社会問題

2017年6月18日 (日)

情報を取得するときの心得

既存メディアの功罪についての議論が絶えない。政治、経済、そして社会問題、国際情勢など。さまざまな分野に関して、新聞では全国紙や地方紙、TVでは公共放送や民間放送が、情報の普及に果たしてきた功績は計り知れない。他方で、メディアの「害悪」もまた小さくなかったことは現実である。

大新聞はとかく「偏向」を指摘されてきた。確かに紙媒体の新聞を読む限りは、主要な記事や論説のうち、かなりの割合のものが偏りを免れない状況であろう。しかし、インターネットが普及した現代では、大手メディアが必ずしも「偏向」していられないのが現実のようだ。

実際、右派・保守派から「パヨク」扱いされがちな朝日新聞が、提携するハフポスト日本版では、右派側の見解もそのまま掲載しているし、逆に左派・人権派から「ネトウヨ」扱いされがちな産経新聞も、オピニオンサイト「iRONNA」のコーナーでは、左派側の見解もそのまま掲載している。もちろん、両紙とも、自社側の論調をより強く印象付けるための仕掛けを、それなりに工夫しているらしいことが看取されるが。

また、このほかに、どう考えても論調がおかしい(一貫していない、判断根拠が理解し難い、etc.)全国紙や地方紙が存在することも確かである。

TVでは、一部にどう見ても偏向としか言えない番組はあるものの、問題の多くは局側の「視聴率を取りたいビジネスライクの姿勢」にあり、過剰な取材を始め、視聴者の興味本位に迎合した番組本位の稚拙な編集が、正確性や中立性を歪める原因を作っているので、視聴者から愛想を尽かされている面が強い。裏を返せば、質の高い編集がなされている番組には、視るに値するものも少なくないのだが、大勢を占めるには至っていない。

このような実態を踏まえ、最近はおもに若い人たちが、あまり新聞やTVに依存せず、ネットから直接情報を取得しようとするのは、時代の趨勢である。

さて、私たちがネットを主たる媒体として情報を取得するときに、心がけたいことがある。

それは、情報の「選び方」なのだ。

Jouhou

私がいつも強調しているのは、「私たちは無意識のうちに、自分にとって快い情報だけを取り込んでいる」ことである。人が情報を取得し、選択しようとするとき、大なり小なり、この図に示したような心理的動機が働く。いくら自分が公平な眼で、中立的な立ち位置で世の中を眺めようとしても、神ならぬ身であれば、100%それを貫徹するのは不可能と言えよう。

しかし、それを完璧に近づけるために努力することはできる。そのためには、

(1)「自分が日頃から尊敬、共感している人(組織)が、ある場面ではおかしなこと、間違ったことを言っていないか」

(2)「自分が日頃から嫌悪、批判している人(組織)が、ある場面では正論を言っていないか」

これらを常に意識して情報を「選ぶ」ことが必要になる。

拙著『これでいいのか? 日本の介護』第七章では、日本人特有の思考形態・行動様式について述べたが、その中で特に大きく取り上げたのが「二分割思考」である。「白」と「黒」、「善」と「悪」、「正」と「邪」、「純」と「不純」などが、その代表的なものだ。この「二分割思考」が「排除の論理」につながり、また私たちの正常な情報分析を妨げることは、前掲書中に述べているので、機会のある方はお読みいただきたい。

この「二分割思考」の壁を打ち破るために、上述した(1)と(2)とを常に意識することは、とても大切だ。考え方が両極端に走るのを防ぐことにより、ものごとの真実を見抜く力を養うことにつながるからである。

私たち市民がこのような努力をして、自分の頭で情報を選び、ネットでの極論や誹謗中傷に対して安易な賛同をしない姿勢、反対側の立場の見解を頭から否定しない姿勢を保っていけば、それは日本国民の民度を向上させ、成熟した市民社会の実現を近付けることになる。

上の(1)と(2)。一人でも多くの人たちに、ぜひ実践していただきたい。

2017年6月 4日 (日)

国益を損ねているのは誰なのか?

先日、日韓両チームによるサッカーの試合後、韓国チーム側に主たる原因があると判断される暴力騒ぎがあり、ネット上を賑わしていたようだ。

ただ、これに関連するブログやSNSの記事やコメントを見て、思うことがある。

よく聞く話だが、日本人Aさん、あるいはAさんの所属する集団(国を代表する機関は除く)が、Bという国で、明らかに日本人だとの理由から、理不尽な、あるいは暴力的な、あるいは差別的な仕打ちを受けたとしよう。

Aさんは怒って日本に帰り、「B国でとんでもない仕打ちを受けたよ」と、自分のブログやSNSにその経緯を掲載した。

それを読んだ多くの人たちが、「B国」を「国」として批判するのにとどまらず、「B国人は悪いヤツらだ!」「日本に居るB国人は帰れ!」と、「人」や「民族」への攻撃を続々と書き込んだ。これもよくある話だ。そのため、日本に在住する善良なB国人までが、精神的苦痛を味わうことになった。

つまり、日本国内で「B国人」に対するヘイトスピーチが広がったわけだから、結果的には日本国の「失点」となり、国際的な日本の評価を下げることになるのである。

では、私がAさんだったらどうするか?

まず、事案が発生した直後に、B国の地方行政機関などの当局に(現地語がわからなければ、日本語と英語だけでも)経緯を伝え、自分(集団)が「日本人であることが原因で」不当な扱いを受け、精神的苦痛を味わったことを明確に示し、対処を要求する。

自分の滞在中に、納得のいく結果(改善、謝罪等)が得られなかった場合は、帰国後に改めて先方国の大使館に経緯を説明し、同様な要求をする。一定期間が経過しても、誠意ある対応をしてくれないようであれば、自分と考え方の近いロビイスト等の活動家に書簡やメールを送り、国際機関への報告を依頼する。

同様な事案が積み重なるようであれば、B国が「日本人(集団)排斥」への規制に消極的だということになるから、それはB国側の失点となり、B国の国際的評価を下げることになる。もちろん、そうなる前にB国が適切な対応を見せてくれるのが、お互いのためにも望ましい。いずれにせよ、この場合は日本への国際的評価に直接の影響はない。

ところが、往々にして日本人はこのような行動を採らず、先に掲げたAさんのような行動を択んでしまう。そのため、「B国人」を罵り、貶めるコメントがネット上に横行してしまうことが少なくない。

したがって、結果から見る限り、日本の国益を損ねているのは、B国の人たちではなく、日本のヘイトスピーカーたちなのである。

東アジアの場合、たとえば西欧などと比較すると、歴史的な経過も複雑であるため、事情が異なる面も確かにあろう。また、日本のロビイスト等の活動家には、特定の国の人たちに対し行き過ぎた配慮をしている感のある左派・人権派の人たちが、たいへん多いのも現実であろう。それを理由に、右派・保守派の中には、私のやり方に首肯できない人たちも相当数いるものと推測される。

しかし、国際標準で判断する限り、上に述べた通りなのだ。対立する相手側が熱くなったからと言って、自分の側が熱くなるのは愚策である。B国の政治家や教育者が国としての日本をどう見なしていようが、B国内で日本人(集団)を排斥するのが間違った行為であることを、冷静に主張し、改善を求めていくことが大切である。日本に居るB国人が居心地の悪い思いをしたくないのと同様、B国に居る日本人も、居心地の悪い思いをしたくないのだから。

相手側への反感からネガティヴなヘイトスピーチに走れば、自分自身の心も貧弱になる。国同士の関係がどうあれ、私たちは異なる民族や国籍を持つ人たちと理解し合い、豊かな心で、建設的な国際交流を目指そうではないか。

2017年5月22日 (月)

プロフェッショナルとは?

プロフェッショナル≒専門職とは何か?

ソーシャルワーカー8年、その後はケアマネジャー16年。私自身の職歴を踏まえて、どのような人を指してプロフェッショナル(プロ)と言うのか、考えてみる。なるべく多くの職種や業種に共通するものを掲げてみたい。

・しかるべき期間の学習や訓練に裏打ちされた共通基盤を、同じ職種の人たちの間で共有しているのがプロ。

・自分の能力を可能な限り最大限に発揮しながら、クライエント=顧客・受益者にとって最善の仕事をするように努めるのがプロ。

・常に職業倫理を踏まえ、行動規範に則って仕事をするのがプロ。

・アサーション(自分自身も大切にしながら、クライエントも尊重すること)が自然にできるのがプロ。

・アカウンタビリティ=説明責任を果たすことができるのがプロ。

・他の職種や業種の人と、適切な距離を保った専門的な連携・協働ができるのがプロ。

・コンセンサス(合意)とコンフロンテーション(対置)とを組み合わせ、また使い分けられるのがプロ。

・表面を観察しただけで、ある程度奥深くまで洞察できるのがプロ。

・報酬に見合う、もしくはそれ以上の仕事をするのがプロ。

・利潤を求めながらも、公益を忘れないのがプロ。

・一般の人やアマチュアを見下さないのがプロ。

・少々コンディションが悪くても、乗り越えるのがプロ。

思い付くままに挙げてみた。読者のみなさんのうち、自分のいまの仕事がプロであると認識している方の中でも、上記十二ほどの項目の中で当てはまらない項目があまり多い方は、自分に不向きであると諦めて、他の仕事を選ぶべきかも知れない。

2017年5月 9日 (火)

予見されていた労働市場の流動化

最近、介護業界で働く人たちの入れ替わりが著しい。と言っても、これは介護業界に限ったことではない。

規制緩和の推進を受けて人材派遣業が急速に成長したことにより、終身雇用制はいまや過去のものとなり、労働力の流動化がいよいよ顕著になってきた。政策としてこの流れを意識的に推進したのが、2001~06年の小泉内閣であり、現在の安倍内閣もその方針を継承していることは、みなさんご存知のことと思う。

しかし、すでに四半世紀も前の1992年に、この現状を予見していた方がある。

門奈邦雄さん。私より13歳年上であり、旧国鉄労組の相談員として長く活躍されていた。また、かつて「へるすの会(=外国人労働者と共に生きる会・浜松)」の中心メンバーであり、私もこの団体を通して門奈さんに一方ならぬご指導をいただいた。その後、地域労組である「遠州労働者連帯ユニオン」の事務局長をされていたが、いまは役員を退かれ、労働相談の第一線からは引退されている。他方で門奈さんは、袴田事件の(推定)冤罪被害者・袴田巌さんの支援など、広く人権を守る立場での活動に携わっておられる。昨秋の私の開業15周年記念のつどいにも、駆け付けてくださった。

元をたどれば、1990年の出入国管理法改正により、多くの日系人労働者がバブル期の日本へ出稼ぎに到来したあと、アジアから入国した超過(不法)滞在の人たちを中心に、外国人労働者が企業のいわば「雇用の調節弁」として扱われるようになった。人材派遣業者(当時は単純労働の派遣はすべて違法)の介在により、不当解雇、給料未払い、労災への未対応、健康管理の放置など、外国人の人権をないがしろにする事案が各地で発生し、社会問題となった。

そのような時期、派遣業者の暗躍が話題になった際に、門奈さんが私たちに語ってくださった一言を、いまも鮮明に記憶している。

「いま外国人労働者の身に起こっていることが、将来は日本人労働者の身に起こるようになるよ」

まさに先見の明! いまの日本社会は、この言葉通りになっているではないか! 派遣の自由化、派遣会社の乱立により、労働市場が流動化どころか、混乱をきわめている。本来、派遣労働者に保障されていくべき、雇用の安定、均等待遇、キャリアアップなどが置き去りにされ、格差の拡大や貧困の再生産が、じわじわと私たちの社会の健全さを蝕んでいる。

門奈さんが25年前に、すでにこの日本社会の近未来を見通していたことには、改めて深く敬意を表させていただきたい。

ここからは私の感想である。

現政権の防衛・外交政策については、(一部に疑義があるものの)私は大枠で支持している。しかし、社会保障や労働政策については、全く逆である。一言で表現すれば、これほど「『人』に優しくない政策」をなぜ続けるのか? という憤りが収まらない。

介護に関してもしかり。介護職員の処遇改善は雀の涙であるのに対して、ハコモノである介護施設の建設には、大きな投資をしようとしている。これが経済の活性化を導く介護離職防止には結びつかない政策であることは、すでに述べた通りだ。

むろん、政策サイドと密着して自分(自社)の利益を追求する、恥知らずのレントシーカー(利権あさり)に相当する財界人の横行は、目に余る状態である。しかし、それがすべての原因であるわけでもない。

最大の原因は、将来を見越したグランド‐デザインの欠如であろう。拙著『これでいいのか? 日本の介護』では自治体のグラント‐デザインについて述べたが、国全体としても、これから国家・国民がどのような方向へ進むべきなのか、その大きな未来図を描いて、そこへ向かって一歩一歩着実に歩みを進めていくことが求められる。

そのためには、政治学、経済学、さらに社会学といった政策科学に裏打ちされた、計画性、実効性のある施策が打ち出されなければならない。門奈さんのように四半世紀先のありさまを見通せる人物は、政策推進者の近くにも決して乏しくないはずだ。介護についても、私が存じ上げている学識経験者や実践者のうち何人かの方は、そのような慧眼を持っておられる。しかし、残念ながら、これらの方々のご意見を、中央省庁が本気で取り上げて、政策に反映させようとする姿勢は、一国民の立場で見る限りでは感じられない。

それどころか、これらの方々とは似て非なる経済学者などが、レントシーカーになり下がって政策に容喙しているのが現実なのだから、目を覆う惨状だ。

このままの状況が続けば、国民の活力の低下に歯止めがかからなくなることに、私は心から憂慮するものである。

2017年4月20日 (木)

自治体附属機関等の委員会に出席して(4)

公的な会議に出席しての感想。

これが最終回である。そして、最も重要な課題について述べてみる。

浜松市にも静岡県にも共通して言えることだが、「当事者」である委員が出られる機会が乏しいことが、これらの会議における最大の問題なのだ。

すべての会議がそうだというわけではない。たとえば私が過去委員を拝命した、浜松市介護保険運営協議会では、公募とは言え一般市民(うち一人は介護者である当事者)が委員に連なっていたし、静岡県福祉用具・住宅改修広域支援事業推進委員会では、静岡市の介護者団体代表者の人が列席していた。

しかし、このような会議のほうが少数であり、多くは当事者不在の会議になってしまっている。これまでも触れた浜松市医療及び介護の連携連絡会では、本委員会のほかに部会別の小委員会があり、それぞれに職能団体や業界団体から代表者が列席しているのに、どの会議を取っても、当事者側委員が含まれていなかったのだ。

これでは、「当事者主権」の理想には程遠い。政策について議論する会議であれば、受益者となる当事者側の人物が意見を述べる機会を得られて当然であろう。いまだに提供側の人物だけで委員会を構成するという、旧態依然たる体制が変わっていないのであれば、これから先が思いやられる。

ただし、当事者側の委員が的確に意見を述べられているかと問われると、公平に見て、決してそうではないのが現実である。

たとえば、静岡県認知症施策推進会議では、確かに介護者の会の代表者が出ていたが、その人物は自ら、とある種別の事業所を経営しており、意見や要望は主としてその事業に関連する内容に偏っていたため、一般の認知症利用者や介護者の意向を代弁しているとは言い難かった。

また、上述の浜松市介護保険運営協議会に出席していた公募委員も、自分の親の介護に関連した話題を展開するにとどまり、そこから外へ踏み出した普遍的な意見の開陳には至らなかったと記憶している。

私自身、現在は母の介護者でもある。もし自分が介護者側の立場で公的な会議に出席する機会があれば、当然であるが自分の母親に関連するものにとどまらず、多くの介護者に共通する課題について整理した上で、会議の席においてなるべく簡潔に発言するように心がける。私自身がケアマネジャーの立場で、これまで多くの利用者や介護者の現状を知悉しているから、それが可能である。

その場合に大切なのは、特に、多数でありながら声を揚げる機会に乏しい「サイレント‐マジョリティ」のニーズが奈辺にあるかを把握し、そこに焦点を当てて代弁することが大切であると考えている。これは他方で、少数であるにもかかわらず声高に主張を繰り広げる人たちの力に、行政施策が振り回されない効果をも、併せ持っている。

しかし、当事者である利用者・介護者の代表が、公的な会議でこのような代弁ができるためには、それなりの経験知や能力が必要になる。

当事者委員の選考方法も課題である。浜松市のように介護サービス利用者・介護者の当事者団体そのものが脆弱な地域では、団体から代表者を出してもらうよりも、公募のほうが望ましいのであるが、その公募に際して「サイレント‐マジョリティ」の意向を体することができる人物を選考しないと、結局はサービス提供側である職能団体や業界団体の委員のほうが、利用者や介護者の側に立った発言をすることにもなりかねない。そうなると当事者委員の必要性自体が問われることになる。

拙著『これでいいのか? 日本の介護』の第6章や第12章で、市民の意識向上を促したのは、先進国であれば当たり前になっている「当事者主権」を実現させるためにも、私たちが介護の未来を、自分自身のこととして捉えることが欠かせないと考えたからだ。そして、行政施策の立案や実施の過程において、受益者としての発言権を強めていくことが望まれる。

これは介護に限らず、社会生活のあらゆる分野に共通するものだと言えよう。

2017年3月19日 (日)

「忘れ去られる権利」を乱用するな!

ICT技術の飛躍的な発展により、インターネットは私たちにとって身近なものとなったため、社会は大幅に利便性を増した。

そして、逆に私たちにとって不便、不具合なことも起こってきた。

ずっと昔の犯罪歴や愚行歴がネットにさらされてしまうのも、その一つである。昨年、閣僚を務めた北陸出身の政治家をめぐって、過去の愚行が話題となったが、職業や知名度にかかわらず、誰の前歴を誰でも調べることができる世の中なのだから、「前歴」をめぐるさまざまなトラブルが頻発している。

そして、前歴を「忘れ去られる権利」についての訴訟まで起こされる時代となった。ネットの検索エンジンに犯罪や愚行の前歴がさらされてしまっている人が、すでにその類のこととは縁を切って平穏に仕事をしている場合、「〇十年前にこんなことが・・・」といった手かせ足かせに縛られたくないのは、人の情として自然である。その犯罪や愚行の社会的影響の重大性にもよるだろうが、「いい加減にしてほしい」と、検索エンジンからの消去を求めるのは、決して身勝手な行為だとは思わない。

また、自分と反対意見である人の不利を図るべく、現在の活動とは関係の無い、あるいは関係の薄い昔の事実を「ほじくり出して」、その人を叩く人間が増えているのも事実だ。もちろん、これは褒められない行為である。暴露される側にとっては迷惑千万であろう。

しかし、その犯罪や愚行をいわば「踏み台」にして、現在の地位を築いている場合は、話が別ではないか。

私は20代、介護職員として宮仕えしていたころ、当時の利用者に対して、今日のスケールで見れば間違いなく「アビューズ(≧虐待)」に相当する行為を何度もしていた。自著では「恥ずかしい行為」とだけ記載してボカしているが、講義などで関係する話題に触れる際には、過去に自分が、「虐待に相当する」劣悪介護をしていた事実や、それに対する「申し訳なかった」との反省があってこそ、いまの自分があることも、包み隠さずに述べている。

当然のことだ。マイナーであっても、「介護」の分野で論陣を張る以上、過去の過ちは避けて通れない。昔の私を知っている人から「お前がエラそうに何を言っているんだ?」と嘲笑されないためにも、話題がそこに及んだ際には、ためらわずに告白するようにしている。

したがって、地位や知名度の高い人が、「クサいものにはフタ」をしているとしたら、これは看過できない。その一例を掲げよう。

当県では名が知られたヘイワ活動家(護憲派)Aさんがいる。環境保護でも活躍した人であり、県内各地で講演をして回っている人物だ。お住まいの市や性別を挙げると特定されてしまうので、伏せておこう。

このAさんが過去、大麻常習者の人たちと一緒にヘイワ活動や環境保護活動をしていた事実は、意外と知られていない。と言うか、ご本人がそれについて全く語っていないし、Aさんに近い人は何人か知っているが、その人たちからもAさんと大麻の関係話が出てきた形跡がない。Aさんの話を聞いて「感銘した」人のブログなどを見ていても大麻の話は出てこないし、検索エンジンからも全くあぶり出せない。

その大麻関係の人たちがいまどうなっているか、私は消息を聞かない。しかし、あくまでも私の主観に過ぎないとは言え、どう過小に見積もっても、Aさんがこの大麻関係のネットワークを「活用」して活動の場を広げていったのは現実である。つまり、Aさんの活動歴は、大麻常習者の人たちを「踏み台」にしていると考えられるのだが、Aさんはこの前歴をキレイにリセットしてしまい、自分の活動の「光」の部分だけを滔々と述べて、聴衆の喝采を受けている(と聞いている)。

このAさんは「真の住民運動と似て非なる「プロ市民」の運動」に登場した人物とも密接な関係にある。二人は「同志」と表現して良いかも知れない。その「プロ市民」がどんな人物だったかは、エントリーを参照いただきたいが、何となく似ているように感じるのは、私だけだろうか。

私は個人的には防衛力強化論者なので、護憲(9条)論者のAさんの話を聞きに行くことはないだろうが、もし私が護憲論者であっても、Aさんがこの姿勢を変えない限り、私は信用できない。当然である。私自身がAさんの活動に協力しても、何かキズが付けば、切り捨てられる可能性が強いのだから。

「忘れ去られる権利」を行使するのは良いが、乱用してはならない。これは一人ひとりの品性の問題なのかも知れないが、乱用することは心ある人たちからの信用を失うことになることを、地位や知名度の高い人たちは肝に銘じるべきであろう。

2017年3月12日 (日)

民間介護保険におけるケアマネジャー

拙著『これでいいのか? 日本の介護』第二章(P.32)で、民間保険会社の「マネー‐マネジャー」が、サービス利用を最小限に抑制するであろうことを述べた。

しかし、民間保険会社の登場を待たずして、すでに介護保険制度の枠内では、日本全国に「マネー‐マネジャー」が存在する。すなわち、公的介護保険サービス→現物給付を最小限に抑制しようとする行政担当者である。

もちろん、すべてがそうであると言うつもりはないが、行政用語「給付適正化」が事実上、もっぱら「給付抑制」であって、必要な人に対する「給付の加上(上乗せ・横出し等)」を含まない概念である以上、給付適正化に携わる行政職員の多くは、程度の差こそあれ「マネー‐マネジャー」の役割を果たしていると表現して差し支えない。

したがって、これらの行政職員、たとえば介護保険担当課とか、基幹型地域包括支援センターとかの職員は、ある意味で、今後ケアマネジャーが民間介護保険分野に進出するに当たっての「先駆け」をしているとも言うことができる。

ここで、キーワードになるのは「公益性」であろう。

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この図は、私がよく講義で使用する図だ(拙著『介護職の文章作成術』P.164にも掲載してある)。縦軸が利用者の利益、横軸が公益である。

左下の領域は、利用者のニーズと給付とのミスマッチから、「自立度の低下」を招く状況。これは利用者にとっても課題解決から遠ざかるだけ害悪であり、意味のないサービスを続けることによって給付母体にも損失を与える。「囲い込みケアマネ」に代表される、最も望ましくない類型だ。

左上の領域は、利用者の要望を偏重したために、「モラルハザード(一方の当事者が意図的に情報の歪曲したり権利を乱用したりすることにより、適切な給付関係が崩れること。一般に「保険詐欺」の意に用いられる)」に至っている状況。「言いなりケアマネ」に代表される、主体性に欠ける支援がこれに当たる。利用者や介護者の希望に対し、「ご無理ごもっとも」と受動的に対応しているうちに、給付母体に打撃を与える類型である。

右下の領域は、給付を抑制することにより、「インフォーマルな支援部分の拡大」に結び付くのだから、一見、良いことのように思われる。もちろん、『これでいいのか?...』にも書いた通り、それが住民の自助・互助意識を啓発する効果はあるだろう。

しかし、本来給付されるのが妥当なサービスまで抑制することにより、生活課題を達成できない利用者が、インフォーマルな資源による支援、それも十全とは言えないシステムに頼らざるを得ない状況が、現実に各地で起こりつつある。これは制度が担保すべき責任の放棄につながり、手放しで喜べるものではない。給付母体に対しては「優しい」一方、肝心な利用者の「最善」を図らないことにもつながるからである。

実は、民間介護保険を手掛けるケアマネジャーが最も陥りやすいであろうと思われるのは、この右下の領域なのだ。その場合、「公益」は「保険会社の営利」に置き換えられるかも知れない。しかし、営利法人であっても本来の望ましい姿が「公器」であることを考えれば、「公益」と重なる部分は少なくない。

ここで話を転換して、民間保険がどう運営されているのか(今後どう運営されるか)について触れてみよう。

民間介護保険の給付の大部分は現金給付であり、そこには大別して二種類の商品が存在する。公的介護保険の要介護度に連動した商品と、連動しない商品である。

公的介護保険と連動する商品は、「要介護〇以上」などの条件が付く。その条件を満たせば介護年金や介護一時金などの給付がなされるので、加入者にとって給付要件の白黒がわかりやすい。ただし、加入時の告知事項の項目により、あらかじめ有しているリスク次第では、入り口でハネられてしまう恐れがある。また、年金型の商品は要介護度が軽くなったら支払われなくなる場合が生じる。裏を返せば、このような制約が緩い商品ほど掛け金の金額は多くなるだろう。

公的介護保険と連動しない商品については、加入や給付申請において、「ホンネは保険給付をなるべく抑制したい」保険会社側の「誰が見ても」、「これまで一定以上のリスクを有しなかった」利用者に対して、その給付が必要である、必要になると納得されるための判断根拠(≒エビデンス)を示すことが大切だ。事業所のケアマネジャーが代理店の生命保険募集人を兼ねるようなことがあれば、一人ひとりの利用者の保険利用に関する判断根拠を明確化する役割を果たさなければならない。

しかし、加入者のケアプランを会社側に提出しても、そのケアプランに対する会社側のチェックは、当然ながら多くの行政機関よりもさらに厳しい。短期目標とサービス内容の一つ一つの項目に関して、担当者から電話やメールで指摘され、ケアマネジャーの判断根拠が脆弱だと「これでは加入(給付)できないよ」と高飛車に告げられることもあるに違いない。

かなり話が逸れてしまったが、これから民間介護保険に加入したい人に対して、ケアマネジャーはこのような商品に対する説明責任を果たし、自らの職能にのっとって的確な仕事をする必要がある。でないと加入者、あるいは加入を希望する利用者から背信行為と見なされる可能性があるからだ。たとえば「うちの居宅でケアプランを作成させていただければ、A社の介護保険をオプションで提供できますよ」と説明して居宅の契約をしたのに、いざその利用者がA社の保険に申し込んだとき、告知事項で門前払いにされてしまったら、ケアマネジャーは「ウソをついた」ことにされかねない。

さて、図に話を戻すと・・・、

右上の領域は、制度を有効利用して、利用者の「自立の促進」に結び付ける支援である。民間保険であれば、「制度」を「契約内容」に置き換えることができる。加入者は保険給付によって必要なサービスを買うことができ、保険会社は適正な仕事をして顧客を確保、増加させて営業利益を上げる。すなわち、加入者と給付母体とが相互にWin-Winの関係になることが理想なのだ。

そのためには、ケアマネジャーが安易に右下の領域にズレ込み、「マネー‐マネジャー」となってしまわないことが肝要である。本来の資格が「介護支援専門員」である以上、倫理綱領に照らして、まずは利用者=加入者の代弁者として、利用者側にとっての最善の仕事をすることが求められる。保険会社の代弁者ではない。実際には保険会社側から有形無形の圧力を受けるであろうから、簡単に割り切れない面があるかも知れないが、あくまでも専門性を帯びた職能のもとに振る舞うのが、ケアマネジャーのあるべき姿であろう。

この基本は、ひるがえって公的介護保険に当てはめることもできる。行政職員や地域包括職員が、「行政用語としての給付適正化」(≒給付抑制)ではなく、「真の給付適正化」(≒必要なサービスの的確な担保)を促進すれば、図の右上の領域の支援を実現することができ、市民と自治体とがWin-Winの関係を築くことができるのだ。

すなわち、民間介護保険でケアマネジャーがどのような仕事をするのか、できるのかによって、公的介護保険の動向にも大きな影響を与える可能性を秘めているのであり、「混合介護」「自立支援介護」のゆくえとも絡めて、今後の業界の動向を注視しなければならないであろう。

2017年2月17日 (金)

介護離職についての考察(6)

約一か月近く、新たにエントリーしないままご無沙汰してしまった。...と言うより、エントリーしている余裕がなかった。

自分の母(90)が要介護状態になってしまったのである。

ことの発端は、母が1月17日にカゼを引いてしまい、18日には38度台の高熱を出したことである。いったんは下がったのだが、以後連日、37度台後半から容易に解熱せず、立ち上がって家事をするのが難しくなるなど、全身機能が日々低下していく様子であった。

そこで、23日になって、かかりつけの診療所へ通院して、検査してもらったところ、炎症反応が大幅に上がっており、胸部レントゲンでも肺炎の進行が著しかった。そこで主治医は母に抗生物質を投与。慢性心不全があるため、細菌性感染症による重篤化の可能性を懸念してくれたのであろう。

ところが、母はもともと顔面神経麻痺が根治せず、口内炎を患っていたため、抗生物質の内服により症状が増幅し、加えて味覚異常まで発生してしまった。解熱はしたものの、こんどは固形物が食べられなくなり、ゼリー状の食物も受け付けず、水分さえ口内の不快感を訴えて十分摂れずに、寝たきり状態になってしまった。

本人は心不全による胸の苦痛もあって、これが自分の限界だと言い出し(延命治療は点滴も希望していないので)、会話も聞きづらくなり、一時は「看取り」を想定する事態であった。29日には名古屋の実家関係の親族まで呼ぶ事態に。母の友人(女性)が「当分の間」との条件で、私が不在の時間帯を中心に副介護者として協力してくれたので、私も「家で看取ろう」と決意した。

しかし、ここから様相が再転する。30日から主治医が苦痛緩和を兼ねて強心剤や利尿剤を投与。31日には特殊寝台(とりあえず保険外で)をレンタルして背上げができるようにした。これらの処置で胸痛がかなり楽になると、高たんぱく飲料を一日250ml+スポーツドリンク、少量の軟食などが入っていくようになり、危機的な段階を脱して小康状態に。

これが寿命だと信じていた母にとっては、引き戻されたような気分が残っているようで、それに起因する情緒不安定がなお垣間見られるが、1月末時点から見ると、かなり前向きな姿勢に転じつつある。ベッド周辺の動作には、介助量がかなり減少している。味覚も甘味・酸味は少し回復した。塩味が全く戻っていないので、いまだに「まずい」食物も多いのが難だが。

介護サービスも、訪問看護やホームヘルプにやっと慣れてきたところであり、これからショートステイも利用する予定だが、母本人はときどき抵抗感を口にしている。しかし、いずれにせよ私一人では本人の希望(「自分の好きなように家で過ごしたい」)をかなえてやることは不可能であり、私の疲労もかなり増大しているので、自分自身の健康管理もしなければならない。サービス活用は不可欠の状況である。

また、当然ながら、私自身がケアマネジャーの仕事を持っているから、いま「介護離職」するわけにはいかない。適切にサービスを活用して、一人分の仕事は継続していかなければならない。当然であるが、自分自身が運営基準にのっとって遅滞なく働けるために(利用者の方々にご迷惑をかけないように)も、母の介護環境を整備することが求められているわけである。

裏を返せば、自営業・家族経営などの場合は、多くの場合、必要なサービスを上手に活用すれば、「介護離職」しなくても家庭介護を継続できる可能性が強いということだ。それを自分自身が身をもって経験した形になるのだろう。

今後、私が家庭介護を続けるためには、母のさらなるADL回復は必須となる。本人の意欲をどう引き出すか、自分がケアマネジャーであっても、いざ当事者の立場になってみるとなかなか難しいところだが、無理のない範囲でのリハビリを進捗させていくことも必要になろう。

本件については、今後の母の経過も踏まえ、後日改めてみなさんにご報告してみたいと考えている。


※ 母の親戚や友人の方がこのエントリーをご覧になっても、私に無断で母を訪問することは絶対にしないでください。自宅には「有限会社ジョアン」の書庫等があるため、ホームセキュリティを操作させてあります。したがって、私の不在中、不用意に敷地内に入った方は、映像に撮られたり通報されたりする可能性があります。また、母自身も気疲れする性分なので、会いたい方を選別しています。なにとぞご理解ください。

2017年1月18日 (水)

公正取引委員会は何をしているのか?

昨2015年の9月5日、公正取引委員会が「介護分野に関する報告書」なるものを公表したことは、もはや介護業界人には周知の話である。そこには、社会福祉法人に対する「厚遇」が株式会社などの営利法人の介護事業参入を妨げており、介護サービス事業への新規参入を促進するには、税制や補助金に関する社会福祉法人と営利企業との差を縮めることや、事業者の創意工夫を活かすために混合介護を弾力化するなどの提言が示されている。

これに対して、業界側の論者の多くは、国民の福祉の位置付けから、公取委によるこれらの指摘や提案が的外れであることを主張している。私も各々の論者と多少の温度差はあっても、基本的には同方向の考え方である。私とも交流がある知名度の高い論者の方々が、すでに続々とこの事案に関して見解を出しているので、例によって私の出る幕はないほどだ。

そこで、これも例のごとく、この事案に別の視点から斬り込んでみよう。

それは、公取委の役割とは何か? ということである。

私が9月5日の公取委報告書の存在を知ったとき、まず何を想起したか?

それは、昨年1月15日の軽井沢バス事故なのだ。乗客・乗員合わせて15人が犠牲になった痛ましい事故。

このバス事故そのものが該当するかどうかは何とも言えないが、貸し切りバスの安全がないがしろにされている背景には、バス業者に不当な低価格で仕事をさせる旅行業者、また、両者の間に介在する手配代行業者の「手数料収入」等が存在することは、心ある識者であれば誰もが認識しているところである。

ところが、あるメディアの記事から、旅行業者とバス業者との間には、元請け-下請けの関係は存在しないと漏れ聞いたので、驚いた私は国土交通省の資料を参照してみたところ、同省の資料には確かに、「旅行会社は自ら運送を行っていないので、旅行会社と貸切バス事業者の取引については、下請法の対象外。(下請法第2条)」と記されていた。

つまり、この事故の背景になってる業界慣行に対して、公取委は直接的に摘発する権限がないということだ。

それどころか、同省の資料をフツーに読む限り、逆にバス業者側がカルテルを結んで、「手数料を差し引いても絶対この金額は譲れない」と主張したら、こちらが独占禁止法による取り締まりの対象になってしまうらしい。

なんと、とんでもない構図になっていることか!

確かに、旅行の最中に電車や乗合バスや飛行機を利用するのであれば、これは下請法の対象外であろう。しかし専らその旅行のためにバスを借り切るのがなぜ「下請けの対象外」なのだろうか? 私のカボチャ頭ではどうしても理解できない。

かのバス事故のような事故の再発防止に関しては、国交省も一応、公取委や他省庁も巻き込んで改善策を採る構えであるものの、あまりに微温的である。特に、手配代行業者≒ランドオペレーター(より広く、「ツアーオペレーター」と称するのが的確かも知れない)に関しては、ようやく実態把握が緒に就いたという、恥ずかしい現状なのだ。現政権が外国人観光客の大幅な取り込みを国策にしているのにもかかわらず。

本題に戻って...、

本来、不公正な商取引を監視して、泣く人、泣く法人が出ないようにするのが公取委の役割であるはずなのに、現実がこのような性格の組織だとしたら、社会の格差は広がり、泣く人が増える一方ではないか。

社会福祉法人は日本特有の存在かも知れないし、第二次世界大戦で社会が壊滅的な打撃を受ける歴史を経なかったら、現在の姿の社会福祉法人は存在しなかったと論じる人もある。たとえそうであっても、社会福祉法人は戦後の日本社会のさまざまな分野で大きな役割を果たしてきた。収益事業にもさまざまな制約を受け、「内部留保」として叩かれている「繰越金」についてもその使途は限定されており、かつ役職員の給与水準は同規模の営利企業に比較して著しく低い。にもかかわらずこれを「厚遇」「不公正」と断じるならば、公取委の仕事に携わる人たちの能力そのものを疑わざるを得ない。不適正な運営をしている一部の法人に対しては、そこに対して鉄槌を下せば良い話なのだから。

総じて...、

バス事故に対しては旅行業者や手配代行業者(もちろん、適正な価格でバスを借り切っている善意の事業者を除いての話であるが...)に厳しいメスを。介護事業に対しては社会福祉法人の特殊な状況への理解を。このような使い分けをしつつ、必要な法令を整備していくことができない公取委ならば、国民に取って無用の機関である。早々に解体しても良いのではないか、とさえ思う。

2016年12月23日 (金)

間違えてはならないこと

ネット社会になり、個人の動向がリアルタイムで報じられる世の中になったいま、私たちが間違えてはならないことがある。

もし、あなたが誰かのことを、クソ野郎-これは男性の場合であって、女性ならクソ女郎(めろう)になる-だと思っても、あなたはその人の人権を守らなければならない。

案外、この基本を忘れてしまっている人が多い。社会福祉や介護支援のプロフェッショナルであるケアマネジャーやソーシャルワーカーにも、そんな人が少なくない。

クソ野郎(クソ女郎)とは、たとえばこんな人たちのことだ。

・勝手な論理で人を殺傷したり、人の心を苦しめたりする人。

・本やブログや動画を売る目的で、特定の属性の人たち・組織・集団を攻撃する人。

・独り勝ちするために、仲間を踏み台にする人。

・何がしかの権力を背景にして、対抗勢力つぶしに手段を選ばない人。

・利益相反の立場にありながら恥じる色もなく、利権をあさる人。

・二重基準→自分(自派)には甘く、他人(反対派)には厳しい人。

このように凶悪な、あるいは卑劣な人々もすべて、人間である。人間である以上、人権は守られる。

もし、あなたが、「こんなクソ野郎(クソ女郎)の人権こそ守ってやる必要はない」と考えたら、あなた自身が「二重基準」のワナに陥ってしまっているのだ。

上記のような人たちが、あるいは法律で裁かれ、あるいは世論により非難される。それは当然のことであり、自ら招いた結果、(正しい意味での)自己責任であろう。

しかし、それはこの人たちの人権を否定することを許すものでは決してない。

くどいようだが、もう一度言う。

間違えてはならない。

(クリスマスを前にして)

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