)の内情を、かなり具体的な内容に至るまで開示してしまっているからだ。

記述の内容次第だが、守秘義務違反に当たる可能性もある。

私たちケアマネジャーの場合であれば、クライエントである利用者の尊厳を守り、より望ましい主体的な生活を実現させるため、地域資源を組み合わせて最善の支援体制を構築するのが仕事である。もし、ケアマネジャーが主役である利用者を差し置いて、「オレ(アタシ)が○○さんを支援したから、○○さんはこんなに活き活きと暮らせるようになったんだ!」と前面にしゃしゃり出たとしたら、これは側面的支援を職能とするプロのケアマネジャーとして失格である。加えて、個人情報の目的外使用にも当たるものであり、専門職として踏むべき規範を逸脱している。
(利用者や家族の同意を得て、匿名の状態にしてから研修の場などで発表する場合など、例外もある)

PR会社がどこまで有償で働き、どこからは無償で働いたかは、(公選法に抵触しない限り)大きな問題ではない。対価をもらった場合であれ、ボランティアとして働いた場合であれ、今回支持した候補(知事)の選挙戦略をめぐる情報は、いわば陣営の内部情報であり、個人や個別の会社の了見で開示して良いものではない。この記載内容ほどあからさまに経過を語れば、法的な問題がなくても、陣営の機密情報に触れる可能性が強いからだ。同社長が経過を開示した行為は、戦略担当としての本分にも背く行為であろう。

一言で表現すれば、本来は黒子に徹しなければならない人(企業)が、調子に乗って主役の位置にしゃしゃり出ようとした末路であろうか。主役はあなたではないと、誰かが忠告してあげられなかったのか?

私たちも、これを他山の石として学ぶべきだと考える。

2024年8月25日 (日)

開業23年で思うこと

この8月17日で、私がケアマネジャーとして開業してから23年となった。

つい先年、店開きしたかと思っていたのに、時が経つのは早いもので、間もなく「四半世紀」に近付こうとしている。

長続きできた最大の要因は、大病や大きな事故に遭わなかったことだろう。後者の「ヒヤリハット」はときどきあったものの、幸いに難を免れ、23年間おおむね健康で過ごすことができた。

また、多くの業界仲間に助けられたことも大きい。勤務先法人・組織の背景がない一人親方であっても、多くの業界人は私が仕事に向き合う姿勢を正当に評価してくれ、パートナーとして適切な応接をしてくれた。ケアマネジャーは一人で成り立たない仕事であり、利用者の活き活きとした生活のためには良きチームが不可欠だ。少なからぬ事業所が、私のケアマネジメントに協力して、利用者に良質なサービスを提供し、チーム内で連携してくれた。

それらの業界仲間には、深甚なる感謝の意を表したい。

さて、最近はケアマネジャー人口の減少と高齢化が課題になっている。理由はいろいろ考えられるが、一言でまとめると「労多くして功少なし」であろう。本来業務がどんどん煩雑になるのに介護報酬がわずかしか上がらない。シャドウワークが求められるのに、その対価が評価されない。

勤務ケアマネジャーにとっては、「稼げない」部署になっているから、法人の中で肩身の狭い思いをしなければならない。資格を更新するため、傷病や葬祭を措いても研修に出席しなければならない。独立型のケアマネジャーにとっては、がんばっても生活が好くならないどころか、物価高に見合って報酬が上昇していないから、かえってワーキングプアに陥ってしまう。

厚生労働省が有効な対策を採らなければ、ただでさえ人手不足の介護業界で、ケアマネジャーの減少には歯止めが掛からないことは一目瞭然だ。

このような状況下であるから、私自身はまだまだ仕事を続けていくつもりである。私も来年度には主任介護支援専門員の更新研修を受講しなければならないので、そこで更新してから(有効期間の)五年間、2030年の途中までは現役でありたいものだ。

そのために、今後は一層の健康管理に留意したいと思う。

2024年6月23日 (日)

記憶/記銘力の自己診断(?)

加齢とともに、ものごとを覚える力が弱くなっているのを実感する。

私は戦国期から江戸期の史書を長年読み慣れてきたので、元号(年号)と西暦との対照をどこまで諳(そら)んじられるか、ときどき実験している。確か5年前は宝暦まで、3年前は寛文まで、1年前は天文(てんぶん)まででストップした。それでも、だんだん古い時代へさかのぼっているのに気を良くして、四回目の挑戦(数か月前、眠れない夜に頭の中でたどってみて、「明徳」までおおむね正しく言えたことがある)。

令和元年が2019年、平成元年が1989年、昭和1926、大正1912、明治1868、慶応1865、元治1864、文久1861、万延1860、安政1854、嘉永1848、弘化1844、天保1830、文政1818、文化1804、享和1801。

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寛政1789、天明1781、安永1772、明和1764、宝暦1751、寛延1748、延享1744、寛保1741、元文1736、享保1716、正徳1711、宝永1704。

元禄1688、貞享1684、天和1681、延宝1673、寛文1661、万治1658、明暦1655、承応1652、慶安1648、正保1644、寛永1624、元和1615。

慶長1596、文禄1592、天正1573、元亀1570、永禄1558、弘治1555、天文1532、享禄1528、大永1521、永正1504、文亀1501。

明応1492、延徳1489、長享1487、文明1469、応仁1467、文正1466、寛正1460、長禄1457、康正1455、享徳1452、宝徳1449、文安1444、嘉吉1441、永享1429、正長1428。

そして応永1394、明徳1390。

昨夜のうちにここまで書き込み、一晩経って再度点検した結果、打ち間違いを二箇所ほど発見して訂正。

さて、ここで初めて辞典(画像)を開いて正誤を確認。

パーフェクトでした!!!\(^o^)/

ただし、「長禄」のところは「長徳(実は平安朝の年号)」だったかも?と迷ったので、「薄氷の勝利」かも知れない(^^; それでも、記憶力(かつて覚えたことを忘れない力。慶長とか元禄とか、頻繁に使っていた年号の場合)・記銘力(新たに覚えたことを忘れない力。今回の挑戦のために覚えた、なじみのなかった年号の場合)とも、まずまず合格点だと言えよう。

また、明徳の前は年号が南北朝の二つに分かれて、両方のルートをたどって覚えるのはたいへん面倒になるため、これ以上さかのぼる挑戦はしないつもりだ。今回のところで打ち止めとして、今後も忘れないようにすることが課題になる。

私と同年代(60代前半)の方には、ご自分が趣味にしている分野の事物を用いて、同様な「脳トレ」をやってみることをお勧めしたい。

2024年5月12日 (日)

母の日に当たって

きょうは5月の第二日曜日なので、母の日に当たる。

私の母が91歳で帰天したのは2018年3月5日。先々月に6周年(仏教でいう七回忌)を迎えた。

自分自身がずっと未婚で生活してきたことから、「母」と言えば亡き母が唯一の存在になっている。帰天後6年経ってもその存在感は大きい。いまの自宅を手に入れることができたのも、母が懸命に節約して資金を貯めてくれたからこそであるし、何よりも私が出掛けている間、家の留守を預ってくれていたことが、安心して仕事ができる大きな支えであった。

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晩年には家事の多くを私が担うようになり、さらに要介護の状態にもなったので自分がケアプランを作成したが、実質的には画像の縫いぐるみのように、私が母の背中に乗っかって生きてきたんだなぁ、と強く実感する。

帰天した後も、母が遺してくれた年金を頼りに車を購入し、家の門扉も取り替えることができた。母がいなかったら現在の仕事も生活も維持していくのが困難だったことは確かである。

その意味で、改めて母には心からの感謝を捧げたい。

さて、自分自身は子育ても孫育てもしていないが、これから先の老後、誰かのお世話にならなければならないことは確かである。兄弟姉妹がおらず、いとこたちも他県に住んでいるから、何か起きたときに最低限の対応程度は頼めるとしても、全面的に後始末をしてもらうことが難しい。

そこで、自分がしてこなかったことへの一つの償いとして、地域の児童支援に協力できないか、検討してみたいと思う。そのような中で、家や土地の行く末を託すことができる人が現れるかも知れない。

父親にはなれなかったが、何か役に立つものを後世へ残したいものである。

2024年4月17日 (水)

少年少女をいじめてそんなに楽しいのか?

もう十年以上も前のこと。ネットで検索していたら、いくつかの自治体に「児童虐待マニュアル」なる文書が存在することが判明し、失笑したことがある。

もちろん、これらは「児童虐待防止マニュアル」を誤って省略してしまったものだろうから、当該自治体が「地元の憎たらしいガキをボコボコにしてやろう」と意図したものでは全くない。

しかし、複数の場で心ない大人たちが、ネットのコメント欄で十五歳ぐらいの児童を叩いているのを見ると、ホンモノの「児童虐待マニュアル」が存在するのだろうか? と疑いたくなる。

かつて「不登校ユーチューバー」として知られた「ゆたぼん」君が、先日、高校を受験して不合格だったことを公表した。

「ゆたぼん」君と言えば、不登校時代は父親の教育方針に合わせてパフォーマンスをしている感が強く、ユーチューブの動画に対してアンチは多かった。確かに、小学校の卒業証書を破り捨てる動画などは、私自身も好きではないが、父親と行動を共にすることが多かったので、その影響も強かったと推察される。その後、父親と距離を置くことを宣言して、Xなどで主体的な発信を始めたことにより、世間からの好感度が増した。今回の不合格について、当人は落胆するも次は高卒認定試験を目指すとしている。

ネットでの反応は、多くは好意的なコメントであり(父親に対してはみな批判的だが)、これを貴重な経験として成長してほしい、という方向性の意見が主流であったが、少数ながら彼を誹謗中傷するコメントがあった。特に私が記憶している、彼を世間の見せしめであるかのように評したコメント(例;「好き勝手なことをしていたから失敗する。みんなが反面教師にする好例だ」)などは常軌を逸している。彼は十五歳の少年であり、多感な年代だ。せっかく新たな気持ちで体勢を立て直そうとしている矢先に、攻撃的なコメント(彼の将来を思って冷静に評した厳しいコメントとは異なる)を投げ付ければ、再起を志す当人の心を傷付けるだけだ。「ゆたぼん」君が登場するだけで叩きたくてうずうずしている大人がいるとしたら、その人のほうがずっと幼稚であろう。

別の例も掲げる。

囲碁の小学生棋士としてデビューして、一躍令名を挙げた仲邑菫三段が、より囲碁に集中できる環境を求めて、日本棋界を離れ、韓国棋界に身を投じて棋戦に出場することになった。小学生時代に韓国へ行き来して囲碁を学んでいた時期があるとは言え、十五歳で外国のプロに交じって切磋琢磨するのは、たいへん重い決断であると言っていい。

この決断に対して、コメントの大部分は仲邑三段を応援するものだったが、一部からケチが付いた。彼女を嘲笑したり揶揄したりするコメントが散見されたのだ。その多くは、国際的な囲碁棋界のことを知りもしないのに、特定の国が絡むだけで攻撃したくなる人ではないかと思われる。中には読むに堪えない表現のコメント(例;「韓国行って整形やってこい」)もあったと記憶している。その言葉を投げ付けられる相手が、十五歳の多感な少女であることを理解しているのだろうか?

二つの例を挙げたが、どちらも未成熟な児童に対する「いじめ」としか言いようがない。私自身は子育ても孫育てもした経験がないが、これらの「言葉の暴力」の横行を目にすると、自分の身内が攻撃されたかのように、とても悲しい。

これほど少子化が深刻になっているのにもかかわらず、醜い「児童虐待」がネット上で平然と行われる状態は、日本のネット社会の民度をそのまま表している。これから成長していく少年少女たちに対して、私たちは日頃から、〔節度を保った厳しさを交えつつ、〕温かい目で見守っていきたいものだ。

(※文中、私の記憶として述べたコメントの文章は大意であり、一言一句そのままだったかは確認していませんので、お断りしておきます)

2024年3月31日 (日)

人はリスクと隣り合わせで生きていく

先日来、三人の利用者さんが独居生活を始めた。一人は50代前半(複合障害)、一人は60代後半(慢性疾患)。一人は70代後半(アルコール依存症)。いずれも「一人暮らしをしたい」思いは強かったが、障害があるなどの理由で、現実には独居が難しいと見られていた。

このような利用者さんを支えるのがケアマネジャーの役目であるから、機会を逃さず在宅生活を始めることは大いに歓迎する。

ただ、残念なことに、三人とも計画を立ててから実際に独居生活を迎えるまで、かなりの時間が掛かった。それぞれ、家族や周囲の関係者(全部ではない)が「リスクが多く無理があるのでは」と「待った」を掛けたためだ。

特に二番目の60代後半の方。慢性疾患の病院に長期入院していたが、10月を最初として実に4回の試験外泊を繰り返して、2月末にようやく退院となった。それさえも私が段取りを整えて強く要請した結果である(しなければさらに先送りになっていた)。その間の四か月、病院側は収入が入るからいいが、ケアマネジャーには一円も入らない。タダ働きなのだ。

確かに、実際に退院してみると、訪問介護、訪問看護や通所リハビリの支援がなければ生活できない。また、途中で下肢の状態が悪化して不測の事態が生じるなど、相当なリスクを抱えながらの生活であることは間違いない。

しかし、もともと人間はリスクと隣り合わせで生きていくものである。それを回避したいあまり、「何かあったらどうするんだ」の思考に陥ってしまい、一歩を踏み出せないまま延引を続けるのは、私の方針に合わない。

もちろん、利用者さん自身が「石橋を叩いて渡る」ことは最大限尊重するべきであるし、また、ケアマネジャーの専門的な知見から明らかに「これは危険だ」と予測される方向へ舵を切るべきではない。だが、「何かあったら...」で止まっていると、何ごとも始められないことも確かである。

話は変わるが、大相撲春場所の事案。優勝争いでトップを走っていた尊富士関が、14日目の敗戦で右足首靱帯を損傷した。救急車で病院に運ばれ、翌日は休場かと言われ騒然となった。しかし同力士は負傷の状態で出場を敢行し、千秋楽で豪ノ山関を降して見事に110年ぶりの新入幕優勝を飾った。

いわば乾坤一擲の大勝負を賭けたのだが、これにも一部の論者からケチが付いた。「美談じゃないよ。強行出場してもし右足の負傷が悪化して、(横綱)照ノ富士みたいに(ケガばかりで土俵を務められなく)なったらどうするの?」などと。しかし、弟弟子(高校の後輩でもある)の尊富士関に「お前ならできる!」と背中を押したのは、当の横綱なのだ。本人が兄弟子や師匠とよくよく協議して決断したことには、心からの称賛あるのみ。批判は全くの筋違いだ。そして、この一番で日本中を沸かせた尊富士関が、春巡業はしっかり休場するとのこと。しっかり療養するためにこれも大切である。

「何かあったらどうする?」と偉そうに述べる論者は、人生を賭けた大きな選択などした経験もないのであろう。23年前に、破滅覚悟(笑)で当時は類例のない「ケアマネジャー単独開業」に踏み切った私から見れば、この類の議論には失笑しかない。

「事勿れ主義」が行き過ぎると、時として人権侵害にもつながる。いまだに新型コロナの蔓延を恐れて、利用者と家族との面会制限を延々と続けている介護福祉施設などが好例だ。私たちはこのような状況を改善すべく、働き掛けていかなければならない。他方、コロナ禍以前と同様に利用者と家族との自由往来を認め、何か起きたときには自分が責任を持つことを明言している施設長に対しては、心からの敬意を表したい。

最初の話題に戻って。独居を敢行する利用者さんを後押しするのは、支援者側にとって「何かあったら可能な限り私〔たち〕がサポートしますよ!」との意思表明でもある。当然ながら、後押しする行為に伴う責任も了解済みということだ。その覚悟を持たない専門職は、軽蔑にしか値しない。

人はリスクと隣り合わせで生きていく。私たちは「人生」の意味を今一度考え直そうではないか。

2024年1月 8日 (月)

抗えない自然の力

元日の夕方に発生した能登半島地震は、文字通り日本中を震撼させる災害となった。

何しろ当地・浜松でもグラッと揺れて(震度3)、一瞬「屋外へ逃げるべきか?」と迷ったぐらいだから、現地の当事者である石川県周辺の方々の驚愕と混乱は、たいへんなものであっただろう。

この地震で多くの家屋が倒壊したことなどにより、多数の死傷者が出た。特に、正月休みで実家に帰省していていて(中には例年は帰らないのに、十数年ぶりに帰っていた人もある)、不運にもこの震災に巻き込まれた人が少なくない。まだまだ充実した社会生活を送ることができたはずの若い人たちが、人生半ばで終幕を強いられてしまった。亡くなった人たちの無念の思いも、遺された家族の悲嘆も、言葉では言い表せない大きなものがあろう。

また、避難所に身を寄せている人たちの多くが、物資が充足されていない中で、当面の健康・衛生管理や今後の生活に大きな不安を抱えて、気持ちが安まる暇(いとま)もないと察する。

人智を尽くしても、自然の力には抗えない。日常から備えることによりある程度の減災はできても、完全に被害を無くすことは将来にわたっておそらく不可能である。

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かつてシー‐シェパードの代表、ポール‐ワトソン(Paul F. D. Watson)は、2011年の東日本大震災の直後に、"Tsunami"のタイトルで、このような詩を公開した。

Neptune’s voice rolled like thunder thru the sky (海神の声は空をつんざく雷鳴のように巻き起こり)
Angrily he smote the deep seabed floor     (彼は怒って深い海底を打った)
From the shore echoed mankind’s mournful cry (岸から人々の悲鳴がこだまする中で)
…The sea rose up  and struck fast for the shore (...その海は盛り上がり、岸を目がけて襲い掛かった)

From out of the East with the rising sun    (東の果てから昇る太陽とともに現れる)
The seas fearful wrath burst upon the land   (海の恐るべき憤怒は陸地を引き裂く)
With little time to prepare or to run      (備えたり逃げたりする余裕もなく)
Against a power no human can stand     (自然の力の前には誰も立っていることができない)

(筆者訳)

ワトソンは環境テロリストとも称されており、私が嫌いな活動家ではあるが、この詩は脚韻もしっかり踏んでおり、読み手にも趣旨が明確に理解できる良作だと思う(当時、英語力の乏しい一部のネット民から、あたかも彼が大震災を「天罰」だと言っているかのように非難されたが、もちろん誤解だ)。

今回の能登半島地震についても、「ああしておけば」「こうしておけば」と悔やむ人たちも多いだろうが、たとえ備えがあっても、それを超える大きな力が加われば、被災を免れないのが現実である。すでに起きたことを振り返りながら、私たちは一歩一歩前へ進んでいくしかない。私自身は直接支援活動に参加できる立場ではないので、事態が流動しているいまの時点で、何かを提案したり論評したり、また政府や自治体の対応を批判することは控えたい。

ただただ、被災された方々の心の平安をお祈りする。

四つのプレートの境目にある日本。来るべき東南海(南海トラフ)地震へ向けて、少しでも被害を減らすために、私たちは何をすれば良いのか? これから市民レベルで、そして全国民レベルで、議論を深めていこう。

2023年12月30日 (土)

十九年ぶりの引っ越し(2)

前回より続く)

去る12月28日、これまでの事務所からすべての物品を搬出して、無事に退去することができた。

古い机やテーブルなど、もはや使用に耐えない品を廃棄する一方、スチール書庫は自宅の新事務所でもそのまま活用するため、知人の業者に搬送を依頼した。

引っ越し作業から退去に至るまで、一連の作業に伴う経費は、たまたま買い替えた車やシュレッダーなどを別にすれば、関係者のご協力のおかげで最小限に食い止めることができた。搬送業者さんや家主さんのご厚意を身に沁みてありがたく感じている。

開業四年目から入居した旧事務所はJR浜松駅から徒歩10分、バスや電車を利用するに当たって交通至便の場所にあり、地域資源も豊富で、不便さを感じることがなかった。ここを拠点にして十九年の間、多くの利用者さんに本業であるケアマネジメントを提供するとともに、役職や研修講師などを仰せつかって県内各地や日本全国各地を駆け回り、社会に役立つ充実した職業人生を送ることができたと自負している。

去って行く当日、長い十九年を振り返って、過ぎ去った多くのことを思い起こし、まさに感無量であった。

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さて、こちらは自宅の書斎を改装した新事務所(浜松市中央区湖東町)の画像である。左が南、右が北。手前に相談机がある東側から撮影したものだ(ど真ん中に殺虫剤が写っている。田舎には必需品(^^;)。

いまだ物品の搬入直後で雑然としており、これから日数を掛けて、「○○はどの箱に入れたっけ?」などと混乱しながら、少しずつ整理していくことになるだろう。

これからは「自宅開業」になるから、公私の線引きをこれまで以上にしっかりとする必要がある。営業曜日や時間はこれまでと変わりないので、同じペースで仕事をしていくつもりではあるが...

しばらく経過してから、移転後に変化した業務展開の長所や短所をまとめてみたい。

2023年11月24日 (金)

十九年ぶりの引っ越し(1)

筆者が2001年に居宅介護支援事業を開業してから、はじめの三年は(特活)浜松NPOネットワークセンター(中区砂山町)の一角に間借りして事務所を開き、四年目に有限会社を立ち上げて現在の事務所(中区北寺島町。マンションの一部屋)へ移った。2004年9月のことである。

それから十九年、ずっとこの事務所で仕事をさせてもらうことで、さまざまな可能性にチャレンジすることができた。開業当初は地域のいち弱小ケアマネジャーに過ぎなかったが、さまざまなご縁をいただき、市や県での役職を依頼され、マイナーながら全国区にもなることができた。

その思い出深い事務所を、この年末限りで引き払い、年明けからは自宅開業になる。

移転するおもな理由は、母(2018年帰天)の介護を機に活動の幅が縮小し、それに伴って収入が減少したことである。自分自身も複数の疾患を抱えていることから、60代を迎えるに当たり、半ば引退モードに差し掛かっている。もちろん、次回の主任介護支援専門員更新研修は受講するつもりであるから、まだまだ六年やそこらは業務を続ける予定であるが、「可能な範囲で細々と仕事を続けていく」モードに入っていることは否めない。事務所家賃を払い続けるのが厳しい現実もある。

そこで来年1月1日の「浜松市の行政区割変更」を機に、「中央区湖東町」の自宅へ事務所機能を引き揚げることにした。

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まず買い替えたのが車である。これまではマツダのデミオ(グリーンメタリック)だったが、9月にスズキのアルト(ベージュメタリック)を購入。軽に乗り換えたことで、燃費がグッと節約でき、これまで乗り入れが難しかった一部利用者さんの敷地にも、容易に入ることができるようになった。

次に名刺と封筒の印刷。年末になると大手企業などから「中央区」の名刺発注が集中するであろうから、先手を打って新たな名刺を準備。

他方で、モノの整理も必要になる。自宅に書庫などを運び込むため、スペースを空けなければいけないので、時間を見付けて作業を始めている。

その中でにあって、使える道具の活用を考えることは大事である。事務机はむかし自分が中高生時代に使用していたデスクを再利用しようと、これまでの部屋から新たな事務所へ運び込んだ。

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ここまでは序の口なので、これから本格的な作業をこなしていかなければならない。ペース配分に留意して、自分の体調とも相談しながら、段階的に引っ越し作業を進めていこうと思う。

次回へ続く)

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