経済・政治・国際

2026年2月25日 (水)

時節の雑感

しばらくエントリーしないまま、時間が経過してしまった。

この間、10~11月に主任介護支援専門員更新研修受講、年末年始には疾病や事故のため急変した利用者さんへの対応、1月13日に浜松市からの運営指導と、忙(せわ)し甚(な)い日程が続いたため、なかなかブログにまで手を着ける気持ちの余裕がなかったことが、原因である。

クリスマスには、思いがけず親戚からイタリアのワインをいただいたので、おかげでお財布に余裕ができ、正月にはカズノコもカニも買って賞味することができた。

20251225barolo

2019年のバローロ。

20251229amarone

2021年のアマローネ。

20260105chianti

2023年のキャンティ。

繁忙期が過ぎ、2月に入ってからも、決して暇人になったわけではない。春が訪れた暖かさの中(まだこの先、寒の戻りはあるけれど...)、約40名の利用者さんのケアマネジメント(居宅介護支援・介護予防支援・介護予防ケアマネジメント)に勤しむ毎日である。長期入院・入所、諸事情による変更希望などによって、月に一人程度は解約して去って行く利用者さんがある反面、各関係者からの紹介で、月に一人程度は新規の利用者さんも入ってくる。地域のケアマネジャー不足が影響しているとは言え、65歳の老人ケアマネジャーにとっては、ありがたい話である。

総選挙が終わり、介護も医療も福祉も、政治主導でどこまで環境の改善が進むのか、注視したいところだ。高市政権に対する過度な期待は禁物だが、財務省に主導されない「責任ある積極財政」のもと、現状を抜本的に変革する姿勢を望みたい。

ホームヘルパーやケアマネジャーの減少・高齢化に歯止めが掛からないだけでなく、施設や病院を含めた社会資源全体が苦闘し、疲弊している。グランド‐デザインの欠如による小手先の制度改定の帰結であろう。

明るい未来は、いつになったら見えてくるのだろうか?

希望を捨てずに、残る職業人生を歩んでいきたい。

2025年8月31日 (日)

思いを巡らした8月

例年にない暑さが続いている。

8月は社会的にも個人的にも、さまざまな節目の日が続いた。

6日は広島に原爆が投下された日。7日は亡き母の生誕記念日。9日は長崎に原爆が投下された日。12日は御巣鷹山に日航機が墜落した大事故の日。15日は終戦記念日。ここまでがカトリック教会の「平和旬間」と重なる。17日は私自身の開業記念日(今年で満24年)。

それぞれ大きな意味を持ち、深く思いを巡らす日となっている。

世界に戦争や紛争が絶えない現状のもと、平和旬間には心から世界平和を祈願した。

仕事の実務では、会社が6月決算なので、税務署や県の財務事務所、市の市民税課などへ、今月末までに書類を提出しなければならなかった。繰越欠損がかなり残っているので、まだ法人税はゼロ(来年は発生する見込み)だが、申告だけはしっかりやっておかなければならない。

加えて、今年は主任介護支援専門員の更新研修を受講するため、提出物の準備にも結構な労力と時間を費やした。あれやこれやで多忙な8月であったが、まずは無事に乗り切った。

2001abanico

自分の中でとりわけ重い意味を持つのは、節目の17日だ。

2001年8月17日、当時の浜松NPOネットワークセンター事務所の一角に「介護保険相談ジョアン」の看板を掲げ、相談の受付を開始してから24年(正式に居宅介護支援事業者の指定を受けたのは9月15日)。

思えば、長い道程を歩いてきたものである。

この24年の間、300名以上の利用者に対し、ケアプランや予防プランを作成してきた。現在、居宅介護支援19名、予防支援14名、総合事業利用支援(=介護予防ケアマネジメント。地域包括支援センターより受託)6名、サービスを利用していないが必要時に対応するクライアント3名、計42名の利用者を抱えている。

私自身、複数の疾患を抱え、再来月には高齢者の仲間入りをするのだが、簡単に引退できないだろう。一人親方の脆弱な居宅介護支援事業所であっても、数か所の地域包括支援センターへ利用者受任可能の空き情報を伝えると、何か月も経たないうちに空席が埋まる。全国的にもそうだが、当地浜松でもケアマネジャーは減少傾向にあるため(地域差はある)、私の同世代でも仕事をしている人は少なくない。まだまだ私も現役でいなければと、今年は更新研修を受講することになっている。

今後は自分自身の健康と向き合いながら、地道に働いていきたいと思う。

(画像は開業前の春、南欧旅行をした際、スペインで入手したフラメンコ用のアバニーコ=扇子)

2024年11月30日 (土)

主役はあなたではない

先般実施された兵庫県知事選挙について、当選した知事の広報戦略全般を担ったと称するPR会社の社長が公開した内容が、物議を醸しており、公職選挙法に違反するのではないかとの疑惑も噴出している。

公選法云々はともかく、この社長はプロフェッショナルとして失格である。

その理由は、クライエント(ビジネスでは「クライアント」と表現することが多い)の内情を、かなり具体的な内容に至るまで開示してしまっているからだ。

記述の内容次第だが、守秘義務違反に当たる可能性もある。

私たちケアマネジャーの場合であれば、クライエントである利用者の尊厳を守り、より望ましい主体的な生活を実現させるため、地域資源を組み合わせて最善の支援体制を構築するのが仕事である。もし、ケアマネジャーが主役である利用者を差し置いて、「オレ(アタシ)が○○さんを支援したから、○○さんはこんなに活き活きと暮らせるようになったんだ!」と前面にしゃしゃり出たとしたら、これは側面的支援を職能とするプロのケアマネジャーとして失格である。加えて、個人情報の目的外使用にも当たるものであり、専門職として踏むべき規範を逸脱している。
(利用者や家族の同意を得て、匿名の状態にしてから研修の場などで発表する場合など、例外もある)

PR会社がどこまで有償で働き、どこからは無償で働いたかは、(公選法に抵触しない限り)大きな問題ではない。対価をもらった場合であれ、ボランティアとして働いた場合であれ、今回支持した候補(知事)の選挙戦略をめぐる情報は、いわば陣営の内部情報であり、個人や個別の会社の了見で開示して良いものではない。この記載内容ほどあからさまに経過を語れば、法的な問題がなくても、陣営の機密情報に触れる可能性が強いからだ。同社長が経過を開示した行為は、戦略担当としての本分にも背く行為であろう。

一言で表現すれば、本来は黒子に徹しなければならない人(企業)が、調子に乗って主役の位置にしゃしゃり出ようとした末路であろうか。主役はあなたではないと、誰かが忠告してあげられなかったのか?

私たちも、これを他山の石として学ぶべきだと考える。

2023年8月19日 (土)

「席次」を軽視するなかれ!

かつて、筆者が自分の所属する職能団体の役員(代表者の次席。序列二位)をしていた時期、こんなハプニングがあった。

別の職能団体(創立百年と歴史が古く、政治力も大きい団体)からの提案で、両団体の役員が対面して協議をすることになり、当団体から四名(一名は非役員)が出向いた。会議室ではいわゆる対面式で、先に先方団体の役員五名が片側を占め、代表者が真ん中(奥から三番目)に座っていた。ところが、当団体があとから入って行ったとき、先頭を歩いていた代表者が、四席のいちばん奥に座ろうとした。私はすぐ気付いて、代表者に奥から二番目に座るように促し、私が一番奥に着席して事なきを得た。この場合、第一席の人同士が正面から向き合う形になるために、先方団体は奥から(4)(2)(1)(3)(5)、当団体は奥から(2)(1)(3)(4)が正しい座り方なのだ。やりとりの最中、先方の代表者が「団体として未熟だなぁ」と言わんばかりに笑みを浮かべていたのを覚えている(両代表はきわめて近しい協働関係にあったので、もちろんこの一件だけで信頼を損ねたことでは全くない。念のため)。

「席次」に関する最低限の知識を備えていないと、相手側の失笑を受けることになりかねない。

登壇して画像を撮ったりメディアに相対したりする場合、真ん中が第一席だが、和式と洋式(事実上の国際式)とでは、左右の上下が異なる。

日本の伝統である和式の席次は、最上位者の左(向かって右)が第二位、右(向かって左)が第三位、以下、左第四位、右第五位と続く。

一方、洋式の席次を踏まえた国際式の席次では、左右が逆になる。最上位者の右(向かって左)が第二位、左(向かって右)が第三位となる。

さて、しばらく前に日大で行われた、アメリカンフットボール部員の不祥事に関する会見で、「席次」が話題になっている。経済ジャーナリストの磯山友幸氏が、会見の席次を踏まえて、林真理子氏がお飾り理事長であると評したのだ。

この会見では、向かって右手から三人が登壇し、そのときには林理事長が先頭だった。ここまでは問題ない。ところが、林氏はそのまま奥(向かって左)に着席し、真ん中に酒井健夫学長、手前(向かって右)に澤田康広副学長が座った。あらかじめ職名と氏名が記載された紙が席に貼ってあったので、日大側が決めた席次であることは明らかだ。

メディアに向き合っていわば「ひな壇」に並ぶのであるから、ドメスティックな色彩が強い(あくまでも筆者の個人的な評価であるが...)日大であることを考えれば、磯山氏が理解している通り、和式の席次によって、序列が(1)酒井氏(2)澤田氏(3)林氏の順だと受け取られてもしかたがない。

磯山氏の指摘に対し、異論も唱えられている。学長は教学に最高責任を持つ立場であるから、実質的に理事長と同等であるので、今回は主として説明する立場である以上、真ん中に座るのは問題ないとの見解だ。

しかし、これはおかしい。それならば大学側がそのように説明すべきである。何の説明もないまま理事長が「向かって左端」に座っている場面を見せられれば、マナーを心得ている誰もが「学長が理事長より上座なのか?」との疑問を持つ。法人としての会見である以上、「法人の代表者」が最上席に座るのが社会通念である。たとえ会見の大部分で酒井氏が受け答えすることを想定していたとしても、あくまでも真ん中に着席するのは林氏であるべきだろう。もし「現実的な力関係」を反映した並びをあえて演出したとすれば、日大組織の実体を露呈してしまったことになる。

形式偏重の面倒な議論だと思う読者がおられるかも知れないが、「席次」はゆるがせにできない問題なのだ。上座・下座をめぐる手配が適切さを欠くと、亀裂や重大な誤解が生まれることも少なくない。

の事例に限らず、私たちはニュースで見聞きする事案などに敏感になり、他者から指弾を受けない整然とした組織活動を心掛けたいものである。

2023年6月 6日 (火)

G7広島サミット雑感(2)

前回から続く)

 広島サミットについて思ったこと第二弾。

(5)習近平政権に譲歩は不要
 このサミットの共同声明の中には、中国に関する言及が随所に見られた。参加首脳の中には、フランスのマクロン大統領のように、中国との適切な距離感をめぐって日本や米国と一線を画する姿勢を取った人もいる。共同声明では中国にこれまでと同様の対応を求めながら、新たに「外交団への干渉をやめよ」と要求する一方、「建設的かつ安定的な関係を構築する用意がある」と追加している。
 これは習近平政権に十分配慮した内容であり、マクロン政権が(上記の基本姿勢とは裏腹に)ヌヴェル‐カレドニ(=ニューカレドニア)の独立問題をめぐり習政権と水面下で対立していることなども計算に入れると、G7としてはかなり抑制した表現を選択したと言える。したがって、中国の孫衛東外務次官から呼び出されて抗議を受けた垂秀夫大使が、毅然とした態度で反論し、中国側を批判したのは当然だ。日本の対中外交は「譲歩すれば争いを避けられる」の姿勢が目立つが、国際的にはむしろ垂氏の対応がスタンダードであろう。

(6)ウクライナ侵攻に相当するのは「台湾有事」ではない
 とは言え、台湾をめぐって中国が事態を緊迫化させている現実がある。この「台湾有事」に関しては、国民の大部分が大きな誤解をしている。「ロシアによるウクライナ侵攻」は、ロシア側から見れば「一応国境線が引かれていたけれど、〔自国系=ロシア系住民の割合が多いので〕本当はウチの領土」である地域に攻め入ったものだ。中国から見た台湾はこれに該当しない。台湾は「もともと。ウチの一地方」なのだから。
 そして、中国側にとっての「再議すべき領土」は、沖縄県や鹿児島県奄美群島を指す(先方が「むかしは中国系の住民」だと主張する市民の人口が本当はどの程度なのかは、ひとまず措くとして)。鄧小平政権時代から、中国の公的機関が発行した地図には、奄美群島までの離島が中国の色で囲まれている。すなわちロシアによるウクライナ侵攻に該当するのは、「台湾有事」ではなく、将来想定され得る「沖縄・奄美有事」なのだ。日本国民はこれに対して真剣に備えなければならない時代に差し掛かっている。

(7)食糧を確保するためには国民的な努力が必要
 このウクライナ侵攻に伴う穀物や燃料などの国際的な不足を契機に、サミットの中で国際的な食糧安全保障について協議されたことは一つの前進である。とは言え、それは日本国民が食糧を確保できることを意味しない。私たち日本国民が現在のように、食べ物を粗末に扱う姿勢を続けていると、声明で食糧安全保障を唱えても、多くの国の市民たちには響かない。
 まだまだと思っていても、世界規模の飢餓がいつの間にか日本にも忍び寄っている。これを回避するためには、国民レベルで前述のような不遜な考え方を改めていくことも大切だが、他方で国として「取引材料」を持つことも求められる。たとえば、資源貧困国だとばかり思われていた日本でも、近年は南鳥島のレアアースや種子島のメタンハイドレート、さらに伊豆青ヶ島の金などの産出が期待されている。
現場に人材を集め(○○年までに資格を取れば高給で優遇するなど、若者たちを勧誘しても良い)、最新の技術を駆使して、一日も早く採掘にこぎ着けることも必要であろう。それらを一定程度の強制力を持たせた国の統制下に置き、「日本から△△を提供するので、食糧を分けてください」と要請する展開が望ましい。

(8)結局、みな自国が大事
 壊されている世界平和を再構築するために、国際協調は大きな意義を持つものであり、そのために今回のG7広島サミットのような機会が重要であることは間違いない。しかし他方で、参加国それぞれ自国が大事であることも冷厳な現実だ。縮小開催された形になったクアッドにしても、日・米・豪・印それぞれの思惑がある。中国と国境紛争を繰り返しているインドは、水面下では中国との間で「落としどころ」を探っているのが正直なところであり、かなりの場面で日本とは「同床異夢」である可能性が強い。
 あくまでも今回のサミットは一つの通過点であり、今後の各国の駆け引きが、どの分野でそれぞれの勢力圏を維持・拡大するかを左右する。日本国民の一人として、これから各国が展開する権謀術策の渦中で、日本が取り残されないことを祈りたい。

 以上、思いつくままに列挙してみた。ご笑覧ください。

2023年5月25日 (木)

G7広島サミット雑感(1)

先日、広島で開催されたG7サミット。1975年の当初はG6(カナダは翌年から参加)で始まり、また途中の一時期、G8(ロシアが1998-2013参加)になったこともあったが、紆余曲折を経て第49回を数える。

今回はさまざまな意味で、世界の注目を集めた会議となった。その成果について、絶賛するものから酷評するものまで、百花繚乱と表現すべき、さまざまな見解の論評が行き交っている。

筆者は政治評論家でもなければ、政界や財界の人たちとお付き合いがあるわけではない。とは言え、自国が主催国となって開催された会議であるから、当然のことながら高い関心を持って眺めていた。閉幕したいま、この会議を眺めた自分の所感を、箇条書きに整理して述べてみたい。

(1)課題は多く残ったが、一定以上の「成功」であった
 総合的にはこの会議の成果を評価したい。「自由・民主主義」「法の支配」「市場経済」など共通の価値観を持つ(七か国ごとの政権によってかなりの温度差があるものの、いまのところ基盤の部分は何とか共有している)各国首脳が一堂に会して、国際社会に対し、とにもかくにも同じ方向性のヴィジョンをう打ち出すことができた意義は大きい。

 そして各論。

(2)プーチン政権への非難は当然である
 大きな主題の一つに、ロシアによるウクライナ侵攻への対処がある。この点についての答えは明確だ。
 たとえ「過去にスターリンが線引きしたもの」であろうが、すでに両国間の合意により画定された国境を越えて、武力による侵攻を行ったのはロシアのプーチン政権側であり、この事実には一点の疑義もない。百歩を譲って、ミンスク議定書の破綻の原因が主としてウクライナのゼレンスキー政権側にあり、ウクライナ領内のロシア民族や親ロシア勢力の人たちが、ウクライナの極右勢力に殺害されたり権利を侵害されたりする事実があったにせよ、それは侵攻を正当化する理由にはならない。ましてやミンスク合意の時点ですでにロシアが実効支配していたクリミアをはじめ、占領した土地を「住民投票の結果」と称して一方的に自国の領土に併合する行為は、国際法違反以外の何ものでもない。
 この戦争を終結させるためには、何年かかろうが、ロシアが「2014年以降の占領地域」から全面撤退して、そこから両国国境の帰属に関する事案を仕切り直すことが唯一の選択肢だ(少なくとも当分の間、プーチン政権側は絶対に承知しないとは思うが...)。
 G7および同盟諸国がプーチン政権を非難することは理にかなっている。日本はNATOに加盟していなくても、米国と「同盟関係」にある以上、協調路線(もちろん米国の言いなりになるのではなく、日本側の提案や意見をしっかり主張しなければならないが...)を取らなければ「背盟」となる。極端な話、日米安保を廃棄されても文句は言えない。独力でロシアや中国と戦える軍事的な準備をしていない以上、これが既定路線であろう。

(3)ゼレンスキー政権を正義の味方と位置付けるのは不適切だ
 しかし、ウクライナ側に問題がないわけではない。上記ミンスク議定書の破綻も含め、ゼレンスキー政権側の民族主義的な立場からの策動(ロシア系住民への権利侵害を含む)があり、ロシア側を挑発したことは明らかだ。
 また、G7サミットでゼレンスキー大統領は真っ先に(?)イタリアのメローニ首相と喜色満面でハグする姿が放映され、しばらく前に自ら西欧を訪問した際にも、最初にイタリアへ飛んでメローニ氏と懇談して支援を要請しているが、同氏はムッソリーニ礼賛者の極右政治家として知られており(首相就任後はその色をやや薄めている)、ゼレンスキー氏がメローニ氏との親近感を見せ付けることにより、プーチン政権側が非難する通りの「ネオナチ」だと評されてもしかたがない。
 さらに、米国のバイデン政権は、ゼレンスキー政権側を一時期批判していたが、侵攻後は軍産複合体の利益を反映させ、武器供与を通してウクライナ民族主義勢力とうまく結び付いた(ユダヤ系ネットワークを介して手を結んだものと推測する)と言えよう。
 独裁的な政治手法(ある種のポピュリズム)や個人的な蓄財などの問題も軽視できない。
 日本政府の外交当局は氏の政権が抱える実態を正確に把握した上で国際政局に臨まないと、痛い目を見ることになる。「ゼレンスキー氏が正しいから支援する」のではなく、「ウクライナの現状を憂慮して人道的な見地から支援をする」姿勢を取ることが求められる。

(4)核兵器がなくなっても国際平和は来ない
 広島サミットの一つの大きな主題が「核なき世界」の実現へ向けてのメッセージであった。全参加国の首脳が原爆資料館を見学し、慰霊碑に献花したことは、たとえ一つの出発点に過ぎないとは言え、大きな意義を有するものであろう。
 しかし現実には、米国はもちろん、英国・フランス・インドも核兵器を手放す方向性は全くない。またドイツ・イタリア・カナダはNATOを通じて、日本・韓国・オーストラリアは米国との軍事同盟を通して、それぞれ「核の傘」のもとにあるため、核廃絶運動との関わりは限定的なものとならざるを得ない。
 他方でロシア・中国・北朝鮮が国際的な非難を回避するために、EMP攻撃(人間の殺戮よりも都市機能の破壊を目的とした特殊な核攻撃)も含めた戦略を練っているとしたら、国際的な折衝はさらに難航するであろう(筆者はその専門家ではないので詳細な分析はしない)。
 加えて述べると、将来本当に「核廃絶」が実現したとしても、戦争したい国や政治家は通常兵器の性能向上を目指すことになるので、局地的な戦争が発生すると殺傷行為が残虐化して、惨禍はより大きくなる可能性があることも、頭に置いておくべきだ。「核廃絶」を目指して今回のサミットに不満を表明する人たちは、この点について理解しているのだろうか?

(5)~(8)その他の諸点
 以上、重要なポイントを掲げたが、他にも言及しておきたいことがいくつか散見された。長くなるので、後日、稿を改めて述べてみたいと思う。

次回へ続く)

2022年8月 8日 (月)

安倍氏銃撃の背景にあったもの

一か月前の7月8日、安倍晋三・元総理が奈良県で参院選の応援演説中に、後方から銃撃されて67歳の生涯を閉じた。

個人的には、安倍氏の全方位外交政策や、現実を踏まえた防衛政策を高く評価する一方、社会保障政策に関しては批判したい点が多くあった。ただ、いまはそれらを総括して、国政に大きな業績を残した政治家であったと評価したい。そして、その早過ぎる死去に哀悼の意を表する。

さて、この銃撃については、百花繚乱と表現すべきさまざまな論評が入り乱れている。山上徹容疑者が何をどのように供述したのか、あくまでも捜査当局→メディアを通した情報しか伝わっていない。これらの情報がどの程度、事件の全容を映し出しているのか、いまだ不明瞭な部分が少なくない。

「(容疑者の)母親が旧・統一教会にのめり込んで多額の献金を続け、家庭が崩壊した。そこで同教会の代表者を殺害しようと機会を狙ったが、近付くことができず、代わりに同教会と関係が深いと信じた安倍元総理を標的にした」。これが一般的に知られている事件の動機である。この通りだったのか、それとも私たちがいまだ知らない情報が隠されているのか、判然としない。

ただ、この情報の通りだったとしても、なぜ同教会と緊密な政治家の代表者が安倍氏だったのかが理解できない。安倍氏が同教会の関連団体に祝辞を送ったのは事実であり、側近の中に信者(と考えられる人)がいたことも現実だ。とは言っても、集票力への期待から、いくつかの宗教団体にエールを送ったり選挙の際に頭を下げたりするのは、安倍氏に限らず多くの政治家に共通する。何よりも安倍政権を含む歴代の自民党政権は、別の大きな宗教団体を支持基盤とする政党と久しく連立を組んでいる。

安倍氏が通常以上に同教会と親しかったかのような報道がなされているが、これは銃撃という結果から「こうだったに違いない」とほじくり出した、いわば後付けの情報であり、信頼に乏しい内容も少なくない。おもに左派の論者は、安倍氏の祖父であった故・岸信介が「国際勝共連合」と組む目的で同教会に接近したことを挙げているが、そもそも個人の「出自」を引き合いにすること自体をヒステリックに拒否する左派が、敵対する人の場合は「祖父の行状」を持ち出して孫を批判するとしたら、これは二重基準も甚だしい。

しかし、実際に事件は起きた。それではなぜ安倍氏が標的になったのか? 容疑者の立場に立ってみると、母親に向けられていた怒りが、「母の人生を狂わせた」同教会への怒りに変容し、さらにその教会トップを「殺せなかった」ことから、何かの形で「復讐」を果たさなければ、心の平安を保てない状態になっていたものと推測される。精神科医の片田珠美氏は、容疑者の「怒りの置き換え」が生じたと指摘している。

その「置き換わった」対象が安倍氏になった大きな原因は、いわゆる「アベ脳」に代表されるような「刷り込み」(←個人や団体に向けて意図的に行う「洗脳」とは異なる)の結果ではないかと、筆者は推測している。何か社会問題が起きると、いとも短絡的に「これもアベが悪い!」と結び付けていたメディアの煽りは、目に余るものがあった。政権が退陣したことによりこの煽りは沈静化したものの、8年にわたって、一部の国民の脳には「アベ=悪」と刷り込まれていた。その一人が山上容疑者ではなかっただろうか?

今後、新たな事実が判明して、筆者の推測が誤りであったことが証明されるかも知れない。しかし、たとえそうなったとしても、理性的な批判の範囲を越えた憎悪を拡散することによって生じる「刷り込み」は、時として人を殺すものであることを、私たちは肝に銘じておくべきであろう。

2022年5月 7日 (土)

憲法記念日に寄せて

私は今年営業日だったが、一般的に祝日である5月3日は、「日本国憲法」が施行された日(1947年。今年は施行75年)である。

このところ、憲法を改正すべきか否かの議論が喧(かまびす)しくなっている。もちろん、ロシアによるウクライナ侵攻を受けた現象であることは、言うまでもない。

3日にも各地で「改憲」「護憲」それぞれの側からの集会や活動が行われている。私自身は「改憲論者」であるが、たとえ定休日であっても、集会に参加することまではしていない。国の基本法が75年も改正されないことが正常だとは思えないから、国政選挙で改憲を、特に九条の改正を主張する人が立候補した場合は、他の政策に大きな違和感がない限り、その候補者に票を入れている。

他方、「護憲」を主張する人たちの大部分は、何よりも平和憲法の根幹である「九条」を守れ、と主張する。そうすることによって日本の平和が守られる、との見解なのであろう。

さて、「護憲」を謳う以上、憲法そのものを守らなければならない(当然だが...)。そのためには、「A.国民による改正(護憲論者の人たちから見れば「改悪」)をさせない」だけでは不十分だ。憲法は国内法であり、外国はこれを守る義務はない。したがって、日本の平和を守るためには、「B.外国に日本を攻撃させない」ことも保証させなければならない。もし外国が日本に侵攻(「間接的侵略」も含む)して、政治の中枢を支配してしまえば、その力によって憲法はその国の都合が好い形に変えられてしまう。

そこで、「護憲論者」の方々に質問がある。

日本に敵対的、ないしは非友好的な国が、すぐ近くに四か国も存在する。(1)竹島を一方的に自国領土へ編入して返還せず、過去に日本と締結した条約の趣旨もしばしば蔑ろにしている韓国、(2)尖閣諸島(...のみならず、遠回しな表現ではあるが、沖縄全県と鹿児島県奄美群島も含む地域まで)への領有権を主張し、領海侵犯を繰り返す中国、(3)北方四島を実効支配して返還せず、周辺海域を艦船で威嚇するロシア、(4)国交がなく、日本を敵視してミサイル発射を繰り返し、その標的に位置付けてはばからない北朝鮮だ。

「護憲論者」の方々は、これらの諸国の政治指導者に対して、上記のBを実践してもらうために、日本国憲法の理念をどのように説き、どのような回答を得ているのか?

いや、(1)韓国については、散発的(志を同じくする人たちが統一して行動しているとは、とても考えられない)ではあるが、ときの大統領や首相に憲法九条の趣旨を伝え説いている人もいる(それも、逆に相手方から利用されている場合が多いと、個人的には思うが...)。しかし、韓国が「不法占拠している」竹島を返還する動きなど全く窺えない。ましてや、(2)中国・(3)ロシア・(4)北朝鮮については、そもそも働き掛けた事実さえほとんど確認できない。もちろん、政治工作の中には公開できない部分もあることは承知しているが、これまでの状況では、防衛力に不安を抱える国民が納得できる説明責任を果たしているとは認め難い。

いま、これらの国々が「これ以上の力による現状変更」をしない最大の理由は、日米安全保障条約があり、米軍が日本に駐留しているからだ。もちろん自衛隊の強化も重要な原因である。しかし多くの護憲論者は、米国寄りの安保に反対であり、かつ日本の防衛費を削減せよと主張している。

ならば、上記の国々で、護憲論者の方々がどのような活動をして、政治指導者とどのような対話をしたのか? それに対して、相手はどう反応、回答したのか? その事実をまず説明すべきである。たとえば国連本部や国際会議の場で九条の理念を説いて、そこに韓・中・露・北などの首脳も列席していた...などとゴマかしてもらっては困る。本当に憲法九条の理念が至上のものだと信じているのであれば、相手のホームグラウンドへ赴いて直談判するのに躊躇はないはずだ。

もちろん、(2)(3)(4)は民主的な体制を採っている国ではないから、「護憲論者の代表」がしかるべきルートを経由して対話を申し入れても、拒絶されることもあるだろうし、仮に対談が実現しても、活動家側の理念を否定されて終わり、になることもあるだろう。それならそれで、「わが国の憲法九条の趣旨を尊重し、攻撃してこないことを保証せよと、○○国家主席(大統領、委員長etc.)に対話を申し入れたが、断られた」「...説得したが、否定的な回答しか得られなかった」と報告してほしい。その上で、「そこで、次のステップでは、これらの国々に対して□□□の行動を実践する」と代替案を示してくれれば、少なくとも議論の対象とすることに差し支えない(賛同できるかどうかは別として)。

「護憲論者」の活動家には、日本国内で「護憲」を叫んでいる活動家たちが圧倒的に多い。日本は言論の自由が保障された民主的な体制の国であるから、いくらでも声を上げることができる。しかし、九条を「守ってもらいたい」相手のホームグラウンドで叫ばなければ、全く意味がない。失礼ながら、「お花畑で遊んでいる姿を見せられても、議論にならない」。これが私の正直な思いだ。

いまからでも遅くないので、護憲論者のみなさんには、北京へ、モスクワへ、ピョンヤンへ行き、自らの信じる理念にしたがって、相手を説得してもらいたいものである。もしくは、すでに実践しているのであれば、その「成果」を多くの国民に対して、わかりやすい形で開示してもらいたいものである。

その報告に接したあかつきには、「改憲」と同じテーブルに「護憲」も乗せ、議論の対象として比較検討することができるであろう。

2022年3月24日 (木)

ロシアのウクライナ侵攻に思うこと

2月24日、ロシアがウクライナに侵攻を開始してから、はや一か月になる。

この間、多くの論者がこの国際的な大事件について、さまざまな視点から報じてきた。

「後出しジャンケン」のつもりはないが、いろいろな素材が出揃ってから何か言おうと思っていた(正直なところ、仕事が超過密だったため、エントリーを書く余裕が無かったのだ)。昨日はウクライナのゼレンスキィ大統領が国会でオンライン演説をしたこともあり、一つの節目の時期となったので、私が着目すべきだと考えるいくつかの論点を整理してみたい。

(1)一方的な侵攻への非難は当然である
まず、これまでの経過はともかく、
ロシア・プーチン政権はゼレンスキィ政権のウクライナの領土へ一方的に侵攻し、多くの民間人を殺傷しており、かつ、それを自国の防衛のためと称して正当化している。主権国家が自国の利益のために他の主権国家を暴力で屈服させようとすることが、許されない暴挙であることは言うまでもない。世界の多くの人々がウクライナの国民を励まし、声援を送り、戦禍で亡くなった人たちを悼むことや、ロシアの現政権を非難することは、ごく自然だ。私自身も同じ気持ちである。

(2)「プーチンは悪」「ゼレンスキィは善」と断じるのは不適切だ
しかし、それだからと言って、この衝突に至る過程で、ウクライナ側の挑発がなかったことを示すものではない。日本の公安調査庁「国際テロリズム要覧」では、ロシアの極右過激組織「ロシア帝国運動」に触れるとともに、ウクライナの愛国者で形成される「アゾフ大隊」にも言及している。信頼筋からは、この愛国者組織がロシア系、親ロシア側の住民を殺害した情報も寄せられている。それぞれの組織が外国人戦闘員たちも抱えて相手方と戦闘を繰り返し、ついに今回の侵攻を招いた次第だ。いわば双方の相互作用が憎悪を増幅させたものであり、単純な善悪をもって論じるのは早計である。もし一方的に、プーチン氏が悪魔でゼレンスキィ氏が正義の味方だと思っている人がいたら、それは日本的な「二分割思考」の罠(さらに踏み込んで表現すれば「俳優ゼレンスキィ劇場」のプロパガンダ)にはまっているのだ(もちろん、対するロシア政府側のプロパガンダの問題もあるが...
)。国際政治は「相互作用」「謀略戦の応酬」からエスカレートして実際の戦争に至ることや、いまやサイバー攻撃などの情報戦が戦闘の前段階になっているのが常識であることを、私たちは知るべきであろう。

Ukraina

(3)各国はそれぞれの思惑で動いている
今回、かなり危機が迫るまで「当事者(ウクライナ)不在」の感があり、第二次世界大戦前のチェコスロヴァキアに似ている。プーチンvsバイデンの応酬が取り沙汰されていたのにもかかわらず、ゼレンスキーの名前は侵攻直前までほとんどの日本人に知られていなかった。米国・英国・フランス・ドイツ、そしてロシア寄りの中国・インドも、それぞれ自国・自陣営の利害のために動いている。純粋にウクライナ国民の最善を願って連帯を表明していた国は、どこにも存在しなかった。今後も原則的には同様な経過をたどることは自明だ。

(4)難民受け入れの門戸を広げよ
日本の法務省はもともと、朝鮮戦争の余波を懸念して、難民受け入れにたいへん消極的であった。インドシナ戦争の終末期(1975年)、欧米諸国の要請に押される形で、ようやく多くのインドシナ(ヴェトナム、カンボジア、ラオス)難民を国内に受け入れた。ところが、その後はまた門戸を閉ざしてしまっているので、クルド人など国際的に「迫害されている民」であることが明らかな人々でさえ、容易に難民認定されない状況が続いている。政府は「純血主義」に傾く右派・保守派の影響を受け、いつ起きるかわからない朝鮮半島有事を恐れて、国際的な信用を損じる愚策を採り続けてきたのだ。この機会に、ウクライナのみならず、世界各地から日本へ逃れてくる被弾圧民族を、新たな仲間として受け入れたらどうか? 家族ぐるみで来日する人たちの定住は少子高齢化対策にもなるのだから、一石二鳥ではないか。

(5)私たちは国際経済への影響を先読みすべき
私自身、いわゆる「経済オンチ(「オンチ」は差別用語ではなく自虐の呼称。念のため)」であるので、将来の予測は経済評論家たちの論考を頼りにするのが通例だ。しかし、そんな私でも、ロシアとの貿易途絶によるダメージ、たとえば小麦の供給減少による食品価格の上昇、原油価格の高騰によるガソリン・石油製品価格の上昇、パラジウムの輸入経路変更(おそらく今後は、価格の高い品が中国経由で入ってくる)による自動車価格の上昇により、身近な市場に大きな影響が及ぶことなどは、容易に予測できる。買い占めなどの独善的行為はもちろんいけないが、国民各自が自衛のため必要な物品の調達は、早目にしておくことが大切であろう。

(6)日本は安全保障の観点から、あくまでもウクライナを支持すべき
いま、日本がロシア、中国、北朝鮮などの友好的でない国々から侵攻されないのは、米国(核保有国)との同盟関係にあるからに他ならない(はっきり言って憲法九条は役に立っていない)。論者の中には、日本は中立的立場でロシアとウクライナとの和平に貢献すべきだと言う人たちがいる。もちろん、NATO加盟国であるトルコが試みたように、可能な範囲で何らかの仲介ができれば、それに越したことはない。しかし、ロシアへの経済制裁やウクライナへの人道支援に関しては、米国や西欧諸国と歩調を合わせるべきなのだ。いま、それをしなければ、今度は日本が安全保障上の危機にさらされた場合、どの国にも(状況によっては「同盟国」米国にさえ)支援してもらえないと思っていたほうが間違いない。たとえ国民生活に大きな影響が及ぶとしても、私たちの平和国家へそれ以上の甚大な結果をもたらさないために、国として「旗幟鮮明」にすることが、国際社会から求められている。

以上、言いたいことを言わせてもらったが、異論、反論などもあると思われる。コメントをいただいた場合、応接に値する意見には返信する場合もあるが、内容によっては無視、あるいは削除する場合もあることを、あらかじめお断りしておく。

2021年12月 8日 (水)

新型コロナ(15)-新変異株に「うろたえるな!」

新型コロナウイルスが世界に蔓延してから、間もなく二年になる。

その間、私たちは社会生活の中で、数々の制約を強いられてきた。マスク着用、「不要不急」の外出制限、多人数での飲食の制限、イベントでの参加者同士の距離確保や声出し禁止、等々。

感染症を引き起こすウイルスである以上、国や自治体が市民社会を守るために、予防策を講じなければならないことは当然だ。その一環として各所で上記の対策が励行されることに、私は反対するものではない。

他方、以前のエントリーで述べた通り、その感染予防策が個人、組織、地域、共同体(地方、国)のいずれのレベルでも、過剰な段階に至ったことにより、本来守られるべきである「人の尊厳」「人間の尊厳」が危機に瀕することになった。

もちろん、私自身も新型コロナウイルスに感染したくないし、自分が媒体になって他の人(特に「顧客」である高齢者)に感染させたくない。そのために可能な予防策は日々実践しているつもりだ。現在でも私は、利用者や介護者を前にしたとき、店舗へ入ったときなどには必ずマスクを着用するし、(経済的事情もあるが...)二年近くにわたり会食にも参加していない。

しかし、この状況が世間一般の自然なルールと化していることには、大いなる違和感を覚える。

政府は東京五輪やパラリンピックを強行する政治的決断を下しながら、相次ぐ第三波、第四波、第五派に対して緊急事態宣言や蔓延等防止措置を延々と発出し続けた。その間に新型コロナのいわば主力を占めていた「デルタ株」が、おそらく弱毒化や自壊作用を引き起こし、10月以降は散発的なクラスター等の発生を除き、日本国内での感染拡大が下火になっている。

ならば、この期間に現行の「二類感染症(結核・SARS・MERSなどのレベル)」から「五類感染症(ウイルス性肝炎・新型以外のインフルエンザなどのレベル)」に変更すべきではなかったか? 

そうすることによって保健所の膨大な負担(これまで、他部署・民間の保健師や、同等の力量を持つ看護協会所属の看護師までが駆り出されてきた)をいったん終結させ、かかりつけ医の裁量によって入院、隔離等の対応を判断できることになれば、自治体の負担は大幅に減り、その力を感染対策の他の部分に振り分けることができるはずだ。むしろ病床逼迫を来たさないための対策は、そのほうが効果的に推進できるかも知れない。

また、私たちも「人間らしい」社会活動を取り戻すことができる。たとえば、高齢者施設において、人権侵害とも思える家族の面会制約なども、厚生労働省や自治体が「縛り」の高札を降ろすことにより、施設長の裁量で、コロナ禍以前に近い形に戻すことができる(あえて非人間的な制約を続ける施設は、社会的に批判を受け、利用希望者が減る)。

現実には、二類→五類に反対する人たち(個人、組織)がいることを、もちろん私も承知している。純粋に科学的見解から反対している人たちもいれば、利権を手離したくない人たちもいるだろう。逆に、あまりにも感染症を軽視し、認識不足から安易な制約解除を推進する人たちも、残念ながら存在する。

これらを総合的に判断して大所高所から決断するのが、政治の役割なのだ。

子どもたちが一緒に遊ぶこともできず、健全に成長できない社会や、仕事を失ったり心を病んだりして自殺する若者が増える社会は、望ましい姿なのだろうか? この状況でさらに一年、二年と経過すれば、日本経済は立ち直ることができなくなり、日本の市民社会は取り返しのつかないところまで破壊されてしまうかも知れない。

それは単に国内の問題にとどまらない。日本に(表向きはともかく、内実は)敵対的な他の国にとって、思う壺ではないか?

このほど「オミクロン株」が蔓延しつつあるが、確かに感染力が強いとは言え、重症化しにくいとの情報も示されつつある(今後、評価が変わってくるかも知れないので、念のため)。これを恐れていては何も進まないことは確かだ。ウイルスはそもそも変異するものなのだから、世界の各地で今後も次から次へと、新たな変異株が生まれるであろう。

日本国民、とりわけ政治家の皆さんは、この新しい変異株に「うろたえるな!」

私たちは冷静にその実態を分析しつつ、正しく恐れるべきだ。そして五年後、十年後、二十年後の日本の姿を見据えた、最も望ましい選択をすべきであると、私は訴えたい。

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