介護

2017年11月22日 (水)

得難い体験

原因は自分の失敗であっても、損失を補って余りある成果を得られることがある。今回のエントリーはそんな話だ。

17日に、豊川市介護保険関係事業者連絡協議会会長・平田節雄さんからのご依頼をいただき、同団体の全体研修会において、『口のきき方で介護を変える』に関する演題、「人と人との会話」についてお話をさせていただいた。

平田さんは浜松でお仕事をされていたときからの旧知の方で、昨年のジョアン開業15周年のつどいには、ご多用にもかかわらず駆け付けてくださっている。今回は協議会の役員さんたちと検討される中、介護の現場で使われる会話の重要性が主題になり、著作もある私にオファーくださったとのことである。

この演題では、これまでにも何度か出講しているが、時節の変化に合わせて部分的に内容を変更している。とは言え、根幹の部分が揺らぐものではない。

本ブログの読者であればすでにご存知の通り、私が「話し言葉」だけを独立させて論じることはない。介護に従事する人たちの職業人としての基盤がしっかりしていなければ、仕事で会話術を活用できないと考えているから、心構えや姿勢の話が前面に出る。

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講演の途中で三回ほど、参加者のみなさんに、近くの席の方とディスカッションしていただく機会を設けた。研修は講師が一方的に話すのではなく、それぞれの体験から分かち合うことも大切だと思っているので、演習に代わるものとして短時間のディスカッションをはさんだ次第だ。

参加者の中には、現実の会話のしかたよりも、理想・理念ばかり話していると思われた方があったかも知れないが、私の側は、実践できない理想・理念を話しているつもりは毛頭ない。多くの参加者にとって、たとえ一部分、一節でもお役に立つ内容があれば、活用していただきたいと願っている。

さて、実はこの会場とつながっている公共駐車場に車を停めようとしてバックした際に、不覚にも死角に入った鉄柱の位置が目に入らず、衝突して物損事故を起こし、後部のガラスが大破してしまった。

駐車場管理会社に謝罪し、担当者の方に立ち会っていただき現場を検分した。その際、担当者の方から、このまま浜松まで帰ると、ガラスの破片で後続車に損害を与える恐れがあるから、レッカー車を依頼したほうが良いとの助言をいただき、損保会社に事情を説明して、レッカー車を派遣してもらうことになった。

しばらくして株式会社EXCELなる業者のレッカー車が来て、担当の山本さんという40代半ばの方が、私の車を積載してくださった。原則として運ぶのは車だけとのことだったが、いつもの整備屋で代車を借りないと自分が困ると保険会社に要求して了解を得たことを盾に、無理にお願いして助手席に同乗させていただいた(...ので、同乗に至ったのは山本さん側の責任ではないことを付言しておく)。

ま、経過はともあれ、現場から整備屋までの約一時間半の行程で、全く異なるクルマ業界の山本さんと、ディスカッションする機会を得た。

そのとき、山本さんが語ってくださった内容が、まさに私が先刻、介護事業者のみなさんに対してしゃべった内容と、基本部分を共有していたのだ。

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具体的には「顧客本位の応接、気配り」「説明責任」「コミュニケーションの中での気付き(コーチング)」「職場仲間の尊重」「仕事ができることへの感謝」などといった、当日介護業界のみなさんに対してしゃべったことを、そのままクルマ業界に置き換えればこうなるよね、と言わんばかりの話を、いろいろお聞きすることができた。

山本さんがご自身のプライベートなことも交えて話してくださったので、細かい内容は割愛するが、氏が終始、敬語で話され、タメ口などきかなかったことは明記しておく。

「人」ではなくクルマという「モノ」を直接のサービス対象にする業界の現場最前線でも、意識の高い中堅社員なら当たり前のように、これらの項目を実践されていることには、大きな刺激を受けたのが正直なところだ。

クルマ業界でもこういう方がいるのだから、ましてや、「人」に直接向き合う介護業界で、これらができていない中堅職員(たとえば主任介護支援専門員)は、恥を知るべきである。

もちろん、理想通りにはいかないのが世の常で、山本さんもご自分の側では意識して取り組んだつもりでも、顧客や後輩職員から受け止めてもらえなかったご経験も含め、正直な実感を話されていた。業界は違えど、人間関係の円滑化や人材育成に難しさが伴うことは、共通の悩みであろう。

また、クルマ業界では、大手はともかく、中小企業では労基法遵守は不可能に近いようである。多くの事業者では、厳密な法令遵守ができるところまで人員を増やせば、社員の生活が苦しくなるほど人件費を切り詰めないと、経営していけない状況だとのことだ。私たち介護業界でもクルマを活用しているが、知らずしてこのような多くの企業に「無理」を強いている現実を忘れてはならない。

アクシデントから生まれたディスカッションであり、損保の保険料が次年度はおそらく数万円上がることが予測されるので、財政的には確かにダメージではあった。しかし、自らの家庭事情による制約から、他業種の人とまとまった時間を取って語る機会がほとんと無い現在の私にとって、この一時間半は、お金では買えない貴重な学びの時間であり、得難い体験であった。

山本さんには心から感謝して、今後のご活躍をお祈りしたい。

2017年11月 9日 (木)

プロフィットセンターの証しを立てよ!

来年の介護報酬改定をめぐって、財務省と厚生労働省とがしのぎを削っている。

現時点で判明しているのは、全体として小幅引き上げ、ただし一般企業と比較して「利益率が高い」とされてしまっているサービスについては、本体部分が明確な引き下げになり、介護職員処遇改善加算だけは引き上げられるであろう、との方向性である。

この事案については、すでに知名度の高い論者たちが続々と持論を展開しているので、例によって私の出る幕はない。

そこで、別の視点からこの問題を論じてみよう。

介護報酬を全面的に「引き下げよ!」と強く主張しているのは、財務省、経済界、健保である。すなわち、国の財政、国民の経済、国民皆保険体制を守る立場の人々だ。その背景には、介護業界が「コストセンター(社会的な費用を注ぎ込む場)」になっているとの先入観がある。

これに対抗するにはどうしたら良いのか?

言うまでもなく、介護業界が「プロフィットセンター(社会的な利益を産み出す場)」になっていることを、データで証明できれば最善である。

それでは、私たちの業界は、これまでにその種のデータを集積してきたのだろうか?

各団体とも、介護報酬が上がることにより、職員の待遇が良くなり、事業者の経営が安定し、利用者に良質なサービスを提供できることはしきりに主張している。それはあくまでも業界の利益であり、そこから利用する当事者の利益にはつながるが、多くの人々からは、国民全体の利益だとは受け取ってもらえない。

もし、介護報酬が上がることが国民の利益であると主張したいのであれば、「A事業所がこれだけのサービスを提供した」結果、どんな効果が発生したのかを提示する必要がある。「B利用者が使う医療費がこれだけ減り、購買力がこれだけ増えた」、あるいは、「C介護者が離職しなくて済んだので、これだけの給与をもらえた(当然、勤務先がそれ以上の利益を上げた)」といった形で、現実にどれだけの社会的な利益を産み出す効果を上げたのか、それをデータで示さないと、財務省や経済界や健保を説得できない。

たとえ国が費用を注ぎ込んでも、社会保険料が上がっても、それを上回る効果が期待できれば、介護報酬を引き上げる意味があるのだが、そのような調査が業界主導で行われた事実を、寡聞にして私は知らない。あるいは単に私が知らないだけで、実際にはどこかでそのような調査結果が示されているのかも知れない。

ただ、確実なのは、現在に至るまで、介護業界の側から財務省や経済界や健保に「突き付けられる」ほどの影響力を持つデータを集積できていないことだ。

もちろん、国の社会保障に関するお金の使い方は、この三者が中心になって決めるものではなく、外交・防衛・経済・産業・教育・地方開発・環境など、さまざまな分野と総合的に比較勘案して、政権与党が案を作り、野党とも審議しながら、国会で決めるものだ。しかし、それだからこそ、「この分野にはこれだけのお金が必要」だとの根拠を調査結果の数字などわかりやすい形で示せなければ、削りやすい部門の予算が削られ、政権与党が必要だと思われる部門に回されてしまう。

では、この調査がそんなに手間がかかるものかと言えば、決してそうではない。居宅の場合には介護支援専門員がいるのだから、一人の利用者に対して月平均でどれほどの介護保険サービスを提供したかは割り出せるし、利用者や介護者の協力を得れば、その家の経済効果を把握でき、社会的利益も推定で概算できるはずだ。施設入所者の場合は、一人の高齢者が自宅に戻った場合、介護者がどれほどの制約を受け、費用増や減収になるかを予測、積算すれば良い。

これによって厳密な数字を出せるかと言われれば、正直なところ、かなり大雑把な概算にとどまる嫌いはあるだろう。しかし、「介護サービスがプロフィットセンターである」ことを示す具体的な数字を明らかにできれば、概算であっても大きな説得力を持つことが期待される。

いま関係機関が次から次へと送ってくる(多くは)無駄な調査や、職能団体がひたすら低姿勢で肥大化させている(相当部分が)無駄な法定研修の時間や手間を削れば、この社会的利益に関する調査の時間や手間などは十分に確保できる。

厚生労働省が財務省などに対抗して、報酬引き下げを阻止してくれるのであれば、このような形での援護射撃も必要なのだ。

実際、かつて私たち独立型の介護支援専門員が、数十人規模とは言え全国レベルで組織を結成したとき、「生活が苦しいだけでは報酬値上げを要求する根拠にならない」として、まずは個々の業務の積算根拠を求め、そこから先へ進んで社会的利益を算出していく構えを取っていた。共同研究の呼びかけも細々と各方面へ行った。

しかし、残念ながら、全国の介護支援専門員を代表する団体は、このような私たちの動きに対して一本の矢も送ってくれなかった。それどころか、過去のある時期の全国指導者には、(たとえ団体と直接関係なく個人としての行動であったとしても、)私たちの動きをツブしにかかっているとしか思われない行動を取った人がいたことも、残念な事実だ。

私もいまは全国の職能団体の会員であり、過ぎたことを蒸し返すのが建設的でないことは百も承知だが、今後のためにも言及しておく。

とにかく、遅きに失したとは言え、この種の調査をどこかで行わないと、介護業界はコストセンターになっているとの「神話」がいつまでも幅を利かせ、それを信じている多くの国民は、財務省や経済界や健保が唱える、介護報酬を上げなくても良い、むしろ下げろ、との見解に左袒することになるだろう。

そうなれば、一部の論者が唱えている「介護大崩壊」が現実のものになる。これこそ、国家的な危機にほかならない。

どこかのメジャーな業界団体または職能団体が主唱して、大急ぎでもこの種の調査を全国レベルで大々的に実施するのならば、もちろん私自身も、数少ない利用者や介護者にお願いするばかりではなく、自分の力で及ぶ限りの個人や組織に呼びかけ、最大限の協力をするつもりである。

2017年10月31日 (火)

「知ったかぶり」は恥ずかしい

人前で話すとなると、私のようなマイナーな講師でも気を付けなければならないことがいくつか挙げられる。

中でも神経を遣うのは、「知ったかぶり」をしないように心がけることだ。

これは簡単なようで、結構難しい。

ふだん何気なく使用している言葉や言及している事象についても、あまり自信がないときには、なるべく時間を取って予習するようにしているが、完璧にはいかないのが常だ。とは言え、細かいことでも事前にチェックしておかないと、間違ったことを話してしまって、あとでその誤りを知ってから恥ずかしい思いをすることになる。そうならないように、私なりに留意してはいる。

研修でいろいろな講師の話を聞いていると、明らかに「知ったかぶり」で知識や理解の欠如を露呈させている話者が、ときどき見受けられる。

昨年末から今年の初めにかけて、法定の「主任介護支援専門員更新研修」を受講したのだが、8回のうち少なくとも6回は、登場した講師が1回以上「知ったかぶり」をやっていた。指摘してやろうかと思ったが、まぁ話者自身の自覚の問題やろな、とも思い、結局ツッコミは入れなかったのだが...

ところで、結果としては同じ「知ったかぶり」であっても、いくつかの類型がある。

・高い水準の国語力や調べる力を持っている話者が、不注意で言葉や事柄の意味に合わない解釈をしてしまい、気が付かずに過ごしてしまう(私もときどきあります(^^;)。

・特定の分野に該博な話者が、不用意に専門外の用語や事象などに言及して、思い込みから誤った解釈をしてしまう。

・普通の話者が、善意から受講者に有益な話題を紹介しようとして、関連する用語や事象に関して確認不十分なまま、誤った解釈をしてしまう。

そして、いちばん良くないのは...

・力量不足の話者が、自分を立派に見せようと背伸びをして、わかっていないことをわかっているように話してしまう。

残念であるが、この最後の類型は、上記の主任更新研修をはじめ、介護支援専門員法定研修の講師にも、ときどき見られるパターンである。上から目線の話者、場数を踏んでいない話者など、講師として壇上に立って報酬を得る資格があるのか、疑われる人たちだ。

もしこの人たちが、「テキトーなことを言っても、どうせ受講者にはわからないだろう」などと思っていたら、大問題であろう。そうでないと信じたいが、用語や事例に関して、かなりいい加減な解釈をしてしまい、話しっ放しにしてしまう講師もいるのが現実だ。

これらはまさに他山の石である。辞典や事典で調べる、自分が誤解していないか詳しい人に教わるなどの準備を怠らなければ、受講者が「それ違うだろ?」とシラける頻度も減っていく。

後進に指導する立場の者としては、恥ずかしい「知ったかぶり」をしてしまわないように、十分心したいものである。

2017年10月18日 (水)

輝いてください☆

浜松の、いや周辺の市町も加えて、静岡県西部地区の介護業界は、ある意味「大きな田舎」である。関東や関西、あるいはその他の地域で、当地より一歩も二歩も先んじたアクションが起こり、それが全国的に大きなうねりを作ろうとする形勢にあっても、なかなかそれらの動きについて行くことができない。

介護業界の括りにかかわらず、保健、医療、あるいは福祉の業界では、「やらまいか精神」で注目すべき活動をしている人たちが当地にも結構見受けられるのだが、なかなか「全国区」でのダイナミックなアクションに結び付いていると言い難いのは、寂しい限りである。

私も、かつてはブログや掲示板、あるいは同業のMLなどをきっかけに、全国各地を旅しながら業界の友人たちと交流させていただき、最近はFacebookの助けもあって、多くのすばらしい仲間とネットで結び付くことができたが、1月に母が要介護状態になってからこのかた、行動が制約され、なかなか自分から他県まで出かける機会を持てずにいた。

そこで、去る14日、他の用事も兼ねて東京へ一泊ツアーを敢行。数人の方にお声掛けしてディナーにお誘いしたのだが、ご用事で参加できなかった方もあり、新宿の「KICHIRI」で三人の方とテーブルを囲むことになった。

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相模原市在住の認知症介護指導者・認知症ケア専門士、阿部敦子さんは、「認知症ONLINE」のサイトで認知症介護小説『その人の世界』を執筆されている。家族側や支援者側から見た認知症の姿ではなく、徹底した利用者目線で一人ひとりに「何が起こっているのか?」を導き出そうとする短編小説の連作は、利用者本位の介護を究めようとするすばらしい試みだ。すでに29作まで紹介されている。

都内在住の管理栄養士、林裕子さんは、患者(利用者)本位の在宅医療で全国から注目されている、悠翔会在宅クリニック・在宅NSTチームに所属されている。他の医療職と協働して、「摂食」「栄養」「嚥下」などの側面から多くの人たちの在宅生活を支える、訪問栄養指導のスタッフのお一人である。一般にはまだまだ普及していない訪問管理栄養士としてのお仕事をされている。

奥平幹也さんは、以前のエントリー「人と会い、人と語り...(2)」にもご登場いただいた。その後、「ミライ塾」はNHKの番組でも取り上げられ、その取り組みが全国的に紹介されたこともあり、最近は各地を回るなどのご多忙な日々が続く。

実は阿部さんと林さんとは、FB上で私の「ダジャレ友達(正しくは「言葉遊びの友達」かな?)」でもあるのだが、お目にかかるのは今回が初めてであった。お会いしてお二人ともステキな女性であるとの認識を新たにしたことは、説明の要もないと思う(^^*

(なお、顔出しNGの方がおられたので、画像は料理のみである)

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阿部さんは、現在のところ本業の傍ら、短編小説をポランティアで執筆されている。奥平さんから、他の方のことはともかく、阿部さんの作品は対価を受けるだけの価値があると思うとのご意見があった。私も、せっかくの力作が悪用・盗用などされないように、著作権を守る手立てを講じるべきだと述べさせていただいた。阿部さんも今後の対応については考えるところがあったようだ。

個人的には、保健・医療・福祉に携わる方すべてに、ぜひ『その人の世界』を全編お読みいただきたいと思う。阿部さんにはさらに書き続けていただき、いずれこの小説が紙媒体で出版され、業界の教科書になることを期待したい。

奥平さんの「ミライ塾」塾生たちは、すでに三期目に入っている。この塾は介護の現場で働きながら奨学金を返済し、そのあとは一人ひとりに合った職業に就いて(もちろん、介護でも良いのだが)、社会に羽ばたいていくのが理想だ。しかし、しっかり足元固めをして独り立ちしようと研鑽を怠らない学生が多い一方で、中には若さゆえの気のゆるみや、社会人としての経験の浅い面が露呈してしまう学生もいる。現実には奥平さんがそれらの課題解決に向けてサポートしているとのお話があった。

学生のフォローアップは、学生の就労先法人→関連団体からの支援を受けているとは言え、奥平さんの過重負担が大きくなっているようだ。ミライ塾の取り組みが画期的なものであるだけに、長く続けられることを思えば、お一人に負担がかかる状況が軽減されることは大切である。学生の卒業までに社会人として磨き上げていくのがミライ塾の目指すところだ。今後はどこかの基金を活用するなどして、サポートしてくれる要員を確保できないものか。喫緊の課題になろう。

談話の中で、一般的に奨学金を返せない人が増えている事情は、就労してからの収入が伴わないなどシステム上の問題がないとは言えないが、本人の意識に係る要因が大きいとの議論もなされた。林さんもご自身の経験を踏まえ、借りたものは責任を持って計画的に返済すべきことを指摘された。私も同意見だ。

林さんからは、栄養士の給与が医療職の中ではいまだ低く抑えられている現状のお話があった。給与待遇面のみならず、一般的には管理栄養士が在宅訪問する場面は限られており、悠翔会さんのように在宅NSTを推進する医療機関は少数だ。栄養士さんたちが活躍することで、高齢者などの入院に至るリスクを減らし、医療、介護双方の社会保障費を抑制する効果もあるのだ。林さんも複数の業界誌などにお仕事での取り組みを投稿されているが、今後は市民啓発にも一層力を注ぐ必要があるかも知れない。

ちなみに、林さんはおもに電車を使って利用者さんを訪問されており、本当は自転車も併用したいらしい。私自身、ケアマネジャーとしての居宅訪問は徒歩やバス利用の割合が多いので、安易に車を使わないスタイルには共感できる。

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私から見れば一回り以上若い方々とのトークであったが、とても実りある時間であった。自分自身の生涯学習のためには、これからも年代に関係なく、価値のあるお仕事をしている方とは、親しく交流していきたいと考えている。

トークに付き合ってくださった方々(および、今回参加いただけなかった方々を含め)は、それぞれの分野で先駆的な方である。しかし、いまだ介護業界、保健・医療・福祉業界の中で、ふさわしい声価を得ていないというのが、私の正直な感想だ。ヒーローやヒロインを作ることが業界にとって良いという意味ではない。より多くの人たちに携わってほしい分野を開拓していく人、いわば牽引車のような人が、どの分野にも必要なのだ。その人たちがスポットライトを浴びることにより、協働する人たちが増え、私たちの業界、ひいては市民社会に大きく寄与することになるのだから。

阿部さん、林さん、奥平さん。もっともっと輝いてください☆ 及ばずながら、私もできる限り応援します!

2017年10月11日 (水)

研修で「話す側」になろう!

30代~40代前半の中堅どころに位置する介護業界仲間の動向をネットで眺めていると、「○○研修会」「△△学会」「□□講演会」といった場に出向いて、多くの知見を身に着けようと努めている人たちが多く見られる。日常業務が多忙な中で、時間や費用を確保して各種研修の場に出掛けているのには、たいへん敬服する。

しかし、このような研修に参加した記事を見ていて、残念になることもある。

それは、中堅どころで才能も力量も備えていると思われる人が、もっぱら「聴く側」「受講する側」に回っているのを、散見することだ。

もちろん、聴くこと、受講することの意義を過小評価しているのではない。ただ、講義・講演する側になれる、少なくともパネリストぐらいは務められる力のある人が、なかなかそのような役回りを担った話を聞かないと、どうしても気になってしまうのだ。

その原因は一人ひとり異なるので、それぞれがどんな状況で講師やパネリストにならないのかはわからない。「能ある鷹は爪を隠」して韜晦しているのか、遠慮深い性格でいつも出番を辞退しているのか、頭角を現しているのになかなか周囲が認めてくれないのか、勤務先などの制約によって表舞台に立つ機会を持てないのか。

私自身が宮仕えのとき、(決して有能だったわけではないのだが)鳴かず飛ばずだった理由は、この最後の項目に当てはまる。旧勤務先が常態的に職員の突出した行動を抑える傾向にあった。そのため、研修や企画の講師やパネリストとして声がかかるようになったのは、開業した40代になってからだ。

いまでこそ普通に講師業もこなしているが、40代初めにいくつかの団体からボツボツ呼んでもらえるようになった時期には、人前で話すだけでも心拍数が上がってしまい、なかなかまとまりの良い話をするのに難渋したことを記憶している。慣れるためにも、若いうちに講師やパネリストの場数を踏んだほうが良い。自分自身の経験からだが。

特に、主任介護支援専門員であれば、更新までの五年間に講義の一つや二つはこなすのが当たり前であるべきだ。所定の研修の企画・ファシリテーターとて参画するのならまだしも、年四回参加していれば主任更新が可能との要件は、もっぱら受動的な研修参加だけでも更新できるわけであるから、甘過ぎると言わざるを得ない。

ただし、地域によっては地域包括支援センターの受託法人が自法人の主任に講義枠を割り当てる「お手盛り」もあるようなので-そのような義務的な講義はあまり経験値にならないのだが-公的な研修の場で誰もが講義の機会を持てるわけではない。むしろ、(宮仕えか開業かを問わず)バックを持たない介護支援専門員が狭い地域の枠を超えて、所属都道府県内外の関係団体から講師として招いてもらえるレベルの力を持つことが望ましい。

介護福祉士などの現場介護職員、特にリーダーの立場にある人たちも、講師やパネリストとして登壇する機会を持つことが、自分自身の知見・研鑽・実践を言語化して披露する好機となるだろう。

中堅どころの業界仲間たちが、「話す側」「講義をする側」になる場面を増やすことにより、さらに活き活きと良い仕事をしてくれることを願っている。

2017年9月30日 (土)

踏みとどまる人たちにエールを!

静岡県は東海から関東にまたがる県域を持ち、風土も多種多様だ。私が住んでいる浜松市の中でさえ、南端から北端まで行くのには車で二時間以上を要し、地域差は大きい(「自治体附属機関等の委員会に出席して(2)」参照)。ましてや、県内でも西から東へ所用で出かけるとなると、現地での所要時間は2時間程度であっても、往復の時間を含めて丸一日を要することもある。

28日、県内で最も南東に位置する、賀茂地区介護支援専門員協会からの講演依頼をいただき、一日かけて下田市まで遠征してきた。

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賀茂地区は東伊豆町、河津町、下田市、南伊豆町、松崎町、西伊豆町の6市町からなる地区で(画像は昭文社の地図)、浜松からの交通手段は沼津市、伊豆の国市、伊豆市を経由して車で行くか、熱海市、伊東市を経由して電車(JR、伊豆急行)で行くかのいずれかとなる。車の長距離運転が苦手な私は後者を選択したのだが、前夜からの大雨で伊豆急行が午前中運休となってしまったため、同団体のスタッフの方に車で(他用を兼ねてとのことだったが)伊東まで迎えに来ていただくことになり、お手数をおかけした。

演題は「ケアマネジャーの役割と使命」。大層な主題であるが、地理的な制約を抱えた現場のケアマネジャーたちにとっては、これからの時代、仕事にどう向き合っていくのかはたいへん重い課題なのだ。都市部で地域資源に恵まれている私たちからは想像もできない困難にぶつかることも、決して少なくはないであろう。

これまで静岡県の四隅にあるケアマネジャー連絡組織(南西隅-湖西市、北西隅-浜松市天竜区、北東隅-御殿場・小山、南東隅-賀茂地区)に講演でお邪魔しているが、都市部から離れている共通項があるとは言え、地域課題はそれぞれに異なる。

今回、講話の中で強調したのは、「プロとして対価を得られるような仕事をしてください」ということである。

地域包括ケアシステムは、一つ間違えれば「安上がり行政」を招来しかねないシステムとなる。地方自治体も経済的に余裕があるところは少ないし、ましてや過疎地域であればなおさら財政課題は重くのしかかってくるであろう。

そして、そのような地域だからこそ、ケアマネジャーの出番があるものと考えたい。住民にとって有益なアイディアを提案し、地域独自のシステムの創成に参画するのは、課題が大きい地域ほど大切なことなのだ。優れたアイディアが採用されて軌道に乗れば、費用対効果の面からも奏功して、自治体の財政を助けることにもつながるからだ。

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参加者からの事前質問に「移動手段の確保」「認知症カフェの運営」等が挙げられたが、私たちが専門性を発揮できる場もそのような分野に存在すると思う。過疎地域におけるケアマネジャーの資質とは、やれ医療連携だ、ほれ給付適正化だといった代物ではなく、地元住民のニーズを的確に把握できる観察力、行政と連携しながら地域資源を整えていく実践力、人々が住み慣れた地域で長く生活できるように側面的支援を展開できる総合的専門性であると言えよう。

したがって、資質や専門性に裏打ちされた私たちの仕事は、当然のように評価を受けて、対価を得られるものでなければならない。裏を返せば、アマチュアにでもできるレベルの仕事しかできないのであれば、お金をもらう資格はないと言うことができる。

このような地域では「うち(自法人)さえ良ければ...」の思考はもはや論外だ。国が企図している業界再編成モデルに迎合せず、各種の事業者が共存できる体制を構築していくほうが、公益法人と営利法人、大規模法人と零細法人など、立場の違う組織がそれぞれの強みを生かして連携し合う、面白い業界共存モデルができるだろう。そのためには、私が日頃から福祉業界や医療業界の「ガラパゴス化」と揶揄している旧態依然たるパラダイムから、関係者たちが解放されることも大切だ。

このたびの出講では、賀茂地区でがんばって仕事を続けるケアマネジャーたちの、それぞれの地域における創意工夫を聴かせていただく機会にも恵まれ、私にとっても学びになる場であった。地域資源に乏しく課題の多い地域に踏みとどまって役割を果たしている人たちに、心からエールをお送りしたい。

2017年9月 4日 (月)

講師の品格

身の周りのことで何かと多用であるとは言え、ありがたいことに、ときどき県内外からお声掛けいただき、企画や研修の講師として出向くことがある。マイナーな講師であっても、業界でのつながりは大切にしたいので、極力お受けすることにしている。

そのとき大切にしているのは、その出講のテーマ、そして内容が自分自身の倫理観に照らして正しいのか? ということだ。

だいぶ前のことだが、信頼筋からこんな話を聞いたことがある。

ある自治体が介護支援専門員を対象とした研修会を開催したところ、その講師が「介護支援専門員不要論」を軸に、介護支援専門員の問題点を突っつくのに終始したというのだ。他のところで確認した情報も勘案すると、大枠はその通りだっただろうと推測する。

その講師が「介護支援専門員不要論」を唱えていたのは以前から知っていたが、実際にそれを介護支援専門員対象の講演の中でぶち上げたことには、たいへん不快感を覚えた。確かに私よりはるかに知名度の高い人ではあったが、実体は単なる独善的な人間だったのではないのかと感じる。

これは、前回のエントリー、「真に介護業界の将来を憂えている論者と、独善的な動機から介護業界を貶めているに過ぎない論者とを、自分の頭で見分けるためには、どこに着目すれば良いか?」の内容(本文のほうがタイトルより短くなってしまった...)にも関連する話だ。

たとえば、私は浜松で在住外国人支援の実績を持っているので、もしどこかの団体から、介護分野における外国人の活用について話してほしいと頼まれたら、日程調整さえ可能であれば喜んで出向きたいと思う。ただし、それはあくまでも永住者や定住者の介護業界就労支援であるとか、留学生の資格取得→就労支援であるとか、効果が薄いとは言えEPAに基づき専門職を目指す人たちの支援であるとか、すなわち正規の労働者としての在住外国人支援に係る分野の話である。

もし、研修生・技能実習生を受け入れたい事業者を対象とした話をしてほしいと頼まれたら、いかに高額な報酬を提示されても、私はお断りする。なぜなら、私自身はこの制度の運用がその趣旨に乖離し、安価な労働力獲得の隠れ蓑になってしまったために、長年にわたって数々の人権侵害を招いてきたと理解しているので、制度そのものの廃止を主張しているからだ。自分が不要だと考えることを業とする人たちの集団から講演料をもらうのは、恥ずべき行為である。それが、人間として当然持つべき倫理観ではないだろうか。

したがって、自分が否定的に捉えることを説いてお金をもらうとしたら、それは「聴講者にはこうなって(こうあって)ほしくない」との主張になる。

去る8月22日、ケアマネットしまだ(島田市の介護支援専門員連絡組織)からのご依頼により、「ケアマネジャーの接遇」をテーマに講義を行った。途中のグループワークでは、何人かに「自分がモノを買うときに、売る側から応接されて不快だった経験」を語ってもらい、自分たちが利用者に対して同じことをしてしまっていないか、互いに分かち合い、振り返ってもらった。

特に、講義の中で何度も強調したのは、利用者にタメ口をきかないことである。「もし、利用者にタメ口をききたいケアマネジャーさんがいたら、自分のところの理事長にも医師にも、これからは同じようにタメ口で話して、それでうまくいくかやってみたらどうですか?」。つまり、業界の悪習とも言うべき「顧客にはタメ口、上司には敬語」などという非常識は、もはや社会では通用しないことを伝えたのだ。

これは、私自身が「悪習の排除」を実践していなければ、何の説得力もない。自分が否定的に捉えるものには、自分自身が手を染めない。日頃からその覚悟が必要である。

裏を返せば、講師を打診する側の団体が、依頼する際に講師の日常の振る舞いにツッコミを入れてみると、ニセモノ(独善・偽善)のメッキがはがれることもあるので、面白いかも知れない。もっとも、依頼する団体側からすると、事前交渉の段階で相手にこまごま問い質すのは失礼だとの認識もあるので、特別なことでも起こらない限り、たいていは確認不十分のまま依頼してしまうのだが...

いずれにせよ、私自身はそのようなニセモノとは明瞭な一線を画したいと考えている。それが自分の矜持でもあり、自分が講師を受任する際の基本指針でもある。

「講師の品格」とは、このようなものであろう。

2017年8月31日 (木)

真に介護業界の将来を憂えている論者と、独善的な動機から介護業界を貶めているに過ぎない論者とを、自分の頭で見分けるためには、どこに着目すれば良いか?

着目点は、

論者が、「人間」に対して、リスペクト(敬意)を持っているのか?

この一点のみ。

2017年7月31日 (月)

専門性への被用者意識の影響

先日のエントリーに書き連ねた通り、介護支援専門員の行く末は大きな岐路を迎えている。

国の介護保険制度の中で「介護支援専門員」として生き残るのか、それを超えて「ケアマネジャー」として新たな道を求めていくのか、それぞれの選択があろう。

そのような状況下、いつも思うのは、ケアマネジメントの仕事をしている人たちは、「プロフェッショナル」と「被用者」との、どちらの意識が強いのだろう? ということである。

医師や弁護士の大部分は、もちろん前者であろう。研修医とか司法修習生とかの期間は「被用者」に相当する段階なのかも知れないが、それを過ぎれば「個」として独立した一人の専門職である。開業していない状態、たとえば病院の勤務医でも、特定の団体に所属する顧問弁護士であっても、独立した領域を持つ「プロフェッショナル」としての意識を強く持っている人が大部分であろう。

しかし、ケアマネジャーの多くは残念ながらそうではない。就労後に所属の勤務先では「チームで仕事をする」期間が長く、「ここに帰属してお給料をもらう」習慣が次第に根付いていく。それ自体は決して悪いことではないのだが、その環境に安住する状態が長く続くと、二つの大きな課題を抱えることが多い。介護従事者すべてに言えるが、もちろんケアマネジャーにも当てはまる。

小著『これでいいのか?日本の介護』(P.71)にも触れたが、その一つは「組織に物申す気持ちがなかなか起きない」こと、もう一つは「組織の傘のもとに行動してしまう」ことである。

前者は、囲い込みに加担する営業型の介護支援専門員や、現状黙認の後ろ向きな妥協型の介護支援専門員などに類型化される。後者は力量不足なのに組織の後ろ盾を頼みにした「虎の威を借る」介護支援専門員、異動で当分いまの部署に居るだけの「足掛け」介護支援専門員、あるいは常に所属組織至上主義で外部から「社畜」と見なされている介護支援専門員などに類型化されよう。

もちろん、被用者であっても「ケアマネジャー」としての「プロフェッショナル」意識を強く持って働いている介護支援専門員は少なくない。ただ、残念なことに、その割合は医療系や法曹系の職種に比べるとかなり少ない。この点が、歴史の古い専門職から指摘される部分となっている。

先の社会保障審議会・介護給付費分科会(7月19日)では、すでに報じられた通り、居宅介護支援に関する事案について議論された。その中で、相も変わらぬ「一人ケアマネ」に対する批判的な見解が、政策側や医療系団体等から浴びせられたようだ。

当然であるが、同じく「一人ケアマネ」と言っても、自営(厳密に言えば自ら設立した法人の役員兼職員)と被用者とでは大きく状況が異なるので、一括りにされるのはまことに心外千万なのである。

既述の通り、被用者の介護支援専門員でもプロフェッショナルとしての意識の高い人や、これまで情弱であっても機会さえ作ってあげれば積極的に資質や技術の向上に努める人もいるので、すべてネガティブに捉えられるものではない。また自営の介護支援専門員の中にも、単に組織になじめなかったために独立した、自覚や協調性に欠ける一匹狼が存在することも事実である。

しかし、介護保険制度開始からまもなく18年。その間、自営のケアマネジャーは制度を担う介護支援専門員として、れっきとした「開業」の歴史を刻んできた。いつまでも「目に見えない部分の仕事」であるケアマネジメントの報酬を低く据え置く政策側や医療系団体は、その歴史を意図的に過小評価しているとしか考えられない。

裏を返せば、制度開始当初から介護支援専門員が独立して仕事ができる介護報酬の保証さえあれば、プロフェッショナル意識の強い介護支援専門員の割合ははるかに高くなり、一部の不適格な連中を除き、バラツキの大きさを指摘されにくい状況が作られていた可能性もある。

経過はともあれ、「被用者」の意識から脱け出せない介護支援専門員が、いくら歴史の古い専門職と対等な立場を主張しても、空しく響くだけである。「プロフェッショナル」としての意識や自覚をどれだけ強く持つことができるかに、私たちの職能の将来がかかっていると言えよう。

2017年7月11日 (火)

「介護支援専門員」は生き残れるのか?

先に誤解なきよう注釈しておくが、本エントリーの趣旨は広義の「ケアマネジャー」が生き残れるのか? の話ではない。

あくまでも、制度上の介護支援専門員に限った話である。

いま、介護保険制度のみならず、社会保障の枠組みが大きく変えられようとしている。1998年に初めて「介護支援専門員」の資格が誕生したとき、その将来像は「明」であった。それから19年を経過した現在、介護支援専門員の将来像ははっきり言って「暗」である。

それでは、なぜ「暗転」したのだろうか?

無能な介護支援専門員や、社畜みたいな(自法人の囲い込みを事とする)介護支援専門員が相当数いるからなのだ、と酷評する人もいるが、それが根本原因だとは思えない。もちろん、技量や資質の至らない介護支援専門員が、政策側や医療系団体等の攻撃の標的になっている現実はあるが、なぜそうなったのかの説明にはならない。

最大の原因を挙げるとしたら、日本における「介護支援専門員」の資格は、もともと職能を持っていた「ケアマネジャー」が自ら運動を起こして(国家資格ではないが)公式の資格の地位を勝ち取ったのではなく、介護保険制度を導入する際の必要上、国が公定の資格として導入し、関連職種に奨励して取得させたこと、その必要数を満たすために介護支援専門員の粗製乱造が行われたことであろう。結果として、技量や資質のバラツキが大きくなってしまった。また、制度設計上、他サービスとの併設が当たり前になってしまい、居宅介護支援単独では普通に生活できる介護報酬が得られないことから、囲い込みの横行を招くことになった。

つまり、「制度上の資格」として定められ、規格が決められてしまったがために、それに由来する綻びが大きくなり、資格の評価を下げることになった経過である。一部の介護支援専門員の努力にもかかわらず、資格の地盤沈下に歯止めがかからない現象が起こっている。

そして、この経過を踏まえて考えると、制度が変えられれば資格の存在意義も規格も変わってくることになる。私も「介護支援専門員の資格はなくならない」とは思うが、それは「介護支援専門員はこれまで通り仕事ができる」ことと同一ではない。

それでは、今後どのような事態が予測されるのであろうか?

一言で表現すれば、行政主導のシステムにより、介護支援専門員の仕事は「がんじがらめ」にされるだろう。

これに加えて、介護支援専門員の仕事ができるのは、一定の条件を満たした人や事業所に限定されるかも知れない。

その兆しは、昨年度からカリキュラムが大幅に変更された法定研修の内容や、今年3月に公開された「適切なケアマネジメント手法の策定に向けた調査研究報告書」の中に、すでに現れている。すなわち、介護支援専門員には「エビデンス(根拠)」重視のケアマネジメントを教科書のような丁寧さで身に着けさせる方針である。これは「ナラティブ(語り)」重視の「本来の(あるべき姿の)ケアマネジメント」と相容れない面が大きい。後者は国際的な潮流でもあるのだから、日本のケアマネジメントはそこから取り残されかねない危惧も感じる。

この方針によって導かれるのは、きわめて「官僚的な」ケアマネジメントになろう。それはしばしば利用者の真のニーズに寄り添わない、退屈な(「あ~あ、どうせオレ/アタシの気持ちなんかわかってくれないよねぇ...」と利用者に思わせてしまう)ケアマネジメント。もっと踏み込んだ表現をすれば、評価を偏重することで利用者の尊厳を軽視するケアマネジメントだと言うことができるかも知れない。

Ikinokori

このような価値観の押し付けに対して、強く抗してこそ、(より広い意味での)ケアマネジャーの専門性の意義があるのだ。

もちろん、国レベルの政策に対しては、国レベルで物申していかなければならない。これまで防戦一方で存在感の薄かった日本介護支援専門員協会も、自分たちの職能を守るためには、この2018年介護報酬改定から2021年改定までの間が、まさに正念場であろう。大事なのは、もっと現場で蓄積した「ナラティブ」の技術を言語化して、それを武器に「攻め」に転じるべきなのだ。ケアマネジャーの職能は上へ上へと積み上げる職能ではなく、広く社会を俯瞰して横断的に結び付けていく職能であることを、政策側や医療系団体等に示していくことが求められる。日本協会が本腰を上げてこれに取り組むのであれば、(これまで消極的だったが)私たちもこれに協力する用意はできている。

そして、現場の私たちの動き方だ。今後、制度上の介護支援専門員が生き残るためには、「押し」が必要になる。行政の出方に右顧左眄せず、あくまでも利用者にとって最善の支援を優先し、それができる介護支援専門員や事業所であるとの存在意義を、行政や地域に大きく示していくことが大切である。

また、AIに任せられる部分は任せてしまえば良い。私は個人的に、ケアマネジメントの全面ICT化には賛成だ。本来の仕事をしている介護支援専門員にとってみれば、「人」にしかできない仕事の部分が残るはずなのだから、その部分の仕事を今後も堂々とこなしていけば良い。逆に全面ICT化を本気で心配している介護支援専門員がいたら、その人はAIにできる仕事しかしてこなかったのではないだろうか。

最後に、私たちが忘れてはならないのは、職業倫理や行動規範を守ることである。ここが職能の要であることを認識しつつ、常に人を活かす仕事をしていくことが、介護支援専門員に課せられた使命であろう。

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