経済・政治・国際

2023年8月19日 (土)

「席次」を軽視するなかれ!

かつて、筆者が自分の所属する職能団体の役員(代表者の次席。序列二位)をしていた時期、こんなハプニングがあった。

別の職能団体(創立百年と歴史が古く、政治力も大きい団体)からの提案で、両団体の役員が対面して協議をすることになり、当団体から四名(一名は非役員)が出向いた。会議室ではいわゆる対面式で、先に先方団体の役員五名が片側を占め、代表者が真ん中(奥から三番目)に座っていた。ところが、当団体があとから入って行ったとき、先頭を歩いていた代表者が、四席のいちばん奥に座ろうとした。私はすぐ気付いて、代表者に奥から二番目に座るように促し、私が一番奥に着席して事なきを得た。この場合、第一席の人同士が正面から向き合う形になるために、先方団体は奥から(4)(2)(1)(3)(5)、当団体は奥から(2)(1)(3)(4)が正しい座り方なのだ。やりとりの最中、先方の代表者が「団体として未熟だなぁ」と言わんばかりに笑みを浮かべていたのを覚えている(両代表はきわめて近しい協働関係にあったので、もちろんこの一件だけで信頼を損ねたことでは全くない。念のため)。

「席次」に関する最低限の知識を備えていないと、相手側の失笑を受けることになりかねない。

登壇して画像を撮ったりメディアに相対したりする場合、真ん中が第一席だが、和式と洋式(事実上の国際式)とでは、左右の上下が異なる。

日本の伝統である和式の席次は、最上位者の左(向かって右)が第二位、右(向かって左)が第三位、以下、左第四位、右第五位と続く。

一方、洋式の席次を踏まえた国際式の席次では、左右が逆になる。最上位者の右(向かって左)が第二位、左(向かって右)が第三位となる。

さて、しばらく前に日大で行われた、アメリカンフットボール部員の不祥事に関する会見で、「席次」が話題になっている。経済ジャーナリストの磯山友幸氏が、会見の席次を踏まえて、林真理子氏がお飾り理事長であると評したのだ。

この会見では、向かって右手から三人が登壇し、そのときには林理事長が先頭だった。ここまでは問題ない。ところが、林氏はそのまま奥(向かって左)に着席し、真ん中に酒井健夫学長、手前(向かって右)に澤田康広副学長が座った。あらかじめ職名と氏名が記載された紙が席に貼ってあったので、日大側が決めた席次であることは明らかだ。

メディアに向き合っていわば「ひな壇」に並ぶのであるから、ドメスティックな色彩が強い(あくまでも筆者の個人的な評価であるが...)日大であることを考えれば、磯山氏が理解している通り、和式の席次によって、序列が(1)酒井氏(2)澤田氏(3)林氏の順だと受け取られてもしかたがない。

磯山氏の指摘に対し、異論も唱えられている。学長は教学に最高責任を持つ立場であるから、実質的に理事長と同等であるので、今回は主として説明する立場である以上、真ん中に座るのは問題ないとの見解だ。

しかし、これはおかしい。それならば大学側がそのように説明すべきである。何の説明もないまま理事長が「向かって左端」に座っている場面を見せられれば、マナーを心得ている誰もが「学長が理事長より上座なのか?」との疑問を持つ。法人としての会見である以上、「法人の代表者」が最上席に座るのが社会通念である。たとえ会見の大部分で酒井氏が受け答えすることを想定していたとしても、あくまでも真ん中に着席するのは林氏であるべきだろう。もし「現実的な力関係」を反映した並びをあえて演出したとすれば、日大組織の実体を露呈してしまったことになる。

形式偏重の面倒な議論だと思う読者がおられるかも知れないが、「席次」はゆるがせにできない問題なのだ。上座・下座をめぐる手配が適切さを欠くと、亀裂や重大な誤解が生まれることも少なくない。

の事例に限らず、私たちはニュースで見聞きする事案などに敏感になり、他者から指弾を受けない整然とした組織活動を心掛けたいものである。

2023年6月 6日 (火)

G7広島サミット雑感(2)

前回から続く)

 広島サミットについて思ったこと第二弾。

(5)習近平政権に譲歩は不要
 このサミットの共同声明の中には、中国に関する言及が随所に見られた。参加首脳の中には、フランスのマクロン大統領のように、中国との適切な距離感をめぐって日本や米国と一線を画する姿勢を取った人もいる。共同声明では中国にこれまでと同様の対応を求めながら、新たに「外交団への干渉をやめよ」と要求する一方、「建設的かつ安定的な関係を構築する用意がある」と追加している。
 これは習近平政権に十分配慮した内容であり、マクロン政権が(上記の基本姿勢とは裏腹に)ヌヴェル‐カレドニ(=ニューカレドニア)の独立問題をめぐり習政権と水面下で対立していることなども計算に入れると、G7としてはかなり抑制した表現を選択したと言える。したがって、中国の孫衛東外務次官から呼び出されて抗議を受けた垂秀夫大使が、毅然とした態度で反論し、中国側を批判したのは当然だ。日本の対中外交は「譲歩すれば争いを避けられる」の姿勢が目立つが、国際的にはむしろ垂氏の対応がスタンダードであろう。

(6)ウクライナ侵攻に相当するのは「台湾有事」ではない
 とは言え、台湾をめぐって中国が事態を緊迫化させている現実がある。この「台湾有事」に関しては、国民の大部分が大きな誤解をしている。「ロシアによるウクライナ侵攻」は、ロシア側から見れば「一応国境線が引かれていたけれど、〔自国系=ロシア系住民の割合が多いので〕本当はウチの領土」である地域に攻め入ったものだ。中国から見た台湾はこれに該当しない。台湾は「もともと。ウチの一地方」なのだから。
 そして、中国側にとっての「再議すべき領土」は、沖縄県や鹿児島県奄美群島を指す(先方が「むかしは中国系の住民」だと主張する市民の人口が本当はどの程度なのかは、ひとまず措くとして)。鄧小平政権時代から、中国の公的機関が発行した地図には、奄美群島までの離島が中国の色で囲まれている。すなわちロシアによるウクライナ侵攻に該当するのは、「台湾有事」ではなく、将来想定され得る「沖縄・奄美有事」なのだ。日本国民はこれに対して真剣に備えなければならない時代に差し掛かっている。

(7)食糧を確保するためには国民的な努力が必要
 このウクライナ侵攻に伴う穀物や燃料などの国際的な不足を契機に、サミットの中で国際的な食糧安全保障について協議されたことは一つの前進である。とは言え、それは日本国民が食糧を確保できることを意味しない。私たち日本国民が現在のように、食べ物を粗末に扱う姿勢を続けていると、声明で食糧安全保障を唱えても、多くの国の市民たちには響かない。
 まだまだと思っていても、世界規模の飢餓がいつの間にか日本にも忍び寄っている。これを回避するためには、国民レベルで前述のような不遜な考え方を改めていくことも大切だが、他方で国として「取引材料」を持つことも求められる。たとえば、資源貧困国だとばかり思われていた日本でも、近年は南鳥島のレアアースや種子島のメタンハイドレート、さらに伊豆青ヶ島の金などの産出が期待されている。
現場に人材を集め(○○年までに資格を取れば高給で優遇するなど、若者たちを勧誘しても良い)、最新の技術を駆使して、一日も早く採掘にこぎ着けることも必要であろう。それらを一定程度の強制力を持たせた国の統制下に置き、「日本から△△を提供するので、食糧を分けてください」と要請する展開が望ましい。

(8)結局、みな自国が大事
 壊されている世界平和を再構築するために、国際協調は大きな意義を持つものであり、そのために今回のG7広島サミットのような機会が重要であることは間違いない。しかし他方で、参加国それぞれ自国が大事であることも冷厳な現実だ。縮小開催された形になったクアッドにしても、日・米・豪・印それぞれの思惑がある。中国と国境紛争を繰り返しているインドは、水面下では中国との間で「落としどころ」を探っているのが正直なところであり、かなりの場面で日本とは「同床異夢」である可能性が強い。
 あくまでも今回のサミットは一つの通過点であり、今後の各国の駆け引きが、どの分野でそれぞれの勢力圏を維持・拡大するかを左右する。日本国民の一人として、これから各国が展開する権謀術策の渦中で、日本が取り残されないことを祈りたい。

 以上、思いつくままに列挙してみた。ご笑覧ください。

2023年5月25日 (木)

G7広島サミット雑感(1)

先日、広島で開催されたG7サミット。1975年の当初はG6(カナダは翌年から参加)で始まり、また途中の一時期、G8(ロシアが1998-2013参加)になったこともあったが、紆余曲折を経て第49回を数える。

今回はさまざまな意味で、世界の注目を集めた会議となった。その成果について、絶賛するものから酷評するものまで、百花繚乱と表現すべき、さまざまな見解の論評が行き交っている。

筆者は政治評論家でもなければ、政界や財界の人たちとお付き合いがあるわけではない。とは言え、自国が主催国となって開催された会議であるから、当然のことながら高い関心を持って眺めていた。閉幕したいま、この会議を眺めた自分の所感を、箇条書きに整理して述べてみたい。

(1)課題は多く残ったが、一定以上の「成功」であった
 総合的にはこの会議の成果を評価したい。「自由・民主主義」「法の支配」「市場経済」など共通の価値観を持つ(七か国ごとの政権によってかなりの温度差があるものの、いまのところ基盤の部分は何とか共有している)各国首脳が一堂に会して、国際社会に対し、とにもかくにも同じ方向性のヴィジョンをう打ち出すことができた意義は大きい。

 そして各論。

(2)プーチン政権への非難は当然である
 大きな主題の一つに、ロシアによるウクライナ侵攻への対処がある。この点についての答えは明確だ。
 たとえ「過去にスターリンが線引きしたもの」であろうが、すでに両国間の合意により画定された国境を越えて、武力による侵攻を行ったのはロシアのプーチン政権側であり、この事実には一点の疑義もない。百歩を譲って、ミンスク議定書の破綻の原因が主としてウクライナのゼレンスキー政権側にあり、ウクライナ領内のロシア民族や親ロシア勢力の人たちが、ウクライナの極右勢力に殺害されたり権利を侵害されたりする事実があったにせよ、それは侵攻を正当化する理由にはならない。ましてやミンスク合意の時点ですでにロシアが実効支配していたクリミアをはじめ、占領した土地を「住民投票の結果」と称して一方的に自国の領土に併合する行為は、国際法違反以外の何ものでもない。
 この戦争を終結させるためには、何年かかろうが、ロシアが「2014年以降の占領地域」から全面撤退して、そこから両国国境の帰属に関する事案を仕切り直すことが唯一の選択肢だ(少なくとも当分の間、プーチン政権側は絶対に承知しないとは思うが...)。
 G7および同盟諸国がプーチン政権を非難することは理にかなっている。日本はNATOに加盟していなくても、米国と「同盟関係」にある以上、協調路線(もちろん米国の言いなりになるのではなく、日本側の提案や意見をしっかり主張しなければならないが...)を取らなければ「背盟」となる。極端な話、日米安保を廃棄されても文句は言えない。独力でロシアや中国と戦える軍事的な準備をしていない以上、これが既定路線であろう。

(3)ゼレンスキー政権を正義の味方と位置付けるのは不適切だ
 しかし、ウクライナ側に問題がないわけではない。上記ミンスク議定書の破綻も含め、ゼレンスキー政権側の民族主義的な立場からの策動(ロシア系住民への権利侵害を含む)があり、ロシア側を挑発したことは明らかだ。
 また、G7サミットでゼレンスキー大統領は真っ先に(?)イタリアのメローニ首相と喜色満面でハグする姿が放映され、しばらく前に自ら西欧を訪問した際にも、最初にイタリアへ飛んでメローニ氏と懇談して支援を要請しているが、同氏はムッソリーニ礼賛者の極右政治家として知られており(首相就任後はその色をやや薄めている)、ゼレンスキー氏がメローニ氏との親近感を見せ付けることにより、プーチン政権側が非難する通りの「ネオナチ」だと評されてもしかたがない。
 さらに、米国のバイデン政権は、ゼレンスキー政権側を一時期批判していたが、侵攻後は軍産複合体の利益を反映させ、武器供与を通してウクライナ民族主義勢力とうまく結び付いた(ユダヤ系ネットワークを介して手を結んだものと推測する)と言えよう。
 独裁的な政治手法(ある種のポピュリズム)や個人的な蓄財などの問題も軽視できない。
 日本政府の外交当局は氏の政権が抱える実態を正確に把握した上で国際政局に臨まないと、痛い目を見ることになる。「ゼレンスキー氏が正しいから支援する」のではなく、「ウクライナの現状を憂慮して人道的な見地から支援をする」姿勢を取ることが求められる。

(4)核兵器がなくなっても国際平和は来ない
 広島サミットの一つの大きな主題が「核なき世界」の実現へ向けてのメッセージであった。全参加国の首脳が原爆資料館を見学し、慰霊碑に献花したことは、たとえ一つの出発点に過ぎないとは言え、大きな意義を有するものであろう。
 しかし現実には、米国はもちろん、英国・フランス・インドも核兵器を手放す方向性は全くない。またドイツ・イタリア・カナダはNATOを通じて、日本・韓国・オーストラリアは米国との軍事同盟を通して、それぞれ「核の傘」のもとにあるため、核廃絶運動との関わりは限定的なものとならざるを得ない。
 他方でロシア・中国・北朝鮮が国際的な非難を回避するために、EMP攻撃(人間の殺戮よりも都市機能の破壊を目的とした特殊な核攻撃)も含めた戦略を練っているとしたら、国際的な折衝はさらに難航するであろう(筆者はその専門家ではないので詳細な分析はしない)。
 加えて述べると、将来本当に「核廃絶」が実現したとしても、戦争したい国や政治家は通常兵器の性能向上を目指すことになるので、局地的な戦争が発生すると殺傷行為が残虐化して、惨禍はより大きくなる可能性があることも、頭に置いておくべきだ。「核廃絶」を目指して今回のサミットに不満を表明する人たちは、この点について理解しているのだろうか?

(5)~(8)その他の諸点
 以上、重要なポイントを掲げたが、他にも言及しておきたいことがいくつか散見された。長くなるので、後日、稿を改めて述べてみたいと思う。

次回へ続く)

2022年8月 8日 (月)

安倍氏銃撃の背景にあったもの

一か月前の7月8日、安倍晋三・元総理が奈良県で参院選の応援演説中に、後方から銃撃されて67歳の生涯を閉じた。

個人的には、安倍氏の全方位外交政策や、現実を踏まえた防衛政策を高く評価する一方、社会保障政策に関しては批判したい点が多くあった。ただ、いまはそれらを総括して、国政に大きな業績を残した政治家であったと評価したい。そして、その早過ぎる死去に哀悼の意を表する。

さて、この銃撃については、百花繚乱と表現すべきさまざまな論評が入り乱れている。山上徹容疑者が何をどのように供述したのか、あくまでも捜査当局→メディアを通した情報しか伝わっていない。これらの情報がどの程度、事件の全容を映し出しているのか、いまだ不明瞭な部分が少なくない。

「(容疑者の)母親が旧・統一教会にのめり込んで多額の献金を続け、家庭が崩壊した。そこで同教会の代表者を殺害しようと機会を狙ったが、近付くことができず、代わりに同教会と関係が深いと信じた安倍元総理を標的にした」。これが一般的に知られている事件の動機である。この通りだったのか、それとも私たちがいまだ知らない情報が隠されているのか、判然としない。

ただ、この情報の通りだったとしても、なぜ同教会と緊密な政治家の代表者が安倍氏だったのかが理解できない。安倍氏が同教会の関連団体に祝辞を送ったのは事実であり、側近の中に信者(と考えられる人)がいたことも現実だ。とは言っても、集票力への期待から、いくつかの宗教団体にエールを送ったり選挙の際に頭を下げたりするのは、安倍氏に限らず多くの政治家に共通する。何よりも安倍政権を含む歴代の自民党政権は、別の大きな宗教団体を支持基盤とする政党と久しく連立を組んでいる。

安倍氏が通常以上に同教会と親しかったかのような報道がなされているが、これは銃撃という結果から「こうだったに違いない」とほじくり出した、いわば後付けの情報であり、信頼に乏しい内容も少なくない。おもに左派の論者は、安倍氏の祖父であった故・岸信介が「国際勝共連合」と組む目的で同教会に接近したことを挙げているが、そもそも個人の「出自」を引き合いにすること自体をヒステリックに拒否する左派が、敵対する人の場合は「祖父の行状」を持ち出して孫を批判するとしたら、これは二重基準も甚だしい。

しかし、実際に事件は起きた。それではなぜ安倍氏が標的になったのか? 容疑者の立場に立ってみると、母親に向けられていた怒りが、「母の人生を狂わせた」同教会への怒りに変容し、さらにその教会トップを「殺せなかった」ことから、何かの形で「復讐」を果たさなければ、心の平安を保てない状態になっていたものと推測される。精神科医の片田珠美氏は、容疑者の「怒りの置き換え」が生じたと指摘している。

その「置き換わった」対象が安倍氏になった大きな原因は、いわゆる「アベ脳」に代表されるような「刷り込み」(←個人や団体に向けて意図的に行う「洗脳」とは異なる)の結果ではないかと、筆者は推測している。何か社会問題が起きると、いとも短絡的に「これもアベが悪い!」と結び付けていたメディアの煽りは、目に余るものがあった。政権が退陣したことによりこの煽りは沈静化したものの、8年にわたって、一部の国民の脳には「アベ=悪」と刷り込まれていた。その一人が山上容疑者ではなかっただろうか?

今後、新たな事実が判明して、筆者の推測が誤りであったことが証明されるかも知れない。しかし、たとえそうなったとしても、理性的な批判の範囲を越えた憎悪を拡散することによって生じる「刷り込み」は、時として人を殺すものであることを、私たちは肝に銘じておくべきであろう。

2022年5月 7日 (土)

憲法記念日に寄せて

私は今年営業日だったが、一般的に祝日である5月3日は、「日本国憲法」が施行された日(1947年。今年は施行75年)である。

このところ、憲法を改正すべきか否かの議論が喧(かまびす)しくなっている。もちろん、ロシアによるウクライナ侵攻を受けた現象であることは、言うまでもない。

3日にも各地で「改憲」「護憲」それぞれの側からの集会や活動が行われている。私自身は「改憲論者」であるが、たとえ定休日であっても、集会に参加することまではしていない。国の基本法が75年も改正されないことが正常だとは思えないから、国政選挙で改憲を、特に九条の改正を主張する人が立候補した場合は、他の政策に大きな違和感がない限り、その候補者に票を入れている。

他方、「護憲」を主張する人たちの大部分は、何よりも平和憲法の根幹である「九条」を守れ、と主張する。そうすることによって日本の平和が守られる、との見解なのであろう。

さて、「護憲」を謳う以上、憲法そのものを守らなければならない(当然だが...)。そのためには、「A.国民による改正(護憲論者の人たちから見れば「改悪」)をさせない」だけでは不十分だ。憲法は国内法であり、外国はこれを守る義務はない。したがって、日本の平和を守るためには、「B.外国に日本を攻撃させない」ことも保証させなければならない。もし外国が日本に侵攻(「間接的侵略」も含む)して、政治の中枢を支配してしまえば、その力によって憲法はその国の都合が好い形に変えられてしまう。

そこで、「護憲論者」の方々に質問がある。

日本に敵対的、ないしは非友好的な国が、すぐ近くに四か国も存在する。(1)竹島を一方的に自国領土へ編入して返還せず、過去に日本と締結した条約の趣旨もしばしば蔑ろにしている韓国、(2)尖閣諸島(...のみならず、遠回しな表現ではあるが、沖縄全県と鹿児島県奄美群島も含む地域まで)への領有権を主張し、領海侵犯を繰り返す中国、(3)北方四島を実効支配して返還せず、周辺海域を艦船で威嚇するロシア、(4)国交がなく、日本を敵視してミサイル発射を繰り返し、その標的に位置付けてはばからない北朝鮮だ。

「護憲論者」の方々は、これらの諸国の政治指導者に対して、上記のBを実践してもらうために、日本国憲法の理念をどのように説き、どのような回答を得ているのか?

いや、(1)韓国については、散発的(志を同じくする人たちが統一して行動しているとは、とても考えられない)ではあるが、ときの大統領や首相に憲法九条の趣旨を伝え説いている人もいる(それも、逆に相手方から利用されている場合が多いと、個人的には思うが...)。しかし、韓国が「不法占拠している」竹島を返還する動きなど全く窺えない。ましてや、(2)中国・(3)ロシア・(4)北朝鮮については、そもそも働き掛けた事実さえほとんど確認できない。もちろん、政治工作の中には公開できない部分もあることは承知しているが、これまでの状況では、防衛力に不安を抱える国民が納得できる説明責任を果たしているとは認め難い。

いま、これらの国々が「これ以上の力による現状変更」をしない最大の理由は、日米安全保障条約があり、米軍が日本に駐留しているからだ。もちろん自衛隊の強化も重要な原因である。しかし多くの護憲論者は、米国寄りの安保に反対であり、かつ日本の防衛費を削減せよと主張している。

ならば、上記の国々で、護憲論者の方々がどのような活動をして、政治指導者とどのような対話をしたのか? それに対して、相手はどう反応、回答したのか? その事実をまず説明すべきである。たとえば国連本部や国際会議の場で九条の理念を説いて、そこに韓・中・露・北などの首脳も列席していた...などとゴマかしてもらっては困る。本当に憲法九条の理念が至上のものだと信じているのであれば、相手のホームグラウンドへ赴いて直談判するのに躊躇はないはずだ。

もちろん、(2)(3)(4)は民主的な体制を採っている国ではないから、「護憲論者の代表」がしかるべきルートを経由して対話を申し入れても、拒絶されることもあるだろうし、仮に対談が実現しても、活動家側の理念を否定されて終わり、になることもあるだろう。それならそれで、「わが国の憲法九条の趣旨を尊重し、攻撃してこないことを保証せよと、○○国家主席(大統領、委員長etc.)に対話を申し入れたが、断られた」「...説得したが、否定的な回答しか得られなかった」と報告してほしい。その上で、「そこで、次のステップでは、これらの国々に対して□□□の行動を実践する」と代替案を示してくれれば、少なくとも議論の対象とすることに差し支えない(賛同できるかどうかは別として)。

「護憲論者」の活動家には、日本国内で「護憲」を叫んでいる活動家たちが圧倒的に多い。日本は言論の自由が保障された民主的な体制の国であるから、いくらでも声を上げることができる。しかし、九条を「守ってもらいたい」相手のホームグラウンドで叫ばなければ、全く意味がない。失礼ながら、「お花畑で遊んでいる姿を見せられても、議論にならない」。これが私の正直な思いだ。

いまからでも遅くないので、護憲論者のみなさんには、北京へ、モスクワへ、ピョンヤンへ行き、自らの信じる理念にしたがって、相手を説得してもらいたいものである。もしくは、すでに実践しているのであれば、その「成果」を多くの国民に対して、わかりやすい形で開示してもらいたいものである。

その報告に接したあかつきには、「改憲」と同じテーブルに「護憲」も乗せ、議論の対象として比較検討することができるであろう。

2022年3月24日 (木)

ロシアのウクライナ侵攻に思うこと

2月24日、ロシアがウクライナに侵攻を開始してから、はや一か月になる。

この間、多くの論者がこの国際的な大事件について、さまざまな視点から報じてきた。

「後出しジャンケン」のつもりはないが、いろいろな素材が出揃ってから何か言おうと思っていた(正直なところ、仕事が超過密だったため、エントリーを書く余裕が無かったのだ)。昨日はウクライナのゼレンスキィ大統領が国会でオンライン演説をしたこともあり、一つの節目の時期となったので、私が着目すべきだと考えるいくつかの論点を整理してみたい。

(1)一方的な侵攻への非難は当然である
まず、これまでの経過はともかく、
ロシア・プーチン政権はゼレンスキィ政権のウクライナの領土へ一方的に侵攻し、多くの民間人を殺傷しており、かつ、それを自国の防衛のためと称して正当化している。主権国家が自国の利益のために他の主権国家を暴力で屈服させようとすることが、許されない暴挙であることは言うまでもない。世界の多くの人々がウクライナの国民を励まし、声援を送り、戦禍で亡くなった人たちを悼むことや、ロシアの現政権を非難することは、ごく自然だ。私自身も同じ気持ちである。

(2)「プーチンは悪」「ゼレンスキィは善」と断じるのは不適切だ
しかし、それだからと言って、この衝突に至る過程で、ウクライナ側の挑発がなかったことを示すものではない。日本の公安調査庁「国際テロリズム要覧」では、ロシアの極右過激組織「ロシア帝国運動」に触れるとともに、ウクライナの愛国者で形成される「アゾフ大隊」にも言及している。信頼筋からは、この愛国者組織がロシア系、親ロシア側の住民を殺害した情報も寄せられている。それぞれの組織が外国人戦闘員たちも抱えて相手方と戦闘を繰り返し、ついに今回の侵攻を招いた次第だ。いわば双方の相互作用が憎悪を増幅させたものであり、単純な善悪をもって論じるのは早計である。もし一方的に、プーチン氏が悪魔でゼレンスキィ氏が正義の味方だと思っている人がいたら、それは日本的な「二分割思考」の罠(さらに踏み込んで表現すれば「俳優ゼレンスキィ劇場」のプロパガンダ)にはまっているのだ(もちろん、対するロシア政府側のプロパガンダの問題もあるが...
)。国際政治は「相互作用」「謀略戦の応酬」からエスカレートして実際の戦争に至ることや、いまやサイバー攻撃などの情報戦が戦闘の前段階になっているのが常識であることを、私たちは知るべきであろう。

Ukraina

(3)各国はそれぞれの思惑で動いている
今回、かなり危機が迫るまで「当事者(ウクライナ)不在」の感があり、第二次世界大戦前のチェコスロヴァキアに似ている。プーチンvsバイデンの応酬が取り沙汰されていたのにもかかわらず、ゼレンスキーの名前は侵攻直前までほとんどの日本人に知られていなかった。米国・英国・フランス・ドイツ、そしてロシア寄りの中国・インドも、それぞれ自国・自陣営の利害のために動いている。純粋にウクライナ国民の最善を願って連帯を表明していた国は、どこにも存在しなかった。今後も原則的には同様な経過をたどることは自明だ。

(4)難民受け入れの門戸を広げよ
日本の法務省はもともと、朝鮮戦争の余波を懸念して、難民受け入れにたいへん消極的であった。インドシナ戦争の終末期(1975年)、欧米諸国の要請に押される形で、ようやく多くのインドシナ(ヴェトナム、カンボジア、ラオス)難民を国内に受け入れた。ところが、その後はまた門戸を閉ざしてしまっているので、クルド人など国際的に「迫害されている民」であることが明らかな人々でさえ、容易に難民認定されない状況が続いている。政府は「純血主義」に傾く右派・保守派の影響を受け、いつ起きるかわからない朝鮮半島有事を恐れて、国際的な信用を損じる愚策を採り続けてきたのだ。この機会に、ウクライナのみならず、世界各地から日本へ逃れてくる被弾圧民族を、新たな仲間として受け入れたらどうか? 家族ぐるみで来日する人たちの定住は少子高齢化対策にもなるのだから、一石二鳥ではないか。

(5)私たちは国際経済への影響を先読みすべき
私自身、いわゆる「経済オンチ(「オンチ」は差別用語ではなく自虐の呼称。念のため)」であるので、将来の予測は経済評論家たちの論考を頼りにするのが通例だ。しかし、そんな私でも、ロシアとの貿易途絶によるダメージ、たとえば小麦の供給減少による食品価格の上昇、原油価格の高騰によるガソリン・石油製品価格の上昇、パラジウムの輸入経路変更(おそらく今後は、価格の高い品が中国経由で入ってくる)による自動車価格の上昇により、身近な市場に大きな影響が及ぶことなどは、容易に予測できる。買い占めなどの独善的行為はもちろんいけないが、国民各自が自衛のため必要な物品の調達は、早目にしておくことが大切であろう。

(6)日本は安全保障の観点から、あくまでもウクライナを支持すべき
いま、日本がロシア、中国、北朝鮮などの友好的でない国々から侵攻されないのは、米国(核保有国)との同盟関係にあるからに他ならない(はっきり言って憲法九条は役に立っていない)。論者の中には、日本は中立的立場でロシアとウクライナとの和平に貢献すべきだと言う人たちがいる。もちろん、NATO加盟国であるトルコが試みたように、可能な範囲で何らかの仲介ができれば、それに越したことはない。しかし、ロシアへの経済制裁やウクライナへの人道支援に関しては、米国や西欧諸国と歩調を合わせるべきなのだ。いま、それをしなければ、今度は日本が安全保障上の危機にさらされた場合、どの国にも(状況によっては「同盟国」米国にさえ)支援してもらえないと思っていたほうが間違いない。たとえ国民生活に大きな影響が及ぶとしても、私たちの平和国家へそれ以上の甚大な結果をもたらさないために、国として「旗幟鮮明」にすることが、国際社会から求められている。

以上、言いたいことを言わせてもらったが、異論、反論などもあると思われる。コメントをいただいた場合、応接に値する意見には返信する場合もあるが、内容によっては無視、あるいは削除する場合もあることを、あらかじめお断りしておく。

2021年12月 8日 (水)

新型コロナ(15)-新変異株に「うろたえるな!」

新型コロナウイルスが世界に蔓延してから、間もなく二年になる。

その間、私たちは社会生活の中で、数々の制約を強いられてきた。マスク着用、「不要不急」の外出制限、多人数での飲食の制限、イベントでの参加者同士の距離確保や声出し禁止、等々。

感染症を引き起こすウイルスである以上、国や自治体が市民社会を守るために、予防策を講じなければならないことは当然だ。その一環として各所で上記の対策が励行されることに、私は反対するものではない。

他方、以前のエントリーで述べた通り、その感染予防策が個人、組織、地域、共同体(地方、国)のいずれのレベルでも、過剰な段階に至ったことにより、本来守られるべきである「人の尊厳」「人間の尊厳」が危機に瀕することになった。

もちろん、私自身も新型コロナウイルスに感染したくないし、自分が媒体になって他の人(特に「顧客」である高齢者)に感染させたくない。そのために可能な予防策は日々実践しているつもりだ。現在でも私は、利用者や介護者を前にしたとき、店舗へ入ったときなどには必ずマスクを着用するし、(経済的事情もあるが...)二年近くにわたり会食にも参加していない。

しかし、この状況が世間一般の自然なルールと化していることには、大いなる違和感を覚える。

政府は東京五輪やパラリンピックを強行する政治的決断を下しながら、相次ぐ第三波、第四波、第五派に対して緊急事態宣言や蔓延等防止措置を延々と発出し続けた。その間に新型コロナのいわば主力を占めていた「デルタ株」が、おそらく弱毒化や自壊作用を引き起こし、10月以降は散発的なクラスター等の発生を除き、日本国内での感染拡大が下火になっている。

ならば、この期間に現行の「二類感染症(結核・SARS・MERSなどのレベル)」から「五類感染症(ウイルス性肝炎・新型以外のインフルエンザなどのレベル)」に変更すべきではなかったか? 

そうすることによって保健所の膨大な負担(これまで、他部署・民間の保健師や、同等の力量を持つ看護協会所属の看護師までが駆り出されてきた)をいったん終結させ、かかりつけ医の裁量によって入院、隔離等の対応を判断できることになれば、自治体の負担は大幅に減り、その力を感染対策の他の部分に振り分けることができるはずだ。むしろ病床逼迫を来たさないための対策は、そのほうが効果的に推進できるかも知れない。

また、私たちも「人間らしい」社会活動を取り戻すことができる。たとえば、高齢者施設において、人権侵害とも思える家族の面会制約なども、厚生労働省や自治体が「縛り」の高札を降ろすことにより、施設長の裁量で、コロナ禍以前に近い形に戻すことができる(あえて非人間的な制約を続ける施設は、社会的に批判を受け、利用希望者が減る)。

現実には、二類→五類に反対する人たち(個人、組織)がいることを、もちろん私も承知している。純粋に科学的見解から反対している人たちもいれば、利権を手離したくない人たちもいるだろう。逆に、あまりにも感染症を軽視し、認識不足から安易な制約解除を推進する人たちも、残念ながら存在する。

これらを総合的に判断して大所高所から決断するのが、政治の役割なのだ。

子どもたちが一緒に遊ぶこともできず、健全に成長できない社会や、仕事を失ったり心を病んだりして自殺する若者が増える社会は、望ましい姿なのだろうか? この状況でさらに一年、二年と経過すれば、日本経済は立ち直ることができなくなり、日本の市民社会は取り返しのつかないところまで破壊されてしまうかも知れない。

それは単に国内の問題にとどまらない。日本に(表向きはともかく、内実は)敵対的な他の国にとって、思う壺ではないか?

このほど「オミクロン株」が蔓延しつつあるが、確かに感染力が強いとは言え、重症化しにくいとの情報も示されつつある(今後、評価が変わってくるかも知れないので、念のため)。これを恐れていては何も進まないことは確かだ。ウイルスはそもそも変異するものなのだから、世界の各地で今後も次から次へと、新たな変異株が生まれるであろう。

日本国民、とりわけ政治家の皆さんは、この新しい変異株に「うろたえるな!」

私たちは冷静にその実態を分析しつつ、正しく恐れるべきだ。そして五年後、十年後、二十年後の日本の姿を見据えた、最も望ましい選択をすべきであると、私は訴えたい。

2021年2月28日 (日)

五輪組織委の問題から読み取れるもの(下)

前回より続く)

すでにお気づきの方もあろうかと思われるが、私は今回の事案について、もっぱら話題になっている「特定の主題」だけに即する形で分析・考察してはいない。

その特定の主題とは「ジェンダー‐ギャップ」のことである。

私が決してジェンダーの問題に無関心なわけではないことは、八年も前のエントリーに言及しているので確認されたい。ただし、今回の事案は、その枠を超えた課題を私たちに突き付けているので、あえてジェンダー「だけ」に特化しての物言いをしないだけの話である。

私も本業を持っている人間であり、評論家ではない。前回掲げた個別の論点のうち何点かについては、機会を捉えて細かく論述することがあるかも知れないが、いまの時点でそれらのことごとくに踏み込んで、自分の意見を陳述することはしない。私はこの事案を総体的に把握し、分析しなければならないと考えている。前回言及した通り、今回の事案を契機に、単に個人や組織の問題にとどまらず、日本社会を根強く「支配」している上記の構図そのものを変えていく必要がある」のだ。

さて、「変えていく」のは簡単ではない。

一時期、革新的な市民活動家を中心に「オルタナティヴ」がもてはやされた。これまでの社会体系に代わり得る「オルタナティヴ‐システム」、それを実現するための「オルタナティヴ教育」、この類の「オルタナティヴ」がトレンドのようにいろいろ発信され、試みられてきた。注目すべき提案や実践がいくつも存在したことは私も認めており、決してすべてを否定的に捉えるべきでないことは、承知している。

しかし、その「オルタナティヴ」の多くが空回り、空振りに終わったことも事実なのだ。一例を掲げると、2008年末の年越し派遣村、ご記憶の向きも多いかと思う。あの活動は既存の市民社会に対し大きなインパクトを与え、私たちに大切な課題を投げ掛けることに成功した。ただし、その後の経過を見る限り、現実的な社会システム変革の実現には程遠い結果となった。同様な例は他にもいくつか見受けられる。

これらの諸活動が目標を実現できない(できなかった)要因としては、政治勢力による利用(我田引水)、携わる当事者の理解不足(指導的立場の人たちと、その他大勢の関係者との意識の乖離)、長期的なグランド‐デザインの準備不足、既成構造に対する反抗のためのアクションへの限定・矮小化(反対勢力の中でも巻き込むべき人たちがいるのに、その人たちから反発を買ってしまったこと)などが挙げられるだろう。

しかし、最大の原因は、「日本」についての理解不足だと、私は考えている。すでに拙著「これでいいのか? 日本の介護」の中で述べてきたことである。

では、私自身は日本社会がどの方向を目指すべきだと考えているのか?

それが下の画像だ。

Photo_20210228112901

これを見ておわかりの通り、前回掲載した「日本的な」思考形態・行動様式と同じ構図である。

前回の図と比較していただきたい。枠で囲った文言をそのまま別の言葉に置き換えることにより、その相関から生じるもの(紫字で示した)が大きく変わってくる。ネガティヴな相互作用をポジティヴなものに転じることにより、体系全体に好循環が機能し、私たちが活き活きと自己実現できる社会に近付くであろう。

理想論だと誤解されるかも知れないが、これは現実論だ。私たち「日本」の文化の根底から培われた思考形態や行動様式を改めることなく、「そのまま」逆用するだけで、好循環への道は開かれるのである。図の左下にある(青字で示した)通り、私たちの知的体力の向上にもつながるのだから、民度の上昇に大きく寄与することは言うまでもない。

裏を返せば、オルタナティヴの諸活動が停滞した背景には、中心になった指導的な人たちが、他国の良いものを採り入れることに偏ってしまった状況があったと推察される

コロナ禍を契機に社会の閉塞感はいよいよ強まっている。いまこそ、私たちを育んできた日本文化の土壌に根差した、真の意味の「代わり得る」社会体系を、協働して創り上げていかなければならない時期である。

一人ひとりの意識改革、そしてそれを踏まえた思考形態や行動様式の変容を願ってやまない。

2021年2月24日 (水)

五輪組織委の問題から読み取れるもの(上)

このところ、テレビやインターネットなどの新旧メディアを賑わせている話題がある。

一年延期された東京五輪の組織委員会理事会の席で、会長であった森喜朗氏が、「女性蔑視」と受け止められる発言をしたことが報じられ、国内外から多くの批判を浴びた。その後、紆余曲折はあったもの、結果として会長職を辞任するに至った。

その発言の全文はすでに複数のメディアで公開されている。一例としてスポニチの該当記事にリンクを貼っておく。言葉の意味や文脈が不明確な面も見受けられ、明白に意図して女性を蔑視した発言なのかは何とも判断できないが、いくつかのキーワードに氏の正直な意識が反映されていることが看取される。全体を総合すると、ジェンダーに関して明らかな「時代遅れの感覚」を背景にしていることは否めない。

この事案に関する個別のポイントを整理すると、

・発言中の「恥」「困る」「わきまえる」等のキーワードに差別的な意味があったのか? 特に「わきまえる」は「身の程をわきまえる」ではなく、「時間配分を考慮して趣旨を短くまとめる」の意味にも解釈できるが、実際の意図はどちらだったのか?

・全文がなぜ速やかに報じられなかったのか? メディアの側に「意図的な切り取り」はなかったのか?

・従前、森氏が自ら運営に携わる組織で女性役職者の増加に努めてきた実績もある。組織委では深い意味もなく、いわばエピソードとして語ったとも想定されるが、公的な立場の人が言って良いことかどうか、「舌尖で千転」したのか(自分の実績を台無しにしかねない言葉を軽率に発してしまう、資質の問題があるのではないか)?

・「女性の役職者が増えると会議が長くなる」はエビデンスを踏まえた発言か? また反発した側もエビデンスを踏まえて反論したのだろうか(ちなみに、森氏の発言を否定する研究例としては、ブリガム‐ヤング大とプリンストン大との共同調査結果が存在する。他にもあると思われるが)?

・その場で、または散会した後にでも、森氏に指摘したりたしなめたりする人が、役職者の中にいなかったのか? 組織委は普段どのような雰囲気の中で運営されていたのか?

・批判が巻き起こった後、「謝罪して撤回すれば問題ない」判断は適切だったのか? この発言が国際的に報じられた場合、いかなる受け止められ方をするのか、氏や組織委は想像力を働かせることはできなかったのか?

・世界から注目されている中、森氏が辞任表明した後の後継候補を、なぜ「密室」で決めようとしたのか? それ自体が時代遅れ、あるいはドメスティックだとの認識は、関係者の頭の中になかったのか?

・「老害」の言葉の適否はひとまず措いて(これも高齢者差別用語だとの見かたもあるが)、社会的地位のある高齢の人が、自分のポストを簡単に捨てられないのは、日本全国に共通する現象である。その実態をどう評価し、対策をどう準備するべきなのか?

日本国民の中に、森氏(の発言に窺える背景)と同様なジェンダーの感覚を持ちながら日々を過ごしてきた人(おもに高齢男性、一部は女性も)が、相当な割合で存在することは現実である。その人たちの人生の歩みを肯定的に捉えつつ、どう意識改革をしていくのか?

まずはこの辺りが論点かと考えられる。暇な人間ではなく、評論を業とする者でもないので、私がそれぞれの項目について、あえて意見を細かく陳述することはしない。各自で考察の材料にしていただきたい。

さて、東京五輪に関して、私はかつて自著本の中で以下の通り言及した。

「賢明な読者の皆さんは、2020年・東京五輪のメインスタジアムとなる新国立競技場建設計画の決定にあたり、本章(注;第7章)で述べてきた『日本』的原理の悪い面のほとんどが凝縮されていることに、気付いたことであろう」(『口のきき方で介護を変える!』P.164~165)

この本は2015(平成27)年10月に上梓しているから、5年余り前のことだ。あのときの競技場にまつわるゴタゴタは、まさに「日本特有の現象」を帯びた組織委関係者(個人・団体を含め)の体質に由来すると、私は考えていた。そして5年の時を経ても、その体質が変革されないまま、ここでまた同様な問題が起きてしまった。

その「第7章」で述べたことを相関図にまとめたものが下の画像である。これらの思考形態や行動様式が負の連鎖を構成しており、私たちの社会の行く末に暗い影を落としていることを分析して、市民意識の変容を促したものだ。詳しく知りたい方は、同書をお読みいただきたい。

Photo_20210218082201

さて、いまの菅総理とも重なる面があるが、森氏もかつて小渕政権において与党幹事長、いわば屋台骨を支える「番頭」の役割を担っていた。総理になったのは前任者が急病で倒れたからだ。実は前述の「日本的な」がとりわけ鮮明に出現するのは、このパターンなのである。これが森氏のリーダーシップのスタイルとなり、現在まで「続いてしまった」と見てよいだろう。

「経営者型権力」「番頭型権力」の用語がある(ずっと以前から社会科学や人文科学に関する複数の研究者により用いられてきた)。前者のスタイル、特に足利義教・織田信長・徳川綱吉・徳川家重・大久保利通などに代表される独裁的な手法となると、後者の人たちは到底それを採用することができない(安倍前総理であっても、この5人に比べるとかなりマイルドだった)。また、独裁者は多くの「日本人」から嫌われる。義教・信長・利通のように「消され」たり、綱吉(「暴君」とされた)や家重(「バカ殿」とされた)のように貶められて低く評価されたりで、いいことがない(笑)。

後者のスタイルを採るリーダーは、「和」を尊重して組織を運営する。周囲がそれに「都合良く」合わせるスタイルが、これまでの「日本的な」組織運営に適している。政治・経済から社会の個別分野まで、中央から地方まで、いわゆる「護送船団式」が肌に合っている個人や団体が多いのだ。良し悪しはともかく、日本はその原理によって動かされてきた。

しかし、画像の図にある通り、「和」は他のさまざまな要素とつながっている。森氏の発言や五輪組織委、その周辺の人たちの意識や体質が、なぜ今回の騒動を招いたのか? それは私が解説するよりも、みなさんがこの図を眺めながら、それぞれの頭で考えていただきたい。いみじくも右下に「儒教」の一要素として、「男尊女卑」も掲げてある(笑)。
(なお、森氏は自分の思想が儒教に基づいていると明瞭に意識してはいなかったと思われるので、念のため)

そして、今回の事案を契機に、単に個人や組織の問題にとどまらず、日本社会を根強く「支配」している上記の構図そのものを変えていく必要があると、私は考えている。

次回へ続く)

2021年1月30日 (土)

新型コロナ(14)-私たちに問われているもの

日本で新型コロナウイルスの蔓延が始まって、はや一年になる(日本国民で初めての陽性者が報告されたのが昨年1月28日)。

私たちは、さまざまな不自由や困難と向き合いながら生活することを余儀なくされてきた。そして、このコロナ禍の中で、私たちは多くの課題に直面している。

その課題のうち最大のものは、次の二つだと私は考えている。

一つは「人の尊厳」。

もう一つは「人間の尊厳」。

この二つの意味には重なる部分もあるが、切り分けて捉えている。

前者は、一人ひとりの「人」が尊重されつつ、日々を生きられることの大切さ。

後者は、その「人」と「人」とが、社会の中で関係性を保ちながら、望ましく生活できることの大切さ。

私たちの人生に欠かせない車の両輪だ。

コロナ禍で、多くの人たちが当たり前のように享受してきたこの二つの尊厳が脅かされる現実を、私たちは目の当たりにした。

「人の尊厳」の軽視。巣籠もりに起因するDVの増加、感染者への誹謗中傷、医療従事者への誹謗中傷、いわゆる「マスク警察」「自粛警察」「時短警察」等の誤った正義感に基づく行為、葬祭の過剰な感染予防体制(家族の死に目に会えない、お世話になった親戚の葬儀に参列できないなど)、等々...

「人間の尊厳」の軽視。帰省(やむを得ずに)する学生や里帰り出産する妊産婦への非難、高齢者施設での面会禁止(代替の方法も工夫してもらえない場合など)、想像性の欠如に基づく行為(軽率な飲み会やBBQなど)、蔓延のリスクを無視する自己主張(飛行機内でのマスク着用拒否など)、品物が本当に必要な(無いと生活できない)人たちを脅かす異常な買い占め、在住外国人への理不尽な制約(母国へ戻れない技能実習生、入管から仮放免されても就労できない難民申請者など)、血眼になって煽動するメディアの視聴率稼ぎ、政治家や官僚による他人事モードの空虚な発信、等々...

これらの行為が報じられるたびに、悲しくなる。

日本ではこんな状況だが、国によっては民族・宗教や貧困・飢餓などの問題が大きく、さらに深刻さを増しているところもあるだろう。

読者の多くは、J.スウィフト(1667-1745)の「ガリヴァー旅行記」を読んだことがあるだろう。その最終章「フウイヌム国渡航記」に登場する「ヤフー」なる類人猿は、人間の退化した姿であり、汚物を投げ付けたり、貴重な石を奪い合ったり、あたかも人間が本能のままに振舞ったらこうなるのだと言わんばかりに描写されている。先に掲げた「人の尊厳」や「人間の尊厳」を傷付ける言葉や行為は、この「ヤフー」を想起させる。換言すれば、言動の主やそれが飛び交う原因を作り出した人たちは、自分たち自身の「人の尊厳」「人間の尊厳」を貶めているのと変わらない。

これまで抑制されていた人間の負の側面が、コロナ禍を機に表面化してしまったのだろうか?

私たちはそうあってはならないのだ。これらを反面教師として、「人の尊厳」「人間の尊厳」の大切さをいま一度見直し、その二つを守るためにどう発言し、振る舞い、活動しなければならないのかを、いまこそ模索していかなければならない。

地球規模で起こった災厄に違いないが、その災厄がもたらした試練は、私たちに対し、「人類はどうあるべきか」と問い掛けている。

この大きな命題に応えられたとき、私たちの輝かしい未来に向けての再出発が始まるであろう。

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