信仰

2021年3月 8日 (月)

あれから三年

3月8日の朝。しとしとと降り続く雨が、本格的な春の訪れを露払いしている。ちょうど三年前の同じ日に亡き母を葬送したときも、こんな天候であった。

帰天してもう三年にもなるんだなぁ、と思い返しつつ、在りし日の母の姿を、改めて頭の中に浮かべてみる。

夢の中に母が登場したのは二回だけ。

はじめの一回は葬送から数日後、存命のときとは反対側(祭壇がある側)を向いて腰掛けていたので、「ぁ、もうこの世での罪を償って、神の国に召されたんだ」と納得したものだ。

もう一回は私の59歳の誕生日(一昨年の10月)。私と一緒に何かを待ってくれていた。それが何だったかはわからない。来たるべき時代(たとえばコロナ禍のような)に備えなさいよ、との教えだったかも知れない。

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母は聖マリア(上の画像はカトリック浜松教会所蔵のマリア像)がイエス様を慈しみ育てたことを範と仰ぎ(本人の霊名も「マリア」)、私がいくつになっても「良き母」として振舞ってくれた。母の生きざまから学ぶことは多く、いまでも私の日ごろの過ごしかたには、母から吸収したスタイルが多く根付いている。

私が20歳前後のとき、母はよくこんなことを言っていた。

「友達や仲間でも、お金を貸してくれと言ってきたら、もうそこで縁を切りなさいよ」

60歳になる現在まで、私が大きな事件やトラブルに巻き込まれずに過ごしてこられたのは、この言葉の賜物だと言えよう。

他にも心に残る遺訓がいくつかあるので、いまだに何か迷ったときには、「母だったらどう行動しただろうか?」と考えながら判断することもしばしばだ。

最近は墓参に行く機会も減ってしまったが、父の帰天記念日(2/9)直後にシンプルな花を活けてきた。また遠からず墓前へ出向いて、これからの生活の構想など、両親に報告してこようかと思っている。

2021年2月 9日 (火)

ジュスト高山右近を尊敬していた父

2月9日。父が2002年に80歳で他界してから満19年。もうそんなに経つのかと、在りし日のことを懐かしく想い起こしている。

一昨日、7日は福者ジュスト高山右近(長房・重友/1552?~1615.02.03。画像は教会の祈りのカードに印刷された、三牧樺ず子氏による右近の肖像画)の列福式から、ちょうど4年になる。自分も一か月ぶりに教会へ足を運び、四百年前に日本から追放されてフィリピンで客死(殉教者と認定)した、右近の生きざまを思い起こしながら、ミサに与った。

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実は父の霊名が「ジュスト(ユストとも発音する。もとはラテン語で「正義の人」の意味)」なのである。

父は代々仏教の家の生まれであり、若いころはその宗派の典籍を買っていろいろ読んでいた。50代になってからは新興宗教に転向し、そちらの勉強を熱心にしていた。一つの教えに熱中すると他の宗教を軽蔑する性癖があり、そのいささか偏った宗教観に辟易したこともあったが、父本人の意思である以上、他界したときには希望する宗教のやりかたで葬祭をしてやっても良いと考えていた。

ところが70代の終わりに、そろそろ先のことを決めておかないと思い、父に尋ねたところ、意外な答えだった。

「お前が信じている教会のやりかたでいいよ」

ある意味、宗教遍歴を重ねてきた父が、何がきっかけだったのかわからないが、思いがけずカトリックの考え方に心を寄せていたらしい。

そして、それと前後する時期に父が、「高山右近を尊敬している」と言っていたのだ。

その後、2001年の秋から父の認知症が進行して、母の負担が増大したので、通所介護を利用するようになったが、身体面では大きな疾患も機能低下もなく生活していた。2002年の2月に入ると、たいへん弱気の言葉を吐いたことがあり、生きる力が無くなったのかなぁ、と悲しくなったことはあったが、亡くなる前日までは病気らしい病気も無く過ごしていた。

9日の朝、母が起こしても目を覚まさず、これは危篤状態だとすぐに察知。しかし私はあいにく、すぐにキャンセルできない仕事を抱えていたため、母に後を頼んで出掛け、戻ったときにはすでに息をしていなかった。主治医が診療の合間に駆け付けてくださり、死亡診断。さて、あとはどうするか?

何しろ父は、「教会で葬儀をしてほしい」「高山右近を尊敬する」の二つしか言い遺していないのだから、他に選択の余地はない。霊名「ジュスト」で臨終洗礼を行い、あとで小林神父様(当時の浜松教会主任司祭)に追認していただいた。葬儀ミサも11日、小林師の司式で、無事に終えることができた。

父は欠点の多い人で、とても右近を手本に生きてきたとは言い難いところがあるが、それでも「義の人」右近の生涯の歩みを、何かの本を読んで知ったことで、それを心に刻み、信仰者の模範的な姿として敬慕していたのであろう。

このような父とのつながりがあったために、右近が福者に列せられたことは、私個人としても大きな喜びなのである。

さらに、カトリック教会がいつか右近を聖人の列に加えてくださり、私たちがこれまで以上に彼を崇敬し、その取り次ぎを願うことができるように、祈りを続けたい。

2021年1月 9日 (土)

教会で祈ること

クリスマスや新年。例年と様相を異にする社会情勢の中での年末年始となったが、みなさんはどのように過ごされただろうか?

私は普段通りに教会(カトリック浜松教会)へ行き、神に祈りを捧げた。12月25日(金)10時から「主の降誕/日中のミサ」、1月1日(金)10時から「神の母聖マリアの祝日」。どちらも前夜から複数回にわたってミサが開祭され、会衆(参列者)同士の距離を確保する人数制限も設けられ、マスク着用や名簿への連絡先記入が義務付けられていた。

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すでに新型コロナウイルスが蔓延して一年近く、当初は司祭と教会委員会の方々のご苦心により、ミサの形式を試行錯誤しながら実施されていたが、いまは毎日曜日(「主日のミサ」)を中心に、祭儀の一連の手順や方式が定着している。せっかく教会まで来ながら、ミサの時間帯によっては満席で聖堂に入れず、帰宅して家で祈るか、または次のミサを(たとえば9:30のミサに入れないと10:45のミサまで)待つ人も出てしまっているが、感染予防対策の観点からは、いたしかたないであろう。

私たちにとって大切なのは「心の糧」である。福音書に記述され、二千年余の間に受け継がれてきたイエスの「みことば」を司祭の口を通して聴くことにより、日々の暮らしへの活力をいただく。

もちろん、信仰は自分自身の真心から発するものであるから、家で一人、一家族だけで祈っても構わないのだが、カトリック教会の場合は、教団の結び付きを古来重んじてきた伝統がある。それはコロナ禍にあっても変わらない。現に70歳以上の信徒は、ミサへの参列義務は免除されているが、それでも熱心な高齢者は、進行を同じくする友たちの顔を見て、(物理的な距離を取りながらも)お互いの近況を語り合うことにより、精神面の栄養を得ている。

そのような状況も踏まえて、私自身は9月以降、毎月一回はミサに参列することにした。

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実際、神の母聖マリアの祝日=元日には、古くからの信徒が相当数参列していたので、私も久しぶりに会う何人かの方々と交歓することができた。いまのところ、浜松市内や県西部の教会(全部で5か所)でクラスターが発生したとの報もなく、まずは平穏な中での「分かち合い」ができている。

しかし、世の中の課題は新型コロナ対策だけではない。この日は世界中のカトリック信者が心を合わせて平和を祈る日でもある。そして、祈りは始まりに過ぎない。現実の社会では、戦争、暴力、飢餓、貧困、疫病(コロナ以外にもさまざまだ)のために、命を失う子どもたちの数が何と多いことか。私たちは日本国内のみならず、海外の次世代に対しても責任を負っている。一人ひとりの力は微小なものかも知れないが、たとえば食物ロスを減らす、フェアトレードに参画する、現地で活動する人たちに金銭面の支援をするなど、わずかでも良いので、自分にできることから始めていくことは大切だ。何もしなければ何も変わらない。人々が社会正義のため動き出してこそ、神の大いなる力を寄り頼むことができるのだから。

そのようなことを年末年始に思い巡らしていた。

教会へなかなか足を運ばない不信心な私ではあるが、今後も祈りとささやかな実践とを欠かさないようにしたい。

2020年8月 9日 (日)

「平和」をどう考えるか?

私たち日本のカトリック教会の信者は、8月6日から15日までの十日間を「平和旬間」と呼ぶ。

例年ならば、このうちのどこかの日に教会へ行き、ミサに参列して祈りを捧げる。しかし、今年は新型コロナウイルスの影響により、大聖堂に入れる人数に制限が設けられた。当然、本日や次の日曜日・16日には、来場する信徒も多いと思うので、行くのを見合わせ、月の後半に出向こうと考えている。

きょう8月9日は、75年前、長崎に原爆が投下された日である。まずは当時の犠牲者の方々に、深い哀悼の意を捧げたい。

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さて、私たちは「世界平和」をどう実現するのか?...と言ってしまうと、主題が広くなり過ぎるので、ここは一点に絞って考えてみよう。

「核兵器を廃絶すれば(そんなに簡単に実現できるとは思えないが、もしできた場合は)世界は平和へ向かうのか?」

実は、必ずしもそうとは言い切れないのだ。以下にその理由を列挙してみる。

第一に、国際的な監視システムの確立が難しいことである。

核兵器の廃絶とは、すべての核保有国(米国・英国・フランス・中国・ロシア・インド・パキスタン・北朝鮮・イスラエル)が核兵器を廃棄し、かつ核開発能力を持つ国(日本・ドイツやイランを含めたいくつかの国)が開発のために使用可能な設備を廃棄することだ。これが実現できれば「核兵器の廃絶」となる。核兵器禁止条約はもちろんここを目指している。

しかし、仮にこれが本当に実現したとしても、平和へ向かうとは考えられない。なぜなら、その状態を維持していくためには、途方もなく緻密な国際監視体制が必要になるからだ。当然、「旧」核保有国は、いざ自国の安全保障上必要な事態が起これば、再度核開発を始める可能性があるのだ。

もし、A国が核の再開発を始めたとしよう。いまの情報社会であるから、当然、敵対するB国にはその情報が伝わる。B国は以前核兵器を持っていたとしても、いまは廃棄している。A国が核兵器を再保有してからでは、自国の安全保障に重大な問題を来たす。したがって、A国が再保有しないうちに攻撃しようということになる。国際監視体制により国連軍がA国を攻撃することは、たいへん考えにくい(いまの五大国拒否権がある限り無理である)。したがって、B国はA国を通常兵器で攻撃する。それにA国は対抗して戦争が起きる。他のすべての国がB国側に立てば、すぐに戦争は終わるかも知れないが、そうはならない。A国側もあらかじめ味方になってくれる大国を確保しておくであろう。となれば、世界の大国の多くがそれぞれの側に立って参戦する事態になりかねず、そのまま第三次世界大戦が勃発する可能性は小さくない。

第二に、核兵器が世界から本当に消えた場合、核以外の兵器で比較優位に立つ国の暴走が起きやすくなることだ。

上記のような「核保有」レベルの諸大国を直接巻き込まなければ、地域大国を目指す国が核以外の兵器で対立する国を攻撃する可能性は、現在より大きくなる。西欧や北米などを除き、世界の各地では現在でも「小競り合い」が起きているが、核廃絶後には、それを超えたレベルの戦争が各地で勃発する危険性は、高まると予測せざるを得ない。また、「旧」核保有国が、核の再開発をチラつかせて、通常兵器での戦争を仕掛けやすくなることも軽視できない。

これ以外にもあると思われるが、この二つがおもに私が「核廃絶がかえって悪い結果を生むかも知れない」と予測する理由だ。

もちろん、広島や長崎の被爆者や、その心を受け継ぐ人々に、冷水を浴びせる意図はない。私自身、現在の暫定的な効果はともかく、長期的には決して核兵器の抑止力を良いものだと考えているわけではないので、誤解なきよう願いたい。冷静に分析すると、核廃絶だけに邁進するのが良策とは言い難いのだ。

私自身、クリスチャンとして、いずれはキリストが勝利し、戦争のない地球が実現することを信じている。それは遠い先のことであると言わざるを得ない。少なくとも、私がこの世に生きているうちには無理である。

これは人類永遠の課題であろう。

2019年4月23日 (火)

復活祭二題

今年の復活祭は、4月21日で、たいへん遅い暦日となった。それが影響したのか、しばしば「寒の戻り」「花冷え」といった現症が繰り返され、寒暖の差で体調を整えるのが難しい年だった。

とは言え、大病も大きな事故もなく、この時期を迎えることができた。ささやかではあるが、好きなワインを飲みながら、手製の一品料理でディナーを摂り、主のご復活を祝っている(画像はイタリア産、祝典用のバローロ)。

さて、復活祭に関連して、今年は二つの大きなできごとがあった。これはある意味で神様からの「発題」なのかも知れないと思い、それぞれの「お題」について黙想してみた。

一つの「お題」は、パリ(フランス)のノートルダム大聖堂の大部分が、火災によって消失した事案。

このニュースが報じられた直後に思ったのは、

「建物としての聖堂が焼失しても、心の殿堂は決して消失しない」。

その後、何日か経過すると、世界の各地から再建のための支援が続々と寄せられることが話題となった。

それに対して、「聖堂に寄付するよりも、困ってる人たちを助けろ」との批判。日本の介護・福祉関係者にもそう言い出す人がいる。

私が思ったのは、

「でも、その批判、『生活保護でパチンコ行くな!』って、外野が勝手に使途を決めて、受給者を非難攻撃するのと変わらないよね」。

宗教的情熱か、売名行為か知らないが、その国で法律上の問題さえ起こさなければ、個人の資産をどう使おうと自由なはず。まさに「自己決定」だ。

社会的成功を収めた人が、得た利潤を社会に還元するのは〔キリスト教的な〕義務であろう。しかし還元する対象が、人々の祈りの場である教会であったとしても、全く道義的に問題とされるものではない。

聖堂の再建へ向けて人々が心を合わせることにより、国境やセクトを超えた連帯が生まれるのならば、それは喜ばしいことではないだろうか?

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もう一つの「お題」は、コロンボ(スリ‐ランカ)の複数の教会など6箇所の建物が、おそらくテロリストが仕掛けたと推測される爆発物によって破壊され、多くの死者が出た事案である。

テロリストたち(-イスラーム過激派だと考えられるが、同国ではかつて仏教徒とヒンドゥー教徒も、血を血で洗う抗争を繰り広げた。キリスト教を含めた多くの宗教には、異教徒たちの殺戮をいとわない人たちは存在する。日本でもかつてオウム真理教がそうであった。イスラーム教だけが非難されるべきではない。念のため-)の所業は、道義的にも法的にも許されない行為である。これは圧倒的多数の人たちが共有する見解であろう。

しかし、イエス‐キリストは十字架上で想像を絶する苦痛の中にありながら、こう仰った。

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです(ルカ福音書23-34)」

この言葉をゴルゴタの丘で聴いた人たちの衝撃は、いかほどであっただろうか。

そして、私たちも信徒である以上、イエスにならうべきである。

テロリストたちが同国の法にのっとった裁きを受けるべきなのは当然であるが、彼らの魂の救済のために、神のお赦しを祈りたい。

2018年11月 5日 (月)

「死者の月」に当たり

世間では先週、ハロウィーンでにぎわっていたようだ。もともと日本社会には縁が薄かった米国輸入の祝祭が、1990年代あたりから注目され、民間ベースで各地の行事などに取り入れられた結果、近年は渋谷を中心として、全国的に異様な盛り上がりを見せている。

ところで、このハロウィーンは何の祝祭かと言うと、実は11月1日に定められているカトリック教会の「諸聖人の日」のいわば前夜祭なのだ。それも、元来はキリスト教が入ってくる以前に10月31日に行われていたケルト人ドルイドたちの祭りを、アイルランドやスコットランドの教会側が、地元ベースで結び付けたものである。したがって、公式にはカトリック教会の祝祭日になっているものではない。

このハロウィーンが、アイルランドやスコットランドからの移民によってアメリカ大陸へ伝えられ、全米的な大衆文化として広まった。それが日本でも、これを商機と捉える関連企業をはじめとする利害関係者によりPRされ、SNSなどネットを介して普及してきたのである。

さて、カトリック教会では、信仰のために大きな業績があった人たち、特に列聖された人たち(聖ペトロなど)や殉教者たちを記念し、神への取り次ぎを願って、11月1日に「諸聖人の日」を祝う。

その翌日、11月2日は、キリストを信じて帰天したすべての死者を祈念する「死者の日」である。信仰に生きた人たちに敬愛の念を捧げ、神に向かって執り成してくれるように祈願する。この日に限らず、11月を通して、一か月が「死者の月」とされている。

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浜松教会では、4日(日曜日)のミサの前に、信徒会の役員さんが今年帰天した信徒の名前を読み上げてくださった。私の母の名も入っていた。

主日のミサは山野内神父様の司式で行われ、祈願文の中ですべての死者のために祈りが捧げられた。講話では「神を愛することで、自分も神から愛される」意味について、説いてくださった。その話を聞いていて、私は教会のテーマを思い出した。

あと二か月を残すのみとなったが、2018年の浜松教会のテーマは、サレジオ会(山野内神父様の所属修道会)が掲げる「主よ、その水をください(画像)」である。ヨハネ福音書4章15節にある挿話。井戸に水を汲みに来たサマリア人の女性に対し、イエス‐キリストが「私が与える水を飲む者は決して渇かない」と言ったので、女性はイエスに「主よ、その水をください」と願ったエピソード。

ここでイエスが言われた「水」は、真理のことである。

キリストを信じて生きた人たちは、二千年の長きにわたって、その「水」を受け継ぎ、次の世代に伝えてきた。そこには人間社会をより理想に近付けようとする悠久の営みがあった。

私の母は晩年に受洗したので、典型的なキリスト者の生活を送ってはこなかったかも知れない。しかし、母が私に遺した訓戒「誰にでも心を開いて付き合いなさい」は、イエスの教えを母なりに受け継いだものにほかならないであろう。母はそれを自分の身に着けた流儀として、人生を生き抜いた。そしてそれを息子である私に伝えていく...

「死者の月」である11月、このようなことを題材に黙想しながら、自分が歩むべき道を模索してみたい。

仏教の「お盆」とはかなり異なるが、亡くなった親族を敬愛して偲び、その霊魂の働きによって、いま生きている自分たち家族の発展と平安とがもたらされるように願う点では、共通するものも大きいだろう。ハロウィーンの単発的なお祭り騒ぎに終わるのではなく、これを契機として、宗教が異なる多くの人たちにも、私たちの祈りの一か月を理解してもらえると幸いである。

2018年6月24日 (日)

殉教者ゆかりの地を訪ねて

ここ二年あまり、巡礼に行っていなかった。

それ以前も毎年どこかへ巡礼していたわけではないのだが、最近は自分自身の節目の企画や、母の介護のため浜松を離れるのが難しく、出かける余裕がないままに時が過ぎてしまっていたのだ。

そこで、母の追悼が一段落したのを機に、両親の安息を祈りながら心の平安を求めたいと思い立って、旅を企画してみた。

どこへ出かけようか考えたが、一昨年訪れた高槻教会、福者ジュスト高山右近に縁があった人の中で、福者ディエゴ(了五)加賀山隼人正興良の殉教地へまだ行っていなかったと思い、行き先を小倉教会に決めた。

私は2003年、用事で熊本を訪れた際に、福者マリア小笠原みや一家15人が藩主細川家の禁教令に従わなかったため斬首され殉教した、花岡山公園の碑文のところまで巡礼している。加賀山隼人は小笠原みやの父に当たり、細川家が熊本へ転封する前の豊前藩主時代、重臣として細川忠興に仕えていた。キリシタン時代、彼は小倉教会(当時)の中心人物であったのだ。

小倉教会には事前に問い合わせ、17日午前9時のミサに出る予定で、前日の16日夕方に小倉入りした。一年で一番日が長い時期なので、ホテルに荷物を置いて門司港まで足を延ばす。

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過去、ここに来たのは一回だけであるが、何年前だっただろうか、もう覚えていないほどである。海峡に面したレトロで風光明媚な街並みは、旅する人の気持ちを柔和にさせてくれる。一時間半ぐらい、ゆっくりと街を散策。屋外でヴァイオリンとピアノのジャズコンサートが演じられていた。

肌寒くなったので門司港から引き上げ、小倉に戻って夕食。知人から教わった店「あそび割烹・華柳」へ。

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ここでは関門蛸、ごまアジをはじめ、新鮮な北九州の味を満喫。お薦めの店だけあって一つ一つの素材が良い。また、皿のふちの裏側がしっかり洗ってあるなど、食器の扱いも丁寧である。満足度大。

一夜明けて、小倉教会の午前のミサに参列するためにホテルを出る。カトリックの巡礼は仏教のお遍路さんとは異なるが、目的地の教会までは聖歌を口ずさんだり祈ったりしながら、便利な交通機関をなるべく使わずに歩くのが基本だ。スマホで位置を確認しつつ、25分ほど歩き、時間に余裕を持って小倉教会に到着。

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北九州の拠点の教会だが、全体として簡素な造りで、人を招き入れる場にふさわしい。聖堂のイエス様は、長めのひげを垂らして老成したお姿を示し、独特のご像であった。この日はミサ後に信徒総会が予定されており、神父様は講話の中で、教会共同体の意義について述べ、神様への聖母マリアと加賀山隼人との執り成しを祈っておられた。

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加賀山隼人については、自分のHPに掲載しているので、そちらをご一読されたい。

教会の前、通りに面した側には、説教する隼人の姿と、歌会で詠んだ短歌を記した碑文が建てられている。信仰に生き、心の自由を守るために一命を捧げた人の生きざまに思いを馳せた。

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一時間余りでミサが閉祭。これでひとまず巡礼を済ませたので、次の目的地へ向かった。実は、信徒の方お二人が偶然、それぞれ別の用事で博多に滞在されていたので、午後と夜とにお会いすることになっていたのである。

次回へ続く)

2018年3月 9日 (金)

「行っていいよ」

私の母は1926(大正15)年8月7日、名古屋市中村区で、二男六女(夭折した者を含む)の三番目(二女)として出生した。高等女学校を卒業後、戦時中には軍需工場で働き、戦後は実家で病弱な父親と兄(私から見れば祖父と伯父)とを抱え、銀行などで働いて家計を支えた。

1953年、父と結婚して名古屋を離れ、磐田市中泉のアパートに居住。1960年に私が生まれたころには、仕事をやめて専業主婦になっていた。父は勤務先で大したポストに就けなかったのにもかかわらず、見栄を張って気前良く散財する性癖があったため、母は家計を緊縮して節約するのに苦労しながら、貯蓄にいそしみ、1970年にいまの自宅を手に入れ、家族で浜松市(現・西区)の家へ転居した。

私が大学へ入り、東京に出て生活したことで、母は自分の時間を十分に持てたはずなのだが、母が一人で他出するのを父が極端に嫌ったので、後味の悪い結果を避けたかった母は、旅行一つ行くことがままならず、不自由を余儀なくされた。そこで、その代償として、もともと編み物で師範の資格を持つほど器用であった母は、手芸を中心とした趣味活動に打ち込むようになった(なお、父の帰天後は、私が同伴して4回ほど旅行に出かけている)。

浄土真宗の家庭に生まれ、曹洞宗の家に嫁いだ母であったが、1965年に私を磐田聖マリア幼稚園へ入園させたことを機に、イエス‐キリストからのお招きをいただくことになる。浜松に転居してからは教会と疎遠であったが、磐田教会のインド国内ハルルへの対外支援活動「愛の泉」に参加、子どもの里親として学費支援に協力するようになってから、再び教会の活動に近づく機会を得た。父が2002年に帰天(臨終洗礼)した後、母も教会の洗礼を望むようになったので、2006年には私が所属するカトリック浜松教会の小林陽一神父様に数回ご来宅いただき、公教要理のいわばダイジェスト版によるご指導を受けた。2007年に浜松教会にて受洗(霊名マリア)。

高齢になってからも趣味活動を続け、地域でも豊かな人付き合いを続けていた母であったが、体力の限界もあり活動から一つずつ引退していった。2011年に顔面神経麻痺を患ったのを機に、少しずつ身体的な制約が加わり、これまで一人でこなしていた家事も、掃除→買い物→調理と、少しずつ私が手伝う部分が増えていった。それでも洗濯だけは私の衣類も含め、一人でがんばって続けていた。

教会へは私が同伴してときどき赴いていたが、次第にミサ参列が難しくなったので、自宅での短い祈りを日課にしていた。2016年に一度だけ、私と一緒に教会へ行き、山野内公司神父様から霊的指導をいただいている。そのときの神父様のご助言は、「死へ向かうことよりも、いま一日一日をどう生きるかを大切にしましょう」。

2017年1月19日から高熱が続き、薬の副作用か、一時は味覚異常で摂食できなくなり、慢性心不全を持っていたことから予後が危ぶまれたが、味覚が正常に戻るに連れ、本人の努力もあって食欲が回復した。要介護3の状態になり、ADLも低下したとは言え、自宅内ではときどき見守りがあれば身の周りのことがこなせるようになり、介護サービスを受けながら平穏な在宅生活を送っていた。私の手料理が美味しいと喜んで食べてくれることも多かった。「私は神様に生かされているんだね」と何度も話していた。

交替で来宅するホームヘルパーさんたちには、信頼してケアを任せていた。また、隔週で利用・滞在するショートステイの職員さんや他利用者さん、陽気で懇切丁寧な管理指導をしてくださる訪問歯科衛生士さんなどとも、意欲的にコミュニケーションを取り、春夏秋冬、楽しい日々を過ごしたことが多かった。昨年の誕生日には、「私、91かね。まだ若いな。もう少し生きなければ」と言っていたものだ。

2018年に入り、正月の餅も連日無事に食べ、気になっていた右上下の第三大臼歯(おやしらず)の抜歯を済ませて、復活祭が来たらこれまでと違う美味しいものでも食べようか、と話し、本人も楽しみにしていたのだが...

3月4日(日)の昼食(インスタントラーメン)を普通に摂り、私も休日だったので二階の部屋へ引き上げて仮眠。ところが15時に階下の母の居室へ行くと、「胸が痛い! さっきから呼んでいるのよ...」と言い、姿勢を転々と変えながら発汗、苦悶していた。すぐ訪問看護に緊急相談、無理せずに救急車を、との助言に従い、聖隷三方原病院へ救急搬送、16時過ぎに入院となった。循環器科の医師の診断によると、心筋梗塞で心臓が止まりそうな状態。カテーテル手術等の侵襲は年齢から難しいので、点滴と医療用麻薬(苦痛緩和)の処置になるが、一般的にきょう一日のうち、早ければ1~2時間とのこと。

急遽、母の大親友だったOさん(70代前半、女性)に病院まで来てもらった。二人で母と話しながら見守っているうちに、18時半ごろには応答がなく下顎呼吸になり、心電図モニターの表示が著しく不整、かつ弱くなったので、二人で手足を握ったりさすったりしながら看取りモードに入った。その後、ややモニターの表示が落ち着いたので、Oさんにお礼を言って帰宅してもらった。麻薬が奏効したのか、自分で枕の位置を直し、発汗のため上半身の布団を手で除けるなど、少し力を取り戻した感があった。

モニターは弱目ながら安定が続いたため、21時30分ごろにいったん帰宅しようと、母の手を握って、「一度、家へ帰るよ。明日必ず来るからね」などと言っていたら、母はかすれ声ながらはっきり、「行(い)っていいよ」と返してくれた。私が母から聞いた最後の言葉。これまでの母の姿勢から推し測れば、単純に帰宅して良いとの意味ではなく、私に「自分の道を進め」と、背中を強く押してくれたものだと思う。

翌5日(月)の朝、朝食・ゴミ出し・洗濯などを終えて、身支度が終わった直後、病院から「下顎呼吸が始まったので、すぐ来てください」との電話が入った。間髪を置かず車で出発して、雨の中、25分ほどで病院に到着。病棟に駆け付けたときは8時57分、母はすでに目を開けず、身体を動かす力も残っていなかった。

母の手を握り、「お母さん! 本当によくがんばったね。長い間本当にありがとう」と声を掛けると、それを聞いて安堵したのか、5分後の9時2分にモニターの数字がすべてゼロを示し、息を引き取った(医師による死亡確認は9時6分)。入院して18時間のがんばりを経ての収束。残念ながら自宅での「大往生」はかなわなかったが、推測する限り、ただ一人の家族である私に看取られて91年6か月の人生を終えた母は、まずは幸せだったと言えるのではないだろうか。

母から息子である私への最後の教訓は、一年以上前、すでに聞いてあった。「誰にでも心を開いて付き合いなさい」。母が日頃から実践してきたことだ。そのために地域から「人が好過ぎる」と言われたこともあったが、またそれゆえに多くの人から愛されてきた。

7日(水)にカトリック浜松教会で行われた通夜では、同じ町内で母と親しかったWさん(女性。教会の信者)が、母と交流した思い出を話してくださった。またショートステイ利用施設(地理的に教会から近い)の職員5人が、訃報を聞き駆け付けてくださった。

8日(木)、山野内神父様の司式により、教会で葬儀ミサから告別式。母本人の意思を尊重して、親族など母をよく知る限られた人たちだけに声を掛けて執り行ったので、「義理で弔問するその他大勢」もおらず、とても好いインティミットな別れの場になった。出棺の後、親族以外でも、Oさん夫妻、および、母の代母(受洗の母親代わりの役)の娘さんであるK教授(女性)と、前述の幼稚園で53~51年前、新任のとき私のクラスを担当したS園長(女性)とが、一緒に斎場まで行って拾骨までしてくださった。KさんもSさんも教会の信者で、晩年に受洗した母にとっては、教会共同体での数少ない友であったのだ。

強く、自分の信念を持って生き抜いた母の生活態度は、私にとってもこの上なく大きな学びであった。おそらく、これからも遺影(元写真の撮影者はOさんの旦那さん)を見るたびに、「行っていいよ」と励ます声を聞くことだろう。

ちょうど、5日も8日も雨になったことから、アイルランドの口碑(oral tradition)の中にあった言葉を思い起こす。

「一生を晴ればれと生きた善人ならば、帰天した日と葬儀の日は、浄罪(天国へ行く前に、生前の罪を償って清めること)の日なので雨が降る」

母の一生を振り返って、まさにこの言葉が当てはまるなあ、と勝手に解釈している。イエス‐キリストの足元に膝まづきながら、生前のいくつかの小罪を改悛し、それから神の国へ旅立ったのではないだろうか。

悲しさや寂しさは免れないが、家族としてもっとも身近にいた人の生きざまを範としながら、今後、私自身も強く生き抜いていけるよう、心を新たにしたい。

2017年1月11日 (水)

カトリック教会と私

私が東京の関口教会でカトリックの洗礼を受けてから、昨秋で33年になる。不熱心なのはともかく(笑)、人生の約6割を信者として過ごしたことになる。

もとはと言えば、両親が4歳の私を磐田聖マリア幼稚園に通わせたのが発端だ。幼児のときに刻まれた、聖なるものについての心象風景は、私をキリストに向かわせる要因となった。いま振り返ってみれば、これこそが神の恵みであったと思い起こしている。

キリスト教に関心を持ったのは、高校卒業後だ。浪人中にいろいろと悩みながら、この世界には何か唯一の正しいものが存在するはずではないかと、強く感じるようになった。大学入学後は、周囲の学友や知人からさまざまな思想のインパクトを受けたが、それらはむしろ私の心を教会に向かわせる結果となった。
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学生時代に、すぐ近くだった関口教会に歩いて通い、司祭の講話を聴き、周囲の信者たちから助言してもらいながら、少しずつ信仰の芽を育てていったと記憶している。当時の指導司祭だった森一弘師(後に司教)の公教要理は、たいへん理解しやすく、自分が求めていた道にピッタリ合う内容であった。似合いの服に出会ったような思いで、指導内容についていった。洗礼を受けたのは23歳の秋である(上の画像は関口教会の洗礼盤)。

当時は、まだ職業での進路を決めかねていた私だったが、浜松でカトリック教会の信者たちが中心になって作った社会福祉法人があることを知り、これもご縁だと思ってそこに就職。その後、職場でも信者の管理職が少なくなり、私自身も信仰は信仰、職場は職場として峻別するようになった。そこで15年余勤めた後、退職した原因には、特段宗教面での問題があったわけではない。

浜松に戻ってから、ずっと小さい巡回教会である三方原教会に通っていたが、1994年から自分の行動範囲が変わった関係で、郊外の富塚町に新築されたばかりの浜松教会に移籍した。三方原教会在籍当時は信徒会の役員を務め、新・浜松教会の建設基金の取りまとめには、及ばずながらお手伝いした。

浜松教会に移って何年もしないうちに、私自身の転身(開業)が原因で、日曜日にミサへ通うのにもままならなくなってしまった。そのようなわけで不熱心な信者になってしまったのだが、もちろん信仰を捨てたわけでは決してないので、復活祭(特に聖金曜日)、平和旬間、クリスマス、神の母聖マリアの祝日(1月1日)にはいつも教会へ足を運んでいる。
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2001年に父が他界。このとき、父の生前の希望により、臨終洗礼を行い、当時の主任司祭であった小林陽一師にお願いして、教会で葬儀をさせていただいた。

母は小林師にお願いして要理の要点のみを学ばせていただき、2007年に浜松教会で洗礼を受けた。それ以後、ときに私が母に同伴して二人で教会に通っていたが、2011年の聖金曜日に顔面神経麻痺を患い、それ以後は病気と向き合いながら、日々の生活を続ける日々となった。これもまた神の業であろう。2015年の春、母は私の同伴で久しぶりに教会を訪れ、来たるべき終末に向け、いまの主任司祭である山野内公司師から、一日一日をいかに生きるか、との講話をしていただいた(上の画像は浜松教会・ルルドの聖マリア)。

現在の浜松教会は、数百人の信徒を擁する多文化の教会である。通う信徒の国籍は最多のとき22を数えた。現在もブラジル国籍、ペルー国籍、フィリピン国籍の人たちはそれぞれの共同体を構成しており、大きな家族である浜松教会の中のいわば小家族として、教会の将来を担う貴重な戦力となっている。昔に比べると信徒数は減っているとは言え、「世界に広がる教会」の縮図にふさわしい現況である。

私自身は先に述べたように、浜松教会へ行くのは年に数回。むしろ最近は他県の介護業界仲間で、信者である方との交流が中心になっている。それはそれでクリスチャンとしての一つの生き方だと思うし、いずれ機会が訪れれば、浜松教会のためにできることを奉仕したいのは言うまでもない。

一度キリストに捕まったら逃れられないので(笑)、弱いながらも信仰を守りつつ、自分の間尺に合った信者人生を送りたいと思っている。

2016年3月 9日 (水)

人と会い、人と語り・・・(3)

介護業界を中心に、ラーメン好きの人たちが集まった秘密グループがあり、京都府の丹後から兵庫県の西宮にかけて、中軸メンバーの一大拠点がある。グループの名称を開示するわけにはいかないので、仮にその人たちを「関西アホ仲間(←一応、美称なのだ!)」と称しておく。

過去の例会?の様子は、「関西ラーメン道の豪傑連」で紹介しておいたので、こちらを参照されたい。

さて、私もこの関西アホ仲間の準会員にさせられてしまっていた(・・・と思い込んでいたが、後日「準会員」なる会員資格は存在しないことが判明したので、だとすると「正会員」になるのだろうか・・・?)ため、年一回ぐらいはグループの行事に参加しようと、去る3月5日、大阪まで足を運んでみた。季節外れの陽気で、厚着するかどうか苦慮する気候であった。

ラーメンを食べるために関西まで行く人が、浜松に何人いるかわからないが、私もその一人である人は確かである。

当日はアホ仲間代表の稲岡さんと、メンバーの小田原さん・白井さんの三人が、大阪松竹座で「スーパー歌舞伎・ワンピース」を観劇されていたので、幸地さん・宮垣さんなど他のメンバーと一緒に、先に串カツ店の「横綱」法善寺横丁店に集合して一杯飲み始めることになった。関西からは業界仲間の大羽さんと、その関西在住の友人の方々が参加、新たな仲間が加わって一層にぎやかな会となった。建築や設計といった人たちも交流の輪に加わったのは大きな進展だ。

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そのあと、歌舞伎を見終わった三人に加え、出演者の一人であった役者の市川澤路さん(「歌舞伎初鑑賞」を参照)も合流してくださった。当初予定したラー店が人数の関係で難しかったらしく、アホ仲間の役員さんたちの判断で「神座(かむくら)」に移動。白菜入りのマイルドなスープで、飲みのあとの締めに向いている。私は「小チャーシュー・味玉入り」を注文。結構ボリュームがあり、旨し。

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業界仲間の家庭の話題やら、歌舞伎の話題やらで、短い時間ながら刺激を得られた交流であった。

翌6日は、14年前に他界した父が尊敬していた、ジュスト高山右近のゆかりの地・高槻へ移動、聖歌を唱えカトリック高槻教会まで歩き、城跡周辺を巡礼しながら、しばし黙想。右近は先日、フランシスコ・ローマ教皇から「福者」に列せられることが決定したので、今年は地元の信者さんたちにとって、とりわけ喜ばしい年であろう。

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そのまま京都へ入り、神社仏閣はスルーして、鴨川の六条河原へ向かった。1619年10月6日、ここで福者・橋本如庵をはじめとする52人の篤信のキリシタンたちが、火刑により殉教を遂げたのである(「京都の大殉教」)。その正確な場所はすでにわからなくなっているが、河原のおそらくこの辺りであろうと思われる場所に足を停めて、信仰のために迫害された福者たちに祈りを捧げ、世界平和への取り次ぎを願った。

京都駅へ戻り、旧知の画家・中村晴信さんと再会。中村さんの案内で、駅近くの超人気店「新福菜館本店」へ。隣の「第一旭」も超人気店なので、二人でどちらにするか迷ったが、行列が少しでも短い前者を選んだ。ブラックのスープがとりわけ美味しい! チャーシューもしっかり。メンマ増しの「竹入り」を頼んだのだが、そのメンマもスープと好くマッチングしていた。中華と言うより、和風ラーメンの粋と称すべきだろうか。名前に恥じない味である。

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中村さんは浜松出身で、コネも情実もなく徒手空拳で、つまり腕一本の実力だけでがんばっておられる、中堅どころの洋画家だ。人の心を癒す優しい風景画が中心である。この日は氏とラーメンをご一緒しながら、他の仕事を兼業しないと食べていけない現況などの苦労話をお聞きした。

30代の一時期、介護福祉施設でもパートのお仕事をされていたことがあり、私が提唱する「部分的介護就労」にも通じるものがあろう。この3月23日(水)から28日(月)にかけて、中村さんは浦和市(伊勢丹浦和店)で個展を開かれるので、氏のブログのエントリー(「DM出来ました」)をリンクしておく。関東方面の方、特に事業所の新築・増築などで壁に飾る絵画が欲しいけれど、お財布の事情で大物画家の高価な作品はちょっと・・・という方は、好いチャンスなので、ぜひ浦和まで足をお運びいただきたい。

思えば、稲岡さんや市川澤路さんに続き、昨秋お会いした奥平幹也さん、そして今回の中村さんと、近年私がサシで食事した方の半数ぐらいは、同じカトリック教会の信者さんである。偏っているとは思わないが、価値観を共有する相手との対話が多くなるのは、自然の勢いであろう。そのような交流の中から、互いに何か少しでも得るものがあれば、これに過ぎることはないのではないだろうか。

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