趣味

2020年3月22日 (日)

「神奈川...かな?かわ...らないのは...」「湘南(しょうなん)です(^◇^;」

【史料好きの倉庫(14)】

今回は「神奈川県の主要大名」の解説である。

新幹線での素通りが多いが、それでも用事のあるたびに、学生時代からしばしば足を運んでいる。横浜が比較的多く、学生時代から合わせると十回以上は行った記憶がある。他に複数回訪れたのは鎌倉、箱根などだ。小田原城へは過去二回。二回目は2014年、業界仲間と二人で平塚まで勉強に出掛ける途中に立ち寄った(画像は小田原城から眺めた湘南海岸)。

神奈川県は鎌倉幕府の本国であり、室町期には関東公方足利家に支配される中世武家勢力の一大拠点であった。しかし、戦国中期以降は小田原城を本城とする北条家の直轄地域となり、三浦家・大森家などの在地勢力は一掃されてしまう。北条家の一門・重臣は多くが主家と運命をともにして滅亡、没落した。県立博物館(未見)や各市立の図書館等に文書が所蔵されている。

20140306odawarajou

◆三浦家
鎌倉幕府草創期から活躍した名門。宝治合戦で宗家が滅亡した後には、傍系の佐原家が三浦惣領家となった。室町期の前半に相模守護となるが、その後は勢力が後退し、戦国期の入口で伊勢盛時により滅ぼされた。

◆上杉(犬懸)家
上杉諸流の中でも山内(宗家)、扇谷と並んで関東管領に就任する家系。氏憲(=禅秀)の乱が失敗して没落し、戦国期には動向が聞かれなくなる。

◆北条(小田原)家
京の伊勢家の分家で、わずかばかりの所領を持つ申次衆の身から、一代で伊豆・相模二国の主にのし上がった盛時(=北条早雲)が初代であるが、実は盛時の代を通して名字は「伊勢」であり、「北条」を称したのは二代目の氏綱からである。畿内の名族である伊勢家は関東でよそ者扱いされ、地元の武士たちから拒否反応が見られたことが原因だと推測されている。「北条」の由来は氏綱の最初の妻・養珠院が北条庶流の横江家出身だった縁で仮冒したと伝えられるが、その出自に確証はない。また、盛時が今川家のいわば後見人として興国寺城を与えられてから、氏綱の途中まで形式上は駿河今川家の被官であり、名実ともに独立したのは1519年と比較的遅い。関東に覇を唱えるも、豊臣政権の大規模な征討を受け1590年に降伏、解体され、嫡流家は河内狭山藩主(大阪府のページ参照)となって細々と存続した。

◆小田原藩
江戸期には大久保家の居城として知られているが、大久保忠隣が失脚した後、同家は減封や転地を重ねており、その間に阿部家や稲葉家が小田原城主になっている。大久保忠朝のとき1686年に小田原へ復帰、以後は代々継承して明治まで続いた。

2020年3月20日 (金)

「東京に転居する、ときよぉ(^^*」「江戸に来れば、えぇど!」

【史料好きの倉庫(13)】

今回は「東京都の主要大名」の解説である。

学生時代、5年間(大学4年、社会福祉の学校1年)都の住民であった。はじめの2年は世田谷区三宿(画像左の建物の場所にかつて存在した学生用宿舎)、あとの3年は豊島区雑司ヶ谷である。卒業後は最低でも年二回、多いときには年数回出向いている。泊まり掛けで行くこともしばしばだ。

東京都は埼玉県同様、関東武士団の拠点であったが、中世の氏族の多くは北条家に敵対するか吸収されるか、その関わりの中で存続してきた。そのため、北条家の滅亡に伴って大部分は解体されてしまい、各地の史料は断片的にしか残されていない場合が多い。徳川家の直轄領となった江戸周辺に、独立した大名はほとんど存在しなかった。江戸中期に徳川宗家から御三卿が分出し、それらの家譜は続群書類従完成会がまとめた『徳川諸家系譜』に掲載されている。江戸に在府した高家や上級旗本の系譜は、『寛政重修諸家譜』で参照することができ、中には東条吉良家のように中世から存続した家もある。東京で史料の調べ物をするのならば、何と言っても国立国会図書館が最適で、東京都に限らず広く全国の大名・豪族等の系譜を閲覧できる。

20140727mishuku

◆豊島家
桓武平氏秩父一党の在庁官人。鎌倉期には有力御家人の一であり、室町期にも勢力を保ったが、戦国期に入る直前の豊島泰経を最後に、惣領家の動向は知られなくなった。江戸期に旗本となった豊島家は惣領家の後裔を称するが、途中のつながりが同時代史料により確認できないので、記載しなかった。

◆江戸家
桓武平氏秩父一党。南北朝~室町期に惣領家の活動が知られる。その後、傍系の木田見家が北条家に従属して存続し、江戸期にはそのまま徳川家に仕えて喜多見と改称したが、将軍・徳川綱吉の側衆となった喜多見重政が大名になった後に、怠慢を咎められて改易されてしまった。

◆吉良(東条)家
「吉良」と言えばまず三河の吉良(西条)家が挙げられるが、こちらの東条吉良家も同じ足利義氏を祖とする。吉良貞家から三代にわたって奥州探題を務め、頼氏以降は武蔵世田谷の城主であった。江戸期には門地の高さから高家として遇され、幕末まで存続した。

◆徳川(田安・一橋・清水)家
すなわち御三卿である。
当主は江戸城内に居住して、まとまった所領を知行していなかったが、諸省の卿に任官し、将軍位の継承権を有していた。一橋家からは家斉・慶喜と二人の将軍を出している。田安家と一橋家は明治初年の短期間であるが、藩として認められたので、歴代表を掲載した。清水家は当主が他家へ転出するなど、しばしば継承者を欠いて中絶しているため、当主名と官位のみを掲げた。

2020年3月17日 (火)

「千葉が、い...ちば...ん走りやすい!」「房総で暴走はダメよ(^^;」

【史料好きの倉庫(12)】

今回は「千葉県(房総)の主要大名」の解説である。

残念なことに、この県だけは近世の城下町へ一度も行ったことがない。中世千葉家の本拠から門前町に化した千葉市へは過去二回ほど訪れているが、東京にいた学生時代から数えても、県内へ出向いた記憶は合わせて数回程度だ。

千葉県は「房総」と通称される。中世の諸大名がおおむね戦国末までに滅びてしまったため、千葉家や里見家を含めて、当主継承の経緯の一部が不明瞭である氏族が多く、異同の多い系譜史料を参照して史実を割り出す作業が必要になる。一括して調べるのならば、県文書館より県立図書館のほうが良い(むかし私が行ったときには西部図書館に歴史関係のおもな蔵書があったが、いまは東部図書館へ移動?しているようなので、要確認!)。近世の諸大名はほとんどが譜代藩であるため、藩主各氏の系譜は『寛政重修諸家譜』等に詳しい。

◆千葉家=下総守護
平安朝時代からの在庁官人の家。鎌倉後期に下総と肥前とに分かれ、宗家は代々下総守護職を継承したが、戦国期に滅びた。傍系の馬加/岩橋系が取って替わり、事実上の千葉宗家となって戦国末に至り、北条家と運命をともにして終焉を迎えた。

◆原家
千葉家庶流。宗家の系統が入れ替わっても、重臣の立場で勢力を維持、北条家の傘下に入って領域を支配したが、胤義は北条家と運命をともにして家領を失った(自害?)。
息子の胤信は徳川家康に仕えて駿府城付きの近習となったが、駿府の女官おたあジュリアらの勧めでキリシタンに入信、出奔するも逮捕されて両足の腱を切断され、駿府から追放された後に(おそらく信徒たちの支援を受けて移動し)、江戸のハンセン病院で働いていた。1623年、福者ガルベス神父、福者アンジェリス神父、福者シモン遠甫修道士らとともに逮捕され、12月4日に札ノ辻で火刑にされ、殉教の栄冠に輝いた。2008年、ローマ教皇ベネディクト16世から列福され「福者(beatus)」の称号を贈られている。

◆里見家
後代の小説『南総里見八犬伝』で知られる。俗説では三浦半島から安房へ渡った里見義実が初代とされているが、義実・成義の二代は実在不明であり、現実の歴史に登場するのは義通からである。義弘のとき上総も制圧して二国の主となったが、義康のとき豊臣政権によって安房一国に縮小され、次の忠義が伯耆へ配流されて里見家は解体された。

◆正木家
里見家の被官でありながら、独立性の強い大名でもあった。三浦家の末裔と称するが仮託であろう。宗家は里見家に制圧されて一門化し、時茂のとき里見忠義とともに伯耆へ配流された。他方、勝浦の正木分家は里見・北条の間を変転し、頼忠の娘の万が徳川家康の側室となって頼宣・頼房を生んだため、三浦に改称した為春が紀伊藩主になった頼宣に随従して貴志城へ移転、家は藩の五家年寄の一として明治まで存続している。

◆舟戸藩
本多正重が舟戸を領知していた時期には、まだ「一万石以上が大名、未満が旗本」の明確な線引き(1635年)が行われておらず、正重没後に幼少の正貫が8,000石に減封されても、すぐに「旗本に降格」したわけではない。そのため、正貫・正直の一万石未満の時期を含め「藩主」として扱い、歴代表を掲載した。

◆船形藩=平岡家
平岡道弘は幕末に大名となったが、幕府の終焉に伴い領地を返上し、駿府藩の重臣に転身している。そのため、明治に入ってから他の藩主のように華族に列せられてはいない。

◆鶴舞藩=井上家 ~ 金ヶ崎藩/桜井藩=滝脇家
これらの7藩はいずれも遠江・駿河の諸藩(静岡県のページ参照)であったが、1868年に徳川宗家が駿府に再興されたことにより、房総へ転封されて廃藩置県を迎えた。

2020年3月 8日 (日)

「埼玉で花が、咲いた!まぁ...」「川越で咲く...かは、ごえ...ん次第」

【史料好きの倉庫(11)】

今回は「埼玉県の主要大名」の解説である。

学生時代、東京に5年間住んでいながら、なかなか埼玉県まで足を延ばす機会がなかった。素通りバージョンを除くと、降り立ったのは過去4~5回か。城下町では二十代後半に行った川越が一回だけだ。さいたま市へは二回出向いており、2002年末と昨年12月、知人に会いに行っている(画像はその帰りに撮影した、武蔵国一宮である氷川神社の参道入口)。

埼玉県は武蔵七党をはじめとする武士団の本場であるが、戦国期には北条家の支配下に置かれたため、大名級の領主はあまり多くない。そのため、地元に残っている文書類を除けば、県内外で個別の家系に縁のある土地に関連史料が散在している。近世大名や幕臣になった家の家譜は、『寛政重修諸家譜』等で調べられるほか、川越や秩父(忍藩)などの地元に史料が保管されている。

20191214saitama

◆太田家
太田資長(道灌)の家系。岩付(槻)太田家として戦国期を生き抜き、北条家の滅亡に伴って大名としての役割を終え、河内の郷士になった。他方、近世大名の太田家(遠江掛川藩主)が資長の後裔を称しているが、仮託した可能性もあり、系譜上のつながりは明瞭でない。

◆成田家
◆藤田家
それぞれ横山党、猪俣党の一分流。野与党の多賀谷家(茨城県のページ参照)、丹党の大田原家(栃木県のページ参照)等とともに、武蔵七党のうちで大名級に成長した数少ない家系である。

◆岩槻藩
大岡一族では、将軍・徳川吉宗時代に江戸町奉行・寺社奉行を歴任した大岡忠相(三河西大平藩主)が圧倒的に有名であるが、同族の後輩に当たる大岡忠光のほうが、隠れた実績は大きい。将軍・徳川家重の側用人であり、構音障害を有していた家重のただ一人の「通訳」として重要な政治的役割を担い、その独裁をサポートして経済・財政の大規模な改革を推進させている。300石の旗本から2万石の岩槻城主に出世したのは褒賞であり、子孫は代々岩槻藩主を歴任して明治に至った。

◆川越藩
松平(結城)朝矩は1749年に上野前橋へ入封したのだが、水害の影響が累積して城が倒壊の危機を迎えたため、幕府に懇願して1767年に川越城を与えられ、前橋城下を併せ領した。1866年に至って、直克のときようやく前橋城の修築が終了したので、帰還している。その間の歴代表は本項目のほうに記載した。

2020年3月 1日 (日)

「群馬で指切り、ぐんまんだぞ!」「上野から、こう...ずけずけ言われても...」

【史料好きの倉庫(10)】

今回は「群馬県(上野)の主要大名」の解説である。

ほとんどが東京から北陸や長野県へ行く途中の素通り状態。城下町の市内を歩いたのは沼田での一回だけだ。それも尾瀬へ行くためのいわばトランジットなので、一応町に降り立った記憶はあるが、ほぼ素通りに近く、散策と言うのには程遠い。それ以外には一度も行ったことがない。

群馬県をかつて上野(こうずけ)の国と称したのは、毛野(けぬ)の国を二つに分けて、群馬県側を上毛野(かみつけぬ)と呼んでいたのが、転訛したものだ。戦国時代、上杉・北条・武田の勢力争いの地になったため、中世諸大名の系譜はまとまった形で残されたものがあるわけではない。それぞれの地域で保存されている史料から調べるのが良いが、岩松家や由良家などは幕府の高家になっているので、『寛政重修諸家譜』等に公式な家系図が収録されている。近世の家門・譜代藩も同様だが、県立文書館(未見)でも調べられる。

◆上杉(山内)家=上野守護
丹波在国時代から歴代表を作成。戦国期の上杉憲政までを記載した。そのあとは系譜上、越後の長尾家へと続く。

◆長尾家
長尾家と言えば、上杉謙信を出した越後の長尾家が知られているが、そちらは上杉家庶流である府内上杉家の守護代で、景為の息子・景恒に始まる弟系になる。本項目に掲げたのは上杉家嫡流の守護代、兄系である景忠の子孫である。足利、白井、惣社の三系統に分かれた。

◆岩松家→新田家
岩松時兼は足利庶流の畠山一族であったが、母方の新田一族の庶流となった。室町期には新田家嫡流から満純が入嗣し、その後は内部抗争を経て、家純が新旧岩松家を統一している。戦国期には家臣だった横瀬家(後の由良家)が事実上の支配者となり、岩松家は没落した。守純のとき、新田庶流を自称する徳川家康から、新田郡内の世良田にわずか20石を与えられたが、新田の名字は許されなかった。後代、秀純のとき120石に加増され、交替寄合として代々続いている。明治維新後、ようやく念願の「新田」を名乗ることが認められた。

◆沼田藩
真田家の時代は、上田藩→松代藩(長野県のページ参照)の分邦であったが、本項目では沼田領に限っての歴代当主を表に掲げた。

◆館林藩
徳川綱吉が五代将軍になった後、息子の徳松が将軍世子ながら、夭折するまで名義上は館林領の主を兼ねていたので、城主の歴代表に掲げた。

◆吉井藩
松平信平は公家(摂家)鷹司家の庶流。徳川家光の夫人・孝子の弟であり、その縁で江戸へ下向して武家に転向した。大名になったのは1709年、孫・信清のときからであるが、家格は国持大名並みの従四位下・侍従(信平だけは少将)であったため、当初から歴代表に掲げた。

2020年2月26日 (水)

「栃木の相手...と、ちぎりますか?」「宇都宮で想い人を、撃つのみや!」

【史料好きの倉庫(9)】

今回は、「栃木県(下野)の主要大名」の解説である。

過去、三回しか訪れたことがない。一回目は学生時代、まだ洗礼を受けていない時期に、教会の合宿に参加して那須に宿泊、信徒の皆さんからいろいろとご教示をいただき、受洗に至った貴重な機会だった。二回目は30代前半、日光まで職員旅行。三回目も30代前半、東北へ向かう途中で宇都宮に立ち寄り、二時間程度散策した。あとは新幹線での素通りばかりで、他の城下町へも行ったことはない。

栃木県をかつて下野(しもつけ)の国と称したのは、毛野(けぬ)の国を二つに分けて、栃木県側を下毛野(しもつけぬ)と呼んでいたのが、転訛したものだ。 那須地方の諸大名・豪族が変転しながら戦国期を抜けて生き残り、それぞれ小藩や交替寄合として江戸期に存続しているので、系譜を地元で調べることができる。宇都宮家や小山家は水戸藩士となったので、正式な系譜は『水府系纂(茨城県のページ参照)』等に収録されている。他の戦国大名諸家や江戸期の諸藩の系譜史料は、県文書館(未見)や県立図書館に散在するが、個別に調査する必要がある。

◆小山家
鎌倉期から南北朝期にかけての下野守護。14世紀末に小山若犬丸が鎌倉公方に討滅され、その後は結城家から泰朝が入って復興したものの、勢力は減退して下野の一大名となり、戦国末に至って豊臣政権により所領を没収された。

◆宇都宮家
下野の中心部を支配し、屋形号を称しているので、世襲の守護家であったかのように誤解されているが、南北朝期のわずかな一時期、守護に任じられたに過ぎない。室町期には大勢力であったものの、戦国期に入ると守護代の芳賀家や被官の壬生家らの勢力争いにより、統制力を欠くことが多く、豊臣政権による内紛への介入を機に、改易されてしまった。

◆那須家
那須与一(源平合戦に登場する弓の名人)の家。那須一党の主家であり、子孫は上庄那須家と下庄那須家とに分かれ、後者が家を統一したが、戦国期には家臣・大田原家の策謀に翻弄され、豊臣秀吉の小田原攻めに伺候しなかったため没落した。江戸期に入って大名に返り咲くが、養子相続の不手際が二度も発生し、最終的には小禄の交替寄合として存続を許されている。

◆大関家→黒羽藩
鎌倉期から「那須七騎」の一家として一党の一角を担っており、戦国期の大関高増以降は大田原家の血統になったが、豊臣政権により本領を安堵され、江戸期にはそのまま黒羽藩として明治維新まで存続した。初代から通し番号を付けた。

◆大田原家→大田原藩
鎌倉期から「那須七騎」の一家として一党の一角を担っていたが、戦国期の資清・縄清(つなきよ)のとき勢力を拡大、子弟で大関家や福原家を乗っ取り、主家の那須家をも圧倒する勢力を築いた。豊臣政権により本領を安堵され、江戸期にはそのまま大田原藩として明治維新まで存続した。初代から通し番号を付けた。

◆足利(小弓公方)家→喜連川藩
足利義明は古河公方・足利高基の弟であり、房総の諸豪族の支援を受けて独立し、兄に対抗して小弓公方を称するが、北条氏綱に敗死して中絶した。義明の孫娘である島子は下野喜連川の領主・塩谷惟久の妻となったが、小田原の陣に際して夫が城を捨て逃亡してしまったので、豊臣秀吉の側室となり、喜連川を化粧料として秀吉からもらい受け、実家の弟・国朝に相続させることができた。国朝、のち弟の頼氏が古河公方本家の氏姫と結婚したので、両者が統一されて古河公方を継承する「喜連川公方家」が誕生したのである。江戸期に入っても徳川家の全き臣下ではなく、客分扱いとして特例による存続が認められ、5,000石ながら10万石並の格式を保っていた。

◆烏山藩
上述の那須家を含め、何度か藩主家の交替があったが、1725年に大久保家(忠為流。九代将軍・徳川家重の母の家系と同祖)が入封して定着した。宇都宮一族で栃木県内に返り咲いた唯一の大名家(旗本には何軒かあるが)である。なお、旧藩主家の当主・大久保忠俊先生(医師)は、ご尊父の代から浜松に在住されている。

◆茂木藩
◆佐野藩
江戸期の諸藩(特に家門・譜代諸藩や外様の中小藩)は所領を遠隔地に分散して与えられていることが多い。そのため、茂木藩主細川家は1643年以前-1871年の間、常陸矢田部を居所とし、また佐野藩主堀田家は1698年-1787年の間、近江堅田を居所としている。このような場合には、実際に陣屋が置かれていた側の都道府県で歴代表を参照できるように、表記を統一し、双方にリンクを貼ってつなげた。

2020年2月19日 (水)

「茨城出身でも、威張らん気?」「水戸では、みと...もないことしません」

【史料好きの倉庫(8)】

今回は「茨城県(常総)の主要大名」の解説である。

学生時代に加入していた研究会の合宿で、五浦温泉(いまの北茨城市)を訪れたのが最初であるが、そのあと2014年までの間に訪県したのは一度(30年ほど前)だけである。直近では2015年の4月5月に研修講師としてお招きいただき、お邪魔する機会を得た。城下町では水戸(画像)しか行ったことがないので、一生のうちにもう一つぐらい訪問できるといいなと思っている。

茨城県は「常総(市ではなく広域の名称)」と称される通り、常陸国と下総国北部とで構成されている(ただし、下総国全体=千葉県北部や埼玉県・東京都の東辺まで含む=を合わせて「常総」と呼称する場合もある。ここでは千葉県=房総=と対比して茨城県を「常総」と称する)。中世の各地域には中央(幕府・京都)とつながりのある大名豪族も少なくなかったので、一般に良く知られている同時代史料でも活動状況が把握できる。他方、少なからぬ大名豪族は江戸期に入り、佐竹家や結城家(越前松平家)に随従して転出しているため、家譜に関する史料が秋田県や福井県に残されている家も相当数存在する。水戸藩士の系譜は、彰考館に所蔵されている『水府系纂』に詳しく、中山・山野辺・鈴木をはじめとする家老の系譜はもちろん、介さん(佐々家)や格さん(安積家)も収録されている。県立歴史館(未見)は近世以降の史料が中心。

Sukekaku

◆佐竹家=常陸守護
平安朝末期からの名門だが、常陸守護に任じられたのは南北朝期以降である。関ヶ原の戦後、秋田へ転封されるまでの歴代表を掲載。

◆常陸大掾(ひたちのだいじょう)家
「大掾」は国司の三等官に当たる官名である。常陸に土着した家祖の平維幹以来、この官に任じられる者が多く、やがて律令制が崩壊すると、世襲の官名→家名となった。1590年、佐竹家に攻撃され滅びるまで、歴代当主がいずれも、形式上は常陸大掾を名乗った。

◆結城家
下総北部の大勢力であったが、結城持朝が結城合戦で敗北したことにより一時滅亡。成朝が再興して戦国期を生き抜いた。晴朝は徳川家康の二男・秀康を養子にしたが、秀康は関が原の戦後越前に栄転した。晴朝は秀康の五男・直基に結城家の系譜・祭祀を継承させることができたものの、越前(福井)松平家の家臣団が再編成されたことにより、家中の構成は全く戦国期から変質してしまっている。

◆江戸家
水戸を居城として、佐竹家に従属あるいは離反(独立)しながら、戦国末まで存続した有力大名。当初の脱稿時に欠落していたので、校正後に補った。

◆水戸藩
徳川御三家の一つ。はじめ徳川家康の五男・武田信吉が封じられ、穴山家の系図を継いで武田の宗家を自任するが、若死にして後嗣がいなかった。その後は名義だけの藩主だった徳川頼宣を経て、弟の徳川頼房が藩主に封じられたため、武田の遺臣たちも頼房に
仕え、その他、関東や東海の豪族等が重臣に採用され、家臣団の中軸を形成した。なお、光圀と斉昭とは没後、明治新政府から従一位・権大納言を追贈されているが、生前の「勤皇の功績」を賞されたものである。

◆宍戸藩
松平家は水戸徳川家の支藩であった。幕末、松平頼徳は宗藩・水戸の内紛鎮定に失敗して切腹させられた。そのため藩は中絶したが、父の松平頼位が明治新政府から復家を許された。

◆松岡藩/手綱藩
中山家は水戸藩のいわゆる「附家老」であり、江戸後期には常陸松岡に居所を置いたが、事実上、松岡城と称され、城主格に準じる立場であった。大名に列せられたのは明治に入ってからである(尾張藩や紀伊藩の附家老も同じ)。

◆助川海防城主 山野辺家
山野辺家は水戸藩の家老。助川海防城は幕末に設置された戦時用の城郭であり、山野辺家の城主時代は28年間にとどまったので、当主名・官位のみを掲げた。

◆志筑藩=本堂家
本堂家は戦国期には出羽本堂(いまは秋田県)の領主であり、関が原の戦後に常陸志筑へ転封、代々交替寄合であった。明治に入って新政府から高直しされ、大名に列したので、江戸期は当主名・官位のみを掲げた。

2020年2月16日 (日)

「福島に、フックしま...した」「会津から、合図があったんで(^^;」

【史料好きの倉庫(7)】

今回は「福島県の主要大名」の解説である。

先年他界した私の叔父(母の弟)が福島県に住んでいた。それと直接関係あるわけではないが、学生時代から同県を何度か訪れている。巡り歩いた城下町は福島、会津若松、二本松と、あまり多くはない。2014年には著書の取材を兼ねて、復興途上の相馬市を見学した。画像はそのときのもの。

福島県も浜通り、中通り、会津と地域が分かれているので、史料調べもそれぞれの地元で行うのが効果的であろう。なお、伊達家がいまの宮城県域へ移動するのに伴い、石川家や白河家などいくつかの被官大名は、仙台藩一門(「御客大名」)となって転出しているので、伊達家関係の史料で系譜をたどることができる。会津図書館(一度訪問)や県歴史図書館(未見)に所蔵されているものは、近世諸藩の史料が中心である。

20141123nakamurajoo2

◆篠川公方・稲村公方 足利家
鎌倉公方の一族である足利満直・満貞の兄弟が、それぞれ安積郡・岩瀬郡に派遣され、鎌倉府の出先機関として南奥州の統制を委ねられたものである。実際には南奥州は伊達・白河・蘆名等の諸家による抗争、駆け引きの場となり、両公方は十分な存在感を発揮できなかった。満貞は永享の乱(1429)で甥の鎌倉公方・持氏方に立ったため、持氏敗北後に自殺。満直は逆に、永享の乱で
将軍・足利義教の側に味方して持氏鎮圧に協力したが、反・義教派の蜂起=結城合戦=を受けて自殺に追い込まれ、ここに両公方はともに消滅した。

◆岩城家
亀田(秋田県のページ参照)藩主家の系譜では、惣領家の隆衡から隆忠へ至る家系を引いているが、実は、隆忠は鎌倉初期に分かれた白土家の当主だと推測されるため、歴代表ではその説を採った。織田家や徳川家もそうだが、本来庶流だった家が後に一族を代表する勢力になると、嫡流家の系統に仮託して家系図を改作することが、歴史上しばしば起きている。

◆相馬家→相馬藩
平将門の子孫であるとの家伝は後世の付会に過ぎず、鎌倉初期からの千葉家一族である。行方郡に所領を持ち、嫡流家は本領の下総にとどまったが、師胤に始まる庶流が相馬地方に土着した。戦国期に勢力を拡大、義胤(長門守)が関が原の戦で石田寄り中立の態度を取ったことから、一時改易されたが、利胤が徳川家康に陳弁して了解され、本領に復した。その後は6万石の相馬(中村)藩として、明治維新まで中断することなく継続している。惣領家の時代から通し番号を付けた。

◆二階堂家
鎌倉幕府の政所執事の家。南北朝期に入る前に奥州へ下向したものの、間もなく惣領家の動向が史料でたどれなくなる。一族の中から須賀川二階堂家が台頭して一族を統一したが、惣領家との関係が不明瞭なため、歴代表の中では分けて記載した。

◆田村家
家伝では坂上(さかのうえ)氏として、平安朝の将軍・坂上田村麿から繋げているが、実際には平姓であり、実名が同時代史料で知られるのは室町期の田村直顕以降である。南北朝期までの藤原姓田村庄司との関係は未詳なので、歴代表では直顕からの当主を掲げた。

◆会津領主 蒲生家
蒲生氏郷の入封後、一時期(宇都宮時代)を除き、蒲生家が江戸前期の三代にわたって会津を領知した。はじめ91万石、のち60万石の大藩でありながら、後嗣がなく絶家になってしまったので、末尾に1613年ごろの重臣(一万石以上)配置を記載して参考に供した。

他県の部でも、同様に江戸前期で消滅した大藩の場合は、一万石以上の重臣配置を末尾に付載する。

◆会津藩
加藤家、保科→松平家を歴代表に掲載。なお、松平家の当主は代々神式の諡であるが、保科正経と松平容詮(世子)だけが仏式の戒名になっている。

◆下村藩
老中・田沼意次が冤罪により失脚した後、嫡孫の意明が懲罰的に左遷された先が下村である。藩主の若死にが続いた後、意次の四男・意正が家を継承、幕閣に登用されて若年寄に就任し、36年ぶりに旧領相良(静岡県のページ参照)へ復帰した。

2020年2月12日 (水)

「山形のほうへ車が、やぁ!まがった」「米沢には、用ねえだわ...」

【史料好きの倉庫(6)】

今回は「山形県の主要大名」の解説である。

何度か来県。米沢へは市立図書館の上杉家関係資料の閲覧を兼ねて行ったり、いまは亡き母に同伴して市内を散策したり、合わせて4回ほど訪問した。他にも山形をはじめ、鶴岡、松山、新庄、天童、上山と、江戸期の城下町はおおむね、それぞれ一度は観光している。

山形県は置賜、庄内などいくつかの地域に分かれているため、史料もそれぞれの地元に分散している。戦国期から村山、最上地方を支配した大大名の最上家は、江戸前期に解体されてしまい、服属していた諸家が離散したことにより、家史の追跡が難しくなっている面は否めない。私は行ったことがないが、県の図書館より山形大学に多くの史料が所蔵されている。また、米沢藩の一門・諸士の系譜は『上杉家御年譜』でたどることができる(画像は私が所蔵する同藩関係の書籍)。

Yonezawahan

◆最上家=羽州探題
奥州探題大崎家から分かれ、出羽の探題職を世襲した家。戦国期に入ると探題の威権も有名無実となったが、義光が周囲の諸大名と抗争しつつ、山形城を拠点に勢力を確立し、関が原の戦で徳川方に立ったため57万石に大増封された。しかし、中世期の支配形態を引きずった結果、1622年、義俊のときに重臣たちが反目する内紛のため改易されてしまう。末尾に1613年頃の重臣配置を掲げたが、一万石以上の支城主が14~15人もおり、いわば諸侯連合の状態だったのだ。近世大名に脱皮できなかった家の悲劇である。

◆米沢藩=上杉家
越後国主であった上杉輝虎(謙信)の跡を継いだ景勝が、豊臣政権下で会津120万石に栄転。ところが関が原の戦後処理で米沢30万石に大減封され、さらに1664年には藩主急死の際に継嗣がいなかったことから、綱憲以降は15万石に減封された。再三の縮小を経て藩は深刻な財政難に陥ったが、治憲(鷹山)が曲折を経ながらも再建に成功しており、明治維新まで継続した名家の一つとなった。分家の米沢新田藩・上杉家は実質的に本家からの蔵米支給であったため、当主名と官位のみを掲げた。重臣では初期の家老・直江兼続(新潟県のページ参照)の死亡を最後に、1万石以上を領知する者は存在しなかった。

◆山形藩
鳥居家以降の藩主を掲げる。松平(結城)家や堀田家のように、転封のため同じ家が複数回藩主になった場合には、「前期」「後期」等と区分した。また水野家のように明治に入ってから他地へ転じた藩主については、最終封地の箇所で廃藩後の官職や爵位を記載した。

他藩・他県の場合も同様な扱いとした。

◆庄内藩=酒井家
徳川「四天王」の一であり、酒井忠勝(老中・小浜藩主とは別人)が1622年に入封してから、ずっと庄内に定着した。譜代大名中の大家であり、支藩として松山(松嶺)藩が存在したが、重臣は石高が多い者でも2,000石程度にとどまった。

◆村山郡内 本多領
事典類では「村山藩」と称する場合が多いが、この藩は横須賀藩主(静岡県のページ参照)であった本多利長が、不行跡のために配流されて、村山郡内の1万石のみをいわば「堪忍分」として与えられたものである。左遷大名の極小藩だったが、次の本多助芳(信濃飯山藩)へつなげるために項目を立てた。

2020年2月 9日 (日)

「秋田縦貫鉄道、あ...きた!」「角館まで雪ん中突っ走る、かくごだで!」

【史料好きの倉庫(5)】

今回は「秋田県の主要大名」の解説である。

過去、同県には三回訪れている。秋田市には旅行で二度宿泊(それぞれ2~3泊した)、そこから角館、横手、能代、由利本荘などへ足を延ばした。直近では7年前の2月、積雪の北秋田市から介護保険「給付適正化」の講師として招かれ、市内の介護支援専門員を対象に講義をしたことがある。タイトルのダジャレはその実体験から思い付いたものだ(^^;
また、画像もその講義の中で使用したもの。ケアマネジャーと介護サービスとを別々の組織が担う「第三者機関主義」について説明する際に、秋田藩が一か所の要地周辺に二家の重臣を並立配置して、相互に「モニタリング」させた史実を引用したスライドである。

Akitaken

秋田県関係では、戦国期までに歴史の舞台から消えた大名家の系譜に、解明されていない部分が少なくない。一部の中世大名家や秋田藩については、県の公文書館に系譜が多く所蔵されている。ただし、藩士の系図集がまとまった形で編纂されたわけではないので、重臣でも系図が残っていない家もある。

◆安東→秋田家
後世、安倍氏の後裔を称していたが、実際には鎌倉期に蝦夷地一帯を管領していた安藤家の系統である。下国系と湊系とに分かれ、後者が戦国秋田家となって両系を統一した。近世の三春藩(福島県のページ参照)につながる。

◆戸沢家
◆小野寺家
この二家のように、伝えられる系譜に問題があっても、新たな史料でも発見されない限り、真相はヴェールに包まれてしまうことも少なくない。ひとまず歴代表は掲げたが、私が備考欄に疑義をコメントしたことからもご賢察の通り、史実の上での正確性を保証するものでは全くないことをご了解の上で、参照されたい。

◆六郷家→本庄藩
戦国期には仙北郡六郷の領主。政乗一代で常陸府中→出羽本庄へと転じた。旧領復帰ではないが、広い意味での羽後地域、現在の秋田県内への復帰であり、そのまま明治維新まで存続したため、例外的に通し番号を付けた。

◆秋田藩=佐竹家
常陸(茨城県のページ参照)の大大名であり、諸大名の中でも屈指の古い家柄であった。関が原の戦後、石田三成寄りの中立であったことから懲罰的に久保田城へ転封され、
江戸期には現在の秋田県の大部分を統治して、明治維新まで継続した大藩である。

◆角館所預 佐竹家
◆佐竹(東)家
◆湯沢所預 佐竹家
◆大館城所預 佐竹家
いわゆる佐竹四家。角館佐竹は「北家」、湯沢佐竹は「南家」、大館佐竹は「小場家」と称される。東家だけは所預(ところあずかり)ではなかったが、藩政初期には増田に在城していたこと、他の三家と比較して一家のみ載せないのは妥当でないと判断したことから、四家とも当主名を掲載した。万石待遇とは、各家が一万石級の供連(ともづれ)など戦国期以来の格式を保っていたことが、藩内のみで通用していたものだが、秋田藩が戊辰戦争で新政府側に参戦して功があったため、四家はいずれも明治政府から一万石以上格を追認されて、男爵を授けられている。

◆矢島藩=生駒家
讃岐一国を四代にわたって領知した生駒家は、高俊のとき御家騒動のため領国を没収され、配流の形で矢島に1万石を与えられた。次の高清の代からは分知により8,000石となったため、幕末までずっと交替寄合であった。生駒親敬が戊辰戦争で新政府側として戦ったため、戦後15,200石に高直しされ、いわば滑り込みで大名に列したものである。したがって、江戸期は大名でなかったのだが、初代と最後の当主が大名であるため、間をつなぐ意味で歴代表を掲げた。

フォト
無料ブログはココログ
2020年3月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        

他のアカウント