国語

2023年9月22日 (金)

「忖度」の言葉を恣意的に歪めるな!

日本語に限らず、世界各地で話されている言葉(口語)は、時代によって移ろうものだ。それは筆者自身、百も承知しており、単語、熟語、成語などが、年数を経るにしたがって、本来の意味とは異なる用例を呈する場合が増えることは、十分に理解しているつもりである。

その変遷が、市民の自然な社会活動の中から起きるものであれば、何の問題もない。

しかし、メディアが恣意的に言葉の意味を捩じ曲げているとしたら、話は別だ。

「忖度(そんたく)」

本来の意味は、「おもんぱかる」「おしはかる」こと。古代中国の『詩経』小雅・巧言の中に、「他人有心、予忖度之」とあるのが出典。詳細は割愛するが、前後の文脈からおおむねこんな意味になる。「小人の輩が悪心を持っていようが、君子や聖人の正しい政治を支持する私からは、すぐに推量できるぞ」。

Kanwajiten

つまり「忖度」自体は善悪の評価を伴わない人間の行為であり、ネガティヴな意味は全く含まれていない。

だからこそ、私たち社会福祉士をはじめ、精神保健福祉士、ケアマネジャー、さらに弁護士や司法書士など成年後見に携わる人たちも、アドヴォカシー(代弁)の一環として「忖度」を駆使している。自分の意思を十分に表明できない、伝えられないクライアント(認知症の利用者、知的障害者、精神疾患の患者など)の考えを代位して、「この方の本当の思いや願いは、これまでの考え方や振る舞いに基づき、こうであろうと推量します」と主張して、クライアントの意思に沿った生活の実現のために最善の努力をする過程が、「忖度」の先に開けている。

まさに、「人の心に寄り添う」仕事の人間にとって、「忖度」は必要不可欠な援助技術の一つだと言うことができよう。

ところが、2017年に「森友学園」の事案が政治問題化したとき、財務省の官僚が当時の内閣総理大臣の妻の意思を「忖度」したと、当時の学園経営者が述べたことを契機に、反体制側のメディアはこぞって、「忖度」が許されざる行為であるかのように論った。「忖度」があたかも「悪事の隠蔽」「権力者への媚び諂(へつら)い」と同義の汚らわしい行為であるかのように乱用したのだ。

私自身、ことが発生した当初には、さほど事態を重く考えず、消化器系の薬の名称に引っ掛けて「ザンタックより効果あるのはソンタック?」など、ダジャレを言っていた。しかし、特定のメディアの論調により、次第に常軌を逸した強引な意味の置き換え(転義)が目立つようになっていく。

そして、乱用はメディアやジャーナリズムの枠にとどまらなくなった。現在に至るまで、言葉の本来の意味に疎い各業界の論者が、自説の中で「忖度」をネガティヴな意味で安易に使用する事態が続いている。そもそも正しい意味で使われていれば、このような現象自体が起きなかったはずである。意図的な歪曲を惹起したメディアの罪は大きい。

この問題については、すでに清湖口敏(せこぐち さとし)氏も論評している。「産経は右派メディアだから、左派メディアを攻撃したんでしょ?」と思われる読者があるかも知れないが、言葉の原義・転義の解釈に右も左も関係ない。左派だろうが右派だろうが、日本語の意味を無理矢理歪めてはならないことは当然だ。引用した論評で氏が指摘している内容は、大枠でその通りだと筆者も思う。

この歪曲は日常のコミュニケーションに重大な支障を来たすことにつながる。意思表明が難しいクライアントに「忖度」すると表現するだけで、あたかも支援者がその人の悪事・不正・愚行を容認するかのように受け取られることは、決してあってはならないのだ。専門的な援助技術に基づき、クライアントの幸せを希求するために必要な行為であることを、私たちは多くの市民に広く訴えていかなければならない。

権利擁護に係る職業をはじめ、広く対人サービスに携わるみなさん。いまこそ、ひるむことなく堂々と「忖度」の言葉を使い、誤解している人たちには粛々と正しい意味を説明して、理解を深めていこうではないか!

2022年10月 2日 (日)

応援してくださった方々に感謝☆

「こんなに長く続けてこられるとは、開業した当時は考えられませんでした」

私の正直な思いだ。独立型の居宅介護支援事業所を始めて21年。多くの方々に支えていただき、走り続けることができた。みなさんには感謝の念しかない。

ケアマネジャーとして事実上の「個人事務所」を持ち、一人親方として自分のスタイルで仕事をして、二百数十人の利用者さんのケアマネジメントを展開することができた。いまでこそ周囲に同様な形態で仕事をしている人が少なくないが、2001年当時は全国でも数十人。そのうち半数程度は併設サービスも運営することで収益を維持していた。志の高いケアマネジャーでなければ、単体開業を続けること自体が難しかった。

ここまで続けてこられたのは、利用者さんを紹介してくださった関係機関や事業所の方々の力が大きいが、他方で、さまざまなご縁から知り合った全国の業界仲間の皆さんが、声援を送ってくださったことも大きい。

昨日(10月1日)、コロナ禍が収束していないことも考慮し、昨年に続いて集合イベントではない「オンライン飲み会」を企画して、SNSその他でつながっている方々にお声掛けをしてみた。

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自分を含めて11名の参加だったが、インティミットな集いになった。浜松の方が3名。他に東京都(離島)、兵庫、島根、愛媛、福岡、大分、宮崎からお一人ずつ。ほとんどが対面でお会いしたことがある方だ。

この中には2011年、私が介護業界の「産業日本語」に当たる緑色の冊子を最初に自費出版したとき、購入してくださった方がお二人いらっしゃる。また2018年以降、文章作成に関する講師としてお招きくださった方、文章作成術の自著本を買ってくださった方、文章作成講座を聴講してくださった方など、国語つながりの方が結構多い。単なるケアマネジャーでなく、異なる分野での専門性を帯びていたことは、業界で私が細々と生き続けてこられた原因でもある。

昨夜は二時間にわたり、観光、信仰、地元の名産、業界の転職事情、災害対策など、いろいろな分野の話に花が咲いた。地域も職種も異なる多くの方々とのつながりは、何にも代えがたい宝物と言えよう。

「人生は何かを捨てて何かを選択する」ものであるのならば、若いときに望んで実現できなかったことがいくつかあったものの、自分の好きな仕事を続けられたことには満足している。

さて、私の年齢も間もなく62歳を迎え、身体にいくつかの小さな疾患を抱えている状態だが、自分の身の丈に合わせながら、まだまだ仕事を続けていくつもりである。

みなさん、今後ともよろしくお願いします。

2021年12月 4日 (土)

ようやく開講して思ったこと

以前のエントリーで、おもに介護従事者を対象にした「オンライン文章作成講座」を予告したが、あれこれと用事が重なったことにより、準備に時間が掛かってしまい、ようやく開講にこぎつけた。

全五講(各一時間、質疑応答時間もあり。受講料は一講につき1,500円)。11~12月に掛けて第一巡目を実施し、そのあと約一年余りの間に、何巡かローテーションで回していく。日本語の基本が短期間に大きく変わるものではないので、おおむね同じ話を何回も繰り返すことになる。詳細は私のHPをご覧いただきたい。開講情報は逐次更新していくつもりだ。

まだ申込者はお二人。そのうちお一人は第二巡目以降を希望されているので、第一巡目はいまのところお一人だけである。11月29日の第五講、そのお一人の方とマンツーマン状態で、記念すべき最初の講話をした。ちなみにこの方は、2011年の自費出版冊子「作文教室」を購入してくださって以来の知人であり、2018年に私のほうがお住まいの県まで出向いて、初対面を果たしている。4~5月にオンラインで準備講話を実践した際にもご協力いただいた。感謝!☆

文章作成講座とは言え、一般向けの「国語教室」ではなく、介護従事者向けにいろいろな方が開講されている「記録方法の指導」でもない。私たちの業界ではいまだ類例の少ない「産業日本語」の講義である。足元には私たちが守るべき職業倫理である「利用者本位」の底流があり、その上に立って私たちの大切な言語である日本語をどう理解し、どう活用するべきかを論じているものだ。

私自身はこれまで、書き言葉のみならず、話し言葉についても語る機会をいただき、多くのケアマネジャーや介護職員の前で、顧客である利用者やそれを支える介護者を尊重すべきことを力説してきた。これは、すでに折に触れて何度も述べた通り、私の若い時代の恥ずかしい行為(当時勤務していた施設の複数の利用者さんに対する、虐待に類する言動や侮蔑する言動)への痛切な反省を踏まえている。下の画像はこれらの講話の根幹部分と称するべきスライドである。

20170822shimada

そして、一人ひとりの職員が利用者に向き合う姿勢は、会話(口のきき方)にとどまらず、文章にも表れる。顧客である利用者や介護者に対する深いリスペクトが窺える文章は、おのずから品格を備えていることが多い。

もちろん、どれほど人間の尊厳を重んじる立派な介護従事者であっても、国語の力は意識して修得しなければ上達しない。日頃から「書くこと」「綴ること」をいとわずに、学習→実践→学習→実践を繰り返してこそ、その意図するところが読み手にしっかり伝わる、良い文章の書き手になることができる。

日頃から向上心をお持ちで、国語力を身に着けたい介護関係者の方は、ぜひ私の「オンライン文章作成講座」をご聴講いただきたい。

2021年6月15日 (火)

まもなく開講☆

ここ三年ばかり、研修の場でケアマネジャーや介護職員を指導する仕事から遠ざかってきた。

母の死去(2018年3月5日)を契機に、Facebookの業界仲間たちは、「喪中」の私が研修どころではないと踏んだらしい。もちろん、オファーが途絶えたのは、私自身が新企画のPRを何もしてこなかったことが最大の原因だ。メジャーな講師であれば、喪中だろうが続々とお呼びが掛かる。私のようなマイナーな講師はそうもいかない。宣伝らしいアクションをしない状況が続けば、「引退モード」と受け取られてしまうのは、いたしかたないことであろう。

そのうちにコロナ禍のため、集合研修の開催自体が難しくなり、いよいよ出講する機会はなくなってしまった。

代わって登場したのが、Zoomを活用したオンライン研修である。実は、私はこちらの流れにも乗ることができなかった。ドライ‐アイの症状が強かったため、PC画面を長時間凝視するのが厳しかったのである。

とは言え、転機は訪れるもので、季節の影響もあり、ドライ‐アイもようやく改善した。そんな中、かつての知人から、その方が在住する離島の介護職員の文章作成能力がイマイチなので、オンライン研修の講師をして欲しいとの希望があった。すでに5月9日、第一講を実施、来月には第二講が予定されている。

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さて、こんな体験を経て、自前でも講座を持つことができそうになったので、当方主催で「オンライン文章作成講座」を開始することにした。

現時点での構想は、1時間×4~5講、または30分×6~7講で、前者は一回1,500円、後者は一回1,000円程度を見込んでいる。各講の内容は、

・「ムダな語句を削ろう」

・「読み手が悩まないようにしよう」

・「情景が目の前に浮かぶ文章を作ろう」

・「間違えやすい言い回しや用語に気を付けよう」

・「助さん格さん-助詞・助動詞と『格』を使いこなそう」

などなど。

衛星放送のごとく、同じ資料を用いて各講をそれぞれ数回ずつ、一年かけてローテーションする。聴き逃した方は「再放送(?)」のところでまた受講していただけば良い。全体のサイクルが終了した後、最終的に聴講された講義の数だけ料金を支払っていただければ、振込手数料も一回だけで済む。

大勢の人たちが受講するとも思えないが、FBを中心として、本当に国語を学びたい人たちだけの集まりになっても、それはそれでいいのではないか。単なる「記録の書き方」ではなく、国文法から説き起こして、受講者が自分の文章をスッキリさせるための糧にしてもらうわけだから。

また、上記の離島同様、集合研修に代わるオンライン研修会の開催も歓迎する。その場合は一時間15,000円、二時間30,000円(税込み)で受任している。この場合は、参加者のレポートや記録などを、文法的に問題がないか個別に添削してあげる(別料金。A4一枚1,000円)こともできる。メジャーな講師に比べるとかなり格安なので、以前の集合研修同様、遠慮なくお申し込みされたい。

自前の講座は、いま準備期間。開催日程が決まったら、稿を改めてお知らせします。

2019年10月16日 (水)

備えあれば

台風19号では、各地を見舞った記録的な豪雨により、東日本で数多くの河川が氾濫し、甚大な被害をもたらした。被害に遭われた地域の方々には、心からお見舞いを申し上げるとともに、一日も早く平穏な生活に戻れるようにお祈りしたい。私自身、日常の仕事や家事をこなすのに精一杯なので、何も応援できそうもないが、何らかの形で義援の意思を表すことができればと思っている。

浜松では幸いに、台風の進路西側であったためか、大きな被害がなかった。とは言え、当初は暴風雨による停電も予想されたので、遅ればせながら非常食などを買い求めた(画像は地元浜松の企業、三立製菓のカンパン)。

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浜松は昨年9月の台風による停電を経験しているだけに、市民の出足は結構早く、襲来前日の午前中には、スーパーのパン売り場には菓子類しか残っていない状態だった。

普段、私の自宅にある食糧は、停電のときでも食べられるものは1.5~2日分ぐらいだ。本来なら最低3日分は蓄えておくべきである。今回は台風だったので、事前の予測ができたが、地震の場合はあまり予知機能も働かないので、待ったなしであろう。さらに、激甚災害になれば、3日分程度では到底足りなくなることも明らかである。ストーブ用の灯油は毎年買い換えているが、そのストーブ自体が長年使用していないので、役に立つかどうか心もとない。カセットコンロぐらいは購入しておいたほうが良いと、改めて痛感する。

お恥ずかしい話だが、「備えあれば憂いなし」の「あれば」が已然形(いぜんけい)であることに、やっと気が付いた。未然形なら「備えあらば」になるが、あくまでも「備えあれば」である。「準備しておくことによって、心配がなくなる」のだ。

今後は心して、来たるべき災害に対し、怠りなく備えておきたいと思う。

2018年1月20日 (土)

ところ変われば...

去る13日(土)、島根県の安来地域介護支援専門員協会からご依頼をいただき、同会の研修会における文章作成講座の講義のために、安来市まで出向いてきた。

安来市と言えば「どじょう」の街。「うなぎ」の街である浜松からお邪魔することになったのも、何かのご縁であろう。

今回お招きいただいたきっかけは、同団体の会長を務めておられる宇山広さん(お仕事は小規模多機能型居宅介護の所長。以前は島根県介護支援専門員協会の副会長もされていた)とFacebookでのつながりができ、宇山さんが私のしょうもない駄文に目を留めてくださったことだ。事情はともかく、私のようにマイナーな講師から見れば、わざわざ遠方から出講のご依頼をいただくのは、ありがたいことである。

早朝に家を出て、新幹線で西へ向かい、岡山駅で伯備線の特急「やくも」に乗り換える。今回は残念ながら素通りであったが、岡山の方から教えていただいた三好野の「祭り寿司」を駅で購入。「極(きわみ)」と称する1,480円のお弁当はなかなか豪華。こんなときでなければ味わえない一品だ。

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乗り継ぎを含めると、電車に乗ること約6時間。安来は島根県の東の入口であるにもかかわらず、浜松からはたっぷりと距離がある。

安来駅に到着すると、宇山さんご自身がお迎えに来てくださった。本当は握手をしたかったのだが、私の両手は皮脂欠乏症に加えて「遠州のからっ風」の影響もあり、「あかぎれ」がひどかったので、ご迷惑になってはと思い断念。雪道の中、宇山さんのお車で広瀬町の会場まで向かう。15時から講義開始。

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演習を含めて三時間。おそらく安来地域のケアマネジャーさんたちの大部分は、社会人になってから「国語の授業」を受けることになるとは想像されていなかったのではないか。文章の出来次第で意図が伝わらないことも起こり得ることを例示しながら、簡単な国文法に踏み込んで、助動詞や助詞「てにをは」の使い方について解説。終盤では、単なる文章作成技術の向上で終わるのではなく、それを私たちの仕事の評価につなげていくことが大切であることを説いた。

研修会が終了したあと、駅近くで宇山さんと一杯。途中からは、遠路、大田市から駆け付けてくださった野際智紀さん(宇山さんの友人、同じく小規模多機能の管理者)が合流。野際さんともFacebookでつながっており、先年は東京で昼食をご一緒する計画もあったが、氏の予定変更により、お会いするのを逸したことがある。そのこともあり、三人で鍋を囲んだのは嬉しいひとときであった。

島根県は「アローチャート」の先進地域でもあるので、お二人はこの分野への造詣も深い。とは言え、それをどう使いこなすのか、考え方には人それぞれに差異も大きいようだ。お二人からは、学会などにおける研究成果積み上げとは別に、現場のアセスメントで誰もが使いやすいものをどう普及させるかの課題についても、検討が求められていることへの言及があった。「陸の孤島」である浜松のアローチャート自主勉強会「矢万図浜松」としても、大いに参考になるお話が聴けたと思う。

一夜が明けて、朝、ホテルの外へ出ると、昨夜から降り続いた雪景色。雪道用のブーツを履いてきたのは正解であった。

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チェックアウトした後、お二人のご案内で西へ。日曜日であったが、途中で宇山さんのもとに事業所のスタッフから相談の電話が入る。小規模多機能は臨機応変に対応できるメリットがある一方、包括報酬であるためどうしてもオーバーワークになりやすい。現実にはどの事業所も、運営にかなり厳しい面が出ているとのことで、安来市のような人口密度が少ない地域であればなおさら、遠隔地の利用者のためにどこまで対応するのか、悩ましいところであろう。

午前中に松江まで出向き、松江城近傍を見学。天守閣には昔登ったことがあるので、今回は時間の制約から割愛し、周辺の建物や武家屋敷を散策した。

この辺りの名所は江戸時代の遺構だけではない。城の近くには旧日銀松江支店の建物を活用した「カラコロ工房」なる場所もある。伝統と前衛とが交錯したユニークな空間だ。ファッションを軸に、グルメや体験コーナーもあり、地元の人も旅行者も楽しめる店がいくつも共存している。

昼食後、地元のキャンペーンをしている「お侍さん」たちにお願いして、記念写真を撮ってもらった。私の向かって左が宇山さん、右が野際さん。散策終了後、野際さんは好きなお酒を求めて別方向へ。

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安来へ戻る車中で、宇山さんが島根県の介護業界の現状をお話しくださった。他県同様に人材不足であるが、ケアマネジャーの研修指導陣にしても、いま中核になっておられる宇山さんや野際さんの世代である40代の方々が、その次の世代の人材を発掘するのが難しく、苦労されているとのこと。当・静岡県の状況に比較すると、かなり深刻かと受け止めた。この現状を国の政策担当者はどこまで実感し把握しているのだろうか。

いろいろな思いを巡らしながら、安来駅で宇山さんと別れ、帰路は再び「やくも」に乗り、岡山経由で新幹線に乗り換え、浜松へ戻った。

ところ変われば事情も変わる。静岡県や浜松市でも業界の課題は少なくないが、他の地域と比較参照することにより、別の視点からの知見が加わる。今回の目的は出講であったが、自分自身の学びの機会を持つこともできた、たいへん有意義な二日間であった。

2017年10月31日 (火)

「知ったかぶり」は恥ずかしい

人前で話すとなると、私のようなマイナーな講師でも気を付けなければならないことがいくつか挙げられる。

中でも神経を遣うのは、「知ったかぶり」をしないように心がけることだ。

これは簡単なようで、結構難しい。

ふだん何気なく使用している言葉や言及している事象についても、あまり自信がないときには、なるべく時間を取って予習するようにしているが、完璧にはいかないのが常だ。とは言え、細かいことでも事前にチェックしておかないと、間違ったことを話してしまって、あとでその誤りを知ってから恥ずかしい思いをすることになる。そうならないように、私なりに留意してはいる。

研修でいろいろな講師の話を聞いていると、明らかに「知ったかぶり」で知識や理解の欠如を露呈させている話者が、ときどき見受けられる。

昨年末から今年の初めにかけて、法定の「主任介護支援専門員更新研修」を受講したのだが、8回のうち少なくとも6回は、登場した講師が1回以上「知ったかぶり」をやっていた。指摘してやろうかと思ったが、まぁ話者自身の自覚の問題やろな、とも思い、結局ツッコミは入れなかったのだが...

ところで、結果としては同じ「知ったかぶり」であっても、いくつかの類型がある。

・高い水準の国語力や調べる力を持っている話者が、不注意で言葉や事柄の意味に合わない解釈をしてしまい、気が付かずに過ごしてしまう(私もときどきあります(^^;)。

・特定の分野に該博な話者が、不用意に専門外の用語や事象などに言及して、思い込みから誤った解釈をしてしまう。

・普通の話者が、善意から受講者に有益な話題を紹介しようとして、関連する用語や事象に関して確認不十分なまま、誤った解釈をしてしまう。

そして、いちばん良くないのは...

・力量不足の話者が、自分を立派に見せようと背伸びをして、わかっていないことをわかっているように話してしまう。

残念であるが、この最後の類型は、上記の主任更新研修をはじめ、介護支援専門員法定研修の講師にも、ときどき見られるパターンである。上から目線の話者、場数を踏んでいない話者など、講師として壇上に立って報酬を得る資格があるのか、疑われる人たちだ。

もしこの人たちが、「テキトーなことを言っても、どうせ受講者にはわからないだろう」などと思っていたら、大問題であろう。そうでないと信じたいが、用語や事例に関して、かなりいい加減な解釈をしてしまい、話しっ放しにしてしまう講師もいるのが現実だ。

これらはまさに他山の石である。辞典や事典で調べる、自分が誤解していないか詳しい人に教わるなどの準備を怠らなければ、受講者が「それ違うだろ?」とシラける頻度も減っていく。

後進に指導する立場の者としては、恥ずかしい「知ったかぶり」をしてしまわないように、十分心したいものである。

2016年5月18日 (水)

「懐疑」のすすめ

「懐疑」と言えば、アカデミックな用語に聞こえるかも知れない。だが、ここで述べる内容はきわめて単純なことだ。

みなさんも数の多少はあれ、何かを間違えて理解していたという経験をお持ちだと思う。私も相当な年齢になるまで、誤解したまま放置していたことがある。

「あぶない」という言葉が、英語由来だとばかり思っていたのだ。

危険が迫って猶予がならない状況に出くわして、とっさに「あぶない!」と言えば、英語でもほぼ同様な意味で通じる。「Have an eye !」=「片目でもいいからしっかり見ろ!」←「危険だ!」というフレーズの発音と、ほぼ同じ発音に聞こえるからである。

おそらく、私は幼少時に何かの本を読むか、TVを見るか、何らかの媒体からこの「Have an eye !」についての説明を聞いて、「あぶない」が英語由来の言葉だと、てっきり思い込んでいたものと推測される。

事実は、日本語にも古くから「あぶなし」という単語がある。かつては「軽率に行動して他人に迷惑をかけそうだ」の意味が強く、むしろ、「あやふし」のほうが現代語の「あぶない」に近かったが、中世以降は統合されて「危険が見込まれるので心配だ」の意味になった。

れっきとした日本語の形容詞である以上、危急の際に間投詞的に使用される「あぶない!」が、英語の「Have an eye !」と同様な意味であるのは、単なる偶然以外の何ものでもないわけである。

しかし、私がガキの頃から「あぶない」は英語だと思い込んでいた理由は、以下のいずれかであろう。

(1)幼少時に受信した説明が間違っていた。すなわち、発信側に問題があった。

(2)幼少時に受信した説明は正しくなされていたが、私が誤解していた。その誤解の原因は、たとえばTVなら番組を一部しか見ていない、本なら前後の説明をきっちり読んでいないなど、さまざまなものが考えられるが、いずれにせよ、受信した私の側に問題があった。

(3)上記二つの相互作用。発信側も(単なる物知らずによるものか、または特別な意図によるものか)十分な説明をせず、受信側の私も自分で調べていなかった。

以上の三つの可能性が考えられる。

これらの誤謬を補正していく力が、大人の「知的体力」である。『これでいいのか?日本の介護』第7章や第12章でも述べたが、特に日本人の多くは、情報を受動的に疑わないまま獲得し、それに流されてしまう傾向がある。自ら主体的に情報を獲得・精査していく、また一度獲得した情報も真正なものであるかを確認していく癖をつけないと、知的体力の不足を招き、ひいては社会全体に致命傷をもたらす。言葉一つぐらいのことなら大した問題ではないのだが、大きな社会事象や政治・経済などに関わる誤解が積み重なり、それがまた多くの国民に共有されてしまうと、まさに日本を「あぶなく」してしまうのだ。

そのためにも、私たちは「自分の理解・思考・行動はこれでいいのか?」と、常に疑っていく姿勢が求められる。すなわち「懐疑」である。たとえば前述の例で、もし発信者が「英語がすべての言語に優越する」などの偏った思想を持っていたのであれば、「あぶない」が英語由来だとの説明を聞いた人は、すべてその罠にはまってしまう恐れがあることになる。

言語学のみならず、社会の各分野にそれは当てはまる。もちろん「介護」もしかり。意図的な発信に限らずとも、たとえば30年前の介護の常識のうちかなりの部分が、いまや常識では無くなっている現実があるのは、経歴の長い業界人であれば当たり前に感じているところであろう。にもかかわらず、30年前の常識をそのまま踏襲して現場で仕事をしている業界人が、少数とは言え存在することは、残念ながらまぎれもない現実である。

自分自身を成長させ、時代を動かしていくためにも、みなさんに「懐疑」の精神をお勧めしたい。

2014年2月11日 (火)

「裁判」の語源は長州藩から

全国共通の用語としてごく普通に使用している言葉の語源が、実はローカルな言葉だった、というのはよくあることですが、三権の一つ、司法の根幹部分に位置する言葉がそれに該当するのだと言えば、意外に思われる向きもあるのではないでしょうか?

その言葉とは、「裁判」。

語源は「宰判(さいばん)」で、江戸時代の長州藩(=萩藩。毛利家)における地方行政区画の呼称です。関ヶ原の戦で石田三成側に与した毛利家が、徳川家康によって周防・長門の二国(いまの山口県)のみに減封されたのが1600(慶長5)年。それから半世紀後の1650(慶安3)年には、すでに「宰判」の行政区分が機能していました。

その後、江戸時代を通じて多少の異動がありましたが、幕末の長州藩には4末家(支藩のこと。長府・徳山・清末・岩国)および18宰判が存在し、合わせて22の行政単位に区分されていました。この規模は古来の「郡」または郡を2~3に分割した広さに当たります。

さて、長州藩は薩摩藩(島津家)とともに明治維新の主力になりましたが、明治新政府は1868(明治元)年、大阪・兵庫など全国12箇所に「裁判所」を設置しました。これは旧幕領(諸藩に属さない直轄地)を統治するために新設された機関であり、長州藩の「宰判」における代官の駐在地「宰判所」の語を転用したものでした。その年のうちに「府藩県三治制」が施行されたため、行政機関としての「裁判所」は姿を消しましたが、1871(明治4)年に至り、司法省のもとで東京裁判所が設置され、司法権力を行使する機関に姿を変えた「裁判所」が復活しました。これが現代の裁判所の起源になっているのです。

ですから、英語trialの訳語としての「裁判」も、裁判所が行う拘束力を持つ判定として、用語が定められ、定着したものであり、言葉の流れをたどれば、「宰判」→「宰判所」→「裁判所」→「裁判」ということになるのでしょうか。

こんな具合に、制度上定着している用語の発祥地を尋ねてみるのも、興味深いことです。

2014年1月14日 (火)

格助詞の「格」を分類すると・・・

小中学生のとき教わった国文法。付属語である「助詞」の中に「格助詞」という分類があることを、皆さんは学んできたものと思います。

それでは、この格助詞の「格」って何でしょうか?

英文法では、「主格」「所有格」「目的格」と三つの格について教わった人が多いでしょう。しかし、日本語の名詞は曲用による格変化を持ちません。自立語である名詞・代名詞(体言)に格助詞を後置させることで、格を表現します。このあたりまでは、拙著『介護職の文章作成術』に掲載しましたので、お読みになった方もあろうかと思います。

それでは、おのおのの格助詞はどのような「格」を表すのでしょうか?

・「が」→主格

・「の」→属格(=所有格)

・「を」→対格(=直接目的語に続く)

・「に」→与格(=間接目的語に続く。対格の文節を伴う)・処格(=間接目的語に続く)

・「で」「にて」→処格・具格(=直接目的語に続く)

・「へ」→処格

・「から」「より」→離格(=間接目的語に続く)・奪格(=間接目的語に続く。対格の文節を伴う)

・「と」→共格(=主語と同格の目的語に続く)

一口に「格」と言っても、これだけの種類があります。皆さんはご存知でしたでしょうか?

長くなりますので、それぞれの格助詞が文中でどのような位置付けになるのかは、項を改めて述べたいと思います。

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