趣味

2022年4月24日 (日)

最近の食卓

筆者は一人暮らしなので、夕食は副食1~2品と、何かしらの主食とを組み合わせることが多い。

年明けから春の前半にかけて、朝は餅食(雑煮または汁粉)+たんぱく質(魚の加工品)、昼はパン(惣菜パンの類)またはラーメン(袋麺かカップ麺)が定番になっている。そのため、夕食は肉・卵・野菜が主流だが、「頭の体操」を兼ねて、週4回程度はメインディッシュか主食を自分で調理している。

ここ一か月余りの間に、少し新しい鶏肉料理に挑戦しながら、「組み合わせの妙」を体感してみた。以下はその代表作。

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腰果鶏丁(ヤオグオジーディン)に初挑戦。実は「ぎんなん」が残ったので、早目に使い切ろうと思い立ったものだ。メインはカシューナッツと鶏もも肉だが、ぎんなんもオイスターソース(醤油と酢も少しずつ加えているが...)の味覚を引き立ててくれる。

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鶏むね肉と枝豆のペペロンチーノ。これも初挑戦。オリーブ油ですりおろしニンニクの香りを立ててから炒めているので、一応「アーリォ‐オリォ」になっているのだ。豆は冷凍ものを使用。

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トスカーナ風カッチャトーラ。ひよこ豆を開封したので使い切ろうと思い、鶏もも肉を買ってきてこの一品にした。類似品を2回ほど試作したことはあるが、本格的に作ったのは初めてである。トマトとマッシュルームは市販の加工品だが、十分に美味しい。

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肉料理ではないが、チャーハンも大好きなので、週一回は食べている。定休日である水曜と日曜にご飯を炊くので、残り物を活用して金曜と火曜に作るのが通例。市販の素を使うことが多いが、一昨日は「創味シャンタンDX+醤油」で調味した自作を賞味。スーパーで購入した品々、むきエビ・刻みネギ・炒りごまを投入。付け合わせはほうれん草のおしたしで。

こんな具合に、好みの品を好みの調味(…ただし減塩を意識しながら…)で楽しみたいので、出来合いの食品で済ますばかりではなく、可能なときになるべく自作している。

居宅介護支援や予防支援の利用者さんには、80代、90代になっても新作に挑戦している方もおられる。自分自身の生活を活性化させ、食卓に潤いを与えるために、作る意欲を持ち続けていきたいものだ。

2022年4月 8日 (金)

「長崎を巡るなら、なんが先?」「有馬で、ありまぁ!と感動しろ」

【史料好きの倉庫(42)】

今回は「長崎県の主要大名」の解説である。

1989年と1997年、二回訪県した。いずれもカトリック教会を巡礼する旅であったので(画像左は一回目のときミサに参列した平戸教会、右は二回目のとき立ち寄った雲仙教会)、城下町は一回目に平戸、諫早(佐賀藩領)、二回目に大村、島原などを「ついでに周回した」程度である。

松浦・大村・五島・宗などの旧族大名が江戸期にもそのまま存続したので、各藩関係の系譜史料はそれぞれ平戸市・大村市・五島市・対馬市にある図書館や博物館で所蔵されている。ただし、他県の旧族大名同様、藩政期の家系が古い系譜類を作為している可能性があるため、閲覧には注意が必要である。有馬家・西郷家や竜造寺・鍋島家領の地域については、同時代史料や佐賀県で収蔵されている史料が有益である。イエズス会をはじめとするキリシタン関係の史料は、日本の大名を外から眺めたものとしては貴重だが、ローマ字転写の間違いや事象の誤解など、正確性に関する課題も多い。

Nagasaki

◆宗家→対馬藩
対馬の在庁官人であり、惟宗氏の支族だと考えられる。鎌倉期には少弐家の地頭代→守護代であり、南北朝期の宗経茂が朝鮮貿易を掌握し、室町期の貞茂が島主権を確立して対馬守護を世襲した。一族は多くの支流に分かれ、戦国大名化した将盛・晴康はいずれも傍系から入って相続したため、系譜に混乱が見られる。義智は豊臣秀吉の命により朝鮮へ侵攻し、貿易は一時途絶したが、徳川家康の時代になり再び日朝の仲介役となって国交修復を果たした。義方以降は10万石格の国持大名となったが、朝鮮貿易の縮小により財政的に窮迫し、加えて幕末には英国やロシアの軍艦来航により、内外の情勢不安のまま明治維新を迎えた。

◆松浦家→平戸藩
松浦郡一帯に分布した巨族。嵯峨源氏の支流とされるが真偽は不明。平安朝末期、松浦直の子どもたちが多くの流派に分かれ、一揆=松浦党を結成した。嫡流は相神浦(あいこのうら)松浦家であり、元寇の際には定が一族を率いて奮戦している。南北朝期から庶流の平戸松浦家が台頭し、南北朝期には勝が平戸に築城、孫の真のときには嫡家に対抗して松浦を公称した。戦国期には嫡流家との抗争が続いたが、興信・隆信(道可)が嫡流家を降伏させて被官化、壱岐をも制圧した。鎮信(法印)はキリシタンの布教を承認、壱岐を併合し、豊臣秀吉、のち徳川家康から本領を安堵された。隆信(宗陽)のときキリシタンを迫害する一方、オランダとの貿易で利潤を得るが、鎮信(天祥)のときオランダ商館が出島へ移されたので、以後は他藩と変わらない財政構造を有する6万3千石余の平戸藩として存続した。幕末維新の際には明治新政府のため積極的に協力している。

◆五島(宇久)家→五島藩
宇久島に発する豪族であり、先祖は名族に仮託されているが、実は末羅国造の後裔か。平安朝の時期には松浦党に属していた。南北朝期の宇久覚(伊豆守)・勝(尾張守)父子の代には福江に本拠を築いている。戦国期の純定はキリシタンの布教を後押しし、純玄は豊臣秀吉から本領を安堵され、名字を五島と改めた。玄雅は関が原で徳川方となり、後にキリシタンを迫害して家の存続を図った。盛勝のとき富江領を分知して1万2千石余の五島藩となり、明治維新まで継続した。

◆大村家→大村藩
藤津郡・彼杵郡の豪族。出自ははっきりしないが、仁和寺の荘官として大村に土着した一族である。元寇のとき大村家信が活躍して台頭、室町期の純治のとき本拠地に築城した。戦国期の純忠はキリシタンに入信、天正遣欧使節の派遣元の一人となった。喜前は豊臣秀吉、後に徳川家康から本領を安堵され、キリシタンを迫害して領主権力を確立、2万7千石余の大村藩政の基礎を築いた。代々継承して幕末に至り、他藩に率先して明治新政府に協力した。

◆有馬家
高来郡の豪族であり、大村家同様、出自が不明瞭である。鎌倉期から南北朝期には日野江城を拠点として勢力を培った。戦国期の有馬貴純から晴純に至る時期には、周囲の諸郡に勢力を拡大した。晴信はキリシタンに入信し、天正遣欧使節の派遣元の一人となったが、竜造寺家に抗して所領を死守、豊臣秀吉に本領4万石を安堵された。しかし、秀吉の禁教令により打撃を受け、さらに徳川家康の時代には旧領回復を図って汚職事件に巻き込まれ、死に追いやられた。息子の直純は家康の養女の夫であったため連座を免れ、日向延岡へ転封されたので、有馬の地は松倉家の所領となった。

◆島原藩
島原半島の有馬家が左遷された後、日野江城には松倉重政が入封したが、次の勝家は苛政により島原の乱を惹起したので、乱の平定後に改易、斬首された。そのあと高力家の時代を経て、深溝松平家の松平忠房が1669年、栄転されて島原城に入り、18世紀の一時期(戸田家時代)を除き、代々島原藩を統治して明治に至った。

2022年2月24日 (木)

「佐賀でうまいもの、サガした?」「唐津のカレーは、からっ!」

【史料好きの倉庫(41)】

今回は「佐賀県の主要大名」の解説である。

過去、訪県したのは一度だけ(素通りは二回ほどある)。1989年に佐賀城下を散策し、その夜は唐津に泊まって虹ノ松原などを観光した。

佐賀県立図書館には、竜造寺家文書や鍋島家文庫をはじめ、中世から近世に至る膨大な史料が所蔵されている。私が訪問した際には、藩主・重臣(各家の嫡統)の系譜をプリントアウトして一冊にまとめた綴りが周到に準備されていたので、閲覧させてもらうことができた(現在も存在するかどうかはわからない)。唐津藩は藩主家がしばしば交替したこともあり、地元に存在する史料は限定的である。

◆渋川家
足利一門であり、鎌倉期には上野国の豪族。渋川義季は南北朝期に足利直義の麾下にあり、直頼が足利尊氏派に転じ、娘の幸子が足利義詮の正室となった。義行は室町幕府の九州探題に任じられ、満頼のとき肥前・筑前に本拠を移すが、義俊のとき権威を失墜し、以後は探題とは名ばかりの、東肥前の一豪族として存続した。

◆少弐(武藤)家
武蔵出身だが、鎌倉初期、武藤資頼が鎮西奉行に任じられ、代々大宰少弐と筑前守護とを兼帯して、大友・島津と並ぶ九州の名門となった。鎌倉末期の貞経から少弐を名字とし、頼尚・冬資・頼澄は南北朝の間を変転する。満貞は大内持世に襲撃されて対馬へ亡命、教頼は大宰府近傍の旧領回復に努めたが果たせなかった。政資以降は肥前に本拠を置くも弱体化し、冬尚は1559年、竜造寺隆信の攻撃を受け敗死した。

◆竜造寺家
佐嘉郡の豪族。高木季家が竜造寺の地頭職に任じられて家名が興る。鎌倉期はいくつかの家系が並立する状態だったと考えられ、南北朝期の竜造寺家政以降、一系となった。戦国期には村中竜造寺家(嫡流)・水ケ江竜造寺家(庶流)の二系に分かれ、後者の家兼が東肥前一の実力者となるが、敵対勢力に討たれて家純・家門・周家が戦死し、大打撃を受けた。隆信は曾祖父の水ケ江家を相続した後、宗家の村中家をも継承し、肥前を統一して周辺諸国にも勢力を拡大するが、北進する島津家と島原・沖田畷で戦って敗死した。政家は病弱で政務を鍋島直茂に委ね、その嫡子高房も実権を喪失したまま1607年に没したため、佐賀の領国は鍋島家の領有となった。

◆村田家
竜造寺政家の四男・村田安良は、佐賀領主としての竜造寺家が事実上終焉した後、鍋島直茂・勝茂のもとで「親類」の一家として遇せられ、久保田1万余石を領知して明治に至った。同じく佐賀藩重臣の村田(鳥栖村田)鍋島家とは全く別の家である。幕末の当主・政矩はプロテスタントの洗礼を受けたクリスチャンとして著名。

◆後藤家→武雄邑主鍋島家
杵島郡の豪族。平安朝後期、後藤資茂が塚崎に土着して御船山を本拠とした。南北朝期の光明は足利直冬に属して活動する。戦国期の純明が塚崎の武雄に築城、貴明のとき竜造寺隆信に服属して4万余石を領有した。家信は竜造寺家から養子に入り、鍋島家の藩政時代には「親類同格(一門格)」となったが、石高は2万1千余石に削減された。中世から数百年にわたり代々武雄領を継承して、明治維新を迎えた。

◆波多家
松浦党の一族。肥前岸岳を本拠として、室町期の波多重は壱岐国を支配する。戦国末の親は竜造寺・有馬・松浦の諸家と和戦を繰り返し、のち豊臣秀吉に降伏して所領を安堵されたが、1593年に文禄の役の落度を咎められて改易された。

◆多久家
戦国末を境にして前後に分かれる。前・多久家は高来郡の豪族であり、戦国期の宗利が竜造寺隆信と戦って敗れ、所領を失った。そのあと隆信の弟・長信が多久に封じられ、鍋島家時代には4万余石を領知して「親類同格(一門格)」となったが、安順のとき2万余石に削減され、代々継承して明治に至った。

◆神代(くましろ)家
筑後御井郡の豪族。戦国期の神代利久が肥前へ移住した。勝利は三瀬城を拠点として竜造寺隆信に対峙したが、劣勢となり和議を結び、長良は隆信に服属して肥前川久保に封じられた。家良は鍋島直茂の甥であり、鍋島領内にて親類(一門)として8千石を領知、子孫は1万石となり、代々継承して明治まで続いた。同じく佐賀藩重臣の神代(こうじろ)鍋島家とは全く別の家である。

◆鍋島家→佐賀藩
鍋島直茂は竜造寺家の家老であり、隆信敗死後に家政の屋台骨を支え、実権を握った。勝茂のとき正式に「佐賀領国」の主となり、「葉隠」に象徴される強固な支配体制を敷いた。江戸期を通して35万7千余石の佐賀藩として存続し、幕末の直正(閑叟)が明治維新に大きな業績を残して、有能な家臣たちを新政府の指導者に送り込んでいる。

2022年2月15日 (火)

「福岡で、フグ食おーか?」「小倉のイケメンなら、こぅくらぁ!」

【史料好きの倉庫(40)】

今回は「福岡県の主要大名」の解説である。

二十代のころ何度か素通りしているが、足を地に着けて周遊したのは二回だけだ。初めは1992年で、小倉・博多・秋月・大宰府・柳川を巡った。二回目は2018年、母が帰天した後の6月、巡礼(小倉は福者ディオゴ加賀山隼人の殉教地)と「業界仲間の顔合わせ」とを兼ねて、門司(画像)・福岡を訪れている。

中世の大名・豪族は立花家を除き大幅に入れ替わってしまったので、古くから土着して戦国大名として存続した宗像大宮司、原田一族、宇都宮一族なども、系譜に異同や疑問点が少なからずあり、複数の同時代史料を比較参照して確認するのが望ましい。近世には県域が四大藩(および、それぞれの分家)に分かれていたので、各藩の一門・重臣などの系譜史料を調べるには、私が滞在した福岡県立図書館だけでは不十分であり、九州歴史資料館、柳川古文書館、久留米市立中央図書館、みやこ町小笠原文庫(いずれも未訪問)などを周回する必要がある(個別の所蔵史料を確認したわけではない)。

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◆宗像家
古代豪族・胸形氏の系譜を継ぎ、筑前宗像大社の大宮司を世襲しながら、周辺を領域支配した。中世には複数の系統が大宮司の地位をめぐって抗争、12世紀に宗像氏信の系統が嫡家の地位を確立した後にも、一族内の紛争がしばしば起こった。少弐、大友、大内、毛利など周囲の大勢力にも翻弄されながら、戦国期を生き抜いたが、1586年に氏貞が没して後嗣がなく、廃絶となった。

◆秋月家
筑前夜須郡の豪族。大蔵氏の原田一族であり、戦国期の秋月種朝・種時は大内家に従属しながら、筑前南部の国人領主として勢力を確立した。大内家滅亡後、種方は大友家の攻略を受けて自殺、種実は大友家に抗戦したものの、のちに従属、さらに島津家の傘下に入り、最後は豊臣秀吉に降伏して、辛うじて本領を安堵された。種長は1587年、秀吉の仕置によって日向高鍋へ転封され、その地で明治まで存続した。

◆城井家
豊前仲津郡に土着した宇都宮一門の名家。南北朝期の城井冬綱・家綱は下野の宇都宮宗家から入嗣している。戦国期の秀房・興房・正房は大内家に従属しながらも、室町将軍の前で射法を披露する家の格式を維持した。長房は大友家と毛利家の激突の間にあって、城井谷の所領を死守したが、鎮房は豊臣秀吉の転封命令に従わず、新たに豊前へ入部した黒田孝高・長政父子に滅ぼされた。

◆立花家→柳川藩
大友家の一門。立花宗匡は九州探題・今川貞世(了俊)の麾下で九州平定に参戦、親直・親政以降は大友宗家に従属して立花山城を守ったが、鑑俊(鑑載)のとき大友家に反乱を起こして滅亡した。鑑連(道雪)は大友義鎮(宗麟)の命により立花家を継承し、主家のために各地を転戦、戦国期を代表する文武兼備の名将の一人として知られた。宗茂は1587年に筑後柳川へ転封、関が原のとき石田方に与して所領を没収されたが、江戸幕府から再度取り立てられ、1620年には旧領柳川に復帰した。以後、子孫は10万9千余石(幕末の公称11万9千余石)を領有して明治に至った。

◆立花家→三池藩
大友家の一門。高橋鎮種(紹運)は大友義鎮の命により、高橋鑑種が追放された後に高橋家の名跡を継承し、立花鑑連の麾下にあって筑前、筑後を転戦したが、岩屋城を島津家に攻略されて敗死した。直次は1587年、実兄の立花宗茂とともに筑後に封じられ、三池郡内で1万8千石を与えられたが、関が原のとき石田方に参戦して所領を没収、戦後は兄とともに江戸幕府から再度取り立てられ、立花を称して常陸柿岡5千石の旗本となった。種次は1621年、伯父に随従して筑後へ復帰し、三池で1万石を領する大名となった。江戸後期の種周に至って幕府の若年寄に就任したが、派閥抗争のため失脚、継嗣の種善は陸奥下手渡へ左遷された。幕末の藩主・種恭が所領の過半を三池へ戻され、三池藩として廃藩置県を迎えた。

◆豊前国主=細川家
室町幕府の和泉守護家・細川藤孝の長男・忠興は、関が原の勲功によって豊前一国を領知、はじめ中津を居城としたが、1602年に小倉城を拠点としたので、大分県ではなく福岡県のページに掲載した。

◆福岡藩=黒田家
豊臣政権の参謀として知られる黒田孝高(如水)の家系。黒田長政が関が原の戦後、栄転して筑前一国(一部の郡は他領と入れ替え)を与えられ、50万余石(後代、秋月支藩を加えた総石高は52万余石)を領有した。そのまま
明治まで続いて廃藩置県を迎えたが、事実上の藩主の血統は、江戸中期から徳川(一橋)→京極→徳川(一橋)→島津→藤堂と変転している。最期の藩主・黒田長知は1871年の廃藩置県直前、太政官札贋造事件により藩知事を罷免され、幹部(もと家老)5名が斬首されるに至った。中央集権を推し進める明治新政府が、旧藩単位での逸脱行為を断罪して一罰百戒を狙ったものと考えられている。

◆久留米藩=有馬家
赤松家の庶流であり、室町期には摂津有馬郡の分郡守護を世襲した家。有馬豊氏は豊臣秀吉に仕えて遠江横須賀城に封じられ、関が原の戦後は丹波福知山へ移り、のち父・則頼の旧領を併せて8万石、大坂の陣の後には筑後久留米に栄転して21万石を領知した。子孫は代々同地の大名として存続、明治の廃藩置県に至った。

◆小倉藩/香春藩/豊津藩=小笠原家
信濃守護であった府中小笠原家当主の小笠原貞慶が徳川家康に仕え、秀政(信濃松本城主)を経て、三代目の忠真が1632年、豊前小倉に栄転して15万石を領知し、江戸幕府の九州探題的な役割を担った。1866年、幕末の藩主・忠忱は第二次長州征伐に参戦したが、長州軍の反攻に遭い小倉城を放棄し、香春に藩庁を新設、さらに1870年には藩庁を豊津へ移し、廃藩置県を迎えた。

2022年1月17日 (月)

調理のリハビリテーション

数年来、私が自信を失っていたことがある。

パスタソースが上手に作れなくなっていたのだ。

もともと、そんなに凝ったソースを作っていたわけではない。40前後まで、料理のレパートリーに乏しく(亡き母がお勝手を仕切っていたこともあるが...)、ときどき何か作るとしたら、パスタソース程度でごまかすことが多かった。レシピ本を参照しつつ、一応食するに値する味(笑)を出すことができたに過ぎないのだが、それでも教会でパーティーが催される際には、「自作です」と言って持参して、辛うじて面目を保ったものである。

その後、50代になると、他のレパートリーが少しずつ増えていくのに反比例して、パスタソースが上手に作れなくなった。バジルとかビーンズとか、一昨年は明太子にまで挑戦したが、何とも凡作、駄作、失敗作続きとなり、一回作って食べてはがっかりして、しばらく間が空いてしまうことの繰り返しとなった。

ところが、昨年の12月11日、冷蔵庫に残り物の「有塩バター」「しめじ」「ネギ」があったので、たまには調味料を加えてパスタソースを作ってみようかと思い立ち、実行してみたところ、やや薄塩味の(血圧が高めなので、自分にはちょうど好い)結構な一品に仕上がり、「イケるじゃないか!」と自信を取り戻したのだ。

そこで、年明けから4回ばかり、自作のソースに再挑戦してみた。

20220106beanspasta

これはキドニービーンズ(1月6日)。ベースは有塩バターだが、香味にバジルを加えたところ、なかなかイケる味覚。

20220113shiitakepasta

こちらはしいたけとわかめ(まぜご飯用)のパスタ(1月13日)。ベースをオリーブ油にして、香味はニンニクのみじん切り。まさに「アーリォ‐オリォ」である。

この調子で、次はまた別の味覚も試みようと目論んでいる。

「以前にはできていた生活を、再び送れるようになること」が「リハビリテーション」の真の意味(大上段に振りかぶった表現だと「全人的復権」になってしまうが...)なのだから、私が再びパスタソースを作れるようになったことは、まさに調理の上でのリハビリテーションに違いない。

リハビリテーションを順調に進めるためには、ふとしたきっかけからでも良いので、自信を取り戻すことが大切だと、身を持って学ぶことができた。

2021年11月15日 (月)

若き王者に声援を!

「竜王」は「名人(17世紀に創設)」と並ぶ、将棋界の最高峰のタイトルである。

1902年に十二世名人・小野五平が初めて、名人は当時の最高段位であった八段より上位だとして「九段」を自称したが、その後は名人すなわち九段相当と認識されたものの、段位もタイトルも設けられなかった。戦後すぐの1947年、読売新聞社(現称で統一する)が主催する「全日本選手権」が創設され、翌々年には「九段戦」も始まった(名人と九段とが番勝負を行って全日本選手権者を決定)。しかし、段位としての九段に昇段する棋士(名人経験者など)が何人か出たので、1962年には新たな「十段戦」に改編された。九段位・十段位は名人に次ぐ一般のタイトルの一つであったが、1987年には読売と将棋連盟との間で、名人位と同格である「一席(他のタイトル保持者より序列上位)」を認める合意がなされ(契約金の大幅増が条件だった)、竜王戦が開始されて現在(第34期)に至っている。

そして、竜王位も名人位も、他の六つのタイトルに比べると挑戦するまでの過程が長い。名人はA級棋士しか挑戦権争いに加わることができないので、まず順位戦でA級まで昇級しなければならない。竜王は誰でも挑戦できるので、若手棋士が飛躍する可能性はあるが、ランキング戦を勝ち抜いた上、さらに決勝トーナメントを勝ち上がり、挑戦者決定戦三番勝負で二勝しなければ挑戦者になれない。

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したがって、理屈から言えば、竜王位や名人位を獲得すると異論なく将棋界の覇者(の一人)と認められる...はずなのだが、多くの場合、現実にはそうならなかった。若い棋士が初めて竜王や名人になっても、まだ力不足のため他のタイトルに手が届かなかったからだ。それまでの間、先輩タイトルホルダーなどの棋士に「上座を譲る」ことも余儀なくされた。

初めて竜王または名人を獲得した棋士がそのまま第一人者となった前例は、直近で1972年、中原誠(永世五冠。敬称略、以下同)の名人位獲得(24歳)である。それまでは「大山康晴(名人・王位・王将)」と「中原(十段・棋聖)」だったのが(当時のタイトル数は5つ)、名人戦で中原が勝利したことにより、明確にタイトル数が入れ替わり、中原が過半を占めた。

その後、谷川浩司(十七世名人。1983年に21歳で名人)、羽生善治(永世七冠。1989年に19歳2か月で竜王)、佐藤康光(永世棋聖。1993年に24歳で竜王)、森内俊之(十八世名人。2002年に31歳で名人)、渡辺明(永世竜王・棋王。2004年に20歳で竜王)と続く大棋士たちは、みな最高峰の二つのどちらかで初タイトル、それも森内以外の人は20代前半までに獲得している(中原以降に両タイトルの片方または両方を獲得した棋士は他にも9人いるが、ここでは割愛する)。

しかし、これらの将棋史に残る大棋士のいずれもが、そこから複数冠保持者になるまでに年数を要しており、速い人でも一年半(森内)、遅い人は六年強(渡辺)掛かっている。羽生でさえ二冠獲得までには三年弱を要した。先輩棋士やライバル棋士が壁となって立ち塞がったから、すぐに誰もが認める覇者になれたわけではない。

ところが、この11月12~13日にかけて開催された将棋の竜王戦七番勝負第四局において、挑戦者の藤井聡太は、竜王であった豊島将之を破り、4勝0敗で竜王位を奪取した。19歳3か月の青年が、すでに保持している王位・叡王・棋聖と合わせて四冠となり、八大タイトルの半数を占め、名人である渡辺(棋王・王将)を凌いで、全棋士の序列一位となった。中原以来、実に49年ぶりの快挙である。

竜王になった時点で、すでに藤井は第一人者なのだ。しかも中原の名人就位に比べて五歳も若く、(49年前にはまだ竜王のタイトルが存在しなかったことを割り引いても)たいへんなスピード出世である。19歳と思えないほど品格も申し分なく、立ち居振る舞いはすでにして王者の風格を備えている。「羽生時代」が終わってから三年を経過して、疑いもない「藤井時代」が幕を開けた。

もちろん、先輩棋士たちがこのまま引き下がってはいないだろうし、藤井自身も負け越している相手もあれば、克服しなければならない課題も存在する。後輩たちの実力が追い付き、藤井のライバルとして覇を競う可能性も大きい。とは言え、年齢や伸びしろを考えると、しばらくの間は「藤井一強」を軸に将棋界が回っていくことは確実であろう。

若き第一人者の誕生を祝福しつつ、藤井竜王が初めて揮毫した「昇龍」の言葉通り、さらに精進を重ねて最高のパフォーマンスを発揮し、多くのファンを楽しませてくれることを心から願う。

(イラストはA&Pコーディネートジャパンのものを借用しました)

2021年11月12日 (金)

「高知の地鶏をコーチンと言ったら...」「土佐の人に笑われた、とさ」

【史料好きの倉庫(39)】

今回は「高知県(土佐)の主要大名」の解説である。

三十年も前、1991年に一度だけ訪県。高知城や播磨屋橋(画像)、また江戸期の支藩や土居(重臣の分封地)が置かれていた中村、佐川、安芸などを周遊した。

一条家は公家であったため、系譜は中央貴族の日記等の同時代史料に詳しい。長宗我部家時代の諸豪族はみな関が原の戦までに解体してしまい、歴代の詳細が不明なものもあり、藩政期に編纂された数種の史料が頼りである。土佐藩山内家について、一門や重臣の系譜は山内文庫や土佐国群書類従等に収録されている。これらの史料の多くはオーテピア高知図書館(以前の高知県立図書館、他館と合併して現在の形になった)に所蔵されており(筆者が県立図書館を訪問した当時は家老諸家の系譜が欠落していたが、いまは諸史料から補充されていると思われる)、中世・近世の主立った諸家の流れは、同館でまとまって調査することが可能である。

Kochi

◆一条家
関白であった公家・一条教房は退任後に幡多郡へ下向し、中村を居城として土着した。房家以降は代々土佐国司を世襲し、国内諸豪族の調整役も務めた。兼定は長宗我部元親に追放されて領国を失い、政親のとき家系は断絶したが、明治に至って京の一条家から実基が分家、土佐一条家の名跡を再興した。

◆安芸家
◆香宗我部家
◆大平家
◆山田家
◆津野家
◆吉良家
◆本山家
守護代の細川(遠州)家が16世紀初めに姿を消した後、国内に割拠した「土佐の七守護」である(長宗我部を数に入れ、香宗我部または山田を加えない説もある)。戦国期には一条家を国司と仰ぎながら、合従連衡を繰り返した。長宗我部国親-元親が勢力を拡大する過程で、これらの諸家を滅ぼしたり養子を送り込んだりして制圧していった。江戸期に子孫が郷士として残った家もあるが、前述の通り系譜が不明瞭になっているものも少なくない。

◆長宗我部家
長岡郡に興る。長宗我部兼光は鎌倉末期に岡豊城を築いて本拠とした。信能のとき守護・細川家に与力、元親(備前守)のとき国司・一条家と接近した。兼序は1508年、本山家など国人諸豪族の連合軍に攻撃されて敗死する。空白期間を経た後、再興した国親が家勢を回復して周囲の諸勢力を攻略した。元親(宮内少輔)は1575年に
土佐一国を統一、1585年には四国を制覇したが、豊臣秀吉の討伐を受け、降伏して土佐一国のみを安堵された。盛親は関が原の戦で石田方となって改易され、のち大坂へ入城して豊臣方として戦い、捕えられて処刑された。

◆山内家=土佐藩
1600年、関が原で徳川方として戦った遠江掛川城主・山内一豊が、戦後の褒賞として土佐一国を与えられ、高知城を築いたことに始まる。以後、同家は江戸期を通じて土佐の国主であった。幕末には豊信(容堂)が公武合体論を引っ提げて幕府の政策に関わったが、行き詰まって大政奉還の建白に転じ、明治維新を迎えるに至った。木造天守として現存する高知城は、同じ城主が築いた掛川城の復元工事の際に、たいへん参考になっている。

2021年11月 8日 (月)

「愛媛でコケた? え?悲鳴...」「宇和島で、うわっ!しま...ったと」

【史料好きの倉庫(38)】

今回は「愛媛県(伊予)の主要大名」の解説である。

自分でも意外なことに、学生時代(1985年)に旅行したのが唯一の訪県。宇和島城や松山城(いずれも現存天守)を見学し、道後温泉に宿泊した記憶がある。大洲や今治へも行きたいと思うが、なかなか機会がない(お金もない)。

中世伊予の諸豪族は来島(久留島)家を除き、大名として消滅してしまったので、系譜をたどるには同時代史料を比較参照するのが良い(ただし、西園寺家のように詳細が不明瞭な家もある)。近世には江戸前期から明治まで一つの家が通して統治した藩が多く、地元の自治体が史料を編纂する過程で収集した家譜や記録の類が調査の役に立つと思われる(私が実際に回ったわけではないので、関心のある方は県内の各自治体に照会されたい)。

◆河野家
鎌倉御家人、室町期の伊予守護。承久の乱で一時没落した後、河野通有が元寇の際に功を立てて勢力を回復。南北朝期に通朝が細川頼之の攻撃を受け敗死し、通堯は一時南朝方に味方するも、のち幕府に帰順して守護職に復帰、湯築城を本拠とした。戦国期には宗家と予州家との対立が続き、晴通が両家を統一するが、通直(兵部少輔)のとき長宗我部元親に降伏、1585年に豊臣秀吉から所領を没収された。

◆村上(能島)家
◆来島家
信濃源氏の一族には違いないが、南北朝期までの系譜は詳らかでない。室町期に村上義胤が伊予・安芸に跨る瀬戸内水軍の長として活動、子どもたちの代に能島・来島・因島(安芸)の三流に分かれ、戦国期には水軍の勢威を誇って近隣の諸大名と合従連衡した。能島村上家は毛利家に従属し、関が原の戦後は毛利家の左遷に従って周防三田尻へ移転した。来島家は豊臣秀吉から風早郡内に所領を与えられ、関が原では石田方に味方して徳川家康から所領を没収されたが、のち赦免されて豊後森へ転じた。

◆西園寺家
家名から察せられる通り、公家の閑院流西園寺家の一族である。西園寺公良が所領であった伊予宇和郡に下向し、公俊のとき松葉城を築いた。その後の系譜は異同があり判然としないが、実充のとき黒瀬城に本拠を移している。公広は長宗我部元親に降伏し、豊臣秀吉の四国征討により所領を没収され、1587年に至って、宇和郡に封じられた戸田勝隆に謀殺された。

◆宇都宮家
下野宇都宮家の一族。南北朝期に伊予喜多郡に土着し、宇都宮豊房のとき大洲城を本拠とした。戦国期の豊綱は喜多郡を一円支配し、河野家と争ったが、河野・毛利の連合軍に敗退して降伏し、所領を奪われてしまい、備後で客死した。

◆今治藩
藤堂高虎は豊臣時代に板島(宇和島)藩主であったが、関が原の功により国分山、のち今治を与えられて20万石を領知し、伊勢津へ転封した後も飛地として1635年まで今治を保有、養子の高吉に統治させた。その後、準家門の松平(久松)定房が3万石、のち4万石で今治に封じられるが、宗家の松山藩からは独立した大名として明治まで存続した。

◆大洲藩
関が原の戦後、脇坂安治が5万余石で大洲に封じられたが、安元のとき信濃飯田へ移転した。加藤貞泰は1617年、伯耆米子から6万石で大洲へ入封し、明治まで存続した。維新後に城は破却されたが、白石城(宮城県)・掛川城(静岡県)に続き、2004年に天守閣が木造で復元されている。

◆宇和島藩
1614年に伊達秀宗が10万余石で入封し、宇和郡一円を領知して明治まで世襲した。他の十万石級の諸藩に比べ、当主の官位が侍従、さらに(在任が長いと)少将と高いのは、幕府から伊達本家(仙台藩)に準じる「准国持大名」の格で遇せられたことによる。幕末の藩主・宗城は開明君主として著名。

◆小松藩
一柳直頼はもともと、西条藩一柳家から小松を分与され支藩として家を発足させたが、その本家のほうが1665年に廃絶してしまったので、以後は独立した大名として明治まで存続した。

2021年10月29日 (金)

「香川県の池は、蚊が湧かん?」「多度津まで、たどっ...て調べろ」

【史料好きの倉庫(37)】

今回は「香川県(讃岐)の主要大名」の解説である。

過去、三回訪県した。一回目は1991年、高松市内から丸亀城などを散策。その後、所属団体の用事で再訪。2004年には亡き母に同伴して、電車で瀬戸大橋を渡って県に入り、金毘羅宮の門前町を散策した後、一緒に地元名店の讃岐うどんを賞味している。

中世の讃岐に興亡した諸豪族の歴史は、不完全ながら残存する系譜や同時代史料が頼みとなるが、守護・細川家に随伴して中央の政局に関与した者も多く、系譜上の混乱を免れない。近世の諸藩、特に多度津藩については香川県立図書館(未訪問)で史料を閲覧できる。高松藩松平家歴代当主の親族関係については、続群書類従完成会『徳川諸家系譜 巻3』に詳しい。

◆香西家
香川郡の豪族。讃岐守護であった細川(京兆)家のおもだった被官の中では珍しく、平安朝期から讃岐に土着していた家である。南北朝期、香西資忠は細川家の麾下に入り、元資は細川勝元の重臣となって応仁の乱を機に勢力を拡大したが、元長(元資の孫。嫡家を継がず)は京で細川澄之を奉じて対立勢力と戦い敗死した。讃岐の本領を拠点とした元定は、瀬戸内の塩飽水軍と結託して興隆期を現出するが、佳清のとき長宗我部元親の進攻に遭い、1585年には豊臣秀吉の四国征討を受けて滅亡した。

◆十河家
山田郡の豪族。古代の讃岐公の子孫とされる。室町期までの十河家は目立たない存在だったが、戦国期に入って十河景滋に後継がなく、三好長慶の弟・一存を養子に迎えたことにより、三好政権の一翼を担うことになった。存保は阿波守護・細川真之と抗争し、織田信長に服属を申し送ったが、長宗我部元親の進攻に遭い、豊臣秀吉に救援を求めた。1585年、存保は豊臣政権下で2万石を領知するも、九州征討へ出陣して戦死、所領は収公されて生駒親正に与えられた。嫡子・千松丸は1589年に毒殺され、十河家は断絶した。

◆高松藩
生駒親正は豊臣秀吉の四国鎮圧後、讃岐一国171,800石を与えられ、四代目の高俊に至ってお家騒動が勃発、出羽矢島へ配流されるに至った。松平頼重は徳川(水戸)頼房の長男であったが、事情により水戸藩の家督を継げなかったので、1642年に12万石をもって高松城に封じられ、幕府の顧問官「常溜」の家格を世襲して、明治まで存続した。

◆丸亀藩
山崎家治は近江の出身であり、豊臣政権下で栄転して丸亀5万石に封じられたが、三代で無嗣断絶となった。京極高和は出雲松江藩主であった伯父(実は父)の忠高が没した後、いったん播磨竜野に封じられて家名を継ぐことを許され、1658年に至って丸亀城を与えられた。石高は分知により揺れ動いたが、1694年以降は5万千余石に定着した。

◆多度津藩
丸亀藩主・京極高豊は死に臨み、継嗣の高或が幼少であったため、庶子である高通に分知することを遺言に残したので、1万石の支藩、多度津藩が発足した。実際に多度津陣屋を構築したのは、四代藩主・高賢のときである。

2021年10月 3日 (日)

「徳島で商売して、得しま(^^」「阿波でアワてると損するぞ!」

【史料好きの倉庫(36)】

今回は「徳島県(阿波)の主要大名」の解説である。

47都道府県のうち、最後に到達したのがこの県だ。1999年に兵庫県から高速バスに乗り、鳴門海峡を渡って、初めてJR徳島駅前に降り立ったとき、「全県制覇したぞ!」と感動したものだ。そのときは徳島城、大歩危と祖谷渓(画像右)、那賀川の平島公方墓所(画像左)などを観光した。数年後に所属団体の用事で同県を再訪している。

戦国期の阿波の豪族は、三好家の滅亡に前後して姿を消してしまい、地元に残る同時代史料を参照して系譜をたどるのが一般的であるが、多くは詳細が知られていない。蜂須賀家時代の史料は徳島大学(未訪問)に所蔵されている家臣成立書並系図がある。刊行された『徳島藩士譜』でも参照できるが、こちらは重臣も含め各家の歴代当主のみを記載した簡略なものである。

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◆三好家
戦国期「下剋上」の代表選手とされる一族。もとは鎌倉期に阿波守護であった小笠原家の庶流であり、室町期には細川家(阿波屋形)の守護代であった。三好長輝(之長)以来中央の政局に関与し、長慶は摂津・河内を拠点として細川政権に取って替わり、畿内の実権を掌握したが、家臣・松永久秀の台頭を許し、次代の義継に至って滅亡した。他方、阿波では長慶の弟である義賢が、守護・細川持隆を自殺させて勝瑞城の主となり、国政を執ったが、長治のとき細川真之(持隆の子)・長宗我部元親の攻撃を受けて滅ぼされた。

◆一宮家
三好家の同族であり、南北朝期から阿波一宮大宮司の名跡を継承し、武家と社家とを兼ねている。戦国期には三好家の傘下にあったが、一宮成祐のとき長宗我部元親に与して本領を安堵され、のち織田家に内応したため、元親に咎められ切腹させられた。子孫は蜂須賀家の時代に大宮司に再任し、名字を小笠原に改めて存続している。

◆赤松家(住吉領)
播磨守護であった赤松家の当主・則房が1585年に阿波住吉1万石に封じられたが、阿波一国の主・蜂須賀家の客分的な地位だったこともあり、統治の実態は未詳。則英は関が原の戦で石田方に味方し、戦後は自殺して廃絶した。

◆徳島藩=蜂須賀家
豊臣政権の参謀として知られる蜂須賀正勝(小六)の家系。蜂須賀家政が阿波一国を領知して渭津に居城を置き、関が原の際には石田方の毛利輝元軍に進駐を許したため、剃髪して隠居した。至鎮は徳川方に参戦していたので、戦後に所領を安堵され、大坂の陣の功により淡路を加増されて、二国256,940石の主となった。光隆のとき城の名を徳島と改称し、明治まで続いて廃藩置県を迎えたが、事実上の藩主の血統は、江戸中期から松平(高松)→佐竹→徳川(将軍家)と変転している。

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