介護

2017年9月 4日 (月)

講師の品格

身の周りのことで何かと多用であるとは言え、ありがたいことに、ときどき県内外からお声掛けいただき、企画や研修の講師として出向くことがある。マイナーな講師であっても、業界でのつながりは大切にしたいので、極力お受けすることにしている。

そのとき大切にしているのは、その出講のテーマ、そして内容が自分自身の倫理観に照らして正しいのか? ということだ。

だいぶ前のことだが、信頼筋からこんな話を聞いたことがある。

ある自治体が介護支援専門員を対象とした研修会を開催したところ、その講師が「介護支援専門員不要論」を軸に、介護支援専門員の問題点を突っつくのに終始したというのだ。他のところで確認した情報も勘案すると、大枠はその通りだっただろうと推測する。

その講師が「介護支援専門員不要論」を唱えていたのは以前から知っていたが、実際にそれを介護支援専門員対象の講演の中でぶち上げたことには、たいへん不快感を覚えた。確かに私よりはるかに知名度の高い人ではあったが、実体は単なる独善的な人間だったのではないのかと感じる。

これは、前回のエントリー、「真に介護業界の将来を憂えている論者と、独善的な動機から介護業界を貶めているに過ぎない論者とを、自分の頭で見分けるためには、どこに着目すれば良いか?」の内容(本文のほうがタイトルより短くなってしまった...)にも関連する話だ。

たとえば、私は浜松で在住外国人支援の実績を持っているので、もしどこかの団体から、介護分野における外国人の活用について話してほしいと頼まれたら、日程調整さえ可能であれば喜んで出向きたいと思う。ただし、それはあくまでも永住者や定住者の介護業界就労支援であるとか、留学生の資格取得→就労支援であるとか、効果が薄いとは言えEPAに基づき専門職を目指す人たちの支援であるとか、すなわち正規の労働者としての在住外国人支援に係る分野の話である。

もし、研修生・技能実習生を受け入れたい事業者を対象とした話をしてほしいと頼まれたら、いかに高額な報酬を提示されても、私はお断りする。なぜなら、私自身はこの制度の運用がその趣旨に乖離し、安価な労働力獲得の隠れ蓑になってしまったために、長年にわたって数々の人権侵害を招いてきたと理解しているので、制度そのものの廃止を主張しているからだ。自分が不要だと考えることを業とする人たちの集団から講演料をもらうのは、恥ずべき行為である。それが、人間として当然持つべき倫理観ではないだろうか。

したがって、自分が否定的に捉えることを説いてお金をもらうとしたら、それは「聴講者にはこうなって(こうあって)ほしくない」との主張になる。

去る8月22日、ケアマネットしまだ(島田市の介護支援専門員連絡組織)からのご依頼により、「ケアマネジャーの接遇」をテーマに講義を行った。途中のグループワークでは、何人かに「自分がモノを買うときに、売る側から応接されて不快だった経験」を語ってもらい、自分たちが利用者に対して同じことをしてしまっていないか、互いに分かち合い、振り返ってもらった。

特に、講義の中で何度も強調したのは、利用者にタメ口をきかないことである。「もし、利用者にタメ口をききたいケアマネジャーさんがいたら、自分のところの理事長にも医師にも、これからは同じようにタメ口で話して、それでうまくいくかやってみたらどうですか?」。つまり、業界の悪習とも言うべき「顧客にはタメ口、上司には敬語」などという非常識は、もはや社会では通用しないことを伝えたのだ。

これは、私自身が「悪習の排除」を実践していなければ、何の説得力もない。自分が否定的に捉えるものには、自分自身が手を染めない。日頃からその覚悟が必要である。

裏を返せば、講師を打診する側の団体が、依頼する際に講師の日常の振る舞いにツッコミを入れてみると、ニセモノ(独善・偽善)のメッキがはがれることもあるので、面白いかも知れない。もっとも、依頼する団体側からすると、事前交渉の段階で相手にこまごま問い質すのは失礼だとの認識もあるので、特別なことでも起こらない限り、たいていは確認不十分のまま依頼してしまうのだが...

いずれにせよ、私自身はそのようなニセモノとは明瞭な一線を画したいと考えている。それが自分の矜持でもあり、自分が講師を受任する際の基本指針でもある。

「講師の品格」とは、このようなものであろう。

2017年8月31日 (木)

真に介護業界の将来を憂えている論者と、独善的な動機から介護業界を貶めているに過ぎない論者とを、自分の頭で見分けるためには、どこに着目すれば良いか?

着目点は、

論者が、「人間」に対して、リスペクト(敬意)を持っているのか?

この一点のみ。

2017年7月31日 (月)

専門性への被用者意識の影響

先日のエントリーに書き連ねた通り、介護支援専門員の行く末は大きな岐路を迎えている。

国の介護保険制度の中で「介護支援専門員」として生き残るのか、それを超えて「ケアマネジャー」として新たな道を求めていくのか、それぞれの選択があろう。

そのような状況下、いつも思うのは、ケアマネジメントの仕事をしている人たちは、「プロフェッショナル」と「被用者」との、どちらの意識が強いのだろう? ということである。

医師や弁護士の大部分は、もちろん前者であろう。研修医とか司法修習生とかの期間は「被用者」に相当する段階なのかも知れないが、それを過ぎれば「個」として独立した一人の専門職である。開業していない状態、たとえば病院の勤務医でも、特定の団体に所属する顧問弁護士であっても、独立した領域を持つ「プロフェッショナル」としての意識を強く持っている人が大部分であろう。

しかし、ケアマネジャーの多くは残念ながらそうではない。就労後に所属の勤務先では「チームで仕事をする」期間が長く、「ここに帰属してお給料をもらう」習慣が次第に根付いていく。それ自体は決して悪いことではないのだが、その環境に安住する状態が長く続くと、二つの大きな課題を抱えることが多い。介護従事者すべてに言えるが、もちろんケアマネジャーにも当てはまる。

小著『これでいいのか?日本の介護』(P.71)にも触れたが、その一つは「組織に物申す気持ちがなかなか起きない」こと、もう一つは「組織の傘のもとに行動してしまう」ことである。

前者は、囲い込みに加担する営業型の介護支援専門員や、現状黙認の後ろ向きな妥協型の介護支援専門員などに類型化される。後者は力量不足なのに組織の後ろ盾を頼みにした「虎の威を借る」介護支援専門員、異動で当分いまの部署に居るだけの「足掛け」介護支援専門員、あるいは常に所属組織至上主義で外部から「社畜」と見なされている介護支援専門員などに類型化されよう。

もちろん、被用者であっても「ケアマネジャー」としての「プロフェッショナル」意識を強く持って働いている介護支援専門員は少なくない。ただ、残念なことに、その割合は医療系や法曹系の職種に比べるとかなり少ない。この点が、歴史の古い専門職から指摘される部分となっている。

先の社会保障審議会・介護給付費分科会(7月19日)では、すでに報じられた通り、居宅介護支援に関する事案について議論された。その中で、相も変わらぬ「一人ケアマネ」に対する批判的な見解が、政策側や医療系団体等から浴びせられたようだ。

当然であるが、同じく「一人ケアマネ」と言っても、自営(厳密に言えば自ら設立した法人の役員兼職員)と被用者とでは大きく状況が異なるので、一括りにされるのはまことに心外千万なのである。

既述の通り、被用者の介護支援専門員でもプロフェッショナルとしての意識の高い人や、これまで情弱であっても機会さえ作ってあげれば積極的に資質や技術の向上に努める人もいるので、すべてネガティブに捉えられるものではない。また自営の介護支援専門員の中にも、単に組織になじめなかったために独立した、自覚や協調性に欠ける一匹狼が存在することも事実である。

しかし、介護保険制度開始からまもなく18年。その間、自営のケアマネジャーは制度を担う介護支援専門員として、れっきとした「開業」の歴史を刻んできた。いつまでも「目に見えない部分の仕事」であるケアマネジメントの報酬を低く据え置く政策側や医療系団体は、その歴史を意図的に過小評価しているとしか考えられない。

裏を返せば、制度開始当初から介護支援専門員が独立して仕事ができる介護報酬の保証さえあれば、プロフェッショナル意識の強い介護支援専門員の割合ははるかに高くなり、一部の不適格な連中を除き、バラツキの大きさを指摘されにくい状況が作られていた可能性もある。

経過はともあれ、「被用者」の意識から脱け出せない介護支援専門員が、いくら歴史の古い専門職と対等な立場を主張しても、空しく響くだけである。「プロフェッショナル」としての意識や自覚をどれだけ強く持つことができるかに、私たちの職能の将来がかかっていると言えよう。

2017年7月11日 (火)

「介護支援専門員」は生き残れるのか?

先に誤解なきよう注釈しておくが、本エントリーの趣旨は広義の「ケアマネジャー」が生き残れるのか? の話ではない。

あくまでも、制度上の介護支援専門員に限った話である。

いま、介護保険制度のみならず、社会保障の枠組みが大きく変えられようとしている。1998年に初めて「介護支援専門員」の資格が誕生したとき、その将来像は「明」であった。それから19年を経過した現在、介護支援専門員の将来像ははっきり言って「暗」である。

それでは、なぜ「暗転」したのだろうか?

無能な介護支援専門員や、社畜みたいな(自法人の囲い込みを事とする)介護支援専門員が相当数いるからなのだ、と酷評する人もいるが、それが根本原因だとは思えない。もちろん、技量や資質の至らない介護支援専門員が、政策側や医療系団体等の攻撃の標的になっている現実はあるが、なぜそうなったのかの説明にはならない。

最大の原因を挙げるとしたら、日本における「介護支援専門員」の資格は、もともと職能を持っていた「ケアマネジャー」が自ら運動を起こして(国家資格ではないが)公式の資格の地位を勝ち取ったのではなく、介護保険制度を導入する際の必要上、国が公定の資格として導入し、関連職種に奨励して取得させたこと、その必要数を満たすために介護支援専門員の粗製乱造が行われたことであろう。結果として、技量や資質のバラツキが大きくなってしまった。また、制度設計上、他サービスとの併設が当たり前になってしまい、居宅介護支援単独では普通に生活できる介護報酬が得られないことから、囲い込みの横行を招くことになった。

つまり、「制度上の資格」として定められ、規格が決められてしまったがために、それに由来する綻びが大きくなり、資格の評価を下げることになった経過である。一部の介護支援専門員の努力にもかかわらず、資格の地盤沈下に歯止めがかからない現象が起こっている。

そして、この経過を踏まえて考えると、制度が変えられれば資格の存在意義も規格も変わってくることになる。私も「介護支援専門員の資格はなくならない」とは思うが、それは「介護支援専門員はこれまで通り仕事ができる」ことと同一ではない。

それでは、今後どのような事態が予測されるのであろうか?

一言で表現すれば、行政主導のシステムにより、介護支援専門員の仕事は「がんじがらめ」にされるだろう。

これに加えて、介護支援専門員の仕事ができるのは、一定の条件を満たした人や事業所に限定されるかも知れない。

その兆しは、昨年度からカリキュラムが大幅に変更された法定研修の内容や、今年3月に公開された「適切なケアマネジメント手法の策定に向けた調査研究報告書」の中に、すでに現れている。すなわち、介護支援専門員には「エビデンス(根拠)」重視のケアマネジメントを教科書のような丁寧さで身に着けさせる方針である。これは「ナラティブ(語り)」重視の「本来の(あるべき姿の)ケアマネジメント」と相容れない面が大きい。後者は国際的な潮流でもあるのだから、日本のケアマネジメントはそこから取り残されかねない危惧も感じる。

この方針によって導かれるのは、きわめて「官僚的な」ケアマネジメントになろう。それはしばしば利用者の真のニーズに寄り添わない、退屈な(「あ~あ、どうせオレ/アタシの気持ちなんかわかってくれないよねぇ...」と利用者に思わせてしまう)ケアマネジメント。もっと踏み込んだ表現をすれば、評価を偏重することで利用者の尊厳を軽視するケアマネジメントだと言うことができるかも知れない。

Ikinokori

このような価値観の押し付けに対して、強く抗してこそ、(より広い意味での)ケアマネジャーの専門性の意義があるのだ。

もちろん、国レベルの政策に対しては、国レベルで物申していかなければならない。これまで防戦一方で存在感の薄かった日本介護支援専門員協会も、自分たちの職能を守るためには、この2018年介護報酬改定から2021年改定までの間が、まさに正念場であろう。大事なのは、もっと現場で蓄積した「ナラティブ」の技術を言語化して、それを武器に「攻め」に転じるべきなのだ。ケアマネジャーの職能は上へ上へと積み上げる職能ではなく、広く社会を俯瞰して横断的に結び付けていく職能であることを、政策側や医療系団体等に示していくことが求められる。日本協会が本腰を上げてこれに取り組むのであれば、(これまで消極的だったが)私たちもこれに協力する用意はできている。

そして、現場の私たちの動き方だ。今後、制度上の介護支援専門員が生き残るためには、「押し」が必要になる。行政の出方に右顧左眄せず、あくまでも利用者にとって最善の支援を優先し、それができる介護支援専門員や事業所であるとの存在意義を、行政や地域に大きく示していくことが大切である。

また、AIに任せられる部分は任せてしまえば良い。私は個人的に、ケアマネジメントの全面ICT化には賛成だ。本来の仕事をしている介護支援専門員にとってみれば、「人」にしかできない仕事の部分が残るはずなのだから、その部分の仕事を今後も堂々とこなしていけば良い。逆に全面ICT化を本気で心配している介護支援専門員がいたら、その人はAIにできる仕事しかしてこなかったのではないだろうか。

最後に、私たちが忘れてはならないのは、職業倫理や行動規範を守ることである。ここが職能の要であることを認識しつつ、常に人を活かす仕事をしていくことが、介護支援専門員に課せられた使命であろう。

2017年4月30日 (日)

当家の介護状況・続報

先に、1月下旬から自分の母親(90)が要介護状態になったことを述べたが、その後の経過を報告していなかった。

結論から言えば、いま何とか仕事と介護との両立ができている状況である。

3月8日に至って、「要介護3」の結果が出た。これは織り込み済みであった...と言うより、一次判定の項目をシミュレーションソフトに入れてみたら「要介護4」だったが、認定調査項目のうち、○を付けるべき番号が重いほうか軽いほうかどちらとも言えないボーダーラインの部分で、来宅した調査員が重いほうに付けて特記事項に付記した項目がいくつか存在したので、おそらく下方修正されると踏んでいたのだ。

したがって、実際に利用していた介護サービスは、要介護3の限度額までは達せずに、少し内輪で収まる分量だったのである。

加えて、母がADL(=日常生活動作)の回復途上であるため、不要なサービスは削減する方向で調整を進めた。本人が独力でポータブルトイレを使用できるようになり、一人で家に居られる時間が長くなったので、私が週五日間フルに働いても、おおむね母の介護が可能な体制を整えることができるようになった。

いま、母が利用している介護サービスのメニューは、以下の通りである。

訪問看護; W医療法人。母の主治医がよく利用しており、浜松市で長く療養型病床群や老人保健施設を経営し、定評がある。地理的な制約もあり、看護師さんは比較的年輩の人が多いが、母にとっては若い看護師さんよりも合っているようだ。1月末の時点では摂食不良を受け、悪化していた複合的疾患の看護が主であったため、毎週一回依頼していたが、いまは疾患のほうが軽快し、測定・観察とリハビリ指導が主になり、ショートステイとの絡みもあるので、月2~3回、および緊急時利用となっている。

福祉用具貸与・購入; Y株式会社。静岡市に本拠があり、全国展開している大手で、365日稼働しているのが最大の利点。1月末時点では看取り騒動のさ中だったため、当座の自立支援ベッドをレンタルした上で、ポータブルトイレを購入。危機を脱した時点で、保険適用の特殊寝台と褥瘡予防マットに切り替え、移動の便宜のため車いすをレンタルした。本人の回復に伴い、褥瘡予防マットをやめてベッドの付属品マットレスに切り替えた。

ホームヘルプ; A株式会社。浜松市に本拠があり、昔は「看護婦・家政婦紹介所」であった。市とその周辺地域に展開するローカルな企業であるが、社長は国の審議会等に参加したこともあり、意欲的な取り組みで知られている。同社の本拠地が自宅から遠くないので、人員の確保を信頼してケアを依頼。母のADLが低下していたときには、私が不在の日に午前、昼過ぎ、夕刻と3回入ってもらっていた。母の状態安定に伴い、昼過ぎの時間を少し早めてもらい、午前の部を終了、いまは一日2回が原則である。昼過ぎには昼食の準備と摂食・移動の見守り、口腔ケア、夕刻には水分補給と清拭や排泄の後始末等をしてもらっている。

ショートステイ; S社会福祉法人。浜松市の老舗施設で、私が33年前の学生時代、泊まりを兼ねて丸2日間実習させてもらった施設である(いまは区画整理による建て替えで、当時の建物は残っていない)。母が利用させてもらうことになったのも、何かのご縁であろう。母も最初は利用に抵抗があったようだが、次第に慣れて満足度も高いので、5日間×月2回を原則として、所用があるときや休息したいときに依頼している。

このような組み合わせで、介護サービスの力を借りながら、母にはなるべく家で過ごさせてやろうと思っている。本人がそう希望している以上、自分自身が可能な限り、それに沿ってやるのが最善だと考えている。

そして、これらの提供体制が整ったことにより、私の居宅介護支援業務も本来の形に復しており、新規ケアマネジメントの受任も再開している。また、ご要望があれば研修や企画の講師として県内外へ出講することも可能になっているので、ご検討されたい。こんどは従前からのいくつかのテーマに加えて、「ケアマネジャーやサービス提供者が見落としがちな介護者の心理」のテーマでも講話ができるので(笑)。

※ 母の親戚や友人の方がこのエントリーをご覧になっても、私に無断で母を訪問することは絶対にしないでください。自宅には「有限会社ジョアン」の書庫等があるため、ホームセキュリティを操作させてあります。したがって、私の不在中、不用意に敷地内に入った方は、映像に撮られたり通報されたりする可能性があります。また、母自身も気疲れする性分なので、会いたい方を選別しています。なにとぞご理解ください。

2017年4月20日 (木)

自治体附属機関等の委員会に出席して(4)

公的な会議に出席しての感想。

これが最終回である。そして、最も重要な課題について述べてみる。

浜松市にも静岡県にも共通して言えることだが、「当事者」である委員が出られる機会が乏しいことが、これらの会議における最大の問題なのだ。

すべての会議がそうだというわけではない。たとえば私が過去委員を拝命した、浜松市介護保険運営協議会では、公募とは言え一般市民(うち一人は介護者である当事者)が委員に連なっていたし、静岡県福祉用具・住宅改修広域支援事業推進委員会では、静岡市の介護者団体代表者の人が列席していた。

しかし、このような会議のほうが少数であり、多くは当事者不在の会議になってしまっている。これまでも触れた浜松市医療及び介護の連携連絡会では、本委員会のほかに部会別の小委員会があり、それぞれに職能団体や業界団体から代表者が列席しているのに、どの会議を取っても、当事者側委員が含まれていなかったのだ。

これでは、「当事者主権」の理想には程遠い。政策について議論する会議であれば、受益者となる当事者側の人物が意見を述べる機会を得られて当然であろう。いまだに提供側の人物だけで委員会を構成するという、旧態依然たる体制が変わっていないのであれば、これから先が思いやられる。

ただし、当事者側の委員が的確に意見を述べられているかと問われると、公平に見て、決してそうではないのが現実である。

たとえば、静岡県認知症施策推進会議では、確かに介護者の会の代表者が出ていたが、その人物は自ら、とある種別の事業所を経営しており、意見や要望は主としてその事業に関連する内容に偏っていたため、一般の認知症利用者や介護者の意向を代弁しているとは言い難かった。

また、上述の浜松市介護保険運営協議会に出席していた公募委員も、自分の親の介護に関連した話題を展開するにとどまり、そこから外へ踏み出した普遍的な意見の開陳には至らなかったと記憶している。

私自身、現在は母の介護者でもある。もし自分が介護者側の立場で公的な会議に出席する機会があれば、当然であるが自分の母親に関連するものにとどまらず、多くの介護者に共通する課題について整理した上で、会議の席においてなるべく簡潔に発言するように心がける。私自身がケアマネジャーの立場で、これまで多くの利用者や介護者の現状を知悉しているから、それが可能である。

その場合に大切なのは、特に、多数でありながら声を揚げる機会に乏しい「サイレント‐マジョリティ」のニーズが奈辺にあるかを把握し、そこに焦点を当てて代弁することが大切であると考えている。これは他方で、少数であるにもかかわらず声高に主張を繰り広げる人たちの力に、行政施策が振り回されない効果をも、併せ持っている。

しかし、当事者である利用者・介護者の代表が、公的な会議でこのような代弁ができるためには、それなりの経験知や能力が必要になる。

当事者委員の選考方法も課題である。浜松市のように介護サービス利用者・介護者の当事者団体そのものが脆弱な地域では、団体から代表者を出してもらうよりも、公募のほうが望ましいのであるが、その公募に際して「サイレント‐マジョリティ」の意向を体することができる人物を選考しないと、結局はサービス提供側である職能団体や業界団体の委員のほうが、利用者や介護者の側に立った発言をすることにもなりかねない。そうなると当事者委員の必要性自体が問われることになる。

拙著『これでいいのか? 日本の介護』の第6章や第12章で、市民の意識向上を促したのは、先進国であれば当たり前になっている「当事者主権」を実現させるためにも、私たちが介護の未来を、自分自身のこととして捉えることが欠かせないと考えたからだ。そして、行政施策の立案や実施の過程において、受益者としての発言権を強めていくことが望まれる。

これは介護に限らず、社会生活のあらゆる分野に共通するものだと言えよう。

2017年4月 8日 (土)

自治体附属機関等の委員会に出席して(3)

公的な会議に出席しての感想。

三回目は、都市計画のありかたの話である。

これは、静岡県政にも当てはまらないわけではないが、おもに政令市たる浜松市の当局に投げ掛けたい(特定の管理職等を意識した記述ではないので、誤解なきようにお読みいただきたい)。

まず、当然の話であるが、介護分野に関する施策はそれだけで独立しているわけではない。保健・医療・福祉の関連施策とはもちろんであるが、たとえば経済・産業とか、教育とか、交通とか、内容次第では文化・芸術に関する施策とも連動して展開されるものである。

したがって、都市計画全般の中で、いま委員会で審議している政策がどのような位置にあるのか、他の関連施策とどう連動し合うのか、行政担当者は自らが知っているだけではなく、各委員にそれを知らしめる必要がある。特に専門職団体を代表する委員は、特定分野に関する深い専門性を持っていても、その外側については良く知らない人も少なくないので、なおさらである。

しかし、浜松市の介護関係の委員会は、実に縦割りである印象が強い。これまで出席した複数の会議で、市政の全体像の中における当該部門の位置付けと、他分野の施策との関連性とが、広角的に示された記憶は皆無に等しい。

行政の部門責任者が、委員会に対してそれを示す機会を逸しても、総合的な都市計画はしっかり進めているのであれば、文句を付ける筋合いはないのだが、どうもそういうわけでもないようだ。

過去の話であるが、市当局が実際、他県から都市計画の専門家を招聘して、市の外郭団体のトップに座ってもらったことがあった。ところが、せっかくこの人が実力を発揮しようにも、市内のさまざまな既成勢力のバランス‐オヴ‐パワーに妨げられてしまったため、市が抱える課題に対して根本的にメスを入れることができないまま、消化不良で浜松を去って行った(本人に近い信頼筋からの伝聞)。これでは宝の持ち腐れとしか言いようがない。

その後も、忌憚なく言えば、都市計画のほころびが随所に見られる。

一例を掲げよう。

東区の中田町・市野町・天王町・原島町の辺りは、郊外型の大型ショッピングセンターが林立する、巨大消費地域である。この地区では時間帯によって、信号のある交差点から100メートルそこそこしかない次の交差点に達するまでに、長ければ10分も要することがある。

天竜区の春野町や龍山町の幹線道路を10分も走れば、100メートルどころか、7~8キロメートルは移動できる計算だ。

すなわち、中田など四町の周辺にある福祉サービスや医療機関をオブジェクトにする場合、通所・通院にしても訪問系サービスにしても、同じ距離を車で走行するのに、春野や龍山の数十倍の時間を要することを想定しないと、的確な見積もりができない。

また、当然であるが、これは福祉・介護サービスの人手不足にも深刻な影響をもたらす。この地区を通り抜けるのに費やす時間を計算に入れると、職員の通勤圏の地図が大きく変質するのだ。たとえ自分が就職・転職したい事業所が距離的に近くても、通勤に際して無駄な時間が著しくかかるのであれば、躊躇してしまうかも知れない。

この地区の交通量が介護関連サービスに及ぼしているマイナスの影響をどう緩和し、解決に導くのか。これは当然のことながら保健・医療・福祉分野だけの課題ではない。市当局は交通政策や商業政策を含めた、都市計画総体の中で適時に検討を重ね、より効果的な対策を速やかに打ち出していかなければならないはずだ。

そのような効果的な対策が、少なくとも私が出席する介護関係の会議では過去示されたことがなく、また、示されたとの話を聞いたことがない。この東区の交通問題はあくまでも一例に過ぎないのだが、他の分野の課題についても同様、介護関係の会議でめったに提示されない状況であることを、出席した当該委員から聴き取っている。

市当局のしかるべき地位にある人たちが、このような課題への対処をなおざりにして、自分の守備範囲の施策だけの遂行に終始しているのであれば、統合された市政の実現には程遠い。もちろん、各部門を一つの市政として統合する最終的な責任は市長に帰せられるであろうが、市長一人ですべての仕事ができるわけではない。各部門の責任者が市長を補佐し、議会で民主的に出された意見を反映させながら、横断的な施策の実現を目指して連携しなければならないのだが、これまでの経過から見る限り、浜松市の行政幹部職員には、その責任に対する認識が薄い人が多いようだ。

やるべきことをやらなくても、テキトーな時期が来れば栄転したり他の部署へ異動したりする。そして、確かに自分の担当部署の中ではそれなりの実績を残したとしても、統合された市政に関しては「何もしなかった」という無能無策の実績だけ残すのならば、市民不在の行政の推進者であったことを、自ら証明するようなものであろう。意識の高い公務員であれば、ご当人たちにとっても遺憾千万な話だと思うのだが、どうだろうか?

浜松市の将来のために、私はこの現状を憂えるのである。

2017年4月 5日 (水)

自治体附属機関等の委員会に出席して(2)

公的な会議に出席しての感想。

二回目は、地域の距離感覚の話である。

合併後の浜松市は、日本全国の基礎自治体で二番目(一位は岐阜県高山市)に、政令市に限れば一番広い。その面積は、日本の都道府県で最も狭い香川県(1,876㎢)に近い広さ(1,558㎢)であり、香川県を少しスリムにして向きを変えると浜松市の形になるようなイメージである(下の画像は浜松市公式HP所掲)。

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さて、市の本庁では、その距離感をどの程度理解しているのだろうか? いくつかの会議に出てみた限りでは、はなはだ心もとない。

たとえば、在宅医療連携支援センターが中区に開設される、あるいは、医療と介護の連携に関する企画が市の福祉交流センターで開催される。その場所へ天竜区の水窪や佐久間から出向くとなると、道路の混み具合にもよるが、二時間は見ておいたほうが良い。先に掲げた香川県の例で言えば、西端の観音寺市から県都の高松市中心部へ行くぐらいの感覚だろうか。

一つの市の中でも、移動するのにこれだけの距離があり、時間がかかる。会議・研修・イベントなど、すべて「中心部」で開催されるものに対して、「周縁部(語弊はあるが、一応この言葉を使う)」の関係者はどのような眼で眺めているのだろうか。そのあたりを的確に把握した上で、関係者は周縁部の住民からも身近に感じられる施策の展開に勤しまないと、効果的な企画が推進できない。

静岡県の会議にしても同じことだ。旧国名では「遠江」「駿河」「伊豆」の三か国が当県に相当する。しかし、県都の静岡市の中心市街地で午前10時に会議や研修がある場合、浜松の水窪や佐久間からは、車で行くとしても朝7時には出発しないと確実に到着できないであろう。交通費の支給は公共の交通機関が原則だと言われて、真面目に電車を使えば、朝6時ころの飯田線でいったん愛知県の豊橋まで出て、そこから新幹線で向かわないと間に合わない。伊豆半島の南端から静岡市へ行く場合も、似たり寄ったりではないかと推察する。

だからこそ、より身近な単位として県内8つの「圏域」なるものがあり、その圏域の中で何をしていくべきなのか、時間をかけて議論を熟成させることが必要になる。ところがこの「圏域」単位の会議には多くの団体の代表者が顔を合わせるので、限られた時間の中では、往々にしてそれぞれ形式的に意見を開陳するだけの場になってしまい、実質的な施策に関する討議がほとんどなされないまま、最終的には県当局任せになってしまう場合が多い。

そして、現実にどの部分にいくらお金が使われるかは、会議の中で出た要望などとはあまり関係なく、県当局と関連する団体や勢力の駆け引きで決められていくことが多いのだ。せいぜい会議で出た話の中から、施策の具体的な中身に多少反映されるポイントがある程度である。地方の現場でがんばっている人たちから見れば、「結局、よくわからないうちに県の中央で決められてしまうんでしょ?」ということになる。周縁部の市民団体や専門職団体の代表格の人たちだけは、そこに多少参画しているが、その他大勢にとっては遠い向こうの話であるかのような状況になっている。

それと同様な感覚で、県都で何か県民啓発のためのイベントが開催されても、周縁部に住むほとんどの人たちにとって、わざわざ出かけようとする気には全くならないことが多いのだ。

これではいけない。浜松市にしても静岡県にしても、境域の隅々まで浜松市であり、静岡県である。行政に携わる人たちが周縁部の距離感を常に意識して仕事をし、業界団体や職能団体も、すべての境域を代表している意識を持って意見を発出しないと、市勢、県勢全体に悪影響が広がってしまう恐れがある。

浜松市介護支援専門員連絡協議会では、今回の役員改選において、天竜区の北部、長野県と境界を接する地帯を管轄している地域包括支援センターの管理者を、副会長の一人に選出した。大合併以降、諸事情で実現しなかった最北端からの三役選出である。これを機会に、周縁部で働くケアマネジャーや介護業界職員の実態をより重点的に把握することができ、困難にさらされている地域の課題解決の一助にしていくことができれば、それに越したことはない。

いかに交通が発達し、ICTによる情報網が発達しても、縮められない物理的な距離感覚について、私たちは決して軽視してはならないであろう。

2017年3月30日 (木)

自治体附属機関等の委員会に出席して(1)

この3月末で、浜松市介護支援専門員連絡協議会の会長職を退任することとなった。

はじめは、状況がよく呑み込めないまま、1999年に市当局から「浜松市介護支援専門員代表者委員会」の委員として招集され、翌2000年に連絡協議会が発足したときに副会長、2009年から会長と、役員を通算18年間の長きにわたって務めたことになる。折しもこの1月末から母の介護で多忙になった直後であり、降板にはちょうど良い時期であったと思う。

また、6月には(特活)静岡県介護支援専門員協会の役員改選が予定されており、今期を限りに同会の副会長職を退任する。浜松市の役を兼ねながら、こちらも8年間務めることができた。

両職とも、在任中に数多くの方々からご協力、ご支援をいただいた。退任にあたり、心からお礼を申し上げたい。

さて、これらの役職にあることによる「充て職」ではあるが、浜松市や静岡県の介護支援専門員を代表して、いくつかの自治体附属機関等の委員会に列席することができた。市や県の直営であるもの、業界団体や職能団体等に委託されているものの違いはあるが、いずれも公的な会議との位置付けである。

それらの会議に出席しての感想を、4回に分けて述べてみたいと思う。

まず一回目は、お金の話である。

市や県の委員会は、行政施策やそれに基づく事業を適正に遂行するために、有識者や業界関係者が事業の具体的な内容について協議し、妥当性を判断して意見を述べるものだ。したがって、本来ならば、各々の事業にはどの財源からいくらの予算が使われるのか、各委員が理解した上で、協議に入らなければならない。

ところが、このお金の流れが意外と見えてこない。

事業に関する予算や決算の類は、当局から一応示されるものの、それが厚生労働省の示す構図のどの部分に相当し、どれだけの規模の会計になっているのか、書類を見ただけではすぐ理解できない。身近な自治体に事業の実施主体を落としてからの現実はどうなのか、読み取るのが難しい。

たとえば、市の医療及び介護連携連絡会であれば、地域支援事業の予算があり、その中の包括的支援事業の予算があって、そこから医療・介護連携にどの程度の金額が割かれるのか、との提示があったところで、はじめて、どのような規模の事業が可能なのか、もし必要なお金がそれでは足りないのであれば、他の一般財源等から別途上乗せしてもらわなければならないのか、等の議論が可能になる。

しかし、実際にはその流れが示されていない。

せっかくこの種の委員会に各職能団体や業界団体の代表者が出席しているのに、肝心な数字が見えない状況では、踏み込んだ議論がなかなかできないのだ。

県レベルの委員会では、ほとんどの会議で予算や決算が示されるが、全体のパイの大きさと使える額との関係はわかりにくく、医師会などの委員から突っ込んだ指摘を受けて、担当課長が何とか答弁したところで、おぼろげながら流れが見えてくるのが正直なところである。これは決して望ましい状況とは言えない。事業の体裁を整える員数揃えの委員会にならないためにも、各委員が理解できるように、お金の流れを明瞭に示すことは大切である。

これは、財源に関する関係者の意識の問題もあるだろう。行政に限らず、たとえば県介護支援専門員協会の理事会でも、自団体の財政について踏み込んだ議論をする機会に乏しく、事務局任せになりがちである。保健・医療・福祉の関係団体側は、もっとお金の流れについて関心を持つべきであろう。

介護に携わる私たち専門職は、市民・県民や自分たち自身のためにも、財政をよく理解し、必要な経費は積極的に働きかけて公的な財源から獲得していくことが大切だ。そして、それを公益に資するために活用していく姿勢が求められるのである。

2017年3月12日 (日)

民間介護保険におけるケアマネジャー

拙著『これでいいのか? 日本の介護』第二章(P.32)で、民間保険会社の「マネー‐マネジャー」が、サービス利用を最小限に抑制するであろうことを述べた。

しかし、民間保険会社の登場を待たずして、すでに介護保険制度の枠内では、日本全国に「マネー‐マネジャー」が存在する。すなわち、公的介護保険サービス→現物給付を最小限に抑制しようとする行政担当者である。

もちろん、すべてがそうであると言うつもりはないが、行政用語「給付適正化」が事実上、もっぱら「給付抑制」であって、必要な人に対する「給付の加上(上乗せ・横出し等)」を含まない概念である以上、給付適正化に携わる行政職員の多くは、程度の差こそあれ「マネー‐マネジャー」の役割を果たしていると表現して差し支えない。

したがって、これらの行政職員、たとえば介護保険担当課とか、基幹型地域包括支援センターとかの職員は、ある意味で、今後ケアマネジャーが民間介護保険分野に進出するに当たっての「先駆け」をしているとも言うことができる。

ここで、キーワードになるのは「公益性」であろう。

20170312koueki_2

この図は、私がよく講義で使用する図だ(拙著『介護職の文章作成術』P.164にも掲載してある)。縦軸が利用者の利益、横軸が公益である。

左下の領域は、利用者のニーズと給付とのミスマッチから、「自立度の低下」を招く状況。これは利用者にとっても課題解決から遠ざかるだけ害悪であり、意味のないサービスを続けることによって給付母体にも損失を与える。「囲い込みケアマネ」に代表される、最も望ましくない類型だ。

左上の領域は、利用者の要望を偏重したために、「モラルハザード(一方の当事者が意図的に情報の歪曲したり権利を乱用したりすることにより、適切な給付関係が崩れること。一般に「保険詐欺」の意に用いられる)」に至っている状況。「言いなりケアマネ」に代表される、主体性に欠ける支援がこれに当たる。利用者や介護者の希望に対し、「ご無理ごもっとも」と受動的に対応しているうちに、給付母体に打撃を与える類型である。

右下の領域は、給付を抑制することにより、「インフォーマルな支援部分の拡大」に結び付くのだから、一見、良いことのように思われる。もちろん、『これでいいのか?...』にも書いた通り、それが住民の自助・互助意識を啓発する効果はあるだろう。

しかし、本来給付されるのが妥当なサービスまで抑制することにより、生活課題を達成できない利用者が、インフォーマルな資源による支援、それも十全とは言えないシステムに頼らざるを得ない状況が、現実に各地で起こりつつある。これは制度が担保すべき責任の放棄につながり、手放しで喜べるものではない。給付母体に対しては「優しい」一方、肝心な利用者の「最善」を図らないことにもつながるからである。

実は、民間介護保険を手掛けるケアマネジャーが最も陥りやすいであろうと思われるのは、この右下の領域なのだ。その場合、「公益」は「保険会社の営利」に置き換えられるかも知れない。しかし、営利法人であっても本来の望ましい姿が「公器」であることを考えれば、「公益」と重なる部分は少なくない。

ここで話を転換して、民間保険がどう運営されているのか(今後どう運営されるか)について触れてみよう。

民間介護保険の給付の大部分は現金給付であり、そこには大別して二種類の商品が存在する。公的介護保険の要介護度に連動した商品と、連動しない商品である。

公的介護保険と連動する商品は、「要介護〇以上」などの条件が付く。その条件を満たせば介護年金や介護一時金などの給付がなされるので、加入者にとって給付要件の白黒がわかりやすい。ただし、加入時の告知事項の項目により、あらかじめ有しているリスク次第では、入り口でハネられてしまう恐れがある。また、年金型の商品は要介護度が軽くなったら支払われなくなる場合が生じる。裏を返せば、このような制約が緩い商品ほど掛け金の金額は多くなるだろう。

公的介護保険と連動しない商品については、加入や給付申請において、「ホンネは保険給付をなるべく抑制したい」保険会社側の「誰が見ても」、「これまで一定以上のリスクを有しなかった」利用者に対して、その給付が必要である、必要になると納得されるための判断根拠(≒エビデンス)を示すことが大切だ。事業所のケアマネジャーが代理店の生命保険募集人を兼ねるようなことがあれば、一人ひとりの利用者の保険利用に関する判断根拠を明確化する役割を果たさなければならない。

しかし、加入者のケアプランを会社側に提出しても、そのケアプランに対する会社側のチェックは、当然ながら多くの行政機関よりもさらに厳しい。短期目標とサービス内容の一つ一つの項目に関して、担当者から電話やメールで指摘され、ケアマネジャーの判断根拠が脆弱だと「これでは加入(給付)できないよ」と高飛車に告げられることもあるに違いない。

かなり話が逸れてしまったが、これから民間介護保険に加入したい人に対して、ケアマネジャーはこのような商品に対する説明責任を果たし、自らの職能にのっとって的確な仕事をする必要がある。でないと加入者、あるいは加入を希望する利用者から背信行為と見なされる可能性があるからだ。たとえば「うちの居宅でケアプランを作成させていただければ、A社の介護保険をオプションで提供できますよ」と説明して居宅の契約をしたのに、いざその利用者がA社の保険に申し込んだとき、告知事項で門前払いにされてしまったら、ケアマネジャーは「ウソをついた」ことにされかねない。

さて、図に話を戻すと・・・、

右上の領域は、制度を有効利用して、利用者の「自立の促進」に結び付ける支援である。民間保険であれば、「制度」を「契約内容」に置き換えることができる。加入者は保険給付によって必要なサービスを買うことができ、保険会社は適正な仕事をして顧客を確保、増加させて営業利益を上げる。すなわち、加入者と給付母体とが相互にWin-Winの関係になることが理想なのだ。

そのためには、ケアマネジャーが安易に右下の領域にズレ込み、「マネー‐マネジャー」となってしまわないことが肝要である。本来の資格が「介護支援専門員」である以上、倫理綱領に照らして、まずは利用者=加入者の代弁者として、利用者側にとっての最善の仕事をすることが求められる。保険会社の代弁者ではない。実際には保険会社側から有形無形の圧力を受けるであろうから、簡単に割り切れない面があるかも知れないが、あくまでも専門性を帯びた職能のもとに振る舞うのが、ケアマネジャーのあるべき姿であろう。

この基本は、ひるがえって公的介護保険に当てはめることもできる。行政職員や地域包括職員が、「行政用語としての給付適正化」(≒給付抑制)ではなく、「真の給付適正化」(≒必要なサービスの的確な担保)を促進すれば、図の右上の領域の支援を実現することができ、市民と自治体とがWin-Winの関係を築くことができるのだ。

すなわち、民間介護保険でケアマネジャーがどのような仕事をするのか、できるのかによって、公的介護保険の動向にも大きな影響を与える可能性を秘めているのであり、「混合介護」「自立支援介護」のゆくえとも絡めて、今後の業界の動向を注視しなければならないであろう。

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