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2020年11月25日 (水)

「愛知を数字で表すと...、あ、一?」「名古屋は...な、五や!」

【史料好きの倉庫(23)】

今回は「愛知県(尾三)の主要大名」の解説である。

名古屋で生まれた(母は里帰り出産だった)私にとっては「準地元」になる。母に連れられて幼少のときから頻繁に名古屋との間を往復した。学生時代から30代のころまでは、豊橋にもしばしば買い物へ行き、他の城下町では田原、岡崎、刈谷、挙母、犬山を訪れている。門前町であるが、豊川へも何度か出向いた(2017年には市の介護保険関係事業者協議会からご依頼いただき、講演に伺った。研修講師としては他に知多市の連絡組織へ一度お邪魔している)。コロナ禍で最近は愛知県へ行っていないが、名古屋市中村区(母の実家)と津島市にそれぞれ叔母が健在なので、今後も赴くことがあろうかと思う。画像は母の先祖からの菩提寺である遍慶寺。

織田・豊臣・徳川の三英傑が愛知県出身であり、三河武士の本貫であるが、中世の諸豪族の系譜は意外と不明瞭な場合が多い。最も多いパターンは、諸家の傍流から興り、江戸幕府の創業に与って大名に出世した家が、自分の家を同族の中の主流であるかのように系譜を改竄してしまい、それがそのまま自らの家譜や『寛政重修諸家譜』等に記載されて現代まで伝わっている形である。この場合には各地に残されている同時代史料を比較参照しながらの考証が必要になる(もちろん、すべてがそうではなく、水野や戸田のように主流だった家が近世大名化した場合もあるが)。江戸期の諸藩主家については、それぞれの城下町の史料で確認するのが良い。尾張徳川家に関しては藩士の系譜集『士林泝洄』があり、また名古屋市立の蓬左文庫や鶴舞図書館にも重臣家の史料が所蔵されているので、閲覧に便利である。

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◆吉良家
室町期には足利一門の中でも特別に家格が高い「御一家」の筆頭に位置付けられた名門。西条・東条の二流に分かれて代々継承されたが、諸国の守護には任命されず、三河の地方豪族の規模にとどまった。1563年に東条の吉良義安が西条を併せ領し、義弥は姻親に当たる徳川家康から吉良領を安堵され、朝廷との間の儀礼を司る高家となった。1702年、義周のとき赤穂浅野家の浪士たちに江戸屋敷を襲撃され、隠居(祖父)義央を殺害された「忠臣蔵事件」により改易されたことは、広く世に知られている。

◆斯波家
室町期には足利一門の中で管領を輩出する名家「三管」の一であり、尾張・越前・遠江の守護でもあった。斯波義健の跡目争いが応仁・文明の乱の一因となる。義寛のとき朝倉家の下剋上により越前を失い、義達のとき今川家に浸食されて遠江を失った。尾張守護として細々と存続したものの、1561年、義銀のとき織田信長によりその地位を追われた。

◆織田家
現存する系図には、織田弾正忠家(信長の家)が織田敏定(清須城主)から分かれたとされているが、これは筋目に近く見せかけるための作為である。実際には敏定から清須織田家と岩倉織田家が分かれており、弾正忠家はそれ以前、おそらく室町期の勝久から分かれた傍流の一家だと推測される。弾正忠家については「歴代武家政権」のページに掲載した。

◆松平家
現存する系図には、安祥松平家(家康の家)が嫡流だとされているが、これは後世の作為であり、実際には本来の嫡流であった松平太郎左衛門家から岩津松平家が分かれ、さらに安祥松平家が分出した。安祥松平家については「歴代武家政権」のページに掲載した。

◆菅沼家
◆奥平家
いずれも三河北部の豪族であり、田峯菅沼家・野田菅沼家・奥平家は今川・武田・松平(徳川)の強隣の狭間にあって、生き残るために苦闘している。菅沼(野田)定盈は今川家滅亡後に徳川家康に服属、奥平定能は一時武田家に従属するも、のち息子の信昌とともに家康麾下に属し、長篠の戦でも徳川方を貫いた。他方、菅沼(田峯)定吉は武田勝頼方として行動したため、武田家滅亡後に処刑され、定利は定盈を頼って家康に臣従、奥平信昌の二男・忠政を養子にしたが、忠隆のとき無嗣断絶となった。定盈の家も大名となり、孫・定昭のとき無嗣断絶となったが、定実(定昭弟)が旧領に近い三河新城7,000石を与えられ、交替寄合として存続した。奥平家の嫡流(信昌の長男・家昌の系)は後代の豊前中津藩主。

◆牧野家
現存する系図では氏勝以降しか知られていないが、1529年、嫡流であった牧野信成が松平清康に討たれて滅亡し、その後に長山一色城の出羽守系と、牛窪本郷城の右馬允系との二系が並立したと推測される。後者が近世牧野家の家系で、子孫は越後長岡藩主。

◆三宅家→田原藩
現存する系図では師貞以降しか知られていないが、1558年までは加茂郡伊保を拠点とした三宅清貞・高貞の系が主流であった。梅坪(のち衣=挙母)を拠点とする師貞の家系は江戸期に入って大名となり、再三挙母に復封するも、康勝が田原へ転封され、そのまま同地に定着した。三河国内に居所を有しながら明治まで存続した稀少な家である。

◆犬山藩
江戸期に入ると、徳川家康の四男・松平忠吉(居城は清洲)、ついで家康の九男・徳川義直(居城は名古屋)が尾張に封じられ、犬山は小笠原吉次(転出)、平岩親吉(無嗣絶家)と「附家老」が城主となり、成瀬正成以降は同家が尾張藩の筆頭家老として定着した。明治維新の際に独立して犬山藩となった。

◆尾張藩=徳川家
徳川御三家の一。家康の九男・義直が甲府から転入して尾張一国と三河の一部を領知、後に美濃の一部と信濃木曽地方を加増され、619,500石となった。藩主・宗春は将軍・徳川吉宗と対立して廃位され、没後も罪人扱いされたが、将軍・徳川家斉が自分の子を藩主に「押し付け養子」する際に、藩士の反発を緩和するため宗春の名誉を回復し、権大納言を追贈している。

◆寺部領主 渡辺家
松平家の譜代家臣で「槍の半蔵」と称された勇将・渡辺守綱を祖とする。守綱は尾張藩主・徳川義直に附属されて家老となり、寺部14,000石を領知し、代々世襲した。成瀬・竹腰らと並ぶ幕下附属衆六家の一である。

2020年11月20日 (金)

「静岡で、市増加...してないよ」「磐田の合併を、いわった...からね」

【史料好きの倉庫(22)】

今回は「静岡県の主要大名」の解説である。

磐田市出身、浜松市在住の私にとって「本貫地」である。仕事では県内各地へ幾度となく出向いており、それこそ県の「四隅」のケアマネジャー連絡組織(「天竜区」=北西の隅、「御殿場・小山」=北東の隅、「賀茂地区」=南東の隅、「湖西市」=南西の隅)まで講師として訪問している。他には磐田市、袋井市、掛川市、菊川市、川根本町、島田市、焼津市、静岡市への出講経験がある(介護支援専門員の法定研修を除く)。
しかし、城下町については意外にも少ししか往来していない。中世の城では二股城、犬居城、井伊谷城、堀江城、頭陀寺城、高天神城、近世の城では浜松城、掛川城、横須賀城、田中城、駿府城ぐらいである。他に幼少のとき立ち寄った場所があったかもしれないが、記憶に残っていない。

中世諸豪族の系譜については、戦国期までに滅びてしまったものが多く、まとまった形の史料を見付けるのは難しい。県立中央図書館をはじめ、各市町の図書館にある研究資料等を参照するのが良いが、大部分の諸家は系譜が錯綜し、詳細が解明されていない部分が少なくない。近世には各藩主の定着率が低く、浜松藩に代表されるようにしばしば藩主家が交替した。また明治に入り、徳川宗家が駿府に移封されたことから、それまでの中小諸藩は千葉県へ移転してしまったので、同県側に史料が存在する場合もある。

画像は宝永山側から見た富士山。以前の法定研修で講義する際に、県当局を通して、県観光協会所蔵のものを借用した。

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◆堀越公方 足利家
「公方」と言えば聞こえは良いが、実は室町幕府から派遣された関東公方・足利政知が、古河公方・足利成氏の与党に阻まれて鎌倉へ入れず、伊豆の堀越に留まったもの。二代目の茶々丸(諱は未詳)のとき、伊勢盛時(=北条早雲)に滅ぼされた。

◆今川家=駿河守護
言わずと知れた東海道を代表する守護大名。しかし本来は駿河一国の守護であり、遠江を制圧したのは16世紀に入った今川氏親のときである。義元が桶狭間の戦で討死した後、氏真時代には急速に衰退し、1569年には東西から武田・徳川に攻め込まれて領地を失う。大名としては失格だったが、氏真は文化人としては一流の人であり、その家系である江戸期の今川家は高家となって、朝廷との橋渡しをする儀礼的な役割を担った。なお、氏真の八代後の子孫に米沢藩主として明君の誉れ高い上杉治憲(=鷹山)がいる。

◆富士大宮司
富士本宮・浅間大社の社家であったが、領主として豪族(武家)を兼帯していた。室町期から戦国期まで今川家の被官であり、のち武田家から徳川家へと主を変え、江戸期に入る富士信家のとき社家専任となり、幕府から浅間大社一帯の領有を認められていた。

◆井伊家
遠江国引佐郡井伊谷(いまの浜松市北区)に興り、平安朝期から在庁官人であった由緒ある家系。しかし、南北朝時代に道政系(南朝の宗良親王を奉じた一族)と泰直系とに分かれ、室町期には渋川(直貞系)と井伊谷(時直系)とに分かれるなど、分裂・統一を繰り返した。そのためか系譜が錯綜しており、継承関係が不明瞭である。戦国期には今川家の被官となったが、井伊直親が今川氏真に誅殺された後、女性の直虎が一時的に当主となって家を守った。直政は徳川家康に仕えて家運を取り戻し、家康の関東移封に随従して上野箕輪へ転封、関が原の戦後は近江佐和山(子孫は彦根)に封じられ、江戸幕府の柱石となる。

◆岡部家
駿河国志太郡岡辺(いまの藤枝市内)に興り、平安朝末期に在庁官人であった家系。しかし、鎌倉中期から室町中期までは、同時代史料に登場しない空白期間であり、系譜通りに継承されたか定かではない。代々今川家の被官であったが、岡部正綱が徳川家康の家臣となり、長盛は近世大名に転進、子孫は和泉岸和田藩主となった。傍流の岡部親綱は今川家の重臣となり、元信は武田家に仕え、1581年、高天神城の戦で徳川勢を迎え撃ち敗死した。

◆天野家
伊豆国田方郡天野(いまの伊豆の国市内)に興り、天野遠景は源頼朝に随従して転戦、政景は鎌倉幕府の有力御家人となって、関東・近畿・中国地方にも所領を与えられたが、のち嫡流の動向は不明。遠江周智郡に拠る景経の系統が犬居天野家となり、事実上の主流として戦国期に今川家被官となった。今川家の衰亡に伴う混乱期、1563年に秋葉城主の藤秀が当主になるが、景貫が武田・徳川の間を変転したので、1573年に徳川家康の攻撃を受けて所領を失った。

◆小笠原家
本項目の同家は「高天神小笠原家」として知られるが、もとは信濃小笠原家の一族で、小笠原長高が各地を流浪した後に今川家に仕え、春義のとき遠江高天神城主となった。氏清は今川家の没落後、徳川家康に臣属したが、信興は武田勝頼に降伏し、武田家の滅亡後は北条家へ逃れた(小田原開城の際に殺害されたとも言われる)。義頼は家康から家の再興を許され、子孫は紀伊藩士であったが、曽孫・胤次は藩主・徳川吉宗の輔臣の一人となったため、吉宗の将軍就位に随従して江戸へ上り、旗本に昇格している。

◆大沢家
藤原氏の持明院流(公家)の子孫であり、遠江堀江を代々領有したが、室町期の系譜は裏付けに乏しい。江戸期に入る大沢基宿のとき、徳川家康から南朝の末裔・木寺宮との縁故関係を考慮されて、吉良家とともに高家となり、朝廷との橋渡しをする儀礼的な役割を果たした。

◆飯尾(いのお)家
室町幕府の奉行人であった飯尾家の一族であるが、飯尾長連やその父とされる親実が、系譜の上で嫡流とどうつながるのかは未詳。賢連が引間(浜松)城主となり、連竜のとき1568年、今川氏真に誅殺されて滅亡。なお、飯尾家の時代に浜松を代表する「凧揚げ祭り」が発祥した。

◆江川家
伊豆の国人領主。戦国期には北条家の被官であった。江川英長のとき徳川家康に仕え、従前の所領を大幅に削減されたものの、本領の近傍一帯の支配を任せられ、実質的には数千石格の旗本として韮山代官を世襲した。幕末に江川英竜(坦庵)が出ている。

◆浜松藩
江戸初期の城主・松平忠頼以降、東海道の一拠点としての譜代中級藩であり、老中になれる家柄の大名が交替で入封したため、浜松城は「出世城」と呼ばれる。最後の藩主・井上正直は1868年、徳川宗家の駿府入封に伴い、上総国内へ移封した。他の中小藩も同様である。

◆駿河府中藩/静岡藩
江戸時代前期には徳川頼宣(のち紀伊へ転封)、徳川忠長(失脚)の所領。その後は長らく藩は置かれず、城代支配であった。大政奉還後の1868年、明治新政府から江戸(旧幕府)420万石を没収された徳川宗家を継承した家達が、六分の一の70万石で復家を許され、廃藩置県までの短期間、静岡藩として存続した。

◆相良藩
1767年、側用人から老中へ昇進する過程の田沼意次が入封し、5万石を領知する。意次が失脚すると、政敵・松平定信によって城は破却され、孫・意明は陸奥下村へ左遷されたが、三代後の意正は若年寄として幕政に参画し、1万石ながら相良へ帰還することができた。1868年、徳川宗家の駿府入封に伴い、上総国内へ転封。

2020年10月17日 (土)

手抜き料理

ネットで最近、「冷凍餃子は手抜き料理なのか?」と議論になったらしい。

個人的には、冷凍餃子が手抜き料理だろうがそうでなかろうが、全く構わない。子どもがいる家庭で親が腕を振るいたいのなら別だが、私のような中高年の一人暮らしの場合、餃子を一から自作しなければならない理由は何もない。いや、子どもがいたって、片方の親が専業主婦(夫)か自宅での仕事か、それに近い状態ならばともかく、外で相当時間働いている場合は、帰宅してから作るのはとても疲れるはずだ。結婚生活を経験していない私にも、それはよく理解できる。しっかり時間を掛けて調理するのは休日ぐらいで十分だと思う。数十年前の高度成長期、夫が帰宅すれば妻がしっかり手を掛けて夕食を用意してくれる状況がメジャーだったころとは、時代が全く違う。

私も一から餃子を作ったことはない。母が存命のときに食材をデリバリーしてもらっていたが、そのころにときどき注文した餃子はすでにミンチが作られた状態だったので、小分けにして皮にくるんで焼くだけであった。いまはもっぱら地元「五味八珍」の冷凍餃子を買ってきて、それを焼いて、もやしをゆでて(他の品のこともある)添えるだけの手抜き版(画像)である。

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自分の場合、週二回(水・日曜日)の休日には、食材を下ごしらえして何がしか自作することが多い。週五回の営業日には帰宅が19:30前後になり、それから調理するとなると、むしろ手抜きが当たり前になるため、レトルトのカレーとか市販のパスタソースとか、あまり時間と手間をかけないものを選択する。費用面でも、食材からがんばって作るほうが必ずしも安上がりだとは言えないのだ。

ご飯類は市販の粉末製品を使うのが、日頃の手抜きパターンになっているが、それでも少し工夫して何かを添えるのは楽しい。

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この画像はチャーハンの素を使って混ぜただけだが、別に買ってあったヤングコーンを切らないまま豪快に入れてみたところ、なかなかイケる味になり満足した。

下の画像はチキンライスの素を使い、別に買ってあったコーンを混ぜたもの。ほうれん草をゆでて(一回分には少し多かったかも...)おしたしにして一緒に食べてみたところ、これも好く合っている。

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早い話が、手抜きだろうと何だろうと、「美味しければ良い(笑)」

逆に、「手を抜かない」料理のグレードを求める人は、家族に負担を強いるのではなく、自分自身が作るか、お金を掛けて外食などへ行けば良いのである。家庭の経済状態や、家族それぞれの健康状態(望ましい栄養配分など)を勘案しながら、どんな生活スタイルを送るのか、各自が判断すべきことだろう。ましてや他人の家の台所事情を「○○は手抜きだ」などと論評するのは、大きなお世話だ。

自分の家庭に最も適した食生活は、自分たちで作り上げる。それが最善だと私は考えている。

2020年9月25日 (金)

「岐阜で大食いして、ゲフッ...」「美濃で、身のほどを知れ!」

【史料好きの倉庫(21)】

今回は「岐阜県(濃飛)の主要大名」の解説である。

幼少時、叔母の一家が住んでいた時期があったので、母に伴われてときどき行っていた。社会人になった後は何年かに一回、用事があれば出向く程度で、城下町は大垣、加納、郡上、また飛騨高山へは二回訪問。直近では2016年、FB友達の児童福祉施設長さんと会食するため岐阜市まで行っている。

美濃や飛騨の名族は中央政局との関係も深く、現在まで残る系図や同時代史料で調べられる。戦国期に台頭した諸豪族の多くは、古い時期の系譜が明瞭でないが、遠山家(苗木藩)など現地に残って存続した家もあり、概要は『寛政重修諸家譜』に所載されている。藩政時代の詳細は県立歴史資料館(未訪問。近世文書が多いが、中世の史料も所蔵されている)や各自治体の図書館等ならば考証を兼ねて調べられる。尾張藩の重臣となった竹腰家や石河家に関する史料は、名古屋市徳川園内の「蓬左文庫」に所蔵されている。

◆姉小路家
藤原北家小一条流の公家。小島・古川・向の三家に分かれ、15世紀には三家とも飛騨国司を称した(各人がそれぞれ正式に朝廷から補任されたかは不明)。小島家は衰微消滅し、古川家は三木家に家名を乗っ取られ、小鷹狩城の向家は戦国末期に消息が途絶えたが、子孫の向宣政(この人も実は三木一族だとの説もある)が常陸の佐竹義宣に仕え、主家とともに秋田へ移転して重臣・小鷹狩家となった。

◆斎藤家
美濃守護代として土岐家を支えた家であるが、利茂のとき庶流・長井家と紛争を起こす。油売りから長井家の家宰にのし上がった長井新左衛門尉の息子・利政はこれを好機として、1542年に利茂を事実上追放し、斎藤家の家督を乗っ取り(→斎藤道三)、美濃一国を支配した。竜興のとき織田信長に敗れて国を失う。

◆東(=遠藤)家
東(とう)家は千葉一族であり、代々郡上を領有していた。常縁(つねより)は大名としてよりも、飯尾宗祇に古今伝授を行った歌学者として知られている。戦国末期の盛数以降は遠藤を称したが、1692年に継嗣が断絶し、養子に入った胤親は近江三上へ転封となった。

◆遠山家
遠山一族は鎌倉~室町期にかけて動向が知られておらず、戦国期には岩村城の遠山家が嫡流であったが、織田・武田の両勢力の間にあって去就は変転し、1575年に滅亡した。関が原の戦後、苗木遠山家の友政が旧領に復帰、家は明治維新まで存続する。また同族の明知遠山家も交替寄合として旧領に復帰するが(一万石未満のため表は掲げず)、子孫の失態により通常の旗本に降格。演劇や時代劇ドラマで知られている江戸後期の町奉行・遠山景元は、明知遠山家の分家である。

◆三木家
飛騨益田郡の豪族。桜洞城に拠った直頼までの苗字は「三木(みつき)」であったが、嗣頼のとき上述の飛騨国司・姉小路(古川)高綱を攻殺、朝廷工作を行って姉小路家の一族と認められ、名跡を乗っ取った。頼綱のとき豊臣秀吉に派遣された金森長近に降伏して捕えられ、所領を喪失。子孫は三木に復称して旗本となった。

◆内ヶ島家
飛騨大野郡白川郷の領主。室町期の内ヶ島季氏(飛騨または信州の豪族?)から名が知られ、次の為氏が白川郷を領有、金鉱などの開発により地盤を築いた。曽孫・氏理(うじまさ)の代、1586年に至り、豊臣秀吉家臣・金森長近に拠点の帰雲城を攻略され、秀吉に降伏を申し出て所領を安堵された。ところがその祝宴の前夜、大地震で帰雲山が崩壊し、氏理はじめ一族の大部分が土石流に飲み込まれて覆滅した。地震が直接の原因となり消滅した大名豪族として、内ケ島家は私が知る唯一の例である。

◆石河家
はじめ石川家と称し、美濃鏡島の豪族だったが、石川光忠の実母(亀。はじめ竹腰正時妻、のち光忠の側室)が、父の没後に徳川家康の側室となって、尾張藩主・義直を生んだことから、義直に附属されて尾張藩の年寄となった。子孫は駒塚領主を世襲し、江戸時代前期から石河(いしこ)と改称した。

◆美濃国主/岐阜城主
織田家時代の城主を歴代表に掲載したが、「天下人」としての織田家については、「歴代武家政権#織田家」のページに掲載したので、参照されたい。

◆今尾藩
竹腰正信は美濃の武士であり(父祖は大垣城主と伝わるが未詳)、石川光忠と同様、実母(亀)の縁で異父弟の尾張藩主・徳川義直に附属され、今尾領主に封じられた。子孫は成瀬家と同等、石河家より格上の年寄家として重きをなし、明治に入り独立して今尾藩となった。

2020年9月20日 (日)

「長野の土地は、名がのぉ...」「飯田とかこれで、いいだ...」

【史料好きの倉庫(20)】

今回は「長野県(信州)の主要大名」の解説である。

当県の隣県なので、過去いろいろ合わせれば十回程度は出掛けている。最近では1995年に日本社会福祉士会の全国大会でパネリストとして長野まで、96年に旧勤務先の職員旅行で奈良井・木曽福島まで(画像)、2004年にはプライベートな掲示板仲間のオフ会のため安曇野まで出掛けた。城下町の散策経験も、浜松と隣接する飯田をはじめ、高遠、松代、松本、諏訪、上田、小諸と数多い。いちばん短い滞在は確か90年代の終わりごろ、車で水窪町(いまは浜松市天竜区)と南信濃町(いまは飯田市)との境目まで行き、県境の兵越峠の辺りを数分間行ったり来たりしただけで、浜松へ引き返している。

室町~戦国期の大名・豪族は、大名や旗本として信州に残ったものや、徳川家や上杉家に随従して他地へ移転したものがあり、いずれも系譜は残されているが、中世までの記述には粉飾が少なくない。地元大名では「真田家文書(真田宝物館所蔵。未見)」や「諏訪史料叢書(国立国会図書館所蔵。未見)」等があるが、古い時期の内容は考証が必要になる。長野県立図書館や各基礎自治体の図書館へ出向いたことはないが、近世史料が大部分だと聞いている。

Kiso

◆小笠原家
信濃随一の名族であったが、鎌倉期には阿波の守護であり、南北朝期に本貫である信濃の守護になった。室町期に長基が没した後、府中(長秀→持長→清宗→長朝)・松尾(政康→光康→家長→定基)・鈴岡(宗康→政秀)の三系に分裂し、1493年に鈴岡の政秀が松尾の定基に滅ぼされると、府中小笠原と松尾小笠原との並立時代となった。のち前者は長棟のとき武田晴信(=信玄)に駆逐されて放浪し、後者は信貴のとき武田家に屈服して被官になったが、武田家滅亡後はいずれも徳川家康に従属、前者は豊前小倉藩主の家系、後者は越前勝山藩主の家系につながっている。

◆諏訪家
古代からの諏訪大社の大祝(おおはふり)家であり、平安朝後期の頼信が信濃権守に任じられたころから武士化した。戦国期の頼重が武田晴信(=信玄)に滅ぼされ、武田家滅亡後に伊豆守系の頼忠が家を再興、徳川家康に随従して一時関東へ転封されるが、関が原の戦後諏訪へ復帰し、以後は諏訪藩主を代々継承した。政教分離したことにより、
大祝家は諏訪一族の別系統が世襲した。

◆木曽家
古来、木曽義仲の子孫とされてきたが、実際には藤原氏であったと推測され、戦国期に入るころから義仲を先祖として仮託したものである。義康のとき武田晴信(=信玄)の被官となったが、義昌は武田勝頼に背反して織田家、のち徳川家康に随従、関東移封に伴って広大な山林資源を失い、義利は粗暴を理由に改易されて終焉を迎えた。

◆依田(芦田)家
佐久郡の豪族で、もとは依田を名字とし、戦国期に芦田を称した。信蕃が武田家に随従したころからもとの依田に戻し、康国は徳川家康の家臣となって松平の称を与えられ、康寛(康真)は私闘で人を殺して出奔したことから、松平を返上して加藤を称し、結城秀康(家康の二男)の庇護を受けた。このような経過により一代ごとに名乗りが変転したが、次代の吉賢が芦田の名字で福井松平家(秀康の子孫)の正式な重臣となり、ようやく家運が安定した。

◆真田家→松代藩
伝えられた系図類では、海野一族の庶流で、真田幸隆が海野棟隆・幸義父子の後を継承したとされているが、状況が定かではなく、簒奪の可能性も否定できない。昌幸のとき上田から上野沼田にかけての地域を領有、関が原の戦で昌幸が失脚すると、信之が沼田・上田を併せ領した。1616年に沼田が分邦となり(後代に断絶)、1622年に信之(本家側)は松代へ転封され、そのまま動かずにここで明治維新を迎えた。

◆川中島藩・高井野藩
藩名に混同が生じている部分があり、整理すると以下の通り。(a)1616年に松平忠昌が松代城へ入封し、川中島方面の大部分を領知。19年に越後高田へ転じ、代わって高田から酒井忠勝が松代に入封。22年に出羽庄内へ転封し、代わって上田から真田信之が入封。(b)1616年、失領していた岩城貞隆が川中島領高井郡内の一部を与えられ、大名に復帰。20年に岩城吉隆が相続し、22年に加増を受け、23年には出羽亀田へ転封。(c)1619年、広島城の無断修築を理由に安芸・備後両国を没収された福島正則が、川中島近傍の高井野に左遷され、24年に正利が相続するも微禄に減知され、37年に没して絶家。本表では、(a)(b)を川中島藩(厳密には(a)を松代藩に含めるべきかも知れないが、江戸初期は北信四郡を川中島と通称しており、また(b)岩城領との境界も明瞭でないことから、川中島藩とした)、(c)を高井野藩として記載した。

◆佐久郡内水野領
1725年、松本藩主・水野忠恒が「乱心」のため改易された後、叔父の忠穀は幕府から佐久郡内で7,000石を給せられ、家系を継ぐことを許され、68年、忠友のとき加増されて大名に復帰し、77年には駿河沼津へ転封された。大名でなかった忠穀は掲載する対象ではないが、この項目を設けておかないと、忠恒から二代後の忠友までがつながらないので、あえて掲載した。

2020年9月16日 (水)

「山梨の人は、病(やまい)無し?」「甲府で厄払い、交付だ(^^)v」

【史料好きの倉庫(19)】

今回は「山梨県(甲斐)の主要大名」の解説である。

幼少時から学生時代まで、自然観光やレジャーで何度か赴いた。社会人になってからは研修で一度行っただけで、そのときに甲府を(城跡ではなく城下町を漠然と)回った記憶がある。近世には他に城が置かれなかったこともあり、古い町並みなどは隣県でありながら訪問したことがない。

甲斐の守護→戦国大名であった武田家をはじめ、大族であった小山田家や穴山家も、戦国末までに滅びてしまった。一部の豪族や武田家臣は徳川家に仕え、旗本として存続するが、多くは地元の同時代史料を軸に系譜をたどっていくしかない。県立博物館(未訪問)所蔵の甲州文庫は、近世史料が大部分であると聞いている。

◆武田家
鎌倉期から甲斐第一の大族として続き、室町期には守護として国中(くになか)地方を中心に国内一帯に勢力を広げ、戦国期の晴信(信玄)は信濃・駿河・上野にも勢力を拡大したが、勝頼に代替わりした後、1582年に至って織田信長に滅ぼされた。当主継承の時期は未詳だが、形式上、最後の当主は信勝であったと推察されるので、ここまでを歴代表に掲載した。

◆穴山家
南北朝期に分かれた武田家の庶流(実際には、恐らくすでに存在していた穴山家に養子入りするなどして、系譜を継いだと考えられる)で、河内(かわうち)地方に拠った。信君(梅雪)は武田勝頼から離反して徳川家康の与力大名になったが、本能寺の変の後に横死し、信治が家康の庇護のもとに武田を称して再興するものの、夭折して血統は断絶した。家康の五男・信吉が系図を継承したが、病弱であり、江戸初期に水戸領主となった後に夭折している。

◆小山田家
室町期から史料に見える氏族で、郡内に拠っていた。越中守信有のとき谷村城を築き、孫の信茂は武田家に所属して武名を上げたが、勝頼に背反したことを織田信長から断罪され、処刑されて滅亡した。前半期の系譜には親と子の実名や法名が混同されるなど、不明瞭な部分も多い。

◆甲斐府中藩
関が原の戦後1601年、平岩親吉が甲府に入封したが、1603年からは徳川家康の九男・義直の城代となり国政を沙汰、07年には義直が名古屋へ転封されたので、親吉はそのまま附家老として犬山城主へ転出した。以後、甲府藩には断続的に徳川一門が封じられたが、1704年に徳川綱豊が家宣と改名して将軍綱吉の世子になると、綱吉の官房長官的な役割を果たした大老格側用人・柳沢吉保(武田一族)が甲府に封じられ、事実上「国持大名」に等しい扱いを受けた。後継の吉里は1724年、郡山(大和)へ転封となり、甲府は幕府直轄領として勤番支配となったため、これ以降、甲斐国には藩が置かれなかった。

2020年9月13日 (日)

「福井まで、腹囲測りに行くか」「嶺北でカ...レーを食...うほうが(^^;」

【史料好きの倉庫(18)】

今回は「福井県の主要大名」の解説である。

30代のはじめ、旧勤務先の職員旅行で福井・越前海岸・武生を訪れたのが最初。その後もう一度、他地へ行った帰路、丸岡城に立ち寄っている。残念ながら若狭へは行ったことがない。

中世の越前・若狭の各氏族は、そのほとんどが織田~豊臣政権期までに滅びてしまったが、系譜類は「朝倉始末記」等の史料に散見する。松平家時代の藩政史料は福井県文書館に寄託されており、おそらく本多家をはじめとする重臣の系譜が閲覧できる(訪問したことはない)。各藩関係についてはそれぞれの地元で調査可能だと思われる。

◆武田(若狭)家
もともと鎌倉期には安芸の分郡守護家(広島県のページ参照)であった。室町期になって武田信栄の没後、若狭守護職を継承した信賢・国信が拠点を移し、安芸の所領は弟の元綱に譲ったので、嫡流ながら信栄以降のみを若狭守護家として本ページに掲載した。元明は守護の地位を失い流転を余儀なくされ、1582年に羽柴(のち豊臣)秀吉の指示を受けた丹羽長秀に滅ぼされた。

◆朝倉家
但馬の朝倉家の一族であり、南北朝期から斯波家に随従して越前足羽郡に移転、比較的早い時期から一乗谷へ本拠を移している(誰が当主のときか不明)。古い事典類には、応仁の乱の最中、1471年に孝景(一世)が越前守護に補任されたかのように記載されているが、実は東幕府から守護と同等の権限を与えられたものである。その後も形式上の守護は斯波家のままであったが、貞景のとき斯波義寛による幕府への提訴に勝訴して、公式にも朝倉家が事実上の国主としての地位を確立した。孝景(二世)は1543年に室町幕府から事実上の守護の格式を与えられているが、1573年に義景が織田信長に滅ぼされるまでの間、ついに正式な守護には任命されなかった。

◆越前国主・北庄城主
柴田勝家から松平忠直まで、歴代の北庄城主一覧。堀家・青木家時代は越前一国の主ではなかったが、つなげて掲載した。

◆若狭国主・小浜藩
丹羽長秀以降、明治維新に至るまでの小浜城主を歴代表にした。木下利房のみは高浜城主であったが、小浜藩主であった兄・勝俊の分家の位置にあったので、勝俊と併せて掲げた。酒井家時代の小浜藩は譜代大名であるため「若狭国主」ではなかったが、実質的には若狭国全体を所領として一円統治していた。

◆福井藩=松平家
いわゆる「越前松平家」であるが、前述の通り松平忠直までは越前国主の項目に掲げ、ここでは松平忠昌以降の藩主歴代を掲載した。

◆越前府中領/武生藩=本多家
本多富正は結城秀康の家老であり、松平忠直が失脚した後には忠昌に附属され、江戸期を通じて国老を務めて越前府中城主を世襲し、御三家の家老に次ぐ家格であった。明治になり、廃藩置県の
後に騒動が起こり、「武生藩」として追認される。その経緯は以前のエントリーを参照。

2020年9月 9日 (水)

「石川行きは君の、意思かは...」「能登は、ノーと、言ったんです(-_-;」

【史料好きの倉庫(17)】

今回は「石川県(加能)の主要大名」の解説である。

学生時代から旅行や他の用事で、数回は来県した。いずれも金沢城下町または能登半島が中心。直近では2005年、亡き母に同伴して兼六園(画像)や武家屋敷を散策し、バスで輪島まで足を延ばしている。

加賀も能登も中央政局とのつながりが強かったため、戦国中期までの各氏族の系譜は、地元や中央(京都など)の同時代史料に散見する。前田家が入部した後の、地元・能登の豪族だった長家なども含めた、加賀藩の家臣団(人持組以上)の系図は、金沢市立図書館の「加越能文庫」に所蔵されており、ここで閲覧することができる。

Memorial_kenrokuen

◆冨樫家
加賀を代表する名族で、南北朝期から室町期に守護職を世襲。一般的には1488年、冨樫政親が本願寺門徒(「一向一揆」)に敗れて滅亡し、加賀は名実ともに「百姓の持ちたる国」となったかのように誤解する向きもあるが、実は門徒の勢力下にありながらも、冨樫家は形式的な守護として存続した。戦国末期、晴貞・泰俊兄弟が相次いで野々市城主になりながら、その地位を保てず滅亡に追い込まれ、終焉を迎えている。

◆長(ちょう)家
鎌倉期以来、能登の豪族として地元に根を張り、南北朝期以降は鳳至郡穴水城を拠点として勢力を張った。長綱連は上杉輝虎(=謙信)の攻撃を受け敗亡。生き残った連竜は織田信長を頼り、のち信長の後援を受けて家を再興、鹿島半郡を領知して田鶴浜に居所を置き、信長没後は前田利家に仕えてその重臣となった。1671年に連頼が没すると、藩主・前田綱紀は長家の鹿島半郡の一円支配を終了させ、後嗣の尚連には他の重臣と同様、加賀・能登・越中三国に所領を分散させた。加賀藩の八家年寄の一であり、高連以降も33,000石の高禄であったため、当主名と官位のみ掲載した。

◆遊佐家
もとは河内の出身。能登畠山家の守護代を継承する名族であったが、戦国末に上杉方に加担した続光・盛光までの系譜は、つながっているようで実は途中が詳らかではない。新たな史料の発見が期待される。

◆加賀藩=前田家
説明するまでもなく、前田利家を藩祖とする江戸期第一の大藩である。官位は御三家に次ぎ、家老のうち四人までが受領の官位を与えられる(ちなみに、尾張・紀伊徳川家は六人、水戸徳川家は五人)特典も有していた。幕府に近過ぎたことが影響し、幕末維新期には失速して重要な役割を果たせずに終わる。

◆七尾領→前田(土佐守)家
七尾前田家は、大名としては前田利政(利家二男)の一代であり、関が原の戦後に所領を没収されて終わった。子孫は加賀藩の八家年寄の一として一万石余の知行を保有したため、当主名と官位のみ掲載した。

◆加賀藩年寄・本多家
本多家は加賀前田家の重臣であって大名ではなく、藩内に陣屋や要害を置いて拠点にした履歴もないが、大名家の陪臣のうち最高である5万石を知行し、八家年寄の一として存続したため、当主名と官位のみ掲載した。
なお、加賀藩では地方に封臣の拠点を置かない分散知行制度を採用したため、一万石以上かつ最高家格の年寄であっても、横山・前田対馬守・村井・奥村・奥村支家の五家は、本表に掲載しなかった。

2020年9月 6日 (日)

「富山の旅は、どや?ま...んぞくか?」「魚津で、ウオッス!と乾杯(^^*」

【史料好きの倉庫(16)】

今回は「富山県(越中)の主要大名」の解説である。

旅行や研修などで計四回ほど訪れたことがある。富山や高岡の城址へ出向き、特に後者は尊敬する福者・ジュスト高山右近ゆかりの史跡を巡りながら、その遺徳を偲んだ。残念ながら松倉などの古城跡へは行かず、魚津には美味しい海産物を賞味しに行っただけであるが...

富山県の諸豪族は越中(本拠は河内)の畠山家の被官として成長し、後には越後から西進する長尾→上杉家に対して去就を迫られた。神保家や椎名家などに関する記録は各地の文献資料に登場するが、系譜の前後が明瞭でない箇所もあり、今後の研究が待たれる。県公文書館には戦国期の寺社関係の史料が収蔵されており、直接ではないが、大名豪族の系譜をたどる一助になると推察される(未訪問)。

◆神保家
富山(一時・増山)の神保家が主流であり、越中守護代として戦国期に一定の勢力を保ったが、上杉方の諸将に富山城を落とされて没落した。守山の神保家は別流であったが、豊臣時代には佐々成政に随従して肥後へ赴き、のち徳川家に仕官して旗本となったので、後世の伝記にはこちらが主流であったかのような作為がなされている。本表では両者を分別して記載した。

◆富山藩=前田家
江戸期の越中では唯一の大名。加賀前田家の分家であり、宗家からの統制・監視を受けながら明治まで存続した。厳密な意味での独立大名ではなかったが、売薬を藩の一大産業に成長させ栄えたことにより、全国的な知名度は高い。

2020年9月 2日 (水)

「新潟の水は、に~がかった...」「越後のイチゴは、甘いぞ!(^^;」

【史料好きの倉庫(15)】

今回は「新潟県の主要大名」の解説である。

若いころから、一度は行きたいと思いながらも、あまりご縁のない土地であった。本格的な旅行をしたのは30代はじめ。数日かけて、春日山城跡(画像。右下の写真は直江兼続邸があった場所)から高田・長岡・新発田などの近世城下町、良寛ゆかりの出雲崎などを周遊している。他にはもう一回、南東北へ出向いたついでに県境を跨いだ程度。佐渡へ行ったことはない。

新潟県、特に越後では古くからの豪族が割拠しており、それを統一したのが戦国期の長尾家、のちに関東管領家の名跡を継いだ上杉家である。その上杉家は豊臣時代に会津、江戸期には米沢へ転封され、臣属していた諸豪族も多くは随伴して米沢へ移り、明治まで存続している。そのため、越後地方の大族の系譜には米沢の上杉文庫に収納されているものが多く、そちらで調べるのが便利である。戦国期までに没落した豪族や、佐渡の本間一族などの系譜は、それぞれ現地に残されている史料をたどることになるが、不明瞭な部分も少なくない。県立図書館を訪れたことはないが、古文書よりも活字史料としてまとめられたものが主体だと聞いている。各藩関係の系譜は新発田・長岡・上越など現地で調べるのが良い。

Kasugayama

◆本間家
もとは佐渡を代表する武士であり、鎌倉後期には北条一門・大仏(おさらぎ)家の守護代であった。室町期以降に数家に分岐して島内に分立し、河原田と羽茂の二家が有力で、両者を軸に本間諸家が離合集散を繰り返していた。1589年に上杉景勝の侵攻を招き、一族の大部分が滅亡した。

◆府内上杉家
山内上杉家(本拠は上野国)の庶流。越後守護を世襲したが、後年は守護代の長尾家に掣肘され、形式上の守護に甘んじた。1550年、定実の没後は後嗣がなく、越後の国主の座は長尾家に引き継がれる。

◆長尾家→春日山上杉家
府内上杉家に仕えた弟系の長尾家。代を重ねて主家を凌駕した。輝虎(=謙信)は上杉定実の没後、事実上の越後国主(会津領であった東蒲原郡を除く)となり、さらに上杉嫡流である憲政の譲りを受けて、上杉の名跡を継承した。景勝のとき会津、のち米沢へ転封。

◆毛利(北条・安田)家
長州藩主・毛利家と同祖であり、越後の国衆となったこちらの毛利家が嫡流(兄系)である。北条(きたじょう)と安田の二流に分かれ、北条家は上杉輝虎・景勝に背反して所領を失ったが、安田家は春日山上杉家の与党として家臣化、景勝に随伴して米沢へ移転し、明治まで存続している。

◆直江家
与板城主。長尾家の被官として戦国中期から歴史に登場。兼続が上杉景勝の補佐役として活躍し、会津→米沢へ移転したが、兼続の死後は後嗣がなく、妻の船(せん)が上杉定勝の養育係となり扶持を受けており、1637年に没して絶家となった。

◆椎谷藩=堀(奥田)家
初代・堀直之は5,500石の椎谷領主であったが、1633年に没した時点では、まだ「一万石以上が大名、未満が旗本」の明確な線引き(1635年)が行われておらず、苅谷→八幡(千葉県のページ参照)を経て10,000石となり、直宥のとき椎谷へ復帰しているため、直之から歴代表に掲載した。

◆糸魚川藩/清崎藩
松平(越前)家が糸魚川藩主になったのは1717年、直之以降であるが、直堅の代、1677年に幕府から蔵米10,000俵を与えられて大名格となっていたため、そこを起点として歴代表を記載した。

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