ケアマネジメント

2023年4月28日 (金)

コンフロンテーション

不慣れな概念にも一度接したら、それを吸収し、やがては自家薬籠中のものとしていきたい。そんな姿勢で38年間、仕事や社会活動を続けてきた。

私たち介護支援専門員や社会福祉士は、コンセンサス(一致、合意)を大切にする。クライアント(利用者)の意向を尊重し、アドヴォカシー(代弁)機能を働かせ、本人に寄り添った支援計画を立て、協働するチームを構成する機関・事業所などの人たちと課題を共有しながら、支援方針についての合意を形成する。介護・福祉の現場で調整役を担う専門職として、望ましい姿には違いない。

ところが、この原則に忠実過ぎることが、かえってクライアントにとって最善の支援にならない場合があるのだ。たとえば過剰なサービス利用が心身の機能低下を来たし、クライアントの自立を妨げる場合など。

そのような場合にはコンセンサスの前に「コンフロンテーション」の技法を駆使しなければならない。辞書を引くと「対立」とあるが、支援過程の議論の中で用いるのであれば、「対置すること」「直面させること」と理解するのが適切と思われる。クライアント側の意向とは異なる自分の見解をテーブルの上に持ち出して、クライアント側と向き合うことを意味する。

この場合、支援者は支援計画を法制度の枠にはめ込む役割を演じるわけではないので、対置する見解はノーマティヴ(規範にのっとった)である必要はない。むしろ規範から外れた柔軟な発想を持たないと、コンフロンテーションはうまく機能しない。クライアント側が「杓子定規」「がんじがらめ」と認識してしまうと、直面すること自体に不快感を覚えることになるからだ。

また、コンフロンテーションの過程で大切なのは、「両者の真ん中辺りで妥協すること」ではない。期日を決めて支援計画を仕上げなければならないのならば、どこかで「落とし所」を探る努力はしなければならないが、それは「中間点」とは限らない。「クライアントにとって最善の着地点」を見付けなければならない。

そう考えると、コンフロンテーションの技法を使いこなすには結構な力量を要する。私自身、日頃からこの技法を活用しているが、最終的に好結果を招いた事例ばかりではない。クライアント側の不満を招き、解約に至ったことも複数回経験している。

とは言え、利用者の要望を無批判でケアプランにしてしまい、厚労省や学識経験者たちから「御用聞きケアマネ」「言いなりケアマネ」と貶められる三流(?)の介護支援専門員たちが、コンフロンテーションの術(すべ)を弁えていないことは明らかだ。

私の周囲を見回しても、介護支援専門員や社会福祉士の中に、この概念を知らない人が多過ぎる。専門職能教育の場で、コンセンサスとコンフロンテーションとをしっかり学ぶ機会に乏しいのは、嘆かわしいことであろう。

2023年3月31日 (金)

間もなく四半世紀

私が介護支援専門員実務研修受講資格試験(いわゆるケアマネ試験)に合格したのは、介護保険制度開始前の1998(平成10)年。誇り高い第一期生の一人だ。それから間もなく四半世紀を迎える。

当時、介護支援専門員はこの制度の弁護士のような存在になると期待されていた。現実にはその観測通りに経過したとは言い難い。

先に制度があって、それを踏まえて国によって作られた資格であることが大きな制約となり、介護支援専門員は政策の変転に振り回されてきた現実がある。他方で、少なからぬ介護支援専門員が資質の向上に熱心ではなく、組織の一員として仕事をすれば良しとしていることも、地位が向上しない原因であろう。

そして、いまや適切なケアマネジメント手法、ケアプランデータ連携システム、AIの導入やICTの活用などが主題となり、一つ間違えれば、介護支援専門員が展開する居宅介護支援・予防支援は、本来あるべきケアマネジメントとは別の方向へ舵を取ってしまうことにもなりかねない。

そのように危惧する背景や要因については、稿を改めて論じてみたい。

確か、介護保険制度が始まった2000(平成12)年、今年と同じく4月1日が土曜日だったと記憶している。当時の業界では、「走りながら考える」と称されていたこの制度の幕開け自体が、エイプリルフールではないかとも言われたものだ。

そんなことを思い起こしながら、来年度以降の介護保険制度、介護支援専門員の行く末について、ぼんやりと考えている。

2022年10月 2日 (日)

応援してくださった方々に感謝☆

「こんなに長く続けてこられるとは、開業した当時は考えられませんでした」

私の正直な思いだ。独立型の居宅介護支援事業所を始めて21年。多くの方々に支えていただき、走り続けることができた。みなさんには感謝の念しかない。

ケアマネジャーとして事実上の「個人事務所」を持ち、一人親方として自分のスタイルで仕事をして、二百数十人の利用者さんのケアマネジメントを展開することができた。いまでこそ周囲に同様な形態で仕事をしている人が少なくないが、2001年当時は全国でも数十人。そのうち半数程度は併設サービスも運営することで収益を維持していた。志の高いケアマネジャーでなければ、単体開業を続けること自体が難しかった。

ここまで続けてこられたのは、利用者さんを紹介してくださった関係機関や事業所の方々の力が大きいが、他方で、さまざまなご縁から知り合った全国の業界仲間の皆さんが、声援を送ってくださったことも大きい。

昨日(10月1日)、コロナ禍が収束していないことも考慮し、昨年に続いて集合イベントではない「オンライン飲み会」を企画して、SNSその他でつながっている方々にお声掛けをしてみた。

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自分を含めて11名の参加だったが、インティミットな集いになった。浜松の方が3名。他に東京都(離島)、兵庫、島根、愛媛、福岡、大分、宮崎からお一人ずつ。ほとんどが対面でお会いしたことがある方だ。

この中には2011年、私が介護業界の「産業日本語」に当たる緑色の冊子を最初に自費出版したとき、購入してくださった方がお二人いらっしゃる。また2018年以降、文章作成に関する講師としてお招きくださった方、文章作成術の自著本を買ってくださった方、文章作成講座を聴講してくださった方など、国語つながりの方が結構多い。単なるケアマネジャーでなく、異なる分野での専門性を帯びていたことは、業界で私が細々と生き続けてこられた原因でもある。

昨夜は二時間にわたり、観光、信仰、地元の名産、業界の転職事情、災害対策など、いろいろな分野の話に花が咲いた。地域も職種も異なる多くの方々とのつながりは、何にも代えがたい宝物と言えよう。

「人生は何かを捨てて何かを選択する」ものであるのならば、若いときに望んで実現できなかったことがいくつかあったものの、自分の好きな仕事を続けられたことには満足している。

さて、私の年齢も間もなく62歳を迎え、身体にいくつかの小さな疾患を抱えている状態だが、自分の身の丈に合わせながら、まだまだ仕事を続けていくつもりである。

みなさん、今後ともよろしくお願いします。

2022年6月26日 (日)

襟を正してください

地域包括支援センター(以下、「包括」と略称)は、管轄する区域の保健、医療、福祉に関する総合的な相談窓口である。地域の介護予防や権利擁護を推進し、必要に応じて関係機関と連絡調整しながら、支援体制を構築する機能を持つ。主任介護支援専門員・社会福祉士・保健師が必置であり、制度化されてから、はや16年になる。

自治体によって、包括を直営している場合と、社会福祉法人・医療法人等に委託している場合とがあるが、いずれの場合も、包括は自治体のいわば出先機関として、この16年間、大きな役割を果たしてきた。介護支援専門員にとっても、対応困難事例に相当する利用者さんを担当する上で、包括の有能なスタッフはありがたい存在である。

筆者の事務所がある地区の包括(社会福祉法人が受託運営)は、地域づくりにたいへん積極的であり、施設長さん以下、スタッフも粒ぞろいの感がある。先日も包括が主催した「圏域ケア会議」に出席して、愚見を申し述べてきた(画像は包括の保健師さんがホワイトボードにまとめたもの)。ここは「顔の見える」包括として、地域からたいへん頼りにされている。

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しかし、全国の業界仲間からは、必ずしも良い仕事をしているとは言えない包括の状況も聞こえてくる。自治体の姿勢や、受託した法人の姿勢にも影響されるだろうし、批判している側が必ずしも的を射ているとも限らない(相手の言い分を聞くわけではないので...)が、芳しくない行為をする包括(組織、個々の職員)が一定程度いることは、残念な現実であろう。

当地にも、包括の姿勢を疑いたくなる例はあった。

(1)土日祝日の間にはさまる平日、市の某庁舎では、包括を受任している法人の車が(確認できただけで)市役所の駐車場に9台駐車してあった。九分九厘九毛までは包括の会議だったはず。そして9法人のうち(少なくとも)3法人は、徒歩15分以内に、駐車できる同一法人の事業所がある。
他方、市民の車が何台も駐車場の入り口で列をなしていた。
市から委託を受けた機関の車が、市民の車を待たせるのはおかしくないのか??? なぜ自法人の事業所に車を置いて歩かないのか???
(なお、私自身は別の用事のため、車を使わずに来庁した)

(2)とあるケアマネジャーが、九分九厘九毛まで「虐待(行政用語)」に該当する事例に出くわしたので、5月2日の午後、包括へ相談した。当地では、通報を受けたら48時間以内に確認しなければならない規定がある。5月7日になって、この包括の職員がその人の自宅へ出向き、状況を確認した(と、そのケアマネジャーが私に話した)。2日から7日までがなぜ48時間なのか? 時間の感覚が麻痺したのか???

(3)要介護になった住民が、A法人が運営する地元の包括に行き、希望する居宅介護支援事業所の連絡先を教えてほしいと言ったところ、包括職員は同所に確認もせず、「そちらは仕事が忙しいから頼みにくい」と言い、別のB法人の居宅を紹介した。あとで聞いて不審に思った同所のケアマネジャーが、たまたまB法人運営の他地域の包括職員と話していたときに、新規利用者さんを「A法人の居宅へよく頼んでいる」ことが判明。これを一般的には、「ヤミカルテル」と言わないのか??? 公的機関がそれをやってもいいのか???

(4)私のところに、過去複数回舞い込んだ話。「要支援1から要支援2にしようと区分変更申請して、どこの居宅にも頼まずに(アセスメントもカンファレンスもやらず)月を越してしまって、認定結果が『要介護』になってしまった。前月分が減算になってしまうけれど、受けてくれないか?」
これに対して私は、「いや、それは違うでしょ? 
行政の出先機関が居宅介護支援事業所の『運営基準違反(減算)』を依頼するのはおかしくないですか?」と答えて、全部断っている。この場合、前月分は包括の責任で利用者さんに償還払いの手続きをお願いして、それをサポートしなければならないのではないか??? なぜそうしないのか???

これは当地の実話である(もちろん(2)(3)は伝聞であるが、私に語ってくれた方は信頼のおけるケアマネジャーであり、また問題になっていた包括の運営法人は、別部門で過去に類似行為をしていた「実績」もある)。それぞれ、いまから○年前の話だと言ってしまうと、法人名が特定されてしまう恐れもあるので、単にこの16年間に起きた話として紹介するにとどめる。もちろん、冒頭に記した当所所在地を管轄する包括は、(1)~(4)のいずれにも該当しない。

当地では市民、行政、他法人からの監視の目もあり、まだこの程度で済んでいると思ったほうが良いかも知れない。とは言え、本来ならば決しておかしな振る舞いをすべきではない。そのような事例が見受けられる包括の経営者、管理者、職員には、市民のための公的機関を受託している自覚が欠けていないだろうか。

介護業界が人材不足をはじめとした大きな課題をいくつも抱える中、地域の中核となるべき包括に携わる人たちには、いま一度、しっかりと襟を正してほしいものである。

2021年12月 4日 (土)

ようやく開講して思ったこと

以前のエントリーで、おもに介護従事者を対象にした「オンライン文章作成講座」を予告したが、あれこれと用事が重なったことにより、準備に時間が掛かってしまい、ようやく開講にこぎつけた。

全五講(各一時間、質疑応答時間もあり。受講料は一講につき1,500円)。11~12月に掛けて第一巡目を実施し、そのあと約一年余りの間に、何巡かローテーションで回していく。日本語の基本が短期間に大きく変わるものではないので、おおむね同じ話を何回も繰り返すことになる。詳細は私のHPをご覧いただきたい。開講情報は逐次更新していくつもりだ。

まだ申込者はお二人。そのうちお一人は第二巡目以降を希望されているので、第一巡目はいまのところお一人だけである。11月29日の第五講、そのお一人の方とマンツーマン状態で、記念すべき最初の講話をした。ちなみにこの方は、2011年の自費出版冊子「作文教室」を購入してくださって以来の知人であり、2018年に私のほうがお住まいの県まで出向いて、初対面を果たしている。4~5月にオンラインで準備講話を実践した際にもご協力いただいた。感謝!☆

文章作成講座とは言え、一般向けの「国語教室」ではなく、介護従事者向けにいろいろな方が開講されている「記録方法の指導」でもない。私たちの業界ではいまだ類例の少ない「産業日本語」の講義である。足元には私たちが守るべき職業倫理である「利用者本位」の底流があり、その上に立って私たちの大切な言語である日本語をどう理解し、どう活用するべきかを論じているものだ。

私自身はこれまで、書き言葉のみならず、話し言葉についても語る機会をいただき、多くのケアマネジャーや介護職員の前で、顧客である利用者やそれを支える介護者を尊重すべきことを力説してきた。これは、すでに折に触れて何度も述べた通り、私の若い時代の恥ずかしい行為(当時勤務していた施設の複数の利用者さんに対する、虐待に類する言動や侮蔑する言動)への痛切な反省を踏まえている。下の画像はこれらの講話の根幹部分と称するべきスライドである。

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そして、一人ひとりの職員が利用者に向き合う姿勢は、会話(口のきき方)にとどまらず、文章にも表れる。顧客である利用者や介護者に対する深いリスペクトが窺える文章は、おのずから品格を備えていることが多い。

もちろん、どれほど人間の尊厳を重んじる立派な介護従事者であっても、国語の力は意識して修得しなければ上達しない。日頃から「書くこと」「綴ること」をいとわずに、学習→実践→学習→実践を繰り返してこそ、その意図するところが読み手にしっかり伝わる、良い文章の書き手になることができる。

日頃から向上心をお持ちで、国語力を身に着けたい介護関係者の方は、ぜひ私の「オンライン文章作成講座」をご聴講いただきたい。

2021年9月15日 (水)

開業して20年

2001年9月15日、静岡県から居宅介護支援事業所の指定を受けて、本日で20年になります。

開業ケアマネジャーとして、細々とであるが仕事を続けてくことができました。これまで支えてくださった多くの方々に、心から感謝いたします。

記念企画として、オンラインでミニ講話と飲み会を開催しました。平日の夜なので、人数は前後合わせて14名様と少数でしたが、ご参集くださいました方々、ありがとうございました。

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みなさん、今後ともよろしくお願いいたします。

2021年6月24日 (木)

現場が疲弊する介護の施策

この4月からの介護報酬改定が一段落した。

改定に伴う一連の作業も、三年ごとの「セレモニー」として定着した感があるが、今回の改定はこれまでの改定と比較して、いささか異なるものがあった。改定の全体像や将来的な方向性などについては、すでにメジャーな論者の方々がさまざまな角度から論説を出しているので、私の出る幕ではない。

ただ、私自身、現場の介護支援専門員として、いろいろと思うところはある。細部には触れずに、今回の改定の大枠から看取される傾向だけを列記してみよう。

(1)繁文縟礼。各サービスの加算がいよいよ複雑になり、算定要件を満たそうとすればそのために多くの労力を割かなければならないことになっている。ケアマネジャーや介護従事者が「がんじがらめ」にされてしまう。

(2)給付側のための「自立支援」。限られた財政の中で施策を運用しなければならないことは重々承知しているが、利用者や介護者の自助努力を迫る内容は、介護保険発足当時の理念であったはずの「介護の社会化」にも逆行している。

(3)現場労働者への敬意の欠如。対価(←介護報酬)の問題だけではない。「不信のモデル(←性悪説)」「やりがい搾取」をいつまで続けるのか? と言いたくなるほど、専門性への軽視が目立っている。確かに業界や職能側の課題も大きいが、まずはこれまでの労苦に対する制度上「応分の評価」があり、それを受けて当事者がさらなる資質向上に努める好循環の確立が理想であろう。

(4)生硬なICT化。「署名・捺印」の省略一つ取っても、電磁的署名を取得する必要が生じるなど、ハードルは結構高い。本来、拙著『これでいいのか?日本の介護』でも述べたように、現場を熟知したシステムプロデューサーが適切にサポートしながら、それぞれの職場に適したICT化が推進されるのが望ましい。しかし現場はとてもその段階に到達していない。厚労省が推進する「科学的介護」に関連するシステムを構築していこうにも、いまだ道遠しと言わざるを得ない。

そして、これら全体を一言で表現すれば、「現場を疲弊させる施策」と評することができるだろう。

このうち、(1)(2)(3)については、また稿を改めて論じたいので、ここでは(4)について述べてみたい。

「生硬なICT化」により現場がいささか疲弊しても、エンドユーザーである利用者(介護者を含む)に利益をもたらすものであれば、まだマシなのだが、そうもならない。下に掲げた画像は、私が10年前に静岡県介護支援専門員協会の全体研修のパネリストとして披露したものだ。

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つまり、給付システムは独占・寡占を事とする企業体には大きな利益をもたらす反面、利用者にとっては決して(期待するほど)有益なものにならないと言いたかったのだが、まさに時を経た現在、この状況がさらに顕著になっている。

加えて、政府から受託されてシステムの設備を提供する企業・団体は、市場を独占できた以上、技術の精度向上や革新を停滞させたほうが利益を得られる現実がある。消極的なサボタージュ(原義は「妨害工作」の意)だとも位置付けられる(10年前に壇上からそう述べた)

まさに初手からつまづいた「LIFE」は、ここで予言した通りのありさまだ。もう一つ、新型コロナウイルス接触者アプリ「COCOA」も昨年、同様な醜態を晒している。

ここに来て、ようやく国が現場本位のICT化へ向け舵を切ってきたらしい(笑)ケアマネジメントの方式についても、またしかり。

かつて、独立・中立型のケアマネジャー連絡組織が存在したとき、厚生労働省に対し、アセスメント方式を統合し、さらにケアプラン作成方式を統合することを提案した。このコンヴァージェンス(収斂)が実現すれば、郵送やFAXなどの紙媒体によるケアプラン・サービス提供票の送受信から、所定の書式を用いたネットによる送受信へ転換し、ケアマネジャー・サービス事業者側担当者の大幅な業務の節減に至ると考えたからだ。

ところが、折衝に当たった会員は、厚生労働省から「それは無理」だと言われた。その理由は、「M社」と「N社」とのせめぎ合いが存在し、どちらかの方式をベースにしたコンヴァージェンスは困難だとのことだった。「寡占」を前提にしたとしか受け取れないこの反応には、私も少なからず落胆したものだ。

この「M社」と「N社」、どちらも防衛産業部門に参入し、仲良くどちらもサイバー攻撃を受けた(笑)ことでも知られる。最近はFA-IT統合の推進で共闘しているようだが。そして「M社」のほうは太陽光発電で利権を獲得し、その後は中国企業に押されて撤退する羽目になったことは、私たちの記憶に新しい。では「N社」は? かの「入退室の顔認証事案」で、某デジタル大臣が「脅す」「干す」と言いたくなるほど、官庁の利権構造に深く食い込んでいたことが、はしなくも暴露された(この発言自体は、代わり得る選択肢を大臣が恣意的に示したと見なされるので、それはそれで批判されて当然ではあるが...)。大きな企業体による「独占」「寡占」が、本来市民が享受すべき利益を蚕食する害悪は根深い。

厚労省のICT化推進において、同様な愚が繰り返されるとしたら、介護業界の将来は暗いものにしかならないことを、心から危惧している。

2021年6月15日 (火)

まもなく開講☆

ここ三年ばかり、研修の場でケアマネジャーや介護職員を指導する仕事から遠ざかってきた。

母の死去(2018年3月5日)を契機に、Facebookの業界仲間たちは、「喪中」の私が研修どころではないと踏んだらしい。もちろん、オファーが途絶えたのは、私自身が新企画のPRを何もしてこなかったことが最大の原因だ。メジャーな講師であれば、喪中だろうが続々とお呼びが掛かる。私のようなマイナーな講師はそうもいかない。宣伝らしいアクションをしない状況が続けば、「引退モード」と受け取られてしまうのは、いたしかたないことであろう。

そのうちにコロナ禍のため、集合研修の開催自体が難しくなり、いよいよ出講する機会はなくなってしまった。

代わって登場したのが、Zoomを活用したオンライン研修である。実は、私はこちらの流れにも乗ることができなかった。ドライ‐アイの症状が強かったため、PC画面を長時間凝視するのが厳しかったのである。

とは言え、転機は訪れるもので、季節の影響もあり、ドライ‐アイもようやく改善した。そんな中、かつての知人から、その方が在住する離島の介護職員の文章作成能力がイマイチなので、オンライン研修の講師をして欲しいとの希望があった。すでに5月9日、第一講を実施、来月には第二講が予定されている。

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さて、こんな体験を経て、自前でも講座を持つことができそうになったので、当方主催で「オンライン文章作成講座」を開始することにした。

現時点での構想は、1時間×4~5講、または30分×6~7講で、前者は一回1,500円、後者は一回1,000円程度を見込んでいる。各講の内容は、

・「ムダな語句を削ろう」

・「読み手が悩まないようにしよう」

・「情景が目の前に浮かぶ文章を作ろう」

・「間違えやすい言い回しや用語に気を付けよう」

・「助さん格さん-助詞・助動詞と『格』を使いこなそう」

などなど。

衛星放送のごとく、同じ資料を用いて各講をそれぞれ数回ずつ、一年かけてローテーションする。聴き逃した方は「再放送(?)」のところでまた受講していただけば良い。全体のサイクルが終了した後、最終的に聴講された講義の数だけ料金を支払っていただければ、振込手数料も一回だけで済む。

大勢の人たちが受講するとも思えないが、FBを中心として、本当に国語を学びたい人たちだけの集まりになっても、それはそれでいいのではないか。単なる「記録の書き方」ではなく、国文法から説き起こして、受講者が自分の文章をスッキリさせるための糧にしてもらうわけだから。

また、上記の離島同様、集合研修に代わるオンライン研修会の開催も歓迎する。その場合は一時間15,000円、二時間30,000円(税込み)で受任している。この場合は、参加者のレポートや記録などを、文法的に問題がないか個別に添削してあげる(別料金。A4一枚1,000円)こともできる。メジャーな講師に比べるとかなり格安なので、以前の集合研修同様、遠慮なくお申し込みされたい。

自前の講座は、いま準備期間。開催日程が決まったら、稿を改めてお知らせします。

2021年1月15日 (金)

報酬引き上げを求める資格があるのか?

1月15日は亡き父の「生誕記念99周年(^^#」。現実の父は80歳で世を去ったので、そのあとは単に私にとってのアニバーサリーである。クリスマスから遠くないこともあり、改めて特別な料理などを用意して祝うことはないが、かつて1月15日が固定された「成人の日」だった(いまは移動祝日)こともあり、忘れずに思い出すよう努めている。

その父は、晩年に認知症を患いつつ、介護サービスには拒否的であった。母の介護疲れを見かねた私が頼み込んで、ようやく通所介護を利用するようになり、短期入所生活介護も何とか開始できる段取りを取った直後に他界した。自分からサービスの利用控えをしてしまい、必要最低限の利用にとどまった形だが、介護保険料で積んでいた分を、サービスがより必要な市内の他の利用者に回すことができたとも言える。いつも来客に気前よく飲食物などを分けてあげることだけが美点だった(笑)父には、ふさわしい終末だったかも知れない。

さて、介護給付費分科会では2021年3月の介護報酬改定の大枠が固まった。厚生労働省と財務省とが折衝した結果、個別のサービスはともかく、全体として0.7%の引き上げが見込まれている。1万円だったものが1万70円になるわけだから、「微増」と言うべきか。

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これに対して、学識経験者からも介護現場からも、さまざまな論評が発せられている。国の財政基盤を考慮すれば、コロナ禍の中で引き下げられなかっただけでも十分な成果であるとする意見。逆にコロナ禍のため各事業者が大きな負担増を強いられており、この程度の微増では現場を去る人が増え、人手不足に拍車がかかるとする意見。いずれの論者も根拠に基づいて述べておられるので、その得失について私はあえて評定しない。

ただし、居宅介護支援は延々と収支差率が赤字であるため、「介護報酬をもっと引き上げろ」との議論が絶えない。特に介護支援専門員(=ケアマネジャー。このエントリーでは制度上の介護支援専門員を意味しているので、その呼称を使う)が1~2人であり、利用者数も少ない(たとえば私の事業所のような)ところは、満足な給与を出せば利益が出ないのが現実である。これに対して、現場の介護支援専門員からは、さらなる報酬引き上げを求める声も多く、他方で学識経験者や経営コンサルからは「(特定事業所加算を取るなど)大規模化せよ」との論が優勢になっているが、これについては後日、別稿で論じることにする。

今回は、「もっと引き上げろ!」と言う介護支援専門員たちについて、...

「あなたたち全員に、その資格があるのか?」

...これが本題だ。

・利用者を強く説得して(併設の)自社サービスを(必要最低限でなく)多めに利用してもらうように誘導した。

・給付管理を発生されるために利用者に頼んで、必要性がほとんど無い福祉用具を一品だけレンタルしてもらったり、通所へ月一回だけ行ってもらったりした。

・交通事故などの第三者行為で要介護状態になった(他の疾患等との合わせ技でなった場合を除く)利用者のために、通常通りに要介護認定を申請して、サービスの利用開始の運びにした。

たとえ善意から出た行動であっても、こんな経験のある介護支援専門員がいたら、はっきり申し上げたい。

「それ、モラルハザードだよね?」

保険の不適正給付に加担した人には、保険の公定価格である介護報酬を引き上げろと主張する資格はない。

さらに...

...「モラルハザード」は「保険詐欺」の意味で使われることが多いが、本来は社会保険に限定されない広い意味を持つ。「当事者の一方が自分の側だけから把握できる情報を意図的に歪曲したり、加入者が給付母体の存在を頼みにして意図的な権利の濫用をしたりする行動によって、適正な経済的関係が崩れること」の総称がモラルハザードなのである。

したがって、生保の不適正受給に加担したり(必要な利用者にはもちろん受給を支援するのが当然。ここでは客観的に、隠し資産があったり、経済的に余裕がある親族が扶助不能を偽装したりする場合を指す)、市区町村の独自サービスを受給するために事実と乖離する報告をしたり(基礎自治体側が許容範囲を甘くしているのなら話は別だが)することも、モラルハザードに含まれる。

あくまでも合法的に、公共財のサービスを我田引水の形で利用する、いわばフリーライダー(ただ乗り)の行為(例:タクシー代わりに救急車を呼んだなど)であれば、私も利用者側の選択を容認したことはある。もちろん道義的にお勧めできない旨を説いた上で、それでも利用者や主介護者から申請する、活用すると言われたら、私が勝手に代位して押しとどめる権利はないのだから。

しかし、モラルハザードは明らかにフリーライダーの行為とは一線を画している。「本来受けられない給付を、故意に事実を歪曲するなどして受給する」行為だ。反社会的行為と何ら変わるものではない。

それに参画した介護支援専門員が、なぜ介護保険の公定価格である報酬引き上げを求めるのか? 泥棒が警察に盗むためのお金をくださいと言っているのと同じであることを、わかっていないのか? 「いや、普段はまっとうな市民で、ときどき出来心で泥棒をするだけなので...」と言い訳するならば、ふざけるな!と言い返したい。

介護保険財政を食いつぶしているのは、あなたやあなたの利用者たちだ。

こんな話をすると、「馬鹿正直だねぇ」と言われるかも知れないが、みんなが正直に仕事をしていないから、各地で不正請求が摘発されるのではないのか? 介護支援専門員の風上にも置けない奴が偉そうに専門職を名乗り、その一部は人前で滔々と講義まで垂れている。馬鹿正直に仕事しているわれわれの足を引っ張るんじゃないよ!

私は過去19年の間、多くの利用者さんたちから(死去、転地、施設入所等以外の事情で)解約されている。その解約理由の大半は、私が利用者さんやキーパーソン(≒主介護者)さんのモラルハザード、またはそれに近付く行為を制止しようとしたので、煙たがられてしまったためだ。これは私の経歴の中で、最も誇るべきことの一つだと思っている。

発足当初は「介護保険の弁護士」とまで称され、期待された介護支援専門員。プロフェッショナルの矜持を忘れないでほしいものである。

2020年12月31日 (木)

どんなに若く未熟な駆け出しのスタッフに対しても、丁寧な言葉で話しましょう

2020年はコロナ禍に明け暮れた年となったが、私は可能な限り感染予防に心掛けながら、一年を通して、目の前の課題に向き合い、粛々と仕事を続けてきた。

日頃から心掛けているのは、「口先だけの人」にならないこと。「有言実行」が自分の目標である。この一年を振り返ると、気持ちはあっても実践したとは言い難いこともあれば、目指した通りに実践できたこともあった。

その中でも特に実践の完成度が高いと自画自賛しているのは、「タメ口をなるべく使わず、丁寧に話すこと」。

こう言うと、人生の先輩である利用者さん(大部分が高齢者)に対してのことだと思われるかも知れない。しかし、「顧客に対してタメ口をきかず敬語を使う」ことは、言われなくてもできて当然だ(画像の拙著でも節を立てて説いている)。むしろ、できていない人や事業所のほうが恥じ入る話であろう。ここで私が言いたいのはそれではない。

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「丁寧に話すべき」相手は、職場や業界の後輩たちなのだ。

私はケアマネジャーだが、一人親方の自営業であるから、連携を取り合う相手はすべて「他法人の職員」である。中には私から見れば経歴・実績が比較にならないほど経験が浅い、30年以上後輩の職員との間で報告・連絡・相談し合うのはよくあることだ。その際に、相手が応接もたどたどしく、なかなか意図が伝わらなかったとしても、タメ口で押しかぶせるような話し方はしていないつもりである。なぜなら、私自身、20代から30代前半のときには、その相手のレベルだったのだから。

そこで、自分が若く未熟な駆け出しのスタッフだった時期を思い出してほしい。経験を積んでいる業界の先輩たちとの間で報告・連絡・相談を繰り返していて、気持ち良く仕事ができたのはどんな場合だろうか? ほとんどの人にとって、それは相手が丁寧な言葉で応接してくれ、自分や自法人の立場を理解してくれ、対等な立場で尊重してくれた場合ではなかったか?

また、同じ法人の職場内でも言葉遣いは重要だ。しばしば、新人職員は上司や先輩の態度を見て学ぶ。横柄で、高圧的な、マウントを取るような上司や先輩が多ければ、それを学んだ部下や後輩は、次には利用者に対して横柄で、高圧的な、マウントを取る態度を示すようになるのだ。もちろん、他法人の職員を相手にするのと違い、上司や先輩が部下や後輩にタメ口で話すこと自体は、日常的でも差し支えないが、相手に対する敬意を込めて会話することは大事である。

さらに、外国人職員(技能実習生も含む)への影響は大きい。かつて製造業や建設業でも、外国人が安価な労働力として使い捨て状態にされている職場で、彼ら、彼女らが身に着けてしまった日本語の多くは、上司や先輩が吐いた暴言や罵詈雑言なのである。介護業界でも指導する日本人職員の資質次第で、同様なことが起きるであろう。逆に彼ら、彼女らが、洗練された言葉や相手に敬意を払う言葉を多く聞いていれば、それらの言葉をしっかり習得して、日本語の美点を理解してくれるに違いない。

近年、常に話題とされているネット上の誹謗中傷、何の躊躇もなく飛び交っている「人を傷付ける言葉」が、心ある人たちの目には、どれほど醜いものに映っているか。それは「丁寧な言葉」とは対極にある存在である。

逆に、敬意を込めた丁寧な言葉は、受け取る人のみならず、発する人の心も豊かにしてくれるのだ。

言葉は生き物であるから、時代に応じて変わっていくことを、もちろん私は否定しない。しかし、日本語の歴史の中で長きにわたって大切にされてきたものを、私たちは受け継いでいかなければならない。豊富な語彙の随所に見受けられる丁寧語や丁寧な言い回しは、私たちの伝統の中で育まれてきた、掛け替えのない文化の所産なのだから。

寒波に包まれた大晦日、みなさんにその大切さを訴え、理解していただきたく願っている。

暖かい言葉に包まれた2021年を過ごしましょう☆

良いお年をお迎えください!

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