経済・政治・国際

2022年5月 7日 (土)

憲法記念日に寄せて

私は今年営業日だったが、一般的に祝日である5月3日は、「日本国憲法」が施行された日(1947年。今年は施行75年)である。

このところ、憲法を改正すべきか否かの議論が喧(かまびす)しくなっている。もちろん、ロシアによるウクライナ侵攻を受けた現象であることは、言うまでもない。

3日にも各地で「改憲」「護憲」それぞれの側からの集会や活動が行われている。私自身は「改憲論者」であるが、たとえ定休日であっても、集会に参加することまではしていない。国の基本法が75年も改正されないことが正常だとは思えないから、国政選挙で改憲を、特に九条の改正を主張する人が立候補した場合は、他の政策に大きな違和感がない限り、その候補者に票を入れている。

他方、「護憲」を主張する人たちの大部分は、何よりも平和憲法の根幹である「九条」を守れ、と主張する。そうすることによって日本の平和が守られる、との見解なのであろう。

さて、「護憲」を謳う以上、憲法そのものを守らなければならない(当然だが...)。そのためには、「A.国民による改正(護憲論者の人たちから見れば「改悪」)をさせない」だけでは不十分だ。憲法は国内法であり、外国はこれを守る義務はない。したがって、日本の平和を守るためには、「B.外国に日本を攻撃させない」ことも保証させなければならない。もし外国が日本に侵攻(「間接的侵略」も含む)して、政治の中枢を支配してしまえば、その力によって憲法はその国の都合が好い形に変えられてしまう。

そこで、「護憲論者」の方々に質問がある。

日本に敵対的、ないしは非友好的な国が、すぐ近くに四か国も存在する。(1)竹島を一方的に自国領土へ編入して返還せず、過去に日本と締結した条約の趣旨もしばしば蔑ろにしている韓国、(2)尖閣諸島(...のみならず、遠回しな表現ではあるが、沖縄全県と鹿児島県奄美群島も含む地域まで)への領有権を主張し、領海侵犯を繰り返す中国、(3)北方四島を実効支配して返還せず、周辺海域を艦船で威嚇するロシア、(4)国交がなく、日本を敵視してミサイル発射を繰り返し、その標的に位置付けてはばからない北朝鮮だ。

「護憲論者」の方々は、これらの諸国の政治指導者に対して、上記のBを実践してもらうために、日本国憲法の理念をどのように説き、どのような回答を得ているのか?

いや、(1)韓国については、散発的(志を同じくする人たちが統一して行動しているとは、とても考えられない)ではあるが、ときの大統領や首相に憲法九条の趣旨を伝え説いている人もいる(それも、逆に相手方から利用されている場合が多いと、個人的には思うが...)。しかし、韓国が「不法占拠している」竹島を返還する動きなど全く窺えない。ましてや、(2)中国・(3)ロシア・(4)北朝鮮については、そもそも働き掛けた事実さえほとんど確認できない。もちろん、政治工作の中には公開できない部分もあることは承知しているが、これまでの状況では、防衛力に不安を抱える国民が納得できる説明責任を果たしているとは認め難い。

いま、これらの国々が「これ以上の力による現状変更」をしない最大の理由は、日米安全保障条約があり、米軍が日本に駐留しているからだ。もちろん自衛隊の強化も重要な原因である。しかし多くの護憲論者は、米国寄りの安保に反対であり、かつ日本の防衛費を削減せよと主張している。

ならば、上記の国々で、護憲論者の方々がどのような活動をして、政治指導者とどのような対話をしたのか? それに対して、相手はどう反応、回答したのか? その事実をまず説明すべきである。たとえば国連本部や国際会議の場で九条の理念を説いて、そこに韓・中・露・北などの首脳も列席していた...などとゴマかしてもらっては困る。本当に憲法九条の理念が至上のものだと信じているのであれば、相手のホームグラウンドへ赴いて直談判するのに躊躇はないはずだ。

もちろん、(2)(3)(4)は民主的な体制を採っている国ではないから、「護憲論者の代表」がしかるべきルートを経由して対話を申し入れても、拒絶されることもあるだろうし、仮に対談が実現しても、活動家側の理念を否定されて終わり、になることもあるだろう。それならそれで、「わが国の憲法九条の趣旨を尊重し、攻撃してこないことを保証せよと、○○国家主席(大統領、委員長etc.)に対話を申し入れたが、断られた」「...説得したが、否定的な回答しか得られなかった」と報告してほしい。その上で、「そこで、次のステップでは、これらの国々に対して□□□の行動を実践する」と代替案を示してくれれば、少なくとも議論の対象とすることに差し支えない(賛同できるかどうかは別として)。

「護憲論者」の活動家には、日本国内で「護憲」を叫んでいる活動家たちが圧倒的に多い。日本は言論の自由が保障された民主的な体制の国であるから、いくらでも声を上げることができる。しかし、九条を「守ってもらいたい」相手のホームグラウンドで叫ばなければ、全く意味がない。失礼ながら、「お花畑で遊んでいる姿を見せられても、議論にならない」。これが私の正直な思いだ。

いまからでも遅くないので、護憲論者のみなさんには、北京へ、モスクワへ、ピョンヤンへ行き、自らの信じる理念にしたがって、相手を説得してもらいたいものである。もしくは、すでに実践しているのであれば、その「成果」を多くの国民に対して、わかりやすい形で開示してもらいたいものである。

その報告に接したあかつきには、「改憲」と同じテーブルに「護憲」も乗せ、議論の対象として比較検討することができるであろう。

2022年3月24日 (木)

ロシアのウクライナ侵攻に思うこと

2月24日、ロシアがウクライナに侵攻を開始してから、はや一か月になる。

この間、多くの論者がこの国際的な大事件について、さまざまな視点から報じてきた。

「後出しジャンケン」のつもりはないが、いろいろな素材が出揃ってから何か言おうと思っていた(正直なところ、仕事が超過密だったため、エントリーを書く余裕が無かったのだ)。昨日はウクライナのゼレンスキィ大統領が国会でオンライン演説をしたこともあり、一つの節目の時期となったので、私が着目すべきだと考えるいくつかの論点を整理してみたい。

(1)一方的な侵攻への非難は当然である
まず、これまでの経過はともかく、
ロシア・プーチン政権はゼレンスキィ政権のウクライナの領土へ一方的に侵攻し、多くの民間人を殺傷しており、かつ、それを自国の防衛のためと称して正当化している。主権国家が自国の利益のために他の主権国家を暴力で屈服させようとすることが、許されない暴挙であることは言うまでもない。世界の多くの人々がウクライナの国民を励まし、声援を送り、戦禍で亡くなった人たちを悼むことや、ロシアの現政権を非難することは、ごく自然だ。私自身も同じ気持ちである。

(2)「プーチンは悪」「ゼレンスキィは善」と断じるのは不適切だ
しかし、それだからと言って、この衝突に至る過程で、ウクライナ側の挑発がなかったことを示すものではない。日本の公安調査庁「国際テロリズム要覧」では、ロシアの極右過激組織「ロシア帝国運動」に触れるとともに、ウクライナの愛国者で形成される「アゾフ大隊」にも言及している。信頼筋からは、この愛国者組織がロシア系、親ロシア側の住民を殺害した情報も寄せられている。それぞれの組織が外国人戦闘員たちも抱えて相手方と戦闘を繰り返し、ついに今回の侵攻を招いた次第だ。いわば双方の相互作用が憎悪を増幅させたものであり、単純な善悪をもって論じるのは早計である。もし一方的に、プーチン氏が悪魔でゼレンスキィ氏が正義の味方だと思っている人がいたら、それは日本的な「二分割思考」の罠(さらに踏み込んで表現すれば「俳優ゼレンスキィ劇場」のプロパガンダ)にはまっているのだ(もちろん、対するロシア政府側のプロパガンダの問題もあるが...
)。国際政治は「相互作用」「謀略戦の応酬」からエスカレートして実際の戦争に至ることや、いまやサイバー攻撃などの情報戦が戦闘の前段階になっているのが常識であることを、私たちは知るべきであろう。

Ukraina

(3)各国はそれぞれの思惑で動いている
今回、かなり危機が迫るまで「当事者(ウクライナ)不在」の感があり、第二次世界大戦前のチェコスロヴァキアに似ている。プーチンvsバイデンの応酬が取り沙汰されていたのにもかかわらず、ゼレンスキーの名前は侵攻直前までほとんどの日本人に知られていなかった。米国・英国・フランス・ドイツ、そしてロシア寄りの中国・インドも、それぞれ自国・自陣営の利害のために動いている。純粋にウクライナ国民の最善を願って連帯を表明していた国は、どこにも存在しなかった。今後も原則的には同様な経過をたどることは自明だ。

(4)難民受け入れの門戸を広げよ
日本の法務省はもともと、朝鮮戦争の余波を懸念して、難民受け入れにたいへん消極的であった。インドシナ戦争の終末期(1975年)、欧米諸国の要請に押される形で、ようやく多くのインドシナ(ヴェトナム、カンボジア、ラオス)難民を国内に受け入れた。ところが、その後はまた門戸を閉ざしてしまっているので、クルド人など国際的に「迫害されている民」であることが明らかな人々でさえ、容易に難民認定されない状況が続いている。政府は「純血主義」に傾く右派・保守派の影響を受け、いつ起きるかわからない朝鮮半島有事を恐れて、国際的な信用を損じる愚策を採り続けてきたのだ。この機会に、ウクライナのみならず、世界各地から日本へ逃れてくる被弾圧民族を、新たな仲間として受け入れたらどうか? 家族ぐるみで来日する人たちの定住は少子高齢化対策にもなるのだから、一石二鳥ではないか。

(5)私たちは国際経済への影響を先読みすべき
私自身、いわゆる「経済オンチ(「オンチ」は差別用語ではなく自虐の呼称。念のため)」であるので、将来の予測は経済評論家たちの論考を頼りにするのが通例だ。しかし、そんな私でも、ロシアとの貿易途絶によるダメージ、たとえば小麦の供給減少による食品価格の上昇、原油価格の高騰によるガソリン・石油製品価格の上昇、パラジウムの輸入経路変更(おそらく今後は、価格の高い品が中国経由で入ってくる)による自動車価格の上昇により、身近な市場に大きな影響が及ぶことなどは、容易に予測できる。買い占めなどの独善的行為はもちろんいけないが、国民各自が自衛のため必要な物品の調達は、早目にしておくことが大切であろう。

(6)日本は安全保障の観点から、あくまでもウクライナを支持すべき
いま、日本がロシア、中国、北朝鮮などの友好的でない国々から侵攻されないのは、米国(核保有国)との同盟関係にあるからに他ならない(はっきり言って憲法九条は役に立っていない)。論者の中には、日本は中立的立場でロシアとウクライナとの和平に貢献すべきだと言う人たちがいる。もちろん、NATO加盟国であるトルコが試みたように、可能な範囲で何らかの仲介ができれば、それに越したことはない。しかし、ロシアへの経済制裁やウクライナへの人道支援に関しては、米国や西欧諸国と歩調を合わせるべきなのだ。いま、それをしなければ、今度は日本が安全保障上の危機にさらされた場合、どの国にも(状況によっては「同盟国」米国にさえ)支援してもらえないと思っていたほうが間違いない。たとえ国民生活に大きな影響が及ぶとしても、私たちの平和国家へそれ以上の甚大な結果をもたらさないために、国として「旗幟鮮明」にすることが、国際社会から求められている。

以上、言いたいことを言わせてもらったが、異論、反論などもあると思われる。コメントをいただいた場合、応接に値する意見には返信する場合もあるが、内容によっては無視、あるいは削除する場合もあることを、あらかじめお断りしておく。

2021年12月 8日 (水)

新型コロナ(15)-新変異株に「うろたえるな!」

新型コロナウイルスが世界に蔓延してから、間もなく二年になる。

その間、私たちは社会生活の中で、数々の制約を強いられてきた。マスク着用、「不要不急」の外出制限、多人数での飲食の制限、イベントでの参加者同士の距離確保や声出し禁止、等々。

感染症を引き起こすウイルスである以上、国や自治体が市民社会を守るために、予防策を講じなければならないことは当然だ。その一環として各所で上記の対策が励行されることに、私は反対するものではない。

他方、以前のエントリーで述べた通り、その感染予防策が個人、組織、地域、共同体(地方、国)のいずれのレベルでも、過剰な段階に至ったことにより、本来守られるべきである「人の尊厳」「人間の尊厳」が危機に瀕することになった。

もちろん、私自身も新型コロナウイルスに感染したくないし、自分が媒体になって他の人(特に「顧客」である高齢者)に感染させたくない。そのために可能な予防策は日々実践しているつもりだ。現在でも私は、利用者や介護者を前にしたとき、店舗へ入ったときなどには必ずマスクを着用するし、(経済的事情もあるが...)二年近くにわたり会食にも参加していない。

しかし、この状況が世間一般の自然なルールと化していることには、大いなる違和感を覚える。

政府は東京五輪やパラリンピックを強行する政治的決断を下しながら、相次ぐ第三波、第四波、第五派に対して緊急事態宣言や蔓延等防止措置を延々と発出し続けた。その間に新型コロナのいわば主力を占めていた「デルタ株」が、おそらく弱毒化や自壊作用を引き起こし、10月以降は散発的なクラスター等の発生を除き、日本国内での感染拡大が下火になっている。

ならば、この期間に現行の「二類感染症(結核・SARS・MERSなどのレベル)」から「五類感染症(ウイルス性肝炎・新型以外のインフルエンザなどのレベル)」に変更すべきではなかったか? 

そうすることによって保健所の膨大な負担(これまで、他部署・民間の保健師や、同等の力量を持つ看護協会所属の看護師までが駆り出されてきた)をいったん終結させ、かかりつけ医の裁量によって入院、隔離等の対応を判断できることになれば、自治体の負担は大幅に減り、その力を感染対策の他の部分に振り分けることができるはずだ。むしろ病床逼迫を来たさないための対策は、そのほうが効果的に推進できるかも知れない。

また、私たちも「人間らしい」社会活動を取り戻すことができる。たとえば、高齢者施設において、人権侵害とも思える家族の面会制約なども、厚生労働省や自治体が「縛り」の高札を降ろすことにより、施設長の裁量で、コロナ禍以前に近い形に戻すことができる(あえて非人間的な制約を続ける施設は、社会的に批判を受け、利用希望者が減る)。

現実には、二類→五類に反対する人たち(個人、組織)がいることを、もちろん私も承知している。純粋に科学的見解から反対している人たちもいれば、利権を手離したくない人たちもいるだろう。逆に、あまりにも感染症を軽視し、認識不足から安易な制約解除を推進する人たちも、残念ながら存在する。

これらを総合的に判断して大所高所から決断するのが、政治の役割なのだ。

子どもたちが一緒に遊ぶこともできず、健全に成長できない社会や、仕事を失ったり心を病んだりして自殺する若者が増える社会は、望ましい姿なのだろうか? この状況でさらに一年、二年と経過すれば、日本経済は立ち直ることができなくなり、日本の市民社会は取り返しのつかないところまで破壊されてしまうかも知れない。

それは単に国内の問題にとどまらない。日本に(表向きはともかく、内実は)敵対的な他の国にとって、思う壺ではないか?

このほど「オミクロン株」が蔓延しつつあるが、確かに感染力が強いとは言え、重症化しにくいとの情報も示されつつある(今後、評価が変わってくるかも知れないので、念のため)。これを恐れていては何も進まないことは確かだ。ウイルスはそもそも変異するものなのだから、世界の各地で今後も次から次へと、新たな変異株が生まれるであろう。

日本国民、とりわけ政治家の皆さんは、この新しい変異株に「うろたえるな!」

私たちは冷静にその実態を分析しつつ、正しく恐れるべきだ。そして五年後、十年後、二十年後の日本の姿を見据えた、最も望ましい選択をすべきであると、私は訴えたい。

2021年2月28日 (日)

五輪組織委の問題から読み取れるもの(下)

前回より続く)

すでにお気づきの方もあろうかと思われるが、私は今回の事案について、もっぱら話題になっている「特定の主題」だけに即する形で分析・考察してはいない。

その特定の主題とは「ジェンダー‐ギャップ」のことである。

私が決してジェンダーの問題に無関心なわけではないことは、八年も前のエントリーに言及しているので確認されたい。ただし、今回の事案は、その枠を超えた課題を私たちに突き付けているので、あえてジェンダー「だけ」に特化しての物言いをしないだけの話である。

私も本業を持っている人間であり、評論家ではない。前回掲げた個別の論点のうち何点かについては、機会を捉えて細かく論述することがあるかも知れないが、いまの時点でそれらのことごとくに踏み込んで、自分の意見を陳述することはしない。私はこの事案を総体的に把握し、分析しなければならないと考えている。前回言及した通り、今回の事案を契機に、単に個人や組織の問題にとどまらず、日本社会を根強く「支配」している上記の構図そのものを変えていく必要がある」のだ。

さて、「変えていく」のは簡単ではない。

一時期、革新的な市民活動家を中心に「オルタナティヴ」がもてはやされた。これまでの社会体系に代わり得る「オルタナティヴ‐システム」、それを実現するための「オルタナティヴ教育」、この類の「オルタナティヴ」がトレンドのようにいろいろ発信され、試みられてきた。注目すべき提案や実践がいくつも存在したことは私も認めており、決してすべてを否定的に捉えるべきでないことは、承知している。

しかし、その「オルタナティヴ」の多くが空回り、空振りに終わったことも事実なのだ。一例を掲げると、2008年末の年越し派遣村、ご記憶の向きも多いかと思う。あの活動は既存の市民社会に対し大きなインパクトを与え、私たちに大切な課題を投げ掛けることに成功した。ただし、その後の経過を見る限り、現実的な社会システム変革の実現には程遠い結果となった。同様な例は他にもいくつか見受けられる。

これらの諸活動が目標を実現できない(できなかった)要因としては、政治勢力による利用(我田引水)、携わる当事者の理解不足(指導的立場の人たちと、その他大勢の関係者との意識の乖離)、長期的なグランド‐デザインの準備不足、既成構造に対する反抗のためのアクションへの限定・矮小化(反対勢力の中でも巻き込むべき人たちがいるのに、その人たちから反発を買ってしまったこと)などが挙げられるだろう。

しかし、最大の原因は、「日本」についての理解不足だと、私は考えている。すでに拙著「これでいいのか? 日本の介護」の中で述べてきたことである。

では、私自身は日本社会がどの方向を目指すべきだと考えているのか?

それが下の画像だ。

Photo_20210228112901

これを見ておわかりの通り、前回掲載した「日本的な」思考形態・行動様式と同じ構図である。

前回の図と比較していただきたい。枠で囲った文言をそのまま別の言葉に置き換えることにより、その相関から生じるもの(紫字で示した)が大きく変わってくる。ネガティヴな相互作用をポジティヴなものに転じることにより、体系全体に好循環が機能し、私たちが活き活きと自己実現できる社会に近付くであろう。

理想論だと誤解されるかも知れないが、これは現実論だ。私たち「日本」の文化の根底から培われた思考形態や行動様式を改めることなく、「そのまま」逆用するだけで、好循環への道は開かれるのである。図の左下にある(青字で示した)通り、私たちの知的体力の向上にもつながるのだから、民度の上昇に大きく寄与することは言うまでもない。

裏を返せば、オルタナティヴの諸活動が停滞した背景には、中心になった指導的な人たちが、他国の良いものを採り入れることに偏ってしまった状況があったと推察される

コロナ禍を契機に社会の閉塞感はいよいよ強まっている。いまこそ、私たちを育んできた日本文化の土壌に根差した、真の意味の「代わり得る」社会体系を、協働して創り上げていかなければならない時期である。

一人ひとりの意識改革、そしてそれを踏まえた思考形態や行動様式の変容を願ってやまない。

2021年2月24日 (水)

五輪組織委の問題から読み取れるもの(上)

このところ、テレビやインターネットなどの新旧メディアを賑わせている話題がある。

一年延期された東京五輪の組織委員会理事会の席で、会長であった森喜朗氏が、「女性蔑視」と受け止められる発言をしたことが報じられ、国内外から多くの批判を浴びた。その後、紆余曲折はあったもの、結果として会長職を辞任するに至った。

その発言の全文はすでに複数のメディアで公開されている。一例としてスポニチの該当記事にリンクを貼っておく。言葉の意味や文脈が不明確な面も見受けられ、明白に意図して女性を蔑視した発言なのかは何とも判断できないが、いくつかのキーワードに氏の正直な意識が反映されていることが看取される。全体を総合すると、ジェンダーに関して明らかな「時代遅れの感覚」を背景にしていることは否めない。

この事案に関する個別のポイントを整理すると、

・発言中の「恥」「困る」「わきまえる」等のキーワードに差別的な意味があったのか? 特に「わきまえる」は「身の程をわきまえる」ではなく、「時間配分を考慮して趣旨を短くまとめる」の意味にも解釈できるが、実際の意図はどちらだったのか?

・全文がなぜ速やかに報じられなかったのか? メディアの側に「意図的な切り取り」はなかったのか?

・従前、森氏が自ら運営に携わる組織で女性役職者の増加に努めてきた実績もある。組織委では深い意味もなく、いわばエピソードとして語ったとも想定されるが、公的な立場の人が言って良いことかどうか、「舌尖で千転」したのか(自分の実績を台無しにしかねない言葉を軽率に発してしまう、資質の問題があるのではないか)?

・「女性の役職者が増えると会議が長くなる」はエビデンスを踏まえた発言か? また反発した側もエビデンスを踏まえて反論したのだろうか(ちなみに、森氏の発言を否定する研究例としては、ブリガム‐ヤング大とプリンストン大との共同調査結果が存在する。他にもあると思われるが)?

・その場で、または散会した後にでも、森氏に指摘したりたしなめたりする人が、役職者の中にいなかったのか? 組織委は普段どのような雰囲気の中で運営されていたのか?

・批判が巻き起こった後、「謝罪して撤回すれば問題ない」判断は適切だったのか? この発言が国際的に報じられた場合、いかなる受け止められ方をするのか、氏や組織委は想像力を働かせることはできなかったのか?

・世界から注目されている中、森氏が辞任表明した後の後継候補を、なぜ「密室」で決めようとしたのか? それ自体が時代遅れ、あるいはドメスティックだとの認識は、関係者の頭の中になかったのか?

・「老害」の言葉の適否はひとまず措いて(これも高齢者差別用語だとの見かたもあるが)、社会的地位のある高齢の人が、自分のポストを簡単に捨てられないのは、日本全国に共通する現象である。その実態をどう評価し、対策をどう準備するべきなのか?

日本国民の中に、森氏(の発言に窺える背景)と同様なジェンダーの感覚を持ちながら日々を過ごしてきた人(おもに高齢男性、一部は女性も)が、相当な割合で存在することは現実である。その人たちの人生の歩みを肯定的に捉えつつ、どう意識改革をしていくのか?

まずはこの辺りが論点かと考えられる。暇な人間ではなく、評論を業とする者でもないので、私がそれぞれの項目について、あえて意見を細かく陳述することはしない。各自で考察の材料にしていただきたい。

さて、東京五輪に関して、私はかつて自著本の中で以下の通り言及した。

「賢明な読者の皆さんは、2020年・東京五輪のメインスタジアムとなる新国立競技場建設計画の決定にあたり、本章(注;第7章)で述べてきた『日本』的原理の悪い面のほとんどが凝縮されていることに、気付いたことであろう」(『口のきき方で介護を変える!』P.164~165)

この本は2015(平成27)年10月に上梓しているから、5年余り前のことだ。あのときの競技場にまつわるゴタゴタは、まさに「日本特有の現象」を帯びた組織委関係者(個人・団体を含め)の体質に由来すると、私は考えていた。そして5年の時を経ても、その体質が変革されないまま、ここでまた同様な問題が起きてしまった。

その「第7章」で述べたことを相関図にまとめたものが下の画像である。これらの思考形態や行動様式が負の連鎖を構成しており、私たちの社会の行く末に暗い影を落としていることを分析して、市民意識の変容を促したものだ。詳しく知りたい方は、同書をお読みいただきたい。

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さて、いまの菅総理とも重なる面があるが、森氏もかつて小渕政権において与党幹事長、いわば屋台骨を支える「番頭」の役割を担っていた。総理になったのは前任者が急病で倒れたからだ。実は前述の「日本的な」がとりわけ鮮明に出現するのは、このパターンなのである。これが森氏のリーダーシップのスタイルとなり、現在まで「続いてしまった」と見てよいだろう。

「経営者型権力」「番頭型権力」の用語がある(ずっと以前から社会科学や人文科学に関する複数の研究者により用いられてきた)。前者のスタイル、特に足利義教・織田信長・徳川綱吉・徳川家重・大久保利通などに代表される独裁的な手法となると、後者の人たちは到底それを採用することができない(安倍前総理であっても、この5人に比べるとかなりマイルドだった)。また、独裁者は多くの「日本人」から嫌われる。義教・信長・利通のように「消され」たり、綱吉(「暴君」とされた)や家重(「バカ殿」とされた)のように貶められて低く評価されたりで、いいことがない(笑)。

後者のスタイルを採るリーダーは、「和」を尊重して組織を運営する。周囲がそれに「都合良く」合わせるスタイルが、これまでの「日本的な」組織運営に適している。政治・経済から社会の個別分野まで、中央から地方まで、いわゆる「護送船団式」が肌に合っている個人や団体が多いのだ。良し悪しはともかく、日本はその原理によって動かされてきた。

しかし、画像の図にある通り、「和」は他のさまざまな要素とつながっている。森氏の発言や五輪組織委、その周辺の人たちの意識や体質が、なぜ今回の騒動を招いたのか? それは私が解説するよりも、みなさんがこの図を眺めながら、それぞれの頭で考えていただきたい。いみじくも右下に「儒教」の一要素として、「男尊女卑」も掲げてある(笑)。
(なお、森氏は自分の思想が儒教に基づいていると明瞭に意識してはいなかったと思われるので、念のため)

そして、今回の事案を契機に、単に個人や組織の問題にとどまらず、日本社会を根強く「支配」している上記の構図そのものを変えていく必要があると、私は考えている。

次回へ続く)

2021年1月30日 (土)

新型コロナ(14)-私たちに問われているもの

日本で新型コロナウイルスの蔓延が始まって、はや一年になる(日本国民で初めての陽性者が報告されたのが昨年1月28日)。

私たちは、さまざまな不自由や困難と向き合いながら生活することを余儀なくされてきた。そして、このコロナ禍の中で、私たちは多くの課題に直面している。

その課題のうち最大のものは、次の二つだと私は考えている。

一つは「人の尊厳」。

もう一つは「人間の尊厳」。

この二つの意味には重なる部分もあるが、切り分けて捉えている。

前者は、一人ひとりの「人」が尊重されつつ、日々を生きられることの大切さ。

後者は、その「人」と「人」とが、社会の中で関係性を保ちながら、望ましく生活できることの大切さ。

私たちの人生に欠かせない車の両輪だ。

コロナ禍で、多くの人たちが当たり前のように享受してきたこの二つの尊厳が脅かされる現実を、私たちは目の当たりにした。

「人の尊厳」の軽視。巣籠もりに起因するDVの増加、感染者への誹謗中傷、医療従事者への誹謗中傷、いわゆる「マスク警察」「自粛警察」「時短警察」等の誤った正義感に基づく行為、葬祭の過剰な感染予防体制(家族の死に目に会えない、お世話になった親戚の葬儀に参列できないなど)、等々...

「人間の尊厳」の軽視。帰省(やむを得ずに)する学生や里帰り出産する妊産婦への非難、高齢者施設での面会禁止(代替の方法も工夫してもらえない場合など)、想像性の欠如に基づく行為(軽率な飲み会やBBQなど)、蔓延のリスクを無視する自己主張(飛行機内でのマスク着用拒否など)、品物が本当に必要な(無いと生活できない)人たちを脅かす異常な買い占め、在住外国人への理不尽な制約(母国へ戻れない技能実習生、入管から仮放免されても就労できない難民申請者など)、血眼になって煽動するメディアの視聴率稼ぎ、政治家や官僚による他人事モードの空虚な発信、等々...

これらの行為が報じられるたびに、悲しくなる。

日本ではこんな状況だが、国によっては民族・宗教や貧困・飢餓などの問題が大きく、さらに深刻さを増しているところもあるだろう。

読者の多くは、J.スウィフト(1667-1745)の「ガリヴァー旅行記」を読んだことがあるだろう。その最終章「フウイヌム国渡航記」に登場する「ヤフー」なる類人猿は、人間の退化した姿であり、汚物を投げ付けたり、貴重な石を奪い合ったり、あたかも人間が本能のままに振舞ったらこうなるのだと言わんばかりに描写されている。先に掲げた「人の尊厳」や「人間の尊厳」を傷付ける言葉や行為は、この「ヤフー」を想起させる。換言すれば、言動の主やそれが飛び交う原因を作り出した人たちは、自分たち自身の「人の尊厳」「人間の尊厳」を貶めているのと変わらない。

これまで抑制されていた人間の負の側面が、コロナ禍を機に表面化してしまったのだろうか?

私たちはそうあってはならないのだ。これらを反面教師として、「人の尊厳」「人間の尊厳」の大切さをいま一度見直し、その二つを守るためにどう発言し、振る舞い、活動しなければならないのかを、いまこそ模索していかなければならない。

地球規模で起こった災厄に違いないが、その災厄がもたらした試練は、私たちに対し、「人類はどうあるべきか」と問い掛けている。

この大きな命題に応えられたとき、私たちの輝かしい未来に向けての再出発が始まるであろう。

2020年8月16日 (日)

脱毛と植毛の広告から考えたこと

はじめにお断りしておくが、「毛」をテーマにしたエントリーではない。

真面目な話題であるが、あまり重苦しい内容にしたくないので、自らの卑近な例から論を起こそうと思うのである。

一昨年、GoogleやFacebookで、「脱毛」関連の広告が複数、にわかに登場した。しばらくその状態が続いたのだが、昨秋からこんどは逆に、「植毛」関連の広告が表れ始め、いまだにときどきは「脱毛」が登場するものの、頻度は「植毛」のほうが大幅に増え、ほとんど毎日表示されるようになった。

ご存知の通り、「脱毛」と「植毛」とは、おもに対象とする身体の部位が全く異なる。前者は普段他人に開示しない隠れた部分であるのに対し、後者はほとんど頭髪が対象である。両者に直接的な関連はない。

そこで、広告が増えた原因を推察してみた。

前者で考えられる原因は二つ。一つはFBで親しい人たちに(年齢を省みず(^^;)「婚活するぞ!」とぶち上げて、(中高年男性なのに...)美容系の商品に関心があると推測されたらしいこと。もう一つは、@Niftyの検索で一回「VAIO」と打つところを間違えて「VIO(笑)」と打ってしまい、候補に出てきたサイトを興味本位でのぞいてみたら、関心があると誤解されてしまったらしいこと。

後者の主たる原因は、時期から考えると明らかだ。埼玉県在住のこの方と初めて会い、それを節目に氏とFB上でのやりとりが増えたことから、「増毛」に関心があると把握されたらしい。自分自身の頭髪もかなり寂しくなってきたが、直近の画像はほとんどアップしていないので、やはり上記の方とのお付き合いが直接的な原因だと推測している。

ここで、私の関心が「推測された」「誤解された」「把握された」のは、「誰によって」なのか?

言うまでもなく、広告を流したい人たち(スポンサーになった広告主から宣伝料をもらい、ブラウザやSNSや「まとめサイト」を無料で運営している人たち)である。閲覧者の興味や関心をAIで分析し、その結果を活用して閲覧者に見てもらえそうな広告を選択して送り、その関連商品を購入したくなるように誘導する。インターネット黎明期には技術的に困難だったやりかたが、いまはごく一般的な手法として活用されている。

つまり、「相手(相手側の集団)はどんな人(集まり)か?」について、開示された情報から理解した上で、自分(自組織)が相手に提示したい情報を送り付けることが可能になっているわけだ。

さて、本題。

昨日(8月15日)は終戦75年。第二次世界大戦で命を落とした(日本国民のみならず、世界中の)人たちの安息を祈りつつ、戦争について考えてみた。

いま、世界の各地で、国境線や国内派閥間の紛争などの「熱い戦争」が起きている。かつての大戦と規模こそ違え、銃撃や爆撃で命を落とす人が後を絶たない。

しかし、いまやこの種の「戦い」は、戦争の規模が大きくなるほど、「限定的な手段」になりつつあるのだ。

たとえば、私が日本を敵視するA国の独裁的な指導者だとしよう。もし日本へ侵略戦争を仕掛けて勝ち、日本国民を隷属化、そこまでいかないまでも、強い影響下に置こうとしたら、どうするか?

いきなり日本へ攻め込むことはしない。日本側の内部を分裂させ、国力を弱めることや、日本を外交的に孤立させ、味方して戦ってくれる国を無くす、または最小限まで減らすことに力を入れる。そして、短期決戦で十分に勝てると見込んだ時点で、日本に宣戦する。

その内部分裂や外交的孤立の手法は、先に述べた広告と同じやりかたを何万、何億と積み重ねたものだ。すなわち、AIを活用し、ICT技術を駆使して、日本の政治指導者・政党、経済面の重要人物、社会的なキーパーソンなどの関心の向かう先を迅速に把握し、先回りして罠を仕掛ける。日本国民の動向を誤った選択に導き、世論を攪乱させる。「生活に便利だから、A国に(政治的にはともかく、経済的には)従属してもしかたがない」と考える日本国民を増やす。加えて、適時に日本の自衛隊などの軍事的核心部分の機器にサイバー攻撃を加えて使用できなくするなど、遠隔地からじわじわと日本の「首を絞めて」いく。なので、実際にA国軍が日本に侵入して銃撃や爆撃を加えてくる時期には、すでに戦争は終わっているかも知れない。

もちろん、このような対敵事前工作は、古代から常套手段として展開されていたが、ICTの発達により、全く規模が異なるレベルにまで様変わりしてしまった。いまや国と国との「戦争」の9割は、この事前工作であると言って良い。いずれ、政権担当者をAI一つで殺害することができる水準にまで達するだろう。「敵基地攻撃能力は専守防衛の範囲外だ」などと寝言を言っている時代ではないのである。実際に攻撃しないにしても、それが可能な程度の能力を持たなければ、国を守れないのだ。

先の大戦の悲惨な経験をもとに、「平和」を訴える人たちの声は尊い。だからこそ私たちは、「二度と繰り返さない」ために、現代の「戦争」がいかなるものなのか、正しく理解しなければならない。国民のみなさんには、75年前のカビの生えた「戦争」の知識にしがみつかずに、頭の中をアップデートしていただきたいと願っている。

2020年8月 9日 (日)

「平和」をどう考えるか?

私たち日本のカトリック教会の信者は、8月6日から15日までの十日間を「平和旬間」と呼ぶ。

例年ならば、このうちのどこかの日に教会へ行き、ミサに参列して祈りを捧げる。しかし、今年は新型コロナウイルスの影響により、大聖堂に入れる人数に制限が設けられた。当然、本日や次の日曜日・16日には、来場する信徒も多いと思うので、行くのを見合わせ、月の後半に出向こうと考えている。

きょう8月9日は、75年前、長崎に原爆が投下された日である。まずは当時の犠牲者の方々に、深い哀悼の意を捧げたい。

Nagasakishinkou

さて、私たちは「世界平和」をどう実現するのか?...と言ってしまうと、主題が広くなり過ぎるので、ここは一点に絞って考えてみよう。

「核兵器を廃絶すれば(そんなに簡単に実現できるとは思えないが、もしできた場合は)世界は平和へ向かうのか?」

実は、必ずしもそうとは言い切れないのだ。以下にその理由を列挙してみる。

第一に、国際的な監視システムの確立が難しいことである。

核兵器の廃絶とは、すべての核保有国(米国・英国・フランス・中国・ロシア・インド・パキスタン・北朝鮮・イスラエル)が核兵器を廃棄し、かつ核開発能力を持つ国(日本・ドイツやイランを含めたいくつかの国)が開発のために使用可能な設備を廃棄することだ。これが実現できれば「核兵器の廃絶」となる。核兵器禁止条約はもちろんここを目指している。

しかし、仮にこれが本当に実現したとしても、平和へ向かうとは考えられない。なぜなら、その状態を維持していくためには、途方もなく緻密な国際監視体制が必要になるからだ。当然、「旧」核保有国は、いざ自国の安全保障上必要な事態が起これば、再度核開発を始める可能性があるのだ。

もし、A国が核の再開発を始めたとしよう。いまの情報社会であるから、当然、敵対するB国にはその情報が伝わる。B国は以前核兵器を持っていたとしても、いまは廃棄している。A国が核兵器を再保有してからでは、自国の安全保障に重大な問題を来たす。したがって、A国が再保有しないうちに攻撃しようということになる。国際監視体制により国連軍がA国を攻撃することは、たいへん考えにくい(いまの五大国拒否権がある限り無理である)。したがって、B国はA国を通常兵器で攻撃する。それにA国は対抗して戦争が起きる。他のすべての国がB国側に立てば、すぐに戦争は終わるかも知れないが、そうはならない。A国側もあらかじめ味方になってくれる大国を確保しておくであろう。となれば、世界の大国の多くがそれぞれの側に立って参戦する事態になりかねず、そのまま第三次世界大戦が勃発する可能性は小さくない。

第二に、核兵器が世界から本当に消えた場合、核以外の兵器で比較優位に立つ国の暴走が起きやすくなることだ。

上記のような「核保有」レベルの諸大国を直接巻き込まなければ、地域大国を目指す国が核以外の兵器で対立する国を攻撃する可能性は、現在より大きくなる。西欧や北米などを除き、世界の各地では現在でも「小競り合い」が起きているが、核廃絶後には、それを超えたレベルの戦争が各地で勃発する危険性は、高まると予測せざるを得ない。また、「旧」核保有国が、核の再開発をチラつかせて、通常兵器での戦争を仕掛けやすくなることも軽視できない。

これ以外にもあると思われるが、この二つがおもに私が「核廃絶がかえって悪い結果を生むかも知れない」と予測する理由だ。

もちろん、広島や長崎の被爆者や、その心を受け継ぐ人々に、冷水を浴びせる意図はない。私自身、現在の暫定的な効果はともかく、長期的には決して核兵器の抑止力を良いものだと考えているわけではないので、誤解なきよう願いたい。冷静に分析すると、核廃絶だけに邁進するのが良策とは言い難いのだ。

私自身、クリスチャンとして、いずれはキリストが勝利し、戦争のない地球が実現することを信じている。それは遠い先のことであると言わざるを得ない。少なくとも、私がこの世に生きているうちには無理である。

これは人類永遠の課題であろう。

2020年7月22日 (水)

勇気ある撤退はできないのか?

リニア新幹線をめぐる「騒動」。

静岡県内を通過する部分のトンネル工事に関して、着工の目処が立たない状態が続いている。川勝平太知事が、大井川の流量減少問題が解決されていないことを理由に、川底の下を通るトンネル掘削の着工許可を出していないからだ(なお、天竜川や富士川については、リニア新幹線が橋の上を通る計画なので、トンネルの問題は生じない)。

JR東海や他県民、特に愛知県の多くの人たちが、この現状を「静岡県民・県知事が、自県の利益にならない(駅ができない)ことを不満に思い、リニア計画の円滑な進捗を妨げている」と受け取っているようだが、もちろんこれは間違いである。

大井川水系流域の10基礎自治体は、水の恵みを農業、工業など広く地域の産業に活用している。トンネル掘削作業中に川の流量が減少すれば、ただでさえ「水枯れ」問題に悩まされてきた流域の自治体は、さらに打撃を受ける可能性がある。したがって、減った水の全量が戻ってくる保証がなければ、掘削工事を容認できないのだ。JR東海からそれに関して、流域の住民を納得させられる科学的な説明が十分になされていないので、不安を増幅させることになった。

川勝知事が「勝手に掘るな」と言ったことから、あたかも相手方にケンカを売っている印象を受けた人があるかも知れないが、これも間違い。JR東海の社長が流域自治体市民の神経を逆撫でするような発言をしたり、愛知県知事が川勝知事との面会を拒絶したりと、誤解を恐れずに言えば、推進する側の「不遜な」言動が、問題をこじらせる要因になったのである。あえて表現すれば、川勝知事は「売られたケンカを買う羽目になった」側になろう。

国交省の専門家会議でも、静岡県から出席した学識意見者の報告によれば、流域への影響評価については、いまだ方向性が一致していないことか明らかだ。にもかかわらず、JR東海側が計画を遮二無二進捗させようとする姿勢を変えないのだから、知事が「乱暴」と表現するのもうなづける。もちろん、県民や県知事の側も、疑いの余地がない科学的根拠に基づいた手段により、流量の回復が保証されるのであれば、耳を傾けなければならないのは当然であるが、いまはそれ以前の「静岡県民の生活が尊重されているのか?」の問題であると言わざるを得ない。

そして、推進する側の論者たちは、静岡県民や県知事が「静岡に『のぞみ』が停車しないことに不満を募らせていた」「富士山静岡空港に駅を作らせてもらえなかったことを恨んだ」ので、嫌がらせに計画を妨害しているかのように論評している。バカも休み休み言えと言いたい。それは問題のすり替えに他ならない。流域住民は現実に平穏な生活を妨げられる恐れがあるから、反対や不安を訴えているのだ。外野から誹謗中傷するのであれば、実際に住んでみれば良い。

それらの論者の側にこそ問題が大ありだ。県民を貶めているおもな論者の何人かを検索して洗ってみたが、みな穏当とは思えない利権や利益とつながっている。中には過去、善良な人を死に追い込んだ経歴のある人間までいる。ジャーナリストの旧悪を穴ぐり立てるのは本意ではないが、過去の行為を恥じることなく相変わらず他者を非難攻撃しているのであれば、さかのぼって問題視せざるを得ない。

ところで、流域10基礎自治体の首長すべてが一枚岩ではない。計画自体に絶対的に反対している人もあれば、「建設しても良いが説明責任を果たせ」と主張している人もある。川勝知事はこれらのさまざまな意見を集約して、JR東海や国土交通省と交渉し、専門者会議で流域住民を納得させられる明確な根拠を示し、責任を持って方向性を出してほしいと要請している。

これは工事期間だけの問題で、リニア新幹線が完成してしまえば良いかと言えば、そういうわけでもない。上流の貯水機能の低下や、重金属等の下流への流出への懸念も生じる。JR東海には静岡県民に対し、これらの事象の予測可能性についての説明責任も当然求められる。

ところで、私も現時点で、リニア新幹線計画を全否定→ダメ出しする意図はないが、これほど問題が複雑化している計画なのだから、一つの選択肢として、「勇気ある撤退」はできないのだろうか?

愛知県の人たちの多くは、この計画に賛同したいのかも知れないが、東京-名古屋が日帰りで往復できることになれば、用事で出向いた際の宿泊や外食の機会も減ることを考えると、一概に所期の経済的効果が上げられるとも思われない。山梨県・長野県・岐阜県についても、駅を設置した町とその他の地域との間に落差が生じ、加えて設置した町の交通も大して利便にならない(東京や名古屋とはすぐに往復できても、県都や他の観光地までの距離は埋まらないなど)ことも予想される。

また、長大なトンネル通過中に大きな地震が発生して停車した際に、乗客がどのように車外へ脱出できるのか? これについても人々を納得させる案は示されていないと理解している。

実際に開通したとき、世の中がどうなっているのか? 多くの国民の利用に耐え得るのか? リニア新幹線ができた後の新たな課題や負の成果も予測しながら、再度アセスメントすることが求められているのではないだろうか。

「すでに膨大なお金を掛けたから、先へ進むしかない」のであれば、それは75年前、連合国との戦争にどんどん深入りしてしまった旧帝国軍部と同様な思考であり、結果として大きな破綻を招くことが懸念されるのである。

2020年7月 8日 (水)

新型コロナ(13)-政策はどうあるべきか?

前回より続く)

世論調査では現内閣の支持率が下がっている(調査の主体によってバラツキがあるので、数字は掲げない)。調査方法によって特定の結果が出やすい問題はあるものの、概して新型コロナ対策以前よりも、現在のほうがかなり低落していることは間違いない。

そして興味深いのは、政権与党(自由民主党・公明党)の支持率が下がっているのにもかかわらず、野党の多く(立憲民主党・国民民主党・共産党)は支持率があまり上がらず、むしろ時期的には結構下がっている政党もあることだ。このところ明確な支持率上昇を見せているのは一党(日本維新の会)ぐらいか。大阪府知事が目に見える活躍をしていることが影響していると思われるが。

内閣支持率や各政党の支持率は、新型コロナウイルス対策だけで決まるものではない。他にさまざまな要因が考えられる。とは言え、この2月以降の社会情勢を考えると、新型コロナウイルス対策への評価が大きな比重を占めるのは間違いないと言えよう。

さて、内閣や政権与党の支持率が下がったことは、その政策が大きく誤っていたことを意味するものではない。内閣や政党が「こうする」「こうしたい」ことと、市民が「いま、こうしてほしい」こととの乖離が大きければ、適切な政策であっても支持されないこともあるし、望ましくない政策であっても支持されることがある。野党が提案した政策の場合もまたしかり。

つまり、政策に対する評価は、前後の大きな流れを踏まえた長期的な視点でなされなければならないのだ。

その視点から眺めた場合、現政権の政策は、こと新型コロナに関する限り、大きな過ちがあったとは考えられない。確かに世界的な感染症のパンデミックは、過去にも例があったが、新型コロナは従来の感染症とはかなり性格を異にする未知のウイルスであるだけに、難しい対応を迫られた。最善かどうかは評価が分かれるところだが、少なくとも第一波の感染拡大を封じ込めることには成功し、医療崩壊や介護崩壊(地域的には見受けられたが)を最小限に食い止めることができた。

政策を批判する権利は、国民が当然持っている権利だ。しかし、非常事態に批判ばかりしていた人たちは、果たして建設的な行為をしたと言えるだろうか? 一部の野党系と見なされる個人や団体は、普段から「選挙で選ばれた人たちが責任を持つべき」と主張しているのにもかかわらず、これまでのエントリーでも触れた通り、「発注者」である「被選議員により選出された総理の内閣」でなく、「受注者(マスク製造企業、持続化給付金の取り扱い団体など)」を叩きに行っているのだ(押し掛ける、電話で詰問するなど)。その行為が作業を遅らせているとしたら、全く自己矛盾しているではないか。事態が落ち着いてから、事業のあり方を総括して批判するのが筋ではないか。

私自身は政策について、細部の反省点はいろいろと存在するものの、大枠で妥当だったと考えている。

難しいのは今後の経済回復である。国民全体を覆っている生活水準の低下、失業の増大、投資の減退をどう建て直していくのか? 観光再建による「Go to キャンペーン」なども、しばらくは「焼け石に水」であろうし、新型コロナの第二波・第三波にも留意する必要がある。

多くの国民は、一気に経済を「V字」回復をさせたいと願っているであろう。しかし、今回の日本の場合には、傷付いた個体が無理をせずに、待ちの姿勢でじっと体力を涵養する、「レ型」の回復を図るほうが望ましい。その間に政府が国内各産業の建て直しと並行して、国民生活のセイフティネットとなり得る十分な福利厚生策を打ち出せるかが大きな課題になる。この機会に国の無駄遣いを徹底的に洗い出すことも大切であろう。

国際競争力を落とさないことも求められる。経済に限らず、外交や防衛にも力を割いて日本の存在感を高める必要がある。今回の新型コロナを奇貨として、中国や北朝鮮をはじめ、いくつかの国が軍事力拡大路線を進もうとしている。日本は米国やオーストラリア等の近隣国との適切な連携を保ちながら、国民の安全を確保していくことが必須である。

東京五輪が一年遅れで無事開催されるのかも、政策の成否を占う一つのポイントになろう。もちろん、そのためには新型コロナを封じ込めるための国際協調が絶対条件だ。米国がWHOから脱退するとなれば、新型コロナ「火元」の中国とは別の意味で、日本が果たすべき役割は重要さを増す。

現政権が低空飛行と言われながらも、持ち前の柔軟さで難局を乗り切っていくことに、また、各野党もそれぞれ旧弊から脱して、国の再建のため政権与党に必要な協力をしながら、積極的な対案を繰り出していくことに、期待したい。

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