ケアマネジメント

2018年6月25日 (月)

人と会い、人と語り...(5)

前回より続く)

巡礼を終えて向かったのは博多(福岡市内)。小倉からは静岡-浜松ぐらいの距離がある。定刻の11時半には5分ぐらい遅れてしまった(電車の博多着が5分遅れたため)が、待ち合わせ場所の「博多だるま総本店」に無事到着。

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ここで、本ブログに何度も登場してくださったジョージさん(=稲岡錠二さん。京丹後市)たちと合流。地元業界の重鎮・飯山明美さんや、長崎県から来着した諫早ドラッカーズの会、森芳正(もりよし まさし)さんや平川真さんたちの、ケアマネジャーのみなさんと一緒に、本場の博多とんこつラーメンを味わう。

そして、ホテルニューオータニ博多内にあるカフェレストラン「グリーンハウス」に集合。この日の企画「聞きたかとばってん!アンタなんしょ~と」に、遠く浜松から参戦した次第である。

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これはジョージさんが発起人になったもので、中堅・若手のケアマネジャーや介護職員が語り合うための場を作ったものだ。地元博多の髙﨑(たかざき)慎介さんや大関純平さんをはじめ、太宰府市の廣田弘樹(ひろき)さん、久留米市の岡田ヒロ子さん、林田亜紀さんらが参加された。それぞれ自分が何者なのかをプレゼンしながら、仕事や活動の現況、今後の展望などを語り合った(飯山さんは所用のため中座された)。

業界では厳しい環境の中にあって、中堅や若手のメンバーはよりよい仕事をしていくため、職場の外へ出て仲間づくりをする機会を求めている。日本中でアクティヴな中堅の業界人たちにより、このような場を作る試みが意欲的に展開されているが、ジョージさんは前のご勤務先を退職された後、地域の人たちの生活を支える「ライフデザインクリエーター」の職能を立ち上げ、全国各地の仲間と交流しつつ、人と人との輪を広げていく活動を続けておられる。

イベントは13時半から16時半までの三時間だったが、あっという間に過ぎてしまった。名残り惜しかったがお開きとなる。飯山さんや髙﨑さんたちがこれを受けて次の面白い企画を打ち出しそうな雰囲気だったので、楽しみである(残念ながら私は参加できそうもないが...)。

夕方から暗くなる時分まで、福岡城址や博多の街を散策。中洲まで来たあたりで結構歩き疲れたので、地下鉄で博多駅へ向かう。

駅2階の「めん街道」で、歌舞伎役者のG-sawaさん(HN)と待ち合わせ、行列の具合を勘案して「長浜ナンバーワン」で遅めの夕食。

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G-sawaさんと会うのは三回目だ。歌舞伎の演目は一か月単位なので、氏も6月中は博多で出演されている。上位の役者さんに従ってお仕事をもらう形なので(休演すると一か月失業することになってしまうから)、旅行などもままならないし、介護業界とは違うご苦労があろう。そのような中で、役者さん方は古い演目を墨守するだけでなく、観客に歌舞伎の魅力を味わってもらうために、協働してイノベーションや創造に取り組んでおられる。私たちの業界でも見習うべき点は少なくない。

互いの仕事やプライベートの話をしながら、ラーメンのほうは替え玉まで注文した(博多は一杯目の麺が少なめで替え玉を追加するパターンが多いようだ)。ジョージさんがすでに帰途に就かれたため、「キリシタン三人衆」が実現しなかったのは残念だが、それはまたの機会に。ちなみに、ジョージさんからG-sawaさんへと託された丹後の「塩」をしっかりお渡ししている(私もいただいた)。信徒にとって「塩」は特別な意味を持つものだから...(^^*

翌18日朝、小倉のホテルを出ようとした矢先、大阪北部地震の影響で新幹線が運転見合わせになってしまったので、岡山あたりでもう一泊することも覚悟して、行けるところまで行こうと、普通列車で東進した。途中、宮島を通る路線は亡き母と一緒に旅行した(2003年)ところなので、15年前を懐かしく思い出した。新幹線ならスルーしていたのだから、これも何かの巡り合わせだったのかも知れない。

広島の少し手前で運転再開の報を受け、広島から新幹線に乗り換える。新大阪の手前で入線の順送りを待たなければならなかったので、かなり遅延したが、そのあとは順調に走行して、浜松に無事帰着した。当初は15時頃の予定だったのが、19時過ぎの浜松着となった。新幹線のありがたさを実感したものである。地震の影響はなお大きい。被災した方々には心からお見舞いを申し上げたい。

この三日間の旅は、巡礼が主目的ではあったが、私にとっていろいろな意味で実りのあるものであった。

2018年6月21日 (木)

AIとケアマネジメント(3)

前回より続く)

さて、私が最も好きな炭水化物系(主食系)食品は「のり茶漬け」である。

これは少年時から一貫して変わっていない。

しかし、このことを公開するのは全く初めてである。亡くなった母以外の人には、これまで一度も「のり茶漬けが一番好きだ」と言及したことはないし、HPやブログやFBに画像を載せたこともない。せいぜい、のり茶漬けのメーカーの商品情報を、過去数回クリックして閲覧した程度だ。

おそらく、私と昵懇な人たちを含め、ほとんどの知人が私のことをラーメン大好き人間だと認識しているのではないか。私がブログやFBに掲載する画像はラーメンが圧倒的に多く、他にはパスタ、カレー(+ライスまたはナン)、パン(お惣菜タイプ)、チャーハン、つけめんなどがある。

FBや@NiftyやGoogleなどは、当然だがICTを駆使して私のエントリーやコメントから個人情報を収集している。しかしながら私のエントリーなどの中に「のり茶漬け」のキーワードが圧倒的に少なければ、それはラーメン、パスタ、カレーなどに比べてマイナーな情報としてしか扱われない。そのため、私に対して開示される広告は、ラーメン関係を中心に、運営会社が私の関心を引きそうだと見なしているものが多い。「のり茶漬け」に関する広告を見ることは全くと言っていいほど、ない。

しかし、「IoT」の普及によって、生活の中のさまざまなグッズがネットでつながることになると、状況は変わってくる。

たとえば私が食品庫からのり茶漬けの素を取り出す、食器入れから大きめの茶碗を取り出す、炊飯ジャーからご飯を盛る、ポットからお湯を注ぐなどの一連の動作が、週に3~4回行われることがデータとして記録されれば、私がブログやFBなどで言及していなくても、私が「のり茶漬け」を好んで食べる事実がクラウドに蓄積されてデータ化され、かなりの精度で、「ジョン‐トラブッたはのり茶漬けが大好物だ」と結論付けられるであろう。

このような個人の行動を最先端のICTによってクラウドに何千人分、何万人分と集積すれば、AIが人の日常生活行動を読み取るためのビッグデータとなる。進化するAIは、このデータをもとに私の食生活プランのベースになる部分を割り出して、サンプルを示すことができるであろう。さらにそこに対して、いくつかのバリエーションを加えることも可能になると考えられる。

他方、AIでは絶対に踏み込み切れないであろう部分も存在する。たとえば理屈抜きに、「いま死んでもいいから○○系のラーメン食いてぇ!」と思ったときに、私の心を読んで、スジュールや機動力、健康状態などをすべて総合した上で、私の欲望を優先させ、のり茶漬けの合間に的確な頻度でラーメンを割り付けることは、AIには困難であろう。

これが、私のことをよく知っている「食生活プランナー」の達人であれば、私の顔色や習性を敏感に読み取って、「週何回ののり茶漬け、昼食は月1回は△△屋、月1回は◇◇屋のラーメン、ただしインターバルは□□日以上置いて...」みたいな割り付けをして、それに基づいたアドバイスができるかも知れない。体調による変動にも臨機応変に修正できる能力が期待される。

また、すべての人がIoTの便利な生活を実現する金銭的な余裕があるわけではなく、余裕があってもすべての人がそれを望むわけではない。防犯などに活用できるメリットは確かに大きいが、他方で生活全体を監視されるのと同じことになるから、大衆が全面的にIoTを導入する動機には、何らかの抑制がかかることが予測される。

とすれば、ビッグデータが存在したとしても、そこからAIが人の生活に関するすべてを統御することは現実的に不可能であると考えて良い。

当然であるが、生活全般を側面的に支援すべきケアマネジメントも、AIによって全面的に取って代わられることはないことになる。

この課題は実に深い。政府が推進しているSociety5.0の動向を注視しながら、機会を改めて論じてみたい。

2018年6月13日 (水)

AIとケアマネジメント(2)

前回より続く)

したがって、私たちケアマネジャーや介護職員が新たな時代を生き抜くためには、これらの用語を整理して使い分け、立ち向かっていかなければならないのだが、現実にはそれができていない。

たとえば、一昨年10月に開催された政府の未来投資会議の席で、日本介護支援専門員協会の役員が「ケアマネジメントの全面ICT化には憂慮する」との意見を提出した。

この事案の資料に目を通したとき、全面ICT化に大賛成である私は、正直、「おいおい、大丈夫か?」と思ったものだ。「全面ICT化」とは、「(最先端の)情報通信技術を全面的にケアマネジメントへ取り入れる」の意味である。これからの世代のケアマネジャーが、日進月歩する情報通信技術を駆使できなくてどうするのか?

あくまでも私の推測であるが、この役員の意図するところは、おそらく「情報通信技術の進化に乗じて職能の本質的な部分が軽視され、人工知能がすべてを統御する行き過ぎた状況になることを憂慮する」であろう。それならば、私の見解と大きな隔たりはない。

しかし、そう言いたいのであれば、ここでの意見は「ケアマネジメントにおいて、全面ICT化を進めることには賛同するが、全面的にAIを導入することには憂慮する」でなければならない。私も含め、介護支援専門員は先端技術の専門家ではないのだから、個人としては混同したり言い間違えたりすることもあろう。しかし、一昨年の事案は、政府の公式な会議に、日本の介護支援専門員を代表する団体が公式な見解として資料を提出して発言したものなのだ。自分たちが専門用語を理解できているのか、しっかり調べてから提示すべきではないだろうか。このような場で「知ったかぶり」をしてしまうと、団体の指導部が恥をかくことになりかねない。

私の主張は「全面ICT化は大いに結構。それを推進することにより全面的にAIに取って代わられる程度の仕事しかしてこなかった人は、ケアマネジャーを名乗る資格がない」である。いろいろな場に臨んで、自分ではその趣旨で話しているつもりだ。わかりにくかったのであれば私の説明が不足していた面があるかも知れないが、他方で、聴き手側の「調べて理解する力」も求められるであろう。

この「ケアマネジメントの全面ICT化推進」と「ケアマネジメントへの全面的なAI導入不可=絶対に人間でなければできない仕事が相当部分残される」とは表裏一体であると、私は考えているが、この両者を関連付けるキーワードが「ビッグデータ」である。

ビッグデータ(big data)とは、計算機において一般的なソフトウェアにより扱える容量を超えたデータの呼称である。単にデータの量が大きいだけではなく、データの種類がバラエティに富んでいることや、データが置かれる時間や空間によって変化していくことが、ビッグデータの特徴として挙げられるであろう。

それでは、ビッグデータが私たちの仕事において具体的にどのような形で存在し、ICT化やAIの導入にどう絡むのだろうか? 次稿では予測される実例を挙げて論じてみよう。

次回に続く)

2018年6月11日 (月)

AIとケアマネジメント(1)

昨10日、静岡市で特定非営利活動法人・静岡県介護支援専門員協会の年次総会があり、会長からの推薦により、議長を務めさせていただいた。

そのあと、全体研修会となり、私のダジャレ友達(?)である菊地雅洋さん(北海道介護福祉道場あかい花)が、『平成30年度介護報酬改定大解剖~医療・介護大連携時代に求められるケアマネとは~』と題して、二時間半にわたって熱気あふれる講演をしてくださった。

菊地さんは昨年8月に別の講演のため浜松を来訪されており、そのときには私の開業16周年にも立ち寄ってくださっている。7年前の県協会、昨年の三島を合わせると、当県ご訪問は四回目になるようだ。来場者は250人と、7年前に比べると半数程度だったが、わかりやすい分析と予測、ケアマネジャーへの強力なエールとに、聴き惚れていた人たちが多かった。心に響く講演だったので、会員の一人として菊地さんには心から感謝申し上げたい。

そのあと、会場を駅南のホテルに移して懇親会。すでに役員を退いたのにもかかわらず、総会議長を務めた「お駄賃(?)」なのか何かわからないが、事務局が私も混ぜてくれたので、正副会長や自主事業委員とご一緒にビュフェ‐パーティーに参加させていただいた。菊地さんから見ると半数以上が初対面だったかと思うが、予想外に盛り上がって話に花が咲いていた。

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さて、菊地さんの講演内容にはコンテンツが盛りだくさんであったが、氏が触れておられた内容の中から、おそらく時間の関係であまり詳述されなかった課題を一つだけ取り上げて、何回かに分け私流に論じてみたい。

それは、「AIとケアマネジメントの関係は、今後どうなるのか?」である。

まず、多くのケアマネジャーや介護職員の間では、関連する用語が混乱していると思われるので、以下に整理しよう。

・AI(artificial intelligence)→人工知能。人間の知的能力を計算機上で再現するための技術やシステムの総称

・ICT(information and communication technology)→情報通信技術。計算機関連技術(IT)をさらに進展させた用語で、その技術を人と人、人とモノとの「通信・伝達」分野へ広く応用していくことを含んだ概念

・IoT(internet of things)→モノのインターネット。日常生活で用いられるあらゆるモノがインターネットに接続されて統御される仕組み

ただ「AIが来る」などと心配しているだけでは何も始まらない。このAI、ICT、IoTがそれぞれ私たちの仕事であるケアマネジメントにどう影響するのか、冷静に整理してみる必要があるだろう。

これらの用語に代表される社会は、すでに現実のものになりつつあるからである。

次回へ続く)

2018年5月30日 (水)

誰のための建物なのか?

お名前は伏せておくが、Facebookで友達になっている、お一人の演劇関係者の方から、新装した名古屋の「御園座」の建物について、不満に感じているとのコメントがあった。問題はいくつもあるようなのだが、その中で特に気になったのは、「クロークもコインロッカーもない」点である。

この方は演者の側として御園座に来られているから、ひょっとしたらクロークやロッカーに代わるものが何かあって、観客には周知されているのをご存知ないのかも...と思い、御園座に関するブログなどを検索してみた。すると、数件のレビュー記事の中に、事実クロークもロッカーもないことが報告されており、そのうち二つには、「不便に思って劇場に尋ねたところ、荷物を置いておくだけの(→そこに人はいるが責任を持たない)場所ならある」との趣旨が書かれていた。また一つのレビューには、「座席と前の座席との間がやや広めなので、冬期にはコートなどの荷物を、座席まで持ち込むしかないらしい」との要旨が書かれてあった。

これは、受益者本位の建物だとは到底言えない。そもそも演劇場のエンドユーザーは演者ではなく観客である。もちろん、そこで仕事をする演者にとって使いやすい劇場であるに越したことはないが、まずは観客がなるべく寛いで音楽や演劇を楽しめるのが良い劇場である。足元のスペースが多少広くても、重い荷物やコート・ジャンパーでゴテゴテした状態の中にあって、どうして寛げるだろうか? しばしば観劇や音楽鑑賞などをしている人であれば、誰にもわかる話だ。

ましてや、私に情報を提供してくださった演劇関係者の方によると、新しい御園座は演者側から見ても使いにくい点が多々あって、共演者の方々から不満が噴出しているそうである。

しかし、偉い建築家の先生には、このような問題点がわからない(わかっていながら、一時債務超過に陥った会社側の事情により、お金をかけての最善策を採れなかった部分もあったかも知れないが...)。いや、そういう言い方をすると語弊がある。建築家は建築の専門家なのだから、演劇のエンドユーザーである「観客」や、サービス提供者である「演者」としての場数を積んでいなければ、そちら側から眺めた感覚はなかなか身に着かない。

そこで、建物を建設するに当たっては、経営する当事者と、設計する人、作る人、サービスを提供する人、使う人といったステイクホルダーとを結び付ける役割が求められるのである。いわば、システム‐プロデューサー(この言葉も矮小化した転義で用いられることが増えたが、ここではより広い守備範囲で機動的に働く人を念頭に置いた、狭義の語法で使用する)の出番となるわけだ。

したがって、御園座のように課題を多く残す建物ができてしまったのは、有能なシステム‐プロデューサーの不在が想定される(あるいは能力はあっても十分な権限を与えられていなかった可能性もある)。

私もいずれは、オペラやコンサートで御園座を訪れる機会があると思うので、これから観客や演者のみなさんの意見を聴いてもらいながら、可能であれば一つずつでも設備を改善してほしいものである。

さて、同様なことは、私たちの介護業界でも起こり得る。

現政権の施策が「ハコモノ推進」から転換されていない以上、さまざまな種類の介護施設が引き続き建設(新築、増築、改築)されていくであろう。特別養護老人ホームや老人保健施設、グループホームのような従来型の施設はもとより、有料老人ホーム、サービス付き高齢者向け住宅、介護医療院などは、今後まだまだ増えていくことが見込まれる。

その際、大切なのは「誰のための建物なのか?」である。エンドユーザーはあくまでも入居する利用者である。そして、利用者に対して、より望ましいサービスを提供するためには、働く職員にとっても使いやすい建物である必要があろう。

しかし、現実には「法人経営側=当事者がどんな建物を作りたいか?」が優先されてしまうことが多い。これは「誰のための建物なのか?」と同じではない。一致する部分もあれば、乖離する部分もある。後者を調整するためのシステム‐プロデューサーが必要になる。その役割を欠いたまま建設プロジェクトを進めると、御園座のようなことになってしまう。

幹部職員が現場で日常の仕事をしながら、新しい建物の企画を兼務するのは、いまの業界事情から言えば厳しい。人を外注し、専心して当たらせるのが効果的だ。実際には、システム‐プロデューサーとして働ける人の候補は、業界に少なくないと思う。法人側が少しの費用を惜しんで、埋もれている人材を活用しないのはもったいない話だ。たとえば実力派として鳴らしたケアマネジャーで、いま本業の仕事をしていない人の中にも、この任に堪える人は結構存在する。

裏を返せば、有能なケアマネジャーは制度上の「介護支援専門員」としての仕事ができなくなっても、システム‐プロデューサーとして活躍する道が開かれていることになる。エンドユーザーをはじめ各々のステイクホルダーにとって、真に望ましい設備を整えた建物を作ることで、限られた「材」を無駄にしないためにも、その役割の重要度は大きい。

また、筆者の知人には、以前紹介した相模原の岡さんのように、建築業界から介護業界、さらに高齢者の建物に関するお仕事に転職された方もある。このような経歴の方もまさにシステム‐プロデューサーにふさわしいであろう。

今後の業界再編成では、このような転身も一つのスタイルとして期待したいものだ。

※今回のエントリーから、HNを「じょあん」から「ジョン‐トラブッた」に変更しました。
これまで同様、お暇なときにご笑覧くださいませ(^^*

2018年4月30日 (月)

「利用者が主役」

しばらく喪中モードだったが、すでに本業の居宅介護支援≦ケアマネジメントは、おおむね本来のペースに戻っている。

この間、研修や企画の講師を受任するのは自粛していたが、自分の知見を各地の介護関連業界のみなさんに伝える役割を引き続き果たしていくために、ご依頼による出講を再開することにした。再開の時期は6月以降になるが、予約はすでに受け付けを始めている。本業のほうに差し支えない時期を協議させていただくことになる。

さて、一年余の介護経験も経た結果、演題に新たなレパートリーが加わった。

★ 食生活と介護 → そもそも「食べる」ことを介護の中でどう位置付けるのか? 母の場合、自分自身の場合を振り返りながら、実体験を踏まえてお話しすることが可能である。口腔保健や栄養の分野にも踏み込んで、ケアマネジャーや介護職員が関連職種とどう連携すべきなのかを、体系的に整理して解説する。乞うご期待!

★ 利用者側から見た良いサービス、悪いサービス → これも実体験から。実際に介護者の立場になってみて、支援者側が良かれと思って提案することは、受益者側である利用者・介護者から見て本当にそうなのか? 自分自身がこの温度差を明瞭に体感できる機会を得た。それをお伝えして、介護従事者のみなさんにとっての「気付き」にしていただけるであろう。

また、これまで各地でお話ししてきた主題でも、もちろん講義・講演可能である。

◆ 文章作成; 相手に伝わる文章を書く力

◆ コミュニケーション; 話し言葉の適切な使い方、接遇、マナー etc.

◆ ケアマネジメント/相談援助/多職種協働/介護従事者の職業倫理; 具体的にはご希望に応じた内容で。他の主題も含め、私の力量で可能な範囲のご依頼はお引き受けしたい。

そして、どの主題になろうが、私の基本姿勢は一貫している。それは「利用者が主役」である。

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このスライドは『文章作成』に関する研修講義で使用したもの。生活者である利用者があってこそ、私たちケアマネジャーや介護職員の仕事がある。私たちの役割は側面的に支えることであり、主役を張ることではない。この基本を頭で理解していても、実際の振る舞いがそこからかけ離れてしまっている介護従事者がいかに多いことか。

業界の多くの職員に良い仕事をしてもらうためにも、この基本をくどいほど繰り返し説いていくことが、私たちベテラン業界人に課された使命だと考えている。

ところで、話は変わるが、たとえば私に対し、歴史分野に関連する話(と言っても、近現代史の評価が分かれる話ではなく、いまの私たちの思考や行動にも影響を及ぼしている古来の考え方やシステム論が中心だが...)をさせたい向きがあれば、そんなご要望にもお応えしたい。総じて介護関連分野以外のどの内容であっても、「こんなテーマでしゃべってくれない?」などのご希望があれば、遠慮なく相談してくださればと思う。もちろん、私自身が無理な分野については、よりふさわしい方をご紹介することになるだろうが。

これまでは母の介護に制約されていたため、日帰りまたは一泊での出講だったが、今後は(時期は選ばせていただくが)二泊を要する地域へも出向くことが可能になった。宿泊費はご負担いただくが、現地観光案内にご協力くださるのであれば、一部を按分できる場合もあるので、そのあたりはご相談次第だ。

とにかく、必要とされるところへは、地域を選ばずに出掛けるつもりなので、ぜひご検討いただければ幸いである。

2018年4月 5日 (木)

介護離職についての考察(7)

母が死去して一か月。各所への支払いがいったん終了し、相談した司法書士の指導を受けて、(たいした額ではないが)相続手続きのための書類を集めているところである。

他方、本業のほうはどうなっているかと言えば、昨年の春から夏にかけて、(推定)6人前後の利用者さんを確保し損なったため、冬に入ってからの逝去や施設入所やらで、利用者さんの数が大幅に落ち込んでしまった。

介護者としての拘束から解き放たれたので、失地回復に努めなければならないと思っている。私がもう少し若ければ、全く新しい仕事をベンチャー的に起こす可能性が開かれているかも知れないが、いまとなっては体力的な制約もあり、難しい。次世代の人たちには「こんな道もある」と背中を押してあげながらも、自分自身はおもに従来の業務の延長線上で仕事を続けることになろうかと思う。

さて、私は幸い自営業であったから、「介護離職しなくて済んだ」のである。

それでは、平均的な収入でつつましく生活していたところで「介護離職を余儀なくされた」中高年の独り者(性別にかかわらず)が、私同様、要介護3程度になった親を一年以上介護した場合はどうなるのだろうか。

まず、退職に際して雇用保険の失業給付は受けられる場合が多いが、当然のことながら職に就いていたときと同程度の収入は無くなる。加えて、介護サービスを導入しないと一人で介護を続けるのは厳しいので、サービスの種別にもよるが、これまでかかっていた衣食住の生活費に加えて、サービス事業者に支払うお金が必要になる。親が年金をもらっていても、そこから相当額の支払いが生じ、生計に影響するところが大きい。

そして、親の介護が終了した後は、よほど売り手市場になるような知見や技術を持っていない限り、すぐに再就職するのは難しい。年齢やキャリアの中断が障害になってしまうのである。介護が長引けば長引くほど、再就職は厳しさを増す。

これまでもいくつかのエントリーで述べてきたが、日本ではまだまだ、介護離職しないための仕組みが不十分である。それは企業側にも言えることであるし、介護サービス側にも言えることである。後者に関しては特にハコモノ作りが優先し、人の確保が追い付かないため、離職せずに「休業」や「業務縮小」に止めたい人たちのニーズに全て応えることができない。したがって、どうしても一定程度の介護離職者が発生せざるを得ない。

よほど余裕のある家庭ならともかく、多くはひとたび介護離職してしまうと親の年金に頼らざるを得ず、その親が死亡するとたちまち生計が苦しくなってしまうのだ。配偶者などの家族がいる場合と異なり、独りでは食費や光熱費のスケールメリットが無いことも、大きく影響する。

こう考えると、ときにメディアの紙面に登場する「年金詐取」も、それ自体は確かに犯罪に違いないが、理解できないわけではない。親の年金受給権者死亡届提出を意図的に怠り、不正に年金を受け続けてしまう独身の中高年がときどき問題になるのは、現実の生活苦が目の前に横たわっているからにほかならない。これまでともに生活していた親が「いない」という現実を受け止められない人さえいるのだ。私自身が体感して、その人たちの気持ちを痛いほどよく理解できた。

介護支援専門員や介護サービス職員などの従事者にとっても、決して無縁な話ではないのだから、重く受け止めてほしい。

すでに各方面でソーシャル‐アクションを始めている人たちはいるが、当事者の切実な声が政策に反映されるように、全国レベルでも地方レベルでも、業界仲間が力を合わせて地道に訴え続けていくことが求められるであろう。

2018年1月20日 (土)

ところ変われば...

去る13日(土)、島根県の安来地域介護支援専門員協会からご依頼をいただき、同会の研修会における文章作成講座の講義のために、安来市まで出向いてきた。

安来市と言えば「どじょう」の街。「うなぎ」の街である浜松からお邪魔することになったのも、何かのご縁であろう。

今回お招きいただいたきっかけは、同団体の会長を務めておられる宇山広さん(お仕事は小規模多機能型居宅介護の所長。以前は島根県介護支援専門員協会の副会長もされていた)とFacebookでのつながりができ、宇山さんが私のしょうもない駄文に目を留めてくださったことだ。事情はともかく、私のようにマイナーな講師から見れば、わざわざ遠方から出講のご依頼をいただくのは、ありがたいことである。

早朝に家を出て、新幹線で西へ向かい、岡山駅で伯備線の特急「やくも」に乗り換える。今回は残念ながら素通りであったが、岡山の方から教えていただいた三好野の「祭り寿司」を駅で購入。「極(きわみ)」と称する1,480円のお弁当はなかなか豪華。こんなときでなければ味わえない一品だ。

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乗り継ぎを含めると、電車に乗ること約6時間。安来は島根県の東の入口であるにもかかわらず、浜松からはたっぷりと距離がある。

安来駅に到着すると、宇山さんご自身がお迎えに来てくださった。本当は握手をしたかったのだが、私の両手は皮脂欠乏症に加えて「遠州のからっ風」の影響もあり、「あかぎれ」がひどかったので、ご迷惑になってはと思い断念。雪道の中、宇山さんのお車で広瀬町の会場まで向かう。15時から講義開始。

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演習を含めて三時間。おそらく安来地域のケアマネジャーさんたちの大部分は、社会人になってから「国語の授業」を受けることになるとは想像されていなかったのではないか。文章の出来次第で意図が伝わらないことも起こり得ることを例示しながら、簡単な国文法に踏み込んで、助動詞や助詞「てにをは」の使い方について解説。終盤では、単なる文章作成技術の向上で終わるのではなく、それを私たちの仕事の評価につなげていくことが大切であることを説いた。

研修会が終了したあと、駅近くで宇山さんと一杯。途中からは、遠路、大田市から駆け付けてくださった野際智紀さん(宇山さんの友人、同じく小規模多機能の管理者)が合流。野際さんともFacebookでつながっており、先年は東京で昼食をご一緒する計画もあったが、氏の予定変更により、お会いするのを逸したことがある。そのこともあり、三人で鍋を囲んだのは嬉しいひとときであった。

島根県は「アローチャート」の先進地域でもあるので、お二人はこの分野への造詣も深い。とは言え、それをどう使いこなすのか、考え方には人それぞれに差異も大きいようだ。お二人からは、学会などにおける研究成果積み上げとは別に、現場のアセスメントで誰もが使いやすいものをどう普及させるかの課題についても、検討が求められていることへの言及があった。「陸の孤島」である浜松のアローチャート自主勉強会「矢万図浜松」としても、大いに参考になるお話が聴けたと思う。

一夜が明けて、朝、ホテルの外へ出ると、昨夜から降り続いた雪景色。雪道用のブーツを履いてきたのは正解であった。

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チェックアウトした後、お二人のご案内で西へ。日曜日であったが、途中で宇山さんのもとに事業所のスタッフから相談の電話が入る。小規模多機能は臨機応変に対応できるメリットがある一方、包括報酬であるためどうしてもオーバーワークになりやすい。現実にはどの事業所も、運営にかなり厳しい面が出ているとのことで、安来市のような人口密度が少ない地域であればなおさら、遠隔地の利用者のためにどこまで対応するのか、悩ましいところであろう。

午前中に松江まで出向き、松江城近傍を見学。天守閣には昔登ったことがあるので、今回は時間の制約から割愛し、周辺の建物や武家屋敷を散策した。

この辺りの名所は江戸時代の遺構だけではない。城の近くには旧日銀松江支店の建物を活用した「カラコロ工房」なる場所もある。伝統と前衛とが交錯したユニークな空間だ。ファッションを軸に、グルメや体験コーナーもあり、地元の人も旅行者も楽しめる店がいくつも共存している。

昼食後、地元のキャンペーンをしている「お侍さん」たちにお願いして、記念写真を撮ってもらった。私の向かって左が宇山さん、右が野際さん。散策終了後、野際さんは好きなお酒を求めて別方向へ。

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安来へ戻る車中で、宇山さんが島根県の介護業界の現状をお話しくださった。他県同様に人材不足であるが、ケアマネジャーの研修指導陣にしても、いま中核になっておられる宇山さんや野際さんの世代である40代の方々が、その次の世代の人材を発掘するのが難しく、苦労されているとのこと。当・静岡県の状況に比較すると、かなり深刻かと受け止めた。この現状を国の政策担当者はどこまで実感し把握しているのだろうか。

いろいろな思いを巡らしながら、安来駅で宇山さんと別れ、帰路は再び「やくも」に乗り、岡山経由で新幹線に乗り換え、浜松へ戻った。

ところ変われば事情も変わる。静岡県や浜松市でも業界の課題は少なくないが、他の地域と比較参照することにより、別の視点からの知見が加わる。今回の目的は出講であったが、自分自身の学びの機会を持つこともできた、たいへん有意義な二日間であった。

2017年12月30日 (土)

2018年もよろしくお願いします☆

この一年、私にとって二つの大きな「イベント」があった。

一つは、2月から母が要介護状態となり、唯一の家族である私が、ケアマネジャーの仕事を続けつつ、介護や家事をワンオペで担う状況になったこと。

もう一つは、6月に県や市の介護支援専門員職能団体における役職から引退して、業界では1999年以来18年ぶりに無役となったことだ。

もともと、2014年の春あたりから、母のADL(日常生活動作)が低下気味になり、私の行動がかなり不自由になったことは確かだ。特に静岡県レベルでの役職は(場所にもよるが、おおむね)片道一時間以上かけて静岡市まで出掛けなければならず、私にとっていささか負担になっていた。そのため、県ケアマネ協会の役員や事務局からは、会の運営に関して自己中心的、非協力的だと思われたこともあっただろう。二年前に退陣するのも一つの選択であったかも知れないが、諸事情により留任せざるを得ず、今年に至ってしまったのは遺憾に思っている。

さて、介護者としての制約と役職退任、この両者の相乗作用(?)により、私の行動範囲は大幅に縮小することになった。不在中の母の介護を確保するために短期入所生活介護を利用しないと、浜松から外へ出掛けることが難しくなり、かつ、職能団体の役職にあることにより他のケアマネジャーに先んじて取得できた「裏情報」の類が、退任後は入ってこなくなったのである。

この状況から生じる、私のアクティヴィティ低下リスクを補ってくれたのは、SNSのフェイスブックを中心につながっている、全国の業界仲間のみなさんであった。

SNSの優れたところは、全国に散らばっている仲間たちの動向をリアルタイムに近い形で把握できることだ。加えて、介護報酬改定に関係する省庁や団体の動きなどについても、そこに関与している、あるいは関心を持っている仲間がシェアしてくれることにより、最新情報や外部から知り難い情報を獲得することが可能になる。全く便利な社会になったものだ。

私自身、引きこもりにならないように、機会こそ減ったが、業界仲間のみなさんと会うことを心掛けた。8月(浜松)や10月(東京)の飲み会は、私自身が仕掛けた交流の場である。SNSでつながっているとは言え、離れた土地に住んでいる人たちはそれぞれ多用であるから、こちらが受動的な姿勢でいるとなかなか会って話してもらえない。NHK大河で脚光を浴びたかもしれないが、浜松は便利な都市に映りながら、わざわざ立ち寄るとなると、案外素材に乏しい町でもある。

したがって、当地に居ながら情報弱者にならないためには、自分から人が集まる場を作ることは大切である。裏を返せば、(介護負担の分量にもよるが、)介護者として行動が不自由、不便になっても、アクティヴィティを持ち合わせていれば、交流の機会は訪れるのだ。

このことを実感した一年であったので、来年は可能であれば、昨年同様何かを企画して、浜松に人寄せすることを検討したい。主題はやはり、介護業界全体を覆っている「人材不足」あたりになるだろうか。

実現するかどうかは、母の体調や私自身の体調にも左右されるが、現場でさまざまな取り組みをしている人たちが集い、知恵を出し合う場ができればと願う。企画も一人では荷が重いので、協力してくださる方も必要になるだろう。

2018年。分相応なことしかできないにせよ、力の出し惜しみだけはしたくない。

こんな私ですが、来たる年にも変わりなきご声援やご交誼を、よろしくお願いします。

2017年11月 9日 (木)

プロフィットセンターの証しを立てよ!

来年の介護報酬改定をめぐって、財務省と厚生労働省とがしのぎを削っている。

現時点で判明しているのは、全体として小幅引き上げ、ただし一般企業と比較して「利益率が高い」とされてしまっているサービスについては、本体部分が明確な引き下げになり、介護職員処遇改善加算だけは引き上げられるであろう、との方向性である。

この事案については、すでに知名度の高い論者たちが続々と持論を展開しているので、例によって私の出る幕はない。

そこで、別の視点からこの問題を論じてみよう。

介護報酬を全面的に「引き下げよ!」と強く主張しているのは、財務省、経済界、健保である。すなわち、国の財政、国民の経済、国民皆保険体制を守る立場の人々だ。その背景には、介護業界が「コストセンター(社会的な費用を注ぎ込む場)」になっているとの先入観がある。

これに対抗するにはどうしたら良いのか?

言うまでもなく、介護業界が「プロフィットセンター(社会的な利益を産み出す場)」になっていることを、データで証明できれば最善である。

それでは、私たちの業界は、これまでにその種のデータを集積してきたのだろうか?

各団体とも、介護報酬が上がることにより、職員の待遇が良くなり、事業者の経営が安定し、利用者に良質なサービスを提供できることはしきりに主張している。それはあくまでも業界の利益であり、そこから利用する当事者の利益にはつながるが、多くの人々からは、国民全体の利益だとは受け取ってもらえない。

もし、介護報酬が上がることが国民の利益であると主張したいのであれば、「A事業所がこれだけのサービスを提供した」結果、どんな効果が発生したのかを提示する必要がある。「B利用者が使う医療費がこれだけ減り、購買力がこれだけ増えた」、あるいは、「C介護者が離職しなくて済んだので、これだけの給与をもらえた(当然、勤務先がそれ以上の利益を上げた)」といった形で、現実にどれだけの社会的な利益を産み出す効果を上げたのか、それをデータで示さないと、財務省や経済界や健保を説得できない。

たとえ国が費用を注ぎ込んでも、社会保険料が上がっても、それを上回る効果が期待できれば、介護報酬を引き上げる意味があるのだが、そのような調査が業界主導で行われた事実を、寡聞にして私は知らない。あるいは単に私が知らないだけで、実際にはどこかでそのような調査結果が示されているのかも知れない。

ただ、確実なのは、現在に至るまで、介護業界の側から財務省や経済界や健保に「突き付けられる」ほどの影響力を持つデータを集積できていないことだ。

もちろん、国の社会保障に関するお金の使い方は、この三者が中心になって決めるものではなく、外交・防衛・経済・産業・教育・地方開発・環境など、さまざまな分野と総合的に比較勘案して、政権与党が案を作り、野党とも審議しながら、国会で決めるものだ。しかし、それだからこそ、「この分野にはこれだけのお金が必要」だとの根拠を調査結果の数字などわかりやすい形で示せなければ、削りやすい部門の予算が削られ、政権与党が必要だと思われる部門に回されてしまう。

では、この調査がそんなに手間がかかるものかと言えば、決してそうではない。居宅の場合には介護支援専門員がいるのだから、一人の利用者に対して月平均でどれほどの介護保険サービスを提供したかは割り出せるし、利用者や介護者の協力を得れば、その家の経済効果を把握でき、社会的利益も推定で概算できるはずだ。施設入所者の場合は、一人の高齢者が自宅に戻った場合、介護者がどれほどの制約を受け、費用増や減収になるかを予測、積算すれば良い。

これによって厳密な数字を出せるかと言われれば、正直なところ、かなり大雑把な概算にとどまる嫌いはあるだろう。しかし、「介護サービスがプロフィットセンターである」ことを示す具体的な数字を明らかにできれば、概算であっても大きな説得力を持つことが期待される。

いま関係機関が次から次へと送ってくる(多くは)無駄な調査や、職能団体がひたすら低姿勢で肥大化させている(相当部分が)無駄な法定研修の時間や手間を削れば、この社会的利益に関する調査の時間や手間などは十分に確保できる。

厚生労働省が財務省などに対抗して、報酬引き下げを阻止してくれるのであれば、このような形での援護射撃も必要なのだ。

実際、かつて私たち独立型の介護支援専門員が、数十人規模とは言え全国レベルで組織を結成したとき、「生活が苦しいだけでは報酬値上げを要求する根拠にならない」として、まずは個々の業務の積算根拠を求め、そこから先へ進んで社会的利益を算出していく構えを取っていた。共同研究の呼びかけも細々と各方面へ行った。

しかし、残念ながら、全国の介護支援専門員を代表する団体は、このような私たちの動きに対して一本の矢も送ってくれなかった。それどころか、過去のある時期の全国指導者には、(たとえ団体と直接関係なく個人としての行動であったとしても、)私たちの動きをツブしにかかっているとしか思われない行動を取った人がいたことも、残念な事実だ。

私もいまは全国の職能団体の会員であり、過ぎたことを蒸し返すのが建設的でないことは百も承知だが、今後のためにも言及しておく。

とにかく、遅きに失したとは言え、この種の調査をどこかで行わないと、介護業界はコストセンターになっているとの「神話」がいつまでも幅を利かせ、それを信じている多くの国民は、財務省や経済界や健保が唱える、介護報酬を上げなくても良い、むしろ下げろ、との見解に左袒することになるだろう。

そうなれば、一部の論者が唱えている「介護大崩壊」が現実のものになる。これこそ、国家的な危機にほかならない。

どこかのメジャーな業界団体または職能団体が主唱して、大急ぎでもこの種の調査を全国レベルで大々的に実施するのならば、もちろん私自身も、数少ない利用者や介護者にお願いするばかりではなく、自分の力で及ぶ限りの個人や組織に呼びかけ、最大限の協力をするつもりである。

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