趣味

2022年7月31日 (日)

「宮崎から帰るのは、イヤじゃけ!」「飫肥は哀愁を、おび...てるよね」

【史料好きの倉庫(45)】

今回は「宮崎県(日向)の主要大名」の解説である。

過去、二回訪県している。1990年には鹿児島観光と組み合わせて、都城(旧薩摩藩領)まで足を伸ばした。1992年には霧島高原側から入り、宮崎市内(画像は平和台公園)や日南市(画像は飫肥)を周遊し、大分県へ移動した。

中世から日向の大名として続いた伊東家→飫肥藩の史料は、日南市の飫肥城歴史資料館(未訪問)に所蔵されている。島津一族の系譜は、鹿児島にあるものを閲覧するほうが便利な場合も多いが、北郷家→都城島津家に関する文書は都城島津邸(未訪問)にまとめて所蔵されている。他の戦国大名や近世大名については、宮崎県立図書館(未訪問)や地元自治体で調べることになる。

Miyazaki1992

◆伊東家→飫肥藩
鎌倉御家人・工藤祐経の家系。祐経が曽我兄弟に殺害された後、嫡子の伊東祐時は日向国内に所領を獲得し、南北朝期の祐持は都於郡城を拠点として勢力を拡大した。戦国初期の祐堯・祐国は財部から飫肥まで版図を広げ、義祐は日向の半国を跨有し、室町幕府の相伴衆に昇格するが、島津家の北進に大敗して上方へ逃避、堺で没した。祐兵は豊臣秀吉の九州征討の後、那珂・宮崎両郡で5万7千石余を与えられ、飫肥を居城として代々存続し、明治に至った。

◆北郷家→都城外城主 島津家
北郷忠久が南北朝期に島津家から分出して成立。敏久のとき都城領主としての地位を確立し、戦国大名となる。時久は島津宗家(忠良系)の家臣となり、1593年の「文禄の所替」により北薩の祁答院へ左遷されて困窮したが、忠能が1600年に都城へ復封され、子孫は島津の名字を許されて、3万石余の「一所持(薩摩藩の重臣の家格)」として明治まで続いた。

◆延岡藩
江戸前期までは県(あがた)藩と呼称される。当初は高橋元種(大友家時代に反乱を起こして筑前を騒がせた鑑種の養子)や有馬直純(岡本大八事件で徳川家康によって処刑された晴信の嫡子)などの「わけあり」大名の城地。1747年に入封した内藤政樹も、磐城平藩時代の一揆騒動を幕府から咎められて、延岡7万石(実質的な減封)へ左遷された形である。

◆高鍋藩=秋月家
筑前の大名であった秋月種長は、竜造寺家や島津家に与力して大友家と交戦したため、1587年、豊臣秀吉に降伏した後、日向高鍋3万石へ移転させられた。江戸前期には内紛に悩まされたが、種政のときに統治機構を確立した。種美や種茂は人材登用と民衆の福利厚生に努めたので、出羽米沢藩主・上杉治憲=鷹山(種美の二男)は父や兄の政策を大いに参考にしている。幕末期の藩主世子・種樹は幕府の若年寄に任じられたが、薩摩藩の協力により明治新政府支持に転じ、維新後は政府高官を歴任した。

2022年5月30日 (月)

「大分でコケたら、おお痛っ!」「竹田の人に、ケタケタ笑われるよ」

【史料好きの倉庫(44)】

今回は「大分県(豊州)の主要大名」の解説である。

1992年、他県を含めた旅行の最後に一度だけ行った。竹田市(岡城跡など)と大分市(府内城跡など)を訪れている。

中世の豊州(豊前南部、豊後)は大友家の領国であったが、同家が豊臣時代に没落したため、残されている文書のうち県史編纂時に活用された史料が主流である。江戸期の諸藩に関しては、県立図書館に府内藩の記録が所蔵されており、また中津藩、佐伯藩、岡藩などは刊行された史料が存在するが、各藩主家の系譜がどの程度詳細に記載されているか、個別に目を通したわけではないので、関心のある方はご自身で調査されたい。

◆大友家=豊後守護職
九州随一の「名門」であり、鎌倉期から豊臣時代まで大名として存続した。大友能直が源頼朝から豊後守護職と鎮西奉行の地位を与えられ、代々九州の御家人を統率する役割を担い、頼泰は元寇の際に現地へ下向した。親世以降は当主の系統が二分して争い、親繁のときに統合され、府内が居城となった。戦国期の親右・義長は領国経営の安定に努めたが、義鑑は内紛のため横死した。義鎮はキリシタンに傾倒するも内紛が収まらず、島津家の侵攻により耳川で大敗、豊臣秀吉から豊後一国を安堵されるが、吉統のとき1993年、文禄の役における命令違反を咎められて失領した。江戸期には高家として存続している。

◆中津藩
豊臣時代に黒田家が封じられ、関が原の戦後は入れ替わって細川家が入封したが、すぐ居城を小倉(福岡県)に移したので、中津は支城となった。1632年に小笠原長次が城主となり、1716年まで五代続いたが、その時期も事実上、小倉藩の支藩として位置付けられた。1717年に奥平昌成が10万石で中津へ入封し、ようやく独立大名の所領となり、明治まで続いた。

◆府内藩
江戸初期に府内藩主となった竹中重利は、豊臣秀吉の参謀であった重治(半兵衛)の弟であり、次代の重義は長崎奉行としてキリシタンを弾圧したが、1634年に不正行為を糾弾されて切腹させられた。1658年に松平(大給)忠昭が入封してからは、同家の領地として定着した。

◆岡藩=中川家
◆佐伯藩=毛利家
岡城主・中川秀成と佐伯城主・毛利高政は、いずれも豊臣秀吉のとき九州に封じられ、両家とも代々所領を守り、大名として明治まで続いた。全国的にも数少ない事例である。

2022年5月22日 (日)

「熊本まで行...く、間(ま)、持っとるか?」「天草で、あんまん食うさ(^^;」

【史料好きの倉庫(43)】

今回は「熊本県(肥後)の主要大名」の解説である。

1990年、92年、2003年、05年と四回訪県した。最初は熊本(画像右)と人吉の城下町を探訪したが、二回目は天草巡礼、三回目も福者・小笠原玄也一家の殉教地である花岡山への巡礼(画像左)、最後は所属団体の用事での訪問だった。

中世(阿蘇家・菊池家等の分立時代)の主要豪族、近世(細川家)藩政期の一門・重臣、人吉藩相良家を併せ、各々の主流の系図はまとめて『肥後読史総覧(1983)』に収録されており、県立図書館などで閲覧できるので、たいへん便利である。ただし、他県の大名豪族と同様、所載の系譜がその後の研究により修正されている場合もあることも承知されたい。

19902003kumamoto

◆菊池家
大宰府の府官。肥後の国人として勢力を培ったが、菊池隆直が平氏政権に敗北して減退。武房は元寇のとき活躍し(なお、その長男・隆盛は西郷弥次郎を称し、父に先立って没した。「西郷隆盛」は誤記ではない)、武重は建武政権下で肥後国司となり、五代にわたって南朝方として活動する。武朝は南北朝合一により肥後守護代となり、兼朝以後は肥後守護を世襲した。重朝は禅僧・桂庵玄樹を招聘するなど学術・文芸に力を入れたが、政治的には衰退し、戦国期には阿蘇家や大友家の介入を受けて翻弄され、義武は1554年、大友義鎮により滅ぼされた。江戸期に本来嫡流であった重為の家が日向の米良谷を領知する交替寄合(米良家)として存続し、明治に至って菊池姓に復した。

◆志岐家
菊池家の分流であり、はじめ山鹿を称し、12世紀後半の山鹿弘家が天草郡へ移って志岐を名乗り、鎌倉期の志岐光弘が郡内六ヶ浦の地頭職を獲得した。南北朝期には一色家に属し、室町期の高遠は菊池家の被官となり、戦国期の重弘のときには天草郡諸領主の主導権を握るが、一人当たりの世代計算がかなり長いので、前後の系譜で当主が一代欠落しているかも知れない。鎮経(麟泉)は島津家に降伏した後、豊臣秀吉の九州平定を受けて佐々成政の被官となったが、領主が小西行長に代わった後、反乱を起こして敗れ逃亡した。子孫は加藤家、のち島津家に仕えた。

◆阿蘇家
阿蘇大宮司として知られ、古代からの神事を司るとともに、12世紀からは阿蘇周辺の領主的な統治者であった。阿蘇惟次は北条時政の傘下に入り、鎌倉期を通じて惣領家による支配を確立した。南北朝期には一族が分裂抗争を繰り返し、室町期の惟憲に至ってようやく統一が実現、阿蘇・益城両郡の諸豪を束ねる指揮権が確立された。惟豊は大友家に与力して重きをなしたが、惟将は島津家の進出を受けて降伏し、惟光のとき豊臣秀吉の九州平定により領地を分割され、1593年に至って島津歳久の反乱に加担した嫌疑を受けて誅殺された。惟善以降は大宮司として神職のみを継承している。

◆相良家→人吉藩
本領は遠江国相良(静岡県御前崎市)。鎌倉初期、相良頼景が所領を失い、肥後球磨郡多良木に下向して在地支配を固めた。長頼のとき人吉荘の地頭となり、一族は複数の系統に分裂するが、室町期の長続は庶流から台頭し、多良木・人吉の両系を乗っ取って球磨郡を統一、戦国期の内紛も義滋によって統一された。のち島津家の進出を受けて服属を余儀なくされるが、長房は豊臣秀吉の九州平定の際に球磨郡一円22,100石を安堵され、頼寛のとき人吉藩主として権力を確立した。江戸期には竹鉄炮事件、茸山騒動、丑歳騒動など内紛が絶えなかったが、明治まで存続した。

◆隈部家 
山鹿郡の豪族。大和源氏の末裔であり、隈部持直が鎌倉期に菊池家の被官となって米山城を拠点とした。戦国中期までは菊池家の家老として主家を支えており、この時期は独立した大名とは言えない。親永は菊池家滅亡後に大名として自立、同じく主家の元家老であった赤星家を駆逐して隈府城に入り、菊池・山鹿両郡の支配者となって島津家と和議を結ぶが、豊臣秀吉の九州平定後、領主となった佐々成政に反乱を起こし、1588年に鎮圧されて切腹した。

◆小西家
小西隆佐は和泉堺の薬種商人であり、キリシタンの洗礼を受け、宇喜多家の家臣であったが、豊臣秀吉に抜擢されて政権の財務を担った。行長は秀吉の水軍の将として活動、1588年に肥後宇土14万石、のち24万石に加増されて肥後半国を領知し、朝鮮侵攻の先鋒となったが、主戦派の武将たちと対立した。撤退後はキリシタン精神に基づき領内の民生に努めたが、関が原で石田三成方の主力として戦い、敗戦により斬首された。

◆富岡藩
江戸初期に肥前唐津藩領であった天草は、寺沢家の失政により島原の乱が勃発したのを契機に、鎮圧後は唐津から切り離され、富岡を居城とする大名領となった。1638年に藩主となった山崎家治は足掛け四年の短い在任中、荒廃した土地の復興に尽力した。1641年に天草は幕領となり、代官の鈴木重成は幕府に年貢米の減免を訴え(抗議の自殺説もある)、この行動が実って天草領の石高は従来(4万石)の五割強(2万1千石)に修正された。1664年に戸田忠昌が富岡へ封じられ、領民の負担軽減に意を用いた。1671年に忠昌が転出すると、天草は再び幕領となり、そのまま幕末まで続いた。

◆熊本藩=細川家
細川忠利は豊前小倉藩主・忠興の二男であり、父の継嗣として39万石を襲封、1632年に熊本へ栄転して、球磨・天草二郡を除く肥後一円を領知した。光尚のとき地方知行制から俸禄制への移行を推進している(重臣にも例外なく実施されたので、熊本藩には他の大藩のような封邑・陣屋持ちの一門や家老がいない)。重賢は厳しい藩財政を建て直すため宝暦の改革を実施、一時的ながら窮地を脱することができた。幕末には公武合体派が主流だったため勤王派が力を持ち得なかった。熊本県知事から内閣総理大臣を経験した護煕氏は、この家の嫡系当主である。

◆八代城守衛・松井家
松井家は南北朝期から室町幕府の幕臣として名字が散見し、微禄ながら山城国の相楽・愛宕二郡内に所領を持っていた。松井広之は戦国後期に将軍・足利義晴や次の義輝に勤仕し、その子・康之は細川忠興の重臣となって豊後杵築城代(25,000石)を務めた。興長は細川忠利の肥後入封に伴い3万石に加増、永代家老の筆頭となり、1646年には八代城の守衛に任じられ、事実上の城主に近い役割を世襲した。他方で代々、山城二郡内の173石も幕府から拝領を続け、直参に準じる特殊な地位を継承して明治に至った。

2022年4月24日 (日)

最近の食卓

筆者は一人暮らしなので、夕食は副食1~2品と、何かしらの主食とを組み合わせることが多い。

年明けから春の前半にかけて、朝は餅食(雑煮または汁粉)+たんぱく質(魚の加工品)、昼はパン(惣菜パンの類)またはラーメン(袋麺かカップ麺)が定番になっている。そのため、夕食は肉・卵・野菜が主流だが、「頭の体操」を兼ねて、週4回程度はメインディッシュか主食を自分で調理している。

ここ一か月余りの間に、少し新しい鶏肉料理に挑戦しながら、「組み合わせの妙」を体感してみた。以下はその代表作。

20220309yaoguojiding

腰果鶏丁(ヤオグオジーディン)に初挑戦。実は「ぎんなん」が残ったので、早目に使い切ろうと思い立ったものだ。メインはカシューナッツと鶏もも肉だが、ぎんなんもオイスターソース(醤油と酢も少しずつ加えているが...)の味覚を引き立ててくれる。

20220403pollopepe

鶏むね肉と枝豆のペペロンチーノ。これも初挑戦。オリーブ油ですりおろしニンニクの香りを立ててから炒めているので、一応「アーリォ‐オリォ」になっているのだ。豆は冷凍ものを使用。

20220413cacciatora

トスカーナ風カッチャトーラ。ひよこ豆を開封したので使い切ろうと思い、鶏もも肉を買ってきてこの一品にした。類似品を2回ほど試作したことはあるが、本格的に作ったのは初めてである。トマトとマッシュルームは市販の加工品だが、十分に美味しい。

20220422chaofan

肉料理ではないが、チャーハンも大好きなので、週一回は食べている。定休日である水曜と日曜にご飯を炊くので、残り物を活用して金曜と火曜に作るのが通例。市販の素を使うことが多いが、一昨日は「創味シャンタンDX+醤油」で調味した自作を賞味。スーパーで購入した品々、むきエビ・刻みネギ・炒りごまを投入。付け合わせはほうれん草のおしたしで。

こんな具合に、好みの品を好みの調味(…ただし減塩を意識しながら…)で楽しみたいので、出来合いの食品で済ますばかりではなく、可能なときになるべく自作している。

居宅介護支援や予防支援の利用者さんには、80代、90代になっても新作に挑戦している方もおられる。自分自身の生活を活性化させ、食卓に潤いを与えるために、作る意欲を持ち続けていきたいものだ。

2022年4月 8日 (金)

「長崎を巡るなら、なんが先?」「有馬で、ありまぁ!と感動しろ」

【史料好きの倉庫(42)】

今回は「長崎県の主要大名」の解説である。

1989年と1997年、二回訪県した。いずれもカトリック教会を巡礼する旅であったので(画像左は一回目のときミサに参列した平戸教会、右は二回目のとき立ち寄った雲仙教会)、城下町は一回目に平戸、諫早(佐賀藩領)、二回目に大村、島原などを「ついでに周回した」程度である。

松浦・大村・五島・宗などの旧族大名が江戸期にもそのまま存続したので、各藩関係の系譜史料はそれぞれ平戸市・大村市・五島市・対馬市にある図書館や博物館で所蔵されている。ただし、他県の旧族大名同様、藩政期の家系が古い系譜類を作為している可能性があるため、閲覧には注意が必要である。有馬家・西郷家や竜造寺・鍋島家領の地域については、同時代史料や佐賀県で収蔵されている史料が有益である。イエズス会をはじめとするキリシタン関係の史料は、日本の大名を外から眺めたものとしては貴重だが、ローマ字転写の間違いや事象の誤解など、正確性に関する課題も多い。

Nagasaki

◆宗家→対馬藩
対馬の在庁官人であり、惟宗氏の支族だと考えられる。鎌倉期には少弐家の地頭代→守護代であり、南北朝期の宗経茂が朝鮮貿易を掌握し、室町期の貞茂が島主権を確立して対馬守護を世襲した。一族は多くの支流に分かれ、戦国大名化した将盛・晴康はいずれも傍系から入って相続したため、系譜に混乱が見られる。義智は豊臣秀吉の命により朝鮮へ侵攻し、貿易は一時途絶したが、徳川家康の時代になり再び日朝の仲介役となって国交修復を果たした。義方以降は10万石格の国持大名となったが、朝鮮貿易の縮小により財政的に窮迫し、加えて幕末には英国やロシアの軍艦来航により、内外の情勢不安のまま明治維新を迎えた。

◆松浦家→平戸藩
松浦郡一帯に分布した巨族。嵯峨源氏の支流とされるが真偽は不明。平安朝末期、松浦直の子どもたちが多くの流派に分かれ、一揆=松浦党を結成した。嫡流は相神浦(あいこのうら)松浦家であり、元寇の際には定が一族を率いて奮戦している。南北朝期から庶流の平戸松浦家が台頭し、南北朝期には勝が平戸に築城、孫の真のときには嫡家に対抗して松浦を公称した。戦国期には嫡流家との抗争が続いたが、興信・隆信(道可)が嫡流家を降伏させて被官化、壱岐をも制圧した。鎮信(法印)はキリシタンの布教を承認、壱岐を併合し、豊臣秀吉、のち徳川家康から本領を安堵された。隆信(宗陽)のときキリシタンを迫害する一方、オランダとの貿易で利潤を得るが、鎮信(天祥)のときオランダ商館が出島へ移されたので、以後は他藩と変わらない財政構造を有する6万3千石余の平戸藩として存続した。幕末維新の際には明治新政府のため積極的に協力している。

◆五島(宇久)家→五島藩
宇久島に発する豪族であり、先祖は名族に仮託されているが、実は末羅国造の後裔か。平安朝の時期には松浦党に属していた。南北朝期の宇久覚(伊豆守)・勝(尾張守)父子の代には福江に本拠を築いている。戦国期の純定はキリシタンの布教を後押しし、純玄は豊臣秀吉から本領を安堵され、名字を五島と改めた。玄雅は関が原で徳川方となり、後にキリシタンを迫害して家の存続を図った。盛勝のとき富江領を分知して1万2千石余の五島藩となり、明治維新まで継続した。

◆大村家→大村藩
藤津郡・彼杵郡の豪族。出自ははっきりしないが、仁和寺の荘官として大村に土着した一族である。元寇のとき大村家信が活躍して台頭、室町期の純治のとき本拠地に築城した。戦国期の純忠はキリシタンに入信、天正遣欧使節の派遣元の一人となった。喜前は豊臣秀吉、後に徳川家康から本領を安堵され、キリシタンを迫害して領主権力を確立、2万7千石余の大村藩政の基礎を築いた。代々継承して幕末に至り、他藩に率先して明治新政府に協力した。

◆有馬家
高来郡の豪族であり、大村家同様、出自が不明瞭である。鎌倉期から南北朝期には日野江城を拠点として勢力を培った。戦国期の有馬貴純から晴純に至る時期には、周囲の諸郡に勢力を拡大した。晴信はキリシタンに入信し、天正遣欧使節の派遣元の一人となったが、竜造寺家に抗して所領を死守、豊臣秀吉に本領4万石を安堵された。しかし、秀吉の禁教令により打撃を受け、さらに徳川家康の時代には旧領回復を図って汚職事件に巻き込まれ、死に追いやられた。息子の直純は家康の養女の夫であったため連座を免れ、日向延岡へ転封されたので、有馬の地は松倉家の所領となった。

◆島原藩
島原半島の有馬家が左遷された後、日野江城には松倉重政が入封したが、次の勝家は苛政により島原の乱を惹起したので、乱の平定後に改易、斬首された。そのあと高力家の時代を経て、深溝松平家の松平忠房が1669年、栄転されて島原城に入り、18世紀の一時期(戸田家時代)を除き、代々島原藩を統治して明治に至った。

2022年2月24日 (木)

「佐賀でうまいもの、サガした?」「唐津のカレーは、からっ!」

【史料好きの倉庫(41)】

今回は「佐賀県の主要大名」の解説である。

過去、訪県したのは一度だけ(素通りは二回ほどある)。1989年に佐賀城下を散策し、その夜は唐津に泊まって虹ノ松原などを観光した。

佐賀県立図書館には、竜造寺家文書や鍋島家文庫をはじめ、中世から近世に至る膨大な史料が所蔵されている。私が訪問した際には、藩主・重臣(各家の嫡統)の系譜をプリントアウトして一冊にまとめた綴りが周到に準備されていたので、閲覧させてもらうことができた(現在も存在するかどうかはわからない)。唐津藩は藩主家がしばしば交替したこともあり、地元に存在する史料は限定的である。

◆渋川家
足利一門であり、鎌倉期には上野国の豪族。渋川義季は南北朝期に足利直義の麾下にあり、直頼が足利尊氏派に転じ、娘の幸子が足利義詮の正室となった。義行は室町幕府の九州探題に任じられ、満頼のとき肥前・筑前に本拠を移すが、義俊のとき権威を失墜し、以後は探題とは名ばかりの、東肥前の一豪族として存続した。

◆少弐(武藤)家
武蔵出身だが、鎌倉初期、武藤資頼が鎮西奉行に任じられ、代々大宰少弐と筑前守護とを兼帯して、大友・島津と並ぶ九州の名門となった。鎌倉末期の貞経から少弐を名字とし、頼尚・冬資・頼澄は南北朝の間を変転する。満貞は大内持世に襲撃されて対馬へ亡命、教頼は大宰府近傍の旧領回復に努めたが果たせなかった。政資以降は肥前に本拠を置くも弱体化し、冬尚は1559年、竜造寺隆信の攻撃を受け敗死した。

◆竜造寺家
佐嘉郡の豪族。高木季家が竜造寺の地頭職に任じられて家名が興る。鎌倉期はいくつかの家系が並立する状態だったと考えられ、南北朝期の竜造寺家政以降、一系となった。戦国期には村中竜造寺家(嫡流)・水ケ江竜造寺家(庶流)の二系に分かれ、後者の家兼が東肥前一の実力者となるが、敵対勢力に討たれて家純・家門・周家が戦死し、大打撃を受けた。隆信は曾祖父の水ケ江家を相続した後、宗家の村中家をも継承し、肥前を統一して周辺諸国にも勢力を拡大するが、北進する島津家と島原・沖田畷で戦って敗死した。政家は病弱で政務を鍋島直茂に委ね、その嫡子高房も実権を喪失したまま1607年に没したため、佐賀の領国は鍋島家の領有となった。

◆村田家
竜造寺政家の四男・村田安良は、佐賀領主としての竜造寺家が事実上終焉した後、鍋島直茂・勝茂のもとで「親類」の一家として遇せられ、久保田1万余石を領知して明治に至った。同じく佐賀藩重臣の村田(鳥栖村田)鍋島家とは全く別の家である。幕末の当主・政矩はプロテスタントの洗礼を受けたクリスチャンとして著名。

◆後藤家→武雄邑主鍋島家
杵島郡の豪族。平安朝後期、後藤資茂が塚崎に土着して御船山を本拠とした。南北朝期の光明は足利直冬に属して活動する。戦国期の純明が塚崎の武雄に築城、貴明のとき竜造寺隆信に服属して4万余石を領有した。家信は竜造寺家から養子に入り、鍋島家の藩政時代には「親類同格(一門格)」となったが、石高は2万1千余石に削減された。中世から数百年にわたり代々武雄領を継承して、明治維新を迎えた。

◆波多家
松浦党の一族。肥前岸岳を本拠として、室町期の波多重は壱岐国を支配する。戦国末の親は竜造寺・有馬・松浦の諸家と和戦を繰り返し、のち豊臣秀吉に降伏して所領を安堵されたが、1593年に文禄の役の落度を咎められて改易された。

◆多久家
戦国末を境にして前後に分かれる。前・多久家は高来郡の豪族であり、戦国期の宗利が竜造寺隆信と戦って敗れ、所領を失った。そのあと隆信の弟・長信が多久に封じられ、鍋島家時代には4万余石を領知して「親類同格(一門格)」となったが、安順のとき2万余石に削減され、代々継承して明治に至った。

◆神代(くましろ)家
筑後御井郡の豪族。戦国期の神代利久が肥前へ移住した。勝利は三瀬城を拠点として竜造寺隆信に対峙したが、劣勢となり和議を結び、長良は隆信に服属して肥前川久保に封じられた。家良は鍋島直茂の甥であり、鍋島領内にて親類(一門)として8千石を領知、子孫は1万石となり、代々継承して明治まで続いた。同じく佐賀藩重臣の神代(こうじろ)鍋島家とは全く別の家である。

◆鍋島家→佐賀藩
鍋島直茂は竜造寺家の家老であり、隆信敗死後に家政の屋台骨を支え、実権を握った。勝茂のとき正式に「佐賀領国」の主となり、「葉隠」に象徴される強固な支配体制を敷いた。江戸期を通して35万7千余石の佐賀藩として存続し、幕末の直正(閑叟)が明治維新に大きな業績を残して、有能な家臣たちを新政府の指導者に送り込んでいる。

2022年2月15日 (火)

「福岡で、フグ食おーか?」「小倉のイケメンなら、こぅくらぁ!」

【史料好きの倉庫(40)】

今回は「福岡県の主要大名」の解説である。

二十代のころ何度か素通りしているが、足を地に着けて周遊したのは二回だけだ。初めは1992年で、小倉・博多・秋月・大宰府・柳川を巡った。二回目は2018年、母が帰天した後の6月、巡礼(小倉は福者ディオゴ加賀山隼人の殉教地)と「業界仲間の顔合わせ」とを兼ねて、門司(画像)・福岡を訪れている。

中世の大名・豪族は立花家を除き大幅に入れ替わってしまったので、古くから土着して戦国大名として存続した宗像大宮司、原田一族、宇都宮一族なども、系譜に異同や疑問点が少なからずあり、複数の同時代史料を比較参照して確認するのが望ましい。近世には県域が四大藩(および、それぞれの分家)に分かれていたので、各藩の一門・重臣などの系譜史料を調べるには、私が滞在した福岡県立図書館だけでは不十分であり、九州歴史資料館、柳川古文書館、久留米市立中央図書館、みやこ町小笠原文庫(いずれも未訪問)などを周回する必要がある(個別の所蔵史料を確認したわけではない)。

20180616mojiko

◆宗像家
古代豪族・胸形氏の系譜を継ぎ、筑前宗像大社の大宮司を世襲しながら、周辺を領域支配した。中世には複数の系統が大宮司の地位をめぐって抗争、12世紀に宗像氏信の系統が嫡家の地位を確立した後にも、一族内の紛争がしばしば起こった。少弐、大友、大内、毛利など周囲の大勢力にも翻弄されながら、戦国期を生き抜いたが、1586年に氏貞が没して後嗣がなく、廃絶となった。

◆秋月家
筑前夜須郡の豪族。大蔵氏の原田一族であり、戦国期の秋月種朝・種時は大内家に従属しながら、筑前南部の国人領主として勢力を確立した。大内家滅亡後、種方は大友家の攻略を受けて自殺、種実は大友家に抗戦したものの、のちに従属、さらに島津家の傘下に入り、最後は豊臣秀吉に降伏して、辛うじて本領を安堵された。種長は1587年、秀吉の仕置によって日向高鍋へ転封され、その地で明治まで存続した。

◆城井家
豊前仲津郡に土着した宇都宮一門の名家。南北朝期の城井冬綱・家綱は下野の宇都宮宗家から入嗣している。戦国期の秀房・興房・正房は大内家に従属しながらも、室町将軍の前で射法を披露する家の格式を維持した。長房は大友家と毛利家の激突の間にあって、城井谷の所領を死守したが、鎮房は豊臣秀吉の転封命令に従わず、新たに豊前へ入部した黒田孝高・長政父子に滅ぼされた。

◆立花家→柳川藩
大友家の一門。立花宗匡は九州探題・今川貞世(了俊)の麾下で九州平定に参戦、親直・親政以降は大友宗家に従属して立花山城を守ったが、鑑俊(鑑載)のとき大友家に反乱を起こして滅亡した。鑑連(道雪)は大友義鎮(宗麟)の命により立花家を継承し、主家のために各地を転戦、戦国期を代表する文武兼備の名将の一人として知られた。宗茂は1587年に筑後柳川へ転封、関が原のとき石田方に与して所領を没収されたが、江戸幕府から再度取り立てられ、1620年には旧領柳川に復帰した。以後、子孫は10万9千余石(幕末の公称11万9千余石)を領有して明治に至った。

◆立花家→三池藩
大友家の一門。高橋鎮種(紹運)は大友義鎮の命により、高橋鑑種が追放された後に高橋家の名跡を継承し、立花鑑連の麾下にあって筑前、筑後を転戦したが、岩屋城を島津家に攻略されて敗死した。直次は1587年、実兄の立花宗茂とともに筑後に封じられ、三池郡内で1万8千石を与えられたが、関が原のとき石田方に参戦して所領を没収、戦後は兄とともに江戸幕府から再度取り立てられ、立花を称して常陸柿岡5千石の旗本となった。種次は1621年、伯父に随従して筑後へ復帰し、三池で1万石を領する大名となった。江戸後期の種周に至って幕府の若年寄に就任したが、派閥抗争のため失脚、継嗣の種善は陸奥下手渡へ左遷された。幕末の藩主・種恭が所領の過半を三池へ戻され、三池藩として廃藩置県を迎えた。

◆豊前国主=細川家
室町幕府の和泉守護家・細川藤孝の長男・忠興は、関が原の勲功によって豊前一国を領知、はじめ中津を居城としたが、1602年に小倉城を拠点としたので、大分県ではなく福岡県のページに掲載した。

◆福岡藩=黒田家
豊臣政権の参謀として知られる黒田孝高(如水)の家系。黒田長政が関が原の戦後、栄転して筑前一国(一部の郡は他領と入れ替え)を与えられ、50万余石(後代、秋月支藩を加えた総石高は52万余石)を領有した。そのまま
明治まで続いて廃藩置県を迎えたが、事実上の藩主の血統は、江戸中期から徳川(一橋)→京極→徳川(一橋)→島津→藤堂と変転している。最期の藩主・黒田長知は1871年の廃藩置県直前、太政官札贋造事件により藩知事を罷免され、幹部(もと家老)5名が斬首されるに至った。中央集権を推し進める明治新政府が、旧藩単位での逸脱行為を断罪して一罰百戒を狙ったものと考えられている。

◆久留米藩=有馬家
赤松家の庶流であり、室町期には摂津有馬郡の分郡守護を世襲した家。有馬豊氏は豊臣秀吉に仕えて遠江横須賀城に封じられ、関が原の戦後は丹波福知山へ移り、のち父・則頼の旧領を併せて8万石、大坂の陣の後には筑後久留米に栄転して21万石を領知した。子孫は代々同地の大名として存続、明治の廃藩置県に至った。

◆小倉藩/香春藩/豊津藩=小笠原家
信濃守護であった府中小笠原家当主の小笠原貞慶が徳川家康に仕え、秀政(信濃松本城主)を経て、三代目の忠真が1632年、豊前小倉に栄転して15万石を領知し、江戸幕府の九州探題的な役割を担った。1866年、幕末の藩主・忠忱は第二次長州征伐に参戦したが、長州軍の反攻に遭い小倉城を放棄し、香春に藩庁を新設、さらに1870年には藩庁を豊津へ移し、廃藩置県を迎えた。

2022年1月17日 (月)

調理のリハビリテーション

数年来、私が自信を失っていたことがある。

パスタソースが上手に作れなくなっていたのだ。

もともと、そんなに凝ったソースを作っていたわけではない。40前後まで、料理のレパートリーに乏しく(亡き母がお勝手を仕切っていたこともあるが...)、ときどき何か作るとしたら、パスタソース程度でごまかすことが多かった。レシピ本を参照しつつ、一応食するに値する味(笑)を出すことができたに過ぎないのだが、それでも教会でパーティーが催される際には、「自作です」と言って持参して、辛うじて面目を保ったものである。

その後、50代になると、他のレパートリーが少しずつ増えていくのに反比例して、パスタソースが上手に作れなくなった。バジルとかビーンズとか、一昨年は明太子にまで挑戦したが、何とも凡作、駄作、失敗作続きとなり、一回作って食べてはがっかりして、しばらく間が空いてしまうことの繰り返しとなった。

ところが、昨年の12月11日、冷蔵庫に残り物の「有塩バター」「しめじ」「ネギ」があったので、たまには調味料を加えてパスタソースを作ってみようかと思い立ち、実行してみたところ、やや薄塩味の(血圧が高めなので、自分にはちょうど好い)結構な一品に仕上がり、「イケるじゃないか!」と自信を取り戻したのだ。

そこで、年明けから4回ばかり、自作のソースに再挑戦してみた。

20220106beanspasta

これはキドニービーンズ(1月6日)。ベースは有塩バターだが、香味にバジルを加えたところ、なかなかイケる味覚。

20220113shiitakepasta

こちらはしいたけとわかめ(まぜご飯用)のパスタ(1月13日)。ベースをオリーブ油にして、香味はニンニクのみじん切り。まさに「アーリォ‐オリォ」である。

この調子で、次はまた別の味覚も試みようと目論んでいる。

「以前にはできていた生活を、再び送れるようになること」が「リハビリテーション」の真の意味(大上段に振りかぶった表現だと「全人的復権」になってしまうが...)なのだから、私が再びパスタソースを作れるようになったことは、まさに調理の上でのリハビリテーションに違いない。

リハビリテーションを順調に進めるためには、ふとしたきっかけからでも良いので、自信を取り戻すことが大切だと、身を持って学ぶことができた。

2021年11月15日 (月)

若き王者に声援を!

「竜王」は「名人(17世紀に創設)」と並ぶ、将棋界の最高峰のタイトルである。

1902年に十二世名人・小野五平が初めて、名人は当時の最高段位であった八段より上位だとして「九段」を自称したが、その後は名人すなわち九段相当と認識されたものの、段位もタイトルも設けられなかった。戦後すぐの1947年、読売新聞社(現称で統一する)が主催する「全日本選手権」が創設され、翌々年には「九段戦」も始まった(名人と九段とが番勝負を行って全日本選手権者を決定)。しかし、段位としての九段に昇段する棋士(名人経験者など)が何人か出たので、1962年には新たな「十段戦」に改編された。九段位・十段位は名人に次ぐ一般のタイトルの一つであったが、1987年には読売と将棋連盟との間で、名人位と同格である「一席(他のタイトル保持者より序列上位)」を認める合意がなされ(契約金の大幅増が条件だった)、竜王戦が開始されて現在(第34期)に至っている。

そして、竜王位も名人位も、他の六つのタイトルに比べると挑戦するまでの過程が長い。名人はA級棋士しか挑戦権争いに加わることができないので、まず順位戦でA級まで昇級しなければならない。竜王は誰でも挑戦できるので、若手棋士が飛躍する可能性はあるが、ランキング戦を勝ち抜いた上、さらに決勝トーナメントを勝ち上がり、挑戦者決定戦三番勝負で二勝しなければ挑戦者になれない。

G0703143

したがって、理屈から言えば、竜王位や名人位を獲得すると異論なく将棋界の覇者(の一人)と認められる...はずなのだが、多くの場合、現実にはそうならなかった。若い棋士が初めて竜王や名人になっても、まだ力不足のため他のタイトルに手が届かなかったからだ。それまでの間、先輩タイトルホルダーなどの棋士に「上座を譲る」ことも余儀なくされた。

初めて竜王または名人を獲得した棋士がそのまま第一人者となった前例は、直近で1972年、中原誠(永世五冠。敬称略、以下同)の名人位獲得(24歳)である。それまでは「大山康晴(名人・王位・王将)」と「中原(十段・棋聖)」だったのが(当時のタイトル数は5つ)、名人戦で中原が勝利したことにより、明確にタイトル数が入れ替わり、中原が過半を占めた。

その後、谷川浩司(十七世名人。1983年に21歳で名人)、羽生善治(永世七冠。1989年に19歳2か月で竜王)、佐藤康光(永世棋聖。1993年に24歳で竜王)、森内俊之(十八世名人。2002年に31歳で名人)、渡辺明(永世竜王・棋王。2004年に20歳で竜王)と続く大棋士たちは、みな最高峰の二つのどちらかで初タイトル、それも森内以外の人は20代前半までに獲得している(中原以降に両タイトルの片方または両方を獲得した棋士は他にも9人いるが、ここでは割愛する)。

しかし、これらの将棋史に残る大棋士のいずれもが、そこから複数冠保持者になるまでに年数を要しており、速い人でも一年半(森内)、遅い人は六年強(渡辺)掛かっている。羽生でさえ二冠獲得までには三年弱を要した。先輩棋士やライバル棋士が壁となって立ち塞がったから、すぐに誰もが認める覇者になれたわけではない。

ところが、この11月12~13日にかけて開催された将棋の竜王戦七番勝負第四局において、挑戦者の藤井聡太は、竜王であった豊島将之を破り、4勝0敗で竜王位を奪取した。19歳3か月の青年が、すでに保持している王位・叡王・棋聖と合わせて四冠となり、八大タイトルの半数を占め、名人である渡辺(棋王・王将)を凌いで、全棋士の序列一位となった。中原以来、実に49年ぶりの快挙である。

竜王になった時点で、すでに藤井は第一人者なのだ。しかも中原の名人就位に比べて五歳も若く、(49年前にはまだ竜王のタイトルが存在しなかったことを割り引いても)たいへんなスピード出世である。19歳と思えないほど品格も申し分なく、立ち居振る舞いはすでにして王者の風格を備えている。「羽生時代」が終わってから三年を経過して、疑いもない「藤井時代」が幕を開けた。

もちろん、先輩棋士たちがこのまま引き下がってはいないだろうし、藤井自身も負け越している相手もあれば、克服しなければならない課題も存在する。後輩たちの実力が追い付き、藤井のライバルとして覇を競う可能性も大きい。とは言え、年齢や伸びしろを考えると、しばらくの間は「藤井一強」を軸に将棋界が回っていくことは確実であろう。

若き第一人者の誕生を祝福しつつ、藤井竜王が初めて揮毫した「昇龍」の言葉通り、さらに精進を重ねて最高のパフォーマンスを発揮し、多くのファンを楽しませてくれることを心から願う。

(イラストはA&Pコーディネートジャパンのものを借用しました)

2021年11月12日 (金)

「高知の地鶏をコーチンと言ったら...」「土佐の人に笑われた、とさ」

【史料好きの倉庫(39)】

今回は「高知県(土佐)の主要大名」の解説である。

三十年も前、1991年に一度だけ訪県。高知城や播磨屋橋(画像)、また江戸期の支藩や土居(重臣の分封地)が置かれていた中村、佐川、安芸などを周遊した。

一条家は公家であったため、系譜は中央貴族の日記等の同時代史料に詳しい。長宗我部家時代の諸豪族はみな関が原の戦までに解体してしまい、歴代の詳細が不明なものもあり、藩政期に編纂された数種の史料が頼りである。土佐藩山内家について、一門や重臣の系譜は山内文庫や土佐国群書類従等に収録されている。これらの史料の多くはオーテピア高知図書館(以前の高知県立図書館、他館と合併して現在の形になった)に所蔵されており(筆者が県立図書館を訪問した当時は家老諸家の系譜が欠落していたが、いまは諸史料から補充されていると思われる)、中世・近世の主立った諸家の流れは、同館でまとまって調査することが可能である。

Kochi

◆一条家
関白であった公家・一条教房は退任後に幡多郡へ下向し、中村を居城として土着した。房家以降は代々土佐国司を世襲し、国内諸豪族の調整役も務めた。兼定は長宗我部元親に追放されて領国を失い、政親のとき家系は断絶したが、明治に至って京の一条家から実基が分家、土佐一条家の名跡を再興した。

◆安芸家
◆香宗我部家
◆大平家
◆山田家
◆津野家
◆吉良家
◆本山家
守護代の細川(遠州)家が16世紀初めに姿を消した後、国内に割拠した「土佐の七守護」である(長宗我部を数に入れ、香宗我部または山田を加えない説もある)。戦国期には一条家を国司と仰ぎながら、合従連衡を繰り返した。長宗我部国親-元親が勢力を拡大する過程で、これらの諸家を滅ぼしたり養子を送り込んだりして制圧していった。江戸期に子孫が郷士として残った家もあるが、前述の通り系譜が不明瞭になっているものも少なくない。

◆長宗我部家
長岡郡に興る。長宗我部兼光は鎌倉末期に岡豊城を築いて本拠とした。信能のとき守護・細川家に与力、元親(備前守)のとき国司・一条家と接近した。兼序は1508年、本山家など国人諸豪族の連合軍に攻撃されて敗死する。空白期間を経た後、再興した国親が家勢を回復して周囲の諸勢力を攻略した。元親(宮内少輔)は1575年に
土佐一国を統一、1585年には四国を制覇したが、豊臣秀吉の討伐を受け、降伏して土佐一国のみを安堵された。盛親は関が原の戦で石田方となって改易され、のち大坂へ入城して豊臣方として戦い、捕えられて処刑された。

◆山内家=土佐藩
1600年、関が原で徳川方として戦った遠江掛川城主・山内一豊が、戦後の褒賞として土佐一国を与えられ、高知城を築いたことに始まる。以後、同家は江戸期を通じて土佐の国主であった。幕末には豊信(容堂)が公武合体論を引っ提げて幕府の政策に関わったが、行き詰まって大政奉還の建白に転じ、明治維新を迎えるに至った。木造天守として現存する高知城は、同じ城主が築いた掛川城の復元工事の際に、たいへん参考になっている。

より以前の記事一覧

フォト
無料ブログはココログ
2022年9月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30  

他のアカウント