音楽

2024年7月29日 (月)

ワーグナー楽劇の面白さ(12)

最近、歌劇や楽劇を劇場まで鑑賞に行くことがほぼなくなった。長時間の座位が厳しくなったことや、予算の不足がおもな原因である。

そのため、ワーグナーの楽劇もヴェルディの歌劇も、もっぱら自宅でDVDやBDを視聴している。

さて、ワーグナーは1843年の「さまよえるオランダ人」以降が一般的に上演されるが、それより前の歌劇がいわば「助走時代」の作品として注目されることが少なくない。

1836年初演の「恋はご法度(かつては「恋愛禁制」と訳されていた)」。16世紀のシチリアを舞台に、「男女の恋愛を禁じる」というトンデモ法令を発布したドイツ人の総督を、市民たちがカーニバルでコテンパンにやっつけるドタバタ喜劇。このあとワーグナーが「喜劇」を作ったのは「ニュルンベルクノマイスタージンガー」だけであるから、貴重な作品なのだ。画像のBDは2016年マドリード版で、舞台はすっかり現代のシチリアに移され、登場人物はみなスマホを駆使している。

Liebesverbot

また、1842年初演の「リエンツィ」は初期の大作だ。14世紀のローマに実在した執政官コーラ‐ディ‐リエンツォをモデルにした作品で、省略しなければ5時間に及ぶ長編歌劇。これまで失意の無名作曲家だったワーグナーが一世を風靡する契機になった出世作だが、人物の内面にあまり立ち入らない内容だったため、ワーグナー自身が後にこの作品を気に入らなくなってしまった。画像のDVDは2012年トゥールーズ版。登場人物がみな顔を白塗りにしている演出が面白い。

Rienzi

私はかつて、「恋はご法度」を東京グローブ座で、「リエンツィ」を藤沢市民オペラで鑑賞した。いずれも「本邦舞台初演」の価値ある上演である。前者はオーソドックスな演出だったが、コミカルな要素をふんだんに詰め込んだ名演。後者は市民オペラで歌唱も日本語だったが、ソリストはみなプロの声楽家であり、全体として精度の高い舞台であったと記憶している。

この二作品をじっくり味わってから、「オランダ人」以降の作品を順番に鑑賞し、ワーグナーの歩みを追ってみたい。

2021年12月26日 (日)

ヴェルディ歌劇の面白さ(18)

例年の通り、10月から年末にかけ、購入または録画したヴェルディのDVDやBDを鑑賞している。

昨年のエントリーでも記述したが、ヴェルディの歌劇の中で展開されるドラマは、現代社会が抱える多様な問題に通じるものがあり、一つひとつの作品が訴えかける主題は重い。

鑑賞するのは月に5~6作品。前期までの作品はセレクト、中期(「リゴレット」から「ドン‐カルロス」まで)以降はすべての作品を、作曲された順に視聴している。今年は比較的古い演出のものを中心に並べてみた。とは言っても、2000年前後からあとのものがほとんどだ。

中でも好きなのは「シモン‐ボッカネグラ」2007年ボローニャ(テアトロ‐コムナーレ)版である。

Simonboccanegra

ミケーレ‐マリオッティが指揮した歌劇の代表作の一つ。演出はジョルジョ‐ガッリオーネ。歌手はロベルト‐フロンターリ、ジャコモ‐プレスティア、カルメン‐ジャンナッタージォ、ジュゼッペ‐ジパーリ、マルコ‐フラトーニャと、イタリア人キャストを中心に実力派が揃っている。重厚で聴き応えのある名演と言って良い。

このほか、「運命の力」2008年版ヴィーン版ではサルヴァトーレ‐リチートラ、「オテロ」は2012年メトロポリタン版ではヨハン‐ボータと、若くして世を去った名テノールたちの雄姿を眺めつつ、彼らの早過ぎる死を悼みたい。事故や病気に遭わなかったら、まだまだ活躍できたのに...と残念な思いだ。

コロナ禍や個人の経済的な事情もあるが、身体面からも、東京や名古屋などの劇場まで往復した上、長く同じ姿勢を保って鑑賞するのは、次第に厳しくなりつつある。もちろん、機会があれば実際の舞台へ足を運びたいとは思っているが、当面は自宅でのヴェルディ三昧になりそうである。

2020年12月18日 (金)

ヴェルディ歌劇の面白さ(17)

ここ数年、秋から冬にかけてヴェルディの歌劇(DVD・BD)を年代順に視聴するのが通例になっている。10月ころ、初期の作品から始めて、大みそかに「ファルスタッフ」で締める(当然のことながら紅白は視ない)。ただし、昨年の12月31日夜にはテレビが故障してしまったため、消化不良に終わった。

ヴェルディの作品は前期、中期、後期と、大きく三つの時期に分けられることが多い。異説もあるが、「オベルト」から「スティッフェリオ」までの15作が前期、「リゴレット」から「ドン‐カルロス」までの8作が中期、「アイーダ」から「ファルスタッフ」までの4作(「レクィエム」を含む)が後期。

Aida

グランド‐オペラの完成形とされる「アイーダ(上の画像)」はヴェルディの代表作に挙げられるが、実はドラマとしてはあまり深みがない。台本の出来も関係しているのだろうが、かなり一直線に進み、終わってみたらヒーローとヒロインとが一緒に死ぬことになった、との印象が強い。

それに比べ、楽曲ではいまだ熟成途上かも知れないが、一つ前の「ドン‐カルロス(下の画像)」は大きな背景に覆われる人生の悲哀を活写した、たいへん深みのある作品である。

Doncarlos

実は、ヴェルディは「社会派」の作曲家であり、中期の諸作品は一つ一つが重い主題を含有しているので、たいへん味わい深い。

・「リゴレット」→ 身体障害者差別
・「トロヴァトーレ」→ 非定住民差別
・「椿姫」→ 娼婦(日陰に生きる人たち)差別
・「シチリアの晩鐘」→ 征服者と被支配者との憎悪
・「シモン‐ボッカネグラ」→ 党派対立と融和
・「仮面舞踏会」→ 友情とその破綻
・「運命の力」→ 先住民(中南米の人たち)差別/信仰
・「ドン‐カルロス」→ 圧政と自由/信仰

一言で表現すればこんな感じだ。「リゴレット」から年代順に鑑賞すると、音楽の完成度が増していくに連れ、どんどん盛り上がっていく。あえて言えば「シチリアの晩鐘」はパリ進出のためヴェルディが不承不承作曲しており、本人はこのあまり気に入っていなかったので、ここで「少し脱線」。また「仮面舞踏会」は国の指導者をめぐる物語とは言え、個人的悲劇の色彩が強いので、ここが「ちょっと休憩」になるのかも知れない。そのあと「運命の力」は曲の重厚さをいよいよ増し、宗教(信仰)はどこまで力を持ち得るのか?の副題まで加わる。そして「ドン‐カルロス」で最高潮に達するのだ。

その次に祝典用の悲劇「アイーダ」が来るわけだから、ここで盛り上がりが一段落して「社会派」から離れ、後期の諸作品はヴェルディの華麗な展覧会となる。歌劇的な宗教曲「レクィエム」、個人・家庭の悲劇を追究した「オテロ」と続き、最後は「世界中がダジャレだ!」の喜劇「ファルスタッフ」で大団円となる。

作品同士の関連性があまりないと思われているヴェルディ作品。こんな視点から年代を追いながら眺めてみるのも一つの楽しみ方であろう。

2020年10月26日 (月)

ヴェルディ歌劇の面白さ(16)

舞台芸術で「多様性」は重要な要素だ。それは国際的にも大きな潮流であるに違いない。

しかし、古典的な芸術である歌劇には「奇をてらった演出」が不似合いな場合がある。ヴェルディの歌劇、おもに中期の作品でよく感じる。

最近は(特にコロナ禍以降は)劇場でヴェルディを鑑賞していないので、もっぱら購入したDVD・BDや、録画したCSで視聴しているが、同じ演目でも、演出によって受ける印象が大きく違う。それは舞台芸術としての評価にも影響する。

ワーグナーの作品と比較してみよう。ワーグナーは自ら楽劇の台本を書き、そこでは超自然現象を交えた神話や伝説を素材としており(「ニュルンベルクのマイスタージンガー」を除く)、作曲者自身が意図した主題は読み取れるものの、「こんな狙いもあるのではないか」と豊かな解釈をする余地が大きい。奇想天外な舞台構成も一つのバリエーションとして認められ、多彩な演出がそれぞれ一定の評価を受け、聴衆に受け入れられる場合が多い。

他方、ヴェルディの歌劇は台本作家が書いたものであり、現実に展開される人間模様が素材である。前期には台本と相性が悪く不本意な作品になった歌劇もいくつかあるが、中期以降はほとんどの作品で自分自身の構想と整合させている。

そして、前期には祖国イタリアへの愛国的な作品が多く見られたが、中期には「社会派」と称されるように、世の中の不条理を洗い出している作品が多い。非定住民差別を核にした「トロヴァトーレ」、先住民(南米)差別を前面に押し出した「運命の力」、宗教対立を基調に据えた「ドン‐カルロス」など。

これら中期の傑作は多くの劇場で上演されており、演出家にとっては腕の振るいどころなのかも知れない。しかし、中には奇策を弄し過ぎて、演出家の自己満足に陥ってしまい、聴衆に何を訴えたいのか肝心な部分がボケてしまうことがしばしば見受けられる。最近では黙役を登場させる演出もちらほら散見するが、その黙役の動きが何を意味しているのかを聴衆に理解させられないと、悲惨な評価を受ける結果になってしまう。

むしろ、ヴェルディ中期の作品を味わうのであれば、オーソドックスな演出のほうが望ましいのだ。

20201022rigoletto

たとえば2017年オランジュ音楽祭の「リゴレット」(画像。CSから録画)。指揮アラン‐ギンガル、リゴレットがレオ‐ヌッチ、ジルダがネイディーン‐シエラ、マントヴァ公爵がセルソ‐アルベロ。

シャルル‐ルボーの演出では、舞台後方に巨大な玩具(中世の道化師が用いていた)がゴロンと横に転がしてあり、その上がゆるい坂になっていて、登場人物が坂の上側から出たり入ったりできるようになっている。これはある意味、リゴレットの運命の象徴であろう。それ以外は全く現代フランスの背景や衣装であり、21世紀のスーツやドレスをまとった上流階級の人物が役を演じていて、他に変わった趣向は見られない。

しかし、その普通の「フランスの上流階級の社交場」で、堂々と「障害者差別」や「性暴力」が展開されるのだ。西アジアやアフリカの戦場でもなく、中南米のスラム街でもない。これを視た聴衆の多くは、障害者差別や性暴力が自分たちの日常と決して無縁ではないんだよ、との強いメッセージを受け取るであろう。これはまさにヴェルディ自身が意図したところであり、ルボーはそれを効果的に表現するのに成功している。ヌッチ(当時75歳!)、シエラ、アルベロ(この人のハイDは劇場で実際に聞いたことがある)の三人の歌唱が圧倒的であるから、舞台に余計なものをあれこれ付け加える必要もない。

このような演出がヴェルディ中期の歌劇の醍醐味を生かしているのだ。時代は現代に移しても差し支えないが、設定をゴチャゴチャと複雑にしないほうが良質な演出となり、心ある聴衆を惹き付けるのである。

「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」。

この言葉を玩味したい。

2019年12月 4日 (水)

片付け下手の断捨離(4)-ヴェルディ歌劇のCD・DVD

前回より続く)

音楽や舞台芸術の分野に限らないが、天はときどき意図したように、対照的なライバルを同時に世に登場させる。同じ1813年生まれのヴェルディとワーグナーも、その好例だ。

私がヴェルディの歌劇に接し始めたのは、ワーグナーよりはちょっと遅いが、それでも中学生のときには両親に頼んで、『アイーダ』『椿姫』のLPレコードを手に入れた。この二つは頻繁に、歌詞カードを見ながら当時のプレーヤーで聴いていたので、いまでも字幕なしの映像で楽しめるほど、細かい部分の台詞まで大枠は頭に入っている。

その後はあまりヴェルディに関心を持たなかったが、30代半ばころから、ワーグナー一辺倒もいかがかと思い、少しずつヴェルディのCDやLDの収集を増やし始めた。最近はワーグナー同様、CS放送からBDに録画することも多い。

Verdi

ヴェルディは何と言っても作品数がたいへん多く、ヴェルディ自身により後日改訂されたものの前・後を合わせて一つと数えても、歌劇の数は全部で26に及ぶ。私が好きな順に挙げると、『ドン‐カルロス』『シモン‐ボッカネグラ』『ファルスタッフ』『トロヴァトーレ』『運命の力』といったところである。意外にも幼少時から聴いている二作はベスト5に含まれていないのだ(笑)。

先般、イタリアではヴェルディ生誕200周年を機に、「トゥット‐ヴェルディ」なる企画が持たれ、全26歌劇および『レクイエム』の27作品が相次いで上演されて、それらのDVDが販売された。日本でもCSのクラシカ‐ジャパンで放映されたので、その期間だけ(笑)同チャンネルを契約、全部録画して保管してある。

こんな具合であるが、あまり貯めてもケースに眠っているだけのものが出てきてしまう。そこで、自分で一応のルールを定めて、「同一作品が5つを超え」たら、古いもの、またはあまり魅力がない歌唱や演出のものから順次処分することにした。いま、収納ケースからCDはあらかた無くなり、ほとんどBDとDVDだけになっている。

最近は前衛的な演出が増えたが、ヴェルディ作品の粋は主役級の歌手、特にバリトンの歌唱である。私は保存するときに、バリトンの歌唱の出来具合を一つの判断基準にしているので、演出の巧拙はそれほど重視しない。それでも、なるべく各作品に最低一つはオーソドックスな演出のものを残して、個性的な演出のものと比較しながら、それぞれの良さを楽しみたいと思っているのである。

次回へ続く)

2019年11月27日 (水)

片付け下手の断捨離(3)-ワーグナー楽劇のCD・DVD

前回より続く)

幼少時からクラシック音楽を愛好していた私は、おとぎ話の延長線のような形でワーグナーの楽劇を知り、両親にねだって『タンホイザー』や『ローエングリン』のLPレコードを買ってもらった。

成人してから、自分でCDやLD(レーザーディスク)を選んで、『トリスタンとイゾルデ』『ニュルンベルクのマイスタージンガー』など、いろいろと購入するようになった(画像)。DVD主流の時代になると、LDからダビングして移行したり(画質は落ちてしまったが...)、CS放送から録画したりと、結構な分量のものが自宅の棚や箱の中に格納されている。このところ、新たな録画はBD(ブルーレイ)を使うのが原則になった。

Wagner

ワーグナーと言えば、多くの演出家は作品の舞台になった古代や中世の「物語」をそのまま描くのではなく、ワーグナーの本来の意図を推察しながら、いろいろと自己流に読み替えて、再構成していく(具象的と言うより、どちらかと言えば抽象的な)演出が主流になっている。中には奇をてらって意図がわかりにくくなってしまった演出もある。逆に最近はBDやCSの映像では、オーソドックスな物語通りの演出がほとんど見られなくなってしまった。

そのため、古い録画であっても、オーソドックスに近い演出のものを一つだけは残しておきたいので、断捨離には頭を悩ますところである。手元不如意で、実際に劇場まで足を運ぶことが減ったこともあり、自宅で楽しめるものは取っておきたい気持ちもある。

結局、BD・DVDのケース4箱に収まる分は保管して、あふれたら「ま、無くてもいいか」と思ったものから処分しているが、いつかは古いCDやDVDも少しずつ手放さなければならなくなるだろう。

次回へ続く)

2019年7月10日 (水)

音楽の著作権をどう考えるべきか

このたび、JASRAC(日本音楽著作権協会)の職員が「主婦」として、Y社(本社は当地・浜松)が経営する銀座の音楽教室に二年近く「潜入」して受講していた事案が、話題になっている。

Y社をはじめとする「音楽教室を守る会」が、教室での楽曲演奏にまで著作権使用料を徴収するのはおかしいとして、JASRACと裁判で係争している中、この「主婦」はヴァイオリン講師の模範演奏について、「講師が伴奏に合わせて弾く様子は、まるでコンサートを聞いているかのように美しく聞こえた」と証言し、JASRAC側の主張を裏付けたのだ。

この事案をめぐって、あたかも「JASRAC→悪」「音楽教室→正義」であるかのような議論が支配的になっている。

JASRACに対する批判は、多くの論者から寄せられている。著作権料の徴収対象がカラオケ店やBGMを流す店などにも拡大し、また、徴収した著作権料をクリエイターに払わない場合もある(例:短い小節なら作詞者に配分しない、雅楽の演奏にも徴収した、etc.)と報じられており、これが「権利を守る」正当な行為に相当するのか、疑問を持つ人たちも少なくない。中には誇大な報道もあり得るので、実態が報道の通りなのか不明瞭ではあるが、JASRAC自体が大きな利権を得ていることは否定できないであろう。

その流れに沿って、今回のJASRAC職員の「潜入」も、教室側との信頼関係を踏みにじるスパイ行為であると評する論者が圧倒的に多い。

しかし、これはちょっと違うのではないだろうか。

まず、楽曲を用いて収益を得る場合は、作詞家や作曲家に対して正当な対価を支払う義務がある。これは作詞家や作曲家の権利を守るためには大切なことである。こちらもいま話題になっている過去の海賊版サイト「漫画村」が、いかに漫画家や出版社の正当な権利を侵害してきたかを考えれば、クリエイターの著作権が守られなければならないことは自明である。

JASRACが作詞家や作曲家に代わって管理している楽曲であれば、当然ながら楽曲の有償使用者は、JASRACに著作権使用料を支払う義務がある。作詞家や作曲家がJASRACの取り分を除いた適切な配分を受けているかどうかは、JASRACと作詞家や作曲家との問題であり、楽曲の使用者が介入すべきものではない。

次に、カラオケ店やBGMを流す店はともかく、音楽教室までが「楽曲の有償使用者」に該当するかの点である。

今回、多くの教室経営主体が「音楽教室を守る会」を結成、協働して裁判を起こしているが、Y社(...を含めた一部の音楽教室。以下、音楽教室「Y」という)は、他の大手や街中のところどころにある中小零細の音楽教室(以下、音楽教室「T」という)とは、性質がかなり異なることが判明している。

音楽教室「T」では、穏当に音楽文化を一般の人たちに伝えて、その対価を得ることが営業活動である。その後、そこで学んだ若い人が演奏家として育つための橋渡し程度はするかも知れないが、それ以上の営業活動に踏み込むことは通常はない。

他方、音楽教室「Y」では、自社で契約する演奏家をプロフェッショナルとして活動させ、メディアでの仕事に結び付けている。しかもY社の場合、伴奏システムまで自社側で用意しているので、ある程度の技術を持つ受講者が本気で習得に臨み、一定の過程を経れば、比較的容易に「演奏家」レベルまで到達する。この繰り返しによってY社側で「使える」プロ演奏家が(レベルはともかく)増加していく。これでは、単なる「音楽教室」ではなく、「稼げる演奏家の養成所」と見なされても、しかたがないのではなかろうか。

すなわち、Y社はコングロマリットとして総合的な音楽ビジネスを展開しており、音楽教室もその一環だと考えられるのだ。したがって、「講師が伴奏に合わせて弾く様子は、まるでコンサートを聞いているかのように美しく聞こえた」と証言した「潜入」職員の感覚は正常であり、JASRAC側の意を呈して虚構の「コンサート」を作り上げたとは言い難い。

長く浜松のため貢献している大企業なので、悪くは言いたくないのだが、残念ながら、先日、知人の演奏家(決して作曲者=JASRAC側に近い人=ではない)から耳にした話も、上記の判断を裏付けている。

だから、ここで「JASRACは悪だ」「音楽教室は正義だ」と決めつけた論評をしてしまうと、私がかねてから日本人の思考形態の特徴だと見なしている「二分割思考」の弊害に陥ってしまう。

この事案については、「ただの音楽教室(音楽教室「T」型)なのか? それとも、楽曲を有償使用したビジネス(音楽教室「Y」型)なのか?」の実態から判断して、著作権使用料徴収の是非を問うべきだと愚考する。裁判所にはこの点を賢察しつつ、判決を出してほしいと思う。

日本の音楽文化を守るためには、係争中の事案はともかく、今後、JASRACの幹部を含めた有識者や各方面の関係者が顔を合わせる場を増やし、議論を深めてほしい。クリエイターの権利をどう守り、他方で楽曲の有償、無償での使用の形態を法律や社会通念でどう定義し、線引きをするのか、利害関係者が対立を超え、知恵を出し合って、望ましい音楽文化のありかたを語り合い、方向付けていってほしいと願っている。

2019年6月19日 (水)

ヴェルディ歌劇の面白さ(15)

亡き母の故郷である名古屋。最近は行き来する頻度が少なくなり、用事でときどき出向く程度になっている。

先週の15日(土)、栄の愛知県芸術劇場で、ボローニャ歌劇場の引越し公演『リゴレット』を鑑賞。夕方からの公演だが、土曜日は営業日なので、午後半日の有給休暇を取っておいた。

指揮はマッテオ‐ベルトラーミ(敬称略、以下同)、演出はアレッシオ‐ピッツェック。キャストはリゴレットがアルベルト‐ガザーレ、ジルダがデジレ‐ランカトーレ、マントヴァ公爵がセルソ‐アルベロ、スパラフチーレがアブラモ‐ロザレン、マッダレーナがアナスタシア‐ボルドィレヴァ、ジョヴァンナがラウラ‐ケリーチ、モンテローネがトンマーゾ‐カーラミーア、マルッロがアブラハム‐ガルシア‐ゴンサーレス。

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主演三人の出来が素晴らしかった上演。ガザーレは歌唱・演技とも重みたっぷりの存在感を示し、特にリゴレットが廷臣たちに向かい、奪われた娘を思う気持ちを切々と歌う第二幕のアリア「非道な役人どもよ!」は圧巻。ランカトーレは浜松で一度(『椿姫』のヴィオレッタ)見ているが、そのときよりも安定した情感たっぷりの歌唱で、全幕を通してジルダの悲哀を十二分に表現。また、第二幕を締める父娘の二重唱は互いの音程も正確で実に息が合っており、満場の喝采を浴びた。アルベロはマントヴァ公爵を数多く歌い込んでいるベテランであり、第二幕のカバレッタで求められる難度の高いハイD(=二点ニ音)を軽々と響かせる輝かしいテノールで、第三幕のカンツォーネ「女心の歌」も朗々と歌い切り、ショー‐ストッパーよろしく会場を魅了していた。脇役になってしまったが、殺し屋の役にハマったロザレンのスパラフチーレと、四重唱で存在感を示すボルドィレヴァのマッダレーナも水準以上の出来。

ベルトラーミの指揮は全体を通し、基本を踏まえて一つ一つの場面を大切にする秀逸なものであった。ピッツェックの演出はかなり奇策を用いていた。第二幕にモンテローネの娘(黙役)を登場させ、ジルダの悲劇と重ね合わせているが、かえって設定を複雑化させてしまい、あまり効果的だとは思えなかった。他方、カーラミーア演じるモンテローネが白のスーツとシルクハット姿で登場し、公爵に抗議して投獄される廷臣と言うよりも、呪いを告げるメッセンジャーボーイの役どころになっていたのは面白い。また、ジルダが箱入り娘状態であったことを、人形箱を使って視覚的に示したことも興味深い。ゴンサーレスのマルッロとケリーチのジョヴァンナについては、脇役ながら細かい動きに微妙な気持ちの変化が表現されており、示唆的であった。

いつもならば、鑑賞後にワイン+ディナー...となるところだが、この日はいささか体調不良だったこと、お天気が荒れ模様だったこともあり、浜松へ戻ってからリーズナブルな夕食を済ませ、帰宅した。

これでヴェルディ鑑賞も10作品目と、二ケタに達する。お金や時間が有り余っているわけではないので、年に1~2回程度、それも海外からの引越し公演より国内企画公演を鑑賞するほうが多い。自分のささやかな楽しみとして、今後も機会があれば出掛けたいものである。

2019年2月26日 (火)

人と会い、人と語り...(6)

「これはすごい!!!」

...と、掛け値無しに表現できる企画を、このたび体感できた。

22日(金)にライブハウス・神戸チキンジョージで開催されたイベント「Babe 40th Anniversary-生きるために必要な10のこと」。

実はこれ、介護業界の一リーダーの個人的な「40歳の誕生祝い」だった。そこに全国から、業界の「顔」と言うべき人たちが集結した。

主役の「Babe」とは西宮市の幸地伸哉さん(クローバルウォーク社長)。拙著『これでいいのか?日本の介護』第12章にも登場し、関西では草の根で業界の「人の輪」を広げている立役者の一人。三年前の私の開業15周年にも駆け付けてくださったので、お開きの三本締めをお願いした方である。

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その幸地さんが40歳になる日にこの企画を組むと聞いたので、頼まれなくても押し掛けるつもりでいたところ、氏から、トークセッションをいくつか考えており、その一つ「伝える」の章に登壇してほしいとの依頼があったので、快諾して出掛けて行った。

まだ開幕一時間以上、16時ごろ会場に到着すると、すでに怪しい人たちが...

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本ブログに何度も登場したジョージさん@ライフデザインクリエイターふらっと(京丹後)と、会うのは二度目のジャスティスさん@介拓社(和歌山)。他にもライブに登場する人たちをはじめ、幸地さんの親しい仲間たちが準備に駆け回っていた。そのうち福岡勢、神奈川勢、和歌山勢などが続々と到着。「おひけえなすって!」と仁義のやりとりに追われる。

そして17時半に開幕。トークのテーマごとに、幸地さんのよくわからない?(笑)語りの動画披露。そしてセッションごとに4~5人が登壇して、それぞれの思いを語る。MCは久々成さん@プラスワン(大阪)、彼自身がトークに加わった際には、まるこさん@Kakeru(京都)が代役を。

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ライブが入っていよいよ佳境に。まずは「No Name」。づかさん@Lixis(東京)、Shanさん@アロ研(東京)、大平さん@ケアクラフトマン(鹿児島県長島町)、そして久々成さんのカルテット。介護業界では各方面を代表すると言って差し支えない、知名度の高い方たちだ。特にShanさんのドラムは圧巻。

さらに、トークをはさんで沖縄民謡。当日結成してリハ5分の速成コンビ。唄を披露したのは龍カルロスさん@比謝川の里(沖縄県中頭郡)、サンシンは関西でプロのアーティストとして活動されているKudekenさん。カルロスさんの美声も十分にゼニが取れるレベルだ。

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長年のブログが圧倒的な支持を誇るmasaさん@あかい花(登別)。幸地さん、フッキーさん@ソーシャルネット雅(和歌山)とのトリオで。masaさんの渋い声も年季が入っていて流石である。

後半に入って、トークは「伝える」のコーナーになり、私もmasaさんやカルロスさん、正木さん@な~る編集室(西宮)、大関さん@Dasuケア(犬山)たちと一緒に登壇。一応マジメに話していたつもりだが、せっかくの機会にコラボした仲間の画像をと思い、大関さんの隣でブレイク。ところがその場面をジャスティスさんがしっかり盗撮(笑)。

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締めは幸地さんがかつて結成していたバンド「Red Rock Ear Sicks」のリバイバル。これがまたシビれる演奏で、会場を興奮の渦に巻き込む。

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終演は22時過ぎ。実に6時間近くにわたる、メチャ楽しいイベントであった。

そのあとは介護業界を中心に、遠方から集まった仲間が十数人で二次会。みなさんは朝の3時まで飲んでいたようだが、私は翌日の仕事もあったので、1時ころには早々に失礼させてもらった。

あえてHNや通称で表現したが、登場した多くの方は業界で隠れもないビッグネームである。そんな連中が北海道から沖縄まで、謝金もないのに手弁当で集まるトンデモ企画。これを現実の形にした幸地さんの人間的魅力には脱帽だ。

また、当然だが、介護業界に限らず、幸地さんの親友や同級生など、異業種の方も少なからず参加していたので、私たちの見識が広がったことも一つの収穫であろう。

この機会に、私も多くの人たちとつながることができた。SNSでは知り合っていても会うのは初めての方が4人、全く初めて名刺交換した方が13人。特に、背中合わせの席も何かのご縁だと思ってあいさつした方が、川内さん@となりのかいご(伊勢原)。介護離職防止のコンサルタントで、激辛ラーメンの愛好家(笑)。知り合っておくと、何かの企画でコラボできるかもと、構想は広がるのだ。

一日に17人もの方と初対面をして、しかも、どなたに関しても、どこで何をされている方なのかが頭に残っていることは、私にとって全く珍しい。

とにかく、人生でも何年に一回あるかないかの、すばらしい体験であった。

幸地さん、40歳おめでとう!!! 心からお祝いしています☆ さらに輝かしい40代にしてください。

2018年12月22日 (土)

ヴェルディ歌劇の面白さ(14)

年末だからというわけではないが、業務過密状態になり、このところ夜間・休日返上で仕事を続けていた。そのため、予定していた歌劇のレヴューを、10日も経ってからようやく書き上げている。

先の12月12日(水)、日帰りで東京まで出向き、新国立劇場で歌劇『ファルスタッフ』を鑑賞してきた。

ヴェルディ鑑賞は9作目になるが、「喜劇(...と言ってもヴェルディは生涯に2作品しか喜劇を作曲していないが...)」はこれが初めてである。

指揮はカルロ‐リッツィ(敬称略、以下同)、演出はジョナサン‐ミラー。キャストはファルスタッフがロベルト‐デ‐カンディア、フォードがマッティア‐オリヴィエーリ、アリーチェがエヴァ‐メイ、クイックリー夫人がエンケレイダ‐シュコーザ、ナンネッタが幸田浩子、フェントンが村上公太、メグが鳥木弥生、カイウスが青地英幸、バルドルフォが糸賀修平、ピストーラが妻屋秀和。

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リッツィの緩急よろしき指揮のもとに、全体として高水準の上演であり、この歌劇には必須である演技力の高さにも注目すべきものがあった。

デ‐カンディアは体型もファルスタッフにふさわしいが、ブッフォの歌唱力・演技力いずれも称賛もの。オリヴィエーリは掛け合いに長け、「朴念仁の俗物」フォードを好演。メイは劇全体をぐいぐい引っ張っていくアリーチェを見事に歌い切った。シュコーザは大仰な発声と所作とによって扇の要クイックリー夫人を好演。妻屋は脇役ピストーラだったが、いぶし銀の巧みな演技力で存在感をアピールしていた。

満足度から言えば、お金と時間を使って見に行く価値のある上演であった。

『ファルスタッフ』のタイトルロールが生まれた経緯については、以前のエントリーに述べたが、ここに至って新たに気が付いたことが二つある。

一つは、喜劇の中に結構物騒な台詞が隠されていることである。ファルスタッフがアリーチェを口説く場面。"vorrei che Maestro Ford passasse a miglior vita" →「フォードさんがあの世へ行ってくれれば」。劇の舞台になった当時のイングランドはカトリック教国で、原則として離婚が認められていなかった(王侯などでは政略結婚が破綻して離婚することもあったが...)。したがって、ファルスタッフが人妻アリーチェと結婚するためには、夫のフォードを「あの世へ行かせる」、つまり始末するしかない。それを承知した振りをしてファルスタッフやフォードをからかうアリーチェたちは、相当な性悪の女性たちなのだ。

もう一つは、主人公のファルスタッフの霊名「ジョン(John)」が、ワーグナーの喜劇『ニュルンベルクのマイスタージンガー』の主人公ザックスの霊名「ハンス(Hans)」と同じことである(どちらも聖書に登場する「ヨハネ」を意味する)。これは偶然なのかも知れないが、ともに1813年生まれであるオペラ史上の二大巨人が、いずれも後半期には一つしか喜劇を作曲しておらず、しかも主人公の霊名が同じなのは興味深い。ファルスタッフは二人の人妻へ同時に婚活を仕掛けて笑いものになり、ザックスは若い娘への恋情を封印して喝采を受ける。この二人はある意味、紙一重なのかも知れない。

中(?)高年の独身男性である私にも、大いに考えさせられるところがある。そして、私の霊名も同じ「ジョアン(=ヨハネ)」だ。この先の人生に、何か艶っぽい話でも訪れるのかな? 期待しないで(笑)待ってみるか!

...などと思っているうちに、この歌劇の大団円の合唱、「世界中がダジャレだ!」になってしまうのかも知れない(^^;

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