日本史

2016年10月17日 (月)

藩名の呼び方

江戸時代の大名領のことを「藩」と呼ぶ。とは言え、公文書で正式に「藩」が用いられたのは、1869(明治2)年であるから、さかのぼって大名領の公称として使われているものだ。非公式には江戸時代中期からしばしば用いられていたので、いわば追認された形である。

藩の呼び方は、原則として城地の名称である。浜松城を居城とする藩は浜松藩、掛川城を居城とする藩は掛川藩である。一国一城制であるから、基本はこの呼称で差し支えない。

しかし、この原則に当てはまらない例外的な呼称をされる藩が、いくつか存在する。

(1)国の名称で呼ばれる藩。一国以上の広い領地を支配;

・尾張藩(=名古屋藩/徳川家)
・紀伊藩(=和歌山藩/徳川家)
・加賀藩(=金沢藩/前田家)
・薩摩藩(=鹿児島藩/島津家)
・長州藩(=長門萩藩→周防山口藩/毛利家)
・土佐藩(=高知藩/山内家)
・対馬藩(=対馬府中藩→厳原藩/宗家)

(2)地域の名称で呼ばれる藩。東北で比較的広域を支配;

・会津藩(=陸奥会津若松藩/保科松平家)
・秋田藩(=出羽久保田藩/佐竹家)
・庄内藩(=出羽鶴岡藩→大泉藩/酒井家)

(3)家名で呼ばれる藩。地生えの旧族大名;

・南部藩(=陸奥盛岡藩)
・津軽藩(=陸奥弘前藩)
・相馬藩(=陸奥中村藩)
・諏訪藩(=信濃高島藩)
・五島藩(=肥前福江藩)
・松前藩(=蝦夷地福山藩→館藩)

他の藩の中にも(1)(2)(3)のように呼称されるものがある。たとえば岡山藩のことを備前藩とも呼ぶが、備中国にも領地があったことや、岡山が絶対的な政治面の中心地であったことなどから、後者はあまり一般的ではない。また佐賀藩のことを肥前藩とも呼ぶが、肥前国には他にもいくつかの藩があることから、明治の藩閥「肥前閥」を指す呼称に限定されることが多い。

さらに、例外中の例外として、下記のものがある。

(4)明治になって呼称だけ認められた藩;

・武生藩(=越前府中領) 福井松平家の筆頭家老で府中城主であった本多家は、江戸初期には御三家の付家老同様、大名に準ずる扱いを受けていたが、松平家の家格が降下したのに伴い、普通の大大名の家老より少し格上(江戸屋敷を構えていた)程度となっていた。明治に入り、御三家の付家老五家は大名となって、廃藩置県後も華族に列せられたのに比べ、本多家は士族の扱いとなったため、旧家臣たちが新政府に抗議して暴動を起こし、十人以上が刑死・獄死するに至った。しかし、この抗議が奏功して、本多家は「武生藩主」に追認され、男爵を授けられた。したがって、名称だけの「武生藩」はあっても、江戸時代に「越前府中藩」は存在しなかったのである。

このように、藩の名称一つ取ってみても、なかなか興味深い。また、明治に入ってから、同じ名前の藩がある場合には片方が改名させられているため(例;丹後田辺藩→舞鶴藩)、廃藩置県当時の藩名は、伝統的な城地の名称と異なるものが多かったことも、付け加えておこう。

(「琉球藩」は成立の経過が全く異なるため、ここでは触れなかった)

2016年10月 8日 (土)

大きな転換期

私がケアマネジャーとして開業15年、一つの大きな転換期を迎えたと言うことができる。その節目として、10月1日に、自分自身の「記念のつどい」を企画・開催してみた。

これはクローズ企画であり、お声掛けした方は全部で280名ほど。そのうち、来場してくださった方は、北は福島県、南は宮崎県まで14都府県に及び、全部で62名。うち研修会が58名、懇親会が48名(大部分は重複)であった。62名の内訳は、静岡県内が32名、県外が30名。4割以上が県外の方であり、その多くは泊まり掛けで遠路浜松までお越しくださった。

著名な論者でも学識経験者でもない、一人のケアマネジャーである私が開催した、事実上の個人企画に、これだけの方々がお集まりくださったことには、ただただ感謝・感激するばかりだ。

半年前から少しずつ準備を重ね、十日ほど前からは多忙な日々が続いたが、当日になると快い緊張感で満たされていた。講義や講演などにときどき呼んでいただくうちに、大きな節目に当たっても自分のコンディションを整えるすべを身に付けたと言うことか。とは言え、当日の運営は一人で難しかったことは確かであり、従妹夫妻と、厚有出版の社長・編集担当者(著書の販売も兼ねて)とが応援に来てくれたのは、とても助かった。

午後の企画は、14時からクリエート浜松で開催。冒頭のあいさつ、ご祝辞、ご祝電披露と、まずはセレモニーから。

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研修会前半は、記念講演と称して一時間半、独演会をやらせていただいた。ここでしか話せない内容を満載して、数発のダジャレを散りばめたのはもちろんのこと、「水戸黄門」を全く異なるコンテクストで4回登場させ(いばらき福祉研究会の小林和広さんや北野さんのお顔を立てて...)、さらに放送禁止用語(?)にまで言及。会場では何人かの方に振ってご意見を求める部分もあり、結果は10分ほど延長してしまったが、歯に衣着せぬ話を洗いざらいしゃべらせていただき、実に爽快であった。

後半はシンポジウム。私の著書にちなんで「これでいいのか? 日本の介護」が主題。コーディネーターが石田英一郎さん(アシストケアプランセンター昭島・取締役)、シンポジストが佐々木香織さん(あるぷすヘルパーステーション管理者/相馬市)と稲岡錠二さん(北丹後福祉会 在宅介護課長/京丹後市)。お名前を見る限りでは介護業界「イロモノ隊」の観が強いが、もちろん内容は真面目な話である。特に丹後や相馬の介護現場をめぐる状況は、ナマで聴ける機会に乏しいだけに、浜松からの参加者にとっても学びになったようだ。

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夜、18時からは、場所をハートランドに移して懇親会。古井慶治さん(ふるい後見事務所所長・社会福祉士/静岡市)による乾杯の音頭でスタート。

この懇親会は「融和」「友愛」をテーマにしたつもりだが、それだけに事前の準備はかなり周到に行った。参加申込は前日の夕方に締め切ってFacebookでも通告、さらにFacebookを見ていない浜松周辺の方で、当日飛び入り可能だと誤解している人がいないか、可能性のある人たち全員に、前夜のうちに電話を掛け、来場されるかされないかの最終確認をした。主張の隔たりが大き過ぎる人同士や、齟齬が生じてしまった人同士などが、最初は同じテーブルにならないように、また私の関係者の輪に初めて参加する人が孤立しないように、また男性だけ・女性だけにならないように、眠気を我慢しながら(笑)約一時間かけて作業して、テーブルの配置を決めたのである。

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その上で参加者のみなさんに、宴が始まってからは自由に行き来していただき、有意義な交歓の場にしてくださるようにお願いした。結果として、初対面ながら会話が盛り上がったり、距離を置いていた人同士が仲直りしたりと、良い成果を上げられた二時間になったかと、勝手に(笑)自画自賛している。

途中で3~4回、「ライジングポーズ」でカメラに収まった記憶がある。下の画像はちょっと暗めに写っているが、関西アホ仲間+関東の〇〇〇〇仲間で。向かって私の左下、岡肇也(としや)さん(会社で高齢者施設入居案内を担当され、お仕事は東京都内)と、右下で稲岡さんに虐待されている(?)幸地伸哉(こうち しんや)さん(グローバルウォーク代表取締役)とは、著書「これでいいのか...」の第12章にも登場いただいた。私の左隣が過去エントリーに登場された小田原貴之さん(医療機関併設居宅のケアマネジャー/明石市)、一番左が白井法子さん(レインボー西宮=グループホーム・デイサービス等=施設長)。右隣は高阪史生(たかさか ふみお)さん(ウェルソル株式会社代表取締役=介護・福祉関係の人材・企画のコーディネートを実践/渋谷区)である。

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実は、つい先月11日、オペラ鑑賞の後で夕食をご一緒したのが岡さんだったのだ。介護業界から少し離れた立場にあって、課題をズバッと指摘してくださる、数少ない貴重な仲間である。その前、8月にはサッカー観戦の目的で浜松に来訪された小田原さんとも昼食をご一緒して、地域事情について情報交換するなど、私も人と語る機会を大切にしてきた。

最後は関西中堅経営者の重鎮、幸地さんの締めで閉幕。

散会後、お決まりのラー店へ。会場界隈でイチ押しの「細麺三太」が若い人たちに人気があるため、土曜日の夜は厳しいかな、と思っていたが、意外にも12人が一緒に入店できた。従妹夫妻は別の席を選んだので、「ナントカ仲間(?)」7人に、齋藤由美さん(オフィスそら/宮崎市)+松田智之さん(秦野福祉会)+次田(つくだ)芳尚さん(介護支援サービス)らの社長仲間を加えてテーブルを囲む。

向かって私の左隣が次田さんで、介護支援専門員の資格を持ちながら、介護現場とITとを結び付けるお仕事をされている。その対面側手前が松田さんであり、NPO法人で複数のケアマネジャーとともに独立型居宅を運営、厚労省の介護保険部会も傍聴してFB友達にアウトラインを伝えてくださっている。昨年航空自衛隊のエアフェスタで来浜された斎藤さんは、今年はお仕事の関係でエアフェスタのほうを断念されるとのこと。

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ご用事の関係で明朝早く戻らなければならない方もいらっしゃったが、多くは浜松の観光を楽しんでから帰宅されたようだ。ただし意外にも、NHK大河で盛り上がっている奥浜名湖のほうへ行かれた方はほとんどなかったらしい。行くと結構時間がかかるので、ゆっくり回りたいのならば機会を改めてのほうが良いのかも知れない。

さて、以前のエントリーでも指摘したが、若いリーダーが主導するものに限らず、介護・福祉業界の団体・企画には限界が見られる。特別な人以外は脇役にされたり、参加に不便な人が主流から取り残されたり、といったような。確かに一つ一つの団体や企画にはすばらしいものがあるのだが、「自分」「自組織」「自前組織」の意識が強いと、なかなか悪循環から抜け出すことが難しい。私自身、独立・中立型介護支援専門員全国協議会を運営してきた際の失敗を、記念講演では正直に告白した。

そこで、今回、私が提唱したのは「次郎長サロン(仮称)」。エラそうな名称だが、もちろん私が業界の清水次郎長を演じようということでは決してない。そもそも、そんな力もない。

社会保障が大きく後退しようとしている節目に当たって、介護・福祉業界全体の「融和」「協調」「大同団結」をテーマにした「場」を作ることができないだろうか? ということだ。これまで結びつきが希薄だった、接点に乏しかった人たちをつなぐ。また、見解の溝が埋まらずに袂を分かったり、不快な行動や態度を取られて反目したり、共感できずに接点を避けたりといった、負の関係にある人たちの和解を図っていく。このようなことができれば、私たちの業界に大きな果実をもたらすのではないだろうか。

そのためには、自意識が強過ぎるとうまくいかない。常に一歩引きながら、全体をコーディネートしていく力が必要になる。不器用な私一人では到底実現できないことだが、上述の白井さんや高阪さんのような、人と人とを結び付ける橋渡しに長けた方々をはじめ、多くの方々の協力を得られれば、決して不可能ではない。

今回、前半で私の言いたいことを言わせていただき、研修会後半や懇親会では、「次郎長サロン(仮称)」の試みの第一歩を踏み出した形だ。幸い、多くの参加者から好意的に受け取っていただけたようなので、次の一歩をどう進めるのか、参加された方もされなかった方も合わせて、みなさんのお知恵をお借りしたい次第だ。

自分から動き、信じて前へ進み、希望を捨てない!

これからの道を、そのように歩みたいと考えている。

2016年4月17日 (日)

前近代の天皇の呼び名

まず、このたびの熊本地震で亡くなられた方々の、永遠の安息を心からお祈り申し上げたい。合わせて、ご遺族の方々に慰めと励ましとがもたらされることをお祈りする。

今後は、自衛隊や警察・消防、地元行政機関の健闘により、少しでも早く被災者の方々に必要な物資が届けられること、被害を受けたライフラインが復旧することを期待する。私も顧客を抱えて一人親方で仕事をしている人間であるため、いますぐアクティブな行動ができるわけではないが、いずれ事態が落ち着いたらボランティアの方々が現地へ向かわれると思うので、貧者の一灯ながら必要経費へのわずかばかりの応援だけでもしたいと考えている。

また、この地震を受けて天皇・皇后両陛下が、15日に予定されていた静岡県訪問を取りやめられて、宮内庁を通してお見舞いのお言葉を述べられた。いつも困難に直面している人たちを最優先にお考えになることには、心から敬服申し上げたい。

さて、このことから思い付いたわけではないのだが、以前からエントリーしようと思っていた内容があるので、きょうは披露してみよう。

それは、前近代の歴代天皇の「呼び名(諡号・追号)」についてである。

ひとまとめにして「呼び名」と言うが、諡号と追号とは異なる。また諡号にも、古代の天皇に使い分けられた和風諡号と漢風諡号とがある。たとえば天智天皇であれば、「天智」が漢風諡号、「天命開別尊(あめみことひらかすわけのみこと)」が和風諡号に当たる。中世以降、天皇に和風諡号は使われなくなった。

他方、追号は諡号に代わるものとして、天皇の呼び名に使われた。その最初は滞在地にちなんで追号された平城天皇(位806-809)であり、宇多天皇(位887-897)以後は特別な例外を除き、追号のほうが主流を占め、さらに冷泉天皇(位967-969)以後は、「冷泉院」と「院号」で呼ばれることが一般的になった。

そして、後一条天皇(位1016-36)に至って、初めて「加後号」が登場する。過去の天皇と邸宅や居住地、置かれた立場などが類似している場合、いわば「○○天皇の二代目」だとして「後○○院(天皇)」と追号するのである。この選定は本人の遺志によることもあり、特に「後醍醐天皇(位1318-31、1333-39)」「後村上天皇(位1339-68)」は延喜・天暦の治を再現するとの理想を掲げ、生前に自ら平安朝の「醍醐天皇」「村上天皇」の二代目を公称していた。

この「加後号」、私も少年時には「後深草天皇(位1246-59)」以降の何人かの天皇の追号に戸惑っていた。「後」と言いながら、一代目の人がいないのだ。しかし高校生の頃になってようやくその謎が解けた。「深草帝(ふかくさのみかど)」は「仁明天皇」の別名だったのである。同様に、「後小松天皇(位1382-92)」は「小松帝(こまつのみかど)=光孝天皇」の二代目、「後柏原天皇(位1500-26)」は「柏原帝(かしわばらのみかど)=桓武天皇」の二代目、「後奈良天皇(位1526-57)」は「奈良帝(ならのみかど)=平城天皇」の二代目、「後水尾天皇(位1611-29)」は「水尾帝(みずのおのみかど)=清和天皇」の二代目という形になる。

わかりにくいのが「後西天皇(位1654-63)」。平安朝の淳和天皇のことを「西院帝(さいいんのみかど)」と別称したので、その二代目として「後西院(ごさいいん)」と追号されたのだが、大正時代に「院」の呼称を廃止して、すべて「天皇」に統一してしまったため、「ごさいてんのう」という座りの悪い追号にされてしまった。お気の毒であるが^^;

現代の天皇陛下が、業績にかかわらず元号をもって追号とされるのは、意図的な政治色を避ける意味では望ましいことかも知れない。なお、歴代の皇后陛下のほうは「漢風諡号」が復活して、明治天皇の「昭憲皇后」、大正天皇の「貞明皇后」、昭和天皇の「香淳皇后」と続いているのも、興味深いことだ。

2016年3月30日 (水)

地方史を読む

最近は全く増えていないが、私の自宅には結構な数量の蔵書がある。自分の趣味関係で、歴史ものが圧倒的に多い。ただし、カトリック教会に関するものを含め、古代から近世にかけてのものが大部分で、近現代史に関する蔵書は少ない。

国史では中世・近世大名の家や藩に関するものが多い。カテゴリーで分類すれば「地方史」ということになる。藩主や補佐役などの人物伝を中心に、その種の書籍が書棚に埋まっている。

家(藩)別に分類すると、多い順に下記のようになる。史料・研究書(単行本・新書等)・論説・随筆等の一般書をすべて含めた数字である。上中下など分冊になっているものは、合わせて1冊と数えた。

(1)上杉家・米沢藩関係 9冊
(2)毛利家・長州藩関係 5冊
   伊達家・仙台藩関係 5冊
(4)島津家・薩摩藩関係 4冊
(5)佐竹家・秋田藩関係  3冊
   保科松平家・会津藩関係 3冊

その他は2冊以下である。なお、一大名ではないが、徳川一門関係は上記の保科松平家を含め、全部合わせると20冊近くになる。また、足利一門(細川・最上等は除く)関係は、江戸時代の喜連川家について書いたものまで含めると3冊あるので、「同率5位」となる。

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上杉家関係が多いのは、私が上杉鷹山(=治憲。1751-1822)を尊敬しており、関連書籍を多く求めたことによるものだ。個人的には直江兼続も好きな人物の一人である。

伊達・毛利・島津・佐竹は、戦国時代の有力大名、江戸時代の外様大藩である。それぞれ織田・豊臣・徳川のいずれかの政権によって身代の縮小を余儀なくされながら、近世大名として脱皮して地方文化を花開かせた。その歴史の中では、重臣群の入れ替えがあり、お家騒動の克服があり、財政再建があり、いくつもの難局に遭遇しながら、どの藩も大所帯を切り盛りして江戸期を生き抜いてきたのである。

私たちはこのような歴史を鑑としながら、現代の地方自治体や各業界のあり方を考えていく必要があろう。時代によってスタイルは異なっても、人が行うまつりごとに違いはない。当時の人たちの知恵には学ぶべきであろうし、応用できる手法は決して少なくないからだ。

また、人物の評伝を比較参照しながら読みたい方には、故・海音寺潮五郎や井沢元彦氏などの、洞察力に優れた作家が書いたノンフィクションをお勧めしたい。

2015年5月26日 (火)

いまこそ連帯を!

史書をひも解くのが好きな私は、20~30代のとき、国内の各地にある図書館や文書館を回り、その地を統治した武家の系譜を中心に、さまざまな史料を閲覧し、筆写してきた。

その一つ。どこで入手したか記憶がないが、私の手元に万延元(1860)年の水戸藩徳川家分限帳の写しがある。家柄家老である中山・山野辺・鈴木の三家の次に、仕置家老に相当する「用達」12人の名が記されており、その末席に「武田修理 五百石」とある。水戸の幕末史に名を馳せた武田耕雲斎(=正生。1803-65)のことだ。

「武田」の苗字は、ひたちなか市の勝田にある地名。同市の玄関口であるJR勝田駅が立地する場所である。常陸源氏の一つの流派である武田一族は、事情あって常陸から甲斐へ移り住み、土着して甲斐源氏となり、武田の家名を確立、戦国時代には武田信玄(=晴信)が信濃・駿河まで領有して大勢力となったが、次代の武田勝頼は織田・徳川連合軍に敗れて滅亡した。

その滅亡のきっかけを作った、武田一族で守護代家の跡部勝資は、後代、裏切り者の悪人とされて貶められた。跡部家一門で水戸藩に仕えた家があり、末裔がこの耕雲斎である。彼は跡部の苗字が蔑まれることを嫌い、藩主・徳川斉昭に登用された際に、願い出て苗字を武田に改めた。水戸藩の初代藩主が藩祖・徳川頼房の兄、武田信吉(穴山家を継いで武田の宗家となっていた)であったため、武田の苗字を無断で名乗ることは許されなかったからである。

耕雲斎は斉昭の信任を受けて政務に参画したが、斉昭の死後失脚する。その後、過激な尊王攘夷を唱える天狗党が、藤田小四郎(1842-65)を指導者として反乱を起こしたため、耕雲斎はこれを沈静化させようと説得するが、小四郎らは聞き入れずに那珂湊へ集結し、別の勢力を率いて近傍に布陣していた耕雲斎も、幕府の討伐軍や、藩の保守派である諸生党から、天狗党の与党であると見なされてしまった。

小四郎に推されて、やむを得ず天狗党の首領となった耕雲斎は、小四郎らとともに幕府軍や諸生党と戦ったが、那珂湊で大敗して多くの有能な志士たちを失い、逃れて中山道を進軍し、北陸に至る。鯖江藩や越前府中藩の討伐を受けてついに投降、耕雲斎も小四郎も敦賀で処刑され、首は那珂湊にさらされた。

さらに、耕雲斎の孫で助命された武田金次郎たちは、明治維新で水戸藩に戻ると、こんどは官軍の力を背景に、諸生党を徹底的に弾圧し、主要な人物を処刑しまくった。これらのたび重なる争乱により、水戸藩の人材はすっかり枯渇してしまった。明治政府がせっかく、勤王の功績が大きかった水戸藩から人材を登用しようとしても、「薩摩警部に水戸巡査」と揶揄されたごとく、高官に抜擢できる人間がほとんど残っていなかったのである。

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5月21日、このような悲劇の歴史を秘めたひたちなか市で、同市の介護サービス事業者連絡協議会からお招きをいただき、「口のきき方で介護を変える!」をテーマとして講演を行った。

一通り話を終えた後、「那珂湊の悲劇を再現しないでください。いまは殺し合いこそ無いにしても、足の引っ張り合いが原因で多くの人材が介護業界を去って行くことがないように、市民の皆さんのため、業界が結束してください」と述べた。

また、役員さんたちとの懇親の席(画像。向かって私の左が会長の伊藤さん、右が副会長の本多さん、女性二人の後ろが事務局長の鹿志村さんである)において、同市では地域支援事業の委託をめぐって、行政との折衝が難しい場面を迎えていると聞いたので、ぜひ先進的なモデルを確立して、私たちにも情報を教えていただきたい旨をお願いしておいた。

翌22日、帰路途中の東京で、小規模多機能型居宅介護事業所・ユアハウス弥生を表敬訪問(画像は同所の本社側の事務所)。

所長(社長後継)の飯塚裕久さんと、今後の業界のあり方についてしばし面談。「2015年を笑って迎えられるために」どうすべきか、意見交換。ここでも、「それぞれ自分の事業所、業種などの利害はあるかも知れないが、いまや垣根を越えて手を携えていく時代」との私の意見をお伝えして、飯塚さんも大枠で理解してくださったと思う。

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辞去する際に、「未来を創る介護カフェ」主催者の高瀬さんとすれ違い、一言ごあいさつ。飯塚さんたちの多彩な交友範囲を実感するとともに、今後のネットワークの広がりを予感させる一幕だったような。

振り返ると、この27年度改定は大きな節目であった。長年、歯を食いしばって介護業界でがんばってきたにもかかわらず、報われない人たちは、がまんの限界に達している。いまここに来て、倒れる者、去る者が相次いでいる昨今の情勢なのだ。多くの法人が目先の利害を最優先にしてきた結果である。もはや、自分、自事業所の利害だけで動いている業界人は、いずれ自分自身が窮地に陥ったとき、誰からも手を差し伸べてもらえない羽目になるであろう。

そうならないためにも、私たちは地域で、さらにこの国で、同じ仕事に勤しむ仲間たちと共存していくことを旨としたいのである。

いまこそ連帯を! と改めて強く感じた二日間であった。

2015年3月17日 (火)

岐阜城、安土城、そして・・・

確か、井沢元彦氏の著書だったはずだが、「織田信長がもし横死しなかったら、豊臣秀吉同様に、大坂(いまの大阪)を居城にしていただろう」との論評を読んだ。

私も全く同感だ。信長ほどの人物が、石山本願寺の立地条件と広域的な経済の利便性に注目しないはずはない。彼の戦略眼からすれば、安土城の次は大坂に築城していた可能性が極めて高い。

問題はその城の名称だ。

岐阜城はもともと稲葉山城と称されていた。信長が美濃を征服した後、周辺に「岐阜」の地名があるのを知って、城の名前にした。古代中国・周の文王が「岐山」を拠点にして勢力を広げ、息子の武王の代に殷を滅ぼして天下を取った故事に基づくものだ。

いわば、「天下を取りに行く城」の意味である。この解釈を、私は故・海音寺潮五郎氏の著作で読んだ。

安土城はもともと目加田城と称されており、信長が全面的に新しい城を新築した。「安土」の地名を城の名前にした理由は、「平安京」に対抗する「平安楽土」の略称である。

すなわち、「天下を分け合う城」の意味となる。この解釈は(たぶん)井沢氏によるものだ。

では、大坂城はどうだろうか? 私の知る限り、「信長がこの地をどう名付けたか?」について、まだ誰も言及していないようだ。

しかし、自ら神格化を目指した信長は、いずれ天皇家を圧伏しようとしていたことは確かである。彼の横死によって、それがどのような構想だったのかは歴史の彼方に埋もれてしまったが、生前の意図は明瞭であろうと思われる。だとすれば、大坂に城を築くときの命名方法は・・・、

「天下を取って自分が(天皇家を差し置いて)君臨する城」を意味する命名しか考えられない。

したがって、城の名称の候補はただ一つ。

「今宮城」である。

歴史がそのように展開しなかったことが、日本人にとって幸か不幸か知りようがない。何百年も前に過ぎ去った、大いなるロマンの幻影かも知れない。

※すでに井沢氏かどなたかが、私より先に「今宮城」の説を唱えておられるのをご存知の方は、ご指摘いただけると幸いです。その場合は「遼東の豕(自分がオリジナルだと思い込んでしまうこと)」の批判に甘んじますので(^^;)

2014年2月11日 (火)

「裁判」の語源は長州藩から

全国共通の用語としてごく普通に使用している言葉の語源が、実はローカルな言葉だった、というのはよくあることですが、三権の一つ、司法の根幹部分に位置する言葉がそれに該当するのだと言えば、意外に思われる向きもあるのではないでしょうか?

その言葉とは、「裁判」。

語源は「宰判(さいばん)」で、江戸時代の長州藩(=萩藩。毛利家)における地方行政区画の呼称です。関ヶ原の戦で石田三成側に与した毛利家が、徳川家康によって周防・長門の二国(いまの山口県)のみに減封されたのが1600(慶長5)年。それから半世紀後の1650(慶安3)年には、すでに「宰判」の行政区分が機能していました。

その後、江戸時代を通じて多少の異動がありましたが、幕末の長州藩には4末家(支藩のこと。長府・徳山・清末・岩国)および18宰判が存在し、合わせて22の行政単位に区分されていました。この規模は古来の「郡」または郡を2~3に分割した広さに当たります。

さて、長州藩は薩摩藩(島津家)とともに明治維新の主力になりましたが、明治新政府は1868(明治元)年、大阪・兵庫など全国12箇所に「裁判所」を設置しました。これは旧幕領(諸藩に属さない直轄地)を統治するために新設された機関であり、長州藩の「宰判」における代官の駐在地「宰判所」の語を転用したものでした。その年のうちに「府藩県三治制」が施行されたため、行政機関としての「裁判所」は姿を消しましたが、1871(明治4)年に至り、司法省のもとで東京裁判所が設置され、司法権力を行使する機関に姿を変えた「裁判所」が復活しました。これが現代の裁判所の起源になっているのです。

ですから、英語trialの訳語としての「裁判」も、裁判所が行う拘束力を持つ判定として、用語が定められ、定着したものであり、言葉の流れをたどれば、「宰判」→「宰判所」→「裁判所」→「裁判」ということになるのでしょうか。

こんな具合に、制度上定着している用語の発祥地を尋ねてみるのも、興味深いことです。

2013年11月11日 (月)

どこまでが「親戚」?

総務大臣だった鳩山邦夫氏が三年ほど前に、自分のことを「坂本龍馬の親戚」と発言して話題になりましたが、当の龍馬側の身内(龍馬の姉の子孫)からは反発を受けたようです。

さて、歴史上の著名人の真正な「子孫」ならともかく、何か係累を誇ろうとすると、「親戚」を振りかざす人たちがときどき見られるのですが、いったいどこまでが「親戚」の許容範囲なのでしょう? 鳩山氏と龍馬とは、間に二家族をはさんでいます。これでも華やかな閨閥の世界では、「親戚」に当たるのでしょうか?

もしそういうことであれば、私自身もとんでもない人の「親戚」になってしまうんです。

豊臣秀吉の正夫人・ねね(北政所)は尾張烏森城主・杉原家の出身でした。ねねの兄弟や甥たちは、皆、木下の名字を称し、そのうち二軒は大名(備中足守、豊後日出)となって明治まで続き、どちらも華族になりました。一方、烏森の所領はねねの従弟・杉原長房が継承し、長房は但馬豊岡の城主になりましたが、嫡流は後継者がなく断絶しました。

杉原家は長房の(庶流の)孫の代に、江戸幕府の旗本になった系統と、烏森城の跡地に館を構えて郷士(広義の尾張藩士)になった系統に分かれました。烏森の杉原家は代々その地を守って近代に至りましたが、その杉原家に戦前、私の伯母(故人)が嫁ぎ、その子である私の従兄は、烏森で整骨院を運営しています。

つまり、「間に二家族をはさんでも親戚」であれば、私は秀吉の親戚になってしまうんですね。

もちろん、通常の感覚ではこれは「他人」と言うべきでしょう。私自身も別に秀吉の親戚であろうがなかろうが、どちらでも全く構わない話です。業界における自分の今のポジションは、そのような縁故関係とは無関係に得ているものですから。

自分に自信のない人ほど、「○○の親戚」を振りかざすものなのかなあ、と、改めて思いました。

2013年10月26日 (土)

大名華族の爵位区分

明治時代から昭和の戦前まで、日本の華族(貴族)には世襲の爵位がありました。公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵の五等です。華族のうち「新華族」と呼ばれるのは、明治の元勲をはじめとした、維新以降に功績があった人たちですが、「旧華族」の多くは旧公家と旧大名です。

このうち、旧公家の家格と爵位との対応関係はわかりやすいものです。摂家(近衛・九条・二条・一条・鷹司)が公爵、清華家が侯爵、大臣家と、羽林家・名家のうち大納言常任の家が伯爵、その他の堂上家が子爵、新興の分家や地下家上座が男爵です。これに明治維新の功績が勘案され、三条家や岩倉家が公爵になるなど、一部の家が例外的に昇叙されています。

これに対して、旧大名の爵位はどうでしょうか。公爵は徳川宗家(旧将軍家)と維新の中核になった島津家(薩摩藩)・毛利家(長州藩)。しかし侯爵から子爵までの境界線はわかりにくい面があります。たとえば表高32万3950石の藤堂家(津藩)が伯爵なのに、表高25万7900石の蜂須賀家(徳島藩)は侯爵。また表高15万石の榊原家(高田藩)が子爵なのに、表高12万石の酒井家(庄内藩。一時朝敵とされて減封)が伯爵といった具合で、石高と爵位の対象が比例しない場合があるかのように見えます。

実は、大名華族の爵位の基準は、表高ではなく現米(収納高)だったのです。たとえば実高1万石の大名が、四公六民の標準通りに40パーセントを年貢として取り立てると、その年の現米は4,000石ということになります。この現米が爵位の基準になっています。

上記の例で見ると、藤堂家は現米124,270石、蜂須賀家は現米193,173石です。侯爵と伯爵との境目は、現米15万石を基準にしましたから、藤堂家は伯爵、蜂須賀家は侯爵となります。また榊原家は現米48,410石、酒井家は現米69,379石で、伯爵と子爵との境目は、現米5万石を基準にしましたから、榊原家は子爵、酒井家は伯爵となります。もちろん、戊辰戦争で大きな功績があった大名は一段階昇叙されています。

現代の私たちが判断すると、収納高が少ない=年貢率が低い藩のほうが、おおむね善政を施していたと思われるのですが、明治新政府の要人にはそういう感覚がなかったのでしょうかね。貧富の格差がどんどん広がっているのに、経済効果を期して消費税率をひたすら吊り上げようとする官僚たちの感覚とオーバーラップするようにも思えるのですが・・・。

2013年7月30日 (火)

家の「通字」

私の本名は、父親と母親から一文字ずつもらった二文字の名前です。私の家系は、父方が遠州の農民の家(戒名が知られているのは宝暦年代からです)、母方が尾張藩の下士の家で、どちら側から見ても、全く名もない庶民の家に過ぎないのですが、それでも息子の名前には両親の思いが込められています。

ずっと古い時代に家系がさかのぼる名門の家ともなれば、なおさらでしょう。そういう家の中には、代々決められた文字を、男子の名前の一字として継承している家系も少なくありません。

当地の浜松市医師会・在宅医療委員のお一人に、日ごろからお世話になっている大久保忠俊先生がおられます。大久保ご一族は室町時代の大久保昌忠以降、「忠」を通字にされている方が多いようです(例外もありますが)。江戸初期の「ご意見番」大久保彦左衛門(1560-1639)も実名は「忠教」、幕臣から初代静岡県知事になった大久保一翁(1817-88)は実名が「忠寛」です。

徳川家の「家」も歴代将軍の多くが使用しています。古い名門大名では、薩摩島津家の「久」、仙台伊達家の「宗」、長州毛利家の「元」、彦根井伊家の「直」、秋田佐竹家の「義」、米沢上杉家の「憲」などがよく知られています。戦国時代に滅びた大名では、武田家の「信」、北条家の「氏」など。こういう家では、家臣たちがこの「通字」を自分の実名に使うことが厳しく制限され、一門重臣以外は使用が禁止されていた大名家も少なからず見られました。大名や上級武士の家ばかりではなく、下士や豪農・商人の家系でも、実名に「通字」を用いることは、珍しくありませんでした。このような伝統は敗戦のころまでは続いていたようです。

現代では、名のある家系出身の人であっても、親が子どもの名前をつける際に、簡単に判読もできないような難しい用字、発音を当てはめることがしばしば起こっています。「通字」などを因習だと見なして、伝統を脱していくのは、それぞれの考え方によるもので、歓迎すべきことかも知れません。しかし、奇をてらった名前をつけられた子どもが、周囲からイジメを受けたり、辛い思いをしたりするようなことを招いてほしくないものだと、心から願います。

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