社会問題

2017年11月22日 (水)

得難い体験

原因は自分の失敗であっても、損失を補って余りある成果を得られることがある。今回のエントリーはそんな話だ。

17日に、豊川市介護保険関係事業者連絡協議会会長・平田節雄さんからのご依頼をいただき、同団体の全体研修会において、『口のきき方で介護を変える』に関する演題、「人と人との会話」についてお話をさせていただいた。

平田さんは浜松でお仕事をされていたときからの旧知の方で、昨年のジョアン開業15周年のつどいには、ご多用にもかかわらず駆け付けてくださっている。今回は協議会の役員さんたちと検討される中、介護の現場で使われる会話の重要性が主題になり、著作もある私にオファーくださったとのことである。

この演題では、これまでにも何度か出講しているが、時節の変化に合わせて部分的に内容を変更している。とは言え、根幹の部分が揺らぐものではない。

本ブログの読者であればすでにご存知の通り、私が「話し言葉」だけを独立させて論じることはない。介護に従事する人たちの職業人としての基盤がしっかりしていなければ、仕事で会話術を活用できないと考えているから、心構えや姿勢の話が前面に出る。

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講演の途中で三回ほど、参加者のみなさんに、近くの席の方とディスカッションしていただく機会を設けた。研修は講師が一方的に話すのではなく、それぞれの体験から分かち合うことも大切だと思っているので、演習に代わるものとして短時間のディスカッションをはさんだ次第だ。

参加者の中には、現実の会話のしかたよりも、理想・理念ばかり話していると思われた方があったかも知れないが、私の側は、実践できない理想・理念を話しているつもりは毛頭ない。多くの参加者にとって、たとえ一部分、一節でもお役に立つ内容があれば、活用していただきたいと願っている。

さて、実はこの会場とつながっている公共駐車場に車を停めようとしてバックした際に、不覚にも死角に入った鉄柱の位置が目に入らず、衝突して物損事故を起こし、後部のガラスが大破してしまった。

駐車場管理会社に謝罪し、担当者の方に立ち会っていただき現場を検分した。その際、担当者の方から、このまま浜松まで帰ると、ガラスの破片で後続車に損害を与える恐れがあるから、レッカー車を依頼したほうが良いとの助言をいただき、損保会社に事情を説明して、レッカー車を派遣してもらうことになった。

しばらくして株式会社EXCELなる業者のレッカー車が来て、担当の山本さんという40代半ばの方が、私の車を積載してくださった。原則として運ぶのは車だけとのことだったが、いつもの整備屋で代車を借りないと自分が困ると保険会社に要求して了解を得たことを盾に、無理にお願いして助手席に同乗させていただいた(...ので、同乗に至ったのは山本さん側の責任ではないことを付言しておく)。

ま、経過はともあれ、現場から整備屋までの約一時間半の行程で、全く異なるクルマ業界の山本さんと、ディスカッションする機会を得た。

そのとき、山本さんが語ってくださった内容が、まさに私が先刻、介護事業者のみなさんに対してしゃべった内容と、基本部分を共有していたのだ。

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具体的には「顧客本位の応接、気配り」「説明責任」「コミュニケーションの中での気付き(コーチング)」「職場仲間の尊重」「仕事ができることへの感謝」などといった、当日介護業界のみなさんに対してしゃべったことを、そのままクルマ業界に置き換えればこうなるよね、と言わんばかりの話を、いろいろお聞きすることができた。

山本さんがご自身のプライベートなことも交えて話してくださったので、細かい内容は割愛するが、氏が終始、敬語で話され、タメ口などきかなかったことは明記しておく。

「人」ではなくクルマという「モノ」を直接のサービス対象にする業界の現場最前線でも、意識の高い中堅社員なら当たり前のように、これらの項目を実践されていることには、大きな刺激を受けたのが正直なところだ。

クルマ業界でもこういう方がいるのだから、ましてや、「人」に直接向き合う介護業界で、これらができていない中堅職員(たとえば主任介護支援専門員)は、恥を知るべきである。

もちろん、理想通りにはいかないのが世の常で、山本さんもご自分の側では意識して取り組んだつもりでも、顧客や後輩職員から受け止めてもらえなかったご経験も含め、正直な実感を話されていた。業界は違えど、人間関係の円滑化や人材育成に難しさが伴うことは、共通の悩みであろう。

また、クルマ業界では、大手はともかく、中小企業では労基法遵守は不可能に近いようである。多くの事業者では、厳密な法令遵守ができるところまで人員を増やせば、社員の生活が苦しくなるほど人件費を切り詰めないと、経営していけない状況だとのことだ。私たち介護業界でもクルマを活用しているが、知らずしてこのような多くの企業に「無理」を強いている現実を忘れてはならない。

アクシデントから生まれたディスカッションであり、損保の保険料が次年度はおそらく数万円上がることが予測されるので、財政的には確かにダメージではあった。しかし、自らの家庭事情による制約から、他業種の人とまとまった時間を取って語る機会がほとんと無い現在の私にとって、この一時間半は、お金では買えない貴重な学びの時間であり、得難い体験であった。

山本さんには心から感謝して、今後のご活躍をお祈りしたい。

2017年11月 9日 (木)

プロフィットセンターの証しを立てよ!

来年の介護報酬改定をめぐって、財務省と厚生労働省とがしのぎを削っている。

現時点で判明しているのは、全体として小幅引き上げ、ただし一般企業と比較して「利益率が高い」とされてしまっているサービスについては、本体部分が明確な引き下げになり、介護職員処遇改善加算だけは引き上げられるであろう、との方向性である。

この事案については、すでに知名度の高い論者たちが続々と持論を展開しているので、例によって私の出る幕はない。

そこで、別の視点からこの問題を論じてみよう。

介護報酬を全面的に「引き下げよ!」と強く主張しているのは、財務省、経済界、健保である。すなわち、国の財政、国民の経済、国民皆保険体制を守る立場の人々だ。その背景には、介護業界が「コストセンター(社会的な費用を注ぎ込む場)」になっているとの先入観がある。

これに対抗するにはどうしたら良いのか?

言うまでもなく、介護業界が「プロフィットセンター(社会的な利益を産み出す場)」になっていることを、データで証明できれば最善である。

それでは、私たちの業界は、これまでにその種のデータを集積してきたのだろうか?

各団体とも、介護報酬が上がることにより、職員の待遇が良くなり、事業者の経営が安定し、利用者に良質なサービスを提供できることはしきりに主張している。それはあくまでも業界の利益であり、そこから利用する当事者の利益にはつながるが、多くの人々からは、国民全体の利益だとは受け取ってもらえない。

もし、介護報酬が上がることが国民の利益であると主張したいのであれば、「A事業所がこれだけのサービスを提供した」結果、どんな効果が発生したのかを提示する必要がある。「B利用者が使う医療費がこれだけ減り、購買力がこれだけ増えた」、あるいは、「C介護者が離職しなくて済んだので、これだけの給与をもらえた(当然、勤務先がそれ以上の利益を上げた)」といった形で、現実にどれだけの社会的な利益を産み出す効果を上げたのか、それをデータで示さないと、財務省や経済界や健保を説得できない。

たとえ国が費用を注ぎ込んでも、社会保険料が上がっても、それを上回る効果が期待できれば、介護報酬を引き上げる意味があるのだが、そのような調査が業界主導で行われた事実を、寡聞にして私は知らない。あるいは単に私が知らないだけで、実際にはどこかでそのような調査結果が示されているのかも知れない。

ただ、確実なのは、現在に至るまで、介護業界の側から財務省や経済界や健保に「突き付けられる」ほどの影響力を持つデータを集積できていないことだ。

もちろん、国の社会保障に関するお金の使い方は、この三者が中心になって決めるものではなく、外交・防衛・経済・産業・教育・地方開発・環境など、さまざまな分野と総合的に比較勘案して、政権与党が案を作り、野党とも審議しながら、国会で決めるものだ。しかし、それだからこそ、「この分野にはこれだけのお金が必要」だとの根拠を調査結果の数字などわかりやすい形で示せなければ、削りやすい部門の予算が削られ、政権与党が必要だと思われる部門に回されてしまう。

では、この調査がそんなに手間がかかるものかと言えば、決してそうではない。居宅の場合には介護支援専門員がいるのだから、一人の利用者に対して月平均でどれほどの介護保険サービスを提供したかは割り出せるし、利用者や介護者の協力を得れば、その家の経済効果を把握でき、社会的利益も推定で概算できるはずだ。施設入所者の場合は、一人の高齢者が自宅に戻った場合、介護者がどれほどの制約を受け、費用増や減収になるかを予測、積算すれば良い。

これによって厳密な数字を出せるかと言われれば、正直なところ、かなり大雑把な概算にとどまる嫌いはあるだろう。しかし、「介護サービスがプロフィットセンターである」ことを示す具体的な数字を明らかにできれば、概算であっても大きな説得力を持つことが期待される。

いま関係機関が次から次へと送ってくる(多くは)無駄な調査や、職能団体がひたすら低姿勢で肥大化させている(相当部分が)無駄な法定研修の時間や手間を削れば、この社会的利益に関する調査の時間や手間などは十分に確保できる。

厚生労働省が財務省などに対抗して、報酬引き下げを阻止してくれるのであれば、このような形での援護射撃も必要なのだ。

実際、かつて私たち独立型の介護支援専門員が、数十人規模とは言え全国レベルで組織を結成したとき、「生活が苦しいだけでは報酬値上げを要求する根拠にならない」として、まずは個々の業務の積算根拠を求め、そこから先へ進んで社会的利益を算出していく構えを取っていた。共同研究の呼びかけも細々と各方面へ行った。

しかし、残念ながら、全国の介護支援専門員を代表する団体は、このような私たちの動きに対して一本の矢も送ってくれなかった。それどころか、過去のある時期の全国指導者には、(たとえ団体と直接関係なく個人としての行動であったとしても、)私たちの動きをツブしにかかっているとしか思われない行動を取った人がいたことも、残念な事実だ。

私もいまは全国の職能団体の会員であり、過ぎたことを蒸し返すのが建設的でないことは百も承知だが、今後のためにも言及しておく。

とにかく、遅きに失したとは言え、この種の調査をどこかで行わないと、介護業界はコストセンターになっているとの「神話」がいつまでも幅を利かせ、それを信じている多くの国民は、財務省や経済界や健保が唱える、介護報酬を上げなくても良い、むしろ下げろ、との見解に左袒することになるだろう。

そうなれば、一部の論者が唱えている「介護大崩壊」が現実のものになる。これこそ、国家的な危機にほかならない。

どこかのメジャーな業界団体または職能団体が主唱して、大急ぎでもこの種の調査を全国レベルで大々的に実施するのならば、もちろん私自身も、数少ない利用者や介護者にお願いするばかりではなく、自分の力で及ぶ限りの個人や組織に呼びかけ、最大限の協力をするつもりである。

2017年10月18日 (水)

輝いてください☆

浜松の、いや周辺の市町も加えて、静岡県西部地区の介護業界は、ある意味「大きな田舎」である。関東や関西、あるいはその他の地域で、当地より一歩も二歩も先んじたアクションが起こり、それが全国的に大きなうねりを作ろうとする形勢にあっても、なかなかそれらの動きについて行くことができない。

介護業界の括りにかかわらず、保健、医療、あるいは福祉の業界では、「やらまいか精神」で注目すべき活動をしている人たちが当地にも結構見受けられるのだが、なかなか「全国区」でのダイナミックなアクションに結び付いていると言い難いのは、寂しい限りである。

私も、かつてはブログや掲示板、あるいは同業のMLなどをきっかけに、全国各地を旅しながら業界の友人たちと交流させていただき、最近はFacebookの助けもあって、多くのすばらしい仲間とネットで結び付くことができたが、1月に母が要介護状態になってからこのかた、行動が制約され、なかなか自分から他県まで出かける機会を持てずにいた。

そこで、去る14日、他の用事も兼ねて東京へ一泊ツアーを敢行。数人の方にお声掛けしてディナーにお誘いしたのだが、ご用事で参加できなかった方もあり、新宿の「KICHIRI」で三人の方とテーブルを囲むことになった。

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相模原市在住の認知症介護指導者・認知症ケア専門士、阿部敦子さんは、「認知症ONLINE」のサイトで認知症介護小説『その人の世界』を執筆されている。家族側や支援者側から見た認知症の姿ではなく、徹底した利用者目線で一人ひとりに「何が起こっているのか?」を導き出そうとする短編小説の連作は、利用者本位の介護を究めようとするすばらしい試みだ。すでに29作まで紹介されている。

都内在住の管理栄養士、林裕子さんは、患者(利用者)本位の在宅医療で全国から注目されている、悠翔会在宅クリニック・在宅NSTチームに所属されている。他の医療職と協働して、「摂食」「栄養」「嚥下」などの側面から多くの人たちの在宅生活を支える、訪問栄養指導のスタッフのお一人である。一般にはまだまだ普及していない訪問管理栄養士としてのお仕事をされている。

奥平幹也さんは、以前のエントリー「人と会い、人と語り...(2)」にもご登場いただいた。その後、「ミライ塾」はNHKの番組でも取り上げられ、その取り組みが全国的に紹介されたこともあり、最近は各地を回るなどのご多忙な日々が続く。

実は阿部さんと林さんとは、FB上で私の「ダジャレ友達(正しくは「言葉遊びの友達」かな?)」でもあるのだが、お目にかかるのは今回が初めてであった。お会いしてお二人ともステキな女性であるとの認識を新たにしたことは、説明の要もないと思う(^^*

(なお、顔出しNGの方がおられたので、画像は料理のみである)

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阿部さんは、現在のところ本業の傍ら、短編小説をポランティアで執筆されている。奥平さんから、他の方のことはともかく、阿部さんの作品は対価を受けるだけの価値があると思うとのご意見があった。私も、せっかくの力作が悪用・盗用などされないように、著作権を守る手立てを講じるべきだと述べさせていただいた。阿部さんも今後の対応については考えるところがあったようだ。

個人的には、保健・医療・福祉に携わる方すべてに、ぜひ『その人の世界』を全編お読みいただきたいと思う。阿部さんにはさらに書き続けていただき、いずれこの小説が紙媒体で出版され、業界の教科書になることを期待したい。

奥平さんの「ミライ塾」塾生たちは、すでに三期目に入っている。この塾は介護の現場で働きながら奨学金を返済し、そのあとは一人ひとりに合った職業に就いて(もちろん、介護でも良いのだが)、社会に羽ばたいていくのが理想だ。しかし、しっかり足元固めをして独り立ちしようと研鑽を怠らない学生が多い一方で、中には若さゆえの気のゆるみや、社会人としての経験の浅い面が露呈してしまう学生もいる。現実には奥平さんがそれらの課題解決に向けてサポートしているとのお話があった。

学生のフォローアップは、学生の就労先法人→関連団体からの支援を受けているとは言え、奥平さんの過重負担が大きくなっているようだ。ミライ塾の取り組みが画期的なものであるだけに、長く続けられることを思えば、お一人に負担がかかる状況が軽減されることは大切である。学生の卒業までに社会人として磨き上げていくのがミライ塾の目指すところだ。今後はどこかの基金を活用するなどして、サポートしてくれる要員を確保できないものか。喫緊の課題になろう。

談話の中で、一般的に奨学金を返せない人が増えている事情は、就労してからの収入が伴わないなどシステム上の問題がないとは言えないが、本人の意識に係る要因が大きいとの議論もなされた。林さんもご自身の経験を踏まえ、借りたものは責任を持って計画的に返済すべきことを指摘された。私も同意見だ。

林さんからは、栄養士の給与が医療職の中ではいまだ低く抑えられている現状のお話があった。給与待遇面のみならず、一般的には管理栄養士が在宅訪問する場面は限られており、悠翔会さんのように在宅NSTを推進する医療機関は少数だ。栄養士さんたちが活躍することで、高齢者などの入院に至るリスクを減らし、医療、介護双方の社会保障費を抑制する効果もあるのだ。林さんも複数の業界誌などにお仕事での取り組みを投稿されているが、今後は市民啓発にも一層力を注ぐ必要があるかも知れない。

ちなみに、林さんはおもに電車を使って利用者さんを訪問されており、本当は自転車も併用したいらしい。私自身、ケアマネジャーとしての居宅訪問は徒歩やバス利用の割合が多いので、安易に車を使わないスタイルには共感できる。

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私から見れば一回り以上若い方々とのトークであったが、とても実りある時間であった。自分自身の生涯学習のためには、これからも年代に関係なく、価値のあるお仕事をしている方とは、親しく交流していきたいと考えている。

トークに付き合ってくださった方々(および、今回参加いただけなかった方々を含め)は、それぞれの分野で先駆的な方である。しかし、いまだ介護業界、保健・医療・福祉業界の中で、ふさわしい声価を得ていないというのが、私の正直な感想だ。ヒーローやヒロインを作ることが業界にとって良いという意味ではない。より多くの人たちに携わってほしい分野を開拓していく人、いわば牽引車のような人が、どの分野にも必要なのだ。その人たちがスポットライトを浴びることにより、協働する人たちが増え、私たちの業界、ひいては市民社会に大きく寄与することになるのだから。

阿部さん、林さん、奥平さん。もっともっと輝いてください☆ 及ばずながら、私もできる限り応援します!

2017年9月 4日 (月)

講師の品格

身の周りのことで何かと多用であるとは言え、ありがたいことに、ときどき県内外からお声掛けいただき、企画や研修の講師として出向くことがある。マイナーな講師であっても、業界でのつながりは大切にしたいので、極力お受けすることにしている。

そのとき大切にしているのは、その出講のテーマ、そして内容が自分自身の倫理観に照らして正しいのか? ということだ。

だいぶ前のことだが、信頼筋からこんな話を聞いたことがある。

ある自治体が介護支援専門員を対象とした研修会を開催したところ、その講師が「介護支援専門員不要論」を軸に、介護支援専門員の問題点を突っつくのに終始したというのだ。他のところで確認した情報も勘案すると、大枠はその通りだっただろうと推測する。

その講師が「介護支援専門員不要論」を唱えていたのは以前から知っていたが、実際にそれを介護支援専門員対象の講演の中でぶち上げたことには、たいへん不快感を覚えた。確かに私よりはるかに知名度の高い人ではあったが、実体は単なる独善的な人間だったのではないのかと感じる。

これは、前回のエントリー、「真に介護業界の将来を憂えている論者と、独善的な動機から介護業界を貶めているに過ぎない論者とを、自分の頭で見分けるためには、どこに着目すれば良いか?」の内容(本文のほうがタイトルより短くなってしまった...)にも関連する話だ。

たとえば、私は浜松で在住外国人支援の実績を持っているので、もしどこかの団体から、介護分野における外国人の活用について話してほしいと頼まれたら、日程調整さえ可能であれば喜んで出向きたいと思う。ただし、それはあくまでも永住者や定住者の介護業界就労支援であるとか、留学生の資格取得→就労支援であるとか、効果が薄いとは言えEPAに基づき専門職を目指す人たちの支援であるとか、すなわち正規の労働者としての在住外国人支援に係る分野の話である。

もし、研修生・技能実習生を受け入れたい事業者を対象とした話をしてほしいと頼まれたら、いかに高額な報酬を提示されても、私はお断りする。なぜなら、私自身はこの制度の運用がその趣旨に乖離し、安価な労働力獲得の隠れ蓑になってしまったために、長年にわたって数々の人権侵害を招いてきたと理解しているので、制度そのものの廃止を主張しているからだ。自分が不要だと考えることを業とする人たちの集団から講演料をもらうのは、恥ずべき行為である。それが、人間として当然持つべき倫理観ではないだろうか。

したがって、自分が否定的に捉えることを説いてお金をもらうとしたら、それは「聴講者にはこうなって(こうあって)ほしくない」との主張になる。

去る8月22日、ケアマネットしまだ(島田市の介護支援専門員連絡組織)からのご依頼により、「ケアマネジャーの接遇」をテーマに講義を行った。途中のグループワークでは、何人かに「自分がモノを買うときに、売る側から応接されて不快だった経験」を語ってもらい、自分たちが利用者に対して同じことをしてしまっていないか、互いに分かち合い、振り返ってもらった。

特に、講義の中で何度も強調したのは、利用者にタメ口をきかないことである。「もし、利用者にタメ口をききたいケアマネジャーさんがいたら、自分のところの理事長にも医師にも、これからは同じようにタメ口で話して、それでうまくいくかやってみたらどうですか?」。つまり、業界の悪習とも言うべき「顧客にはタメ口、上司には敬語」などという非常識は、もはや社会では通用しないことを伝えたのだ。

これは、私自身が「悪習の排除」を実践していなければ、何の説得力もない。自分が否定的に捉えるものには、自分自身が手を染めない。日頃からその覚悟が必要である。

裏を返せば、講師を打診する側の団体が、依頼する際に講師の日常の振る舞いにツッコミを入れてみると、ニセモノ(独善・偽善)のメッキがはがれることもあるので、面白いかも知れない。もっとも、依頼する団体側からすると、事前交渉の段階で相手にこまごま問い質すのは失礼だとの認識もあるので、特別なことでも起こらない限り、たいていは確認不十分のまま依頼してしまうのだが...

いずれにせよ、私自身はそのようなニセモノとは明瞭な一線を画したいと考えている。それが自分の矜持でもあり、自分が講師を受任する際の基本指針でもある。

「講師の品格」とは、このようなものであろう。

2017年8月 6日 (日)

「合理的配慮」が容易でないのはなぜか?

先日、車いす利用の男性と航空会社とのトラブルが報じられ、「障害者差別解消法」の浸透や、「合理的配慮」の度合いが話題となった。

この事案に踏み込む前に、「合理的配慮」を阻む障壁について、自分自身の経験から、エントリーに自論を述べておきたい。

2008年、カトリック教会の西部地区で、お一人の司祭(神父)の提唱によって、5人ほどのメンバーが集まり、数次にわたってキリシタン時代の「殉教者(信仰を守って処刑された人たち)」を崇敬し、事績を研究する会が結成された。もちろん、ポルトガル語やスペイン語の文献を参照して専門的研究をするのではなく、著名な研究者により積み上げられた数々の専門的研究を、一般の信徒にわかりやすい形で整理してまとめる作業であった。そこでは私ともう一人のA氏とが中心になり、A氏が信仰面・教理面からの整理、私が歴史的背景からの整理をして、殉教者に関する資料をまとめ、その二つをメインとした発表会を企画した。

さて、発表会の当日、会場となった浜松教会の聖堂で、先発のA氏の発表が始まったころ、同じ西部地区内で隣の教会に所属していたB氏が、奥さんと一緒に会場に入ってきたのだ。

B氏は当時60代後半、視覚障害者(全盲)であり、私の昔の勤務先の先輩でもあった。県内の視覚障害者の中でも指導的立場にある。教会の信徒たちからも尊敬される人であり、息子さんは司祭になっておられる。当然のように、地区全体に広報した企画である以上、B氏が来場する可能性は想定しておかなければならなかったのだが、なぜか私の頭の中からはその可能性が欠落していた。

私の発表は「キリシタン時代-その宣教と殉教者たち」と題して、54枚のスライドで構成される大部のものであった。前半がキリシタン時代の歴史的背景の解説であり、後半が各地を巡礼した画像であったので、説明を加えるのはおもに前半に比重を置き、後半ではスライドを見てもらいながら、早送りで流す予定であった。

しかし、B氏が会場にいる以上、後半を画像だけ見てもらって流すわけにはいかなくなった。そこで、前半の説明をかなり早口で進め、後半の画像についても、早口だったがすべてに解説を付けた。一枚ずつのスライドに関する説明は、部分的に割愛せざるを得なかった。

終わった後、メンバーで反省会を開いたとき、私から一言。「Bさんが当日行くことをあらかじめ知らせてくれていれば、そのつもりで構成を考えたんですが...」。

さて、ここに述べた私の事案を事例として整理してみよう。

まず、この企画はあくまでも一宗教団体の内部行事であり、公共の場で行われた作業ではない。かつ、私たちは対価をもらって講話をしたのではなく、A氏も私もまったく無償で時間を費やしてスライドを作成し、解説している。

したがって、障害のある人たちへの「合理的配慮」をどこまでするかは、主催者側の裁量に任せられていたことになる。すなわち明確な「努力義務」を負っていたわけではないので、日頃、教会を訪れる人たちの中に見受けられる障害者の人たちに対して、一通りの配慮をしていれば、過当な批判を受けるものではない。

次に、日頃来る人たちへの配慮である。B氏の来場を予測していなかったのは確かに不用意であったかも知れないが、B氏一人(他には視覚障害者と思しき人は来場していなかった)のために、すべてのスライドについて早口ながら口で説明を加え、少なくとも「合理的配慮」はしっかり行っている。「しなかった」わけではないのである。車いすの人は見た限りでは来場していなかったが、聖堂(残念ながら段差が多い)の後ろの席で見ることはできる状態であった。また聴覚障害者に対しては、少なくとも私のスライドでは、画像の傍らに見て理解できる説明を付けておいた。

しかし、反省会のときには私の口から、前述の「...あらかじめ知らせてくれていれば...」の言葉が出てしまったのだ。

私は介護・福祉業界の人間である。そして繰り返すが、B氏は業界の先輩として私自身も尊敬し、他の多くの人からも尊敬を集める人物である。そしてB氏の来場を予測しなかったのは、私の不用意でもある。

それでも、私としてはネガティブな感情を抑えられなかった。いや、おそらく話は逆で、知名度の低い「フツーの」視覚障害者である教会信徒が突然来場して、そのために私が講話の語り方の変更を余儀なくされたとしても、ネガティブな思いを抱かなかったのではないか。むしろ「Bさんほどの人が、なぜ事前連絡をしてくれなかったのか?」のほうが、当時の私の気持ちを正しく表現しているのかも知れない。

つまり、「合理的配慮」はしたい。したいが、その「合理的配慮」を円滑に浸透させる準備は、受益者側と向き合う側との双方がするものなのだ。どのような点に不自由な、不便な人が存在して、その不自由さ、不便さを解消するのにどのような配慮をすれば良いのか。そして、それを整えるための準備にどれだけの手間と時間がかかるのか。

「合理的配慮」はするのが当たり前で、あえて要請する手間がかかるのは、障害者側に負担を強いるものだとの意見もあるだろうが、それは理想論だ。人はみな生身の人間で、人間は感情の動物である。ネガティブな感情が残らないためには、やはり現実には双方の努力が大切なのである。そもそも論として、受益者側が不利な扱いを受けること自体が間違っているとの見解は、将来的にはその段階まで到達する社会が望まれるものであっても、現在(2017年)の時点の日本社会では、現実離れしている。受益者側があえて準備等の努力をしないまま行動に移して、そこでトラブルが起こり、社会問題を喚起することも、ある意味有益であろう。しかし、当事者双方に面白くない思いを残すことが、果たして良いことなのだろうか。

ここで、冒頭に掲げた事案に戻ると、...航空会社側には、以前も車いす利用者が搭乗できないトラブルが複数回あったことが報じられている。確かに「合理的配慮」への意識が組織として薄かったとは言え、今回のトラブルを受けて二週間で設備を改善するなど、何かのきっかけがあれば認識を改める用意はあったと考えられる。車いす利用者の側も、決して会社を貶める悪意からわざと無連絡で行ったわけではなく、自分流のやり方で旅行や出張を重ねているうちに起こった事案だというのが、どうやら真相のようだ。

したがって、当該人物のように各地で講演している知名度の高い人が、あらかじめ航空会社の不備を知った上で「解消法」の趣旨を説明し、時間的余裕を持って行政機関を巻き込み改善を要求していたら、出張前に改善されていた可能性も強い。双方の責任の軽重はともかく、双方の努力が十分でなかったと言うことができるであろう。本来、理想から言えば正論に則って行動したはずの当該人物が、かえってネットで炎上する事態に陥ったのも、経過から見ると致し方ないように映る。

これは日本人特有の行動様式である「和」に起因するものがあるので、ご関心のある方は加賀乙彦氏や井沢元彦氏のご著書をお読みになるのが良い。

人の心は「義務」や「強制」で変えられるものではない。地道な「歩み寄る努力」が続いてこそ、望ましい社会が到来する。良くも悪くも、それが日本社会の根強い伝統なのだ。障害者に限らず、受益者側と向き合う側とが深い相互理解を積み重ねてこそ、「合理的配慮」が空気のような当たり前のものとして世の中に充満するであろうと、私は考えている。

2017年6月18日 (日)

情報を取得するときの心得

既存メディアの功罪についての議論が絶えない。政治、経済、そして社会問題、国際情勢など。さまざまな分野に関して、新聞では全国紙や地方紙、TVでは公共放送や民間放送が、情報の普及に果たしてきた功績は計り知れない。他方で、メディアの「害悪」もまた小さくなかったことは現実である。

大新聞はとかく「偏向」を指摘されてきた。確かに紙媒体の新聞を読む限りは、主要な記事や論説のうち、かなりの割合のものが偏りを免れない状況であろう。しかし、インターネットが普及した現代では、大手メディアが必ずしも「偏向」していられないのが現実のようだ。

実際、右派・保守派から「パヨク」扱いされがちな朝日新聞が、提携するハフポスト日本版では、右派側の見解もそのまま掲載しているし、逆に左派・人権派から「ネトウヨ」扱いされがちな産経新聞も、オピニオンサイト「iRONNA」のコーナーでは、左派側の見解もそのまま掲載している。もちろん、両紙とも、自社側の論調をより強く印象付けるための仕掛けを、それなりに工夫しているらしいことが看取されるが。

また、このほかに、どう考えても論調がおかしい(一貫していない、判断根拠が理解し難い、etc.)全国紙や地方紙が存在することも確かである。

TVでは、一部にどう見ても偏向としか言えない番組はあるものの、問題の多くは局側の「視聴率を取りたいビジネスライクの姿勢」にあり、過剰な取材を始め、視聴者の興味本位に迎合した番組本位の稚拙な編集が、正確性や中立性を歪める原因を作っているので、視聴者から愛想を尽かされている面が強い。裏を返せば、質の高い編集がなされている番組には、視るに値するものも少なくないのだが、大勢を占めるには至っていない。

このような実態を踏まえ、最近はおもに若い人たちが、あまり新聞やTVに依存せず、ネットから直接情報を取得しようとするのは、時代の趨勢である。

さて、私たちがネットを主たる媒体として情報を取得するときに、心がけたいことがある。

それは、情報の「選び方」なのだ。

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私がいつも強調しているのは、「私たちは無意識のうちに、自分にとって快い情報だけを取り込んでいる」ことである。人が情報を取得し、選択しようとするとき、大なり小なり、この図に示したような心理的動機が働く。いくら自分が公平な眼で、中立的な立ち位置で世の中を眺めようとしても、神ならぬ身であれば、100%それを貫徹するのは不可能と言えよう。

しかし、それを完璧に近づけるために努力することはできる。そのためには、

(1)「自分が日頃から尊敬、共感している人(組織)が、ある場面ではおかしなこと、間違ったことを言っていないか」

(2)「自分が日頃から嫌悪、批判している人(組織)が、ある場面では正論を言っていないか」

これらを常に意識して情報を「選ぶ」ことが必要になる。

拙著『これでいいのか? 日本の介護』第七章では、日本人特有の思考形態・行動様式について述べたが、その中で特に大きく取り上げたのが「二分割思考」である。「白」と「黒」、「善」と「悪」、「正」と「邪」、「純」と「不純」などが、その代表的なものだ。この「二分割思考」が「排除の論理」につながり、また私たちの正常な情報分析を妨げることは、前掲書中に述べているので、機会のある方はお読みいただきたい。

この「二分割思考」の壁を打ち破るために、上述した(1)と(2)とを常に意識することは、とても大切だ。考え方が両極端に走るのを防ぐことにより、ものごとの真実を見抜く力を養うことにつながるからである。

私たち市民がこのような努力をして、自分の頭で情報を選び、ネットでの極論や誹謗中傷に対して安易な賛同をしない姿勢、反対側の立場の見解を頭から否定しない姿勢を保っていけば、それは日本国民の民度を向上させ、成熟した市民社会の実現を近付けることになる。

上の(1)と(2)。一人でも多くの人たちに、ぜひ実践していただきたい。

2017年6月 4日 (日)

国益を損ねているのは誰なのか?

先日、日韓両チームによるサッカーの試合後、韓国チーム側に主たる原因があると判断される暴力騒ぎがあり、ネット上を賑わしていたようだ。

ただ、これに関連するブログやSNSの記事やコメントを見て、思うことがある。

よく聞く話だが、日本人Aさん、あるいはAさんの所属する集団(国を代表する機関は除く)が、Bという国で、明らかに日本人だとの理由から、理不尽な、あるいは暴力的な、あるいは差別的な仕打ちを受けたとしよう。

Aさんは怒って日本に帰り、「B国でとんでもない仕打ちを受けたよ」と、自分のブログやSNSにその経緯を掲載した。

それを読んだ多くの人たちが、「B国」を「国」として批判するのにとどまらず、「B国人は悪いヤツらだ!」「日本に居るB国人は帰れ!」と、「人」や「民族」への攻撃を続々と書き込んだ。これもよくある話だ。そのため、日本に在住する善良なB国人までが、精神的苦痛を味わうことになった。

つまり、日本国内で「B国人」に対するヘイトスピーチが広がったわけだから、結果的には日本国の「失点」となり、国際的な日本の評価を下げることになるのである。

では、私がAさんだったらどうするか?

まず、事案が発生した直後に、B国の地方行政機関などの当局に(現地語がわからなければ、日本語と英語だけでも)経緯を伝え、自分(集団)が「日本人であることが原因で」不当な扱いを受け、精神的苦痛を味わったことを明確に示し、対処を要求する。

自分の滞在中に、納得のいく結果(改善、謝罪等)が得られなかった場合は、帰国後に改めて先方国の大使館に経緯を説明し、同様な要求をする。一定期間が経過しても、誠意ある対応をしてくれないようであれば、自分と考え方の近いロビイスト等の活動家に書簡やメールを送り、国際機関への報告を依頼する。

同様な事案が積み重なるようであれば、B国が「日本人(集団)排斥」への規制に消極的だということになるから、それはB国側の失点となり、B国の国際的評価を下げることになる。もちろん、そうなる前にB国が適切な対応を見せてくれるのが、お互いのためにも望ましい。いずれにせよ、この場合は日本への国際的評価に直接の影響はない。

ところが、往々にして日本人はこのような行動を採らず、先に掲げたAさんのような行動を択んでしまう。そのため、「B国人」を罵り、貶めるコメントがネット上に横行してしまうことが少なくない。

したがって、結果から見る限り、日本の国益を損ねているのは、B国の人たちではなく、日本のヘイトスピーカーたちなのである。

東アジアの場合、たとえば西欧などと比較すると、歴史的な経過も複雑であるため、事情が異なる面も確かにあろう。また、日本のロビイスト等の活動家には、特定の国の人たちに対し行き過ぎた配慮をしている感のある左派・人権派の人たちが、たいへん多いのも現実であろう。それを理由に、右派・保守派の中には、私のやり方に首肯できない人たちも相当数いるものと推測される。

しかし、国際標準で判断する限り、上に述べた通りなのだ。対立する相手側が熱くなったからと言って、自分の側が熱くなるのは愚策である。B国の政治家や教育者が国としての日本をどう見なしていようが、B国内で日本人(集団)を排斥するのが間違った行為であることを、冷静に主張し、改善を求めていくことが大切である。日本に居るB国人が居心地の悪い思いをしたくないのと同様、B国に居る日本人も、居心地の悪い思いをしたくないのだから。

相手側への反感からネガティヴなヘイトスピーチに走れば、自分自身の心も貧弱になる。国同士の関係がどうあれ、私たちは異なる民族や国籍を持つ人たちと理解し合い、豊かな心で、建設的な国際交流を目指そうではないか。

2017年5月22日 (月)

プロフェッショナルとは?

プロフェッショナル≒専門職とは何か?

ソーシャルワーカー8年、その後はケアマネジャー16年。私自身の職歴を踏まえて、どのような人を指してプロフェッショナル(プロ)と言うのか、考えてみる。なるべく多くの職種や業種に共通するものを掲げてみたい。

・しかるべき期間の学習や訓練に裏打ちされた共通基盤を、同じ職種の人たちの間で共有しているのがプロ。

・自分の能力を可能な限り最大限に発揮しながら、クライエント=顧客・受益者にとって最善の仕事をするように努めるのがプロ。

・常に職業倫理を踏まえ、行動規範に則って仕事をするのがプロ。

・アサーション(自分自身も大切にしながら、クライエントも尊重すること)が自然にできるのがプロ。

・アカウンタビリティ=説明責任を果たすことができるのがプロ。

・他の職種や業種の人と、適切な距離を保った専門的な連携・協働ができるのがプロ。

・コンセンサス(合意)とコンフロンテーション(対置)とを組み合わせ、また使い分けられるのがプロ。

・表面を観察しただけで、ある程度奥深くまで洞察できるのがプロ。

・報酬に見合う、もしくはそれ以上の仕事をするのがプロ。

・利潤を求めながらも、公益を忘れないのがプロ。

・一般の人やアマチュアを見下さないのがプロ。

・少々コンディションが悪くても、乗り越えるのがプロ。

思い付くままに挙げてみた。読者のみなさんのうち、自分のいまの仕事がプロであると認識している方の中でも、上記十二ほどの項目の中で当てはまらない項目があまり多い方は、自分に不向きであると諦めて、他の仕事を選ぶべきかも知れない。

2017年5月 9日 (火)

予見されていた労働市場の流動化

最近、介護業界で働く人たちの入れ替わりが著しい。と言っても、これは介護業界に限ったことではない。

規制緩和の推進を受けて人材派遣業が急速に成長したことにより、終身雇用制はいまや過去のものとなり、労働力の流動化がいよいよ顕著になってきた。政策としてこの流れを意識的に推進したのが、2001~06年の小泉内閣であり、現在の安倍内閣もその方針を継承していることは、みなさんご存知のことと思う。

しかし、すでに四半世紀も前の1992年に、この現状を予見していた方がある。

門奈邦雄さん。私より13歳年上であり、旧国鉄労組の相談員として長く活躍されていた。また、かつて「へるすの会(=外国人労働者と共に生きる会・浜松)」の中心メンバーであり、私もこの団体を通して門奈さんに一方ならぬご指導をいただいた。その後、地域労組である「遠州労働者連帯ユニオン」の事務局長をされていたが、いまは役員を退かれ、労働相談の第一線からは引退されている。他方で門奈さんは、袴田事件の(推定)冤罪被害者・袴田巌さんの支援など、広く人権を守る立場での活動に携わっておられる。昨秋の私の開業15周年記念のつどいにも、駆け付けてくださった。

元をたどれば、1990年の出入国管理法改正により、多くの日系人労働者がバブル期の日本へ出稼ぎに到来したあと、アジアから入国した超過(不法)滞在の人たちを中心に、外国人労働者が企業のいわば「雇用の調節弁」として扱われるようになった。人材派遣業者(当時は単純労働の派遣はすべて違法)の介在により、不当解雇、給料未払い、労災への未対応、健康管理の放置など、外国人の人権をないがしろにする事案が各地で発生し、社会問題となった。

そのような時期、派遣業者の暗躍が話題になった際に、門奈さんが私たちに語ってくださった一言を、いまも鮮明に記憶している。

「いま外国人労働者の身に起こっていることが、将来は日本人労働者の身に起こるようになるよ」

まさに先見の明! いまの日本社会は、この言葉通りになっているではないか! 派遣の自由化、派遣会社の乱立により、労働市場が流動化どころか、混乱をきわめている。本来、派遣労働者に保障されていくべき、雇用の安定、均等待遇、キャリアアップなどが置き去りにされ、格差の拡大や貧困の再生産が、じわじわと私たちの社会の健全さを蝕んでいる。

門奈さんが25年前に、すでにこの日本社会の近未来を見通していたことには、改めて深く敬意を表させていただきたい。

ここからは私の感想である。

現政権の防衛・外交政策については、(一部に疑義があるものの)私は大枠で支持している。しかし、社会保障や労働政策については、全く逆である。一言で表現すれば、これほど「『人』に優しくない政策」をなぜ続けるのか? という憤りが収まらない。

介護に関してもしかり。介護職員の処遇改善は雀の涙であるのに対して、ハコモノである介護施設の建設には、大きな投資をしようとしている。これが経済の活性化を導く介護離職防止には結びつかない政策であることは、すでに述べた通りだ。

むろん、政策サイドと密着して自分(自社)の利益を追求する、恥知らずのレントシーカー(利権あさり)に相当する財界人の横行は、目に余る状態である。しかし、それがすべての原因であるわけでもない。

最大の原因は、将来を見越したグランド‐デザインの欠如であろう。拙著『これでいいのか? 日本の介護』では自治体のグラント‐デザインについて述べたが、国全体としても、これから国家・国民がどのような方向へ進むべきなのか、その大きな未来図を描いて、そこへ向かって一歩一歩着実に歩みを進めていくことが求められる。

そのためには、政治学、経済学、さらに社会学といった政策科学に裏打ちされた、計画性、実効性のある施策が打ち出されなければならない。門奈さんのように四半世紀先のありさまを見通せる人物は、政策推進者の近くにも決して乏しくないはずだ。介護についても、私が存じ上げている学識経験者や実践者のうち何人かの方は、そのような慧眼を持っておられる。しかし、残念ながら、これらの方々のご意見を、中央省庁が本気で取り上げて、政策に反映させようとする姿勢は、一国民の立場で見る限りでは感じられない。

それどころか、これらの方々とは似て非なる経済学者などが、レントシーカーになり下がって政策に容喙しているのが現実なのだから、目を覆う惨状だ。

このままの状況が続けば、国民の活力の低下に歯止めがかからなくなることに、私は心から憂慮するものである。

2017年4月20日 (木)

自治体附属機関等の委員会に出席して(4)

公的な会議に出席しての感想。

これが最終回である。そして、最も重要な課題について述べてみる。

浜松市にも静岡県にも共通して言えることだが、「当事者」である委員が出られる機会が乏しいことが、これらの会議における最大の問題なのだ。

すべての会議がそうだというわけではない。たとえば私が過去委員を拝命した、浜松市介護保険運営協議会では、公募とは言え一般市民(うち一人は介護者である当事者)が委員に連なっていたし、静岡県福祉用具・住宅改修広域支援事業推進委員会では、静岡市の介護者団体代表者の人が列席していた。

しかし、このような会議のほうが少数であり、多くは当事者不在の会議になってしまっている。これまでも触れた浜松市医療及び介護の連携連絡会では、本委員会のほかに部会別の小委員会があり、それぞれに職能団体や業界団体から代表者が列席しているのに、どの会議を取っても、当事者側委員が含まれていなかったのだ。

これでは、「当事者主権」の理想には程遠い。政策について議論する会議であれば、受益者となる当事者側の人物が意見を述べる機会を得られて当然であろう。いまだに提供側の人物だけで委員会を構成するという、旧態依然たる体制が変わっていないのであれば、これから先が思いやられる。

ただし、当事者側の委員が的確に意見を述べられているかと問われると、公平に見て、決してそうではないのが現実である。

たとえば、静岡県認知症施策推進会議では、確かに介護者の会の代表者が出ていたが、その人物は自ら、とある種別の事業所を経営しており、意見や要望は主としてその事業に関連する内容に偏っていたため、一般の認知症利用者や介護者の意向を代弁しているとは言い難かった。

また、上述の浜松市介護保険運営協議会に出席していた公募委員も、自分の親の介護に関連した話題を展開するにとどまり、そこから外へ踏み出した普遍的な意見の開陳には至らなかったと記憶している。

私自身、現在は母の介護者でもある。もし自分が介護者側の立場で公的な会議に出席する機会があれば、当然であるが自分の母親に関連するものにとどまらず、多くの介護者に共通する課題について整理した上で、会議の席においてなるべく簡潔に発言するように心がける。私自身がケアマネジャーの立場で、これまで多くの利用者や介護者の現状を知悉しているから、それが可能である。

その場合に大切なのは、特に、多数でありながら声を揚げる機会に乏しい「サイレント‐マジョリティ」のニーズが奈辺にあるかを把握し、そこに焦点を当てて代弁することが大切であると考えている。これは他方で、少数であるにもかかわらず声高に主張を繰り広げる人たちの力に、行政施策が振り回されない効果をも、併せ持っている。

しかし、当事者である利用者・介護者の代表が、公的な会議でこのような代弁ができるためには、それなりの経験知や能力が必要になる。

当事者委員の選考方法も課題である。浜松市のように介護サービス利用者・介護者の当事者団体そのものが脆弱な地域では、団体から代表者を出してもらうよりも、公募のほうが望ましいのであるが、その公募に際して「サイレント‐マジョリティ」の意向を体することができる人物を選考しないと、結局はサービス提供側である職能団体や業界団体の委員のほうが、利用者や介護者の側に立った発言をすることにもなりかねない。そうなると当事者委員の必要性自体が問われることになる。

拙著『これでいいのか? 日本の介護』の第6章や第12章で、市民の意識向上を促したのは、先進国であれば当たり前になっている「当事者主権」を実現させるためにも、私たちが介護の未来を、自分自身のこととして捉えることが欠かせないと考えたからだ。そして、行政施策の立案や実施の過程において、受益者としての発言権を強めていくことが望まれる。

これは介護に限らず、社会生活のあらゆる分野に共通するものだと言えよう。

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