社会問題

2018年4月 5日 (木)

介護離職についての考察(7)

母が死去して一か月。各所への支払いがいったん終了し、相談した司法書士の指導を受けて、(たいした額ではないが)相続手続きのための書類を集めているところである。

他方、本業のほうはどうなっているかと言えば、昨年の春から夏にかけて、(推定)6人前後の利用者さんを確保し損なったため、冬に入ってからの逝去や施設入所やらで、利用者さんの数が大幅に落ち込んでしまった。

介護者としての拘束から解き放たれたので、失地回復に努めなければならないと思っている。私がもう少し若ければ、全く新しい仕事をベンチャー的に起こす可能性が開かれているかも知れないが、いまとなっては体力的な制約もあり、難しい。次世代の人たちには「こんな道もある」と背中を押してあげながらも、自分自身はおもに従来の業務の延長線上で仕事を続けることになろうかと思う。

さて、私は幸い自営業であったから、「介護離職しなくて済んだ」のである。

それでは、平均的な収入でつつましく生活していたところで「介護離職を余儀なくされた」中高年の独り者(性別にかかわらず)が、私同様、要介護3程度になった親を一年以上介護した場合はどうなるのだろうか。

まず、退職に際して雇用保険の失業給付は受けられる場合が多いが、当然のことながら職に就いていたときと同程度の収入は無くなる。加えて、介護サービスを導入しないと一人で介護を続けるのは厳しいので、サービスの種別にもよるが、これまでかかっていた衣食住の生活費に加えて、サービス事業者に支払うお金が必要になる。親が年金をもらっていても、そこから相当額の支払いが生じ、生計に影響するところが大きい。

そして、親の介護が終了した後は、よほど売り手市場になるような知見や技術を持っていない限り、すぐに再就職するのは難しい。年齢やキャリアの中断が障害になってしまうのである。介護が長引けば長引くほど、再就職は厳しさを増す。

これまでもいくつかのエントリーで述べてきたが、日本ではまだまだ、介護離職しないための仕組みが不十分である。それは企業側にも言えることであるし、介護サービス側にも言えることである。後者に関しては特にハコモノ作りが優先し、人の確保が追い付かないため、離職せずに「休業」や「業務縮小」に止めたい人たちのニーズに全て応えることができない。したがって、どうしても一定程度の介護離職者が発生せざるを得ない。

よほど余裕のある家庭ならともかく、多くはひとたび介護離職してしまうと親の年金に頼らざるを得ず、その親が死亡するとたちまち生計が苦しくなってしまうのだ。配偶者などの家族がいる場合と異なり、独りでは食費や光熱費のスケールメリットが無いことも、大きく影響する。

こう考えると、ときにメディアの紙面に登場する「年金詐取」も、それ自体は確かに犯罪に違いないが、理解できないわけではない。親の年金受給権者死亡届提出を意図的に怠り、不正に年金を受け続けてしまう独身の中高年がときどき問題になるのは、現実の生活苦が目の前に横たわっているからにほかならない。これまでともに生活していた親が「いない」という現実を受け止められない人さえいるのだ。私自身が体感して、その人たちの気持ちを痛いほどよく理解できた。

介護支援専門員や介護サービス職員などの従事者にとっても、決して無縁な話ではないのだから、重く受け止めてほしい。

すでに各方面でソーシャル‐アクションを始めている人たちはいるが、当事者の切実な声が政策に反映されるように、全国レベルでも地方レベルでも、業界仲間が力を合わせて地道に訴え続けていくことが求められるであろう。

2018年3月24日 (土)

人生の締め括りかた

いま、母が帰天したあとの事後整理を、必要なことから少しずつ進めている。昨日、年金受給権者死亡届を提出し、ひとまず第一段階が終わったところである。これから相続や預金の整理、また並行して会葬お礼や納骨の準備にかかることになる。

これまでの経過を振り返ると、母が前日に急変してから丸一日も経たないうちに死去していて、かつ、おおむね私一人で葬送の段取りをした割には、われながらスムーズに対応できた。

5日の朝、母の死亡診断がなされてから、すぐに教会の担当者Sさんと連絡を取り、氏の案内に従って教会が契約している葬儀社H社へ直接電話、まず病院から自宅への遺体搬送を依頼すると同時に、とりいそぎ8日の斎場の予約を取った。再度Sさんへ電話して神父様に問い合わせていただき、通夜と葬儀ミサ・告別式の開始時刻を決定、どの程度の人数に連絡するのかも(会場の割付に影響するので)おおむね内定させた。病棟で母のエンジェル‐ケアをしてもらい、H社の柩送の車が到着するまでの間に、母の実家(名古屋)の叔母夫妻、従妹(叔母の娘)への連絡、利用予定だった各介護サービス(5か所)へのキャンセルとお礼の電話もすべて完了した。

この間、一時間強。前日の母の様子から心の準備がある程度できていたとは言え、自分でも信じられないほど冷静で迅速な手順を踏んだと思う。

私自身が介護業界に居ることも、速やかに段取りできた要因ではあるが、何よりも、母自身が事前意思によって、連絡する範囲や葬儀のスタイルを決めてあったことが大きい。

16年前、父を葬送した際には、教会との連絡も、葬儀社の手配も、参列者への応接も、何かと後手後手に回って、弥縫的なフォローに追われ、手伝ってくれた親戚まで巻き込んで迷惑を掛けてしまった。そのことへの反省もあり、今回は可能なところから準備をしていたのは正解であった。昨年の1月、母の著しい体調不良で終末も予測されたとき、いくつかの点について本人の意思を確認しておいたことも幸いした。

母には、葬儀社は教会と連絡が取りやすいH社へ依頼することを、あらかじめ伝えてあった。また、母本人が近親者以外への連絡を望まなかったので、新聞掲載や自治会などへの通知はせず、親戚以外からのお花料やお供えも辞退して、簡素に執り行うことで合意していた。教会の信者の中では、聖歌隊などの典礼奉仕者の方々は別として、母と昵懇だった3名ほどの方(前のエントリーに登場したKさん・Sさん・Wさん)だけに声掛けすることについても、本人の了解を得ておいた。

事前に確認していなかったことだが、あえて母の気持ちを汲み取って、私の独断で行ったのは二点だけ。

一つは遺体の湯かんと化粧。母は2011年からベル麻痺を患い、顔面がやや歪んでしまったことを苦にしていた。息を引き取ってからは麻痺が消え、左右対称の端正な顔に戻ったので、最後は綺麗に化粧してもらって旅立たせようと思い、H社と契約している専門のメイクサービスを依頼した。質素な葬送の中、思いを込めてここだけはお金をかけている。私も所在を知らなかった母の着物と長襦袢とを、名古屋の叔母が箪笥の中から探し出してくれたので、化粧のときそれを着せてもらった。

もう一つは、葬送のあと、母が昨年まで食べ物などのやりとりをしていた数名の近所の方に電話して、弔問に来てもらったことである。母の口から名前が出なかったので葬儀の連絡はしなかったが、直後のお知らせだけはしておくのが、礼節を大切にした母の気持ちに沿うと判断したからだ。

このように、百点満点ではなかったかも知れないが、母の意思を全面的に尊重した葬送ができたので、ひとまず安堵している次第である。

一般的に「終活」と称されるが、「人生の締め括り方」は百人百様だ。個人差はあるものの、一定の年齢に達したら、自分の流儀を家族や親しい人に伝えておくことも大切であろう。不慮の事故や事件による死去の場合はともかく、通常の場合は事前に自らの意思を示しておくことで、葬送を執り行う遺族もあまり迷わずにいろいろな手配ができ、滞りなく厳粛に本人の旅立ちを送ることができるのだ。

生前の振る舞いや業績と、人生の締め括りの上手さとは、また別の話であろうと強く感じている。

2017年12月30日 (土)

2018年もよろしくお願いします☆

この一年、私にとって二つの大きな「イベント」があった。

一つは、2月から母が要介護状態となり、唯一の家族である私が、ケアマネジャーの仕事を続けつつ、介護や家事をワンオペで担う状況になったこと。

もう一つは、6月に県や市の介護支援専門員職能団体における役職から引退して、業界では1999年以来18年ぶりに無役となったことだ。

もともと、2014年の春あたりから、母のADL(日常生活動作)が低下気味になり、私の行動がかなり不自由になったことは確かだ。特に静岡県レベルでの役職は(場所にもよるが、おおむね)片道一時間以上かけて静岡市まで出掛けなければならず、私にとっていささか負担になっていた。そのため、県ケアマネ協会の役員や事務局からは、会の運営に関して自己中心的、非協力的だと思われたこともあっただろう。二年前に退陣するのも一つの選択であったかも知れないが、諸事情により留任せざるを得ず、今年に至ってしまったのは遺憾に思っている。

さて、介護者としての制約と役職退任、この両者の相乗作用(?)により、私の行動範囲は大幅に縮小することになった。不在中の母の介護を確保するために短期入所生活介護を利用しないと、浜松から外へ出掛けることが難しくなり、かつ、職能団体の役職にあることにより他のケアマネジャーに先んじて取得できた「裏情報」の類が、退任後は入ってこなくなったのである。

この状況から生じる、私のアクティヴィティ低下リスクを補ってくれたのは、SNSのフェイスブックを中心につながっている、全国の業界仲間のみなさんであった。

SNSの優れたところは、全国に散らばっている仲間たちの動向をリアルタイムに近い形で把握できることだ。加えて、介護報酬改定に関係する省庁や団体の動きなどについても、そこに関与している、あるいは関心を持っている仲間がシェアしてくれることにより、最新情報や外部から知り難い情報を獲得することが可能になる。全く便利な社会になったものだ。

私自身、引きこもりにならないように、機会こそ減ったが、業界仲間のみなさんと会うことを心掛けた。8月(浜松)や10月(東京)の飲み会は、私自身が仕掛けた交流の場である。SNSでつながっているとは言え、離れた土地に住んでいる人たちはそれぞれ多用であるから、こちらが受動的な姿勢でいるとなかなか会って話してもらえない。NHK大河で脚光を浴びたかもしれないが、浜松は便利な都市に映りながら、わざわざ立ち寄るとなると、案外素材に乏しい町でもある。

したがって、当地に居ながら情報弱者にならないためには、自分から人が集まる場を作ることは大切である。裏を返せば、(介護負担の分量にもよるが、)介護者として行動が不自由、不便になっても、アクティヴィティを持ち合わせていれば、交流の機会は訪れるのだ。

このことを実感した一年であったので、来年は可能であれば、昨年同様何かを企画して、浜松に人寄せすることを検討したい。主題はやはり、介護業界全体を覆っている「人材不足」あたりになるだろうか。

実現するかどうかは、母の体調や私自身の体調にも左右されるが、現場でさまざまな取り組みをしている人たちが集い、知恵を出し合う場ができればと願う。企画も一人では荷が重いので、協力してくださる方も必要になるだろう。

2018年。分相応なことしかできないにせよ、力の出し惜しみだけはしたくない。

こんな私ですが、来たる年にも変わりなきご声援やご交誼を、よろしくお願いします。

2017年12月15日 (金)

食物を大切にしない文化は、やがて滅びる

「食品ロス」が大きな社会問題となっている。

現実には、私自身もしばしば、余った食物を消費期限までに食べ切れずに捨ててしまうことがある。うちの家族は老母と私との二人だけなので、肉、魚、野菜、漬物・佃煮類、レトルト食品など、いずれも慎重に期限を確認しながら、分量を見計らって購入しているつもりだが、それでも一定程度の食品ロスは免れない。反省しきりだとは言え、なかなか改善に至らないのが正直なところだ。

こんな現状ではあるが、それでも勝手な言い分であることは承知の上で言わせてもらえば、慎重に見積もった上での計算ミスから発生した「過失」の食品ロスであれば、まだ許されるのではないか。

しかし、食品ロスには明らかに「故意」のものがあるのだ。

具体的な社名は控えるが、複数の大手コンビニでは、加盟店に意図的な食品ロスを強いているとしか考えられない行為をしている。

たとえば、初春の「恵方巻」セールなどがそうだ。本部ではこれでもかと言わんばかりにキャンペーンを繰り返し、いたしかたなく買い取って棚に並べた加盟店では、少なからぬ売れ残りが発生して、大量廃棄を余儀なくされている。どう考えてもこれは本部側にとって「織り込み済み」の結末であると理解するしかない。

本エントリーはコンビニの本部と加盟店との財政的な課題を論じる場ではないので、それは別の機会に譲るが、ここで言いたいのは、「利用客からの見栄えを意識して、加盟店の棚に十分な分量の自社食品を並べさせる」本部側の姿勢が、大量の廃棄を招き、深刻な食品ロスの原因を作っていることだ。これは明らかに「故意」であろう。

この現象を年中繰り返しているコンビニ本部の道義的責任は大きい。にもかかわらず、本部では賞味期限(消費期限ではない)が近づいた食品の見切り値下げ販売さえ(表面上はともかく、事実上は)認めない方針を採っている。複数のコンビニ会社に共通する体質だ。詳細な計算方法は私の知るところではないが、見切りを禁止したほうが本部の利得になるようである。これでは、加盟店側としてはまだ食べられるものまで廃棄せざるを得ない。

当該食品の生産者は、手間をかけて作った食材や食品を廃棄されて、どれほど悔しい思いをしていることか。また、世界中でどれほどの人々が飢餓に苦しんでいることか。

カトリック浜松教会の何代か前の主任司祭が、教会のパーティーで相当量の食品ロスが発生したとき、そこに集った私を含むメンバーに対して、「では、償いとして、あなたたちがこれから廃棄する食べ物と同じ金額を、みなさんで等分してユニセフに寄付してください」と諭したことがある。キリスト者としてはそうあるのが当然で、たとえ見積もり違いの過失であっても、食物を捨てることは、「小罪」であるとは言え「罪」にほかならない。償いを求める司祭の姿勢は真っ当である。

ましてや、故意に食品ロスを作り出すことは、私たちの宗教観から見れば「大罪」に匹敵する行為である。そのような「大罪」を平然と犯す人たちの神経が理解できない。

そして、これはコンビニ会社の本部経営者をスケープゴートにして叩けば良い話ではない。私たちの周囲にも、この人たちと同じ「大罪」に陥りそうな要素は少なくない。インスタ映えする食物の画像を撮って食べずに去る若者などは、まさに「大罪」の予備軍であろう。

食物を大切にしない文化は、やがて滅びる。私たちは日常生活の中で、この現状に危機感を持っているだろうか? 自分自身の振る舞いを日々振り返りたいものである。

2017年11月22日 (水)

得難い体験

原因は自分の失敗であっても、損失を補って余りある成果を得られることがある。今回のエントリーはそんな話だ。

17日に、豊川市介護保険関係事業者連絡協議会会長・平田節雄さんからのご依頼をいただき、同団体の全体研修会において、『口のきき方で介護を変える』に関する演題、「人と人との会話」についてお話をさせていただいた。

平田さんは浜松でお仕事をされていたときからの旧知の方で、昨年のジョアン開業15周年のつどいには、ご多用にもかかわらず駆け付けてくださっている。今回は協議会の役員さんたちと検討される中、介護の現場で使われる会話の重要性が主題になり、著作もある私にオファーくださったとのことである。

この演題では、これまでにも何度か出講しているが、時節の変化に合わせて部分的に内容を変更している。とは言え、根幹の部分が揺らぐものではない。

本ブログの読者であればすでにご存知の通り、私が「話し言葉」だけを独立させて論じることはない。介護に従事する人たちの職業人としての基盤がしっかりしていなければ、仕事で会話術を活用できないと考えているから、心構えや姿勢の話が前面に出る。

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講演の途中で三回ほど、参加者のみなさんに、近くの席の方とディスカッションしていただく機会を設けた。研修は講師が一方的に話すのではなく、それぞれの体験から分かち合うことも大切だと思っているので、演習に代わるものとして短時間のディスカッションをはさんだ次第だ。

参加者の中には、現実の会話のしかたよりも、理想・理念ばかり話していると思われた方があったかも知れないが、私の側は、実践できない理想・理念を話しているつもりは毛頭ない。多くの参加者にとって、たとえ一部分、一節でもお役に立つ内容があれば、活用していただきたいと願っている。

さて、実はこの会場とつながっている公共駐車場に車を停めようとしてバックした際に、不覚にも死角に入った鉄柱の位置が目に入らず、衝突して物損事故を起こし、後部のガラスが大破してしまった。

駐車場管理会社に謝罪し、担当者の方に立ち会っていただき現場を検分した。その際、担当者の方から、このまま浜松まで帰ると、ガラスの破片で後続車に損害を与える恐れがあるから、レッカー車を依頼したほうが良いとの助言をいただき、損保会社に事情を説明して、レッカー車を派遣してもらうことになった。

しばらくして株式会社EXCELなる業者のレッカー車が来て、担当の山本さんという40代半ばの方が、私の車を積載してくださった。原則として運ぶのは車だけとのことだったが、いつもの整備屋で代車を借りないと自分が困ると保険会社に要求して了解を得たことを盾に、無理にお願いして助手席に同乗させていただいた(...ので、同乗に至ったのは山本さん側の責任ではないことを付言しておく)。

ま、経過はともあれ、現場から整備屋までの約一時間半の行程で、全く異なるクルマ業界の山本さんと、ディスカッションする機会を得た。

そのとき、山本さんが語ってくださった内容が、まさに私が先刻、介護事業者のみなさんに対してしゃべった内容と、基本部分を共有していたのだ。

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具体的には「顧客本位の応接、気配り」「説明責任」「コミュニケーションの中での気付き(コーチング)」「職場仲間の尊重」「仕事ができることへの感謝」などといった、当日介護業界のみなさんに対してしゃべったことを、そのままクルマ業界に置き換えればこうなるよね、と言わんばかりの話を、いろいろお聞きすることができた。

山本さんがご自身のプライベートなことも交えて話してくださったので、細かい内容は割愛するが、氏が終始、敬語で話され、タメ口などきかなかったことは明記しておく。

「人」ではなくクルマという「モノ」を直接のサービス対象にする業界の現場最前線でも、意識の高い中堅社員なら当たり前のように、これらの項目を実践されていることには、大きな刺激を受けたのが正直なところだ。

クルマ業界でもこういう方がいるのだから、ましてや、「人」に直接向き合う介護業界で、これらができていない中堅職員(たとえば主任介護支援専門員)は、恥を知るべきである。

もちろん、理想通りにはいかないのが世の常で、山本さんもご自分の側では意識して取り組んだつもりでも、顧客や後輩職員から受け止めてもらえなかったご経験も含め、正直な実感を話されていた。業界は違えど、人間関係の円滑化や人材育成に難しさが伴うことは、共通の悩みであろう。

また、クルマ業界では、大手はともかく、中小企業では労基法遵守は不可能に近いようである。多くの事業者では、厳密な法令遵守ができるところまで人員を増やせば、社員の生活が苦しくなるほど人件費を切り詰めないと、経営していけない状況だとのことだ。私たち介護業界でもクルマを活用しているが、知らずしてこのような多くの企業に「無理」を強いている現実を忘れてはならない。

アクシデントから生まれたディスカッションであり、損保の保険料が次年度はおそらく数万円上がることが予測されるので、財政的には確かにダメージではあった。しかし、自らの家庭事情による制約から、他業種の人とまとまった時間を取って語る機会がほとんと無い現在の私にとって、この一時間半は、お金では買えない貴重な学びの時間であり、得難い体験であった。

山本さんには心から感謝して、今後のご活躍をお祈りしたい。

2017年11月 9日 (木)

プロフィットセンターの証しを立てよ!

来年の介護報酬改定をめぐって、財務省と厚生労働省とがしのぎを削っている。

現時点で判明しているのは、全体として小幅引き上げ、ただし一般企業と比較して「利益率が高い」とされてしまっているサービスについては、本体部分が明確な引き下げになり、介護職員処遇改善加算だけは引き上げられるであろう、との方向性である。

この事案については、すでに知名度の高い論者たちが続々と持論を展開しているので、例によって私の出る幕はない。

そこで、別の視点からこの問題を論じてみよう。

介護報酬を全面的に「引き下げよ!」と強く主張しているのは、財務省、経済界、健保である。すなわち、国の財政、国民の経済、国民皆保険体制を守る立場の人々だ。その背景には、介護業界が「コストセンター(社会的な費用を注ぎ込む場)」になっているとの先入観がある。

これに対抗するにはどうしたら良いのか?

言うまでもなく、介護業界が「プロフィットセンター(社会的な利益を産み出す場)」になっていることを、データで証明できれば最善である。

それでは、私たちの業界は、これまでにその種のデータを集積してきたのだろうか?

各団体とも、介護報酬が上がることにより、職員の待遇が良くなり、事業者の経営が安定し、利用者に良質なサービスを提供できることはしきりに主張している。それはあくまでも業界の利益であり、そこから利用する当事者の利益にはつながるが、多くの人々からは、国民全体の利益だとは受け取ってもらえない。

もし、介護報酬が上がることが国民の利益であると主張したいのであれば、「A事業所がこれだけのサービスを提供した」結果、どんな効果が発生したのかを提示する必要がある。「B利用者が使う医療費がこれだけ減り、購買力がこれだけ増えた」、あるいは、「C介護者が離職しなくて済んだので、これだけの給与をもらえた(当然、勤務先がそれ以上の利益を上げた)」といった形で、現実にどれだけの社会的な利益を産み出す効果を上げたのか、それをデータで示さないと、財務省や経済界や健保を説得できない。

たとえ国が費用を注ぎ込んでも、社会保険料が上がっても、それを上回る効果が期待できれば、介護報酬を引き上げる意味があるのだが、そのような調査が業界主導で行われた事実を、寡聞にして私は知らない。あるいは単に私が知らないだけで、実際にはどこかでそのような調査結果が示されているのかも知れない。

ただ、確実なのは、現在に至るまで、介護業界の側から財務省や経済界や健保に「突き付けられる」ほどの影響力を持つデータを集積できていないことだ。

もちろん、国の社会保障に関するお金の使い方は、この三者が中心になって決めるものではなく、外交・防衛・経済・産業・教育・地方開発・環境など、さまざまな分野と総合的に比較勘案して、政権与党が案を作り、野党とも審議しながら、国会で決めるものだ。しかし、それだからこそ、「この分野にはこれだけのお金が必要」だとの根拠を調査結果の数字などわかりやすい形で示せなければ、削りやすい部門の予算が削られ、政権与党が必要だと思われる部門に回されてしまう。

では、この調査がそんなに手間がかかるものかと言えば、決してそうではない。居宅の場合には介護支援専門員がいるのだから、一人の利用者に対して月平均でどれほどの介護保険サービスを提供したかは割り出せるし、利用者や介護者の協力を得れば、その家の経済効果を把握でき、社会的利益も推定で概算できるはずだ。施設入所者の場合は、一人の高齢者が自宅に戻った場合、介護者がどれほどの制約を受け、費用増や減収になるかを予測、積算すれば良い。

これによって厳密な数字を出せるかと言われれば、正直なところ、かなり大雑把な概算にとどまる嫌いはあるだろう。しかし、「介護サービスがプロフィットセンターである」ことを示す具体的な数字を明らかにできれば、概算であっても大きな説得力を持つことが期待される。

いま関係機関が次から次へと送ってくる(多くは)無駄な調査や、職能団体がひたすら低姿勢で肥大化させている(相当部分が)無駄な法定研修の時間や手間を削れば、この社会的利益に関する調査の時間や手間などは十分に確保できる。

厚生労働省が財務省などに対抗して、報酬引き下げを阻止してくれるのであれば、このような形での援護射撃も必要なのだ。

実際、かつて私たち独立型の介護支援専門員が、数十人規模とは言え全国レベルで組織を結成したとき、「生活が苦しいだけでは報酬値上げを要求する根拠にならない」として、まずは個々の業務の積算根拠を求め、そこから先へ進んで社会的利益を算出していく構えを取っていた。共同研究の呼びかけも細々と各方面へ行った。

しかし、残念ながら、全国の介護支援専門員を代表する団体は、このような私たちの動きに対して一本の矢も送ってくれなかった。それどころか、過去のある時期の全国指導者には、(たとえ団体と直接関係なく個人としての行動であったとしても、)私たちの動きをツブしにかかっているとしか思われない行動を取った人がいたことも、残念な事実だ。

私もいまは全国の職能団体の会員であり、過ぎたことを蒸し返すのが建設的でないことは百も承知だが、今後のためにも言及しておく。

とにかく、遅きに失したとは言え、この種の調査をどこかで行わないと、介護業界はコストセンターになっているとの「神話」がいつまでも幅を利かせ、それを信じている多くの国民は、財務省や経済界や健保が唱える、介護報酬を上げなくても良い、むしろ下げろ、との見解に左袒することになるだろう。

そうなれば、一部の論者が唱えている「介護大崩壊」が現実のものになる。これこそ、国家的な危機にほかならない。

どこかのメジャーな業界団体または職能団体が主唱して、大急ぎでもこの種の調査を全国レベルで大々的に実施するのならば、もちろん私自身も、数少ない利用者や介護者にお願いするばかりではなく、自分の力で及ぶ限りの個人や組織に呼びかけ、最大限の協力をするつもりである。

2017年10月18日 (水)

輝いてください☆

浜松の、いや周辺の市町も加えて、静岡県西部地区の介護業界は、ある意味「大きな田舎」である。関東や関西、あるいはその他の地域で、当地より一歩も二歩も先んじたアクションが起こり、それが全国的に大きなうねりを作ろうとする形勢にあっても、なかなかそれらの動きについて行くことができない。

介護業界の括りにかかわらず、保健、医療、あるいは福祉の業界では、「やらまいか精神」で注目すべき活動をしている人たちが当地にも結構見受けられるのだが、なかなか「全国区」でのダイナミックなアクションに結び付いていると言い難いのは、寂しい限りである。

私も、かつてはブログや掲示板、あるいは同業のMLなどをきっかけに、全国各地を旅しながら業界の友人たちと交流させていただき、最近はFacebookの助けもあって、多くのすばらしい仲間とネットで結び付くことができたが、2月に母が要介護状態になってからこのかた、行動が制約され、なかなか自分から他県まで出かける機会を持てずにいた。

そこで、去る14日、他の用事も兼ねて東京へ一泊ツアーを敢行。数人の方にお声掛けしてディナーにお誘いしたのだが、ご用事で参加できなかった方もあり、新宿の「KICHIRI」で三人の方とテーブルを囲むことになった。

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相模原市在住の認知症介護指導者・認知症ケア専門士、阿部敦子さんは、「認知症ONLINE」のサイトで認知症介護小説『その人の世界』を執筆されている。家族側や支援者側から見た認知症の姿ではなく、徹底した利用者目線で一人ひとりに「何が起こっているのか?」を導き出そうとする短編小説の連作は、利用者本位の介護を究めようとするすばらしい試みだ。すでに29作まで紹介されている。

都内在住の管理栄養士、林裕子さんは、患者(利用者)本位の在宅医療で全国から注目されている、悠翔会在宅クリニック・在宅NSTチームに所属されている。他の医療職と協働して、「摂食」「栄養」「嚥下」などの側面から多くの人たちの在宅生活を支える、訪問栄養指導のスタッフのお一人である。一般にはまだまだ普及していない訪問管理栄養士としてのお仕事をされている。

奥平幹也さんは、以前のエントリー「人と会い、人と語り...(2)」にもご登場いただいた。その後、「ミライ塾」はNHKの番組でも取り上げられ、その取り組みが全国的に紹介されたこともあり、最近は各地を回るなどのご多忙な日々が続く。

実は阿部さんと林さんとは、FB上で私の「ダジャレ友達(正しくは「言葉遊びの友達」かな?)」でもあるのだが、お目にかかるのは今回が初めてであった。お会いしてお二人ともステキな女性であるとの認識を新たにしたことは、説明の要もないと思う(^^*

(なお、顔出しNGの方がおられたので、画像は料理のみである)

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阿部さんは、現在のところ本業の傍ら、短編小説をポランティアで執筆されている。奥平さんから、他の方のことはともかく、阿部さんの作品は対価を受けるだけの価値があると思うとのご意見があった。私も、せっかくの力作が悪用・盗用などされないように、著作権を守る手立てを講じるべきだと述べさせていただいた。阿部さんも今後の対応については考えるところがあったようだ。

個人的には、保健・医療・福祉に携わる方すべてに、ぜひ『その人の世界』を全編お読みいただきたいと思う。阿部さんにはさらに書き続けていただき、いずれこの小説が紙媒体で出版され、業界の教科書になることを期待したい。

奥平さんの「ミライ塾」塾生たちは、すでに三期目に入っている。この塾は介護の現場で働きながら奨学金を返済し、そのあとは一人ひとりに合った職業に就いて(もちろん、介護でも良いのだが)、社会に羽ばたいていくのが理想だ。しかし、しっかり足元固めをして独り立ちしようと研鑽を怠らない学生が多い一方で、中には若さゆえの気のゆるみや、社会人としての経験の浅い面が露呈してしまう学生もいる。現実には奥平さんがそれらの課題解決に向けてサポートしているとのお話があった。

学生のフォローアップは、学生の就労先法人→関連団体からの支援を受けているとは言え、奥平さんの過重負担が大きくなっているようだ。ミライ塾の取り組みが画期的なものであるだけに、長く続けられることを思えば、お一人に負担がかかる状況が軽減されることは大切である。学生の卒業までに社会人として磨き上げていくのがミライ塾の目指すところだ。今後はどこかの基金を活用するなどして、サポートしてくれる要員を確保できないものか。喫緊の課題になろう。

談話の中で、一般的に奨学金を返せない人が増えている事情は、就労してからの収入が伴わないなどシステム上の問題がないとは言えないが、本人の意識に係る要因が大きいとの議論もなされた。林さんもご自身の経験を踏まえ、借りたものは責任を持って計画的に返済すべきことを指摘された。私も同意見だ。

林さんからは、栄養士の給与が医療職の中ではいまだ低く抑えられている現状のお話があった。給与待遇面のみならず、一般的には管理栄養士が在宅訪問する場面は限られており、悠翔会さんのように在宅NSTを推進する医療機関は少数だ。栄養士さんたちが活躍することで、高齢者などの入院に至るリスクを減らし、医療、介護双方の社会保障費を抑制する効果もあるのだ。林さんも複数の業界誌などにお仕事での取り組みを投稿されているが、今後は市民啓発にも一層力を注ぐ必要があるかも知れない。

ちなみに、林さんはおもに電車を使って利用者さんを訪問されており、本当は自転車も併用したいらしい。私自身、ケアマネジャーとしての居宅訪問は徒歩やバス利用の割合が多いので、安易に車を使わないスタイルには共感できる。

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私から見れば一回り以上若い方々とのトークであったが、とても実りある時間であった。自分自身の生涯学習のためには、これからも年代に関係なく、価値のあるお仕事をしている方とは、親しく交流していきたいと考えている。

トークに付き合ってくださった方々(および、今回参加いただけなかった方々を含め)は、それぞれの分野で先駆的な方である。しかし、いまだ介護業界、保健・医療・福祉業界の中で、ふさわしい声価を得ていないというのが、私の正直な感想だ。ヒーローやヒロインを作ることが業界にとって良いという意味ではない。より多くの人たちに携わってほしい分野を開拓していく人、いわば牽引車のような人が、どの分野にも必要なのだ。その人たちがスポットライトを浴びることにより、協働する人たちが増え、私たちの業界、ひいては市民社会に大きく寄与することになるのだから。

阿部さん、林さん、奥平さん。もっともっと輝いてください☆ 及ばずながら、私もできる限り応援します!

2017年9月 4日 (月)

講師の品格

身の周りのことで何かと多用であるとは言え、ありがたいことに、ときどき県内外からお声掛けいただき、企画や研修の講師として出向くことがある。マイナーな講師であっても、業界でのつながりは大切にしたいので、極力お受けすることにしている。

そのとき大切にしているのは、その出講のテーマ、そして内容が自分自身の倫理観に照らして正しいのか? ということだ。

だいぶ前のことだが、信頼筋からこんな話を聞いたことがある。

ある自治体が介護支援専門員を対象とした研修会を開催したところ、その講師が「介護支援専門員不要論」を軸に、介護支援専門員の問題点を突っつくのに終始したというのだ。他のところで確認した情報も勘案すると、大枠はその通りだっただろうと推測する。

その講師が「介護支援専門員不要論」を唱えていたのは以前から知っていたが、実際にそれを介護支援専門員対象の講演の中でぶち上げたことには、たいへん不快感を覚えた。確かに私よりはるかに知名度の高い人ではあったが、実体は単なる独善的な人間だったのではないのかと感じる。

これは、前回のエントリー、「真に介護業界の将来を憂えている論者と、独善的な動機から介護業界を貶めているに過ぎない論者とを、自分の頭で見分けるためには、どこに着目すれば良いか?」の内容(本文のほうがタイトルより短くなってしまった...)にも関連する話だ。

たとえば、私は浜松で在住外国人支援の実績を持っているので、もしどこかの団体から、介護分野における外国人の活用について話してほしいと頼まれたら、日程調整さえ可能であれば喜んで出向きたいと思う。ただし、それはあくまでも永住者や定住者の介護業界就労支援であるとか、留学生の資格取得→就労支援であるとか、効果が薄いとは言えEPAに基づき専門職を目指す人たちの支援であるとか、すなわち正規の労働者としての在住外国人支援に係る分野の話である。

もし、研修生・技能実習生を受け入れたい事業者を対象とした話をしてほしいと頼まれたら、いかに高額な報酬を提示されても、私はお断りする。なぜなら、私自身はこの制度の運用がその趣旨に乖離し、安価な労働力獲得の隠れ蓑になってしまったために、長年にわたって数々の人権侵害を招いてきたと理解しているので、制度そのものの廃止を主張しているからだ。自分が不要だと考えることを業とする人たちの集団から講演料をもらうのは、恥ずべき行為である。それが、人間として当然持つべき倫理観ではないだろうか。

したがって、自分が否定的に捉えることを説いてお金をもらうとしたら、それは「聴講者にはこうなって(こうあって)ほしくない」との主張になる。

去る8月22日、ケアマネットしまだ(島田市の介護支援専門員連絡組織)からのご依頼により、「ケアマネジャーの接遇」をテーマに講義を行った。途中のグループワークでは、何人かに「自分がモノを買うときに、売る側から応接されて不快だった経験」を語ってもらい、自分たちが利用者に対して同じことをしてしまっていないか、互いに分かち合い、振り返ってもらった。

特に、講義の中で何度も強調したのは、利用者にタメ口をきかないことである。「もし、利用者にタメ口をききたいケアマネジャーさんがいたら、自分のところの理事長にも医師にも、これからは同じようにタメ口で話して、それでうまくいくかやってみたらどうですか?」。つまり、業界の悪習とも言うべき「顧客にはタメ口、上司には敬語」などという非常識は、もはや社会では通用しないことを伝えたのだ。

これは、私自身が「悪習の排除」を実践していなければ、何の説得力もない。自分が否定的に捉えるものには、自分自身が手を染めない。日頃からその覚悟が必要である。

裏を返せば、講師を打診する側の団体が、依頼する際に講師の日常の振る舞いにツッコミを入れてみると、ニセモノ(独善・偽善)のメッキがはがれることもあるので、面白いかも知れない。もっとも、依頼する団体側からすると、事前交渉の段階で相手にこまごま問い質すのは失礼だとの認識もあるので、特別なことでも起こらない限り、たいていは確認不十分のまま依頼してしまうのだが...

いずれにせよ、私自身はそのようなニセモノとは明瞭な一線を画したいと考えている。それが自分の矜持でもあり、自分が講師を受任する際の基本指針でもある。

「講師の品格」とは、このようなものであろう。

2017年8月 6日 (日)

「合理的配慮」が容易でないのはなぜか?

先日、車いす利用の男性と航空会社とのトラブルが報じられ、「障害者差別解消法」の浸透や、「合理的配慮」の度合いが話題となった。

この事案に踏み込む前に、「合理的配慮」を阻む障壁について、自分自身の経験から、エントリーに自論を述べておきたい。

2008年、カトリック教会の西部地区で、お一人の司祭(神父)の提唱によって、5人ほどのメンバーが集まり、数次にわたってキリシタン時代の「殉教者(信仰を守って処刑された人たち)」を崇敬し、事績を研究する会が結成された。もちろん、ポルトガル語やスペイン語の文献を参照して専門的研究をするのではなく、著名な研究者により積み上げられた数々の専門的研究を、一般の信徒にわかりやすい形で整理してまとめる作業であった。そこでは私ともう一人のA氏とが中心になり、A氏が信仰面・教理面からの整理、私が歴史的背景からの整理をして、殉教者に関する資料をまとめ、その二つをメインとした発表会を企画した。

さて、発表会の当日、会場となった浜松教会の聖堂で、先発のA氏の発表が始まったころ、同じ西部地区内で隣の教会に所属していたB氏が、奥さんと一緒に会場に入ってきたのだ。

B氏は当時60代後半、視覚障害者(全盲)であり、私の昔の勤務先の先輩でもあった。県内の視覚障害者の中でも指導的立場にある。教会の信徒たちからも尊敬される人であり、息子さんは司祭になっておられる。当然のように、地区全体に広報した企画である以上、B氏が来場する可能性は想定しておかなければならなかったのだが、なぜか私の頭の中からはその可能性が欠落していた。

私の発表は「キリシタン時代-その宣教と殉教者たち」と題して、54枚のスライドで構成される大部のものであった。前半がキリシタン時代の歴史的背景の解説であり、後半が各地を巡礼した画像であったので、説明を加えるのはおもに前半に比重を置き、後半ではスライドを見てもらいながら、早送りで流す予定であった。

しかし、B氏が会場にいる以上、後半を画像だけ見てもらって流すわけにはいかなくなった。そこで、前半の説明をかなり早口で進め、後半の画像についても、早口だったがすべてに解説を付けた。一枚ずつのスライドに関する説明は、部分的に割愛せざるを得なかった。

終わった後、メンバーで反省会を開いたとき、私から一言。「Bさんが当日行くことをあらかじめ知らせてくれていれば、そのつもりで構成を考えたんですが...」。

さて、ここに述べた私の事案を事例として整理してみよう。

まず、この企画はあくまでも一宗教団体の内部行事であり、公共の場で行われた作業ではない。かつ、私たちは対価をもらって講話をしたのではなく、A氏も私もまったく無償で時間を費やしてスライドを作成し、解説している。

したがって、障害のある人たちへの「合理的配慮」をどこまでするかは、主催者側の裁量に任せられていたことになる。すなわち明確な「努力義務」を負っていたわけではないので、日頃、教会を訪れる人たちの中に見受けられる障害者の人たちに対して、一通りの配慮をしていれば、過当な批判を受けるものではない。

次に、日頃来る人たちへの配慮である。B氏の来場を予測していなかったのは確かに不用意であったかも知れないが、B氏一人(他には視覚障害者と思しき人は来場していなかった)のために、すべてのスライドについて早口ながら口で説明を加え、少なくとも「合理的配慮」はしっかり行っている。「しなかった」わけではないのである。車いすの人は見た限りでは来場していなかったが、聖堂(残念ながら段差が多い)の後ろの席で見ることはできる状態であった。また聴覚障害者に対しては、少なくとも私のスライドでは、画像の傍らに見て理解できる説明を付けておいた。

しかし、反省会のときには私の口から、前述の「...あらかじめ知らせてくれていれば...」の言葉が出てしまったのだ。

私は介護・福祉業界の人間である。そして繰り返すが、B氏は業界の先輩として私自身も尊敬し、他の多くの人からも尊敬を集める人物である。そしてB氏の来場を予測しなかったのは、私の不用意でもある。

それでも、私としてはネガティブな感情を抑えられなかった。いや、おそらく話は逆で、知名度の低い「フツーの」視覚障害者である教会信徒が突然来場して、そのために私が講話の語り方の変更を余儀なくされたとしても、ネガティブな思いを抱かなかったのではないか。むしろ「Bさんほどの人が、なぜ事前連絡をしてくれなかったのか?」のほうが、当時の私の気持ちを正しく表現しているのかも知れない。

つまり、「合理的配慮」はしたい。したいが、その「合理的配慮」を円滑に浸透させる準備は、受益者側と向き合う側との双方がするものなのだ。どのような点に不自由な、不便な人が存在して、その不自由さ、不便さを解消するのにどのような配慮をすれば良いのか。そして、それを整えるための準備にどれだけの手間と時間がかかるのか。

「合理的配慮」はするのが当たり前で、あえて要請する手間がかかるのは、障害者側に負担を強いるものだとの意見もあるだろうが、それは理想論だ。人はみな生身の人間で、人間は感情の動物である。ネガティブな感情が残らないためには、やはり現実には双方の努力が大切なのである。そもそも論として、受益者側が不利な扱いを受けること自体が間違っているとの見解は、将来的にはその段階まで到達する社会が望まれるものであっても、現在(2017年)の時点の日本社会では、現実離れしている。受益者側があえて準備等の努力をしないまま行動に移して、そこでトラブルが起こり、社会問題を喚起することも、ある意味有益であろう。しかし、当事者双方に面白くない思いを残すことが、果たして良いことなのだろうか。

ここで、冒頭に掲げた事案に戻ると、...航空会社側には、以前も車いす利用者が搭乗できないトラブルが複数回あったことが報じられている。確かに「合理的配慮」への意識が組織として薄かったとは言え、今回のトラブルを受けて二週間で設備を改善するなど、何かのきっかけがあれば認識を改める用意はあったと考えられる。車いす利用者の側も、決して会社を貶める悪意からわざと無連絡で行ったわけではなく、自分流のやり方で旅行や出張を重ねているうちに起こった事案だというのが、どうやら真相のようだ。

したがって、当該人物のように各地で講演している知名度の高い人が、あらかじめ航空会社の不備を知った上で「解消法」の趣旨を説明し、時間的余裕を持って行政機関を巻き込み改善を要求していたら、出張前に改善されていた可能性も強い。双方の責任の軽重はともかく、双方の努力が十分でなかったと言うことができるであろう。本来、理想から言えば正論に則って行動したはずの当該人物が、かえってネットで炎上する事態に陥ったのも、経過から見ると致し方ないように映る。

これは日本人特有の行動様式である「和」に起因するものがあるので、ご関心のある方は加賀乙彦氏や井沢元彦氏のご著書をお読みになるのが良い。

人の心は「義務」や「強制」で変えられるものではない。地道な「歩み寄る努力」が続いてこそ、望ましい社会が到来する。良くも悪くも、それが日本社会の根強い伝統なのだ。障害者に限らず、受益者側と向き合う側とが深い相互理解を積み重ねてこそ、「合理的配慮」が空気のような当たり前のものとして世の中に充満するであろうと、私は考えている。

2017年6月18日 (日)

情報を取得するときの心得

既存メディアの功罪についての議論が絶えない。政治、経済、そして社会問題、国際情勢など。さまざまな分野に関して、新聞では全国紙や地方紙、TVでは公共放送や民間放送が、情報の普及に果たしてきた功績は計り知れない。他方で、メディアの「害悪」もまた小さくなかったことは現実である。

大新聞はとかく「偏向」を指摘されてきた。確かに紙媒体の新聞を読む限りは、主要な記事や論説のうち、かなりの割合のものが偏りを免れない状況であろう。しかし、インターネットが普及した現代では、大手メディアが必ずしも「偏向」していられないのが現実のようだ。

実際、右派・保守派から「パヨク」扱いされがちな朝日新聞が、提携するハフポスト日本版では、右派側の見解もそのまま掲載しているし、逆に左派・人権派から「ネトウヨ」扱いされがちな産経新聞も、オピニオンサイト「iRONNA」のコーナーでは、左派側の見解もそのまま掲載している。もちろん、両紙とも、自社側の論調をより強く印象付けるための仕掛けを、それなりに工夫しているらしいことが看取されるが。

また、このほかに、どう考えても論調がおかしい(一貫していない、判断根拠が理解し難い、etc.)全国紙や地方紙が存在することも確かである。

TVでは、一部にどう見ても偏向としか言えない番組はあるものの、問題の多くは局側の「視聴率を取りたいビジネスライクの姿勢」にあり、過剰な取材を始め、視聴者の興味本位に迎合した番組本位の稚拙な編集が、正確性や中立性を歪める原因を作っているので、視聴者から愛想を尽かされている面が強い。裏を返せば、質の高い編集がなされている番組には、視るに値するものも少なくないのだが、大勢を占めるには至っていない。

このような実態を踏まえ、最近はおもに若い人たちが、あまり新聞やTVに依存せず、ネットから直接情報を取得しようとするのは、時代の趨勢である。

さて、私たちがネットを主たる媒体として情報を取得するときに、心がけたいことがある。

それは、情報の「選び方」なのだ。

Jouhou

私がいつも強調しているのは、「私たちは無意識のうちに、自分にとって快い情報だけを取り込んでいる」ことである。人が情報を取得し、選択しようとするとき、大なり小なり、この図に示したような心理的動機が働く。いくら自分が公平な眼で、中立的な立ち位置で世の中を眺めようとしても、神ならぬ身であれば、100%それを貫徹するのは不可能と言えよう。

しかし、それを完璧に近づけるために努力することはできる。そのためには、

(1)「自分が日頃から尊敬、共感している人(組織)が、ある場面ではおかしなこと、間違ったことを言っていないか」

(2)「自分が日頃から嫌悪、批判している人(組織)が、ある場面では正論を言っていないか」

これらを常に意識して情報を「選ぶ」ことが必要になる。

拙著『これでいいのか? 日本の介護』第七章では、日本人特有の思考形態・行動様式について述べたが、その中で特に大きく取り上げたのが「二分割思考」である。「白」と「黒」、「善」と「悪」、「正」と「邪」、「純」と「不純」などが、その代表的なものだ。この「二分割思考」が「排除の論理」につながり、また私たちの正常な情報分析を妨げることは、前掲書中に述べているので、機会のある方はお読みいただきたい。

この「二分割思考」の壁を打ち破るために、上述した(1)と(2)とを常に意識することは、とても大切だ。考え方が両極端に走るのを防ぐことにより、ものごとの真実を見抜く力を養うことにつながるからである。

私たち市民がこのような努力をして、自分の頭で情報を選び、ネットでの極論や誹謗中傷に対して安易な賛同をしない姿勢、反対側の立場の見解を頭から否定しない姿勢を保っていけば、それは日本国民の民度を向上させ、成熟した市民社会の実現を近付けることになる。

上の(1)と(2)。一人でも多くの人たちに、ぜひ実践していただきたい。

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