社会問題

2019年10月 2日 (水)

わだかまりが残る「逆転無罪」

世の中には、何ともスッキリしない、理不尽に思えることが少なくない。

2015年5月、浜松のスクランブル交差点で中国人の女が、赤信号で停止していた車を急発進させ、歩行者のうち1人が死亡、4人が負傷した事件である。一審では被告に責任能力があったと殺意を認め、懲役8年の判決が下された。しかし、二審では被告が心神喪失の状態にあったとして、逆転無罪となった。高検は上告を断念して、判決が確定。

この事件の主要な論点を私なりに整理してみた。

(1)罪刑法定主義

司法の鉄則。刑法第39条には「心神喪失者の行為は、罰しない。心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する。」と明記されている。「心神喪失」が認められた以上、刑事処罰をしてはならない。この原則を破れば、司法当局が恣意的に罪刑法定主義を破壊することになるので、決して行ってはならない。

(2)精神科医の鑑定の精度

今回、一審で地裁が依頼した精神科医の鑑定では「心神耗弱」と診断され、他方、弁護側が請求した精神科医の意見では「心神喪失」と診断された。二審でいわば「身内」である前者の意見よりも、後者の意見を採用したことに対しては、二つの推測ができる。一つは後者のほうがより妥当であるとの根拠が認められたこと、もう一つは「疑わしきは被告人の利益に」の原則が働いたことであろう。〔私の知る限り〕プライドの高い日本の精神科医が、予断で診断を歪める可能性はほとんど想定できない。二人の精神科医が見聞きした被告人の情報の内容によって見解が異なったのは、やむを得ない結果であろう。

(3)「疑わしきは被告人の利益に」

人類の歴史の中では、過去、冤罪や不当な量刑により、数多の人々が理不尽な処刑や処罰を受けてきた。一部の国や地域を除き、罪刑法定主義が当たり前の近代になっても、捜査する側、取り調べる側の故意や過失により、冤罪や過当な断罪が起こっている。この事態を極力避けるために、民主主義国家においては、罪状に疑わしい部分がある場合には、無罪、または軽いほうの罪にする原則が生まれた。本件で二審が「心神喪失」の可能性が強いと断じた以上、法の条文にある「罰しない」の結論になったことは、これまたやむを得ない結果だと言える。

(4)事件を防げなかった原因

同乗していた夫が「不起訴」とされたことを、遺族側は不当として検察審査会に申し立てた。もし素人目にも「心神喪失」と判断できるほどの状態が、ときどき起きていたのであれば、それを承知で車を運転させた夫に責任があると見なされるのは自然だ。精神疾患があるから車の運転を禁止することは差別かも知れないが、今回の場合、「事件」とまで行かなくても、何らかの「事故」を起こす可能性は予見できたと考えると、遺族側のアクションはもっともである。検審の判断を待ちたい。

(5)裁判員裁判の意義

本来、裁判員裁判とは、市民感覚を司法に取り入れるためのものである。ところが最近は、二審で一審の裁判員裁判による判決が覆される判例が目立つようになった。このパターンが一定以上の割合になると、他に仕事も持っている市民を何度も公判のため裁判員として動員することの、必要性や意義が問われることになる。「事実誤認」で逆転判決を下すことが可能なのであれば、一審の段階でなるべく「事実誤認」にならないための対策を講じることも必要であろう。

(6)外国人差別を誘発する可能性

今回の被告は外国人である(後述する熊谷市の事件も同じ)。「外国人が来日して、慣れない環境のため精神疾患になり、事件を起こし、無罪になった」ことが、一般市民のゼノフォビア(「異邦人嫌悪」)を誘発しており、右派から、「ならば日本に来るな!」との排外的な論調が強まることも予想される。今後の外国人材活用、共生社会の実現にとっては逆風となり、好ましくない事態を招く可能性が高い。

(7)精神障害者差別を誘発する可能性

大部分の精神障害者や精神疾患罹患者は、疾患や障害と向き合いながら必死で生きている。「引きこもり」も同様であるが、一部の人たちが起こした事件を契機に、あたかも精神障害者・精神疾患罹患者全体が課題を抱えているかのように社会から受け取られる可能性は少なくない。また、ネットでは「精神病になれば悪いことしても無罪」のような発信が散見されるが、もし「詐病」であれば、いまの精神医学のレベルではほとんど見破ることができる。このような現実を知らない人たちによる、一方的に差別・揶揄する言動がエスカレートしているのは、憂慮すべきことである。

(8)「私的復讐」を誘発する可能性

被告が死刑にされたからと言って、遺族の怒りや悲しみは決して消えるわけではない。とは言え、「重罰に処せられる」ことによって、一つの心の区切りをもたらすことができる場合は多い。以前、山口県で起こった「光市母子殺害事件(最高裁で死刑確定)」では、一審判決で無期懲役となり死刑判決が出なかったことから、遺族の男性が「社会に出てきたら私が殺してやる」と語った(上級審での死刑判決により撤回)。元来、刑法とは私的復讐をさせない目的で、人を殺した人を国が被害者・遺族に代わって処罰するシステムである。今回の事件のように、死刑はおろか懲役刑にもならなかった場合、遺族が心の区切りを付けることができず、私的復讐行為をしたい気持ちに駆られる可能性は否定できない。刑法の理念に照らした場合、決して望ましい状況ではないので、今後の刑罰システムを考える上での大きな課題となろう。

(9)熊谷市の事件との相互関係

2015年9月、熊谷市でペルー人の男が住民6人を殺害する事件が起きている。一審では死刑判決が言い渡されたが、弁護側は心神喪失を主張しているため、二審判決がどうなるかわからない。もし浜松市の事件同様に逆転無罪となれば、同様に上記の(1)~(8)までの議論が巻き起こることが予想される。

以上がこの事件に関する私の論点整理である。

大切なのは、同様な悲劇が起こる可能性を少しでも減らすことである。もちろん、日本以外の国でも類似の事件は少なからず起きており、純粋に個人の問題だと片付けることもできよう。ただし、日本社会は外国籍や精神疾患など、異質な要素を持つ人たちがたいへん生きにくい社会であることも、多くの論者から指摘されている。ダイバーシティの理念はどこへ行ってしまったのか? 自分たち自身が生活する場の周囲を眺めながら、三思したいものである。

2019年8月14日 (水)

人格権をめぐる問題

騒動の渦中にある「あいちトリエンナーレ2019」。

「表現の不自由展・その後」の展示されたいくつかの作品が、果たして「アート」の名に値するのか? 政治的プロパガンダではないのか? との議論が沸騰し、この企画が中止された。

その展示物の中に、昭和天皇の写真を焼き、その灰を踏みつぶす映像があったことが指摘されている。これに関して「人の写真を焼く行為」の是非が論じられており、企画の芸術監督である津田大介氏をネット上で批判する人たちの中には、「それなら逆に津田氏の写真を焼いてやれ!」などと主張する人たちも出てきている。

しかし、そう主張する人たちの頭の中では、どうも「人格権」の理解に混乱があるようだ。

「人格権」については、故人と生存している人とに分けて論じなければならない。

まず、故人には基本的に「人格権」は存在しない。

それでは、故人に対して何をしても名誉毀損にならないのかというと、決してそうではない。刑法230条の2によれば、虚偽の事実をもって故人の名誉を毀損した場合には、刑事事案になる可能性があることが示されている。

したがって、故人が実際に行った事実や、故人に責任がある事実をもとに、その人物の写真を焼く映像を公開しても、刑事的には何ら問題にならない。昭和天皇が「大日本帝国」の元首(当時)であり、戦争遂行の最高責任者であったことは、紛れもない事実だ(現実には昭和天皇が軍部の暴走を止められるほどの権力を持っていなかったと、私は考えているが、それはひとまず措く)。展示した側が昭和天皇を批判してこの作品を出品した行為を「表現の自由」だとする主張は、法律的に言えば正論だ。

とある宗教団体の指導者が、故人の「霊言」と称して多くの著名人の言葉を一方的に述べているが、これも虚偽の事実に基づかない限り、子孫など血縁者が名誉毀損の訴訟を起こしても、勝てる見込みはない(なお、この宗教指導者は、生存している人に関しても一方的に「霊言」を述べているが、こちらは「〇〇さんの守護霊」としているので、本人の名誉を毀損したことにはならない)。

他方、生存している人には「人格権」がある。

もちろん、私が自分が保存していた写真を整理する意味で、友人や知人が写っている写真を焼いても、当人がわかる場面において当人を貶める目的で焼くのでない限り、それは名誉毀損に当たらない。

しかし、もし私が特定の知人△△氏に対し非難攻撃しつつ、「△△は怪しからん奴だから、お前の写真を焼いてやる」と宣言して、写真を焼く画像をブログやSNSなどに公開したら、たとえその「怪しからん」行為が事実であっても、それは明らかな人格権の侵害であり、名誉毀損だと見なされる。

それは、民法709条により、△△氏に精神的苦痛を与えたことを理由に、損害賠償を求められる可能性があるのだ。

なので、津田氏を非難攻撃する人たちも、氏の写真を焼いて公開する類の愚行は、やめたほうが良い。

ことほどさように、生存している人に比べると、故人の名誉を守る法的な規制は限定的なのである。「何でもあり」になってしまうのは、やむを得ない面もあろう。

 

ただし、昭和天皇には、本人を直接知っている子や孫が生存している。その人たちのうち誰かが、先制攻撃をかけるかのように津田氏を批判した事実は、世に知られる限りではなかったと理解している(傍系の、たとえば「竹田宮の子孫」などは含まれていないが)。また、今回のような展示をされた場合、皇室以外の女系子孫たちであっても、品位の問題があり(そのため「降嫁」の際に多額の「一時金」を受け取っているのだから)、逆に津田氏らの行為を批判することが事実上困難であることは言うまでもない。ある意味、両手を縛られたままで殴られたのに等しい。

したがって、私は津田氏を含め、昭和天皇の写真を焼いて灰を踏む画像を作って出展した人たちに対して問いたい。

「人を傷つける行為がそんなに楽しいか?」

人間として、自分の胸に手を当てて、熟慮再考してもらいたいものだ。

2019年8月 4日 (日)

「落選者」二題(2)

(前回より続く)

業務過密の関係上、曜日がズレてしまったが、参院選で注目している落選者評の続きである。

もう一人は山本太郎氏。れいわ新選組・比例に立候補して3位で落選。しかし「3位」とはこの政治団体が上位二人を「特定枠」としたことによるもので、個人としては実に99万票を集めたわけだから、ダントツの集票力と言える。しかも団体全体を通せば比例で4%強の票を得たことによって、れいわ新選組は政党要件を満たし、政党交付金を受けられることになった。結果的に自身が落選したとは言え、山本氏の戦略は一定程度の成果を得たことになる。

さて、山本氏をめぐっては、これまでもさまざまな評が寄せられている。

まず政策。脱原発、改憲反対、教育・社会保障の拡充(無償化)等が柱である。すでに議員として6年間活動する中で、国民から賛否さまざまな意見が寄せられてきた。私自身は一部の政策に賛同するものの、氏は国家財政の運用の均衡について的確な視点を持っているとは言い難く、国際的な大局観に欠けていると見なしており、積極的に支持するものではない。

氏は政権担当まで目指すとしているが、私は上記の立場から、氏や同党が路線を修正しないのであれば、票を投じることはない。右派に限らず、多くの国民が氏や同党の政策を支持できないのであれば、「悪ければ落とす」原則にのっとって、次の国政選挙で票を投じない(または対立政党への投票を呼び掛ける)のが妥当であると考える。ネットで過去の行為や発言(学生時代に「戸塚ヨットスクール」を付けたグループ名を称した、日本側から具体的行動を取らないのであれば「竹島は〔韓国に〕あげたらよい」と発言した、etc)を蒸し返すなどの印象操作は、一部の左派による政権を貶める印象操作と同じ行為であり、するべきではない。

次に手法。山本氏は園遊会における明仁天皇(現・上皇)陛下への書簡手渡し、安保法制改正や森友・加計学園問題を議論する際の安倍総理(および夫人)に対する揶揄などで、批判を浴びた。私はこれらのパフォーマンスについては、批判されて当然であると思う。細部のルールが明記されていなかったなどの擁護論もあるが、そもそも議員は良識やマナーを守るとの前提に立って、不文律の社会規範が設けられているのだ。それを変えたいのであれば、まず関係者に賛否を問うてから行うべきであり、自分が逸脱して議論を巻き起こすのは、順序として間違っている。大麻合法化を求めて自分が大麻を使用する人たちと何ら変わりはない。

そして戦略について。今回の参院選で山本氏が採った戦略を、左派ポピュリズムに分類する論者が多い。私自身、「次」や「今後」を狙っている氏の戦略は、左派ポピュリズムの一形態だと理解している。

しかし、舩後靖彦氏・木村英子氏の重度障害者二人を全面に押し出して、当人たちを当選に導いたこと自体は、まっとうな方策であり、何ら批判されるべきものではない。

「税金を使って国会を改修するのには反対。山本氏自身や、福祉・医療に携わる人たちが『代弁者』として当選し、重度障害者たちの立場で改善を訴えれば良いのではないか? にわか作りの政治団体が比例の特定枠を使って両氏を『傀儡』のように当選させたことは、あざとく野心たくましい方法だ」との意見が(おもに右派から)あるが、私は全く同意できない。

特定枠を使用したのはれいわ新選組だけではない。自由民主党も特定枠二つを使い、徳島県と島根県との二氏を当選させている。二県合区の選挙区の候補者は、それぞれ高知県と鳥取県だったからだ(いずれも当選)。もし誰かが「どうせ徳島県も島根県も人口が少ないんだから、高知県や鳥取県の議員に代弁してもらえば良いでしょ?」と言ったら、炎上ものだろう。高知と徳島、鳥取と島根は、確かに共通する面もあるが、それぞれ異なる歴史的背景もあり、異なる風土があり、異なる産業や経済、社会がある。当事者にとってみれば、「何でも一緒くたにされるなんて冗談じゃないよ!」と反発するのが当然だ。

重度障害者の場合も事情は変わらない。「代弁者」の声では伝わらないことがあるのだ。舩後氏も木村氏も、訴えが福祉・介護関連に偏っており、大局観に課題はあると思うが、知的障害や精神障害があるものではなく、国会で自分の意思を正しく伝えることに全く障壁があるものではない。

これまで重度障害者が声を上げる機会が十分に確保されてこなかったのだ。そこに「風穴を開けた」山本氏の功績は、上記の政策や手法への批判とは関係なく、たいへん大きなものだと私は評価する。「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」式の思考は、日本人が陥りやすい迷路だと考えている。

にわか作りの政党なので、今後党を運営する「幹部」たちの中で、意見対立も今後表面化する可能性もある。落選したとは言え「党首」として発言権を維持した山本氏は、賛同する人たちをどこまでまとめられるのか、また、政権与党を含む国民の多数派との歩み寄りがあるのか、今後の動向に注目したい。

2019年7月24日 (水)

「落選者」二題(1)

参院選が終わったいま、二人の「落選者」に着目している。

一人は市井紗耶香氏。立憲民主党・比例に立候補して9位で落選。

元「モーニング娘。」の一人であるが、前夫との間に二人、現夫との間に二人の子どもを育てている「現役ママ」として出馬し、育児環境の整備を訴えた。残念ながら一歩及ばず落選したと言われるが、実際には8位の候補とかなりの開きがあった。

主たる敗因は、政治に関する勉強不足だと評されている。少子化対策だけは自身の体験を基に具体的な対策を訴えることができたものの、他の論点については記者の質問にも回答らしい回答ができなかった。当選したら学んでいくと語っていたが、議員として国民のために働いてもらうためには、力不足の感は否めない。かつては、タレントが知名度だけで当選できた時代もあったが、いまは有権者の選択も多様化している。ましてや、市井氏がモー娘。を引退してから十余年が経過し、細々とタレント活動を続けているとは言え、すでに芸能界でも「過去の人」となった感がある。

しかし、市井氏は苦労人だったようだ。報じられるところによると...

前夫はミュージシャンであったが、大成しなかった(現在も、注目される活動はしていない)。その収入は、家族が生活していくためには不十分であったので(プライドから衣服などのレベルを落とせなかった事情もあったかも知れないが、それはひとまず措いて...)、市井氏はかつての国民的アイドルでありながら、二人の子どもを食べさせていくために、ショッピングモールでアルバイトまでしていた。にもかかわらず、前夫は仕事(の一部?)を辞めて自分の好きなことばかりしており、家事も育児も市井氏に一任して手伝おうとしなかったとされる。

この状態であれば、「家族」を続けていくのは難しい。結局は離婚に至り、間もなく市井氏は美容師である現夫と再婚。ステップ‐ファミリーであるのにもかかわらず、現夫は市井氏の二人の子どもに対して実父同様に接し、育児に協力してくれたので、第三子・第四子も生まれ、その後は平穏な家庭生活を送っている。もっとも当然ながら、環境が変転する中で四人の子どもを育てるのは、ひとかたならぬ苦労があったであろう。

おそらく、多くの有権者は市井氏に対し、引退後から余裕を持って四人の子を育てた「セレブなマダム」像の印象を持って捉えてしまったと思われるが、もし報じられた通りであれば、実態はかなり異なっていたのだ。

他方で、「金目当ての立候補」との評も流れたが、これも筋違いであろう。当選して国会議員になれば、やらなければならない仕事が格段に増える。まだ6歳の第三子、2歳の第四子を抱える身として、いくら夫が育児に協力してくれるとは言え、並々ならぬ覚悟が必要だ。単なる収入目当てで決意できる話ではない。

私自身は立憲民主党の政策に賛同しない部分が多いが、党派を問わず、市井氏のような経験を積んだ人には、市民目線で政治を語れる女性として、国政の場に進出してほしいと願っている。市井氏自身も今回の敗戦に懲りず、他の分野についてもしっかりと学びを重ねた上で、機会があれば再挑戦してほしい。

(つづく)

2019年7月 3日 (水)

人を傷つけて稼ぐのがそんなに楽しいか?

誤解なきようにお断りしておくが、このタイトルは、殺傷事件の犯人などが自らの事件に関する手記や著作を発刊して稼ぐことを意味するものではない。

あくまでも合法的な方法の範囲内で、他人を不幸にしたり苦しめたりすることで、収入を得ている人(たち)のことだ。

このテの人や組織には三つぐらいのパターンがある。一人の人や一つの組織が複数のパターンを兼ねている場合もある。

(1)差別したり侮蔑的に捉えたりしている属性の相手を貶め、自分(たち)に同調する人たちの賛同を集める

(2)情報弱者に対して、自分(たち)の一方的な評価に依拠した、信頼性や実効性に乏しい情報や物件を売る

(3)偏った過激な主張を掲げ、標的を定めて罵倒・攻撃し、自分(たち)に同調する人たちの賛同を集める

(4)その他(品薄のものを買い占めて転売するとか、虚構のブームを煽って品物を売るとか、...etc.)

この人たちの「稼ぐ」手法はさまざまだ。おもに、(1)はブログ・動画を用いたアフィリエイト、(2)は有料サロン等の会員制組織の運営、(3)は賛同者からのファンディングが主流だが、それに限らず、複数の手法を組み合わせて「稼いで」いる人たちも少なくない。一部では、違法性を疑われかねないギリギリのところまで手を出す連中も存在することが知られている。

この人たちに共通するのは、既成の権威やシステムを誹謗中傷、罵倒して、あたかも自分たちが時の人、正義の人であるかのように振舞うことだ。その点では悪質な一部の(あくまでも一部である)新興宗教にも通じるものがある。また、自分たちの手法の結果として起こったことへの社会的な非難を浴びても、責任を取らない、または責任を取ったポーズだけ見せて逃げる点も共通している。

多くは善良な社会人であった、貶められた人たちや、価値のないモノを買わされた人たちや、標的にされ攻撃された人たちが、どれだけ傷つこうが、自分(たち)の知ったことではない。限界が近付くまではやりかたを改めないし、そろそろ限界だと思えば早々に見切りをつけて撤退し、恬として恥じることなく、また新たな手口で同様な行為を繰り返す。

私は最近、自分自身で情報発生源を探り、自分の頭で妥当性を考える癖が付いているので、この類の人たちには引っ掛かることはめったにない(と思っている)が、それでも一時的、部分的に評価する場合はある。もちろん、大枠で「偽物」だと判明した時点で、基本的には信頼しない(ただし全否定ではなく、真に価値のある見解があれば、それに限って評価する可能性はあるが)。

この人たちは私の言葉などに対して、どうせ聞く耳を持たないだろうが、それでも言いたい。

「あなた(たち)は、人を傷つけて稼ぐのがそんなに楽しいですか?」

人の幸せを願って日々仕事をしている私たちの職域から眺めると、この人たちは全く異質の存在にしか見えない。なぜ、そのような生き方ができる社会になってしまったのか? 私たちも三思する必要があるだろう。

2019年6月26日 (水)

冷静に読み解くべき報告書

最近、以下の二つの報告書が話題になっている。

(1)金融庁が公表した金融審議会「市場ワーキング・グループ報告書 高齢社会における資産形成・管理」

(2)財務省が公表した財政制度等審議会「令和時代の財政の在り方に関する建議」

この両者に関して報道された内容が、人々を騒がせているのだ。

特に(1)は、「夫65歳、妻60歳の夫婦世帯では、30年間に公的年金以外の資産が2000万円必要」との試算だけがクローズアップされ、それを野党が意図的に政治問題化させ、与党は不器用な火消しに追われるといった、ドタバタ政治劇の混乱を招いている。

また、(2)の中にあった年金関係の数字が抹消されたことも、一部の市民から問題視されている。加えて、私たちの介護業界では、(2)のうちケアマネジャーなどの介護業界に関する内容が、安かろう悪かろうを推進し、良質な事業者をツブしかねない愚策だと非難されている。

そこで、〔自分の専門外の分野については十分に理解できていないことは承知の上で〕両者の全体に目を通してみた。

まず(1)であるが、読んでみたところ、報道されている話とは全く異質の印象を受けた。

これは、「余裕のある中高年世代に対する資産運用の勧奨」と、それに対する「金融機関向けの手引書」なのだ。だから、まだ導入部に過ぎない「人口動態等」の箇所で、勇み足よろしく米国の「プルーデント‐インベスタールール」を紹介している(P.8)。「この段階で早々とこんなコラム出すなよ!」と失笑してしまった。

つまり、「年金」の話題は、「資産運用」と「金融機関用手引」を引き出すための糸口に過ぎないのであり、そもそも主題ではない。もちろん、年金に関する試算にはそれだけの根拠があるのだろうが、そもそも一定以上の富裕層が志向する生活水準を前提にしたものであるから、私たち庶民には縁の薄い話(笑)なのだ。

したがって、この数字をネタにして一部野党が攻撃したのは事実「煽り」と言って差し支えないし、与党が報告書を「受け取らなかった」のも拙策だ。いや、受け取らないなら受け取らないでよかった。「ワーキンググループの段階の報告書なので、受理しなかった」と躱せば良かったのだ。受け取らないのにその内容についてあれこれ応酬しているから、かえって話がややこしくなってしまった。

続いて、(2)である。こちらは国政に占める比重は(1)よりもズンと重い。審議会による「建議」の形を採っているが、これが財務省の「意思」だと考えて良い。

まず、財政再建に向けて、オランダの財務大臣室に掲げてあったギリシア神話の絵まで紹介して、危機を警告している(P.9、資料Ⅰ-6-1)。オランダの場合、欧州債務危機の波及を受けての経済回復が緩やかであること、EUとの協調と移民対策との兼ね合いが長期にわたる重要課題であること、中小政党の政策の摺り合わせで連立政権が成立していること、などなど、日本とは国情の違いが大きいので、わざわざ引き合いに出すのはどうかと思うが、ま、それはひとまず措いておこう。

次に、社会保障に関する部分。私が着目したのは、薬局業務のうち、薬剤師の業務を対物業務から対人業務へシフトさせていくとした点である(P.19)。おそらくこの先には、AIの活用による薬剤師業務の省力化、ICT化も見越した見解であろう。ケアマネジメントにおいてもAIの活用が期待されているが、専門性を有する人間でなければできない部分をどう評価していくのか? それを調剤業務の報酬にどう反映させていくのか? 隣接する私たちの業界から見ても興味深い。

そして、上に述べた、介護業界の心ある論者たちから、愚策だとボロクソに叩かれている点。介護サービス価格の透明性向上・競争推進のために(P.23)、ケアマネジャーが複数の事業所のサービス内容と利用者負担額、つまり支払うお金を比較して紹介することで、より良いサービスがより安価に提供される仕組みのために働くべきとされている(資料Ⅱ-1-44)。これはまさしく現場を理解しない暴論であり、いまの時点で他業種に比較しても、職員に満足な給与さえ払えない介護報酬≒公定価格なのである。ここからさらに割り引きすることを期待するのは無理難題でしかない。ましてやケアマネジャーは必要な利用者に対して必要なサービス(たとえ利用者負担が多くなっても)を調整するのが役割であり、価格引き下げの片棒を担ぐものでは全くない。失礼千万である。この点に関しては、愚策だとの見解に全く同感である。業界から有能な人材が去っていく結果しか招かないことは、火を見るより明らかだ。

それから、年金に関連する部分。上記(1)の報告書をめぐる騒動を受け、マクロ経済スライドに関する部分の書き換えが行われたのは事実である(P.26)。しかし、他方で政府が推し進めてきた在職老齢年金制度の廃止(によって、働いて多くの収入があっても年金額を減らされないことになる高齢者の就労意欲を促進するのが目的)については、将来の年金受給者の給付水準の低下にも言及し、高所得者に対するクローバックの可能性にまで踏み込んで提議しており(P.29)、決して現実を軽視したものではない。この課題については、短絡的に反応するのではなく、国民皆が真剣に考えなければならないのではないだろうか。

あまり多岐にわたるので、私自身が該博な知識を持たない部分も多いが、他にも二点ほど気になった部分がある。

一つは、文教・科学技術の項目に関して、大学における研究環境の閉鎖性、硬直性が指摘され、日本の研究人材の国際流動性や国際共著論文数が主要先進諸国の中で劣っていることへの指摘である(P.46)。私たちの業界では、(専門職能団体が中心になってまとめているので)学術研究とはいささか趣を異にするのかも知れないが、先年、国のシンクタンクが事業として『適切なケアマネジメント手法の策定に向けた調査研究事業報告書(2018)』を編纂している。ここで言及されたケアマネジメントの「標準化」なる代物を謹んで拝見し(笑)、国際的なケアマネジメントの潮流であるナラティヴ‐ベイズド‐アプローチが著しく軽視された(としか言いようがない)作品を目の当たりにした私にとっては、実にうなづける指摘だなあと納得してしまった。
他の学問分野についてはよくわからないが、同様な傾向が顕著であるとしたら、日本人研究者のドメスティックな欠点を露呈しているものであり、英語力の不足などのさまざまな要因があろう。今後、業界を超えて克服していかなければならない。

もう一つは、社会資本整備の項目に関して、PPP/PFIの民活導入について論じ、そこでコンセッション方式の事例拡大を推進すべきとする方向性である(P.56)。コンセッション方式導入を勧奨する以上、従来型PFIであるとか、DBO方式であるとか、他の手法と比較した長所・短所について、当該社会資本の受益者が十分に理解した上で採否を決定していくのが筋であろう。私の見落としでなければ、今回の建議ではこの比較が明瞭に示されていない(資料Ⅱ-4-19)。規制緩和と連動した行政責任の縮小だけでは、市民生活に混乱を招く恐れが大きい。経営主体が外資系企業であればなおさらのことである。財政再建を錦の御旗にする財務省は推進に意欲満々なのかも知れないが、悔いを千載に残すことになってほしくないものだ。

以上、ざっと読んだ限りの感想である。賛成論も異論・反論も大いに歓迎する。ただし、必ず全体に目を通してからお願いしたい。

2019年6月12日 (水)

再教育が必要なのだろうか

きょうは珍しく、児童(少子化)に関連する話をエントリーしてみる。

私自身が未婚であり、(本日現在まで)子育て経験はない。なので、街角で子どもを同伴している親(母親の場合が多いが、土日には父親が一緒に居る姿も結構見かける)を傍目で眺めながら、子どもを一人前の大人に育てるため奮闘している姿に、微笑ましくなることが多い。

もちろん、時折だが社会常識に沿っていない親を見かけることはある。どんな事情があってそうするのか、なかなか察することはできないし、私自身が実害でも受けない限り、あえて口出しすることはしていない。親のそんな姿を見た子どものほうは大丈夫かな? と心配になることはあるが。もっとも、これは一握りの例であり、大部分はごく普通の常識的な親だ。

いずれにせよ、この子どもたちは自分たちの老後を支えてくれる世代である。元気に育っていってほしいと思う。

Kouen

しかし、残念なことに、世の中にはそう考えない人がいることも現実だ。親たちが社会常識に反する振る舞いをしていなくても、子どもたちや親たちに対して露骨に不快感を示す人たちが、相当数の割合でいる。それが単なる不満や、苦情程度に収まっていれば、まだ個人の意見として理解できないわけではないが、犯罪にまで至ることがある。

6月5~6日の間に、東京都足立区で、数人の幼稚園児の自宅郵便受けへ、「朝、駐車場で子供を騒がせるな。静かにさせろ。できなければ何があっても文句を言うな」との脅迫文が投函されていた。保護者が警察へ届け出て、捜査の結果、71歳の男が容疑者として逮捕された。男は容疑を認め(脅迫の意図については否認)、「毎朝のことで騒音に耐えかねた」と供述しているという。

この人物の姓を見て、同じ姓の男(たぶん血縁ではなく、偶然であろう)が数年前に起こした、とある事件を思い出してしまった。

2015年、東京都の有楽町駅でベビーカーに乗っていた1歳児の頭を、64歳(ならば現在は68歳ぐらい)の男が拳で殴打した。母親の悲鳴に驚き、父親がすぐに男を取り押さえ、警察に突き出したので、男は逮捕された。「ベビーカーが邪魔だったので殴った」と供述していた事件。

どちらの男にも共通するのは、子どもや親に対する病的な憎悪である。普通は、ベビーカーが邪魔だと思っても、子どもを殴ることはしない。普通は、幼稚園のバスを待っている子どもの声がやかましいと思っても、親を脅迫することはしない(ちなみに、私自身、営業時間の関係上、朝起きるのが遅いので、家の前を通る小学生の大きな声で起こされることはあるが、『ああ、もうそんな時間か』と思うだけで、一度として迷惑だと感じたことはない)。

もう一つ共通する点がある。それは二人とも「団塊の世代」であることだ。前者はおそらく1947年生まれ、後者はおそらく1950年生まれで、厚労省が白書にうたう「団塊世代(1947~49年生まれ)」より一つ若いが、実はこの年までの出生数が著しく多いので、広義の「団塊の世代」は、1947~50年生まれと考えて差し支えない。

日本中を騒がせた大事件でもないので、二人の家族関係や背景を検索しても明らかではなかった。憶測は控えたいが、家族がいないか、または、いても孤立に近い状態だったのではないだろうか?

もちろん、子育てに不寛容なのはこの二人だけではない。確かにこの二人がやったことは異常であるが、自宅の近くに幼稚園や保育所の設置計画が持ち上がると、地域の静穏が乱されると思い反対する住民(おもに中高年以上だが、若い世代にもある)は、日本中の各地に存在する。ある意味、この二人がしたことは、多くの市民が抱いている気持ちを、過激に表現しただけだと言えるかも知れない。幼稚園教諭や保育士たちの技術的な課題も存在している(ヨーロッパの福祉先進国では、幼児たちを無理に抑制しなくても、あまり騒がせずに遊ばせる技術が進んでいるとの報告もある)。また、ベビーカーを電車に乗せる親の一部には、他の乗客や通行人への配慮が欠落しているとの意見もある。不満や苦情を訴える側が一方的に非常識でズレていると言うのは、過当であろう。

だからと言って、暴力や脅迫が許されて良いはずはない。当たり前だ。

この二人のような行為が頻発した場合、単に社会不安を誘発するだけではない。若い子育て世代の間に、「自分たちが働いて納める税金を、何でこんな〔子育てを妨害する〕ジジイたちのために使われなければならないのか?」との声が高くなれば、団塊の世代に対する批判が強まり、世代間の憎悪を増長させ、地域社会の人間関係がさらに不寛容になる恐れがある。

そうならないために、私たちは何をすれば良いのだろうか。

この二人のような人だけではなく、すべての住民、特に中高年以上を対象とした「再教育」が必要なのかも知れない。いまの日本の少子高齢化により、社会の持続にとって危機的な事態が近付いていること。それを考慮すると、自宅近くだけ子どもの騒音がないようにしてほしいなどの「総論賛成、各論反対」は、もはや許される状況にはないこと。地域全体で理解し合って子育てをすることが、自分自身の老後を支えてもらう豊かな社会の構築につながること。等々。単なる「学習会」ではなく、おもに周囲に子どもがいない人たちには、地域の幼児や小児と実際に触れ合ってもらう機会もほしい。

もっとも、そんな再教育の場を設けたとしても、上記の二人などは参加しないかも知れない。それならば逆に、彼らを孤立させないために、地域でどう声掛けをすれば良いのか? 次なる課題を皆で協議していくことが大切だ。

地域包括ケアシステムが目指すものは、高齢者や障害者だけのための仕組みづくりではない。誰もが住みやすい街をどう建設していくのか、構成員が全員参加する形で、知恵を絞っていきたいものである。

(※画像はグラパックジャパンのものを借用しました)

2019年6月 5日 (水)

東大卒のプライドは東大卒にしかわからない!

今回は、最近メディアを騒がしたいくつかの衝撃的な事件のうち、二つを取り上げてみたい。

4月19日、池袋で元上級官僚・I氏(88)の運転する車が暴走して、母子二人の命を奪い、九人に重軽傷を負わせた事故。

6月1日、練馬区の元上級官僚・K氏(79)が自宅で長男を刺殺した事件。

両事件とも、発生後にさまざまな視点からの議論が巻き起こっている。

前者に関しては、高齢者の運転技術や、警察や報道のありかたに関するものが多い。被疑者であるI氏が容疑者ではなく「さん」付けで報道されたこと。そしてI氏が退院後も容疑を実質否認しているのにもかかわらず警察に逮捕されていないので、もとの身分を忖度されたのかと評されていること。また、同年齢程度の高齢者の多くは運転能力に疑問があると考えられること。これを契機に運転免許証を返納する高齢者が急増したこと。等々。

後者に関しては、直前に発生した川崎の殺傷事件と関連付けた論評が主である。K氏の長男(44)が川崎の加害者(51歳。自殺)に類似した「ひきこもり」生活を送っていたこと。家庭内暴力があってK氏が身の危険を感じていたところ、長男が近くの小学校の運動会について「うるさい」と怒ったので、川崎同様の事件を起こさせないため殺害に踏み切ったこと。一人で抱え込んで公的機関に一度も相談しなかったこと。等々。

そして、さまざまな議論が交わされている中で、保健・福祉関係者をはじめとする多数意見は、前者について「高齢者は運転免許を返納しよう」、後者について「家族の生活課題を抱え込まずに地域資源を活用しよう」へ向かいつつある。

だが、あえて異論を一言。

I氏やK氏に対し、早くから上記のように提案しても、おそらく解決に結び付かなかった。

妨げになっているのが「東大卒のプライド」なのである。

(...もっとも、最近は東大の「権威」も低下しているので、「東大卒のプライド」にも変化が見られる。ここでは40代ぐらいから上の、一定以上の年代のOB・OGに共通するプライドの意味に使う)

誰も(←私が見聞する限り)二つの事件に共通するこの代物に斬り込んでいない。「上級官僚のプライド」に踏み込んだ論調はいくつも見受けられるが、両者はイコールではない。

上級官僚に限らず、大企業の経営者や役職者として成功した富裕な人とか、学会や業界の重鎮などは、他にも少なからず存在する。誰もがそんな知人を三人や四人持っている。つまり、数は少ないが自分の周囲にも結構いる存在なのだから、その人たち特有のプライドを感じることも、機会は少ないが日常の中でときどきあると思われる。外面からであっても、それらを理解するのはさほど難しくない。

だが、「東大卒のプライド」はそんな簡単に理解できるものではない。いや、おそらくこれは、該当する者(修了した学部・学科に関係なく)でなければ理解できないと思ってもらったほうが良い

そう言い切ってしまうと、「それでは評論のしようがないじゃないか!」と反論されるかも知れないが、それでも私はうなづくしかない。

I氏の場合。氏は事故について謝罪しつつも、「ブレーキが利かなかった」と言い張り、アクセルを踏み込んだことを否認している。他方で警察はブレーキに故障が認められないと結論付けている。この点について論者は、I氏の「認知症の兆候」、あるいは「正当化」「自己弁護」「隠蔽」の意思だと推測する。

私に言わせれば、これらは的外れだ。I氏の思考の中では、どこまでも「ブレーキが利かなかった」のである。間違えてアクセルを踏み込むはずはないのである。自分の行為は「ブレーキを踏み続けた」のに「利かなかった」以外にあり得ない。事故のとき、同乗の妻に対して「ああ、どうしちゃったんだろう」と言ったとされる言葉が、それを正直に表している。

ではI氏は亡くなった母子に対して申し訳なさを感じていないのかと言えば、決してそうではないと思う。自分の車が事故を巻き起こしたことについて、言いようのない慙愧を覚えているのではないか。しかし、その原因はあくまでも「自分は安全運転していたのに、ブレーキが利かなかった」なのである。I氏自身もそうとしか言いようがないのだと思う。

K氏の場合。氏は「長男が川崎のような事件を起こすかも知れないと案じて殺害に踏み切った」と供述しているという。長男の引きこもりは以前からあったのだから、同居した直後に公的機関などの社会資源に相談すれば良かったという人たちがいる。著名なソーシャルワーカーもそう言っている。

私は言いたい。それができない(できなかった)のだ。

結果から推測する限りであるが、何と言われても、できないものはできないのである。K氏の思考の中には、「他人に迷惑がかからないように、自分たち(家族)の中で始末する」のが唯一の選択だったのだ。K氏ほど人脈が豊かな人が、その気持ちさえあれば、自分の知人を通して適切な専門職に相談するのはたやすいことだったと判断される。しかし、それはK氏にとって容認できる手段の外であった。

理解に苦しむ読者が多いであろうことは承知しているが、この両氏の行動の根にあるのが「東大卒のプライド」である。

この二人の事例を見て気が付いたこと。「受援力」=「支援を求め、受ける力」の言葉があるが、「東大卒のプライド」は「受援力」の欠如に結び付いている。

なので、このプライドはある意味、危険な存在なのかも知れない。I氏やK氏の事例から見る限り、多くの人から見れば、「東大卒のプライド」の所産は、実体として「愚劣」に映るに違いない。

しかし、他方でこのプライドは、当人が「辛い、苦しい状況」に陥ったとき、歯を食いしばって耐え抜く原動力でもあるのだ。そして、その力が、政治、経済、科学技術、文化、社会保障などの多くの分野で、輝かしい成果を実らせてきたことも、また疑いのない事実なである。

I氏とK氏には、亡くなった人に対して心から贖罪することと、自らの心の安らぎがもたらされることを願いたい。

併せて、該当するすべてのOB・OGが抱いている「東大卒のプライド」が、社会にとって望ましい方向のエネルギーに転化されることを祈りたい。

2019年5月21日 (火)

それが「諦める」理由なのか?

先日、亡き母と親しかった方(女性)と、短い時間であるが、話す機会があった。

この方は年齢70代初めで、旦那さんと二人暮らしである。内蔵的な疾患は持っているが、いまはご夫婦とも元気で、畑仕事や趣味活動には前向きに参加している。

この方には娘さんがお二人、どちらも40代前半で独身なのだが、娘さんたちについてこんなことを語っていた。

「うちの長女(会社の中間管理職)は仕事を仕切っていくのが忙しく、ご縁が無いのよ」

「下の娘さんはどうなんですか?」

「二女(病院の中間管理職)も多忙なのに加えて、自分が看護師だから、いろいろなことがわかってしまっている。いまの自分の年齢だと、出産しても障害を持つ子どもが生まれる確率が高い。だからもう結婚も諦める考えになってしまっているの。もし将来、ご縁があるとしても、育児とは関係ない『パートナー』ってことになるのかな」

それが二女さんの正直な気持ちであれば、十分に理解できるし、ネガティヴに評価するつもりは全くない。

生まれてくる子どもが障害(種別はどうあれ)を持っていれば、親の負担は大きい。介助に要する時間や費用、補助具の調達等の生活環境整備に要する時間や費用は、障害の程度にもよるが、「健常者」の子どもたちに比べると大きなものがある。特に、夫となった人が、仕事の多忙などにより障害を持つ子どもの養育に十分協力してくれない場合、妻の側が一人で抱え込む事態にもなりかねない。

この二女さんが「結婚・出産・育児」を諦めた真の理由は、ご本人に会って話してみないことにはわからない。しかし、医療の専門職である以上、「命」の重さに格差があるなどと考える人では決してないだろう。また、高齢出産で障害を持った子どもが生まれると決まったわけでは全くない。

本来、障害を持つ子どもが生まれてきても、親とともに社会でその子たちを支えていくことが、日本が目指す「高福祉」の理想だったはずだ。しかし、現在の日本社会は、その理想とは程遠いところにある。残念だが。

だからこそ、この二女さんの「諦め」を助長することにもなってしまうのであろう。

もし、障害を持つ子どもが生まれても、確実に支えてもらえる社会であれば、この二女さんの選択も、異なったものになるのかも知れない。

そんなことを思ってみる。

2019年4月23日 (火)

復活祭二題

今年の復活祭は、4月21日で、たいへん遅い暦日となった。それが影響したのか、しばしば「寒の戻り」「花冷え」といった現症が繰り返され、寒暖の差で体調を整えるのが難しい年だった。

とは言え、大病も大きな事故もなく、この時期を迎えることができた。ささやかではあるが、好きなワインを飲みながら、手製の一品料理でディナーを摂り、主のご復活を祝っている(画像はイタリア産、祝典用のバローロ)。

さて、復活祭に関連して、今年は二つの大きなできごとがあった。これはある意味で神様からの「発題」なのかも知れないと思い、それぞれの「お題」について黙想してみた。

一つの「お題」は、パリ(フランス)のノートルダム大聖堂の大部分が、火災によって消失した事案。

このニュースが報じられた直後に思ったのは、

「建物としての聖堂が焼失しても、心の殿堂は決して消失しない」。

その後、何日か経過すると、世界の各地から再建のための支援が続々と寄せられることが話題となった。

それに対して、「聖堂に寄付するよりも、困ってる人たちを助けろ」との批判。日本の介護・福祉関係者にもそう言い出す人がいる。

私が思ったのは、

「でも、その批判、『生活保護でパチンコ行くな!』って、外野が勝手に使途を決めて、受給者を非難攻撃するのと変わらないよね」。

宗教的情熱か、売名行為か知らないが、その国で法律上の問題さえ起こさなければ、個人の資産をどう使おうと自由なはず。まさに「自己決定」だ。

社会的成功を収めた人が、得た利潤を社会に還元するのは〔キリスト教的な〕義務であろう。しかし還元する対象が、人々の祈りの場である教会であったとしても、全く道義的に問題とされるものではない。

聖堂の再建へ向けて人々が心を合わせることにより、国境やセクトを超えた連帯が生まれるのならば、それは喜ばしいことではないだろうか?

20190420barolo 

もう一つの「お題」は、コロンボ(スリ‐ランカ)の複数の教会など6箇所の建物が、おそらくテロリストが仕掛けたと推測される爆発物によって破壊され、多くの死者が出た事案である。

テロリストたち(-イスラーム過激派だと考えられるが、同国ではかつて仏教徒とヒンドゥー教徒も、血を血で洗う抗争を繰り広げた。キリスト教を含めた多くの宗教には、異教徒たちの殺戮をいとわない人たちは存在する。日本でもかつてオウム真理教がそうであった。イスラーム教だけが非難されるべきではない。念のため-)の所業は、道義的にも法的にも許されない行為である。これは圧倒的多数の人たちが共有する見解であろう。

しかし、イエス‐キリストは十字架上で想像を絶する苦痛の中にありながら、こう仰った。

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです(ルカ福音書23-34)」

この言葉をゴルゴタの丘で聴いた人たちの衝撃は、いかほどであっただろうか。

そして、私たちも信徒である以上、イエスにならうべきである。

テロリストたちが同国の法にのっとった裁きを受けるべきなのは当然であるが、彼らの魂の救済のために、神のお赦しを祈りたい。

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