経済・政治・国際

2019年10月30日 (水)

英訳すると...

私の会社や事業所の名称「ジョアン(João)」は、ポルトガル語である。

しかし、私がポルトガル語を読み書きしたり話したりできるわけではない。もともと私の霊名=洗礼名が「ヨハネ」なので、これはその訳語である。四世紀前のキリシタン時代、来日した宣教師(特にイエズス会)はポルトガル人が多かったので、その宣教師たちから洗礼を受けて「ヨハネ」の霊名を与えられた信徒は、多くが「ジョアン」を名乗った。漢字の当て字では「如庵」となり(他にもあるが、この字がいちばん多い)、私のペンネームでもある。

それでは、私の会社・事業所の名前を英訳するとどうなるのか? 「Joan」は間違いである。カタカナの「ジョアン」をそのままローマ字にされたら困るのだ。固有名詞「ヨハネ」の意味なのだから、英語では「ジョン=John」である。「居宅介護支援事業所ジョアン」は、「Care-management office John」が正しい。

さらに、フランス語なら「ジャン=Jean」、ドイツ語なら「ヨーハン=Johann」、スペイン語なら「フアン=Juan」である。介護業界広しといえども、言語によって社名・事業所名の発音が違ってくるところは、ほとんど類例がないのではないだろうか。

この事業所名「John」を使って、実際に英語圏の団体宛に書簡を送ったことがある。全国の独立・中立型の居宅介護支援事業所が、弱小ながら団体を作っていた当時、米国で同様な団体があることを知り、今後の連携を打診する手紙を書いたのである。

草稿を浜松在住の米国人に見せてチェックしてもらったところ、いくつも手直しが入った。特にそのうち二か所は、私の原稿のままだと、異なる意味に解釈される恐れがあったので、指摘してもらったことでたいへん助かった。おかげで先方団体からも、こちらの団体宛に丁重な返信をもらうことができ、面目を施した形だ。もとの文章のおかしさに気が付かずにそのまま送付していたら、結構怪しい連中だと思われてしまった可能性があった。

さて、話は変わるが、2009年当時に日本の総理であったH氏が、「共和主義」に基づく「共和党」なる政党の結成を目指していると報じられている。

どうもH氏の言うところの「共和主義」は本来の意味から大きく逸脱しているように感じられるが、ここではそれについて評するものではない。注目したいのは、「共和党」を英訳するとどうなるのか? である。

「共和党」をフツーに英訳すると「Republican Party」となる。すなわち、共和主義(本来の意味の)=repubicanismを掲げる政党の意味になる。

republicanismの解釈は、国の政体によって異なる。現に共和制(大統領制など)を採っている国の場合には、共和国成立時に理想として掲げられた代議制を尊重する政治思想を指す場合が多い。したがって、傾向としては中道右派・保守派の人たちの政党が「共和党」を名乗るのが一般的だ。

しかし、君主制を採っている国の場合、republicanismと言えば通常、君主制を廃止して共和制へ移行することを目指す政治思想の意味になってしまうのである。

つまり、H氏が「共和党」の名称を堅持したまま政治勢力を結集した場合、諸外国からは、「この人たちは日本の天皇を廃止して、大統領制等へ移行する目標を持っているのだ」と受け取られる可能性が強い。党の中枢部の意思がどうあろうが、このまま英訳する限り、一般的には君主制廃止を掲げる政党だと理解される場面が多くなることが予想される。

H氏が本当は何を意図しているのか、現時点ではよくわからない面があるが、氏の「共和党」構想に賛同する人がいたら、将来「私は共和党の支持者です」と言った自分の言葉が何かの機会に英訳されたとき、「天皇制廃止」論者だと解釈される可能性があることを、あらかじめ頭に入れておいたほうが良いだろう。

2019年10月 9日 (水)

参照すべき書籍

国際的な視野から日本の歴史を眺める。それ自体は必要なことであり、誰しもそうあるべきだと私も考えている。

しかし、いわゆる「国際標準」の呪縛によって、日本史に特有な現象を理解できないとしたら、それは大きな問題である。

かつて拙著『これでいいのか? 日本の介護(2015、厚有出版)』では、特に第7章の一章を割いて、「日本人」に特有の思考形態や行動様式について論じた。読者の方はすでに、賛成するしないはともかく、私が言わんとすることを理解してくださっているであろう。

すなわち、日本は伝統的に「和」を重んじる社会であり、それが「縁側」に象徴されるあいまいさや宙吊り状態をもたらしているとの見解である。「和」以外にも「言霊」「解決志向」「儒教的な諸相」「遠慮」「他人指向」「二分割思考」などの要素があり、「日本的な」様式を墨守すれば、特に他人指向や二分割思考から「知的体力の不足」を招く危険性が高いことについて論じてみたものだ。

この「和」の社会とは、独裁者が嫌われる社会だ。特に、既存のシステムを破壊するところまで手掛けた独裁者は、みな終わりを善くしていない。天智天皇、称徳天皇、足利義満は、表向きは病死であるが、暗殺された可能性が濃厚だ。足利義教は謀殺、織田信長は襲撃されて自害、大久保利通は暗殺された。逆に、殺されなかった独裁者は、悪戦苦闘しながらも既存のシステムを破壊せず、巧みに自分流の改変を施した独裁者だと言うことができる。北条義時、徳川綱吉、徳川家重など。

全国レベルではなく、地方レベルでも事情は同様である。日本的な「和」の合議制は、古来、多くの地方政府で慣行となっていた。この構図を理解するために、ぜひお勧めしたい書籍がある。

Oshikome

笠谷和比古氏の著書、「主君『押込』の構造」(平凡社選書、のち講談社学術文庫)。

日本の近世大名にスポットを当て、彼らが決して額面通りの絶対君主ではなかったことを述べた論考である。独裁的傾向のある殿様が重臣たちから「押込(おしこめ)」の処置を受け、政治生命を絶たれてしまう。笠谷氏はいくつもの大名家で起きたこの「押込」現象を主題として取り上げ、君臣関係の諸相について解説し、さらにそこから近世の国制に論及し、下って現代の会社組織の状況にまで触れている。

以前のエントリーで私が「現実には昭和天皇が軍部の暴走を止められるほどの権力を持っていなかった」と言及したのも、この書籍の内容が頭にあってのことだ。特に終戦前後には「宮城(きゅうじょう)事件」をはじめ、ポツダム宣言受諾に反対する将校たちによるいくつかの反対行動があり、一部の将校たちは現実に昭和天皇「押込」(→皇太子だった明仁親王の皇位擁立)まで構想していたのである。

ここで笠谷氏が分析している「日本」特有の社会構造を顧みずして、イデオロギーに走り、国際標準からステレオタイプされた君主論を発出している論者たちは、浅慮・軽率のそしりを免れないであろう。

2019年8月 4日 (日)

「落選者」二題(2)

(前回より続く)

業務過密の関係上、曜日がズレてしまったが、参院選で注目している落選者評の続きである。

もう一人は山本太郎氏。れいわ新選組・比例に立候補して3位で落選。しかし「3位」とはこの政治団体が上位二人を「特定枠」としたことによるもので、個人としては実に99万票を集めたわけだから、ダントツの集票力と言える。しかも団体全体を通せば比例で4%強の票を得たことによって、れいわ新選組は政党要件を満たし、政党交付金を受けられることになった。結果的に自身が落選したとは言え、山本氏の戦略は一定程度の成果を得たことになる。

さて、山本氏をめぐっては、これまでもさまざまな評が寄せられている。

まず政策。脱原発、改憲反対、教育・社会保障の拡充(無償化)等が柱である。すでに議員として6年間活動する中で、国民から賛否さまざまな意見が寄せられてきた。私自身は一部の政策に賛同するものの、氏は国家財政の運用の均衡について的確な視点を持っているとは言い難く、国際的な大局観に欠けていると見なしており、積極的に支持するものではない。

氏は政権担当まで目指すとしているが、私は上記の立場から、氏や同党が路線を修正しないのであれば、票を投じることはない。右派に限らず、多くの国民が氏や同党の政策を支持できないのであれば、「悪ければ落とす」原則にのっとって、次の国政選挙で票を投じない(または対立政党への投票を呼び掛ける)のが妥当であると考える。ネットで過去の行為や発言(学生時代に「戸塚ヨットスクール」を付けたグループ名を称した、日本側から具体的行動を取らないのであれば「竹島は〔韓国に〕あげたらよい」と発言した、etc)を蒸し返すなどの印象操作は、一部の左派による政権を貶める印象操作と同じ行為であり、するべきではない。

次に手法。山本氏は園遊会における明仁天皇(現・上皇)陛下への書簡手渡し、安保法制改正や森友・加計学園問題を議論する際の安倍総理(および夫人)に対する揶揄などで、批判を浴びた。私はこれらのパフォーマンスについては、批判されて当然であると思う。細部のルールが明記されていなかったなどの擁護論もあるが、そもそも議員は良識やマナーを守るとの前提に立って、不文律の社会規範が設けられているのだ。それを変えたいのであれば、まず関係者に賛否を問うてから行うべきであり、自分が逸脱して議論を巻き起こすのは、順序として間違っている。大麻合法化を求めて自分が大麻を使用する人たちと何ら変わりはない。

そして戦略について。今回の参院選で山本氏が採った戦略を、左派ポピュリズムに分類する論者が多い。私自身、「次」や「今後」を狙っている氏の戦略は、左派ポピュリズムの一形態だと理解している。

しかし、舩後靖彦氏・木村英子氏の重度障害者二人を全面に押し出して、当人たちを当選に導いたこと自体は、まっとうな方策であり、何ら批判されるべきものではない。

「税金を使って国会を改修するのには反対。山本氏自身や、福祉・医療に携わる人たちが『代弁者』として当選し、重度障害者たちの立場で改善を訴えれば良いのではないか? にわか作りの政治団体が比例の特定枠を使って両氏を『傀儡』のように当選させたことは、あざとく野心たくましい方法だ」との意見が(おもに右派から)あるが、私は全く同意できない。

特定枠を使用したのはれいわ新選組だけではない。自由民主党も特定枠二つを使い、徳島県と島根県との二氏を当選させている。二県合区の選挙区の候補者は、それぞれ高知県と鳥取県だったからだ(いずれも当選)。もし誰かが「どうせ徳島県も島根県も人口が少ないんだから、高知県や鳥取県の議員に代弁してもらえば良いでしょ?」と言ったら、炎上ものだろう。高知と徳島、鳥取と島根は、確かに共通する面もあるが、それぞれ異なる歴史的背景もあり、異なる風土があり、異なる産業や経済、社会がある。当事者にとってみれば、「何でも一緒くたにされるなんて冗談じゃないよ!」と反発するのが当然だ。

重度障害者の場合も事情は変わらない。「代弁者」の声では伝わらないことがあるのだ。舩後氏も木村氏も、訴えが福祉・介護関連に偏っており、大局観に課題はあると思うが、知的障害や精神障害があるものではなく、国会で自分の意思を正しく伝えることに全く障壁があるものではない。

これまで重度障害者が声を上げる機会が十分に確保されてこなかったのだ。そこに「風穴を開けた」山本氏の功績は、上記の政策や手法への批判とは関係なく、たいへん大きなものだと私は評価する。「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」式の思考は、日本人が陥りやすい迷路だと考えている。

にわか作りの政党なので、今後党を運営する「幹部」たちの中で、意見対立も今後表面化する可能性もある。落選したとは言え「党首」として発言権を維持した山本氏は、賛同する人たちをどこまでまとめられるのか、また、政権与党を含む国民の多数派との歩み寄りがあるのか、今後の動向に注目したい。

2019年7月24日 (水)

「落選者」二題(1)

参院選が終わったいま、二人の「落選者」に着目している。

一人は市井紗耶香氏。立憲民主党・比例に立候補して9位で落選。

元「モーニング娘。」の一人であるが、前夫との間に二人、現夫との間に二人の子どもを育てている「現役ママ」として出馬し、育児環境の整備を訴えた。残念ながら一歩及ばず落選したと言われるが、実際には8位の候補とかなりの開きがあった。

主たる敗因は、政治に関する勉強不足だと評されている。少子化対策だけは自身の体験を基に具体的な対策を訴えることができたものの、他の論点については記者の質問にも回答らしい回答ができなかった。当選したら学んでいくと語っていたが、議員として国民のために働いてもらうためには、力不足の感は否めない。かつては、タレントが知名度だけで当選できた時代もあったが、いまは有権者の選択も多様化している。ましてや、市井氏がモー娘。を引退してから十余年が経過し、細々とタレント活動を続けているとは言え、すでに芸能界でも「過去の人」となった感がある。

しかし、市井氏は苦労人だったようだ。報じられるところによると...

前夫はミュージシャンであったが、大成しなかった(現在も、注目される活動はしていない)。その収入は、家族が生活していくためには不十分であったので(プライドから衣服などのレベルを落とせなかった事情もあったかも知れないが、それはひとまず措いて...)、市井氏はかつての国民的アイドルでありながら、二人の子どもを食べさせていくために、ショッピングモールでアルバイトまでしていた。にもかかわらず、前夫は仕事(の一部?)を辞めて自分の好きなことばかりしており、家事も育児も市井氏に一任して手伝おうとしなかったとされる。

この状態であれば、「家族」を続けていくのは難しい。結局は離婚に至り、間もなく市井氏は美容師である現夫と再婚。ステップ‐ファミリーであるのにもかかわらず、現夫は市井氏の二人の子どもに対して実父同様に接し、育児に協力してくれたので、第三子・第四子も生まれ、その後は平穏な家庭生活を送っている。もっとも当然ながら、環境が変転する中で四人の子どもを育てるのは、ひとかたならぬ苦労があったであろう。

おそらく、多くの有権者は市井氏に対し、引退後から余裕を持って四人の子を育てた「セレブなマダム」像の印象を持って捉えてしまったと思われるが、もし報じられた通りであれば、実態はかなり異なっていたのだ。

他方で、「金目当ての立候補」との評も流れたが、これも筋違いであろう。当選して国会議員になれば、やらなければならない仕事が格段に増える。まだ6歳の第三子、2歳の第四子を抱える身として、いくら夫が育児に協力してくれるとは言え、並々ならぬ覚悟が必要だ。単なる収入目当てで決意できる話ではない。

私自身は立憲民主党の政策に賛同しない部分が多いが、党派を問わず、市井氏のような経験を積んだ人には、市民目線で政治を語れる女性として、国政の場に進出してほしいと願っている。市井氏自身も今回の敗戦に懲りず、他の分野についてもしっかりと学びを重ねた上で、機会があれば再挑戦してほしい。

(つづく)

2019年7月17日 (水)

政治と「家系」

民主的な近代国家であっても、政治家の世襲は少なくない。日本でも安倍総理をはじめ、世襲議員は各地に見られる。既得権を持つ利害関係者が、これまで協働して築いてきた「地盤」を守る意味で、世代交代に際して同じ「家系」の若い後継者を望むことも少なくない。

しかし、「家系」とは言いながら、このパターンと異なる形で選挙に出馬する候補者もいる。

今回の参院選で、当県ではもと将軍家の、それも「宗家の当主」である人物が立候補した。その人が保守政党ではなく左派系政党から出馬し、脱原発や九条護憲を主張していることも、県民には大きな波紋を投げかけた。「初代将軍」の事実上の政庁が当県内にあったことは事実であるが、その初代を祀る神社は、保守政党を支持しているので、ここに「初代」と「当代」との「ねじれ現象」が生じた形だ。

Back13

このようなことは、この「もと将軍家」の人に限ったことではない。

現内閣の主要閣僚の言動を注視していても、それは明瞭だ。副総理兼財務相のA氏は、祖母(元総理の妻)も母もカトリック信徒であり、ご本人も受洗しているはずだが、A氏の政治的な見解を私たち信徒から見れば、カトリック的な考え方とはかなり乖離している。また、外相のK氏は、お父さん(元衆院議長)の隣国に関する「談話」について、「私の談話ではない。私は湘南ベルマーレが圧勝したときに談話を出す」と揶揄し、その隣国に対するK氏の外交は、明らかにお父さんと異なる見解を踏まえて臨んでいる。

つまり、特定の家系の後継者に対して、「親や先祖がこんな思想や見解だったから...」との期待を持たないほうが賢明なのだ。

しかし、家系の重みを背負った人に対して、民衆がそれなりに惹き付けられることも、また現実である。

東欧のブルガリアでは20世紀に入ってから、ドイツ系の王室主導の政治・外交が失策を招き、二度の大戦で敗北を喫したため、最後の国王シメオン‐サクスコブルゴツキ氏は9歳で国を追われ、同国は共産主義国家となった。しかし1990年代に共産党が凋落すると、サクスコブルゴツキ氏は帰国し、政党を結成して2001年の総選挙に臨み、ブームに乗り国民の支持を得て自ら首相となって、政権を担った。国民の生活水準はなかなか好転せず、皆はサクスコブルゴツキ氏に失望したので、次の2005年選挙後には政権を譲る羽目になった。しかし、国の経済力が向上したことにより、氏が目指してきたEU加盟は、退任後ではあったが実現した。

このように「もと支配者の家系」の人物が国の政権まで担う例は、近代民主制国家では珍しいかも知れないが、特定の家系ならではの品格や度量を携えて政治に臨む人たちへの待望論は、国や民族を問わずあるだろう。

「もと将軍家」の人物が当選した場合、左派系政党の政治家としてどのような振る舞いを見せてくれるのか、注視したい。当落については、次の日曜日の投票結果を待つことになろう。

(※画像は「発光大王堂」さんのイラストを借用させていただき、加工しました)

2019年5月14日 (火)

ようやく「普通」になった?日本

令和の時代が幕を開けて、はや二週間になる。

平成の30年余については、さまざまな振り返りがあるだろう。

こんなデータがあるので、読者のみなさんにご一覧いただきたい。

 

【G20諸国の指導者の変遷(1989-2019。臨時代理は除く)】

日本の内閣総理大臣         18代(17人)

中国の最高指導者             4人

韓国の大統領                   7人

インドネシアの大統領        6人

インドの首相                  10代(9人)

トルコの政権担当者         11人

サウーディ‐アラビアの国王 3人

南アフリカの政権担当者     7人

欧州連合(EU)委員長       5人

イタリアの首相               17代(13人)

英国の首相                     6人

フランスの大統領             5人

ドイツの首相                   3人

ロシアの実質的政権担当者 3人

カナダの首相                   6人

米国の大統領                  6人

メキシコの大統領             6人

アルゼンチンの大統領      8人

ブラジルの大統領            8人

オーストラリアの首相       9代(8人)

 

途中で大統領・首相・(一党独裁の国では)党書記長などの肩書が変わっても、政治指導者であった期間は通して一人と数えた。また、軍事委員会主席や軍政評議会議長などの地位にあった人物でも、公的な肩書を有して事実上政権を担っていた人物は数に入れたが、公的な肩書を持たないインフォーマルな実力者は含めていない。あくまでも何らかの形で「現職」にあった首脳の代数・人数である。

そして、このように一覧表にすると、ここ30年は首脳の代数・人数とも、日本が最多なのである。

日本以外の国で、首脳経験者の人数が二ケタなのはトルコとイタリアだけ。ドイツとロシア(旧ソ連から。「事実上」で数えた)に至っては、絶対君主国であるサウーディ‐アラビア並みだ。中国もそれに近い。

もちろん、政治指導者が民主的なプロセスで選ばれていない国もあることや、長期政権が人権侵害をもたらしている国も少なくないことは百も承知だ。しかし、政策の安定的継続や対外的な代表の重要性を考えた場合、政治指導者がクルクル変わることも、決して望ましくないのではないだろうか。

国際的に見れば、日本の現政権の長さは「普通」のレベルである。私個人としては、外交や防衛に関しては大枠支持・一部批判、社会保障や教育に対しては大枠批判・一部支持、経済・産業・科学技術・国土政策その他は是是非非で評している。だが、「長期政権」であること自体については、基本、プラスに評価できる。

確かに政権の綻びはいろいろと垣間見られるが、そもそも「独裁者」を嫌う日本の風土では、長期政権の弊害がそれほど大きくなるとは考えられない。この点については拙著『これでいいのか?日本の介護』第7章も参照されたい。

「地球儀を俯瞰する外交」に対してはさまざまな視点からの評価があるだろう。しかし、6年半の間、対外的な「顔」が安定していたことは、日本の国力をアピールするためにも大きな意味を持っていたはずだ。一年やそこらで頻繁に総理が変わっていた一時期、世界各国の首脳たちは、日本政府をどこまで信用して良いのか心もとなく感じていたとしても、不自然ではあるまい。

いまの政権与党が続くとしても、野党が政権交代するとしても、今後、簡単に総理が入れ替わるような状況は、国民の利益に鑑みて、ご免こうむりたい。次の総理以降も、長期安定政権を目指してほしいものである。

2019年5月 7日 (火)

「沖縄独立」は現実的か?

先月、沖縄に駐在する米軍海兵隊の兵士が、別れ話のもつれで、元交際相手の女性(北谷町)を殺害して自殺する事件が起こった。

経過はともあれ、自分のエゴのためにこのような殺人をしでかすのは、ストーカー殺人と変わりなく、たとえ自らも死を選んだとしても、許されない行為だ。まだまだ人生を楽しめたはずなのに、犠牲になって命を落とした女性には、心から哀悼の意を表したい。

さて、この種の事件が起こるたびに、一部の沖縄県民から唱えられるのが、「独立論」である。

ただでさえ、米軍普天間基地の辺野古移設をめぐって、国と沖縄県との反目が深刻になっている。それに加えて、上記のような米軍人や軍属による悪行が頻繁に発生する(なぜか、米軍側による地元への貢献は語られることが著しく少ないが、ま、それはひとまず措くとして...)。それならば、むかし沖縄は独立した「琉球王国」だったのだから、その時代に戻って、日本にも米国にも制約されなくなるのがいちばん良い、と考える人たちが増えるのは、時の勢いかも知れない。

もちろん、どんな政治的な見解を持とうが、一人ひとりの市民の自由である。これには全く異論はない。もし沖縄県で「独立」を支持する県民が多数を占め、日本国政府との穏当な交渉の結果、本当に一つの主権国家としての独立が実現すれば、スコットランド(英国)やカタルーニャ(スペイン)の独立運動と同様、日本国民として認めないわけにはいかないだろう。

しかし、ここで独立論者の人々にお願いしたいことがある。

以下に示す内容について、冷静に考えていただきたいのだ。

以前のエントリーで紹介した地図では、鄧小平政権時代の中国が、どこまでを自国領になる可能性がある地域(正確に言えば、領有権を再議すべき地域)だと考えていたかを示した。これ以降、江沢民政権も、胡錦濤政権も、そして現在の習近平政権も、この主張を明確に取り下げたことは一度もない。以下にその地図を再掲しておこう。

20140704chizu 

また、ジャーナリスト松本利秋氏の論考にあるように、海洋進出の障害を取り除きたい中国側から、地政学的に判断した場合、この地域全体が自国領となった場合の利益は大きなものがある。日本中心、沖縄中心ではなく、あくまでも中国を中心としたらどう見えるか? それが重要だ。

この事実を踏まえる限り、沖縄が独立した場合、中国が侵攻してくる可能性は大いにある。では、「独立沖縄国」はどうするのか?

米軍や日本の自衛隊を追い出してしまえば、両国の軍は沖縄を守らない。そして国連軍も出動しない。安保理で議決しようとしても、中国は当然のように拒否権を行使する。人民解放軍が攻めてきた場合、どこの国が沖縄を守るために出動してくれるのか?

自前で領土を守るのであれば、北朝鮮のように徹底的な「先軍政治」の方針を定め、他の用途はそっちのけにして、国費の大半で軍備を整えるのか? いや、それでも巨大な中国には歯が立たないので、急遽核兵器の開発を進め、抑止力として核武装をするのか?

おそらく、独立論者たちにとって、この道は全くの想定外であろう。「平和的に中国と共存する」ことが前提であるに違いない。中世の明王朝の時代には、それが成り立っていたではないか! と。

その場合、課題は三つある。

一つ目は、中世には「海」が障壁になっていたことだ。薩摩藩は島伝いに侵攻して琉球王国を服属させたが、反対側から来ると当時は未開地だった台湾から先島諸島、さらにそこから海を越えて出兵しなければならなかった。宣徳帝が没した(1435)後、内陸的で海に関心をあまり持たなくなった明側からは、面倒な征服事業に手を出す動機には乏しかった。

現代は全く情勢が異なる。中国は周辺諸国を圧して海洋進出を強めており、その海軍力は、沖縄へ侵攻するのに余りある力を有している。海は全く障壁にならないと考えてよい。

独立論者たちは、海に代わる障壁として何を想定しているのだろうか?

二つ目は、中世の琉球王国に対する、明王朝からの位置付けである。尚真王以降の琉球は、自らは「平和国家」でありながら、明に対して馬と硫黄とをおもな輸出品としていた。当然ながら内陸国家になった明王朝としては、この両品は周辺の異民族と戦うための必需品であった。

つまり、「平和国家」琉球王国は「軍需産業」で栄えていたのである。

したがって、「独立沖縄国」が中国からの侵攻を平和的に防止することを考えているのであれば、大々的に軍需産業を振興し、最新鋭の兵器を次々と開発して、人民解放軍のための供給基地となるのが望ましい。と言うより、中世の「平和国家」琉球を再現するとは、結局そういうことなのだ。中国にとって「独立沖縄国」が自国のため最大限の利益を引き出せる存在として位置付けられるのであれば、あえて国際世論に反してまで侵攻はして来ない可能性が強い。

独立論者たちは、郷土が(たとえば、米国ユダヤ系資本などの軍産複合体のような)軍需産業で存立する国になっても差し支えないと考えているのか?

三つ目は、中世の琉球王国の領土は、奄美群島にまで及んでいたことである。

上記の地図で明らかなように、中国はこの史実を踏襲し、奄美群島までが自国領に相当する可能性があるとしている。したがって、中国が「独立沖縄国」と共存していくのであれば、当然のように奄美群島までを同国の領土にすることを求めてくるであろう。同国の「同盟国」となる中国が南東方面へ海洋進出を強めるのであれば、ここを勢力圏にするのとしないのとは大きな違いが生じるからだ(松本氏の論考も参照)。

しかし、奄美群島は近世以来、薩摩藩→鹿児島県の領域である。当然のことながら日本国の領土にほかならない。

独立論者たちは、鹿児島県民をはじめとする日本国民に「奄美群島を割譲せよ」と要求できるのか? できないのであれば、「平和的に共存」しなければならない中国の意向と、どう折り合いを付けるつもりなのか?

この三つの課題に対して、(夢想論ではなく)私を含めた多くの人が納得できる答えが出せるのであれば、どうぞ、堂々と沖縄独立論を展開していただきたい。

(※本稿はあくまでも国を対象にした論評であり、善意の中国国民を個別に嫌悪・批判するものでは決してないことを、お断りしておきます)

2019年2月12日 (火)

食物を大切にしない文化は、やがて滅びる(2)

最近、「バイトテロ」「バカッター」などと称される「アルバイト従業員による愚行」のネット投稿事件が相次いでいる。

チェーンやフランチャイズに勤務する若者たちが、商品であるはずの食物や食物に関連した道具を、常軌を逸するほど不適切に扱う「悪ふざけ動画」が、次々とネットに投稿、拡散されているのだ。

氷(食品の保存用)を床に投げつけ、調理器具を股間に当てる「すき家」の従業員。

魚をゴミ箱に捨て、拾い上げてまな板に乗せる「くら寿司」の従業員。

おでんの「しらたき」を箸でつかんでほおばり、すぐ床に吐き出す「セブン‐イレブン」の従業員。

ペットボトルを袋に入れる前に、飲み口を自分の舌でなめる「ファミリーマート」の従業員。

まだ捜査中で特定されていないが、「ビッグエコー」の厨房で食材を床に擦り付けてから調理する動画を投稿した人物も、従業員である可能性が強いであろう。

これらの愚行には共通点がある。

一つの論点は、仕事に対する真摯な姿勢の欠落である。

勤務先の、いや、それ以上に社会のルールを踏み外すリスクよりも、「悪ふざけの動画を見てもらう」満足感のほうが上回っていることだ。よく考えずに、浅はかな思い付きから軽率な行為に走り、あとで解雇され、それどころか勤務先から損害賠償まで請求される可能性が出てきたときに、初めて後悔することになる。

たとえ2~3人で冗談を言い合っているうちにエスカレートしたとしても、相互に自制し合うのが人間の理性である。そもそも「仕事」の傍らで悪ふざけをすることは言語道断であり、社会人としての資質が欠けていると断じないわけにはいかない。彼らが社会人として仕事に就く前には、厳しくかつ懇ろな再教育が必要であろう(お恥ずかしい話だが、私がいまの業界で働き始めた駆け出しのころに、これに近いレベルの愚行があったことは、正直に告白しておこう。当時のことなので、ネット投稿などはしなかったが...)。

ところで、これらの愚行の背景には、もう一つの見逃してはならない論点が存在する。

それは以前のエントリーでも指摘した「食物を大切にしない文化」である。

愚行を犯した連中のうち多くが生まれたのは、1990年代後半であろうか。三十代以上の方は、その少し前、1993年に起こった米騒動について、記憶しておられる方も少なくないのではないか。

この年、日本国内で米が冷夏のため大幅な不作となり、政府はタイに要請してインディカ米を緊急輸入した。タイでは日本の窮地に支援しようと、国の備蓄米まで含めて最大限の量を輸出した。そのためタイ国内では一時的に米不足を招き、貧困層の飢餓まで発生している。

ところが、タイの人々にそこまでの犠牲を強いて輸入した側の日本の人々はどうだったのか? 何と、このインディカ米が食感に合わないとして、廃棄したり、家畜の飼料にしたりしたのである。そのため、当然のことながらタイの人々から強い批判を浴び、外交上の支障にまで及んだ。

背景事情はいろいろあろう。「美味しく感じなかった(むかしの南京米の食感だった)」「食生活のスタイルを転換できなかった(カレーやピラフを取り入れるなどの変更ができなかった)」「インディカ米に適合する調理器具、調理方法が浸透していなかった(日本の炊飯器では上手に炊きにくかった)」「農政が愚劣だった(日本の米とインディカ米とをブレンドするバカバカしい指導をした)」「国レベルの意思疎通が不十分だった(タイ側が日本人の食感に合う高級米を輸出してくれなかった)」、などなど...

しかし、あえて言おう。「理屈は取り餅と同じ」。つまり、くっつけたいところにくっつくのだ。上記のどれ一つ取り上げても、食べ物として口に入るインディカ米を粗末に扱って良い正当な理由にはならない。現実に日本では米が大幅に足りなかったのだ。それでも米を食べたいのであれば、入手できるものを食べるしかない。

あえて言えば「ブレンド」だけは全くの愚策だったが、そもそも多くの日本国民がタイの農民たちの労働に感謝して、輸入したインディカ米をありがたく消費していれば、農政当局もブレンドなどというバカな方策を生み出す必要もなかった。

なのでこの年、私は〔自宅では、米農家だった父方の従姉が、父が実家に居た大昔から毎年、「家族分」として配分してくれていた米を、母が炊いてくれて食べることができたので〕、一食でも多くインディカ米を消費しようと、外食のたびにインディカ米の加工品を食べまくった。わずかな一人の食事であっても、せっかくタイの人たちから提供されたものである以上、大切にいただきたかったから。

しかし、当時の職場や地域など私の周囲の人たちを見渡しても、大部分は日本米を何とか入手しようと躍起になっており、インディカ米は排除する対象としてしか見なしていなかった。

つまり、「バカッター」「バイトテロ」の若者たち〔の大部分〕が生まれる前から、日本人の大半は食物を大切にしてこなかったと表現することもできる。極論かも知れないが。

むろん、この一事だけで民族文化すべてを評するべきではない。しかし、上述のような市民が大半を占める社会の中で生まれ育った若者の世代に対して、食物を大切にすることを求めるほうが、そもそも無理難題なのだ。

少なくとも、1993年にインディカ米を粗末にした人間は、この二つ目の論点に関して「バカッター」「バイトテロ」の連中を非難する資格はない。自ら食物に向き合う姿勢を省みてほしい。考え方を改めなければならないのは、あなた自身であることを肝に銘じるべきである。

2017年12月15日 (金)

食物を大切にしない文化は、やがて滅びる

「食品ロス」が大きな社会問題となっている。

現実には、私自身もしばしば、余った食物を消費期限までに食べ切れずに捨ててしまうことがある。うちの家族は老母と私との二人だけなので、肉、魚、野菜、漬物・佃煮類、レトルト食品など、いずれも慎重に期限を確認しながら、分量を見計らって購入しているつもりだが、それでも一定程度の食品ロスは免れない。反省しきりだとは言え、なかなか改善に至らないのが正直なところだ。

こんな現状ではあるが、それでも勝手な言い分であることは承知の上で言わせてもらえば、慎重に見積もった上での計算ミスから発生した「過失」の食品ロスであれば、まだ許されるのではないか。

しかし、食品ロスには明らかに「故意」のものがあるのだ。

具体的な社名は控えるが、複数の大手コンビニでは、加盟店に意図的な食品ロスを強いているとしか考えられない行為をしている。

たとえば、初春の「恵方巻」セールなどがそうだ。本部ではこれでもかと言わんばかりにキャンペーンを繰り返し、いたしかたなく買い取って棚に並べた加盟店では、少なからぬ売れ残りが発生して、大量廃棄を余儀なくされている。どう考えてもこれは本部側にとって「織り込み済み」の結末であると理解するしかない。

本エントリーはコンビニの本部と加盟店との財政的な課題を論じる場ではないので、それは別の機会に譲るが、ここで言いたいのは、「利用客からの見栄えを意識して、加盟店の棚に十分な分量の自社食品を並べさせる」本部側の姿勢が、大量の廃棄を招き、深刻な食品ロスの原因を作っていることだ。これは明らかに「故意」であろう。

この現象を年中繰り返しているコンビニ本部の道義的責任は大きい。にもかかわらず、本部では賞味期限(消費期限ではない)が近づいた食品の見切り値下げ販売さえ(表面上はともかく、事実上は)認めない方針を採っている。複数のコンビニ会社に共通する体質だ。詳細な計算方法は私の知るところではないが、見切りを禁止したほうが本部の利得になるようである。これでは、加盟店側としてはまだ食べられるものまで廃棄せざるを得ない。

当該食品の生産者は、手間をかけて作った食材や食品を廃棄されて、どれほど悔しい思いをしていることか。また、世界中でどれほどの人々が飢餓に苦しんでいることか。

カトリック浜松教会の何代か前の主任司祭が、教会のパーティーで相当量の食品ロスが発生したとき、そこに集った私を含むメンバーに対して、「では、償いとして、あなたたちがこれから廃棄する食べ物と同じ金額を、みなさんで等分してユニセフに寄付してください」と諭したことがある。キリスト者としてはそうあるのが当然で、たとえ見積もり違いの過失であっても、食物を捨てることは、「小罪」であるとは言え「罪」にほかならない。償いを求める司祭の姿勢は真っ当である。

ましてや、故意に食品ロスを作り出すことは、私たちの宗教観から見れば「大罪」に匹敵する行為である。そのような「大罪」を平然と犯す人たちの神経が理解できない。

そして、これはコンビニ会社の本部経営者をスケープゴートにして叩けば良い話ではない。私たちの周囲にも、この人たちと同じ「大罪」に陥りそうな要素は少なくない。インスタ映えする食物の画像を撮って食べずに去る若者などは、まさに「大罪」の予備軍であろう。

食物を大切にしない文化は、やがて滅びる。私たちは日常生活の中で、この現状に危機感を持っているだろうか? 自分自身の振る舞いを日々振り返りたいものである。

2017年9月15日 (金)

「敵」だからこそ必要な窓口

北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)危機が、深刻さを増している。

米国は北朝鮮の挑発的行動に強い制裁を加える態度で臨み、日本もこれに同調している。これに対して、北朝鮮側は一層反発して、ミサイルや核兵器の開発をさらに推進している。

多くの日本国民から見れば、北朝鮮の核兵器・ミサイル開発は一方的な暴挙である。しかし立場を入れ替えれば、米国や韓国と休戦状態-いまだ戦争中-である同国に取って「当然の自衛措置」以外の何物でもないことも、また現実である。同国からはリビア(2011年、旧ガッザーフィ政権破滅)の例が引き合いに出されるが、むしろ私はウクライナ(2014年、クリミア半島喪失)の例のほうが北朝鮮指導部の核兵器開発への意思を加速させたと考えている。

ウクライナが旧ソ連から継承した核兵器を放棄してロシアへ移管した際に、ロシアに加え米国・英国が参加してウクライナの領土保全を約したにもかかわらず、親ロシア派による一方的な住民投票の形で、クリミア半島をロシアに奪われているのだ。もしウクライナが核兵器を保有していたら、展開は異なっていたとの思いは、北朝鮮指導部のみならず、世界の多くの人に共通するものであろう。したがって、米国側が「北朝鮮が核兵器を放棄すれば政権存続を保障する」との言明をしたとしても、北朝鮮側からは信用できないのは自明の理なのだ。

私は読者がご存知のように、防衛力強化論者である。明確な形でなくても、日本を事実上の敵国と見なして恫喝を続ける国に対しては、同盟国と連携しつつ、自らも着々と防衛能力を強化して、相手国から攻撃されにくい状況を作ることが必要だとの考えである。

しかし、それは「対話の窓口を閉ざしても良い」ことと同じではない。むしろ逆だ。味方ならば窓口はいくらでも作れる。「敵」だからこそ、対話の窓口をどこかに開いておくことが必要なのだ。特に北朝鮮危機は米国・韓国と防衛上の歩調を合わせることが求められるが、その中でも、日本として独自外交を展開できるための仕掛けはしておかなければならない。そうしないと、全面的な同盟国との一蓮托生になりかねない。

独自外交の余地を残しておくことは、決して同盟国に対する裏切りではない。むしろ状況によっては、同盟を補強する役割を発揮することもある。偶発的な事態が起こっても相手国側の真意を確認する術がなければ、かえって深刻な状況を招く恐れもあるのだから、パイプを残しておくことは必須であろう。

現在の政府与党が北朝鮮との間にどの程度の広さの窓口を持っているのか、判然としない。おそらく何らかのパイプはつながっていると推測されるが、自民党内の右派勢力が強くなれば、パイプは細く頼りなくなるかも知れない。

東京新聞の望月衣塑子記者が政府の記者会見の場で、「北朝鮮の要求に応えるような働きかけを米国・韓国に対してやっているか?」と質問したことは、右派(特にネット民)から一斉攻撃されているようだが、政権与党が独自外交をする用意があるのかを質す意味では、鋭い視点だったと思う(ただし、同記者は被選議員でもないのに私見・憶測を述べて記者の本分を逸脱したり、限られた質問時間を独占したりと、他の問題があるので、基本的に氏のスタンスを私は支持しない)。菅官房長官は「北朝鮮に聞いてくれ」とはぐらかしたようだが...

この後、アントニオ猪木議員が訪朝して、北朝鮮の複数の幹部と対談したことは、対話するパイプを維持しておくためには大きな意味のあることだ。少なくとも北朝鮮側からは、日本側に対し窓口を開いていることを示したことになる。猪木氏が構想している議員団の訪朝が果たして現実的なのかは何とも言えないが、氏の見解「日本側が窓口を閉ざしているのでは」は正鵠を射た指摘である。猪木氏を北朝鮮の傀儡だと非難する見解は、全くの的外れであろう。

その窓口を北朝鮮側が有利に使おうとしたら、日本側は毅然として自国の主張をコンフロントすれば良い。国内の「親北勢力」に配慮する必要はない。テーブルに示した相互の主張が本当に折り合えない内容であったら、平行線をたどるのはやむを得ないが、テーブルそのものを壊してしまってはいけない。

今回の危機は、総理をはじめ閣僚、関係議員、官僚の人たちも難所だとは思うが、何と言っても全国民の生命がかかっているのである。高度な政治的判断を誤らず、主権国家日本に取って最善の道を賢明に選択してほしいと願う。

フォト
無料ブログはココログ
2019年12月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        

他のアカウント