社会問題

2022年9月28日 (水)

子どものケンカ???

少年時代はおとぎ話だと思っていた、スウィフト(1667-1745)の「ガリヴァー旅行記」。成長してから全訳本を読んで、当時の政治家たちをはじめとする国民を、彼が強烈に風刺していたことを知った。しかし、第四篇「フウィヌム国渡航記」に「ヤフー(Yahoo社名の由来の一つでもある)」なる野蛮な類人猿が登場し、敵に排泄物を浴びせ掛ける描写、そしてそれがガリヴァーの故郷・英国の人々に擬せられている記述を読み、あまりにもどぎついその表現に、正直ついていけなかった。

ところが、いまの日本ではしばしば、通行中に排泄物(便、尿、体液)を他の人にぶっ掛けたり投げつけたりして、逮捕される人間の行為が報じられている。この種の事件が日本の各地で発生し、跡を絶たない。寡聞の範囲では、これらの犯人(≒容疑者)はほとんど男性だが、年代は老若さまざま。しかも、その一部は、年輩で地位のある人(たとえば学校の教頭など)なのだ(もちろん、その一部は精神疾患や認知症である可能性を否定できないが)。

どうやら、一部の日本国民は本当に「ヤフー」の水準まで退化してしまったらしい。嘆かわしいことである。

そして、退化とまでいかなくても、「この人たち、本当に大人(おとな)なのか?」と疑わせる事案は、さらに数多く、連日のように報じられている。

直近の例を二つ。

1.総合格闘技団体が主催した大会。招かれたのは米国の超弩級王者(プロボクサー)。ところが日本選手と対戦する前、オークションを落札してプレゼンターになった男性(政治団体の代表)が、なんと花束を王者に渡さず床へ投げ捨て。その理由は、王者が来日して自分や他の選手に対し非礼を働いたからだとのこと。そもそも言語や文化の違いから意思疎通ができていなかった可能性もあり、本当に非礼だったのか疑問。仮に氏の主張通りだとしても、リング上では大王者に対するリスペクトがあって当然。プライバシーを公的な場に持ち込むこと自体が幼稚な所業であろう。

2.某県の某市(県都の政令市)が台風のため甚大な被害。ところが県知事が自衛隊に(給水車などの)支援の派遣要請をしたのはその二日後。実は市長と県知事とは犬猿の仲。理屈から言えば、市長は冷静に事態を整理してから県へ話を通したのだろうし、県知事は市側の現状を見極めてから要請したのだろうけれど、本音は「市が当面対応できれば、慌てて県知事に要請を要求したくない(市長)」「市長が頭を下げてこなければ自分から要請する気になれない(県知事)」だったことがミエミエ。非常時に住民そっちのけで何をやっていたのだろうか。

この二例、プレゼンターや市長・県知事の振る舞いは、まさに「子どものケンカ」としか思えない。

私自身、これらを他山の石として、「あの人、大人気(おとなげ)ないね」と周囲から嗤われないように、日頃の言動に気を付けたいものだ。

2022年8月21日 (日)

甚だしいメディアの劣化

7月19日、フィギュアスケートの羽生結弦選手(27/ソチ五輪およびピョンチャン五輪の男子シングル金メダリスト)が会見を開き、自身の今後の進路について表明した。

私はこの会見をあとで断片的に見聞きしたに過ぎない(全部は視ていない)が、「引退ではない。高校野球からプロ野球へ進むのを引退と言わないのと同じ」「プロのアスリートとしてスケートを続けていく」の言葉に、

「ああ、ついに羽生選手はエリジブルから外れるんだな」と、何の疑問もなく了解したものだ。

この「エリジブル(=eligible。競技選手として適格である者の意)」はISU(国際スケート連盟)のシステムなので、一般の人たちにとってわかりにくいことは事実だ。私はスケート靴を履いたことさえ全くないが、荒川静香氏(40/トリーノ五輪の女子シングル金メダリスト)の活躍以来、多少はスケートについて知識を得ていたので、羽生選手が会見で述べた言葉の意味はすぐに理解できた。スケートにおける「プロ転向」はもちろん「引退」とは異なる。同選手は何も難しいことを語っているわけではない。

ところが、一部メディアがこの会見に噛み付いたのだ。「『引退ではない』の発言は意味不明」「ファンにわかりやすい説明を」などなど...

それらの記事を読んで、「何を抜かしてるんだよ!」と思った。これらの(一部かも知れないが)メディアで仕事をする記者やデスクの勉強不足は噴飯ものでしかない。わからなければ自分で調べて整理してから、読者が理解できるように解説するのが、自分たちの職務であろう。…と言うより、事前のスクープ(これはこれで問題だが...)によって「プロ転向」が予測できたのだから、先に調べてから会見へ行くべきではないのか? それがメディアとしての「プロの仕事」であるはず。

選手側の表明内容に責任があるかのような言い方は、小学生が家に帰って「こんなわかりにくい宿題を出す先生が悪い」と駄々をこねているレベルであり、天下に恥をさらしているようなものだ。偉大なチャンピオンに対して礼を失すること甚だしい。

罵倒ばかりしていてもしかたがないので、記事(要点)の模範例を作ってみた。以下の通り。

「『羽生選手が競技生活に別れ』。

フィギュアスケートで二度の五輪金メダルに輝いた羽生結弦選手が会見を開き、国際スケート連盟の競技選手(エリジブル)の登録を終了して、今後はアイスショーで演技するプロスケーターの道を歩むことを発表しました」

このように書けば、記載された意味は明々白々であろう。その上で必要ならば、「エリジブル」について囲みまたは注記で解説すれば良いだけの話だ。

スポーツにしても(将棋のような)頭脳競技にしても、いや、私たち介護業界を含め、あらゆる分野の業界にはそれぞれ特有のシステムがある。各メディアにはそれぞれ担当部署があるはずだ。自分が配属された以上、まずは勉強すべきである。それが「お客様(読者)」に対する義務であろう。

その努力をせずに報道しようとする姿勢を見聞きすると、メディアの劣化としか言いようがない。今回は羽生選手の会見がわからないとゴタゴタ言っていた一部メディアを例として掲げたが、最近は他のメディアも多くは、また別のところで同様な手抜きをしている状況だ。小学生レベルの記事しか書けないのであれば、読者が離れていくのは火を見るよりも明らか。また、それはその業界で働く人たちに対しても非礼なのである。

自社の「商品」の劣化を食い止めることが、多くのメディアにとっても課題と言えそうだ。

2022年8月 8日 (月)

安倍氏銃撃の背景にあったもの

一か月前の7月8日、安倍晋三・元総理が奈良県で参院選の応援演説中に、後方から銃撃されて67歳の生涯を閉じた。

個人的には、安倍氏の全方位外交政策や、現実を踏まえた防衛政策を高く評価する一方、社会保障政策に関しては批判したい点が多くあった。ただ、いまはそれらを総括して、国政に大きな業績を残した政治家であったと評価したい。そして、その早過ぎる死去に哀悼の意を表する。

さて、この銃撃については、百花繚乱と表現すべきさまざまな論評が入り乱れている。山上徹容疑者が何をどのように供述したのか、あくまでも捜査当局→メディアを通した情報しか伝わっていない。これらの情報がどの程度、事件の全容を映し出しているのか、いまだ不明瞭な部分が少なくない。

「(容疑者の)母親が旧・統一教会にのめり込んで多額の献金を続け、家庭が崩壊した。そこで同教会の代表者を殺害しようと機会を狙ったが、近付くことができず、代わりに同教会と関係が深いと信じた安倍元総理を標的にした」。これが一般的に知られている事件の動機である。この通りだったのか、それとも私たちがいまだ知らない情報が隠されているのか、判然としない。

ただ、この情報の通りだったとしても、なぜ同教会と緊密な政治家の代表者が安倍氏だったのかが理解できない。安倍氏が同教会の関連団体に祝辞を送ったのは事実であり、側近の中に信者(と考えられる人)がいたことも現実だ。とは言っても、集票力への期待から、いくつかの宗教団体にエールを送ったり選挙の際に頭を下げたりするのは、安倍氏に限らず多くの政治家に共通する。何よりも安倍政権を含む歴代の自民党政権は、別の大きな宗教団体を支持基盤とする政党と久しく連立を組んでいる。

安倍氏が通常以上に同教会と親しかったかのような報道がなされているが、これは銃撃という結果から「こうだったに違いない」とほじくり出した、いわば後付けの情報であり、信頼に乏しい内容も少なくない。おもに左派の論者は、安倍氏の祖父であった故・岸信介が「国際勝共連合」と組む目的で同教会に接近したことを挙げているが、そもそも個人の「出自」を引き合いにすること自体をヒステリックに拒否する左派が、敵対する人の場合は「祖父の行状」を持ち出して孫を批判するとしたら、これは二重基準も甚だしい。

しかし、実際に事件は起きた。それではなぜ安倍氏が標的になったのか? 容疑者の立場に立ってみると、母親に向けられていた怒りが、「母の人生を狂わせた」同教会への怒りに変容し、さらにその教会トップを「殺せなかった」ことから、何かの形で「復讐」を果たさなければ、心の平安を保てない状態になっていたものと推測される。精神科医の片田珠美氏は、容疑者の「怒りの置き換え」が生じたと指摘している。

その「置き換わった」対象が安倍氏になった大きな原因は、いわゆる「アベ脳」に代表されるような「刷り込み」(←個人や団体に向けて意図的に行う「洗脳」とは異なる)の結果ではないかと、筆者は推測している。何か社会問題が起きると、いとも短絡的に「これもアベが悪い!」と結び付けていたメディアの煽りは、目に余るものがあった。政権が退陣したことによりこの煽りは沈静化したものの、8年にわたって、一部の国民の脳には「アベ=悪」と刷り込まれていた。その一人が山上容疑者ではなかっただろうか?

今後、新たな事実が判明して、筆者の推測が誤りであったことが証明されるかも知れない。しかし、たとえそうなったとしても、理性的な批判の範囲を越えた憎悪を拡散することによって生じる「刷り込み」は、時として人を殺すものであることを、私たちは肝に銘じておくべきであろう。

2022年6月26日 (日)

襟を正してください

地域包括支援センター(以下、「包括」と略称)は、管轄する区域の保健、医療、福祉に関する総合的な相談窓口である。地域の介護予防や権利擁護を推進し、必要に応じて関係機関と連絡調整しながら、支援体制を構築する機能を持つ。主任介護支援専門員・社会福祉士・保健師が必置であり、制度化されてから、はや16年になる。

自治体によって、包括を直営している場合と、社会福祉法人・医療法人等に委託している場合とがあるが、いずれの場合も、包括は自治体のいわば出先機関として、この16年間、大きな役割を果たしてきた。介護支援専門員にとっても、対応困難事例に相当する利用者さんを担当する上で、包括の有能なスタッフはありがたい存在である。

筆者の事務所がある地区の包括(社会福祉法人が受託運営)は、地域づくりにたいへん積極的であり、施設長さん以下、スタッフも粒ぞろいの感がある。先日も包括が主催した「圏域ケア会議」に出席して、愚見を申し述べてきた(画像は包括の保健師さんがホワイトボードにまとめたもの)。ここは「顔の見える」包括として、地域からたいへん頼りにされている。

20220624

しかし、全国の業界仲間からは、必ずしも良い仕事をしているとは言えない包括の状況も聞こえてくる。自治体の姿勢や、受託した法人の姿勢にも影響されるだろうし、批判している側が必ずしも的を射ているとも限らない(相手の言い分を聞くわけではないので...)が、芳しくない行為をする包括(組織、個々の職員)が一定程度いることは、残念な現実であろう。

当地にも、包括の姿勢を疑いたくなる例はあった。

(1)土日祝日の間にはさまる平日、市の某庁舎では、包括を受任している法人の車が(確認できただけで)市役所の駐車場に9台駐車してあった。九分九厘九毛までは包括の会議だったはず。そして9法人のうち(少なくとも)3法人は、徒歩15分以内に、駐車できる同一法人の事業所がある。
他方、市民の車が何台も駐車場の入り口で列をなしていた。
市から委託を受けた機関の車が、市民の車を待たせるのはおかしくないのか??? なぜ自法人の事業所に車を置いて歩かないのか???
(なお、私自身は別の用事のため、車を使わずに来庁した)

(2)とあるケアマネジャーが、九分九厘九毛まで「虐待(行政用語)」に該当する事例に出くわしたので、5月2日の午後、包括へ相談した。当地では、通報を受けたら48時間以内に確認しなければならない規定がある。5月7日になって、この包括の職員がその人の自宅へ出向き、状況を確認した(と、そのケアマネジャーが私に話した)。2日から7日までがなぜ48時間なのか? 時間の感覚が麻痺したのか???

(3)要介護になった住民が、A法人が運営する地元の包括に行き、希望する居宅介護支援事業所の連絡先を教えてほしいと言ったところ、包括職員は同所に確認もせず、「そちらは仕事が忙しいから頼みにくい」と言い、別のB法人の居宅を紹介した。あとで聞いて不審に思った同所のケアマネジャーが、たまたまB法人運営の他地域の包括職員と話していたときに、新規利用者さんを「A法人の居宅へよく頼んでいる」ことが判明。これを一般的には、「ヤミカルテル」と言わないのか??? 公的機関がそれをやってもいいのか???

(4)私のところに、過去複数回舞い込んだ話。「要支援1から要支援2にしようと区分変更申請して、どこの居宅にも頼まずに(アセスメントもカンファレンスもやらず)月を越してしまって、認定結果が『要介護』になってしまった。前月分が減算になってしまうけれど、受けてくれないか?」
これに対して私は、「いや、それは違うでしょ? 
行政の出先機関が居宅介護支援事業所の『運営基準違反(減算)』を依頼するのはおかしくないですか?」と答えて、全部断っている。この場合、前月分は包括の責任で利用者さんに償還払いの手続きをお願いして、それをサポートしなければならないのではないか??? なぜそうしないのか???

これは当地の実話である(もちろん(2)(3)は伝聞であるが、私に語ってくれた方は信頼のおけるケアマネジャーであり、また問題になっていた包括の運営法人は、別部門で過去に類似行為をしていた「実績」もある)。それぞれ、いまから○年前の話だと言ってしまうと、法人名が特定されてしまう恐れもあるので、単にこの16年間に起きた話として紹介するにとどめる。もちろん、冒頭に記した当所所在地を管轄する包括は、(1)~(4)のいずれにも該当しない。

当地では市民、行政、他法人からの監視の目もあり、まだこの程度で済んでいると思ったほうが良いかも知れない。とは言え、本来ならば決しておかしな振る舞いをすべきではない。そのような事例が見受けられる包括の経営者、管理者、職員には、市民のための公的機関を受託している自覚が欠けていないだろうか。

介護業界が人材不足をはじめとした大きな課題をいくつも抱える中、地域の中核となるべき包括に携わる人たちには、いま一度、しっかりと襟を正してほしいものである。

2022年3月24日 (木)

ロシアのウクライナ侵攻に思うこと

2月24日、ロシアがウクライナに侵攻を開始してから、はや一か月になる。

この間、多くの論者がこの国際的な大事件について、さまざまな視点から報じてきた。

「後出しジャンケン」のつもりはないが、いろいろな素材が出揃ってから何か言おうと思っていた(正直なところ、仕事が超過密だったため、エントリーを書く余裕が無かったのだ)。昨日はウクライナのゼレンスキィ大統領が国会でオンライン演説をしたこともあり、一つの節目の時期となったので、私が着目すべきだと考えるいくつかの論点を整理してみたい。

(1)一方的な侵攻への非難は当然である
まず、これまでの経過はともかく、
ロシア・プーチン政権はゼレンスキィ政権のウクライナの領土へ一方的に侵攻し、多くの民間人を殺傷しており、かつ、それを自国の防衛のためと称して正当化している。主権国家が自国の利益のために他の主権国家を暴力で屈服させようとすることが、許されない暴挙であることは言うまでもない。世界の多くの人々がウクライナの国民を励まし、声援を送り、戦禍で亡くなった人たちを悼むことや、ロシアの現政権を非難することは、ごく自然だ。私自身も同じ気持ちである。

(2)「プーチンは悪」「ゼレンスキィは善」と断じるのは不適切だ
しかし、それだからと言って、この衝突に至る過程で、ウクライナ側の挑発がなかったことを示すものではない。日本の公安調査庁「国際テロリズム要覧」では、ロシアの極右過激組織「ロシア帝国運動」に触れるとともに、ウクライナの愛国者で形成される「アゾフ大隊」にも言及している。信頼筋からは、この愛国者組織がロシア系、親ロシア側の住民を殺害した情報も寄せられている。それぞれの組織が外国人戦闘員たちも抱えて相手方と戦闘を繰り返し、ついに今回の侵攻を招いた次第だ。いわば双方の相互作用が憎悪を増幅させたものであり、単純な善悪をもって論じるのは早計である。もし一方的に、プーチン氏が悪魔でゼレンスキィ氏が正義の味方だと思っている人がいたら、それは日本的な「二分割思考」の罠(さらに踏み込んで表現すれば「俳優ゼレンスキィ劇場」のプロパガンダ)にはまっているのだ(もちろん、対するロシア政府側のプロパガンダの問題もあるが...
)。国際政治は「相互作用」「謀略戦の応酬」からエスカレートして実際の戦争に至ることや、いまやサイバー攻撃などの情報戦が戦闘の前段階になっているのが常識であることを、私たちは知るべきであろう。

Ukraina

(3)各国はそれぞれの思惑で動いている
今回、かなり危機が迫るまで「当事者(ウクライナ)不在」の感があり、第二次世界大戦前のチェコスロヴァキアに似ている。プーチンvsバイデンの応酬が取り沙汰されていたのにもかかわらず、ゼレンスキーの名前は侵攻直前までほとんどの日本人に知られていなかった。米国・英国・フランス・ドイツ、そしてロシア寄りの中国・インドも、それぞれ自国・自陣営の利害のために動いている。純粋にウクライナ国民の最善を願って連帯を表明していた国は、どこにも存在しなかった。今後も原則的には同様な経過をたどることは自明だ。

(4)難民受け入れの門戸を広げよ
日本の法務省はもともと、朝鮮戦争の余波を懸念して、難民受け入れにたいへん消極的であった。インドシナ戦争の終末期(1975年)、欧米諸国の要請に押される形で、ようやく多くのインドシナ(ヴェトナム、カンボジア、ラオス)難民を国内に受け入れた。ところが、その後はまた門戸を閉ざしてしまっているので、クルド人など国際的に「迫害されている民」であることが明らかな人々でさえ、容易に難民認定されない状況が続いている。政府は「純血主義」に傾く右派・保守派の影響を受け、いつ起きるかわからない朝鮮半島有事を恐れて、国際的な信用を損じる愚策を採り続けてきたのだ。この機会に、ウクライナのみならず、世界各地から日本へ逃れてくる被弾圧民族を、新たな仲間として受け入れたらどうか? 家族ぐるみで来日する人たちの定住は少子高齢化対策にもなるのだから、一石二鳥ではないか。

(5)私たちは国際経済への影響を先読みすべき
私自身、いわゆる「経済オンチ(「オンチ」は差別用語ではなく自虐の呼称。念のため)」であるので、将来の予測は経済評論家たちの論考を頼りにするのが通例だ。しかし、そんな私でも、ロシアとの貿易途絶によるダメージ、たとえば小麦の供給減少による食品価格の上昇、原油価格の高騰によるガソリン・石油製品価格の上昇、パラジウムの輸入経路変更(おそらく今後は、価格の高い品が中国経由で入ってくる)による自動車価格の上昇により、身近な市場に大きな影響が及ぶことなどは、容易に予測できる。買い占めなどの独善的行為はもちろんいけないが、国民各自が自衛のため必要な物品の調達は、早目にしておくことが大切であろう。

(6)日本は安全保障の観点から、あくまでもウクライナを支持すべき
いま、日本がロシア、中国、北朝鮮などの友好的でない国々から侵攻されないのは、米国(核保有国)との同盟関係にあるからに他ならない(はっきり言って憲法九条は役に立っていない)。論者の中には、日本は中立的立場でロシアとウクライナとの和平に貢献すべきだと言う人たちがいる。もちろん、NATO加盟国であるトルコが試みたように、可能な範囲で何らかの仲介ができれば、それに越したことはない。しかし、ロシアへの経済制裁やウクライナへの人道支援に関しては、米国や西欧諸国と歩調を合わせるべきなのだ。いま、それをしなければ、今度は日本が安全保障上の危機にさらされた場合、どの国にも(状況によっては「同盟国」米国にさえ)支援してもらえないと思っていたほうが間違いない。たとえ国民生活に大きな影響が及ぶとしても、私たちの平和国家へそれ以上の甚大な結果をもたらさないために、国として「旗幟鮮明」にすることが、国際社会から求められている。

以上、言いたいことを言わせてもらったが、異論、反論などもあると思われる。コメントをいただいた場合、応接に値する意見には返信する場合もあるが、内容によっては無視、あるいは削除する場合もあることを、あらかじめお断りしておく。

2022年1月30日 (日)

「40年積み上げた信用を、5分で全部失いますか?」

最近、メディアを賑わせている記事の中には、相変わらず殺人事件や傷害事件が多く見受けられる。

まず、無差別の殺人事件が少なからず発生している。

いわゆる「劇場型犯罪」「拡大自殺」やその模倣犯罪などのため、理不尽に命を絶たれる人が跡を絶たない。まだまだ人生でやりたいことがたくさんあったのに、それが永久に不可能になり、突然生涯を終えさせられた人たちの無念を思うと、他人事とも思えず、悲しみに堪えない。

それらの犯人(今回のエントリーでは、犯罪の経過が明々白々であることを前提に、この呼称で統一する)の年代はさまざまだ。10代後半から80代までどの年代を取っても、一握りではあるが、この種の殺人事件を起こしてしまう人がいる。コロナ禍による閉塞感が影響していると評する論者もおり、無関係とは言わないが、コロナ禍以前からこの種の犯罪はしばしば見受けられている。「孤立」「引きこもり」「長年にわたる無職」だった犯人が相当数いることも確かだが、それにステレオタイプ化してはいけない。

もっとも、失うものが「ない」「たいへん少ない」人が犯人になってしまう場合が多いことも、これまた現実である。その意味では「信用」「名誉」「地位」などは、この種の破滅型・自暴自棄型の犯罪への抑止力になっているのかも知れない。

他方、無差別ではなく、誰かからの「何かのアクション」を受けて、短絡的に人を殺したり、人に暴力を振るったり威嚇したりする事件も、しばしば報道されている。他車の行為に腹を立てたことによる「あおり運転」もその好例だ。第三者から見ると、些細なトラブルが原因で、相手を殺したり傷付けたりする犯人の精神状態が、理解し難いかも知れない。

しかし、「立腹して相手に攻撃(反撃)したくなる」情動は、多くの人の心に発生するものなのだ。特に加齢に伴い、アドレナリンの分泌に影響される易怒性をコントロールするのが困難になると、予期しない暴発をしてしまって後悔することになるのだ。「高齢者は角が取れて丸くなる」は一面の真実を表しているのかも知れないが、不測のアクシデントやインシデントにより、それと相反する行為への動機付けが突発することも、日常茶飯事だと思っていたほうが良い。

私自身もときどき、他者からの些細なインパクトに立腹して、この情動を覚えることがある。そんなときには、自分自身に対して、こう問いかけることにしている。

「40年積み上げた信用を、5分で全部失いますか?」

幸いにも、この自己暗示?が奏効して、メディアに報じられる事件を起こさずに済んでいる日々である。

2021年12月 8日 (水)

新型コロナ(15)-新変異株に「うろたえるな!」

新型コロナウイルスが世界に蔓延してから、間もなく二年になる。

その間、私たちは社会生活の中で、数々の制約を強いられてきた。マスク着用、「不要不急」の外出制限、多人数での飲食の制限、イベントでの参加者同士の距離確保や声出し禁止、等々。

感染症を引き起こすウイルスである以上、国や自治体が市民社会を守るために、予防策を講じなければならないことは当然だ。その一環として各所で上記の対策が励行されることに、私は反対するものではない。

他方、以前のエントリーで述べた通り、その感染予防策が個人、組織、地域、共同体(地方、国)のいずれのレベルでも、過剰な段階に至ったことにより、本来守られるべきである「人の尊厳」「人間の尊厳」が危機に瀕することになった。

もちろん、私自身も新型コロナウイルスに感染したくないし、自分が媒体になって他の人(特に「顧客」である高齢者)に感染させたくない。そのために可能な予防策は日々実践しているつもりだ。現在でも私は、利用者や介護者を前にしたとき、店舗へ入ったときなどには必ずマスクを着用するし、(経済的事情もあるが...)二年近くにわたり会食にも参加していない。

しかし、この状況が世間一般の自然なルールと化していることには、大いなる違和感を覚える。

政府は東京五輪やパラリンピックを強行する政治的決断を下しながら、相次ぐ第三波、第四波、第五派に対して緊急事態宣言や蔓延等防止措置を延々と発出し続けた。その間に新型コロナのいわば主力を占めていた「デルタ株」が、おそらく弱毒化や自壊作用を引き起こし、10月以降は散発的なクラスター等の発生を除き、日本国内での感染拡大が下火になっている。

ならば、この期間に現行の「二類感染症(結核・SARS・MERSなどのレベル)」から「五類感染症(ウイルス性肝炎・新型以外のインフルエンザなどのレベル)」に変更すべきではなかったか? 

そうすることによって保健所の膨大な負担(これまで、他部署・民間の保健師や、同等の力量を持つ看護協会所属の看護師までが駆り出されてきた)をいったん終結させ、かかりつけ医の裁量によって入院、隔離等の対応を判断できることになれば、自治体の負担は大幅に減り、その力を感染対策の他の部分に振り分けることができるはずだ。むしろ病床逼迫を来たさないための対策は、そのほうが効果的に推進できるかも知れない。

また、私たちも「人間らしい」社会活動を取り戻すことができる。たとえば、高齢者施設において、人権侵害とも思える家族の面会制約なども、厚生労働省や自治体が「縛り」の高札を降ろすことにより、施設長の裁量で、コロナ禍以前に近い形に戻すことができる(あえて非人間的な制約を続ける施設は、社会的に批判を受け、利用希望者が減る)。

現実には、二類→五類に反対する人たち(個人、組織)がいることを、もちろん私も承知している。純粋に科学的見解から反対している人たちもいれば、利権を手離したくない人たちもいるだろう。逆に、あまりにも感染症を軽視し、認識不足から安易な制約解除を推進する人たちも、残念ながら存在する。

これらを総合的に判断して大所高所から決断するのが、政治の役割なのだ。

子どもたちが一緒に遊ぶこともできず、健全に成長できない社会や、仕事を失ったり心を病んだりして自殺する若者が増える社会は、望ましい姿なのだろうか? この状況でさらに一年、二年と経過すれば、日本経済は立ち直ることができなくなり、日本の市民社会は取り返しのつかないところまで破壊されてしまうかも知れない。

それは単に国内の問題にとどまらない。日本に(表向きはともかく、内実は)敵対的な他の国にとって、思う壺ではないか?

このほど「オミクロン株」が蔓延しつつあるが、確かに感染力が強いとは言え、重症化しにくいとの情報も示されつつある(今後、評価が変わってくるかも知れないので、念のため)。これを恐れていては何も進まないことは確かだ。ウイルスはそもそも変異するものなのだから、世界の各地で今後も次から次へと、新たな変異株が生まれるであろう。

日本国民、とりわけ政治家の皆さんは、この新しい変異株に「うろたえるな!」

私たちは冷静にその実態を分析しつつ、正しく恐れるべきだ。そして五年後、十年後、二十年後の日本の姿を見据えた、最も望ましい選択をすべきであると、私は訴えたい。

2021年9月 8日 (水)

エラい人たちは特別扱いなのだ!

天才バカボンのパパ風に。

 

(ここから)

あははは\(^o^)/

緊急事態宣言出ているけど、あちらでもこちらでも宴会なのだ。

国民には飲んで騒ぐなと言っているけど、自分らは遅くまでやっている店を探して、深夜までバカ騒ぎするのだ。

政治家さんも宴会なのだ。大事な会議だと言えばいいのだ。

厚生労働省のお役人さんも宴会なのだ。自分たちは医療や介護の現場にいないから、人にうつさないのだ。

地方公務員さんも宴会なのだ。自治体の自粛要請も違う部署だからよく知らなかったのだ。

テレビ局も五輪の打ち上げの宴会なのだ。ハメ外したついでに、非常階段も踏み外したのだ。

「宴会やってええんかい?」なんて言うのは野暮なのだ。赤信号はみんなで渡るのだ。

国民に叱られても、謝ってしまえば終わりなのだ。

みんなお給料減らされたけど、そのうち元に戻るのだ。

何年か経ったら忘れられてしまうのだ。

これでいいのだ!***\(^^)/***

(ここまで)

 

本当に「これでいいのか?」

筆者は一概に「飲んで楽しむこと」が悪いとは思わない。問題は別のところにあるのではないだろうか?

2021年9月 4日 (土)

謝罪しない高齢者

私の仕事はケアマネジャーなので、居宅介護支援・予防支援の利用者=顧客のほとんどは、高齢者の方々である。いま公益事業として浜松市の要介護認定調査員を受託しているが、調査でお邪魔する対象者の方々も同様である。

ときどき、利用者や対象者の方の、社会的地位が高い場合がある。地域の○○業界の指導者だった方など。総じて、その方々は礼儀正しく温厚である。横柄な方に出くわすこともあるが、ごく一握りであり、ほとんどの方は「地位が人を作る」との表現にふさわしく、私のような「若造(笑)」にも丁寧に応接してくださる。

ただし、〔あくまでも私の経験上であるが、〕この類型の方々の多くは、なかなか自論や自分の流儀を曲げない。「ルールは守るが、好きなようにやらせてくれ」である。中には「不適切な用語」を日常的に発する方もあり、訪問して辟易することも少なくない(なお、本日現在の利用者さんの中には、気になるほどの方はおられない)。

それが自分の家族や周囲にとどまっているのであれば問題ないのだが、世の中には往々にして、逸脱した言動を公開する人たちが登場することは、皆さん周知の通りだ。

困ったことに、「全国区」のエラい高齢者の中にも、そんな人たちがいる。

以下、二つの事例。

DHC会長の吉田嘉明氏(80)。以前から在日コリアンや朝鮮半島系日本人(日本国籍を取得した人たち)への攻撃的な言動が目立ったが、昨年11月に自社ホームページに掲げたメッセージ中で、対立する会社が起用するタレントの多くが在日コリアンであると指摘した(←指摘すること自体は、事実誤認がなければ決して間違った発言ではないが、氏からの具体的な判断根拠の説明は確認できていない)。加えて、その会社に対して、在日コリアンの人たちを貶める差別用語を使用した。これに対して多方面から抗議の声が上がり、当初だんまりを決め込んでいたDHCは、関係者に対し部分的かつ非公式に謝罪したと伝えられるが、吉田氏本人からはいまだ公的に何の謝罪もなされていない。

評論家の麻生千晶氏(83)。もともと、人を容姿で評する傾向があることが他の論者から指摘されていたが、今年6月、J-Castニュースのコラム内で、野球解説者(もと選手)の容貌が嫌いだった(←好き嫌い自体は本人の自由であり、それだけで終わっていればそれまでだった)ことを述べた文脈の中で、麻生氏が同解説者を「イケメンでない」「醜い」と思っているとしか受け取りようのない侮辱的な表現をした。それを読んだ相手の解説者は自身のインスタグラムで露骨に不快感を表明して抗議し、良識ある多くのネット民も、論評の中で人の容姿を論(あげつら)う態度を強く批判した。この事態を受けたJ-Castは同解説者に対して謝罪し、当該コラム自体を終了したが、麻生氏本人からはいまだに同解説者に対して何の謝罪もされていない。

この二例はいずれも本日現在で私が獲得した情報に基づいて記載した。誤認や追加情報があれば修正するので、お教えいただけるとありがたい。また、このお二人の過去の業績を否定したり誹謗中傷したりする意図は全くないことをお断りしておく。

さて、両者に共通しているのは、「言いっ放し」である。自分の個人的な感情や意見はあるだろうし、他者を傷付けないのであれば、それを公開しても差し支えないであろう。ところが、そこに差別用語や侮辱的表現が加わると、特定の集団や個人を傷付けるものになるのだ。であれば、社会のルールとしては当然、本人が公的に謝罪するのが妥当であろう。

ところが、地位が高くなると、簡単にそれができなくなる。そこに加齢に伴う思考の硬化が加わるとなおさらだ。

かくして、「老害」と呼ばれる状態が発生する。この用語自体、私はあまり使いたくはない。単に「柔軟な思考に欠ける」振る舞いをするのは、個人差こそあれ、誰しも高齢になると経験するものであり、それだけでは決して「老害」には当たらない。しかし、他者を傷付け、それを客観的に指摘されても、非を認めて謝罪することができないのであれば、これは「老害」とされてもいたしかたないであろう。

私自身は(市内の弱小職能団体の代表を務めたレベルだから...)全く地位の高い人ではないので、たぶん20年後に80代になっても、こうはならないだろう(笑)と安心しているが、それでもブログやFacebookで、気が付かないうちに逸脱表現をしてしまっていたら、早めにご指摘いただきたいと願っている。

2021年6月24日 (木)

現場が疲弊する介護の施策

この4月からの介護報酬改定が一段落した。

改定に伴う一連の作業も、三年ごとの「セレモニー」として定着した感があるが、今回の改定はこれまでの改定と比較して、いささか異なるものがあった。改定の全体像や将来的な方向性などについては、すでにメジャーな論者の方々がさまざまな角度から論説を出しているので、私の出る幕ではない。

ただ、私自身、現場の介護支援専門員として、いろいろと思うところはある。細部には触れずに、今回の改定の大枠から看取される傾向だけを列記してみよう。

(1)繁文縟礼。各サービスの加算がいよいよ複雑になり、算定要件を満たそうとすればそのために多くの労力を割かなければならないことになっている。ケアマネジャーや介護従事者が「がんじがらめ」にされてしまう。

(2)給付側のための「自立支援」。限られた財政の中で施策を運用しなければならないことは重々承知しているが、利用者や介護者の自助努力を迫る内容は、介護保険発足当時の理念であったはずの「介護の社会化」にも逆行している。

(3)現場労働者への敬意の欠如。対価(←介護報酬)の問題だけではない。「不信のモデル(←性悪説)」「やりがい搾取」をいつまで続けるのか? と言いたくなるほど、専門性への軽視が目立っている。確かに業界や職能側の課題も大きいが、まずはこれまでの労苦に対する制度上「応分の評価」があり、それを受けて当事者がさらなる資質向上に努める好循環の確立が理想であろう。

(4)生硬なICT化。「署名・捺印」の省略一つ取っても、電磁的署名を取得する必要が生じるなど、ハードルは結構高い。本来、拙著『これでいいのか?日本の介護』でも述べたように、現場を熟知したシステムプロデューサーが適切にサポートしながら、それぞれの職場に適したICT化が推進されるのが望ましい。しかし現場はとてもその段階に到達していない。厚労省が推進する「科学的介護」に関連するシステムを構築していこうにも、いまだ道遠しと言わざるを得ない。

そして、これら全体を一言で表現すれば、「現場を疲弊させる施策」と評することができるだろう。

このうち、(1)(2)(3)については、また稿を改めて論じたいので、ここでは(4)について述べてみたい。

「生硬なICT化」により現場がいささか疲弊しても、エンドユーザーである利用者(介護者を含む)に利益をもたらすものであれば、まだマシなのだが、そうもならない。下に掲げた画像は、私が10年前に静岡県介護支援専門員協会の全体研修のパネリストとして披露したものだ。

System

つまり、給付システムは独占・寡占を事とする企業体には大きな利益をもたらす反面、利用者にとっては決して(期待するほど)有益なものにならないと言いたかったのだが、まさに時を経た現在、この状況がさらに顕著になっている。

加えて、政府から受託されてシステムの設備を提供する企業・団体は、市場を独占できた以上、技術の精度向上や革新を停滞させたほうが利益を得られる現実がある。消極的なサボタージュ(原義は「妨害工作」の意)だとも位置付けられる(10年前に壇上からそう述べた)

まさに初手からつまづいた「LIFE」は、ここで予言した通りのありさまだ。もう一つ、新型コロナウイルス接触者アプリ「COCOA」も昨年、同様な醜態を晒している。

ここに来て、ようやく国が現場本位のICT化へ向け舵を切ってきたらしい(笑)ケアマネジメントの方式についても、またしかり。

かつて、独立・中立型のケアマネジャー連絡組織が存在したとき、厚生労働省に対し、アセスメント方式を統合し、さらにケアプラン作成方式を統合することを提案した。このコンヴァージェンス(収斂)が実現すれば、郵送やFAXなどの紙媒体によるケアプラン・サービス提供票の送受信から、所定の書式を用いたネットによる送受信へ転換し、ケアマネジャー・サービス事業者側担当者の大幅な業務の節減に至ると考えたからだ。

ところが、折衝に当たった会員は、厚生労働省から「それは無理」だと言われた。その理由は、「M社」と「N社」とのせめぎ合いが存在し、どちらかの方式をベースにしたコンヴァージェンスは困難だとのことだった。「寡占」を前提にしたとしか受け取れないこの反応には、私も少なからず落胆したものだ。

この「M社」と「N社」、どちらも防衛産業部門に参入し、仲良くどちらもサイバー攻撃を受けた(笑)ことでも知られる。最近はFA-IT統合の推進で共闘しているようだが。そして「M社」のほうは太陽光発電で利権を獲得し、その後は中国企業に押されて撤退する羽目になったことは、私たちの記憶に新しい。では「N社」は? かの「入退室の顔認証事案」で、某デジタル大臣が「脅す」「干す」と言いたくなるほど、官庁の利権構造に深く食い込んでいたことが、はしなくも暴露された(この発言自体は、代わり得る選択肢を大臣が恣意的に示したと見なされるので、それはそれで批判されて当然ではあるが...)。大きな企業体による「独占」「寡占」が、本来市民が享受すべき利益を蚕食する害悪は根深い。

厚労省のICT化推進において、同様な愚が繰り返されるとしたら、介護業界の将来は暗いものにしかならないことを、心から危惧している。

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