中国史

2019年11月20日 (水)

片付け下手の断捨離(2)-中国史関連書籍

前回より続く)

幼少のころから世界史に興味を持っていた私であるが、小学5・6年生から中学生になる時期、特に中国古代史に強い関心を持ち、十代のうちに、『史記』に始まって『隋書』あたりまでの「正史」を、斜め読みながら通読した。ちなみに、大学では東洋史学専修課程に進み、卒業論文の主題は6世紀の陳王朝であった。

そのため、「断捨離」がいちばん難しいのが、この中国史関連書籍である。

まず、上記の「正史」。手元にあるのは中華書局から発刊された膨大な分量のものであり、「二十四史」のうち『漢書』から『明史』まで、および『清史稿』が、いくつかの書棚や箱に分散、収納してある。いまでも「えぇっと、○○書の△△伝は...」といった感じで、しばしば引っ張り出して参照している。これらは私がいつか自分の家に居られなくなるときまでは、おそらく手放せないであろう。

『史記』と『資治通鑑』、および史論、訳本、事典類は、一つの書庫にまとめてある(画像)。「断捨離」をするのであれば、こちらの書庫が先ということになる。

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たとえば、「アジア歴史事典」は第一巻の発刊が1959年と、すでに60年を過ぎている。その間に新しい研究がどんどん進み、いまやこの事典の記述は全く時代遅れとなった。また、インターネットの普及により、歴史用語などの専門的知識を手軽に閲覧できる時代にもなっている。

また、史書類は原漢文で読めば良いのだから、訳本を重宝して残しておいても、あまり意味がない(逆に小説類は原文を四苦八苦して読むよりも、「名訳」で読んだほうが面白いので、あえて訳本だけしか買わなかった)。

処分するとしたら、まずこの辺りから始めることになりそうだ。放置しておいても埃が溜まるだけなので、早目に整理を進めたい。

次回へ続く)

2019年5月 7日 (火)

「沖縄独立」は現実的か?

先月、沖縄に駐在する米軍海兵隊の兵士が、別れ話のもつれで、元交際相手の女性(北谷町)を殺害して自殺する事件が起こった。

経過はともあれ、自分のエゴのためにこのような殺人をしでかすのは、ストーカー殺人と変わりなく、たとえ自らも死を選んだとしても、許されない行為だ。まだまだ人生を楽しめたはずなのに、犠牲になって命を落とした女性には、心から哀悼の意を表したい。

さて、この種の事件が起こるたびに、一部の沖縄県民から唱えられるのが、「独立論」である。

ただでさえ、米軍普天間基地の辺野古移設をめぐって、国と沖縄県との反目が深刻になっている。それに加えて、上記のような米軍人や軍属による悪行が頻繁に発生する(なぜか、米軍側による地元への貢献は語られることが著しく少ないが、ま、それはひとまず措くとして...)。それならば、むかし沖縄は独立した「琉球王国」だったのだから、その時代に戻って、日本にも米国にも制約されなくなるのがいちばん良い、と考える人たちが増えるのは、時の勢いかも知れない。

もちろん、どんな政治的な見解を持とうが、一人ひとりの市民の自由である。これには全く異論はない。もし沖縄県で「独立」を支持する県民が多数を占め、日本国政府との穏当な交渉の結果、本当に一つの主権国家としての独立が実現すれば、スコットランド(英国)やカタルーニャ(スペイン)の独立運動と同様、日本国民として認めないわけにはいかないだろう。

しかし、ここで独立論者の人々にお願いしたいことがある。

以下に示す内容について、冷静に考えていただきたいのだ。

以前のエントリーで紹介した地図では、鄧小平政権時代の中国が、どこまでを自国領になる可能性がある地域(正確に言えば、領有権を再議すべき地域)だと考えていたかを示した。これ以降、江沢民政権も、胡錦濤政権も、そして現在の習近平政権も、この主張を明確に取り下げたことは一度もない。以下にその地図を再掲しておこう。

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また、ジャーナリスト松本利秋氏の論考にあるように、海洋進出の障害を取り除きたい中国側から、地政学的に判断した場合、この地域全体が自国領となった場合の利益は大きなものがある。日本中心、沖縄中心ではなく、あくまでも中国を中心としたらどう見えるか? それが重要だ。

この事実を踏まえる限り、沖縄が独立した場合、中国が侵攻してくる可能性は大いにある。では、「独立沖縄国」はどうするのか?

米軍や日本の自衛隊を追い出してしまえば、両国の軍は沖縄を守らない。そして国連軍も出動しない。安保理で議決しようとしても、中国は当然のように拒否権を行使する。人民解放軍が攻めてきた場合、どこの国が沖縄を守るために出動してくれるのか?

自前で領土を守るのであれば、北朝鮮のように徹底的な「先軍政治」の方針を定め、他の用途はそっちのけにして、国費の大半で軍備を整えるのか? いや、それでも巨大な中国には歯が立たないので、急遽核兵器の開発を進め、抑止力として核武装をするのか?

おそらく、独立論者たちにとって、この道は全くの想定外であろう。「平和的に中国と共存する」ことが前提であるに違いない。中世の明王朝の時代には、それが成り立っていたではないか! と。

その場合、課題は三つある。

一つ目は、中世には「海」が障壁になっていたことだ。薩摩藩は島伝いに侵攻して琉球王国を服属させたが、反対側から来ると当時は未開地だった台湾から先島諸島、さらにそこから海を越えて出兵しなければならなかった。宣徳帝が没した(1435)後、内陸的で海に関心をあまり持たなくなった明側からは、面倒な征服事業に手を出す動機には乏しかった。

現代は全く情勢が異なる。中国は周辺諸国を圧して海洋進出を強めており、その海軍力は、沖縄へ侵攻するのに余りある力を有している。海は全く障壁にならないと考えてよい。

独立論者たちは、海に代わる障壁として何を想定しているのだろうか?

二つ目は、中世の琉球王国に対する、明王朝からの位置付けである。尚真王以降の琉球は、自らは「平和国家」でありながら、明に対して馬と硫黄とをおもな輸出品としていた。当然ながら内陸国家になった明王朝としては、この両品は周辺の異民族と戦うための必需品であった。

つまり、「平和国家」琉球王国は「軍需産業」で栄えていたのである。

したがって、「独立沖縄国」が中国からの侵攻を平和的に防止することを考えているのであれば、大々的に軍需産業を振興し、最新鋭の兵器を次々と開発して、人民解放軍のための供給基地となるのが望ましい。と言うより、中世の「平和国家」琉球を再現するとは、結局そういうことなのだ。中国にとって「独立沖縄国」が自国のため最大限の利益を引き出せる存在として位置付けられるのであれば、あえて国際世論に反してまで侵攻はして来ない可能性が強い。

独立論者たちは、郷土が(たとえば、米国ユダヤ系資本などの軍産複合体のような)軍需産業で存立する国になっても差し支えないと考えているのか?

三つ目は、中世の琉球王国の領土は、奄美群島にまで及んでいたことである。

上記の地図で明らかなように、中国はこの史実を踏襲し、奄美群島までが自国領に相当する可能性があるとしている。したがって、中国が「独立沖縄国」と共存していくのであれば、当然のように奄美群島までを同国の領土にすることを求めてくるであろう。同国の「同盟国」となる中国が南東方面へ海洋進出を強めるのであれば、ここを勢力圏にするのとしないのとは大きな違いが生じるからだ(松本氏の論考も参照)。

しかし、奄美群島は近世以来、薩摩藩→鹿児島県の領域である。当然のことながら日本国の領土にほかならない。

独立論者たちは、鹿児島県民をはじめとする日本国民に「奄美群島を割譲せよ」と要求できるのか? できないのであれば、「平和的に共存」しなければならない中国の意向と、どう折り合いを付けるつもりなのか?

この三つの課題に対して、(夢想論ではなく)私を含めた多くの人が納得できる答えが出せるのであれば、どうぞ、堂々と沖縄独立論を展開していただきたい。

(※本稿はあくまでも国を対象にした論評であり、善意の中国国民を個別に嫌悪・批判するものでは決してないことを、お断りしておきます)

2016年4月 8日 (金)

私の海外旅行歴

最近は全く海外旅行へ出かけていないが、私にも過去四回の海外渡航歴がある。

一回目は1983年、中国。大学で指導を受けていた教授のサークルによる企画であり、さらにその教授の師匠である大先生夫妻が代表となっていた20人ほどのグループに拡大させての、もっぱら史跡巡りの旅であった。上海から入り、蘇州、泰安を経て泰山に上り、曲阜の孔子ゆかりの廟堂を見学。さらに再度南下して、江南では南唐国の皇帝陵を巡り、南京で旅の終わりとなった。泰安あたりの村落都市では、現在とは比較にならないほどドメスティックな当時の中国人たちが、私たち外国からの旅行者を珍しいものでも見るように観察していたのが印象的だった。10日間。

二回目は1985年、インド。これは全くの一人旅である。カルカッタから入って近代インド以来の人間のるつぼ状態を経験し、そこから長躯デリーへ移動。西行してラージプート時代の史跡が残るジャイプル、チットールガル、ウダイプルを観光し、アグラでタージ‐マハルを見学、再度デリーに入って中世以来のいくつかの史跡を巡った。旅行中、一再ならずタクシーにつきまとわれ、かなりの金額をぼられてしまったが、それも楽しい旅の思い出である。17日間。

三回目は1988年、米国。職場の研修旅行であった。上司と同僚と3人での渡米。ニュー‐ヨークから入り、前半はワシントンDC、フィラデルフィアなどのナーシングホームを見学する真面目な行程。後半はニュー‐ヨークやボストン市内を観光、バッファロー経由でカナダ側に入国し、ナイアガラの滝を眺め、ニュー‐ヨークに戻った。ユダヤ教徒のためのホーム見学など、こんな機会でもなければなかなか思い立ってもすぐ行くこともできない、貴重な見聞であった。11日間。


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四回目は2001年、南西ヨーロッパである。これも一人旅であるが、おもな目的はカトリック教会への巡礼であった。折しも復活祭に続く時期で、どの国の人たちも活き活きとした表情だったのが印象的だ。

イタリアでは、まずローマで念願のヴァティカン巡礼を果たした後、数日かけてラテラーノ、サンタ‐マリア‐マッジョーレなどの大きな聖堂で祈りを捧げた。ピサの斜塔を見学し、フィレンツェに出向いてドゥオーモを中心とする花の都を満喫。ジェノヴァでは坂の多い街に意外さを感じながら、本場のパスタ‐ジェノヴェーゼを賞味して、西へ。

フランスではプロヴァンスのニース経由で、中世の教皇庁が残るアヴィニョンに数日滞在してお祭り気分を楽しみ、そこからニームやオランジュの古代劇場などの遺跡を見学。ボルドーへ移動してアキテーヌ地方の優しい風景を眺めながら、シャトーのワインで乾杯。

スペインではバスク文化の色濃いパンプローナに足を停めた後、ブルゴスやトレードに入って中世の旧都に思いを馳せた。マドリードを素通り同然にしてセビーリャへ駆け抜け、アンダルシアの香り高い文化に接しながら、信仰厚い人たちが担ぐパソ(聖マリア像を乗せた御輿)を見られる幸運に恵まれた。そこからコルドーバ、さらにグラナーダへ赴き、シエラ‐ネバダを望みながら世にも美しいアルハンブラ宮殿の魅力を心ゆくまで堪能した。最後はマドリードに戻り、森厳なエル‐エスコリアル修道院(上の画像)でハプスブルク朝時代の歴史の重みに触れることができた。最終日にはマドリードのカテドラルで祈りを捧げて、これから始まる新たな仕事への決意を新たにした。実に28日間にわたる旅であった。

それから15年。いま世界の各地で治安が悪化していることを考えると、その前にさまざまな文明の姿を自分の目で見てくることができた私は幸せなのかも知れない。だが他方で、飢餓や貧困、戦乱や暴力に苦しんでいる人たちが数多いことには心を痛める。確かニースに滞在したとき、一歩裏路地に入ると、ホームレスと思しき人たちが路上に寝泊まりしていたのを覚えている。繁栄するリゾート地の影の部分だったのだ。

異なる思想や文化や境遇を持つ人たちが、寛容の心で共生しながら、ともに豊かな生活を送ることができるように、改めて祈りを捧げたい。

2015年6月30日 (火)

歴史上のマイナー王朝(1)

中国古代の史書をひもときたくなり、『南斉書(なんせいしょ)』をめくっている。

「南斉」とは、少しあとの「北斉」と対比した呼び方で、本来の国名は「斉」。中国(漢民族支配地域)の南半分を領有した王朝だが、存続したのは479年から502年。足掛け二十四年の短命王朝で、その存続した時期に限るならば、歴史に名を残すほどの著名な人物も出ていない。

だが、意外にも私が幼少のころ愛読していた世界史の本に載っていた画像に、この南斉の建国者が描かれていたのだ。いまは処分してしまったので、残っていないのだが。

倭の五王、と言えばご存知の方も多いと思う。子ども向きにわかりやすく編集されたその本には、最後に登場する倭王「武(雄略天皇に比定されている)」が南朝の「宋」に送った使節が、宋の皇帝=順帝(じゅんてい)に謁見する場面の絵が描かれていた。その順帝のすぐ下段に、順帝より偉そうな顔をした年輩のヒゲ男が立っていた。

その人の名は蕭道成(しょうどうせい)。このとき、すでに宋の政治の全権を握っており、倭王武の使節をもてなしたのも、実質的にはこの人物であった。ほどなく順帝を廃位した蕭道成は、皇帝に即位して南斉の高帝(こうてい。位479-482)となる。

自分が中国古代史に興味を持ったのは、中学生のときだったが、高校生ぐらいになって、そのボロボロの本を取り出してみて、皇帝よりも偉そうな男が次の王朝の開祖なのだと、ようやくわかったものだ。倭王武の使節も、「宰相の蕭道成に徳があって偉大だから、遠方の国がわざわざ使者を遣わしたのだ」といった権威づけに利用されたろう。

建国してからの南斉王朝、前期の十三年は平穏だったものの、後期の十一年は、宗室(皇族)や大臣の殺し合いが絶えず、蕭氏の遠い一族である蕭衍(しょうえん)に取って代わられてしまった。この蕭衍が梁(りょう)の武帝であり、以後半世紀近く江南を統治する人物である。

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しかし、梁代に活躍する政治家や文人たちは、実は南斉時代、蕭子良(しょうしりょう。460-494。高帝の孫)のサロンに集まり、文化的センスを養われた人物が少なくない。上の画像は「竟陵王〔蕭〕子良伝」の冒頭部分。蕭衍をはじめ、范雲(はんうん)、沈約(しんやく)、任昉(じんぼう)など、みなこのサロン育ちである。この蕭子良の没後、南斉王朝は内部崩壊してしまったが、その後継者たちが六世紀前半に、南朝の仏教文化を花開かせたのだ。

歴史上はマイナーな存在であっても、形を変えて影響を残した王朝が散見される。機会を見て、そういった王朝の歴史をたどってみたい。

2014年1月23日 (木)

介護業界の「酔虎伝」?

18日から19日にかけて、豊川で新年会がありました。介護業界「野」のネットワークでは取りまとめ役の一人である、桂(けい)さん(男性。過去、浜松でも仕事をされていました)のコーディネートで、気の置けない人たちがお酒と食卓を囲んでのひととき。私はこの中の数人の方とは以前から知り合いでしたが、東西から20人近くが集まった中に入ったのは初めてです。

私が驚いたのはそのネットワークの広さ。東は福島県、西は福岡県。その間では茨城県、千葉県、埼玉県、神奈川県、長野県、愛知県、静岡県。かつて、「独立・中立型介護支援専門員」の集まりでは、さらに多くの都道府県から同志が集まったことはありましたが、それとは異なる形で、このようなオフ会がときどき持たれていることには、素直に感激しました。

また、集まった人たちも、兼任CMさん(男性)、じむちょさん(男性)、きたさん(女性)、しゅうさん(女性)、じぇいさん(女性)、成(しげ)さん(男性)、さらに「熊さん(女性)」「施(せ)さん(男性)」と呼ばれる強大な豪傑まで集合し、それぞれHNで呼び合う光景は、さながら水滸伝の豪傑がそろったかのような雰囲気も・・・。まさに梁山泊の豪傑たちが外号(あだ名・通称)で呼び合ったのと同じ情景で、壮観でした。

そのとき、川崎でもアローチャートの実践研究会の人たちを中心に、新年会が開かれていました。そこで私は、豊川の会場から川崎のメンバーの一人、gitanistさんの携帯へ電話して、東西で交歓し合う場面まで実現。

水滸伝ならぬ「酔虎伝」だったかも知れません。それでも明日の活力のためには、こういう場が必要なことは間違いありません。バーンアウトしないためにも、良き仲間とめぐり逢い、思いを分かち合っていくことの大切さを、身にしみて感じた二日間でした。

2013年1月17日 (木)

二十四史の面白さ(4)

『後漢書』は南朝宋時代の范曄(398-445)撰ですが、歴代正史の中でも、面白さという点では一、二を争うものでしょう。

この書の魅力をいくつか掲げてみましょう。

・東漢(後漢)から魏・晉を経て、三代あとの宋王朝の時代に著述しているため、前王朝時代の有力氏族からの制約を受けることなく、自由な立場で記述している。

・男性優位の古代中国社会にあって、巻10「皇后紀」(正史での皇后の扱いは、通常は皇帝と同じ「紀」ではなく、一般人と同じ「伝」)や、巻84「列女伝」(再婚した蔡文姫の伝を載せている)など、女性の待遇に意を配っている。

・各列伝の本文では、エピソードを巧みに交えながら人物の生のままを活写し、論賛では、登場人物の人間としての生きざまを個性的な視点から評価している。

・巻82「方術列伝」、巻83「逸民列伝」など、政事にこだわらない世界にあこがれた六朝の人士好みの題材を、充実させた編集がなされている。

こういうところでしょうか。単にエピソードの面白さだけであれば、『晉書』もこれに匹敵しますが、作品全体の豊かさや潤いということになると、『後漢書』のほうが明らかに勝っています。たいへん味わい深い史書だと言うことができます。

2013年1月 9日 (水)

二十四史の面白さ(3)

中国の正史のうち、「表」が存在するのは、はじめの『史記』と『漢書』、そのあとは、『新唐書』以後のものになります。途中の魏晉南北朝時代の正史には、「表」が含まれていません。

「表」は基本的に、宗室(皇族)の系譜や、大臣の任免など、客観的な事実経過を表にすることにより、「紀」「伝」を理解する一助になるものです。したがって、原則として、撰者の主観が入るということはありません。

ところが、例外なのは『漢書』の「古今人表」です。これには天地開闢から漢の建国当時に至るまでの歴代の人物を、「上の上」から「下の下」までの九段に分けて掲載してあるのですが、この九段の分け方は、もっぱら撰者である班固の主観によるものです。そのため、後世の史家からは、この人はもっと上だ、この人はもっと下だというような批判が、いろいろと寄せられています。

しかし、堅苦しい古代中国の史書の中で、こういう個性的な部分が垣間見えるのが、古代史学の中でも、一つの面白い部分なのでしょう。

2012年12月16日 (日)

二十四史の面白さ(2)

二十四史は、通史と断代史との二種類に分類されます。複数の王朝を縦断して記述した史書が通史であり、一つの王朝だけを区切って記述した史書が断代史です。『史記』『南史』『北史』『旧五代史』『新五代史』が通史であり、他は断代史となります。

また、成立事情はそれぞれ異なりますが、南北朝から五代までは、同じ時代を扱った史書が二つずつ並立しています。『宋書』『南斉書』『梁書』『陳書』と『南史』、『魏書』『北斉書』『周書』『隋書』と『北史』、『旧唐書』と『新唐書』、『旧五代史』と『新五代史』という具合です。特に、先に書かれたほうでは王朝滅亡から近過ぎたため、権力者に遠慮して記載できなかったことを、あとから書かれたほうには記載されている事実もあり、両者を比較することが貴重な史料批判、考証となっています。

分裂時代については、史書によって記載方法が異なります。

『三国志』では魏の君主が正式な「皇帝」とされながら、現実には蜀漢と呉とがそれぞれ対等の王朝として記載されています。

『晉書』には五胡十六国が巻末に「載記」としてまとめられています。

南北朝時代の正史は、分裂していたそれぞれの王朝ごとに編集されています。

『旧五代史』には地方政権である十国が「世襲列伝」「僭偽列伝」の中に記載されていますが、『新五代史』の場合は諸侯の伝記に当たる「世家」としてまとめられています。

10世紀にタングート族が建国した「夏(西夏)」の歴史は、同時代の『宋史』『遼史』『金史』中の「列伝」として記載されており、独立の正史は作られていません。

2012年12月 8日 (土)

二十四史の面白さ(1)

いま、政治的には日本と中国とが難しい局面を迎えていますが、私自身は学生時代に中国古代史を専攻しており、いまでも史書を読んだり訳したりするのが趣味の一つになっています。政治的な問題はひとまず措いて、史書について少し述べてみましょう。

有名な司馬遷の『史記』以来、中国では歴代王朝の史書が整えられてきました。上代から明の時代まで、すべて二十四の「正史」が存在しますので、これを「二十四史」と呼びます(中華民国で編纂された『新元史』を含めて「二十五史」とすることもあります。また同じく民国で編纂された『清史稿』は数に含めません)。

この「二十四史」はいずれも「紀伝体」という形を採っています。歴代皇帝の事績と総合年表を兼ねた「本紀」と、宗室(皇族)や臣民の伝記である「列伝」とを基本とした史書の記述形態です。これに対し、『春秋左氏伝』や『資治通鑑』などの記述形態は、登場人物ごとにまとめるのではなく、年月順にまとめて起こった事件を記録しており、「編年体」と呼ばれます。

この「二十四史」に含まれる各史書の成り立ちはさまざまです。『後漢書』『三国志』のように私的に編纂された史書が後日「正史」に列せられたもの、『漢書』のように公的な立場にある人が著述した史書が「正史」とされたもの、『晉書』のように最初から国家により選任されたスタッフが編纂したものなどに分類されます。あとの分類のものほど、官製史書の性格が濃くなります。

また、これらの史書は、『史記』を除けば、王朝が滅びてから後代の史家が著述・編纂したものです。そのため、著述・編纂当時の王朝が、記述対象である王朝をどのように位置づけていたかによって、質的に左右されるものでした。

それでは、何回かのエントリーに分け、私が具体的に感じている「二十四史」の面白さについて、いくつか触れてみましょう。

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