社会問題

2019年7月 3日 (水)

人を傷つけて稼ぐのがそんなに楽しいか?

誤解なきようにお断りしておくが、このタイトルは、殺傷事件の犯人などが自らの事件に関する手記や著作を発刊して稼ぐことを意味するものではない。

あくまでも合法的な方法の範囲内で、他人を不幸にしたり苦しめたりすることで、収入を得ている人(たち)のことだ。

このテの人や組織には三つぐらいのパターンがある。一人の人や一つの組織が複数のパターンを兼ねている場合もある。

(1)差別したり侮蔑的に捉えたりしている属性の相手を貶め、自分(たち)に同調する人たちの賛同を集める

(2)情報弱者に対して、自分(たち)の一方的な評価に依拠した、信頼性や実効性に乏しい情報や物件を売る

(3)偏った過激な主張を掲げ、標的を定めて罵倒・攻撃し、自分(たち)に同調する人たちの賛同を集める

(4)その他(品薄のものを買い占めて転売するとか、虚構のブームを煽って品物を売るとか、...etc.)

この人たちの「稼ぐ」手法はさまざまだ。おもに、(1)はブログ・動画を用いたアフィリエイト、(2)は有料サロン等の会員制組織の運営、(3)は賛同者からのファンディングが主流だが、それに限らず、複数の手法を組み合わせて「稼いで」いる人たちも少なくない。一部では、違法性を疑われかねないギリギリのところまで手を出す連中も存在することが知られている。

この人たちに共通するのは、既成の権威やシステムを誹謗中傷、罵倒して、あたかも自分たちが時の人、正義の人であるかのように振舞うことだ。その点では悪質な一部の(あくまでも一部である)新興宗教にも通じるものがある。また、自分たちの手法の結果として起こったことへの社会的な非難を浴びても、責任を取らない、または責任を取ったポーズだけ見せて逃げる点も共通している。

多くは善良な社会人であった、貶められた人たちや、価値のないモノを買わされた人たちや、標的にされ攻撃された人たちが、どれだけ傷つこうが、自分(たち)の知ったことではない。限界が近付くまではやりかたを改めないし、そろそろ限界だと思えば早々に見切りをつけて撤退し、恬として恥じることなく、また新たな手口で同様な行為を繰り返す。

私は最近、自分自身で情報発生源を探り、自分の頭で妥当性を考える癖が付いているので、この類の人たちには引っ掛かることはめったにない(と思っている)が、それでも一時的、部分的に評価する場合はある。もちろん、大枠で「偽物」だと判明した時点で、基本的には信頼しない(ただし全否定ではなく、真に価値のある見解があれば、それに限って評価する可能性はあるが)。

この人たちは私の言葉などに対して、どうせ聞く耳を持たないだろうが、それでも言いたい。

「あなた(たち)は、人を傷つけて稼ぐのがそんなに楽しいですか?」

人の幸せを願って日々仕事をしている私たちの職域から眺めると、この人たちは全く異質の存在にしか見えない。なぜ、そのような生き方ができる社会になってしまったのか? 私たちも三思する必要があるだろう。

2019年6月26日 (水)

冷静に読み解くべき報告書

最近、以下の二つの報告書が話題になっている。

(1)金融庁が公表した金融審議会「市場ワーキング・グループ報告書 高齢社会における資産形成・管理」

(2)財務省が公表した財政制度等審議会「令和時代の財政の在り方に関する建議」

この両者に関して報道された内容が、人々を騒がせているのだ。

特に(1)は、「夫65歳、妻60歳の夫婦世帯では、30年間に公的年金以外の資産が2000万円必要」との試算だけがクローズアップされ、それを野党が意図的に政治問題化させ、与党は不器用な火消しに追われるといった、ドタバタ政治劇の混乱を招いている。

また、(2)の中にあった年金関係の数字が抹消されたことも、一部の市民から問題視されている。加えて、私たちの介護業界では、(2)のうちケアマネジャーなどの介護業界に関する内容が、安かろう悪かろうを推進し、良質な事業者をツブしかねない愚策だと非難されている。

そこで、〔自分の専門外の分野については十分に理解できていないことは承知の上で〕両者の全体に目を通してみた。

まず(1)であるが、読んでみたところ、報道されている話とは全く異質の印象を受けた。

これは、「余裕のある中高年世代に対する資産運用の勧奨」と、それに対する「金融機関向けの手引書」なのだ。だから、まだ導入部に過ぎない「人口動態等」の箇所で、勇み足よろしく米国の「プルーデント‐インベスタールール」を紹介している(P.8)。「この段階で早々とこんなコラム出すなよ!」と失笑してしまった。

つまり、「年金」の話題は、「資産運用」と「金融機関用手引」を引き出すための糸口に過ぎないのであり、そもそも主題ではない。もちろん、年金に関する試算にはそれだけの根拠があるのだろうが、そもそも一定以上の富裕層が志向する生活水準を前提にしたものであるから、私たち庶民には縁の薄い話(笑)なのだ。

したがって、この数字をネタにして一部野党が攻撃したのは事実「煽り」と言って差し支えないし、与党が報告書を「受け取らなかった」のも拙策だ。いや、受け取らないなら受け取らないでよかった。「ワーキンググループの段階の報告書なので、受理しなかった」と躱せば良かったのだ。受け取らないのにその内容についてあれこれ応酬しているから、かえって話がややこしくなってしまった。

続いて、(2)である。こちらは国政に占める比重は(1)よりもズンと重い。審議会による「建議」の形を採っているが、これが財務省の「意思」だと考えて良い。

まず、財政再建に向けて、オランダの財務大臣室に掲げてあったギリシア神話の絵まで紹介して、危機を警告している(P.9、資料Ⅰ-6-1)。オランダの場合、欧州債務危機の波及を受けての経済回復が緩やかであること、EUとの協調と移民対策との兼ね合いが長期にわたる重要課題であること、中小政党の政策の摺り合わせで連立政権が成立していること、などなど、日本とは国情の違いが大きいので、わざわざ引き合いに出すのはどうかと思うが、ま、それはひとまず措いておこう。

次に、社会保障に関する部分。私が着目したのは、薬局業務のうち、薬剤師の業務を対物業務から対人業務へシフトさせていくとした点である(P.19)。おそらくこの先には、AIの活用による薬剤師業務の省力化、ICT化も見越した見解であろう。ケアマネジメントにおいてもAIの活用が期待されているが、専門性を有する人間でなければできない部分をどう評価していくのか? それを調剤業務の報酬にどう反映させていくのか? 隣接する私たちの業界から見ても興味深い。

そして、上に述べた、介護業界の心ある論者たちから、愚策だとボロクソに叩かれている点。介護サービス価格の透明性向上・競争推進のために(P.23)、ケアマネジャーが複数の事業所のサービス内容と利用者負担額、つまり支払うお金を比較して紹介することで、より良いサービスがより安価に提供される仕組みのために働くべきとされている(資料Ⅱ-1-44)。これはまさしく現場を理解しない暴論であり、いまの時点で他業種に比較しても、職員に満足な給与さえ払えない介護報酬≒公定価格なのである。ここからさらに割り引きすることを期待するのは無理難題でしかない。ましてやケアマネジャーは必要な利用者に対して必要なサービス(たとえ利用者負担が多くなっても)を調整するのが役割であり、価格引き下げの片棒を担ぐものでは全くない。失礼千万である。この点に関しては、愚策だとの見解に全く同感である。業界から有能な人材が去っていく結果しか招かないことは、火を見るより明らかだ。

それから、年金に関連する部分。上記(1)の報告書をめぐる騒動を受け、マクロ経済スライドに関する部分の書き換えが行われたのは事実である(P.26)。しかし、他方で政府が推し進めてきた在職老齢年金制度の廃止(によって、働いて多くの収入があっても年金額を減らされないことになる高齢者の就労意欲を促進するのが目的)については、将来の年金受給者の給付水準の低下にも言及し、高所得者に対するクローバックの可能性にまで踏み込んで提議しており(P.29)、決して現実を軽視したものではない。この課題については、短絡的に反応するのではなく、国民皆が真剣に考えなければならないのではないだろうか。

あまり多岐にわたるので、私自身が該博な知識を持たない部分も多いが、他にも二点ほど気になった部分がある。

一つは、文教・科学技術の項目に関して、大学における研究環境の閉鎖性、硬直性が指摘され、日本の研究人材の国際流動性や国際共著論文数が主要先進諸国の中で劣っていることへの指摘である(P.46)。私たちの業界では、(専門職能団体が中心になってまとめているので)学術研究とはいささか趣を異にするのかも知れないが、先年、国のシンクタンクが事業として『適切なケアマネジメント手法の策定に向けた調査研究事業報告書(2018)』を編纂している。ここで言及されたケアマネジメントの「標準化」なる代物を謹んで拝見し(笑)、国際的なケアマネジメントの潮流であるナラティヴ‐ベイズド‐アプローチが著しく軽視された(としか言いようがない)作品を目の当たりにした私にとっては、実にうなづける指摘だなあと納得してしまった。
他の学問分野についてはよくわからないが、同様な傾向が顕著であるとしたら、日本人研究者のドメスティックな欠点を露呈しているものであり、英語力の不足などのさまざまな要因があろう。今後、業界を超えて克服していかなければならない。

もう一つは、社会資本整備の項目に関して、PPP/PFIの民活導入について論じ、そこでコンセッション方式の事例拡大を推進すべきとする方向性である(P.56)。コンセッション方式導入を勧奨する以上、従来型PFIであるとか、DBO方式であるとか、他の手法と比較した長所・短所について、当該社会資本の受益者が十分に理解した上で採否を決定していくのが筋であろう。私の見落としでなければ、今回の建議ではこの比較が明瞭に示されていない(資料Ⅱ-4-19)。規制緩和と連動した行政責任の縮小だけでは、市民生活に混乱を招く恐れが大きい。経営主体が外資系企業であればなおさらのことである。財政再建を錦の御旗にする財務省は推進に意欲満々なのかも知れないが、悔いを千載に残すことになってほしくないものだ。

以上、ざっと読んだ限りの感想である。賛成論も異論・反論も大いに歓迎する。ただし、必ず全体に目を通してからお願いしたい。

2019年6月12日 (水)

再教育が必要なのだろうか

きょうは珍しく、児童(少子化)に関連する話をエントリーしてみる。

私自身が未婚であり、(本日現在まで)子育て経験はない。なので、街角で子どもを同伴している親(母親の場合が多いが、土日には父親が一緒に居る姿も結構見かける)を傍目で眺めながら、子どもを一人前の大人に育てるため奮闘している姿に、微笑ましくなることが多い。

もちろん、時折だが社会常識に沿っていない親を見かけることはある。どんな事情があってそうするのか、なかなか察することはできないし、私自身が実害でも受けない限り、あえて口出しすることはしていない。親のそんな姿を見た子どものほうは大丈夫かな? と心配になることはあるが。もっとも、これは一握りの例であり、大部分はごく普通の常識的な親だ。

いずれにせよ、この子どもたちは自分たちの老後を支えてくれる世代である。元気に育っていってほしいと思う。

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しかし、残念なことに、世の中にはそう考えない人がいることも現実だ。親たちが社会常識に反する振る舞いをしていなくても、子どもたちや親たちに対して露骨に不快感を示す人たちが、相当数の割合でいる。それが単なる不満や、苦情程度に収まっていれば、まだ個人の意見として理解できないわけではないが、犯罪にまで至ることがある。

6月5~6日の間に、東京都足立区で、数人の幼稚園児の自宅郵便受けへ、「朝、駐車場で子供を騒がせるな。静かにさせろ。できなければ何があっても文句を言うな」との脅迫文が投函されていた。保護者が警察へ届け出て、捜査の結果、71歳の男が容疑者として逮捕された。男は容疑を認め(脅迫の意図については否認)、「毎朝のことで騒音に耐えかねた」と供述しているという。

この人物の姓を見て、同じ姓の男(たぶん血縁ではなく、偶然であろう)が数年前に起こした、とある事件を思い出してしまった。

2015年、東京都の有楽町駅でベビーカーに乗っていた1歳児の頭を、64歳(ならば現在は68歳ぐらい)の男が拳で殴打した。母親の悲鳴に驚き、父親がすぐに男を取り押さえ、警察に突き出したので、男は逮捕された。「ベビーカーが邪魔だったので殴った」と供述していた事件。

どちらの男にも共通するのは、子どもや親に対する病的な憎悪である。普通は、ベビーカーが邪魔だと思っても、子どもを殴ることはしない。普通は、幼稚園のバスを待っている子どもの声がやかましいと思っても、親を脅迫することはしない(ちなみに、私自身、営業時間の関係上、朝起きるのが遅いので、家の前を通る小学生の大きな声で起こされることはあるが、『ああ、もうそんな時間か』と思うだけで、一度として迷惑だと感じたことはない)。

もう一つ共通する点がある。それは二人とも「団塊の世代」であることだ。前者はおそらく1947年生まれ、後者はおそらく1950年生まれで、厚労省が白書にうたう「団塊世代(1947~49年生まれ)」より一つ若いが、実はこの年までの出生数が著しく多いので、広義の「団塊の世代」は、1947~50年生まれと考えて差し支えない。

日本中を騒がせた大事件でもないので、二人の家族関係や背景を検索しても明らかではなかった。憶測は控えたいが、家族がいないか、または、いても孤立に近い状態だったのではないだろうか?

もちろん、子育てに不寛容なのはこの二人だけではない。確かにこの二人がやったことは異常であるが、自宅の近くに幼稚園や保育所の設置計画が持ち上がると、地域の静穏が乱されると思い反対する住民(おもに中高年以上だが、若い世代にもある)は、日本中の各地に存在する。ある意味、この二人がしたことは、多くの市民が抱いている気持ちを、過激に表現しただけだと言えるかも知れない。幼稚園教諭や保育士たちの技術的な課題も存在している(ヨーロッパの福祉先進国では、幼児たちを無理に抑制しなくても、あまり騒がせずに遊ばせる技術が進んでいるとの報告もある)。また、ベビーカーを電車に乗せる親の一部には、他の乗客や通行人への配慮が欠落しているとの意見もある。不満や苦情を訴える側が一方的に非常識でズレていると言うのは、過当であろう。

だからと言って、暴力や脅迫が許されて良いはずはない。当たり前だ。

この二人のような行為が頻発した場合、単に社会不安を誘発するだけではない。若い子育て世代の間に、「自分たちが働いて納める税金を、何でこんな〔子育てを妨害する〕ジジイたちのために使われなければならないのか?」との声が高くなれば、団塊の世代に対する批判が強まり、世代間の憎悪を増長させ、地域社会の人間関係がさらに不寛容になる恐れがある。

そうならないために、私たちは何をすれば良いのだろうか。

この二人のような人だけではなく、すべての住民、特に中高年以上を対象とした「再教育」が必要なのかも知れない。いまの日本の少子高齢化により、社会の持続にとって危機的な事態が近付いていること。それを考慮すると、自宅近くだけ子どもの騒音がないようにしてほしいなどの「総論賛成、各論反対」は、もはや許される状況にはないこと。地域全体で理解し合って子育てをすることが、自分自身の老後を支えてもらう豊かな社会の構築につながること。等々。単なる「学習会」ではなく、おもに周囲に子どもがいない人たちには、地域の幼児や小児と実際に触れ合ってもらう機会もほしい。

もっとも、そんな再教育の場を設けたとしても、上記の二人などは参加しないかも知れない。それならば逆に、彼らを孤立させないために、地域でどう声掛けをすれば良いのか? 次なる課題を皆で協議していくことが大切だ。

地域包括ケアシステムが目指すものは、高齢者や障害者だけのための仕組みづくりではない。誰もが住みやすい街をどう建設していくのか、構成員が全員参加する形で、知恵を絞っていきたいものである。

(※画像はグラパックジャパンのものを借用しました)

2019年6月 5日 (水)

東大卒のプライドは東大卒にしかわからない!

今回は、最近メディアを騒がしたいくつかの衝撃的な事件のうち、二つを取り上げてみたい。

4月19日、池袋で元上級官僚・I氏(88)の運転する車が暴走して、母子二人の命を奪い、九人に重軽傷を負わせた事故。

6月1日、練馬区の元上級官僚・K氏(79)が自宅で長男を刺殺した事件。

両事件とも、発生後にさまざまな視点からの議論が巻き起こっている。

前者に関しては、高齢者の運転技術や、警察や報道のありかたに関するものが多い。被疑者であるI氏が容疑者ではなく「さん」付けで報道されたこと。そしてI氏が退院後も容疑を実質否認しているのにもかかわらず警察に逮捕されていないので、もとの身分を忖度されたのかと評されていること。また、同年齢程度の高齢者の多くは運転能力に疑問があると考えられること。これを契機に運転免許証を返納する高齢者が急増したこと。等々。

後者に関しては、直前に発生した川崎の殺傷事件と関連付けた論評が主である。K氏の長男(44)が川崎の加害者(51歳。自殺)に類似した「ひきこもり」生活を送っていたこと。家庭内暴力があってK氏が身の危険を感じていたところ、長男が近くの小学校の運動会について「うるさい」と怒ったので、川崎同様の事件を起こさせないため殺害に踏み切ったこと。一人で抱え込んで公的機関に一度も相談しなかったこと。等々。

そして、さまざまな議論が交わされている中で、保健・福祉関係者をはじめとする多数意見は、前者について「高齢者は運転免許を返納しよう」、後者について「家族の生活課題を抱え込まずに地域資源を活用しよう」へ向かいつつある。

だが、あえて異論を一言。

I氏やK氏に対し、早くから上記のように提案しても、おそらく解決に結び付かなかった。

妨げになっているのが「東大卒のプライド」なのである。

(...もっとも、最近は東大の「権威」も低下しているので、「東大卒のプライド」にも変化が見られる。ここでは40代ぐらいから上の、一定以上の年代のOB・OGに共通するプライドの意味に使う)

誰も(←私が見聞する限り)二つの事件に共通するこの代物に斬り込んでいない。「上級官僚のプライド」に踏み込んだ論調はいくつも見受けられるが、両者はイコールではない。

上級官僚に限らず、大企業の経営者や役職者として成功した富裕な人とか、学会や業界の重鎮などは、他にも少なからず存在する。誰もがそんな知人を三人や四人持っている。つまり、数は少ないが自分の周囲にも結構いる存在なのだから、その人たち特有のプライドを感じることも、機会は少ないが日常の中でときどきあると思われる。外面からであっても、それらを理解するのはさほど難しくない。

だが、「東大卒のプライド」はそんな簡単に理解できるものではない。いや、おそらくこれは、該当する者(修了した学部・学科に関係なく)でなければ理解できないと思ってもらったほうが良い

そう言い切ってしまうと、「それでは評論のしようがないじゃないか!」と反論されるかも知れないが、それでも私はうなづくしかない。

I氏の場合。氏は事故について謝罪しつつも、「ブレーキが利かなかった」と言い張り、アクセルを踏み込んだことを否認している。他方で警察はブレーキに故障が認められないと結論付けている。この点について論者は、I氏の「認知症の兆候」、あるいは「正当化」「自己弁護」「隠蔽」の意思だと推測する。

私に言わせれば、これらは的外れだ。I氏の思考の中では、どこまでも「ブレーキが利かなかった」のである。間違えてアクセルを踏み込むはずはないのである。自分の行為は「ブレーキを踏み続けた」のに「利かなかった」以外にあり得ない。事故のとき、同乗の妻に対して「ああ、どうしちゃったんだろう」と言ったとされる言葉が、それを正直に表している。

ではI氏は亡くなった母子に対して申し訳なさを感じていないのかと言えば、決してそうではないと思う。自分の車が事故を巻き起こしたことについて、言いようのない慙愧を覚えているのではないか。しかし、その原因はあくまでも「自分は安全運転していたのに、ブレーキが利かなかった」なのである。I氏自身もそうとしか言いようがないのだと思う。

K氏の場合。氏は「長男が川崎のような事件を起こすかも知れないと案じて殺害に踏み切った」と供述しているという。長男の引きこもりは以前からあったのだから、同居した直後に公的機関などの社会資源に相談すれば良かったという人たちがいる。著名なソーシャルワーカーもそう言っている。

私は言いたい。それができない(できなかった)のだ。

結果から推測する限りであるが、何と言われても、できないものはできないのである。K氏の思考の中には、「他人に迷惑がかからないように、自分たち(家族)の中で始末する」のが唯一の選択だったのだ。K氏ほど人脈が豊かな人が、その気持ちさえあれば、自分の知人を通して適切な専門職に相談するのはたやすいことだったと判断される。しかし、それはK氏にとって容認できる手段の外であった。

理解に苦しむ読者が多いであろうことは承知しているが、この両氏の行動の根にあるのが「東大卒のプライド」である。

この二人の事例を見て気が付いたこと。「受援力」=「支援を求め、受ける力」の言葉があるが、「東大卒のプライド」は「受援力」の欠如に結び付いている。

なので、このプライドはある意味、危険な存在なのかも知れない。I氏やK氏の事例から見る限り、多くの人から見れば、「東大卒のプライド」の所産は、実体として「愚劣」に映るに違いない。

しかし、他方でこのプライドは、当人が「辛い、苦しい状況」に陥ったとき、歯を食いしばって耐え抜く原動力でもあるのだ。そして、その力が、政治、経済、科学技術、文化、社会保障などの多くの分野で、輝かしい成果を実らせてきたことも、また疑いのない事実なである。

I氏とK氏には、亡くなった人に対して心から贖罪することと、自らの心の安らぎがもたらされることを願いたい。

併せて、該当するすべてのOB・OGが抱いている「東大卒のプライド」が、社会にとって望ましい方向のエネルギーに転化されることを祈りたい。

2019年5月21日 (火)

それが「諦める」理由なのか?

先日、亡き母と親しかった方(女性)と、短い時間であるが、話す機会があった。

この方は年齢70代初めで、旦那さんと二人暮らしである。内蔵的な疾患は持っているが、いまはご夫婦とも元気で、畑仕事や趣味活動には前向きに参加している。

この方には娘さんがお二人、どちらも40代前半で独身なのだが、娘さんたちについてこんなことを語っていた。

「うちの長女(会社の中間管理職)は仕事を仕切っていくのが忙しく、ご縁が無いのよ」

「下の娘さんはどうなんですか?」

「二女(病院の中間管理職)も多忙なのに加えて、自分が看護師だから、いろいろなことがわかってしまっている。いまの自分の年齢だと、出産しても障害を持つ子どもが生まれる確率が高い。だからもう結婚も諦める考えになってしまっているの。もし将来、ご縁があるとしても、育児とは関係ない『パートナー』ってことになるのかな」

それが二女さんの正直な気持ちであれば、十分に理解できるし、ネガティヴに評価するつもりは全くない。

生まれてくる子どもが障害(種別はどうあれ)を持っていれば、親の負担は大きい。介助に要する時間や費用、補助具の調達等の生活環境整備に要する時間や費用は、障害の程度にもよるが、「健常者」の子どもたちに比べると大きなものがある。特に、夫となった人が、仕事の多忙などにより障害を持つ子どもの養育に十分協力してくれない場合、妻の側が一人で抱え込む事態にもなりかねない。

この二女さんが「結婚・出産・育児」を諦めた真の理由は、ご本人に会って話してみないことにはわからない。しかし、医療の専門職である以上、「命」の重さに格差があるなどと考える人では決してないだろう。また、高齢出産で障害を持った子どもが生まれると決まったわけでは全くない。

本来、障害を持つ子どもが生まれてきても、親とともに社会でその子たちを支えていくことが、日本が目指す「高福祉」の理想だったはずだ。しかし、現在の日本社会は、その理想とは程遠いところにある。残念だが。

だからこそ、この二女さんの「諦め」を助長することにもなってしまうのであろう。

もし、障害を持つ子どもが生まれても、確実に支えてもらえる社会であれば、この二女さんの選択も、異なったものになるのかも知れない。

そんなことを思ってみる。

2019年4月23日 (火)

復活祭二題

今年の復活祭は、4月21日で、たいへん遅い暦日となった。それが影響したのか、しばしば「寒の戻り」「花冷え」といった現症が繰り返され、寒暖の差で体調を整えるのが難しい年だった。

とは言え、大病も大きな事故もなく、この時期を迎えることができた。ささやかではあるが、好きなワインを飲みながら、手製の一品料理でディナーを摂り、主のご復活を祝っている(画像はイタリア産、祝典用のバローロ)。

さて、復活祭に関連して、今年は二つの大きなできごとがあった。これはある意味で神様からの「発題」なのかも知れないと思い、それぞれの「お題」について黙想してみた。

一つの「お題」は、パリ(フランス)のノートルダム大聖堂の大部分が、火災によって消失した事案。

このニュースが報じられた直後に思ったのは、

「建物としての聖堂が焼失しても、心の殿堂は決して消失しない」。

その後、何日か経過すると、世界の各地から再建のための支援が続々と寄せられることが話題となった。

それに対して、「聖堂に寄付するよりも、困ってる人たちを助けろ」との批判。日本の介護・福祉関係者にもそう言い出す人がいる。

私が思ったのは、

「でも、その批判、『生活保護でパチンコ行くな!』って、外野が勝手に使途を決めて、受給者を非難攻撃するのと変わらないよね」。

宗教的情熱か、売名行為か知らないが、その国で法律上の問題さえ起こさなければ、個人の資産をどう使おうと自由なはず。まさに「自己決定」だ。

社会的成功を収めた人が、得た利潤を社会に還元するのは〔キリスト教的な〕義務であろう。しかし還元する対象が、人々の祈りの場である教会であったとしても、全く道義的に問題とされるものではない。

聖堂の再建へ向けて人々が心を合わせることにより、国境やセクトを超えた連帯が生まれるのならば、それは喜ばしいことではないだろうか?

20190420barolo 

もう一つの「お題」は、コロンボ(スリ‐ランカ)の複数の教会など6箇所の建物が、おそらくテロリストが仕掛けたと推測される爆発物によって破壊され、多くの死者が出た事案である。

テロリストたち(-イスラーム過激派だと考えられるが、同国ではかつて仏教徒とヒンドゥー教徒も、血を血で洗う抗争を繰り広げた。キリスト教を含めた多くの宗教には、異教徒たちの殺戮をいとわない人たちは存在する。日本でもかつてオウム真理教がそうであった。イスラーム教だけが非難されるべきではない。念のため-)の所業は、道義的にも法的にも許されない行為である。これは圧倒的多数の人たちが共有する見解であろう。

しかし、イエス‐キリストは十字架上で想像を絶する苦痛の中にありながら、こう仰った。

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです(ルカ福音書23-34)」

この言葉をゴルゴタの丘で聴いた人たちの衝撃は、いかほどであっただろうか。

そして、私たちも信徒である以上、イエスにならうべきである。

テロリストたちが同国の法にのっとった裁きを受けるべきなのは当然であるが、彼らの魂の救済のために、神のお赦しを祈りたい。

2019年4月16日 (火)

つくられた「バカ殿様」

三年前の開業15周年記念講演で予告し、過去のエントリーでも少し垣間見せたのだが、かねてから私は、江戸幕府の九代将軍・徳川家重の評伝を執筆したいと思っていた。

家重の優れた業績については、すでに甲斐素直氏(法学者)がHPで、井沢元彦氏(作家)が著書で、それぞれ持論を展開されているので、ご関心のある方は参照されたい。

このような名誉回復の動きが顕著であるのにもかかわらず、いまだに多くの日本人が家重の名前さえほとんど知らないでいるのが現実である。そして、名を知っている人も多くは、脳性麻痺による構音障害があった将軍としか認識していない。史伝でも小説でも、暗愚な君主とされていることが少なくないのが現実だ。少し古いが、1995(平成7)年のNHK大河ドラマ『八代将軍吉宗』でも、中村梅雀演じる家重は、不肖で酒浸りの身勝手な跡継ぎとして描かれており、一言で表現すれば「バカ殿様」であった。

Tokugawa_ieshige 

家重が酒好きだったことは事実であるが、彼がなぜ大酒したのか? 私は、そこに家重なりの理由があったと考えている。決して政治に嫌気が差して酒に溺れた類の話ではない。むしろ家重がきわめてクールな政治的人間であったからこそ、パフォーマンスの一つとしての「酒好き」があったと理解している。

このあたりは、いずれこのブログの中で取り上げることになるだろう。

家重は、(1)先代君主・吉宗の政策が不評だったので、大幅に軌道修正した。(2)門閥・保守派の抵抗を抑えて、既得権益の牙城を崩した。(3)米穀経済に依存する税制から大転換して、直間比率を逆転させようとした。(4)ヨーロッパ先進諸国と比較しても遜色のない、近代的な施策を推進した。...etc.

これらの面から、きわめて高い評価に値する、日本史上屈指の明君であると、私は考えている。

この仮説にしたがって、私は甲斐氏や井沢氏の論考を尊重しながら、家重に関する単一のまとまった書を世に出すことを企図するものである。

いずれは自費出版も予定しており、結構な分量になることが予測される。そのため、通常のブログ更新-最近はもっぱら火曜日であるが-の際に記事を掲載すると、別の主題を取り上げる暇がない。

そこで、火曜日には他の主題についてエントリーして、どこか別の曜日で、家重に関するエントリーを連載するようにしたい。

ただし、いきなり家重に踏み込むのではなく、まずは前置きから入りたいと思う。期待されている読者には、隔靴掻痒の感が否めないだろうとは予想されるが、ものごとは順序立てて進めたいのが私の性分である。なにとぞご寛容な心で、気長に読み続けていただけると幸いである。

(※画像はパブリック‐ドメインのものを借用しました)

2019年3月26日 (火)

ダメなコンサルの見分けかた

経営コンサルタント(以下、「コンサル」という)なる職業がある。

私が身を置く介護業界でも、昨今の制度改正...と言うよりむしろ改悪による、事業経営の厳しさを受けて、コンサルに対する注目度は高まっているようだ。

ところで、これは(ケアマネジャーも含め)どの職種にも言えることだが、コンサルも資質・能力の落差が大きい。

残念なことに、私が過去、仕事上で出くわしたコンサルは、いずれも能力に問題ありと言い切って差し支えない人物であった。宮仕えのときから現在に至るまで、コンサルを名乗る何人かの人物とさまざまな形で接触する機会があったが、「これはダメだな」「このテの人とご縁を持ちたくない」と感じた人ばかりだったと記憶している。早い話が、コンサルとしては用無しの人だ。

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むろん、そのレベルの人ばかりではなく、優れたコンサルも数多く存在する。実力十分であるコンサルの方に出会えた法人や事業所は、好いご縁によって良い仕事ができる可能性が強い。幸せであろう。

しかし、玉石混淆の中から見分けるのは、なかなか難しい。

そこで、あなたが事業経営者や事業所管理者の立場にあり、組織を代表してコンサルを依頼することになった場合に、ご参考にしていただける、ダメなコンサルの見分けかたを伝授しよう(^^)v

(1)財布のヒモをゆるめないコンサル

「ケチ」と同義語ではない。節約して効果的にお金を使う、良い意味での「ケチ」はむしろ評価されるべき。ここでは、「初期投資をしない」意味に取ってほしい。
まずは、あなたが自分の会社や事業所で作った製品(なければ、著書でも自作のアイディアでも何でも良い)をコンサルに売ってみよう。ちゃんと自分がお金を出して入手した上で、その価値について論評するのが有能なコンサル。〔モノによって、すぐ買えるもの、購入しにくいものの差異はあるにせよ、〕その商品を端(はな)から買う気がないコンサルは、「おたくの組織に関心を持っていません」と言っているのに等しい。本気度を疑うに十分だ。

(2)組織の内部に入って観察しないコンサル

コンサル選びで失敗する最大の原因は、たいてい「組織を外からしか見てくれない」ところにある。いつもスーツ姿で改まって来社・来所するのではなく、社員や職員と同じように地味な、またはラフな服装で事業所の中に入り込み、時間をかけて人の動きを観察しながら、課題の核心を抽出し、アセスメント(事前評価)するぐらいは、仕事の入口では当たり前だ。その姿勢に欠けているコンサルに頼るのは、あとで時間やお金の無駄遣いになる公算が大きい。

(3)働く人に敬意を払わないコンサル

まず、ステータス差別。たとえば会社の清掃員があいさつしても、あいさつを返さない人はレッドカード。それから、年代や性別による差別。たとえば20代の女性社員を軽く扱って「若い女の子」などと表現する年輩の人(おもに男性コンサル)などがこれに相当する。自分たちの世代の、それも特に男性に対する過剰な自負の意識を持っていれば、ニュートラルに社員・職員を観察することなどできない。
組織は働く人の集合体である以上、属性に関係なく、それを構成する全員が主役。一人ひとりの「人」を尊重しないコンサルに、組織に対して的確に助言できる資質があるはずはない。裏を返せば、そのコンサル本人こそ、自分自身が見下しているレベル程度の価値しか持たない人間なのだと、アイロニカルに評価するのが良いだろう。

(4)その事業の利用客を最優先に考えるコンサル

これは意外かも知れない。だが、利用客・顧客(≦その組織から見たステイクホルダー)満足度の向上は、その組織側の人間が考えることなのだ。コンサルの出番ではない。
コンサルが利用客最優先の指導・助言をしたらどうなるか? 利用客の要望を極大化させた理想論が先行して、働く人たちに無理を強いることも出てくるだろう。そうなれば職場に対する不満も増えて、サービスの質が低下する。
コンサルの仕事は、働く人がその職場で働きやすいように仕向け、働く人が余裕を持って利用客を尊重できる環境を作ることだ。ここを間違えているコンサルの指導・助言は、ピント外れになってしまう恐れが強いので、要注意である。

(5)地位の高い人物、著名な人物や団体との関係をチラつかせるコンサル

このテの話は、いわば「虚仮(コケ)脅かし」の類であり、実際には名前が出ている人や団体と有機的なつながりを持たない空虚な関係であることが多い。自分の存在を大きく見せたいがために、そんな話ばかりするのだ。ホンモノの大物コンサルから、そんな話はめったに出てこない。虎の威を借りなくても、おのずと品格や力量を備えているのだから。

以上、おもな点を掲げてみた。他にもあるのだが、それは機会を改めて。

このように整理してみると、この5条件、たとえば(2)(3)(5)は「ダメな主任ケアマネジャー」とも共通するし、コンサルに限った話ではない。人として、専門家として信頼に値するのかどうかは、業種や職種を超えて共通する面が多いようにも思われる。

ま、とにかく、こんな時代だ。あなたやあなたの組織が三流・四流のコンサルにダマされて、お金をドブに捨てる羽目にならないことを願う。

2019年3月12日 (火)

人に向き合う仕事で、「身の危険」は当たり前だ!

千葉県野田市で、小学四年生の女の子が、父親からの度重なる暴力により命を落とす、痛ましい事件があった。

この事件で最も大きな問題とされているのが、市の教育委員会の対応である。

学校では「ひみつをまもりますので、しょうじきにこたえてください」との但し書きのあるアンケートを、子どもたちに配付した。女の子はその言葉に勇気を得て、「お父さんにぼう力を受けています」と記入して提出した。

ところが、怒鳴り込んできた父親の威圧的な態度に恐れをなした市教委の担当者は、このアンケートを見せてしまった。これを見た父親がどれだけ激昂して暴力がエスカレートしたことか。想像できないほうがおかしい。

その言い訳が笑える。

「父親から、訴訟を起こすなどと威圧的な態度を取られて恐怖を覚えた」(要旨)

はあっ???

バカバカしくて相手にする気にならない気分だ。過激な逸脱行為に対する応接も心得ていなかったのか? 市教委はそんなときの対応マニュアルも用意していなかったのか? マニュアルがあったとしたら、担当者はその手順に目を通してさえいなかったのか?

行政機関として粛々とことを進めたのにもかかわらず、相手の言動が犯罪に該当するレベルまで至ったのならば、警察に通報すれば良いだけの話だ。悩むことはない。

この市教委の対応に擁護論もあることを、私は百も承知だ。各教委にスクールロイヤーなどの法律専門家を設置すべしと。原則論だけ振りかざせば、それは確かにその通りかも知れない。

だが、その要請に対応できる弁護士がどれだけ確保できるのか? 教育関係に特化した分野に該博な弁護士が、そんなにたくさん存在するのか?

そもそも教育委員会は行政の公的機関なのだ。なのに自治体の顧問弁護士(すべての自治体が顧問弁護士と契約しているわけではないが...)とは別に、さらに法律の専門家を頼みましょう、なんてことになったら、どれだけ手厚い話になるのか?

そんなことを言っていたら、民間はどうなるのか? 顧問弁護士など依頼できる余裕がない零細事業所に対して、行政は危険な仕事をどんどん割り当ててくる。教育のみならず、介護、福祉、どの業界でも、それが現実だ。

私は「人と向き合う」仕事に従事する立場として、開業する前も、開業してからも、身の危険を感じたことは何度もあった。刃物を振り回した人、「俺は何人殺すかわからんぞ」と周囲を脅かしていた人、私の側に全く責がない事案について延々と非難攻撃を繰り返す人などを相手に、修羅場も経験してきた。中には介護者がそんな人物だと知りながら、行政がわざわざ私に振ってきた利用者さんの事案もあった。

しかし、私はこれまでのところ、このような逸脱行為に関して警察に相談したことはない(現在進行中で、弁護士の先生に相談するつもりの事案が一件ある。と言っても民事事案だ)。誰に相談しようが、自分自身が向き合わなければならないのだから、いよいよ急迫するまでは自助努力で解決を探ろうとしてきた。

プロフェッショナルならそうあるべきなのだ。良い意味で公権力と協働するのは大切だが、安易に公権力に依存してはいけない。

 

人に向き合う仕事をする以上、「身の危険」は当たり前だ。日本は法治国家である以上、私たちは法律に守られている。過激な逸脱行為をやめない相手に対しては毅然とした態度で応酬し、自分の力で解決の道を探るべきなのだ。それでも抑止できない場合は個人、個々の機関の対応能力を超えているのだから、そこではじめて警察に相談したり、状況次第で弁護士に法律的な対応を依頼したりすれば良い。

野田市教委の担当者は、公の場に身を置く者としての矜持もなく、生徒との約束を破り、彼女を死に至らしめる最大の原因を作った。信頼していた教育者に裏切られた女の子の絶望は、いかほどのものだっただろうか?

しかし、この担当者ばかりではないだろう。行政職などの公的機関で、安定した地位にあぐらをかいていて、いざ不測の事態が起こると、「身の危険」の回避に汲々とする自称プロフェッショナル=専門職は、地域や業種を問わず、少なからぬ数で存在する。

その水準の振る舞いしかできない恥知らずは、プロフェッショナルなどやめてしまえ!!!

2019年2月12日 (火)

食物を大切にしない文化は、やがて滅びる(2)

最近、「バイトテロ」「バカッター」などと称される「アルバイト従業員による愚行」のネット投稿事件が相次いでいる。

チェーンやフランチャイズに勤務する若者たちが、商品であるはずの食物や食物に関連した道具を、常軌を逸するほど不適切に扱う「悪ふざけ動画」が、次々とネットに投稿、拡散されているのだ。

氷(食品の保存用)を床に投げつけ、調理器具を股間に当てる「すき家」の従業員。

魚をゴミ箱に捨て、拾い上げてまな板に乗せる「くら寿司」の従業員。

おでんの「しらたき」を箸でつかんでほおばり、すぐ床に吐き出す「セブン‐イレブン」の従業員。

ペットボトルを袋に入れる前に、飲み口を自分の舌でなめる「ファミリーマート」の従業員。

まだ捜査中で特定されていないが、「ビッグエコー」の厨房で食材を床に擦り付けてから調理する動画を投稿した人物も、従業員である可能性が強いであろう。

これらの愚行には共通点がある。

一つの論点は、仕事に対する真摯な姿勢の欠落である。

勤務先の、いや、それ以上に社会のルールを踏み外すリスクよりも、「悪ふざけの動画を見てもらう」満足感のほうが上回っていることだ。よく考えずに、浅はかな思い付きから軽率な行為に走り、あとで解雇され、それどころか勤務先から損害賠償まで請求される可能性が出てきたときに、初めて後悔することになる。

たとえ2~3人で冗談を言い合っているうちにエスカレートしたとしても、相互に自制し合うのが人間の理性である。そもそも「仕事」の傍らで悪ふざけをすることは言語道断であり、社会人としての資質が欠けていると断じないわけにはいかない。彼らが社会人として仕事に就く前には、厳しくかつ懇ろな再教育が必要であろう(お恥ずかしい話だが、私がいまの業界で働き始めた駆け出しのころに、これに近いレベルの愚行があったことは、正直に告白しておこう。当時のことなので、ネット投稿などはしなかったが...)。

ところで、これらの愚行の背景には、もう一つの見逃してはならない論点が存在する。

それは以前のエントリーでも指摘した「食物を大切にしない文化」である。

愚行を犯した連中のうち多くが生まれたのは、1990年代後半であろうか。三十代以上の方は、その少し前、1993年に起こった米騒動について、記憶しておられる方も少なくないのではないか。

この年、日本国内で米が冷夏のため大幅な不作となり、政府はタイに要請してインディカ米を緊急輸入した。タイでは日本の窮地に支援しようと、国の備蓄米まで含めて最大限の量を輸出した。そのためタイ国内では一時的に米不足を招き、貧困層の飢餓まで発生している。

ところが、タイの人々にそこまでの犠牲を強いて輸入した側の日本の人々はどうだったのか? 何と、このインディカ米が食感に合わないとして、廃棄したり、家畜の飼料にしたりしたのである。そのため、当然のことながらタイの人々から強い批判を浴び、外交上の支障にまで及んだ。

背景事情はいろいろあろう。「美味しく感じなかった(むかしの南京米の食感だった)」「食生活のスタイルを転換できなかった(カレーやピラフを取り入れるなどの変更ができなかった)」「インディカ米に適合する調理器具、調理方法が浸透していなかった(日本の炊飯器では上手に炊きにくかった)」「農政が愚劣だった(日本の米とインディカ米とをブレンドするバカバカしい指導をした)」「国レベルの意思疎通が不十分だった(タイ側が日本人の食感に合う高級米を輸出してくれなかった)」、などなど...

しかし、あえて言おう。「理屈は取り餅と同じ」。つまり、くっつけたいところにくっつくのだ。上記のどれ一つ取り上げても、食べ物として口に入るインディカ米を粗末に扱って良い正当な理由にはならない。現実に日本では米が大幅に足りなかったのだ。それでも米を食べたいのであれば、入手できるものを食べるしかない。

あえて言えば「ブレンド」だけは全くの愚策だったが、そもそも多くの日本国民がタイの農民たちの労働に感謝して、輸入したインディカ米をありがたく消費していれば、農政当局もブレンドなどというバカな方策を生み出す必要もなかった。

なのでこの年、私は〔自宅では、米農家だった父方の従姉が、父が実家に居た大昔から毎年、「家族分」として配分してくれていた米を、母が炊いてくれて食べることができたので〕、一食でも多くインディカ米を消費しようと、外食のたびにインディカ米の加工品を食べまくった。わずかな一人の食事であっても、せっかくタイの人たちから提供されたものである以上、大切にいただきたかったから。

しかし、当時の職場や地域など私の周囲の人たちを見渡しても、大部分は日本米を何とか入手しようと躍起になっており、インディカ米は排除する対象としてしか見なしていなかった。

つまり、「バカッター」「バイトテロ」の若者たち〔の大部分〕が生まれる前から、日本人の大半は食物を大切にしてこなかったと表現することもできる。極論かも知れないが。

むろん、この一事だけで民族文化すべてを評するべきではない。しかし、上述のような市民が大半を占める社会の中で生まれ育った若者の世代に対して、食物を大切にすることを求めるほうが、そもそも無理難題なのだ。

少なくとも、1993年にインディカ米を粗末にした人間は、この二つ目の論点に関して「バカッター」「バイトテロ」の連中を非難する資格はない。自ら食物に向き合う姿勢を省みてほしい。考え方を改めなければならないのは、あなた自身であることを肝に銘じるべきである。

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