日本史

2020年9月20日 (日)

「長野の土地は、名がのぉ...」「飯田とかこれで、いいだ...」

【史料好きの倉庫(20)】

今回は「長野県(信州)の主要大名」の解説である。

当県の隣県なので、過去いろいろ合わせれば十回程度は出掛けている。最近では1995年に日本社会福祉士会の全国大会でパネリストとして長野まで、96年に旧勤務先の職員旅行で奈良井・木曽福島まで(画像)、2004年にはプライベートな掲示板仲間のオフ会のため安曇野まで出掛けた。城下町の散策経験も、浜松と隣接する飯田をはじめ、高遠、松代、松本、諏訪、上田、小諸と数多い。いちばん短い滞在は確か90年代の終わりごろ、車で水窪町(いまは浜松市天竜区)と南信濃町(いまは飯田市)との境目まで行き、県境の兵越峠の辺りを数分間行ったり来たりしただけで、浜松へ引き返している。

室町~戦国期の大名・豪族は、大名や旗本として信州に残ったものや、徳川家や上杉家に随従して他地へ移転したものがあり、いずれも系譜は残されているが、中世までの記述には粉飾が少なくない。地元大名では「真田家文書(真田宝物館所蔵。未見)」や「諏訪史料叢書(国立国会図書館所蔵。未見)」等があるが、古い時期の内容は考証が必要になる。長野県立図書館や各基礎自治体の図書館へ出向いたことはないが、近世史料が大部分だと聞いている。

Kiso

◆小笠原家
信濃随一の名族であったが、鎌倉期には阿波の守護であり、南北朝期に本貫である信濃の守護になった。室町期に長基が没した後、府中(長秀→持長→清宗→長朝)・松尾(政康→光康→家長→定基)・鈴岡(宗康→政秀)の三系に分裂し、1493年に鈴岡の政秀が松尾の定基に滅ぼされると、府中小笠原と松尾小笠原との並立時代となった。のち前者は長棟のとき武田晴信(=信玄)に駆逐されて放浪し、後者は信貴のとき武田家に屈服して被官になったが、武田家滅亡後はいずれも徳川家康に従属、前者は豊前小倉藩主の家系、後者は越前勝山藩主の家系につながっている。

◆諏訪家
古代からの諏訪大社の大祝(おおはふり)家であり、平安朝後期の頼信が信濃権守に任じられたころから武士化した。戦国期の頼重が武田晴信(=信玄)に滅ぼされ、武田家滅亡後に伊豆守系の頼忠が家を再興、徳川家康に随従して一時関東へ転封されるが、関が原の戦後諏訪へ復帰し、以後は諏訪藩主を代々継承した。政教分離したことにより、
大祝家は諏訪一族の別系統が世襲した。

◆木曽家
古来、木曽義仲の子孫とされてきたが、実際には藤原氏であったと推測され、戦国期に入るころから義仲を先祖として仮託したものである。義康のとき武田晴信(=信玄)の被官となったが、義昌は武田勝頼に背反して織田家、のち徳川家康に随従、関東移封に伴って広大な山林資源を失い、義利は粗暴を理由に改易されて終焉を迎えた。

◆依田(芦田)家
佐久郡の豪族で、もとは依田を名字とし、戦国期に芦田を称した。信蕃が武田家に随従したころからもとの依田に戻し、康国は徳川家康の家臣となって松平の称を与えられ、康寛(康真)は私闘で人を殺して出奔したことから、松平を返上して加藤を称し、結城秀康(家康の二男)の庇護を受けた。このような経過により一代ごとに名乗りが変転したが、次代の吉賢が芦田の名字で福井松平家(秀康の子孫)の正式な重臣となり、ようやく家運が安定した。

◆真田家→松代藩
伝えられた系図類では、海野一族の庶流で、真田幸隆が海野棟隆・幸義父子の後を継承したとされているが、状況が定かではなく、簒奪の可能性も否定できない。昌幸のとき上田から上野沼田にかけての地域を領有、関が原の戦で昌幸が失脚すると、信之が沼田・上田を併せ領した。1616年に沼田が分邦となり(後代に断絶)、1622年に信之(本家側)は松代へ転封され、そのまま動かずにここで明治維新を迎えた。

◆川中島藩・高井野藩
藩名に混同が生じている部分があり、整理すると以下の通り。(a)1616年に松平忠昌が松代城へ入封し、川中島方面の大部分を領知。19年に越後高田へ転じ、代わって高田から酒井忠勝が松代に入封。22年に出羽庄内へ転封し、代わって上田から真田信之が入封。(b)1616年、失領していた岩城貞隆が川中島領高井郡内の一部を与えられ、大名に復帰。20年に岩城吉隆が相続し、22年に加増を受け、23年には出羽亀田へ転封。(c)1619年、広島城の無断修築を理由に安芸・備後両国を没収された福島正則が、川中島近傍の高井野に左遷され、24年に正利が相続するも微禄に減知され、37年に没して絶家。本表では、(a)(b)を川中島藩(厳密には(a)を松代藩に含めるべきかも知れないが、江戸初期は北信四郡を川中島と通称しており、また(b)岩城領との境界も明瞭でないことから、川中島藩とした)、(c)を高井野藩として記載した。

◆佐久郡内水野領
1725年、松本藩主・水野忠恒が「乱心」のため改易された後、叔父の忠穀は幕府から佐久郡内で7,000石を給せられ、家系を継ぐことを許され、68年、忠友のとき加増されて大名に復帰し、77年には駿河沼津へ転封された。大名でなかった忠穀は掲載する対象ではないが、この項目を設けておかないと、忠恒から二代後の忠友までがつながらないので、あえて掲載した。

2020年9月16日 (水)

「山梨の人は、病(やまい)無し?」「甲府で厄払い、交付だ(^^)v」

【史料好きの倉庫(19)】

今回は「山梨県(甲斐)の主要大名」の解説である。

幼少時から学生時代まで、自然観光やレジャーで何度か赴いた。社会人になってからは研修で一度行っただけで、そのときに甲府を(城跡ではなく城下町を漠然と)回った記憶がある。近世には他に城が置かれなかったこともあり、古い町並みなどは隣県でありながら訪問したことがない。

甲斐の守護→戦国大名であった武田家をはじめ、大族であった小山田家や穴山家も、戦国末までに滅びてしまった。一部の豪族や武田家臣は徳川家に仕え、旗本として存続するが、多くは地元の同時代史料を軸に系譜をたどっていくしかない。県立博物館(未訪問)所蔵の甲州文庫は、近世史料が大部分であると聞いている。

◆武田家
鎌倉期から甲斐第一の大族として続き、室町期には守護として国中(くになか)地方を中心に国内一帯に勢力を広げ、戦国期の晴信(信玄)は信濃・駿河・上野にも勢力を拡大したが、勝頼に代替わりした後、1582年に至って織田信長に滅ぼされた。当主継承の時期は未詳だが、形式上、最後の当主は信勝であったと推察されるので、ここまでを歴代表に掲載した。

◆穴山家
南北朝期に分かれた武田家の庶流(実際には、恐らくすでに存在していた穴山家に養子入りするなどして、系譜を継いだと考えられる)で、河内(かわうち)地方に拠った。信君(梅雪)は武田勝頼から離反して徳川家康の与力大名になったが、本能寺の変の後に横死し、信治が家康の庇護のもとに武田を称して再興するものの、夭折して血統は断絶した。家康の五男・信吉が系図を継承したが、病弱であり、江戸初期に水戸領主となった後に夭折している。

◆小山田家
室町期から史料に見える氏族で、郡内に拠っていた。越中守信有のとき谷村城を築き、孫の信茂は武田家に所属して武名を上げたが、勝頼に背反したことを織田信長から断罪され、処刑されて滅亡した。前半期の系譜には親と子の実名や法名が混同されるなど、不明瞭な部分も多い。

◆甲斐府中藩
関が原の戦後1601年、平岩親吉が甲府に入封したが、1603年からは徳川家康の九男・義直の城代となり国政を沙汰、07年には義直が名古屋へ転封されたので、親吉はそのまま附家老として犬山城主へ転出した。以後、甲府藩には断続的に徳川一門が封じられたが、1704年に徳川綱豊が家宣と改名して将軍綱吉の世子になると、綱吉の官房長官的な役割を果たした大老格側用人・柳沢吉保(武田一族)が甲府に封じられ、事実上「国持大名」に等しい扱いを受けた。後継の吉里は1724年、郡山(大和)へ転封となり、甲府は幕府直轄領として勤番支配となったため、これ以降、甲斐国には藩が置かれなかった。

2020年9月13日 (日)

「福井まで、腹囲測りに行くか」「嶺北でカ...レーを食...うほうが(^^;」

【史料好きの倉庫(18)】

今回は「福井県の主要大名」の解説である。

30代のはじめ、旧勤務先の職員旅行で福井・越前海岸・武生を訪れたのが最初。その後もう一度、他地へ行った帰路、丸岡城に立ち寄っている。残念ながら若狭へは行ったことがない。

中世の越前・若狭の各氏族は、そのほとんどが織田~豊臣政権期までに滅びてしまったが、系譜類は「朝倉始末記」等の史料に散見する。松平家時代の藩政史料は福井県文書館に寄託されており、おそらく本多家をはじめとする重臣の系譜が閲覧できる(訪問したことはない)。各藩関係についてはそれぞれの地元で調査可能だと思われる。

◆武田(若狭)家
もともと鎌倉期には安芸の分郡守護家(広島県のページ参照)であった。室町期になって武田信栄の没後、若狭守護職を継承した信賢・国信が拠点を移し、安芸の所領は弟の元綱に譲ったので、嫡流ながら信栄以降のみを若狭守護家として本ページに掲載した。元明は守護の地位を失い流転を余儀なくされ、1582年に羽柴(のち豊臣)秀吉の指示を受けた丹羽長秀に滅ぼされた。

◆朝倉家
但馬の朝倉家の一族であり、南北朝期から斯波家に随従して越前足羽郡に移転、比較的早い時期から一乗谷へ本拠を移している(誰が当主のときか不明)。古い事典類には、応仁の乱の最中、1471年に孝景(一世)が越前守護に補任されたかのように記載されているが、実は東幕府から守護と同等の権限を与えられたものである。その後も形式上の守護は斯波家のままであったが、貞景のとき斯波義寛による幕府への提訴に勝訴して、公式にも朝倉家が事実上の国主としての地位を確立した。孝景(二世)は1543年に室町幕府から事実上の守護の格式を与えられているが、1573年に義景が織田信長に滅ぼされるまでの間、ついに正式な守護には任命されなかった。

◆越前国主・北庄城主
柴田勝家から松平忠直まで、歴代の北庄城主一覧。堀家・青木家時代は越前一国の主ではなかったが、つなげて掲載した。

◆若狭国主・小浜藩
丹羽長秀以降、明治維新に至るまでの小浜城主を歴代表にした。木下利房のみは高浜城主であったが、小浜藩主であった兄・勝俊の分家の位置にあったので、勝俊と併せて掲げた。酒井家時代の小浜藩は譜代大名であるため「若狭国主」ではなかったが、実質的には若狭国全体を所領として一円統治していた。

◆福井藩=松平家
いわゆる「越前松平家」であるが、前述の通り松平忠直までは越前国主の項目に掲げ、ここでは松平忠昌以降の藩主歴代を掲載した。

◆越前府中領/武生藩=本多家
本多富正は結城秀康の家老であり、松平忠直が失脚した後には忠昌に附属され、江戸期を通じて国老を務めて越前府中城主を世襲し、御三家の家老に次ぐ家格であった。明治になり、廃藩置県の
後に騒動が起こり、「武生藩」として追認される。その経緯は以前のエントリーを参照。

2020年9月 9日 (水)

「石川行きは君の、意思かは...」「能登は、ノーと、言ったんです(-_-;」

【史料好きの倉庫(17)】

今回は「石川県(加能)の主要大名」の解説である。

学生時代から旅行や他の用事で、数回は来県した。いずれも金沢城下町または能登半島が中心。直近では2005年、亡き母に同伴して兼六園(画像)や武家屋敷を散策し、バスで輪島まで足を延ばしている。

加賀も能登も中央政局とのつながりが強かったため、戦国中期までの各氏族の系譜は、地元や中央(京都など)の同時代史料に散見する。前田家が入部した後の、地元・能登の豪族だった長家なども含めた、加賀藩の家臣団(人持組以上)の系図は、金沢市立図書館の「加越能文庫」に所蔵されており、ここで閲覧することができる。

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◆冨樫家
加賀を代表する名族で、南北朝期から室町期に守護職を世襲。一般的には1488年、冨樫政親が本願寺門徒(「一向一揆」)に敗れて滅亡し、加賀は名実ともに「百姓の持ちたる国」となったかのように誤解する向きもあるが、実は門徒の勢力下にありながらも、冨樫家は形式的な守護として存続した。戦国末期、晴貞・泰俊兄弟が相次いで野々市城主になりながら、その地位を保てず滅亡に追い込まれ、終焉を迎えている。

◆長(ちょう)家
鎌倉期以来、能登の豪族として地元に根を張り、南北朝期以降は鳳至郡穴水城を拠点として勢力を張った。長綱連は上杉輝虎(=謙信)の攻撃を受け敗亡。生き残った連竜は織田信長を頼り、のち信長の後援を受けて家を再興、鹿島半郡を領知して田鶴浜に居所を置き、信長没後は前田利家に仕えてその重臣となった。1671年に連頼が没すると、藩主・前田綱紀は長家の鹿島半郡の一円支配を終了させ、後嗣の尚連には他の重臣と同様、加賀・能登・越中三国に所領を分散させた。加賀藩の八家年寄の一であり、高連以降も33,000石の高禄であったため、当主名と官位のみ掲載した。

◆遊佐家
もとは河内の出身。能登畠山家の守護代を継承する名族であったが、戦国末に上杉方に加担した続光・盛光までの系譜は、つながっているようで実は途中が詳らかではない。新たな史料の発見が期待される。

◆加賀藩=前田家
説明するまでもなく、前田利家を藩祖とする江戸期第一の大藩である。官位は御三家に次ぎ、家老のうち四人までが受領の官位を与えられる(ちなみに、尾張・紀伊徳川家は六人、水戸徳川家は五人)特典も有していた。幕府に近過ぎたことが影響し、幕末維新期には失速して重要な役割を果たせずに終わる。

◆七尾領→前田(土佐守)家
七尾前田家は、大名としては前田利政(利家二男)の一代であり、関が原の戦後に所領を没収されて終わった。子孫は加賀藩の八家年寄の一として一万石余の知行を保有したため、当主名と官位のみ掲載した。

◆加賀藩年寄・本多家
本多家は加賀前田家の重臣であって大名ではなく、藩内に陣屋や要害を置いて拠点にした履歴もないが、大名家の陪臣のうち最高である5万石を知行し、八家年寄の一として存続したため、当主名と官位のみ掲載した。
なお、加賀藩では地方に封臣の拠点を置かない分散知行制度を採用したため、一万石以上かつ最高家格の年寄であっても、横山・前田対馬守・村井・奥村・奥村支家の五家は、本表に掲載しなかった。

2020年9月 6日 (日)

「富山の旅は、どや?ま...んぞくか?」「魚津で、ウオッス!と乾杯(^^*」

【史料好きの倉庫(16)】

今回は「富山県(越中)の主要大名」の解説である。

旅行や研修などで計四回ほど訪れたことがある。富山や高岡の城址へ出向き、特に後者は尊敬する福者・ジュスト高山右近ゆかりの史跡を巡りながら、その遺徳を偲んだ。残念ながら松倉などの古城跡へは行かず、魚津には美味しい海産物を賞味しに行っただけであるが...

富山県の諸豪族は越中(本拠は河内)の畠山家の被官として成長し、後には越後から西進する長尾→上杉家に対して去就を迫られた。神保家や椎名家などに関する記録は各地の文献資料に登場するが、系譜の前後が明瞭でない箇所もあり、今後の研究が待たれる。県公文書館には戦国期の寺社関係の史料が収蔵されており、直接ではないが、大名豪族の系譜をたどる一助になると推察される(未訪問)。

◆神保家
富山(一時・増山)の神保家が主流であり、越中守護代として戦国期に一定の勢力を保ったが、上杉方の諸将に富山城を落とされて没落した。守山の神保家は別流であったが、豊臣時代には佐々成政に随従して肥後へ赴き、のち徳川家に仕官して旗本となったので、後世の伝記にはこちらが主流であったかのような作為がなされている。本表では両者を分別して記載した。

◆富山藩=前田家
江戸期の越中では唯一の大名。加賀前田家の分家であり、宗家からの統制・監視を受けながら明治まで存続した。厳密な意味での独立大名ではなかったが、売薬を藩の一大産業に成長させ栄えたことにより、全国的な知名度は高い。

2020年9月 2日 (水)

「新潟の水は、に~がかった...」「越後のイチゴは、甘いぞ!(^^;」

【史料好きの倉庫(15)】

今回は「新潟県の主要大名」の解説である。

若いころから、一度は行きたいと思いながらも、あまりご縁のない土地であった。本格的な旅行をしたのは30代はじめ。数日かけて、春日山城跡(画像。右下の写真は直江兼続邸があった場所)から高田・長岡・新発田などの近世城下町、良寛ゆかりの出雲崎などを周遊している。他にはもう一回、南東北へ出向いたついでに県境を跨いだ程度。佐渡へ行ったことはない。

新潟県、特に越後では古くからの豪族が割拠しており、それを統一したのが戦国期の長尾家、のちに関東管領家の名跡を継いだ上杉家である。その上杉家は豊臣時代に会津、江戸期には米沢へ転封され、臣属していた諸豪族も多くは随伴して米沢へ移り、明治まで存続している。そのため、越後地方の大族の系譜には米沢の上杉文庫に収納されているものが多く、そちらで調べるのが便利である。戦国期までに没落した豪族や、佐渡の本間一族などの系譜は、それぞれ現地に残されている史料をたどることになるが、不明瞭な部分も少なくない。県立図書館を訪れたことはないが、古文書よりも活字史料としてまとめられたものが主体だと聞いている。各藩関係の系譜は新発田・長岡・上越など現地で調べるのが良い。

Kasugayama

◆本間家
もとは佐渡を代表する武士であり、鎌倉後期には北条一門・大仏(おさらぎ)家の守護代であった。室町期以降に数家に分岐して島内に分立し、河原田と羽茂の二家が有力で、両者を軸に本間諸家が離合集散を繰り返していた。1589年に上杉景勝の侵攻を招き、一族の大部分が滅亡した。

◆府内上杉家
山内上杉家(本拠は上野国)の庶流。越後守護を世襲したが、後年は守護代の長尾家に掣肘され、形式上の守護に甘んじた。1550年、定実の没後は後嗣がなく、越後の国主の座は長尾家に引き継がれる。

◆長尾家→春日山上杉家
府内上杉家に仕えた弟系の長尾家。代を重ねて主家を凌駕した。輝虎(=謙信)は上杉定実の没後、事実上の越後国主(会津領であった東蒲原郡を除く)となり、さらに上杉嫡流である憲政の譲りを受けて、上杉の名跡を継承した。景勝のとき会津、のち米沢へ転封。

◆毛利(北条・安田)家
長州藩主・毛利家と同祖であり、越後の国衆となったこちらの毛利家が嫡流(兄系)である。北条(きたじょう)と安田の二流に分かれ、北条家は上杉輝虎・景勝に背反して所領を失ったが、安田家は春日山上杉家の与党として家臣化、景勝に随伴して米沢へ移転し、明治まで存続している。

◆直江家
与板城主。長尾家の被官として戦国中期から歴史に登場。兼続が上杉景勝の補佐役として活躍し、会津→米沢へ移転したが、兼続の死後は後嗣がなく、妻の船(せん)が上杉定勝の養育係となり扶持を受けており、1637年に没して絶家となった。

◆椎谷藩=堀(奥田)家
初代・堀直之は5,500石の椎谷領主であったが、1633年に没した時点では、まだ「一万石以上が大名、未満が旗本」の明確な線引き(1635年)が行われておらず、苅谷→八幡(千葉県のページ参照)を経て10,000石となり、直宥のとき椎谷へ復帰しているため、直之から歴代表に掲載した。

◆糸魚川藩/清崎藩
松平(越前)家が糸魚川藩主になったのは1717年、直之以降であるが、直堅の代、1677年に幕府から蔵米10,000俵を与えられて大名格となっていたため、そこを起点として歴代表を記載した。

2020年8月 9日 (日)

「平和」をどう考えるか?

私たち日本のカトリック教会の信者は、8月6日から15日までの十日間を「平和旬間」と呼ぶ。

例年ならば、このうちのどこかの日に教会へ行き、ミサに参列して祈りを捧げる。しかし、今年は新型コロナウイルスの影響により、大聖堂に入れる人数に制限が設けられた。当然、本日や次の日曜日・16日には、来場する信徒も多いと思うので、行くのを見合わせ、月の後半に出向こうと考えている。

きょう8月9日は、75年前、長崎に原爆が投下された日である。まずは当時の犠牲者の方々に、深い哀悼の意を捧げたい。

Nagasakishinkou

さて、私たちは「世界平和」をどう実現するのか?...と言ってしまうと、主題が広くなり過ぎるので、ここは一点に絞って考えてみよう。

「核兵器を廃絶すれば(そんなに簡単に実現できるとは思えないが、もしできた場合は)世界は平和へ向かうのか?」

実は、必ずしもそうとは言い切れないのだ。以下にその理由を列挙してみる。

第一に、国際的な監視システムの確立が難しいことである。

核兵器の廃絶とは、すべての核保有国(米国・英国・フランス・中国・ロシア・インド・パキスタン・北朝鮮・イスラエル)が核兵器を廃棄し、かつ核開発能力を持つ国(日本・ドイツやイランを含めたいくつかの国)が開発のために使用可能な設備を廃棄することだ。これが実現できれば「核兵器の廃絶」となる。核兵器禁止条約はもちろんここを目指している。

しかし、仮にこれが本当に実現したとしても、平和へ向かうとは考えられない。なぜなら、その状態を維持していくためには、途方もなく緻密な国際監視体制が必要になるからだ。当然、「旧」核保有国は、いざ自国の安全保障上必要な事態が起これば、再度核開発を始める可能性があるのだ。

もし、A国が核の再開発を始めたとしよう。いまの情報社会であるから、当然、敵対するB国にはその情報が伝わる。B国は以前核兵器を持っていたとしても、いまは廃棄している。A国が核兵器を再保有してからでは、自国の安全保障に重大な問題を来たす。したがって、A国が再保有しないうちに攻撃しようということになる。国際監視体制により国連軍がA国を攻撃することは、たいへん考えにくい(いまの五大国拒否権がある限り無理である)。したがって、B国はA国を通常兵器で攻撃する。それにA国は対抗して戦争が起きる。他のすべての国がB国側に立てば、すぐに戦争は終わるかも知れないが、そうはならない。A国側もあらかじめ味方になってくれる大国を確保しておくであろう。となれば、世界の大国の多くがそれぞれの側に立って参戦する事態になりかねず、そのまま第三次世界大戦が勃発する可能性は小さくない。

第二に、核兵器が世界から本当に消えた場合、核以外の兵器で比較優位に立つ国の暴走が起きやすくなることだ。

上記のような「核保有」レベルの諸大国を直接巻き込まなければ、地域大国を目指す国が核以外の兵器で対立する国を攻撃する可能性は、現在より大きくなる。西欧や北米などを除き、世界の各地では現在でも「小競り合い」が起きているが、核廃絶後には、それを超えたレベルの戦争が各地で勃発する危険性は、高まると予測せざるを得ない。また、「旧」核保有国が、核の再開発をチラつかせて、通常兵器での戦争を仕掛けやすくなることも軽視できない。

これ以外にもあると思われるが、この二つがおもに私が「核廃絶がかえって悪い結果を生むかも知れない」と予測する理由だ。

もちろん、広島や長崎の被爆者や、その心を受け継ぐ人々に、冷水を浴びせる意図はない。私自身、現在の暫定的な効果はともかく、長期的には決して核兵器の抑止力を良いものだと考えているわけではないので、誤解なきよう願いたい。冷静に分析すると、核廃絶だけに邁進するのが良策とは言い難いのだ。

私自身、クリスチャンとして、いずれはキリストが勝利し、戦争のない地球が実現することを信じている。それは遠い先のことであると言わざるを得ない。少なくとも、私がこの世に生きているうちには無理である。

これは人類永遠の課題であろう。

2020年3月22日 (日)

「神奈川...かな?かわ...らないのは...」「湘南(しょうなん)です(^◇^;」

【史料好きの倉庫(14)】

今回は「神奈川県の主要大名」の解説である。

新幹線での素通りが多いが、それでも用事のあるたびに、学生時代からしばしば足を運んでいる。横浜が比較的多く、学生時代から合わせると十回以上は行った記憶がある。他に複数回訪れたのは鎌倉、箱根などだ。小田原城へは過去二回。二回目は2014年、業界仲間と二人で平塚まで勉強に出掛ける途中に立ち寄った(画像は小田原城から眺めた湘南海岸)。

神奈川県は鎌倉幕府の本国であり、室町期には関東公方足利家に支配される中世武家勢力の一大拠点であった。しかし、戦国中期以降は小田原城を本城とする北条家の直轄地域となり、三浦家・大森家などの在地勢力は一掃されてしまう。北条家の一門・重臣は多くが主家と運命をともにして滅亡、没落した。県立博物館(未見)や各市立の図書館等に文書が所蔵されている。

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◆三浦家
鎌倉幕府草創期から活躍した名門。宝治合戦で宗家が滅亡した後には、傍系の佐原家が三浦惣領家となった。室町期の前半に相模守護となるが、その後は勢力が後退し、戦国期の入口で伊勢盛時により滅ぼされた。

◆上杉(犬懸)家
上杉諸流の中でも山内(宗家)、扇谷と並んで関東管領に就任する家系。氏憲(=禅秀)の乱が失敗して没落し、戦国期には動向が聞かれなくなる。

◆北条(小田原)家
京の伊勢家の分家で、わずかばかりの所領を持つ申次衆の身から、一代で伊豆・相模二国の主にのし上がった盛時(=北条早雲)が初代であるが、実は盛時の代を通して名字は「伊勢」であり、「北条」を称したのは二代目の氏綱からである。畿内の名族である伊勢家は関東でよそ者扱いされ、地元の武士たちから拒否反応が見られたことが原因だと推測されている。「北条」の由来は氏綱の最初の妻・養珠院が北条庶流の横江家出身だった縁で仮冒したと伝えられるが、その出自に確証はない。また、盛時が今川家のいわば後見人として興国寺城を与えられてから、氏綱の途中まで形式上は駿河今川家の被官であり、名実ともに独立したのは1519年と比較的遅い。関東に覇を唱えるも、豊臣政権の大規模な征討を受け1590年に降伏、解体され、嫡流家は河内狭山藩主(大阪府のページ参照)となって細々と存続した。

◆小田原藩
江戸期には大久保家の居城として知られているが、大久保忠隣が失脚した後、同家は減封や転地を重ねており、その間に阿部家や稲葉家が小田原城主になっている。大久保忠朝のとき1686年に小田原へ復帰、以後は代々継承して明治まで続いた。

2020年3月20日 (金)

「東京に転居する、ときよぉ(^^*」「江戸に来れば、えぇど!」

【史料好きの倉庫(13)】

今回は「東京都の主要大名」の解説である。

学生時代、5年間(大学4年、社会福祉の学校1年)都の住民であった。はじめの2年は世田谷区三宿(画像左の建物の場所にかつて存在した学生用宿舎)、あとの3年は豊島区雑司ヶ谷である。卒業後は最低でも年二回、多いときには年数回出向いている。泊まり掛けで行くこともしばしばだ。

東京都は埼玉県同様、関東武士団の拠点であったが、中世の氏族の多くは北条家に敵対するか吸収されるか、その関わりの中で存続してきた。そのため、北条家の滅亡に伴って大部分は解体されてしまい、各地の史料は断片的にしか残されていない場合が多い。徳川家の直轄領となった江戸周辺に、独立した大名はほとんど存在しなかった。江戸中期に徳川宗家から御三卿が分出し、それらの家譜は続群書類従完成会がまとめた『徳川諸家系譜』に掲載されている。江戸に在府した高家や上級旗本の系譜は、『寛政重修諸家譜』で参照することができ、中には東条吉良家のように中世から存続した家もある。東京で史料の調べ物をするのならば、何と言っても国立国会図書館が最適で、東京都に限らず広く全国の大名・豪族等の系譜を閲覧できる。

20140727mishuku

◆豊島家
桓武平氏秩父一党の在庁官人。鎌倉期には有力御家人の一であり、室町期にも勢力を保ったが、戦国期に入る直前の豊島泰経を最後に、惣領家の動向は知られなくなった。江戸期に旗本となった豊島家は惣領家の後裔を称するが、途中のつながりが同時代史料により確認できないので、記載しなかった。

◆江戸家
桓武平氏秩父一党。南北朝~室町期に惣領家の活動が知られる。その後、傍系の木田見家が北条家に従属して存続し、江戸期にはそのまま徳川家に仕えて喜多見と改称したが、将軍・徳川綱吉の側衆となった喜多見重政が大名になった後に、怠慢を咎められて改易されてしまった。

◆吉良(東条)家
「吉良」と言えばまず三河の吉良(西条)家が挙げられるが、こちらの東条吉良家も同じ足利義氏を祖とする。吉良貞家から三代にわたって奥州探題を務め、頼氏以降は武蔵世田谷の城主であった。江戸期には門地の高さから高家として遇され、幕末まで存続した。

◆徳川(田安・一橋・清水)家
すなわち御三卿である。
当主は江戸城内に居住して、まとまった所領を知行していなかったが、諸省の卿に任官し、将軍位の継承権を有していた。一橋家からは家斉・慶喜と二人の将軍を出している。田安家と一橋家は明治初年の短期間であるが、藩として認められたので、歴代表を掲載した。清水家は当主が他家へ転出するなど、しばしば継承者を欠いて中絶しているため、当主名と官位のみを掲げた。

2020年3月17日 (火)

「千葉が、い...ちば...ん走りやすい!」「房総で暴走はダメよ(^^;」

【史料好きの倉庫(12)】

今回は「千葉県(房総)の主要大名」の解説である。

残念なことに、この県だけは近世の城下町へ一度も行ったことがない。中世千葉家の本拠から門前町に化した千葉市へは過去二回ほど訪れているが、東京にいた学生時代から数えても、県内へ出向いた記憶は合わせて数回程度だ。

千葉県は「房総」と通称される。中世の諸大名がおおむね戦国末までに滅びてしまったため、千葉家や里見家を含めて、当主継承の経緯の一部が不明瞭である氏族が多く、異同の多い系譜史料を参照して史実を割り出す作業が必要になる。一括して調べるのならば、県文書館より県立図書館のほうが良い(むかし私が行ったときには西部図書館に歴史関係のおもな蔵書があったが、いまは東部図書館へ移動?しているようなので、要確認!)。近世の諸大名はほとんどが譜代藩であるため、藩主各氏の系譜は『寛政重修諸家譜』等に詳しい。

◆千葉家=下総守護
平安朝時代からの在庁官人の家。鎌倉後期に下総と肥前とに分かれ、宗家は代々下総守護職を継承したが、戦国期に滅びた。傍系の馬加/岩橋系が取って替わり、事実上の千葉宗家となって戦国末に至り、北条家と運命をともにして終焉を迎えた。

◆原家
千葉家庶流。宗家の系統が入れ替わっても、重臣の立場で勢力を維持、北条家の傘下に入って領域を支配したが、胤義は北条家と運命をともにして家領を失った(自害?)。
息子の胤信は徳川家康に仕えて駿府城付きの近習となったが、駿府の女官おたあジュリアらの勧めでキリシタンに入信、出奔するも逮捕されて両足の腱を切断され、駿府から追放された後に(おそらく信徒たちの支援を受けて移動し)、江戸のハンセン病院で働いていた。1623年、福者ガルベス神父、福者アンジェリス神父、福者シモン遠甫修道士らとともに逮捕され、12月4日に札ノ辻で火刑にされ、殉教の栄冠に輝いた。2008年、ローマ教皇ベネディクト16世から列福され「福者(beatus)」の称号を贈られている。

◆里見家
後代の小説『南総里見八犬伝』で知られる。俗説では三浦半島から安房へ渡った里見義実が初代とされているが、義実・成義の二代は実在不明であり、現実の歴史に登場するのは義通からである。義弘のとき上総も制圧して二国の主となったが、義康のとき豊臣政権によって安房一国に縮小され、次の忠義が伯耆へ配流されて里見家は解体された。

◆正木家
里見家の被官でありながら、独立性の強い大名でもあった。三浦家の末裔と称するが仮託であろう。宗家は里見家に制圧されて一門化し、時茂のとき里見忠義とともに伯耆へ配流された。他方、勝浦の正木分家は里見・北条の間を変転し、頼忠の娘の万が徳川家康の側室となって頼宣・頼房を生んだため、三浦に改称した為春が紀伊藩主になった頼宣に随従して貴志城へ移転、家は藩の五家年寄の一として明治まで存続している。

◆舟戸藩
本多正重が舟戸を領知していた時期には、まだ「一万石以上が大名、未満が旗本」の明確な線引き(1635年)が行われておらず、正重没後に幼少の正貫が8,000石に減封されても、すぐに「旗本に降格」したわけではない。そのため、正貫・正直の一万石未満の時期を含め「藩主」として扱い、歴代表を掲載した。

◆船形藩=平岡家
平岡道弘は幕末に大名となったが、幕府の終焉に伴い領地を返上し、駿府藩の重臣に転身している。そのため、明治に入ってから他の藩主のように華族に列せられてはいない。

◆鶴舞藩=井上家 ~ 金ヶ崎藩/桜井藩=滝脇家
これらの7藩はいずれも遠江・駿河の諸藩(静岡県のページ参照)であったが、1868年に徳川宗家が駿府に再興されたことにより、房総へ転封されて廃藩置県を迎えた。

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