社会問題

2024年12月30日 (月)

人材不足-現場からの雑感

2024年も間もなく終わろうとしている。

私が開業する準備に取り掛かっていた2000年末、自分自身が飛躍することへのワクワク感はもちろんだが、開始して間もない介護保険制度に対する期待も少なからず抱いていた。

あれから24年。四半世紀に近付こうとしているいま、その期待はなく、この制度の現実に対する大きな不安が目の前に横たわっている。

11月の時点で、介護事業者の倒産が過去最多になったと、メディアでもしきりに報じられた。訪問介護では介護報酬引き下げを契機とした単体での営業継続困難があり、通所介護や短期入所生活介護などを含めると、競争で大手事業者に敗れた中小事業者の撤退などが、おもな理由とされている。他方で、業務の担い手の減少により、退職者が出ても新規職員を採用できず、廃業のやむなしに至った事例も報告されている。

現場ではより強く体感するのが、年々深刻になる業界全体の人材不足である。

私個人の実感としては、〔全国的にも同様だが、〕当地の業界で最も不足しているのがホームヘルパー(訪問介護員)、次いでケアマネジャー(介護支援専門員)であろう。

前者については、事業所によって温度差がある。零細でも堅実な組織経営を行い、職員が働きやすい職場は、複数の責任者級の職員が中心となって長く続いており、〔将来はともかく〕当面は安定感がある。そうとは言い難い事業所では人員不足が起き、「以前は週N回行けていたけれど、今後は一回減らしてください」などと要請してくるところもある(…だからと言って代わりの事業所を探すのにも苦労するので、利用者さん側に大きな不便がない限り、なるべく同じ事業所で続けてもらうように努めている)。

後者については、自分自身がケアマネジャーであるだけに、身をもって痛感している。

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この数年間を顧みると、他の居宅介護支援事業所で誰かが退職した場合、地域包括支援センターが後任を探すのが難しく、私に担当を依頼してきた事例が相当数存在するのだ。

居宅介護支援および介護予防支援の契約者の中で、2018年は14人中4人、2019年は5人中1人、2020-21年は6人中1人、2022年は19人中11人、2023年は9人中1人、2024年は7人中2人。実に7年間で60人中20人! 新規利用者さんの三分の一は、「後釜のケアマネジャーがいないので担当してくれ!」という状況で、直接もしくは地域包括支援センターの仲介により、仕事を譲ってもらった「引き継ぎケース」なのだ。

私のような六十代半ばの一人親方であっても頼りにしていただけること自体は、ありがたい話ではある。しかし、これは前任者の職場で、ケアマネジャー(有資格者)の人事異動や募集による新規採用が難しかったことを意味している。そう考えると、先行きが不安にならざるを得ない。

当然、私自身もいずれは引退するときが来る(後継者が見付かるかどうかはわからない)。そのときに、果たして自分の現利用者さんたちを引き受けてくれる居宅介護支援事業所があるのだろうか? 幸い、利用者さんの居住地域がかなり分散しているので、少人数ずつ振り分けて依頼すれば何とかなるだろうとは見込んでいるが。

多くの論者からは、処遇改善加算の欠如(今年の改定により介護報酬は少し上昇したが、物価高には全く追い付く金額ではない)、シャドウワーク(無報酬でやらざるを得ない業務)の増加、本来業務におけるルールの煩雑化、更新研修受講の負担(受講費用の金銭的負担、事例準備の労力負担、補講が無いことによる欠席の困難さ=「病気にもかかれない」、etc.)などが原因として挙げられている。これらが影響して、ケアマネジャーから離職する人数が新たに就任する人数を上回っていることが、人材不足を招いていると評されている。現場の人間としては、確かにその通りだと思う。

(なお、ケアマネジャーにとって更新研修そのものは必要だと私は理解している。ただし、上記のさまざまな負担や、一部の団体・企業・研究者の利権が絡む点については、是正しなければならないとの意見である。真にケアマネジャーのための更新研修になっていない面が大きい)

この状況を改善するには、国の抜本的な改革を待つしかないのだが、財務省や厚生労働省で開かれている審議会・委員会・検討会等の結果を見聞きする限り、的外れな意見の応酬ばかりで、現場から見るとほとんど期待できない。私も間もなく高齢者になるのだが、私の予防プランやケアプランを作成してくれるケアマネジャーは登場するのか?

それを心配してもしかたがないので(笑)、今夜はいただきもののワインで自作の夕食を賞味しながら、一年を振り返ることにしよう。

2024年4月17日 (水)

少年少女をいじめてそんなに楽しいのか?

もう十年以上も前のこと。ネットで検索していたら、いくつかの自治体に「児童虐待マニュアル」なる文書が存在することが判明し、失笑したことがある。

もちろん、これらは「児童虐待防止マニュアル」を誤って省略してしまったものだろうから、当該自治体が「地元の憎たらしいガキをボコボコにしてやろう」と意図したものでは全くない。

しかし、複数の場で心ない大人たちが、ネットのコメント欄で十五歳ぐらいの児童を叩いているのを見ると、ホンモノの「児童虐待マニュアル」が存在するのだろうか? と疑いたくなる。

かつて「不登校ユーチューバー」として知られた「ゆたぼん」君が、先日、高校を受験して不合格だったことを公表した。

「ゆたぼん」君と言えば、不登校時代は父親の教育方針に合わせてパフォーマンスをしている感が強く、ユーチューブの動画に対してアンチは多かった。確かに、小学校の卒業証書を破り捨てる動画などは、私自身も好きではないが、父親と行動を共にすることが多かったので、その影響も強かったと推察される。その後、父親と距離を置くことを宣言して、Xなどで主体的な発信を始めたことにより、世間からの好感度が増した。今回の不合格について、当人は落胆するも次は高卒認定試験を目指すとしている。

ネットでの反応は、多くは好意的なコメントであり(父親に対してはみな批判的だが)、これを貴重な経験として成長してほしい、という方向性の意見が主流であったが、少数ながら彼を誹謗中傷するコメントがあった。特に私が記憶している、彼を世間の見せしめであるかのように評したコメント(例;「好き勝手なことをしていたから失敗する。みんなが反面教師にする好例だ」)などは常軌を逸している。彼は十五歳の少年であり、多感な年代だ。せっかく新たな気持ちで体勢を立て直そうとしている矢先に、攻撃的なコメント(彼の将来を思って冷静に評した厳しいコメントとは異なる)を投げ付ければ、再起を志す当人の心を傷付けるだけだ。「ゆたぼん」君が登場するだけで叩きたくてうずうずしている大人がいるとしたら、その人のほうがずっと幼稚であろう。

別の例も掲げる。

囲碁の小学生棋士としてデビューして、一躍令名を挙げた仲邑菫三段が、より囲碁に集中できる環境を求めて、日本棋界を離れ、韓国棋界に身を投じて棋戦に出場することになった。小学生時代に韓国へ行き来して囲碁を学んでいた時期があるとは言え、十五歳で外国のプロに交じって切磋琢磨するのは、たいへん重い決断であると言っていい。

この決断に対して、コメントの大部分は仲邑三段を応援するものだったが、一部からケチが付いた。彼女を嘲笑したり揶揄したりするコメントが散見されたのだ。その多くは、国際的な囲碁棋界のことを知りもしないのに、特定の国が絡むだけで攻撃したくなる人ではないかと思われる。中には読むに堪えない表現のコメント(例;「韓国行って整形やってこい」)もあったと記憶している。その言葉を投げ付けられる相手が、十五歳の多感な少女であることを理解しているのだろうか?

二つの例を挙げたが、どちらも未成熟な児童に対する「いじめ」としか言いようがない。私自身は子育ても孫育てもした経験がないが、これらの「言葉の暴力」の横行を目にすると、自分の身内が攻撃されたかのように、とても悲しい。

これほど少子化が深刻になっているのにもかかわらず、醜い「児童虐待」がネット上で平然と行われる状態は、日本のネット社会の民度をそのまま表している。これから成長していく少年少女たちに対して、私たちは日頃から、〔節度を保った厳しさを交えつつ、〕温かい目で見守っていきたいものだ。

(※文中、私の記憶として述べたコメントの文章は大意であり、一言一句そのままだったかは確認していませんので、お断りしておきます)

2024年2月18日 (日)

多様性を声高に唱える人ほど、多様性に不寛容ではないのか?

社会福祉士(一応...)の一人として思うこと。

社会にはさまざまな属性を持つ人々が共住している。私自身、個人としては「男性」「19XX年生まれ」「静岡県出身」「独身(結婚歴がない)」「カトリック教会の信徒」、また社会の中では「浜松市で仕事をしている人」「社会福祉士」「介護支援専門員」「中道右派(政治的に)」などの属性を持っている。

これらの属性が、他者を傷付けるものでない限り、他者から尊重されるのが、社会のあるべき姿である。すなわち「多様性を尊重する」ことだ。

たとえば、カトリック教会は本来、同性婚を「罪」と位置付けていた。いまもなお、教会の秘跡としての「婚姻」の対象とは認めていないが、シビル‐ユニオン(市民としての法律上の婚姻)は否定しない立場だ。すなわち、同性愛者である信徒がミサに参列して聖体拝領の秘跡に与ることは、全く問題はない。信徒が同性愛者であっても、個人としては他の信徒と同様、司祭から祝福を受けることができる。

もちろん、ジェンダー平等の理想から見ると、いまだ不十分な点は少なくない(女性司祭が認められていないなど)が、保守的なカトリック教会でさえ、時代の流れを踏まえ、段階的に多様性を尊重する方向へ動きつつあるのだ。

さて、日本社会を顧みると、必ずしも理想とする方向へ進んでいない。たとえば、これまで多様性の尊重を訴えてきた人たちが、その趣旨に沿っているとは言い難い言動をした事案も見受けられる。

「宇崎ちゃん騒動(2019)」「戸定梨香騒動(2021)」などはその好例であろう。女性の性的な部分の強調が不適切であると主張した人たち(おもに女性の個人や団体)は、その体型の女性(希少であるが、街でもときどき見掛ける。筆者の仕事の上でも、何十年の間に数名程度だが、同様に胸の部分が大きめの体型の女性に会ったことはある)を差別していることに気が付いていなかった。そのため、表現の自由への抑圧だと主張する人たちの反発に遭い、激しい議論を巻き起こしている。

Tayousei

また昨年、埼玉県営プールでの水着撮影会が、特定政党の女性議員たちの要求を契機として(直接の因果関係はないとされているが...)中止された事案も、これを不当な介入だと考える人たち(当事者の女性たちを含む)からの強い反発により、大きな社会問題になった。

一部のフェミニストの人たち(...だけではないが...)が女性の「ジェンダー」を尊重するあまり、「自分たちにとって受け入れ難い」表現のすべてに「非を打つ」ことになっていないだろうか? 許容範囲をたいへん狭くしてしまい、その外側にあるものは、たとえ女性(たち)自身による自己実現行動の一環であっても、否定してしまうことになっていないだろうか?
(これらは一例として掲げたものであり、フェミニストの人たちをことさらに批判する意図はない。念のため)

これらの行動の根にあるのは、偏狭な視点に基づく「不寛容」である。多様性を声高に唱える人たちが、かえって自分たちの「間尺に合わない」多様な人たちを排除する、まことに皮肉な現象が起きている。

その結果、表現を抹殺する動きが、かえって「言葉狩りの弊害」で述べた、見当外れの反差別教育にも結び付く。事情を深読みしない人たちを中心に、水面下で歪な感情が広がり、互いの多様性を尊重する機運が遠のく。コロナ禍の最中に頻発した「マスク警察」「他県ナンバー警察」の類いの極端な行動に走る人たちも登場する。社会的に行き過ぎた規制が創出されれば、それに反対する市民たちが推進した人たちを「ノイジー‐マイノリティ」と攻撃する。「不寛容」が相手方の「不寛容」を増大させる事態になる。

筆者は、このような社会を決して良いものだとは思わない。

それぞれの主張をする市民たちが、互いに対立する側の見解にも耳を傾け、向き合ってコンセンサス(合意)とコンフロンテーション(対置)とを繰り返しつつ、議論を重ね熟成させた末に、合意に基づいて真に多様性を尊重する社会が形成されるのが、望ましい姿であろう。

日本社会がその方向へ進むことを、心から願っている。

2024年1月30日 (火)

職業倫理が崩壊する!

中国の古典『管子・牧民篇』に「倉廩満ちて則ち礼節を知り、衣食足りて則ち栄辱を知る」との一文がある。

人は物質的な豊かさが満たされて、はじめて礼儀や名誉をわきまえることができる。これは古今東西を問わない共通原理だ。生きていくために必死であれば、礼儀や名誉などに構っている暇はない。

今年(2024年)4月からの介護報酬改定は、サービスの種別ごとに比率が異なるものの、全体として三年前から1.59%の微増となった。

しかし、三年間の消費者物価指数の上昇は6.8%であるから、ここに5.21%の落差が生じる。この間、2022年10月の臨時改定で、介護職員等ベースアップ等支援加算(約3%...だが、介護職員を対象として設定されたので、他職種にも配分すると1%強)が算定されているので、まるまる5%以上満たないわけてではない。とは言え、個別の介護職員に対する応急手当が行われる一方で、事業所に対する手当はお寒いままだ。

特に今回の改定では、訪問介護費の基本報酬(単価)が引き下げられる驚きの結果となった。介護職員の処遇改善の比率が上がっても、訪問介護事業所が業務に見合った収益を得られなければ、本末転倒である。2022年の経営実態調査で訪問介護の収支差率が大きかったことが原因だと言われるが、もともと裕福な業種ではなく、多くの零細な経営者は自分たちの身を削って収支差率を引き上げてきた。

その中での報酬引き下げは、事業を継続する体力に乏しくてもギリギリのところで踏ん張ってきた多くの訪問介護事業者が、もはや限界だと考え、撤退する事態が予想されるのだ。多くの心ある論者がこの点を指摘し、批判している。全国各地で、多くの高齢者の在宅生活を担ってきたのが訪問介護であるから、事業者の撤退は、地域包括ケアの挫折を招きかねない。

さらに、この状況から予測されるのは、職業倫理の崩壊である。

訪問介護事業者が希少価値を有することになれば、いわば「売り手市場」になる。すると、本来は「生活(家事)援助」でサービスを提供しなければならないケアに関して、単価が高い「身体介護」の内容をこじつけて算定するよう、ケアマネジャーに対して要求する事業者が登場するかも知れない。

ケアマネジャーにしてみれば、訪問介護事業者がサービスを提供してくれなければ、利用者の在宅生活を継続させることができない。そして代わり得る他の事業者も存在しない。そうなると、いわば「馴れ合い」の形で給付の不適正化が浸透する可能性がある。中山間地や離島などの過疎地では、訪問介護に限らず、通所系サービスなども選択肢が限られていることから、不正、不適正な行為があっても、ケアマネジャーがなかなか強く批判し辛い状況になっていく。

もちろん、大部分の事業者は国の運営基準に則り、適正な事業運営を行っていると信じたい。しかし、国が介護サービス事業者に対する「やりがい搾取」を続けるのであれば、先立つものがない事業者側は、職業倫理よりも生き残りを選択せざるを得ないことも現実なのだ。それによって置き去りにされかねないのは、当事者である利用者や介護者であろう。

多くの市民が住み慣れた家での在宅生活を続けていくために、地域資源である事業者が、次のステップへ向かう力を蓄えつつ、余裕を持って仕事を続けられる環境が整うことを、切に願っている。

2023年12月 9日 (土)

言葉狩りの弊害

12月9日は「障害者の日」である。

社会福祉士である筆者にとって、この日の意義付けは先刻承知のことであるが、別の視点から振り返ってみたい。

それは「差別用語」の事案である。

時代劇をほとんど見ない筆者にはよくわからないが、たとえば最近の「座頭市」では、悪役は座頭市に対して何と呼び掛けて罵倒するのだろうか? 「やい! この、たいへん目が不自由なヤツ!」とでも言っているのか?

さすがにこの表現は「ちょっと違うだろ?」と思うのだが、もし差別用語の排除を徹底すれば、こんな表現になってしまう。

私がドラマのプロデューサーや脚本家ならば、役者には当時使われていたであろう罵声のまま、「やい、このド○○○!」と言わせる。その上で「「○○○ら」とは人権意識の低い時代に使われていた差別用語であり、いまは視覚障害者に対して言ってはならない言葉です」とテロップを付ける。

他の障害を持つ人に対する差別用語も同様だ。たとえば「か□□(肢体不自由者に対し)」「き△△△(精神障害者に対し)」などは、私が生まれた時代にはまだ普通に使用されていた。それが人権意識の高まりとともに、不適切な表現にされるに至ったが、過去に使用されていた事実を消して良いものではない。

つまり、「かつてはこのような差別が行われていた」事実を明示した上で、それが対象者を侮辱し傷付けるものであるから、実社会では使用してはならないことをしっかりと教える。

これが本当の「反差別教育」であろう。障害者差別に限らず、民族差別など他の枠組みにも通じるものだ。

いま社会で行われていることは、言葉狩りの先行である。そのため、若者たちは「なぜその言葉を使ってはいけないのか?」をしっかり教えられる機会を持たない。だから何かの機会にそれらの言葉を掘り起こして、罪悪感もなく口にしたり書き込んだりしてしまうのだ。さらに、障害者の活動を特権とか利権とか批判している連中は、当事者たちを攻撃する言葉として、差別用語を平然と使う。

もちろん、反差別教育が徹底して行われたとして、このテの人間を減らせるにせよ、根絶させることは難しい。しかし、多くの市民が正しい理解をすることができれば、不適切な差別用語を繰り返す輩が排除される機運を醸成し、少数派の人たちが平穏に活き活きと過ごしていく社会を創り出すことができるのではないか。

介護業界における国語の指導を副業とする者として、この課題をみなさんとご一緒に考えてみたい。

2023年11月29日 (水)

許されざる行為

当県の社会福祉法人を舞台に、お金をめぐる大きな事件が起きた。

静岡市清水区で特別養護老人ホーム(介護福祉施設)B施設を経営する社会福祉法人の前理事長Sが、自分の部下ということになっている高校の先輩Kが経営する企業の口座に、法人の資金を還流させて横領したとされるものである。

このKが大物タレントM氏の夫(事件発覚後に離婚)であったことも、大きな話題となっている。

Sは元警察官だと報じられた。いかなる事情で社会福祉法人の理事長に選任されたかわからないが、他県も含め複数の法人で経営者を歴任している。Kは清水区の社会福祉法人で「会長」を自称し、後輩であるSを支配下に置いて、法人の資金を私的に流用していたと考えられる。

私たちの常識によると、B施設を含めた特別養護老人ホーム(介護福祉施設)では、その大部分が限られた介護報酬の中で、工夫に工夫を重ねながら財政をやり繰りしている。決して豊かな内部留保があるわけではなく、繰越金を確保していくことにより、次年度以降の経営ができるように努めている。よほどの金満家(個人・企業)でもバックについていない限り、現在提供しているサービスの水準を維持するのに四苦八苦しているのだ。零細なコミュニティビジネス(筆者など)に比べればかなり水準は高いものの、職員の給与は他業種から見れば平均値を下回ることが多い(今回はその給与さえ適切に支給されなかったことから、事件が発覚した)。

しかし、事情を知らない一般市民が、この記事を見聞きしてどう思うだろうか?

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「介護事業って、お金のあるところにはあるんだろ? もうかる人がいるのなら報酬を増やさなくても良い。私たちの介護保険料や税金だって、そのために上げてほしくないよね!」

こんな印象を持つ人たちが少なくないのではないか。

最近、介護従事者が利用者を殺傷、虐待して逮捕される事案が増えているから、市民たちは「不良介護職員」への憤りを強めているであろうが、まだこれらは「個」の職員による行為であるから、私たちは「介護に不向きな人が起こした事案であり、大部分の職員は適切なケアのため勤しんでいる」と弁明することができる。しかし今回の事件のように、組織を舞台にした事案は、市民感情を直撃することになる。

KとSの愚行が、介護現場で働く人たちに対する世論を歪めることになったとしたら、こんな理不尽はない。まさに許されざる行為であろう。

一度失われた業界の信用を取り戻すために、どれほどの時間が必要になるだろうか。

2023年9月22日 (金)

「忖度」の言葉を恣意的に歪めるな!

日本語に限らず、世界各地で話されている言葉(口語)は、時代によって移ろうものだ。それは筆者自身、百も承知しており、単語、熟語、成語などが、年数を経るにしたがって、本来の意味とは異なる用例を呈する場合が増えることは、十分に理解しているつもりである。

その変遷が、市民の自然な社会活動の中から起きるものであれば、何の問題もない。

しかし、メディアが恣意的に言葉の意味を捩じ曲げているとしたら、話は別だ。

「忖度(そんたく)」

本来の意味は、「おもんぱかる」「おしはかる」こと。古代中国の『詩経』小雅・巧言の中に、「他人有心、予忖度之」とあるのが出典。詳細は割愛するが、前後の文脈からおおむねこんな意味になる。「小人の輩が悪心を持っていようが、君子や聖人の正しい政治を支持する私からは、すぐに推量できるぞ」。

Kanwajiten

つまり「忖度」自体は善悪の評価を伴わない人間の行為であり、ネガティヴな意味は全く含まれていない。

だからこそ、私たち社会福祉士をはじめ、精神保健福祉士、ケアマネジャー、さらに弁護士や司法書士など成年後見に携わる人たちも、アドヴォカシー(代弁)の一環として「忖度」を駆使している。自分の意思を十分に表明できない、伝えられないクライアント(認知症の利用者、知的障害者、精神疾患の患者など)の考えを代位して、「この方の本当の思いや願いは、これまでの考え方や振る舞いに基づき、こうであろうと推量します」と主張して、クライアントの意思に沿った生活の実現のために最善の努力をする過程が、「忖度」の先に開けている。

まさに、「人の心に寄り添う」仕事の人間にとって、「忖度」は必要不可欠な援助技術の一つだと言うことができよう。

ところが、2017年に「森友学園」の事案が政治問題化したとき、財務省の官僚が当時の内閣総理大臣の妻の意思を「忖度」したと、当時の学園経営者が述べたことを契機に、反体制側のメディアはこぞって、「忖度」が許されざる行為であるかのように論った。「忖度」があたかも「悪事の隠蔽」「権力者への媚び諂(へつら)い」と同義の汚らわしい行為であるかのように乱用したのだ。

私自身、ことが発生した当初には、さほど事態を重く考えず、消化器系の薬の名称に引っ掛けて「ザンタックより効果あるのはソンタック?」など、ダジャレを言っていた。しかし、特定のメディアの論調により、次第に常軌を逸した強引な意味の置き換え(転義)が目立つようになっていく。

そして、乱用はメディアやジャーナリズムの枠にとどまらなくなった。現在に至るまで、言葉の本来の意味に疎い各業界の論者が、自説の中で「忖度」をネガティヴな意味で安易に使用する事態が続いている。そもそも正しい意味で使われていれば、このような現象自体が起きなかったはずである。意図的な歪曲を惹起したメディアの罪は大きい。

この問題については、すでに清湖口敏(せこぐち さとし)氏も論評している。「産経は右派メディアだから、左派メディアを攻撃したんでしょ?」と思われる読者があるかも知れないが、言葉の原義・転義の解釈に右も左も関係ない。左派だろうが右派だろうが、日本語の意味を無理矢理歪めてはならないことは当然だ。引用した論評で氏が指摘している内容は、大枠でその通りだと筆者も思う。

この歪曲は日常のコミュニケーションに重大な支障を来たすことにつながる。意思表明が難しいクライアントに「忖度」すると表現するだけで、あたかも支援者がその人の悪事・不正・愚行を容認するかのように受け取られることは、決してあってはならないのだ。専門的な援助技術に基づき、クライアントの幸せを希求するために必要な行為であることを、私たちは多くの市民に広く訴えていかなければならない。

権利擁護に係る職業をはじめ、広く対人サービスに携わるみなさん。いまこそ、ひるむことなく堂々と「忖度」の言葉を使い、誤解している人たちには粛々と正しい意味を説明して、理解を深めていこうではないか!

2023年8月 5日 (土)

身の丈に合った運転を

現代社会に車は欠かせない。

いま、筆者がプライバシーでもビジネスでも使っている一台は、緑のデミオ(マツダ)だ(画像)。2014年に購入して9年。自分の愛車として四台目になる。

これまで、夜間でも視認してもらいやすいように、比較的明るい色の車を選んできた。

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さて、この10月から新しい車に買い換える予定である。薄い灰色のアルト(スズキ)。いまの車ほど目立たないが、深夜の時間に走ることはほとんどなくなった。また筆者には家族もいないので、仕事で出向いた先で駐停車しやすいように、軽に乗り換えることにした。

自分の年齢から考えると、よほどの事態が起きない限り、この五台目が最後になるのではないか。やがて普及するであろう自動運転車も魅力的だが、オペレーションの全体像を呑み込むのも厳しくなるから、自分には縁がないかも知れない。むしろ次の一台で公私ともに身の丈に合った運転をしながら、70代後半まで安全に操作することができれば、それに越したことはない。仕事から引退したら距離はグンと減るので、長持ちさせられれば好いなぁ、と思う。

事故を起こさないこと、事故に巻き込まれないことを願いつつ、先の計画を立て始めている。

2023年7月22日 (土)

甚だしいメディアの劣化(2)

かつてアイドルだったタレントが何か事件を起こして、報道されるたびに思う。

知名度の高い人はいつまで、すでに脱退したグループや組織の名前で「元○○」と呼ばれなければならないのだろうか? 中には脱退して20年、30年になる人もいる。メディアの側は視聴者や読者の耳目を引き付けたいので、すぐに過去の肩書きや経歴を持ち出してくるのだが、何かあるたびに名称を出されるグループや組織の現在のメンバーにとっては、迷惑千万に違いない。

さて......、

20日、滋賀県大津市で、40歳の男性が離婚した元妻の自宅へ侵入し、元妻とその父親をクワで襲撃して負傷させ、殺人未遂の容疑で警察に逮捕された。

この容疑者が将棋の元プロ棋士(八段)であったことから、メディア(テレビ、雑誌など)は彼の棋士としての半生を延々と伝えている。もちろん、どんな事件であっても、それを引き起こした人物の経歴を報道することは常の話であり、それ自体には何の問題もない。

しかし、容疑者は2021年に棋士から引退したのみならず、2022年には日本将棋連盟から退会している。つまりプロの将棋界にとっては、いまや直接的な関わりは何もない一個人である。

にもかかわらず、少なからぬ報道の中で、容疑者と現在の将棋界とを結びつけるかのような論評が見受けられる。中には事件のタイトルに「将棋界に激震」「将棋界を揺るがす」などの表現を用いているものもある。容疑者がかつて対戦した相手として、羽生九段(永世七冠)や藤井竜王/名人の名前を出しており、あたかも将棋界の体質が影響しているかのように印象操作している(と筆者には受け取れる)社もある。

全容が明らかになっていると言えない面もあるが、この事件の輪郭は以下の通りだ。

「30代(当時)の男性の妻が、子どもを連れて家を出て行き、一方的に離婚した。男性は子どもに面会できない状態が続いていることに激怒し、元妻を相手取って子どもの親権の回復を主張していたが、結果的に敗訴した。納得できない男性は元妻を誹謗中傷し、刑事責任を問われて執行猶予付きの有罪判決を受けた。ところが、さらに精神的に追い詰められた男性は、元妻の家に侵入して凶行に及んだ

つまり、これは子どもの親権をめぐる社会問題なのである。

すでに一昨日の事件については、共同親権の是非をめぐって、「子どもに会えない側の親が苦痛を味わうのが理不尽なので、共同親権を認めるべき(推進派)」「暴力的な親に親権を認める危険は大きく、単独親権が望ましい(反対派)」など、ネットでもさまざまな見解が飛び交っている。

日本将棋連盟は何のコメントも出していないし、出す必要もない。そもそも「将棋をめぐる事件」では全くない。

メディアが容疑者の属性として「元棋士」を強調することは、この問題の本質をきちんと報じないのに等しい。前述したネット上の意見は、これまで親権問題に取り組んでいた人たちを中心に、関心のある人たちに限られている感がある。いま、離婚や再婚、ステップファミリー、同性婚など、家族のありかたはどんどん多様化している。その中では、一人ひとりの子どもにとってどうすることが最善なのか? 筆者のような子育て経験のない人も含め、多くの市民が議論に加わるのが、日本社会の行く末のために望ましいはずだ。それこそ多様な意見を調整する役割を持つ「こども家庭庁」の出番でもある。

表題を「元棋士が...」とすれば、ミスリードになる危険性が大きい。才能あふれた高段者だったはずの元棋士の変転を嘆く人たちの気持ちは理解できるが、多くの視聴者・読者の関心が「将棋界」へ向いてしまうと、本質とは関係ない部分が大きな比重を占めてしまう。議論喚起のためにはマイナスでしかない。

ここにもメディアの劣化が窺えるのは、残念なことだと言えよう。

2023年6月21日 (水)

名古屋城復元に関する大きな誤解

先に6月3日、名古屋城天守の木造復元に関する市民討論会が開催されたが、その際に「車いすの人たちが最上階まで観覧できる」エレベーター等の設置をめぐり、議論が白熱した。途中で、設置反対派の「健常者」から、障害者を非難する言葉や差別用語が飛び交うなど、常軌を逸した発言が続き、混沌とした討論会になったと伝えられている。

見聞きした範囲での話だが、筆者の正直な感想を一言で言えば、「この討論会は不要だった」。

多くの市民の間には、どうも大きな誤解があると思う。

障害者差別解消法の第五条(2016施行)によれば、「行政機関等及び事業者は、社会的障壁の除去の実施についての必要かつ合理的な配慮を的確に行うため、自ら設置する施設の構造の改善及び設備の整備、関係職員に対する研修その他の必要な環境の整備に努めなければならない」。また同法第七条の二によれば、「行政機関等は、その事務又は事業を行うに当たり、障害者から現に社会的障壁の除去を必要としている旨の意思の表明があった場合において、その実施に伴う負担が過重でないときは、障害者の権利利益を侵害することとならないよう、当該障害者の性別、年齢及び障害の状態に応じて、社会的障壁の除去の実施について必要かつ合理的な配慮をしなければならない 」となっている。

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それでは、「負担が過重でないとき」とはどのような意味なのか? 当然だが事例ごとに千差万別であるから、同法の施行令などに具体的な基準が示されているわけではない。

同法の基本方針によると、(1)事務・事業への影響の程度(事務・事業の目的・内容・機能を損なうか否か)、(2)実現可能性の程度(物理的・技術的制約、人的・体制上の制約)、(3)費用・負担の程度、(4)事務・事業規模、(5)財政・財務状況、これらの5項目に関して、過重にならないことが掲げられている。筆者はこの5項目に加えて、(6)他者の健康や安全に不利益や脅威を与えないことも、当然加えられるべきだと考える。

基本方針によれば、これらの諸点については、行政機関等及び事業者と障害者の双方が、お互いに相手の立場を尊重しながら、建設的対話を通じて相互理解を図り、代替措置の選択も含めた対応を柔軟に検討することが求められる、とされている。したがって、河村たかし市長が、復元天守の二階まで行くことができれば合理的配慮だと言えると解釈していること自体が誤っている。合理的配慮の度合いは、行政機関の首長の主観をもとに決められるものではないからだ。

他方で、障害者側(個人・団体)からの要求に対して、何が何でも100%の実現を目指すのが同法の趣旨ではない。だからこそ「お互いに相手の立場を尊重しながら、建設的対話を通じて相互理解を図る」必要がある。その建設的対話の当事者は「行政機関等及び事業者」と「障害者」である。この中に、合理的配慮自体を否定する(昇降設備自体に反対する、ましてや障害者を差別視する)一般市民を交えること自体が間違いだ。だから筆者は市民討論会自体が不要であると断言したのだ。

エレベーターが良いのか? 電動かごが良いのか? 他の方法があるのか? また、車いす利用者が最上階まで行くことは、上記(1)~(6)に抵触しないのか? 議論を尽くした上で協調点を見出し、その結果として、ほとんどの障害者が最上階まで観覧できる方法について双方了解したのであれば、市当局が「○○年までに史実通り復元する。他方で△△年までに昇降装置を設置する」と発表して踏み切れば良い。

あるいは河村市長や市当局が、内外の景観も含めた「史実に忠実な復元」を目指すのであれば、市長の主張にのっとった説明を丁寧に行い、障害者団体の理解を求めることも一つの考え方であろう。たとえば「(1)事業目的を尊重するのならば、景観を損なわないために、天守から離れた位置に外付けの昇降装置を備え、支援が必要な人が来場した際に装置を城へ近接させて利用する。ただし、それを設置すれば(3)(5)著しい建設費用と維持費用が掛かり、バリアフリー復元の見本として来場者数が増えることを見込んでも、他部門の無駄な経費を削減しても、市の財政逼迫は免れない(→(6)それによって配慮が必要な属性を持つ他の人たちへの福祉施策が後退する、または一回ごとに装置を移動させるため他の来場者に脅威や著しい不便をもたらす)」など、具体的な数字の試算やオペレーションの想定により、明らかな「過重」であることを丁寧に説明して、納得してもらうことも必要だ。

「やらずもがな」の市民討論会のため、心を大きく傷付けられた障害者の人たちの思い、察するに余りある。

河村市長には旧態依然たるポピュリズムのパフォーマンスを事とするのではなく、さまざまな属性を持つ一人ひとりの名古屋市民に寄り添った市政を展開してほしいと、(母の実家が名古屋市にある)筆者は願っている。

(※画像=城のイメージは(株)メディアヴィジョン(いまは社名変更?、または解消?)発行の、使用権フリーのものを借用しました)

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