信仰

2018年6月24日 (日)

殉教者ゆかりの地を訪ねて

ここ二年あまり、巡礼に行っていなかった。

それ以前も毎年どこかへ巡礼していたわけではないのだが、最近は自分自身の節目の企画や、母の介護のため浜松を離れるのが難しく、出かける余裕がないままに時が過ぎてしまっていたのだ。

そこで、母の追悼が一段落したのを機に、両親の安息を祈りながら心の平安を求めたいと思い立って、旅を企画してみた。

どこへ出かけようか考えたが、一昨年訪れた高槻教会、福者ジュスト高山右近に縁があった人の中で、福者ディエゴ(了五)加賀山隼人正興良の殉教地へまだ行っていなかったと思い、行き先を小倉教会に決めた。

私は2003年、用事で熊本を訪れた際に、福者マリア小笠原みや一家15人が藩主細川家の禁教令に従わなかったため斬首され殉教した、花岡山公園の碑文のところまで巡礼している。加賀山隼人は小笠原みやの父に当たり、細川家が熊本へ転封する前の豊前藩主時代、重臣として細川忠興に仕えていた。キリシタン時代、彼は小倉教会(当時)の中心人物であったのだ。

小倉教会には事前に問い合わせ、17日午前9時のミサに出る予定で、前日の16日夕方に小倉入りした。一年で一番日が長い時期なので、ホテルに荷物を置いて門司港まで足を延ばす。

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過去、ここに来たのは一回だけであるが、何年前だっただろうか、もう覚えていないほどである。海峡に面したレトロで風光明媚な街並みは、旅する人の気持ちを柔和にさせてくれる。一時間半ぐらい、ゆっくりと街を散策。屋外でヴァイオリンとピアノのジャズコンサートが演じられていた。

肌寒くなったので門司港から引き上げ、小倉に戻って夕食。知人から教わった店「あそび割烹・華柳」へ。

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ここでは関門蛸、ごまアジをはじめ、新鮮な北九州の味を満喫。お薦めの店だけあって一つ一つの素材が良い。また、皿のふちの裏側がしっかり洗ってあるなど、食器の扱いも丁寧である。満足度大。

一夜明けて、小倉教会の午前のミサに参列するためにホテルを出る。カトリックの巡礼は仏教のお遍路さんとは異なるが、目的地の教会までは聖歌を口ずさんだり祈ったりしながら、便利な交通機関をなるべく使わずに歩くのが基本だ。スマホで位置を確認しつつ、25分ほど歩き、時間に余裕を持って小倉教会に到着。

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北九州の拠点の教会だが、全体として簡素な造りで、人を招き入れる場にふさわしい。聖堂のイエス様は、長めのひげを垂らして老成したお姿を示し、独特のご像であった。この日はミサ後に信徒総会が予定されており、神父様は講話の中で、教会共同体の意義について述べ、神様への聖母マリアと加賀山隼人との執り成しを祈っておられた。

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加賀山隼人については、自分のHPに掲載しているので、そちらをご一読されたい。

教会の前、通りに面した側には、説教する隼人の姿と、歌会で詠んだ短歌を記した碑文が建てられている。信仰に生き、心の自由を守るために一命を捧げた人の生きざまに思いを馳せた。

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一時間余りでミサが閉祭。これでひとまず巡礼を済ませたので、次の目的地へ向かった。実は、信徒の方お二人が偶然、それぞれ別の用事で博多に滞在されていたので、午後と夜とにお会いすることになっていたのである。

次回へ続く)

2018年3月 9日 (金)

「行っていいよ」

私の母は1926(大正15)年8月7日、名古屋市中村区で、二男六女(夭折した者を含む)の三番目(二女)として出生した。高等女学校を卒業後、戦時中には軍需工場で働き、戦後は実家で病弱な父親と兄(私から見れば祖父と伯父)とを抱え、銀行などで働いて家計を支えた。

1953年、父と結婚して名古屋を離れ、磐田市中泉のアパートに居住。1960年に私が生まれたころには、仕事をやめて専業主婦になっていた。父は勤務先で大したポストに就けなかったのにもかかわらず、見栄を張って気前良く散財する性癖があったため、母は家計を緊縮して節約するのに苦労しながら、貯蓄にいそしみ、1970年にいまの自宅を手に入れ、家族で浜松市(現・西区)の家へ転居した。

私が大学へ入り、東京に出て生活したことで、母は自分の時間を十分に持てたはずなのだが、母が一人で他出するのを父が極端に嫌ったので、後味の悪い結果を避けたかった母は、旅行一つ行くことがままならず、不自由を余儀なくされた。そこで、その代償として、もともと編み物で師範の資格を持つほど器用であった母は、手芸を中心とした趣味活動に打ち込むようになった(なお、父の帰天後は、私が同伴して4回ほど旅行に出かけている)。

浄土真宗の家庭に生まれ、曹洞宗の家に嫁いだ母であったが、1965年に私を磐田聖マリア幼稚園へ入園させたことを機に、イエス‐キリストからのお招きをいただくことになる。浜松に転居してからは教会と疎遠であったが、磐田教会のインド国内ハルルへの対外支援活動「愛の泉」に参加、子どもの里親として学費支援に協力するようになってから、再び教会の活動に近づく機会を得た。父が2002年に帰天(臨終洗礼)した後、母も教会の洗礼を望むようになったので、2006年には私が所属するカトリック浜松教会の小林陽一神父様に数回ご来宅いただき、公教要理のいわばダイジェスト版によるご指導を受けた。2007年に浜松教会にて受洗(霊名マリア)。

高齢になってからも趣味活動を続け、地域でも豊かな人付き合いを続けていた母であったが、体力の限界もあり活動から一つずつ引退していった。2011年に顔面神経麻痺を患ったのを機に、少しずつ身体的な制約が加わり、これまで一人でこなしていた家事も、掃除→買い物→調理と、少しずつ私が手伝う部分が増えていった。それでも洗濯だけは私の衣類も含め、一人でがんばって続けていた。

教会へは私が同伴してときどき赴いていたが、次第にミサ参列が難しくなったので、自宅での短い祈りを日課にしていた。2016年に一度だけ、私と一緒に教会へ行き、山野内公司神父様から霊的指導をいただいている。そのときの神父様のご助言は、「死へ向かうことよりも、いま一日一日をどう生きるかを大切にしましょう」。

2017年1月19日から高熱が続き、薬の副作用か、一時は味覚異常で摂食できなくなり、慢性心不全を持っていたことから予後が危ぶまれたが、味覚が正常に戻るに連れ、本人の努力もあって食欲が回復した。要介護3の状態になり、ADLも低下したとは言え、自宅内ではときどき見守りがあれば身の周りのことがこなせるようになり、介護サービスを受けながら平穏な在宅生活を送っていた。私の手料理が美味しいと喜んで食べてくれることも多かった。「私は神様に生かされているんだね」と何度も話していた。

交替で来宅するホームヘルパーさんたちには、信頼してケアを任せていた。また、隔週で利用・滞在するショートステイの職員さんや他利用者さん、陽気で懇切丁寧な管理指導をしてくださる訪問歯科衛生士さんなどとも、意欲的にコミュニケーションを取り、春夏秋冬、楽しい日々を過ごしたことが多かった。昨年の誕生日には、「私、91かね。まだ若いな。もう少し生きなければ」と言っていたものだ。

2018年に入り、正月の餅も連日無事に食べ、気になっていた右上下の第三大臼歯(おやしらず)の抜歯を済ませて、復活祭が来たらこれまでと違う美味しいものでも食べようか、と話し、本人も楽しみにしていたのだが...

3月4日(日)の昼食(インスタントラーメン)を普通に摂り、私も休日だったので二階の部屋へ引き上げて仮眠。ところが15時に階下の母の居室へ行くと、「胸が痛い! さっきから呼んでいるのよ...」と言い、姿勢を転々と変えながら発汗、苦悶していた。すぐ訪問看護に緊急相談、無理せずに救急車を、との助言に従い、聖隷三方原病院へ救急搬送、16時過ぎに入院となった。循環器科の医師の診断によると、心筋梗塞で心臓が止まりそうな状態。カテーテル手術等の侵襲は年齢から難しいので、点滴と医療用麻薬(苦痛緩和)の処置になるが、一般的にきょう一日のうち、早ければ1~2時間とのこと。

急遽、母の大親友だったOさん(70代前半、女性)に病院まで来てもらった。二人で母と話しながら見守っているうちに、18時半ごろには応答がなく下顎呼吸になり、心電図モニターの表示が著しく不整、かつ弱くなったので、二人で手足を握ったりさすったりしながら看取りモードに入った。その後、ややモニターの表示が落ち着いたので、Oさんにお礼を言って帰宅してもらった。麻薬が奏効したのか、自分で枕の位置を直し、発汗のため上半身の布団を手で除けるなど、少し力を取り戻した感があった。

モニターは弱目ながら安定が続いたため、21時30分ごろにいったん帰宅しようと、母の手を握って、「一度、家へ帰るよ。明日必ず来るからね」などと言っていたら、母はかすれ声ながらはっきり、「行(い)っていいよ」と返してくれた。私が母から聞いた最後の言葉。これまでの母の姿勢から推し測れば、単純に帰宅して良いとの意味ではなく、私に「自分の道を進め」と、背中を強く押してくれたものだと思う。

翌5日(月)の朝、朝食・ゴミ出し・洗濯などを終えて、身支度が終わった直後、病院から「下顎呼吸が始まったので、すぐ来てください」との電話が入った。間髪を置かず車で出発して、雨の中、25分ほどで病院に到着。病棟に駆け付けたときは8時57分、母はすでに目を開けず、身体を動かす力も残っていなかった。

母の手を握り、「お母さん! 本当によくがんばったね。長い間本当にありがとう」と声を掛けると、それを聞いて安堵したのか、5分後の9時2分にモニターの数字がすべてゼロを示し、息を引き取った(医師による死亡確認は9時6分)。入院して18時間のがんばりを経ての収束。残念ながら自宅での「大往生」はかなわなかったが、推測する限り、ただ一人の家族である私に看取られて91年6か月の人生を終えた母は、まずは幸せだったと言えるのではないだろうか。

母から息子である私への最後の教訓は、一年以上前、すでに聞いてあった。「誰にでも心を開いて付き合いなさい」。母が日頃から実践してきたことだ。そのために地域から「人が好過ぎる」と言われたこともあったが、またそれゆえに多くの人から愛されてきた。

7日(水)にカトリック浜松教会で行われた通夜では、同じ町内で母と親しかったWさん(女性。教会の信者)が、母と交流した思い出を話してくださった。またショートステイ利用施設(地理的に教会から近い)の職員5人が、訃報を聞き駆け付けてくださった。

8日(木)、山野内神父様の司式により、教会で葬儀ミサから告別式。母本人の意思を尊重して、親族など母をよく知る限られた人たちだけに声を掛けて執り行ったので、「義理で弔問するその他大勢」もおらず、とても好いインティミットな別れの場になった。出棺の後、親族以外でも、Oさん夫妻、および、母の代母(受洗の母親代わりの役)の娘さんであるK教授(女性)と、前述の幼稚園で53~51年前、新任のとき私のクラスを担当したS園長(女性)とが、一緒に斎場まで行って拾骨までしてくださった。KさんもSさんも教会の信者で、晩年に受洗した母にとっては、教会共同体での数少ない友であったのだ。

強く、自分の信念を持って生き抜いた母の生活態度は、私にとってもこの上なく大きな学びであった。おそらく、これからも遺影(元写真の撮影者はOさんの旦那さん)を見るたびに、「行っていいよ」と励ます声を聞くことだろう。

ちょうど、5日も8日も雨になったことから、アイルランドの口碑(oral tradition)の中にあった言葉を思い起こす。

「一生を晴ればれと生きた善人ならば、帰天した日と葬儀の日は、浄罪(天国へ行く前に、生前の罪を償って清めること)の日なので雨が降る」

母の一生を振り返って、まさにこの言葉が当てはまるなあ、と勝手に解釈している。イエス‐キリストの足元に膝まづきながら、生前のいくつかの小罪を改悛し、それから神の国へ旅立ったのではないだろうか。

悲しさや寂しさは免れないが、家族としてもっとも身近にいた人の生きざまを範としながら、今後、私自身も強く生き抜いていけるよう、心を新たにしたい。

2017年1月11日 (水)

カトリック教会と私

私が東京の関口教会でカトリックの洗礼を受けてから、昨秋で33年になる。不熱心なのはともかく(笑)、人生の約6割を信者として過ごしたことになる。

もとはと言えば、両親が4歳の私を磐田聖マリア幼稚園に通わせたのが発端だ。幼児のときに刻まれた、聖なるものについての心象風景は、私をキリストに向かわせる要因となった。いま振り返ってみれば、これこそが神の恵みであったと思い起こしている。

キリスト教に関心を持ったのは、高校卒業後だ。浪人中にいろいろと悩みながら、この世界には何か唯一の正しいものが存在するはずではないかと、強く感じるようになった。大学入学後は、周囲の学友や知人からさまざまな思想のインパクトを受けたが、それらはむしろ私の心を教会に向かわせる結果となった。
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学生時代に、すぐ近くだった関口教会に歩いて通い、司祭の講話を聴き、周囲の信者たちから助言してもらいながら、少しずつ信仰の芽を育てていったと記憶している。当時の指導司祭だった森一弘師(後に司教)の公教要理は、たいへん理解しやすく、自分が求めていた道にピッタリ合う内容であった。似合いの服に出会ったような思いで、指導内容についていった。洗礼を受けたのは23歳の秋である(上の画像は関口教会の洗礼盤)。

当時は、まだ職業での進路を決めかねていた私だったが、浜松でカトリック教会の信者たちが中心になって作った社会福祉法人があることを知り、これもご縁だと思ってそこに就職。その後、職場でも信者の管理職が少なくなり、私自身も信仰は信仰、職場は職場として峻別するようになった。そこで15年余勤めた後、退職した原因には、特段宗教面での問題があったわけではない。

浜松に戻ってから、ずっと小さい巡回教会である三方原教会に通っていたが、1994年から自分の行動範囲が変わった関係で、郊外の富塚町に新築されたばかりの浜松教会に移籍した。三方原教会在籍当時は信徒会の役員を務め、新・浜松教会の建設基金の取りまとめには、及ばずながらお手伝いした。

浜松教会に移って何年もしないうちに、私自身の転身(開業)が原因で、日曜日にミサへ通うのにもままならなくなってしまった。そのようなわけで不熱心な信者になってしまったのだが、もちろん信仰を捨てたわけでは決してないので、復活祭(特に聖金曜日)、平和旬間、クリスマス、神の母聖マリアの祝日(1月1日)にはいつも教会へ足を運んでいる。
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2001年に父が他界。このとき、父の生前の希望により、臨終洗礼を行い、当時の主任司祭であった小林陽一師にお願いして、教会で葬儀をさせていただいた。

母は小林師にお願いして要理の要点のみを学ばせていただき、2007年に浜松教会で洗礼を受けた。それ以後、ときに私が母に同伴して二人で教会に通っていたが、2011年の聖金曜日に顔面神経麻痺を患い、それ以後は病気と向き合いながら、日々の生活を続ける日々となった。これもまた神の業であろう。2015年の春、母は私の同伴で久しぶりに教会を訪れ、来たるべき終末に向け、いまの主任司祭である山野内公司師から、一日一日をいかに生きるか、との講話をしていただいた(上の画像は浜松教会・ルルドの聖マリア)。

現在の浜松教会は、数百人の信徒を擁する多文化の教会である。通う信徒の国籍は最多のとき22を数えた。現在もブラジル国籍、ペルー国籍、フィリピン国籍の人たちはそれぞれの共同体を構成しており、大きな家族である浜松教会の中のいわば小家族として、教会の将来を担う貴重な戦力となっている。昔に比べると信徒数は減っているとは言え、「世界に広がる教会」の縮図にふさわしい現況である。

私自身は先に述べたように、浜松教会へ行くのは年に数回。むしろ最近は他県の介護業界仲間で、信者である方との交流が中心になっている。それはそれでクリスチャンとしての一つの生き方だと思うし、いずれ機会が訪れれば、浜松教会のためにできることを奉仕したいのは言うまでもない。

一度キリストに捕まったら逃れられないので(笑)、弱いながらも信仰を守りつつ、自分の間尺に合った信者人生を送りたいと思っている。

2016年3月 9日 (水)

人と会い、人と語り・・・(3)

介護業界を中心に、ラーメン好きの人たちが集まった秘密グループがあり、京都府の丹後から兵庫県の西宮にかけて、中軸メンバーの一大拠点がある。グループの名称を開示するわけにはいかないので、仮にその人たちを「関西アホ仲間(←一応、美称なのだ!)」と称しておく。

過去の例会?の様子は、「関西ラーメン道の豪傑連」で紹介しておいたので、こちらを参照されたい。

さて、私もこの関西アホ仲間の準会員にさせられてしまっていた(・・・と思い込んでいたが、後日「準会員」なる会員資格は存在しないことが判明したので、だとすると「正会員」になるのだろうか・・・?)ため、年一回ぐらいはグループの行事に参加しようと、去る3月5日、大阪まで足を運んでみた。季節外れの陽気で、厚着するかどうか苦慮する気候であった。

ラーメンを食べるために関西まで行く人が、浜松に何人いるかわからないが、私もその一人である人は確かである。

当日はアホ仲間代表の稲岡さんと、メンバーの小田原さん・白井さんの三人が、大阪松竹座で「スーパー歌舞伎・ワンピース」を観劇されていたので、幸地さん・宮垣さんなど他のメンバーと一緒に、先に串カツ店の「横綱」法善寺横丁店に集合して一杯飲み始めることになった。関西からは業界仲間の大羽さんと、その関西在住の友人の方々が参加、新たな仲間が加わって一層にぎやかな会となった。建築や設計といった人たちも交流の輪に加わったのは大きな進展だ。

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そのあと、歌舞伎を見終わった三人に加え、出演者の一人であった役者の市川澤路さん(「歌舞伎初鑑賞」を参照)も合流してくださった。当初予定したラー店が人数の関係で難しかったらしく、アホ仲間の役員さんたちの判断で「神座(かむくら)」に移動。白菜入りのマイルドなスープで、飲みのあとの締めに向いている。私は「小チャーシュー・味玉入り」を注文。結構ボリュームがあり、旨し。

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業界仲間の家庭の話題やら、歌舞伎の話題やらで、短い時間ながら刺激を得られた交流であった。

翌6日は、14年前に他界した父が尊敬していた、ジュスト高山右近のゆかりの地・高槻へ移動、聖歌を唱えカトリック高槻教会まで歩き、城跡周辺を巡礼しながら、しばし黙想。右近は先日、フランシスコ・ローマ教皇から「福者」に列せられることが決定したので、今年は地元の信者さんたちにとって、とりわけ喜ばしい年であろう。

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そのまま京都へ入り、神社仏閣はスルーして、鴨川の六条河原へ向かった。1619年10月6日、ここで福者・橋本如庵をはじめとする52人の篤信のキリシタンたちが、火刑により殉教を遂げたのである(「京都の大殉教」)。その正確な場所はすでにわからなくなっているが、河原のおそらくこの辺りであろうと思われる場所に足を停めて、信仰のために迫害された福者たちに祈りを捧げ、世界平和への取り次ぎを願った。

京都駅へ戻り、旧知の画家・中村晴信さんと再会。中村さんの案内で、駅近くの超人気店「新福菜館本店」へ。隣の「第一旭」も超人気店なので、二人でどちらにするか迷ったが、行列が少しでも短い前者を選んだ。ブラックのスープがとりわけ美味しい! チャーシューもしっかり。メンマ増しの「竹入り」を頼んだのだが、そのメンマもスープと好くマッチングしていた。中華と言うより、和風ラーメンの粋と称すべきだろうか。名前に恥じない味である。

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中村さんは浜松出身で、コネも情実もなく徒手空拳で、つまり腕一本の実力だけでがんばっておられる、中堅どころの洋画家だ。人の心を癒す優しい風景画が中心である。この日は氏とラーメンをご一緒しながら、他の仕事を兼業しないと食べていけない現況などの苦労話をお聞きした。

30代の一時期、介護福祉施設でもパートのお仕事をされていたことがあり、私が提唱する「部分的介護就労」にも通じるものがあろう。この3月23日(水)から28日(月)にかけて、中村さんは浦和市(伊勢丹浦和店)で個展を開かれるので、氏のブログのエントリー(「DM出来ました」)をリンクしておく。関東方面の方、特に事業所の新築・増築などで壁に飾る絵画が欲しいけれど、お財布の事情で大物画家の高価な作品はちょっと・・・という方は、好いチャンスなので、ぜひ浦和まで足をお運びいただきたい。

思えば、稲岡さんや市川澤路さんに続き、昨秋お会いした奥平幹也さん、そして今回の中村さんと、近年私がサシで食事した方の半数ぐらいは、同じカトリック教会の信者さんである。偏っているとは思わないが、価値観を共有する相手との対話が多くなるのは、自然の勢いであろう。そのような交流の中から、互いに何か少しでも得るものがあれば、これに過ぎることはないのではないだろうか。

2015年4月 3日 (金)

バラバはどこへ?

新約聖書の福音書に「バラバ」なる人物が登場する。キリスト教徒の間では誰知らぬ者のない名前だ。

きょうは聖金曜日、イエス-キリストが十字架につけられた日。私たちのカトリック教会でも、主の受難の祭儀が行われ、福音書のその箇所が読まれる。イエス役の司祭、ナレーター、他の登場人物(一人で兼任)の三人が祭壇の前に立ち、会衆はみな「群衆」の役になる。

ローマ総督ポンティオ-ピラトが、二人の囚人のうちどちらを釈放してほしいか群衆に問いかける場面で、群衆は声をそろえて「バラバを」と釈放を希望し、イエスに対しては「十字架につけろ」と叫ぶ。

ローマの支配に抵抗する政治運動を期待していたユダヤの民衆は、愛を説くイエスに失望した。バラバは(おそらく)反ローマ暴動を起こし、(おそらく)支配層側(ローマ駐屯軍、ユダヤの王家、大祭司側などの勢力)の人を殺して投獄されていたので、民衆は彼が自由になって再起し、ユダヤがローマからの独立を勝ち取ることに望みをかけたのであろう。

しかし、ここから後のバラバの消息については、全く伝えられていない。

支配層がバラバを釈放したポーズだけ見せて、実は謀殺した・・・などといったことは考えられない。民衆の気持ちを逆撫ですることになり、かえって次の騒動を引き起こす恐れが生じるから。であれば、とりあえずバラバは、急病や事故で倒れでもしていない限り、自分の政治活動に戻ったと推測されるが、その足跡は杳としてつかめず、歴史は彼について沈黙を守っている。仮にバラバが道半ばで倒れたとしても、その意志を受け継いだ活動すら、何ら痕跡を残していない。

他方、十字架刑で死んだイエスの教えは、数え切れない人々の心を治めている。

力で現状を打開しようとした人のほうが、埋もれてしまったのだ。

バラバはどこへ?

2014年12月29日 (月)

初心に帰って

2014年もあと二日余りを残すのみとなった。

この時期になると、メディアでは「この一年を振り返る」企画が目白押しだ。またネット上でも、みなさんそれぞれが、個人史の中のこの一年を、さまざまな思いで振り返っておられることであろう。

私は、カトリック浜松教会に所属する信徒である。しかし、今年になって教会へ行った回数を数えると、神の母聖マリアの祝日(元日)、復活徹夜祭、聖母マリアの被昇天(8月15日)、クリスマスと、たった四回である。行けない事情は仕事や家事などに起因していて単純なものではないが、個人的にイエス‐キリストへの信仰が薄くなっているとは感じていない。毎日、主の祈りとアヴェ‐マリアとを唱えているし、困難に突き当たったとき、必ずキリストが手を差し伸べてくださると信じている。

しかし、カトリックは共同体を基盤に置く教会である。個人が神を信じ、キリストを信じるだけで十分だとはしていない。もし教会のミサで他の信者たちと交流する機会が乏しいのであれば、別の方法でそれを補わなければならない。私はMAF Hamamatsu(浜松外国人医療援助会)のメンバーであるから、その会合などで久保田君枝さん(MAF副会長)や山城ロベルトくん(MAF事務局長)など、何人かの信徒の方々と交流しているが、最近はこのボランティア団体のメイン企画が終了したことにより、会合もまれになっている。

そこで、私が活用しているのがFacebook(以下、FB)である。SNSを活用して共同体の友である方々と交流しながら、霊性を高めるべく努める。インターネットの最も望ましい使い方ではないだろうか。

昨年秋、FBにアカウント登録した直後、三人目か四人目かで友達申請をくださったのが、以前から交流があった橋本正士さんである。橋本さんは私より2~3年遅く徳島県で社会福祉士・ケアマネジャーを開業され、現在も居宅介護支援や成年後見を続け、筋を通した真摯な仕事のスタイルで、息の長い活動をされている。

その後は、だいぶ前にFBへ誘ってくださった埼玉県の浅川善弘さん(未対面。社会福祉士)や、前の所属教会でお付き合いがあった京都府在住の中村晴信さん(画家)ともFBでの交流が始まった。浅川さんは教会史に該博な方で、私が詳しくない部門についても的確な知見を分けてくださる方だ。中村さんの絵は人の心を和ませる風景画がおもなもので、氏の優しさがにじみ出ている作品が多い。

〔※2015.03.18追記;その後、浅川さんとは事情があってFB友達関係を解消している〕

そして、この一年、最も強いインパクトをいただいたのは、やはり丹後の稲岡錠二さんからであろう。稲岡さんに関しては、先に「無いからこそ、創る」のエントリーで詳しくご紹介したが、氏の活動力と友愛精神には脱帽するしかない。この厳しい時代の中で、私たちの行く手を照らす世の光と言うべきであり、業界仲間としてのみならず、信仰面でも良き模範とさせていただくに足る人物だ。稲岡さんとの出会いは、キリストに近い道を踏み外さないために私たちはどうあるべきか、との命題について、貴重な示唆を与えてくれた。

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自分が受洗したのは学生のときなので、すでに31年になる。あのときの感動を忘れないようにしたいと思う。

夏には音楽講師の後藤京子さん、そしてクリスマスには歌舞伎役者の市川澤路さん(未対面)とも、FBを通してつながることができた。偶然だが、お二人ともそれぞれ、新垣壬敏先生(私が洗礼を受けた東京の関口教会で聖歌隊を指導されていた)やそのご家族とお付き合いがあるとのこと。これも私に「初心に帰れ」という啓示なのだろうか。

中村さんもそうだが、文化・芸術系の方々との交流は、介護・福祉系とは別の視点から生活を省みる機会になり、良き学びとなっている。

また、稲岡さん、後藤さん、市川さんはラーメンで結ばれた同好の士でもある。いつか四人でラーメンを楽しみながら、信仰の分かち合いをする機会が来るかも知れない。

年の瀬に、信仰生活を振り返ってみた。

2014年8月15日 (金)

平和を祈ろう

カトリック教会の平和旬間(8/6~/15)に当たり、五回に分けて、思うがままに文をつづってみた。

一つひとつのエントリーが独立しているため、随筆集のようになったが、自分なりに全体の筋は貫いたつもりである。

平和を唱えているだけでは、守ることができない。価値観の押しつけや暴力の応酬は不毛である。いま私たちは、個人が、地域社会が、国家が、そして国際社会が何をすべきか、原点に戻って真摯に考えなければならない時期を迎えている。そのためには、他者に惑わされず、能動的に情報を獲得していかなければならない。日本をめぐる国際情勢を自分の頭で把握し、分析し、他者に説明できる判断根拠に基づいて、自分の言葉で発信していくことが求められている。

一人ひとりのそのような行動が多くの人たちの共感を呼び、実りある活動が波紋のように広がっていけば、これに過ぎるものはない。

一連のエントリーの掉尾を、私たちの教会で唱えられている、アッシジの聖フランシスコ(1182-1226)「平和を求める祈り」で締め括りたい。

フランシスコ自身がこの祈りを唱えたものではなく、その思想が祈祷文の形に整理され、現代の教会が追認したものだ。祈祷文が現在の形になったのは、20世紀に入ってからであり、おそらくフランシスコが神の僕(しもべ)として、常に目指していたものを、最も良く表現していると認められた内容であろう。

他宗派の方も、部分的にでも結構なので、共感していただけると幸いである。

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*平和を求める祈り*

わたしをあなた(神)の平和の道具としてお使いください
憎しみのあるところに 愛を
いさかいのあるところに ゆるしを
分裂のあるところに 一致を
疑惑のあるところに 信仰を
誤っているところに 真理を
絶望のあるところに 希望を
闇に 光を
悲しみのあるところに 喜びを
もたらすものとしてください
慰められるよりは 慰めることを
理解されるよりは 理解することを
愛されるよりは 愛することを
わたしが求めますように
わたしたちは 与えるから受け ゆるすからゆるされ
自分を捨てて死に 永遠のいのちをいただくのですから

2013年8月15日 (木)

8月15日

今日、8月15日は言うまでもなく敗戦の日ですが、私たちカトリック信徒にとっては別の記念日でもあります。それは「聖母の被昇天」。イエスの母・聖マリアが死と同時に天に上げられた日です。

キリスト教に関心の薄い人は、マリアのことを「女神」だと誤解している向きもあるようですが、マリアはあくまでも人間です。ただし、救い主イエスの母となるため、人間の「原罪」を免除されているというのが、私たちの信仰による考え方です。従って、マリアは諸聖人たち(ペトロ、パウロ、ヨハネ、あるいは後世のフランシスコなどもすべて含めて)の筆頭であり、私たち人間のために、神様に取り次ぎ、執り成しをしてくださる方として、祈りの対象になっています。

しかし、女神ではなく人間ですから、自ら天に昇ることはできませんでした。ですから「被昇天」、英語でアサンプション(assumption)と呼ばれるのです。一方、イエスが天に昇られた祝日は、復活の主日から40日後の木曜日。イエスの場合は神と一体ですから、自ら天に昇られたという意味の「昇天」、英語でアセンション(ascension)となります。ちなみに、南米パラグアイの首都アスンシオーン(スペイン語)は、前者の「被昇天」のことです。

いずれにせよ、私にとっては自分の日常を振り返り、イエスのみ心に立ち戻るべく祈りを捧げる一日。今日は多用とは言え、久し振りに教会のミサにあずかり、静かに黙想してまいりました。

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