ケアマネジメント

2017年11月 9日 (木)

プロフィットセンターの証しを立てよ!

来年の介護報酬改定をめぐって、財務省と厚生労働省とがしのぎを削っている。

現時点で判明しているのは、全体として小幅引き上げ、ただし一般企業と比較して「利益率が高い」とされてしまっているサービスについては、本体部分が明確な引き下げになり、介護職員処遇改善加算だけは引き上げられるであろう、との方向性である。

この事案については、すでに知名度の高い論者たちが続々と持論を展開しているので、例によって私の出る幕はない。

そこで、別の視点からこの問題を論じてみよう。

介護報酬を全面的に「引き下げよ!」と強く主張しているのは、財務省、経済界、健保である。すなわち、国の財政、国民の経済、国民皆保険体制を守る立場の人々だ。その背景には、介護業界が「コストセンター(社会的な費用を注ぎ込む場)」になっているとの先入観がある。

これに対抗するにはどうしたら良いのか?

言うまでもなく、介護業界が「プロフィットセンター(社会的な利益を産み出す場)」になっていることを、データで証明できれば最善である。

それでは、私たちの業界は、これまでにその種のデータを集積してきたのだろうか?

各団体とも、介護報酬が上がることにより、職員の待遇が良くなり、事業者の経営が安定し、利用者に良質なサービスを提供できることはしきりに主張している。それはあくまでも業界の利益であり、そこから利用する当事者の利益にはつながるが、多くの人々からは、国民全体の利益だとは受け取ってもらえない。

もし、介護報酬が上がることが国民の利益であると主張したいのであれば、「A事業所がこれだけのサービスを提供した」結果、どんな効果が発生したのかを提示する必要がある。「B利用者が使う医療費がこれだけ減り、購買力がこれだけ増えた」、あるいは、「C介護者が離職しなくて済んだので、これだけの給与をもらえた(当然、勤務先がそれ以上の利益を上げた)」といった形で、現実にどれだけの社会的な利益を産み出す効果を上げたのか、それをデータで示さないと、財務省や経済界や健保を説得できない。

たとえ国が費用を注ぎ込んでも、社会保険料が上がっても、それを上回る効果が期待できれば、介護報酬を引き上げる意味があるのだが、そのような調査が業界主導で行われた事実を、寡聞にして私は知らない。あるいは単に私が知らないだけで、実際にはどこかでそのような調査結果が示されているのかも知れない。

ただ、確実なのは、現在に至るまで、介護業界の側から財務省や経済界や健保に「突き付けられる」ほどの影響力を持つデータを集積できていないことだ。

もちろん、国の社会保障に関するお金の使い方は、この三者が中心になって決めるものではなく、外交・防衛・経済・産業・教育・地方開発・環境など、さまざまな分野と総合的に比較勘案して、政権与党が案を作り、野党とも審議しながら、国会で決めるものだ。しかし、それだからこそ、「この分野にはこれだけのお金が必要」だとの根拠を調査結果の数字などわかりやすい形で示せなければ、削りやすい部門の予算が削られ、政権与党が必要だと思われる部門に回されてしまう。

では、この調査がそんなに手間がかかるものかと言えば、決してそうではない。居宅の場合には介護支援専門員がいるのだから、一人の利用者に対して月平均でどれほどの介護保険サービスを提供したかは割り出せるし、利用者や介護者の協力を得れば、その家の経済効果を把握でき、社会的利益も推定で概算できるはずだ。施設入所者の場合は、一人の高齢者が自宅に戻った場合、介護者がどれほどの制約を受け、費用増や減収になるかを予測、積算すれば良い。

これによって厳密な数字を出せるかと言われれば、正直なところ、かなり大雑把な概算にとどまる嫌いはあるだろう。しかし、「介護サービスがプロフィットセンターである」ことを示す具体的な数字を明らかにできれば、概算であっても大きな説得力を持つことが期待される。

いま関係機関が次から次へと送ってくる(多くは)無駄な調査や、職能団体がひたすら低姿勢で肥大化させている(相当部分が)無駄な法定研修の時間や手間を削れば、この社会的利益に関する調査の時間や手間などは十分に確保できる。

厚生労働省が財務省などに対抗して、報酬引き下げを阻止してくれるのであれば、このような形での援護射撃も必要なのだ。

実際、かつて私たち独立型の介護支援専門員が、数十人規模とは言え全国レベルで組織を結成したとき、「生活が苦しいだけでは報酬値上げを要求する根拠にならない」として、まずは個々の業務の積算根拠を求め、そこから先へ進んで社会的利益を算出していく構えを取っていた。共同研究の呼びかけも細々と各方面へ行った。

しかし、残念ながら、全国の介護支援専門員を代表する団体は、このような私たちの動きに対して一本の矢も送ってくれなかった。それどころか、過去のある時期の全国指導者には、(たとえ団体と直接関係なく個人としての行動であったとしても、)私たちの動きをツブしにかかっているとしか思われない行動を取った人がいたことも、残念な事実だ。

私もいまは全国の職能団体の会員であり、過ぎたことを蒸し返すのが建設的でないことは百も承知だが、今後のためにも言及しておく。

とにかく、遅きに失したとは言え、この種の調査をどこかで行わないと、介護業界はコストセンターになっているとの「神話」がいつまでも幅を利かせ、それを信じている多くの国民は、財務省や経済界や健保が唱える、介護報酬を上げなくても良い、むしろ下げろ、との見解に左袒することになるだろう。

そうなれば、一部の論者が唱えている「介護大崩壊」が現実のものになる。これこそ、国家的な危機にほかならない。

どこかのメジャーな業界団体または職能団体が主唱して、大急ぎでもこの種の調査を全国レベルで大々的に実施するのならば、もちろん私自身も、数少ない利用者や介護者にお願いするばかりではなく、自分の力で及ぶ限りの個人や組織に呼びかけ、最大限の協力をするつもりである。

2017年10月31日 (火)

「知ったかぶり」は恥ずかしい

人前で話すとなると、私のようなマイナーな講師でも気を付けなければならないことがいくつか挙げられる。

中でも神経を遣うのは、「知ったかぶり」をしないように心がけることだ。

これは簡単なようで、結構難しい。

ふだん何気なく使用している言葉や言及している事象についても、あまり自信がないときには、なるべく時間を取って予習するようにしているが、完璧にはいかないのが常だ。とは言え、細かいことでも事前にチェックしておかないと、間違ったことを話してしまって、あとでその誤りを知ってから恥ずかしい思いをすることになる。そうならないように、私なりに留意してはいる。

研修でいろいろな講師の話を聞いていると、明らかに「知ったかぶり」で知識や理解の欠如を露呈させている話者が、ときどき見受けられる。

昨年末から今年の初めにかけて、法定の「主任介護支援専門員更新研修」を受講したのだが、8回のうち少なくとも6回は、登場した講師が1回以上「知ったかぶり」をやっていた。指摘してやろうかと思ったが、まぁ話者自身の自覚の問題やろな、とも思い、結局ツッコミは入れなかったのだが...

ところで、結果としては同じ「知ったかぶり」であっても、いくつかの類型がある。

・高い水準の国語力や調べる力を持っている話者が、不注意で言葉や事柄の意味に合わない解釈をしてしまい、気が付かずに過ごしてしまう(私もときどきあります(^^;)。

・特定の分野に該博な話者が、不用意に専門外の用語や事象などに言及して、思い込みから誤った解釈をしてしまう。

・普通の話者が、善意から受講者に有益な話題を紹介しようとして、関連する用語や事象に関して確認不十分なまま、誤った解釈をしてしまう。

そして、いちばん良くないのは...

・力量不足の話者が、自分を立派に見せようと背伸びをして、わかっていないことをわかっているように話してしまう。

残念であるが、この最後の類型は、上記の主任更新研修をはじめ、介護支援専門員法定研修の講師にも、ときどき見られるパターンである。上から目線の話者、場数を踏んでいない話者など、講師として壇上に立って報酬を得る資格があるのか、疑われる人たちだ。

もしこの人たちが、「テキトーなことを言っても、どうせ受講者にはわからないだろう」などと思っていたら、大問題であろう。そうでないと信じたいが、用語や事例に関して、かなりいい加減な解釈をしてしまい、話しっ放しにしてしまう講師もいるのが現実だ。

これらはまさに他山の石である。辞典や事典で調べる、自分が誤解していないか詳しい人に教わるなどの準備を怠らなければ、受講者が「それ違うだろ?」とシラける頻度も減っていく。

後進に指導する立場の者としては、恥ずかしい「知ったかぶり」をしてしまわないように、十分心したいものである。

2017年10月11日 (水)

研修で「話す側」になろう!

30代~40代前半の中堅どころに位置する介護業界仲間の動向をネットで眺めていると、「○○研修会」「△△学会」「□□講演会」といった場に出向いて、多くの知見を身に着けようと努めている人たちが多く見られる。日常業務が多忙な中で、時間や費用を確保して各種研修の場に出掛けているのには、たいへん敬服する。

しかし、このような研修に参加した記事を見ていて、残念になることもある。

それは、中堅どころで才能も力量も備えていると思われる人が、もっぱら「聴く側」「受講する側」に回っているのを、散見することだ。

もちろん、聴くこと、受講することの意義を過小評価しているのではない。ただ、講義・講演する側になれる、少なくともパネリストぐらいは務められる力のある人が、なかなかそのような役回りを担った話を聞かないと、どうしても気になってしまうのだ。

その原因は一人ひとり異なるので、それぞれがどんな状況で講師やパネリストにならないのかはわからない。「能ある鷹は爪を隠」して韜晦しているのか、遠慮深い性格でいつも出番を辞退しているのか、頭角を現しているのになかなか周囲が認めてくれないのか、勤務先などの制約によって表舞台に立つ機会を持てないのか。

私自身が宮仕えのとき、(決して有能だったわけではないのだが)鳴かず飛ばずだった理由は、この最後の項目に当てはまる。旧勤務先が常態的に職員の突出した行動を抑える傾向にあった。そのため、研修や企画の講師やパネリストとして声がかかるようになったのは、開業した40代になってからだ。

いまでこそ普通に講師業もこなしているが、40代初めにいくつかの団体からボツボツ呼んでもらえるようになった時期には、人前で話すだけでも心拍数が上がってしまい、なかなかまとまりの良い話をするのに難渋したことを記憶している。慣れるためにも、若いうちに講師やパネリストの場数を踏んだほうが良い。自分自身の経験からだが。

特に、主任介護支援専門員であれば、更新までの五年間に講義の一つや二つはこなすのが当たり前であるべきだ。所定の研修の企画・ファシリテーターとて参画するのならまだしも、年四回参加していれば主任更新が可能との要件は、もっぱら受動的な研修参加だけでも更新できるわけであるから、甘過ぎると言わざるを得ない。

ただし、地域によっては地域包括支援センターの受託法人が自法人の主任に講義枠を割り当てる「お手盛り」もあるようなので-そのような義務的な講義はあまり経験値にならないのだが-公的な研修の場で誰もが講義の機会を持てるわけではない。むしろ、(宮仕えか開業かを問わず)バックを持たない介護支援専門員が狭い地域の枠を超えて、所属都道府県内外の関係団体から講師として招いてもらえるレベルの力を持つことが望ましい。

介護福祉士などの現場介護職員、特にリーダーの立場にある人たちも、講師やパネリストとして登壇する機会を持つことが、自分自身の知見・研鑽・実践を言語化して披露する好機となるだろう。

中堅どころの業界仲間たちが、「話す側」「講義をする側」になる場面を増やすことにより、さらに活き活きと良い仕事をしてくれることを願っている。

2017年9月30日 (土)

踏みとどまる人たちにエールを!

静岡県は東海から関東にまたがる県域を持ち、風土も多種多様だ。私が住んでいる浜松市の中でさえ、南端から北端まで行くのには車で二時間以上を要し、地域差は大きい(「自治体附属機関等の委員会に出席して(2)」参照)。ましてや、県内でも西から東へ所用で出かけるとなると、現地での所要時間は2時間程度であっても、往復の時間を含めて丸一日を要することもある。

28日、県内で最も南東に位置する、賀茂地区介護支援専門員協会からの講演依頼をいただき、一日かけて下田市まで遠征してきた。

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賀茂地区は東伊豆町、河津町、下田市、南伊豆町、松崎町、西伊豆町の6市町からなる地区で(画像は昭文社の地図)、浜松からの交通手段は沼津市、伊豆の国市、伊豆市を経由して車で行くか、熱海市、伊東市を経由して電車(JR、伊豆急行)で行くかのいずれかとなる。車の長距離運転が苦手な私は後者を選択したのだが、前夜からの大雨で伊豆急行が午前中運休となってしまったため、同団体のスタッフの方に車で(他用を兼ねてとのことだったが)伊東まで迎えに来ていただくことになり、お手数をおかけした。

演題は「ケアマネジャーの役割と使命」。大層な主題であるが、地理的な制約を抱えた現場のケアマネジャーたちにとっては、これからの時代、仕事にどう向き合っていくのかはたいへん重い課題なのだ。都市部で地域資源に恵まれている私たちからは想像もできない困難にぶつかることも、決して少なくはないであろう。

これまで静岡県の四隅にあるケアマネジャー連絡組織(南西隅-湖西市、北西隅-浜松市天竜区、北東隅-御殿場・小山、南東隅-賀茂地区)に講演でお邪魔しているが、都市部から離れている共通項があるとは言え、地域課題はそれぞれに異なる。

今回、講話の中で強調したのは、「プロとして対価を得られるような仕事をしてください」ということである。

地域包括ケアシステムは、一つ間違えれば「安上がり行政」を招来しかねないシステムとなる。地方自治体も経済的に余裕があるところは少ないし、ましてや過疎地域であればなおさら財政課題は重くのしかかってくるであろう。

そして、そのような地域だからこそ、ケアマネジャーの出番があるものと考えたい。住民にとって有益なアイディアを提案し、地域独自のシステムの創成に参画するのは、課題が大きい地域ほど大切なことなのだ。優れたアイディアが採用されて軌道に乗れば、費用対効果の面からも奏功して、自治体の財政を助けることにもつながるからだ。

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参加者からの事前質問に「移動手段の確保」「認知症カフェの運営」等が挙げられたが、私たちが専門性を発揮できる場もそのような分野に存在すると思う。過疎地域におけるケアマネジャーの資質とは、やれ医療連携だ、ほれ給付適正化だといった代物ではなく、地元住民のニーズを的確に把握できる観察力、行政と連携しながら地域資源を整えていく実践力、人々が住み慣れた地域で長く生活できるように側面的支援を展開できる総合的専門性であると言えよう。

したがって、資質や専門性に裏打ちされた私たちの仕事は、当然のように評価を受けて、対価を得られるものでなければならない。裏を返せば、アマチュアにでもできるレベルの仕事しかできないのであれば、お金をもらう資格はないと言うことができる。

このような地域では「うち(自法人)さえ良ければ...」の思考はもはや論外だ。国が企図している業界再編成モデルに迎合せず、各種の事業者が共存できる体制を構築していくほうが、公益法人と営利法人、大規模法人と零細法人など、立場の違う組織がそれぞれの強みを生かして連携し合う、面白い業界共存モデルができるだろう。そのためには、私が日頃から福祉業界や医療業界の「ガラパゴス化」と揶揄している旧態依然たるパラダイムから、関係者たちが解放されることも大切だ。

このたびの出講では、賀茂地区でがんばって仕事を続けるケアマネジャーたちの、それぞれの地域における創意工夫を聴かせていただく機会にも恵まれ、私にとっても学びになる場であった。地域資源に乏しく課題の多い地域に踏みとどまって役割を果たしている人たちに、心からエールをお送りしたい。

2017年9月 4日 (月)

講師の品格

身の周りのことで何かと多用であるとは言え、ありがたいことに、ときどき県内外からお声掛けいただき、企画や研修の講師として出向くことがある。マイナーな講師であっても、業界でのつながりは大切にしたいので、極力お受けすることにしている。

そのとき大切にしているのは、その出講のテーマ、そして内容が自分自身の倫理観に照らして正しいのか? ということだ。

だいぶ前のことだが、信頼筋からこんな話を聞いたことがある。

ある自治体が介護支援専門員を対象とした研修会を開催したところ、その講師が「介護支援専門員不要論」を軸に、介護支援専門員の問題点を突っつくのに終始したというのだ。他のところで確認した情報も勘案すると、大枠はその通りだっただろうと推測する。

その講師が「介護支援専門員不要論」を唱えていたのは以前から知っていたが、実際にそれを介護支援専門員対象の講演の中でぶち上げたことには、たいへん不快感を覚えた。確かに私よりはるかに知名度の高い人ではあったが、実体は単なる独善的な人間だったのではないのかと感じる。

これは、前回のエントリー、「真に介護業界の将来を憂えている論者と、独善的な動機から介護業界を貶めているに過ぎない論者とを、自分の頭で見分けるためには、どこに着目すれば良いか?」の内容(本文のほうがタイトルより短くなってしまった...)にも関連する話だ。

たとえば、私は浜松で在住外国人支援の実績を持っているので、もしどこかの団体から、介護分野における外国人の活用について話してほしいと頼まれたら、日程調整さえ可能であれば喜んで出向きたいと思う。ただし、それはあくまでも永住者や定住者の介護業界就労支援であるとか、留学生の資格取得→就労支援であるとか、効果が薄いとは言えEPAに基づき専門職を目指す人たちの支援であるとか、すなわち正規の労働者としての在住外国人支援に係る分野の話である。

もし、研修生・技能実習生を受け入れたい事業者を対象とした話をしてほしいと頼まれたら、いかに高額な報酬を提示されても、私はお断りする。なぜなら、私自身はこの制度の運用がその趣旨に乖離し、安価な労働力獲得の隠れ蓑になってしまったために、長年にわたって数々の人権侵害を招いてきたと理解しているので、制度そのものの廃止を主張しているからだ。自分が不要だと考えることを業とする人たちの集団から講演料をもらうのは、恥ずべき行為である。それが、人間として当然持つべき倫理観ではないだろうか。

したがって、自分が否定的に捉えることを説いてお金をもらうとしたら、それは「聴講者にはこうなって(こうあって)ほしくない」との主張になる。

去る8月22日、ケアマネットしまだ(島田市の介護支援専門員連絡組織)からのご依頼により、「ケアマネジャーの接遇」をテーマに講義を行った。途中のグループワークでは、何人かに「自分がモノを買うときに、売る側から応接されて不快だった経験」を語ってもらい、自分たちが利用者に対して同じことをしてしまっていないか、互いに分かち合い、振り返ってもらった。

特に、講義の中で何度も強調したのは、利用者にタメ口をきかないことである。「もし、利用者にタメ口をききたいケアマネジャーさんがいたら、自分のところの理事長にも医師にも、これからは同じようにタメ口で話して、それでうまくいくかやってみたらどうですか?」。つまり、業界の悪習とも言うべき「顧客にはタメ口、上司には敬語」などという非常識は、もはや社会では通用しないことを伝えたのだ。

これは、私自身が「悪習の排除」を実践していなければ、何の説得力もない。自分が否定的に捉えるものには、自分自身が手を染めない。日頃からその覚悟が必要である。

裏を返せば、講師を打診する側の団体が、依頼する際に講師の日常の振る舞いにツッコミを入れてみると、ニセモノ(独善・偽善)のメッキがはがれることもあるので、面白いかも知れない。もっとも、依頼する団体側からすると、事前交渉の段階で相手にこまごま問い質すのは失礼だとの認識もあるので、特別なことでも起こらない限り、たいていは確認不十分のまま依頼してしまうのだが...

いずれにせよ、私自身はそのようなニセモノとは明瞭な一線を画したいと考えている。それが自分の矜持でもあり、自分が講師を受任する際の基本指針でもある。

「講師の品格」とは、このようなものであろう。

2017年8月31日 (木)

真に介護業界の将来を憂えている論者と、独善的な動機から介護業界を貶めているに過ぎない論者とを、自分の頭で見分けるためには、どこに着目すれば良いか?

着目点は、

論者が、「人間」に対して、リスペクト(敬意)を持っているのか?

この一点のみ。

2017年8月18日 (金)

17年目の航海へ

親の介護を抱えると、離職しないまでも情報弱者になりかねない状況になるのだが、逆にそういうときこそ、人寄せをして孤立化を回避すべきであろう。

昨日は、2001年8月17日に「ジョアン」の看板を掲げて開業してから、満16年に当たる日なので、開業記念を口実に、浜松で一杯やろう会...との名目で、内輪の懇親会を企画してみた。

Facebook友達のうち、比較的距離感が近い三分の一ほどの方々、また当地のケアマネジャーでは、私とご一緒に市ケアマネ連絡協の役員を務めてくださった近しい方々を中心に、役員ではなくとも勉強熱心な方などにお声掛けした。しかし、お盆明けの多忙な時期であり、平日のたった二時間の飲み会ということもあって、来場してくださったのは浜松で半数程度、市外で一割程度にとどまった。それでも5道県から13人の方々が参加してくださったことには、心から感謝申し上げたい。

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特に、ネット上では15年前からのお付き合いであり、6年前に作文教室の冊子を自費出版した際にはブログでPRいただき本当にお世話になった、介護福祉道場「あかい花」の菊地雅洋さん(前列、パネルの隣)は、折しも他用で浜松にご滞在中だったため、貴重なお時間を使ってこの会に出向いてくださった(むしろ、菊地さんがこの日に在浜されているので、平日の飲み会を敢行したと言うほうが正確だ(^^;)。また、過去のエントリーでも登場願った、私の「歴友」岡山の渡邊さん(後列、向かって左から四人目)と、協働で独立型居宅を運営されている秦野の松田さん(同、左から五人目)とは、昨年の15周年記念行事に続き、遠路をいとわず二年連続で駆け付けてくださった。

さて、当面の課題は、すでに各サイトが報じている通り、独立型、特に一人親方の介護支援専門員が、どこまで制度上の仕事を続けていくことができるかということになるが、これに関連して、参加者のお一人から眉を顰める情報が飛び込んできた。

とある地方で一人親方として居宅介護支援事業所を自営していた介護支援専門員が、複数の場面で不正行為を重ね、指定取り消しになったのである。それも、その地方ではそれなりの知名度もあり、複数の団体で役職も歴任していた人物なのだ。これによって、政策側や医療系団体から、「一人親方ケアマネは危ない」との論調が強まることが予想される。

実は、私自身も、一人親方ケアマネは危ないと思う。

こう言うと意外に感じる読者があるかも知れないが、真意は、「基盤が弱いところに立っている人間は、初心が崩れると倫理的にも心が弱くなる」...である。

当該人物も最初はコンプライアンスを意識しながら、事業所の運営を軌道に乗せようと努めたであろう。しかし、独立して公正中立を守ってケアマネジメントを展開しても、制度の動向や周囲の情勢は、好転するどころか、どんどん悪化している。そのようなところで、倫理感覚を保つのがいかに難しいことか、何よりも16年間仕事を続けてきた私自身が実感している。当該人物は哀れにも転落して、さげすまれる存在になってしまったようだが、次は私自身がそうならないとも言い切れないのだ。

政策側が今後一人親方の介護支援専門員に求めてくるであろう「ネットワーク化」は、皮肉なことに、政策側が独立・中立の一人親方を報酬の上で評価してくれないところから、必要性が高まっていると、私は考えている。協業する仲間は、「病気や事故に遭ったとき」のために必要だと言うより、むしろ「倫理感覚を失いそうになったとき」のために必要なのだ。前者であれば、他の居宅介護支援事業所に利用者を委ねれば良いが、後者の場合は、公正中立や公益性などケアマネジャーとしての根本的なミッションが音を立てて崩れていくのである。

正直者がバカを見てはならない。しかし、正直者でいることがバカバカしくなる人は当然出てくるのだ。そのとき、「われわれは正直者でいこう!」と励まし合って、補い合える人がいるかいないか、それは今後の独立・中立型居宅、特に一人親方の動向を大きく左右するのではないか。

昨日の会で参加者と楽しく語らいながらも、この点を痛感した。

私の事業所は17年目に突入したが、この一年の最大の課題は、これから自分らしくケアマネジメントを展開していきたい地域の独立・中立型ケアマネジャーのために、協業しながら支え合う仲間を作っていくことであろうと感じている。

2017年7月31日 (月)

専門性への被用者意識の影響

先日のエントリーに書き連ねた通り、介護支援専門員の行く末は大きな岐路を迎えている。

国の介護保険制度の中で「介護支援専門員」として生き残るのか、それを超えて「ケアマネジャー」として新たな道を求めていくのか、それぞれの選択があろう。

そのような状況下、いつも思うのは、ケアマネジメントの仕事をしている人たちは、「プロフェッショナル」と「被用者」との、どちらの意識が強いのだろう? ということである。

医師や弁護士の大部分は、もちろん前者であろう。研修医とか司法修習生とかの期間は「被用者」に相当する段階なのかも知れないが、それを過ぎれば「個」として独立した一人の専門職である。開業していない状態、たとえば病院の勤務医でも、特定の団体に所属する顧問弁護士であっても、独立した領域を持つ「プロフェッショナル」としての意識を強く持っている人が大部分であろう。

しかし、ケアマネジャーの多くは残念ながらそうではない。就労後に所属の勤務先では「チームで仕事をする」期間が長く、「ここに帰属してお給料をもらう」習慣が次第に根付いていく。それ自体は決して悪いことではないのだが、その環境に安住する状態が長く続くと、二つの大きな課題を抱えることが多い。介護従事者すべてに言えるが、もちろんケアマネジャーにも当てはまる。

小著『これでいいのか?日本の介護』(P.71)にも触れたが、その一つは「組織に物申す気持ちがなかなか起きない」こと、もう一つは「組織の傘のもとに行動してしまう」ことである。

前者は、囲い込みに加担する営業型の介護支援専門員や、現状黙認の後ろ向きな妥協型の介護支援専門員などに類型化される。後者は力量不足なのに組織の後ろ盾を頼みにした「虎の威を借る」介護支援専門員、異動で当分いまの部署に居るだけの「足掛け」介護支援専門員、あるいは常に所属組織至上主義で外部から「社畜」と見なされている介護支援専門員などに類型化されよう。

もちろん、被用者であっても「ケアマネジャー」としての「プロフェッショナル」意識を強く持って働いている介護支援専門員は少なくない。ただ、残念なことに、その割合は医療系や法曹系の職種に比べるとかなり少ない。この点が、歴史の古い専門職から指摘される部分となっている。

先の社会保障審議会・介護給付費分科会(7月19日)では、すでに報じられた通り、居宅介護支援に関する事案について議論された。その中で、相も変わらぬ「一人ケアマネ」に対する批判的な見解が、政策側や医療系団体等から浴びせられたようだ。

当然であるが、同じく「一人ケアマネ」と言っても、自営(厳密に言えば自ら設立した法人の役員兼職員)と被用者とでは大きく状況が異なるので、一括りにされるのはまことに心外千万なのである。

既述の通り、被用者の介護支援専門員でもプロフェッショナルとしての意識の高い人や、これまで情弱であっても機会さえ作ってあげれば積極的に資質や技術の向上に努める人もいるので、すべてネガティブに捉えられるものではない。また自営の介護支援専門員の中にも、単に組織になじめなかったために独立した、自覚や協調性に欠ける一匹狼が存在することも事実である。

しかし、介護保険制度開始からまもなく18年。その間、自営のケアマネジャーは制度を担う介護支援専門員として、れっきとした「開業」の歴史を刻んできた。いつまでも「目に見えない部分の仕事」であるケアマネジメントの報酬を低く据え置く政策側や医療系団体は、その歴史を意図的に過小評価しているとしか考えられない。

裏を返せば、制度開始当初から介護支援専門員が独立して仕事ができる介護報酬の保証さえあれば、プロフェッショナル意識の強い介護支援専門員の割合ははるかに高くなり、一部の不適格な連中を除き、バラツキの大きさを指摘されにくい状況が作られていた可能性もある。

経過はともあれ、「被用者」の意識から脱け出せない介護支援専門員が、いくら歴史の古い専門職と対等な立場を主張しても、空しく響くだけである。「プロフェッショナル」としての意識や自覚をどれだけ強く持つことができるかに、私たちの職能の将来がかかっていると言えよう。

2017年7月11日 (火)

「介護支援専門員」は生き残れるのか?

先に誤解なきよう注釈しておくが、本エントリーの趣旨は広義の「ケアマネジャー」が生き残れるのか? の話ではない。

あくまでも、制度上の介護支援専門員に限った話である。

いま、介護保険制度のみならず、社会保障の枠組みが大きく変えられようとしている。1998年に初めて「介護支援専門員」の資格が誕生したとき、その将来像は「明」であった。それから19年を経過した現在、介護支援専門員の将来像ははっきり言って「暗」である。

それでは、なぜ「暗転」したのだろうか?

無能な介護支援専門員や、社畜みたいな(自法人の囲い込みを事とする)介護支援専門員が相当数いるからなのだ、と酷評する人もいるが、それが根本原因だとは思えない。もちろん、技量や資質の至らない介護支援専門員が、政策側や医療系団体等の攻撃の標的になっている現実はあるが、なぜそうなったのかの説明にはならない。

最大の原因を挙げるとしたら、日本における「介護支援専門員」の資格は、もともと職能を持っていた「ケアマネジャー」が自ら運動を起こして(国家資格ではないが)公式の資格の地位を勝ち取ったのではなく、介護保険制度を導入する際の必要上、国が公定の資格として導入し、関連職種に奨励して取得させたこと、その必要数を満たすために介護支援専門員の粗製乱造が行われたことであろう。結果として、技量や資質のバラツキが大きくなってしまった。また、制度設計上、他サービスとの併設が当たり前になってしまい、居宅介護支援単独では普通に生活できる介護報酬が得られないことから、囲い込みの横行を招くことになった。

つまり、「制度上の資格」として定められ、規格が決められてしまったがために、それに由来する綻びが大きくなり、資格の評価を下げることになった経過である。一部の介護支援専門員の努力にもかかわらず、資格の地盤沈下に歯止めがかからない現象が起こっている。

そして、この経過を踏まえて考えると、制度が変えられれば資格の存在意義も規格も変わってくることになる。私も「介護支援専門員の資格はなくならない」とは思うが、それは「介護支援専門員はこれまで通り仕事ができる」ことと同一ではない。

それでは、今後どのような事態が予測されるのであろうか?

一言で表現すれば、行政主導のシステムにより、介護支援専門員の仕事は「がんじがらめ」にされるだろう。

これに加えて、介護支援専門員の仕事ができるのは、一定の条件を満たした人や事業所に限定されるかも知れない。

その兆しは、昨年度からカリキュラムが大幅に変更された法定研修の内容や、今年3月に公開された「適切なケアマネジメント手法の策定に向けた調査研究報告書」の中に、すでに現れている。すなわち、介護支援専門員には「エビデンス(根拠)」重視のケアマネジメントを教科書のような丁寧さで身に着けさせる方針である。これは「ナラティブ(語り)」重視の「本来の(あるべき姿の)ケアマネジメント」と相容れない面が大きい。後者は国際的な潮流でもあるのだから、日本のケアマネジメントはそこから取り残されかねない危惧も感じる。

この方針によって導かれるのは、きわめて「官僚的な」ケアマネジメントになろう。それはしばしば利用者の真のニーズに寄り添わない、退屈な(「あ~あ、どうせオレ/アタシの気持ちなんかわかってくれないよねぇ...」と利用者に思わせてしまう)ケアマネジメント。もっと踏み込んだ表現をすれば、評価を偏重することで利用者の尊厳を軽視するケアマネジメントだと言うことができるかも知れない。

Ikinokori

このような価値観の押し付けに対して、強く抗してこそ、(より広い意味での)ケアマネジャーの専門性の意義があるのだ。

もちろん、国レベルの政策に対しては、国レベルで物申していかなければならない。これまで防戦一方で存在感の薄かった日本介護支援専門員協会も、自分たちの職能を守るためには、この2018年介護報酬改定から2021年改定までの間が、まさに正念場であろう。大事なのは、もっと現場で蓄積した「ナラティブ」の技術を言語化して、それを武器に「攻め」に転じるべきなのだ。ケアマネジャーの職能は上へ上へと積み上げる職能ではなく、広く社会を俯瞰して横断的に結び付けていく職能であることを、政策側や医療系団体等に示していくことが求められる。日本協会が本腰を上げてこれに取り組むのであれば、(これまで消極的だったが)私たちもこれに協力する用意はできている。

そして、現場の私たちの動き方だ。今後、制度上の介護支援専門員が生き残るためには、「押し」が必要になる。行政の出方に右顧左眄せず、あくまでも利用者にとって最善の支援を優先し、それができる介護支援専門員や事業所であるとの存在意義を、行政や地域に大きく示していくことが大切である。

また、AIに任せられる部分は任せてしまえば良い。私は個人的に、ケアマネジメントの全面ICT化には賛成だ。本来の仕事をしている介護支援専門員にとってみれば、「人」にしかできない仕事の部分が残るはずなのだから、その部分の仕事を今後も堂々とこなしていけば良い。逆に全面ICT化を本気で心配している介護支援専門員がいたら、その人はAIにできる仕事しかしてこなかったのではないだろうか。

最後に、私たちが忘れてはならないのは、職業倫理や行動規範を守ることである。ここが職能の要であることを認識しつつ、常に人を活かす仕事をしていくことが、介護支援専門員に課せられた使命であろう。

2017年6月18日 (日)

情報を取得するときの心得

既存メディアの功罪についての議論が絶えない。政治、経済、そして社会問題、国際情勢など。さまざまな分野に関して、新聞では全国紙や地方紙、TVでは公共放送や民間放送が、情報の普及に果たしてきた功績は計り知れない。他方で、メディアの「害悪」もまた小さくなかったことは現実である。

大新聞はとかく「偏向」を指摘されてきた。確かに紙媒体の新聞を読む限りは、主要な記事や論説のうち、かなりの割合のものが偏りを免れない状況であろう。しかし、インターネットが普及した現代では、大手メディアが必ずしも「偏向」していられないのが現実のようだ。

実際、右派・保守派から「パヨク」扱いされがちな朝日新聞が、提携するハフポスト日本版では、右派側の見解もそのまま掲載しているし、逆に左派・人権派から「ネトウヨ」扱いされがちな産経新聞も、オピニオンサイト「iRONNA」のコーナーでは、左派側の見解もそのまま掲載している。もちろん、両紙とも、自社側の論調をより強く印象付けるための仕掛けを、それなりに工夫しているらしいことが看取されるが。

また、このほかに、どう考えても論調がおかしい(一貫していない、判断根拠が理解し難い、etc.)全国紙や地方紙が存在することも確かである。

TVでは、一部にどう見ても偏向としか言えない番組はあるものの、問題の多くは局側の「視聴率を取りたいビジネスライクの姿勢」にあり、過剰な取材を始め、視聴者の興味本位に迎合した番組本位の稚拙な編集が、正確性や中立性を歪める原因を作っているので、視聴者から愛想を尽かされている面が強い。裏を返せば、質の高い編集がなされている番組には、視るに値するものも少なくないのだが、大勢を占めるには至っていない。

このような実態を踏まえ、最近はおもに若い人たちが、あまり新聞やTVに依存せず、ネットから直接情報を取得しようとするのは、時代の趨勢である。

さて、私たちがネットを主たる媒体として情報を取得するときに、心がけたいことがある。

それは、情報の「選び方」なのだ。

Jouhou

私がいつも強調しているのは、「私たちは無意識のうちに、自分にとって快い情報だけを取り込んでいる」ことである。人が情報を取得し、選択しようとするとき、大なり小なり、この図に示したような心理的動機が働く。いくら自分が公平な眼で、中立的な立ち位置で世の中を眺めようとしても、神ならぬ身であれば、100%それを貫徹するのは不可能と言えよう。

しかし、それを完璧に近づけるために努力することはできる。そのためには、

(1)「自分が日頃から尊敬、共感している人(組織)が、ある場面ではおかしなこと、間違ったことを言っていないか」

(2)「自分が日頃から嫌悪、批判している人(組織)が、ある場面では正論を言っていないか」

これらを常に意識して情報を「選ぶ」ことが必要になる。

拙著『これでいいのか? 日本の介護』第七章では、日本人特有の思考形態・行動様式について述べたが、その中で特に大きく取り上げたのが「二分割思考」である。「白」と「黒」、「善」と「悪」、「正」と「邪」、「純」と「不純」などが、その代表的なものだ。この「二分割思考」が「排除の論理」につながり、また私たちの正常な情報分析を妨げることは、前掲書中に述べているので、機会のある方はお読みいただきたい。

この「二分割思考」の壁を打ち破るために、上述した(1)と(2)とを常に意識することは、とても大切だ。考え方が両極端に走るのを防ぐことにより、ものごとの真実を見抜く力を養うことにつながるからである。

私たち市民がこのような努力をして、自分の頭で情報を選び、ネットでの極論や誹謗中傷に対して安易な賛同をしない姿勢、反対側の立場の見解を頭から否定しない姿勢を保っていけば、それは日本国民の民度を向上させ、成熟した市民社会の実現を近付けることになる。

上の(1)と(2)。一人でも多くの人たちに、ぜひ実践していただきたい。

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