信仰

2026年2月25日 (水)

時節の雑感

しばらくエントリーしないまま、時間が経過してしまった。

この間、10~11月に主任介護支援専門員更新研修受講、年末年始には疾病や事故のため急変した利用者さんへの対応、1月13日に浜松市からの運営指導と、忙(せわ)し甚(な)い日程が続いたため、なかなかブログにまで手を着ける気持ちの余裕がなかったことが、原因である。

クリスマスには、思いがけず親戚からイタリアのワインをいただいたので、おかげでお財布に余裕ができ、正月にはカズノコもカニも買って賞味することができた。

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2019年のバローロ。

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2021年のアマローネ。

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2023年のキャンティ。

繁忙期が過ぎ、2月に入ってからも、決して暇人になったわけではない。春が訪れた暖かさの中(まだこの先、寒の戻りはあるけれど...)、約40名の利用者さんのケアマネジメント(居宅介護支援・介護予防支援・介護予防ケアマネジメント)に勤しむ毎日である。長期入院・入所、諸事情による変更希望などによって、月に一人程度は解約して去って行く利用者さんがある反面、各関係者からの紹介で、月に一人程度は新規の利用者さんも入ってくる。地域のケアマネジャー不足が影響しているとは言え、65歳の老人ケアマネジャーにとっては、ありがたい話である。

総選挙が終わり、介護も医療も福祉も、政治主導でどこまで環境の改善が進むのか、注視したいところだ。高市政権に対する過度な期待は禁物だが、財務省に主導されない「責任ある積極財政」のもと、現状を抜本的に変革する姿勢を望みたい。

ホームヘルパーやケアマネジャーの減少・高齢化に歯止めが掛からないだけでなく、施設や病院を含めた社会資源全体が苦闘し、疲弊している。グランド‐デザインの欠如による小手先の制度改定の帰結であろう。

明るい未来は、いつになったら見えてくるのだろうか?

希望を捨てずに、残る職業人生を歩んでいきたい。

2025年8月31日 (日)

思いを巡らした8月

例年にない暑さが続いている。

8月は社会的にも個人的にも、さまざまな節目の日が続いた。

6日は広島に原爆が投下された日。7日は亡き母の生誕記念日。9日は長崎に原爆が投下された日。12日は御巣鷹山に日航機が墜落した大事故の日。15日は終戦記念日。ここまでがカトリック教会の「平和旬間」と重なる。17日は私自身の開業記念日(今年で満24年)。

それぞれ大きな意味を持ち、深く思いを巡らす日となっている。

世界に戦争や紛争が絶えない現状のもと、平和旬間には心から世界平和を祈願した。

仕事の実務では、会社が6月決算なので、税務署や県の財務事務所、市の市民税課などへ、今月末までに書類を提出しなければならなかった。繰越欠損がかなり残っているので、まだ法人税はゼロ(来年は発生する見込み)だが、申告だけはしっかりやっておかなければならない。

加えて、今年は主任介護支援専門員の更新研修を受講するため、提出物の準備にも結構な労力と時間を費やした。あれやこれやで多忙な8月であったが、まずは無事に乗り切った。

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自分の中でとりわけ重い意味を持つのは、節目の17日だ。

2001年8月17日、当時の浜松NPOネットワークセンター事務所の一角に「介護保険相談ジョアン」の看板を掲げ、相談の受付を開始してから24年(正式に居宅介護支援事業者の指定を受けたのは9月15日)。

思えば、長い道程を歩いてきたものである。

この24年の間、300名以上の利用者に対し、ケアプランや予防プランを作成してきた。現在、居宅介護支援19名、予防支援14名、総合事業利用支援(=介護予防ケアマネジメント。地域包括支援センターより受託)6名、サービスを利用していないが必要時に対応するクライアント3名、計42名の利用者を抱えている。

私自身、複数の疾患を抱え、再来月には高齢者の仲間入りをするのだが、簡単に引退できないだろう。一人親方の脆弱な居宅介護支援事業所であっても、数か所の地域包括支援センターへ利用者受任可能の空き情報を伝えると、何か月も経たないうちに空席が埋まる。全国的にもそうだが、当地浜松でもケアマネジャーは減少傾向にあるため(地域差はある)、私の同世代でも仕事をしている人は少なくない。まだまだ私も現役でいなければと、今年は更新研修を受講することになっている。

今後は自分自身の健康と向き合いながら、地道に働いていきたいと思う。

(画像は開業前の春、南欧旅行をした際、スペインで入手したフラメンコ用のアバニーコ=扇子)

2025年5月25日 (日)

「レオ」の教皇名に思う

私たちの教会では、新しい司牧者が選出された。

その名は教皇レオ14世(Leo ⅩⅣ)である。選出前はプレヴォスト(Robert Francis Prevost)枢機卿であり、米国出身で、ペルーでの宣教履歴が長く、世界情勢に関しても広い視野を持っている人物だ。まさに現代の司牧者にふさわしい。

サン‐ピエトロ(画像)の使徒聖座(Sedes Apostolica)は、これからこの人によって統治されることとなった。

Sanpietro

さて、新しい教皇が「レオ(Leo)」を名乗ったのは、労働者の権利を擁護したレオ13世(位1878-1903)に敬意を払ったものとされるが、「レオ」の名前で私が思い起こすのは、遠き古代の司牧者、レオ1世(位440-461)である。

レオ1世は教皇の首位権を確立した人物として知られている。ローマ(西)皇帝と交渉して、445年にはその首長を認めさせた。また、正統と異端とを峻別して、カトリック教会の協議確立に寄与した。こう書くと、たいへん強権的な人物だと思われるかも知れないが、彼は貧しい人々への施しにも力を傾けたことが記録されている。

また、レオ1世には対外的な功績も大きい。452年にはフン王アッティラと会見してローマ侵攻をやめるように説得し、運良くフン軍に疫病が流行っていたこともあり、アッティラを撤退させることができた。455年にはヴァンダル王ガイセリックの軍責任者に使者を送り、ローマに進軍しないように説得したが、これは奏効せず、ヴァンダル軍のローマ略奪を防ぐことはできなかった。とは言え、レオ1世側の要請があったことにより、蛮行をいくらか抑制できたと伝えられている。

波乱に満ちた教皇在位の末、レオ1世は461年11月10日に72歳で帰天し、その業績を称えて教会から「大教皇(Leo Magnus)」の号を贈られた。

2021年3月 8日 (月)

あれから三年

3月8日の朝。しとしとと降り続く雨が、本格的な春の訪れを露払いしている。ちょうど三年前の同じ日に亡き母を葬送したときも、こんな天候であった。

帰天してもう三年にもなるんだなぁ、と思い返しつつ、在りし日の母の姿を、改めて頭の中に浮かべてみる。

夢の中に母が登場したのは二回だけ。

はじめの一回は葬送から数日後、存命のときとは反対側(祭壇がある側)を向いて腰掛けていたので、「ぁ、もうこの世での罪を償って、神の国に召されたんだ」と納得したものだ。

もう一回は私の59歳の誕生日(一昨年の10月)。私と一緒に何かを待ってくれていた。それが何だったかはわからない。来たるべき時代(たとえばコロナ禍のような)に備えなさいよ、との教えだったかも知れない。

20150815maria

母は聖マリア(上の画像はカトリック浜松教会所蔵のマリア像)がイエス様を慈しみ育てたことを範と仰ぎ(本人の霊名も「マリア」)、私がいくつになっても「良き母」として振舞ってくれた。母の生きざまから学ぶことは多く、いまでも私の日ごろの過ごしかたには、母から吸収したスタイルが多く根付いている。

私が20歳前後のとき、母はよくこんなことを言っていた。

「友達や仲間でも、お金を貸してくれと言ってきたら、もうそこで縁を切りなさいよ」

60歳になる現在まで、私が大きな事件やトラブルに巻き込まれずに過ごしてこられたのは、この言葉の賜物だと言えよう。

他にも心に残る遺訓がいくつかあるので、いまだに何か迷ったときには、「母だったらどう行動しただろうか?」と考えながら判断することもしばしばだ。

最近は墓参に行く機会も減ってしまったが、父の帰天記念日(2/9)直後にシンプルな花を活けてきた。また遠からず墓前へ出向いて、これからの生活の構想など、両親に報告してこようかと思っている。

2021年2月 9日 (火)

ジュスト高山右近を尊敬していた父

2月9日。父が2002年に80歳で他界してから満19年。もうそんなに経つのかと、在りし日のことを懐かしく想い起こしている。

一昨日、7日は福者ジュスト高山右近(長房・重友/1552?~1615.02.03。画像は教会の祈りのカードに印刷された、三牧樺ず子氏による右近の肖像画)の列福式から、ちょうど4年になる。自分も一か月ぶりに教会へ足を運び、四百年前に日本から追放されてフィリピンで客死(殉教者と認定)した、右近の生きざまを思い起こしながら、ミサに与った。

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実は父の霊名が「ジュスト(ユストとも発音する。もとはラテン語で「正義の人」の意味)」なのである。

父は代々仏教の家の生まれであり、若いころはその宗派の典籍を買っていろいろ読んでいた。50代になってからは新興宗教に転向し、そちらの勉強を熱心にしていた。一つの教えに熱中すると他の宗教を軽蔑する性癖があり、そのいささか偏った宗教観に辟易したこともあったが、父本人の意思である以上、他界したときには希望する宗教のやりかたで葬祭をしてやっても良いと考えていた。

ところが70代の終わりに、そろそろ先のことを決めておかないと思い、父に尋ねたところ、意外な答えだった。

「お前が信じている教会のやりかたでいいよ」

ある意味、宗教遍歴を重ねてきた父が、何がきっかけだったのかわからないが、思いがけずカトリックの考え方に心を寄せていたらしい。

そして、それと前後する時期に父が、「高山右近を尊敬している」と言っていたのだ。

その後、2001年の秋から父の認知症が進行して、母の負担が増大したので、通所介護を利用するようになったが、身体面では大きな疾患も機能低下もなく生活していた。2002年の2月に入ると、たいへん弱気の言葉を吐いたことがあり、生きる力が無くなったのかなぁ、と悲しくなったことはあったが、亡くなる前日までは病気らしい病気も無く過ごしていた。

9日の朝、母が起こしても目を覚まさず、これは危篤状態だとすぐに察知。しかし私はあいにく、すぐにキャンセルできない仕事を抱えていたため、母に後を頼んで出掛け、戻ったときにはすでに息をしていなかった。主治医が診療の合間に駆け付けてくださり、死亡診断。さて、あとはどうするか?

何しろ父は、「教会で葬儀をしてほしい」「高山右近を尊敬する」の二つしか言い遺していないのだから、他に選択の余地はない。霊名「ジュスト」で臨終洗礼を行い、あとで小林神父様(当時の浜松教会主任司祭)に追認していただいた。葬儀ミサも11日、小林師の司式で、無事に終えることができた。

父は欠点の多い人で、とても右近を手本に生きてきたとは言い難いところがあるが、それでも「義の人」右近の生涯の歩みを、何かの本を読んで知ったことで、それを心に刻み、信仰者の模範的な姿として敬慕していたのであろう。

このような父とのつながりがあったために、右近が福者に列せられたことは、私個人としても大きな喜びなのである。

さらに、カトリック教会がいつか右近を聖人の列に加えてくださり、私たちがこれまで以上に彼を崇敬し、その取り次ぎを願うことができるように、祈りを続けたい。

2021年1月 9日 (土)

教会で祈ること

クリスマスや新年。例年と様相を異にする社会情勢の中での年末年始となったが、みなさんはどのように過ごされただろうか?

私は普段通りに教会(カトリック浜松教会)へ行き、神に祈りを捧げた。12月25日(金)10時から「主の降誕/日中のミサ」、1月1日(金)10時から「神の母聖マリアの祝日」。どちらも前夜から複数回にわたってミサが開祭され、会衆(参列者)同士の距離を確保する人数制限も設けられ、マスク着用や名簿への連絡先記入が義務付けられていた。

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すでに新型コロナウイルスが蔓延して一年近く、当初は司祭と教会委員会の方々のご苦心により、ミサの形式を試行錯誤しながら実施されていたが、いまは毎日曜日(「主日のミサ」)を中心に、祭儀の一連の手順や方式が定着している。せっかく教会まで来ながら、ミサの時間帯によっては満席で聖堂に入れず、帰宅して家で祈るか、または次のミサを(たとえば9:30のミサに入れないと10:45のミサまで)待つ人も出てしまっているが、感染予防対策の観点からは、いたしかたないであろう。

私たちにとって大切なのは「心の糧」である。福音書に記述され、二千年余の間に受け継がれてきたイエスの「みことば」を司祭の口を通して聴くことにより、日々の暮らしへの活力をいただく。

もちろん、信仰は自分自身の真心から発するものであるから、家で一人、一家族だけで祈っても構わないのだが、カトリック教会の場合は、教団の結び付きを古来重んじてきた伝統がある。それはコロナ禍にあっても変わらない。現に70歳以上の信徒は、ミサへの参列義務は免除されているが、それでも熱心な高齢者は、進行を同じくする友たちの顔を見て、(物理的な距離を取りながらも)お互いの近況を語り合うことにより、精神面の栄養を得ている。

そのような状況も踏まえて、私自身は9月以降、毎月一回はミサに参列することにした。

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実際、神の母聖マリアの祝日=元日には、古くからの信徒が相当数参列していたので、私も久しぶりに会う何人かの方々と交歓することができた。いまのところ、浜松市内や県西部の教会(全部で5か所)でクラスターが発生したとの報もなく、まずは平穏な中での「分かち合い」ができている。

しかし、世の中の課題は新型コロナ対策だけではない。この日は世界中のカトリック信者が心を合わせて平和を祈る日でもある。そして、祈りは始まりに過ぎない。現実の社会では、戦争、暴力、飢餓、貧困、疫病(コロナ以外にもさまざまだ)のために、命を失う子どもたちの数が何と多いことか。私たちは日本国内のみならず、海外の次世代に対しても責任を負っている。一人ひとりの力は微小なものかも知れないが、たとえば食物ロスを減らす、フェアトレードに参画する、現地で活動する人たちに金銭面の支援をするなど、わずかでも良いので、自分にできることから始めていくことは大切だ。何もしなければ何も変わらない。人々が社会正義のため動き出してこそ、神の大いなる力を寄り頼むことができるのだから。

そのようなことを年末年始に思い巡らしていた。

教会へなかなか足を運ばない不信心な私ではあるが、今後も祈りとささやかな実践とを欠かさないようにしたい。

2020年8月 9日 (日)

「平和」をどう考えるか?

私たち日本のカトリック教会の信者は、8月6日から15日までの十日間を「平和旬間」と呼ぶ。

例年ならば、このうちのどこかの日に教会へ行き、ミサに参列して祈りを捧げる。しかし、今年は新型コロナウイルスの影響により、大聖堂に入れる人数に制限が設けられた。当然、本日や次の日曜日・16日には、来場する信徒も多いと思うので、行くのを見合わせ、月の後半に出向こうと考えている。

きょう8月9日は、75年前、長崎に原爆が投下された日である。まずは当時の犠牲者の方々に、深い哀悼の意を捧げたい。

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さて、私たちは「世界平和」をどう実現するのか?...と言ってしまうと、主題が広くなり過ぎるので、ここは一点に絞って考えてみよう。

「核兵器を廃絶すれば(そんなに簡単に実現できるとは思えないが、もしできた場合は)世界は平和へ向かうのか?」

実は、必ずしもそうとは言い切れないのだ。以下にその理由を列挙してみる。

第一に、国際的な監視システムの確立が難しいことである。

核兵器の廃絶とは、すべての核保有国(米国・英国・フランス・中国・ロシア・インド・パキスタン・北朝鮮・イスラエル)が核兵器を廃棄し、かつ核開発能力を持つ国(日本・ドイツやイランを含めたいくつかの国)が開発のために使用可能な設備を廃棄することだ。これが実現できれば「核兵器の廃絶」となる。核兵器禁止条約はもちろんここを目指している。

しかし、仮にこれが本当に実現したとしても、平和へ向かうとは考えられない。なぜなら、その状態を維持していくためには、途方もなく緻密な国際監視体制が必要になるからだ。当然、「旧」核保有国は、いざ自国の安全保障上必要な事態が起これば、再度核開発を始める可能性があるのだ。

もし、A国が核の再開発を始めたとしよう。いまの情報社会であるから、当然、敵対するB国にはその情報が伝わる。B国は以前核兵器を持っていたとしても、いまは廃棄している。A国が核兵器を再保有してからでは、自国の安全保障に重大な問題を来たす。したがって、A国が再保有しないうちに攻撃しようということになる。国際監視体制により国連軍がA国を攻撃することは、たいへん考えにくい(いまの五大国拒否権がある限り無理である)。したがって、B国はA国を通常兵器で攻撃する。それにA国は対抗して戦争が起きる。他のすべての国がB国側に立てば、すぐに戦争は終わるかも知れないが、そうはならない。A国側もあらかじめ味方になってくれる大国を確保しておくであろう。となれば、世界の大国の多くがそれぞれの側に立って参戦する事態になりかねず、そのまま第三次世界大戦が勃発する可能性は小さくない。

第二に、核兵器が世界から本当に消えた場合、核以外の兵器で比較優位に立つ国の暴走が起きやすくなることだ。

上記のような「核保有」レベルの諸大国を直接巻き込まなければ、地域大国を目指す国が核以外の兵器で対立する国を攻撃する可能性は、現在より大きくなる。西欧や北米などを除き、世界の各地では現在でも「小競り合い」が起きているが、核廃絶後には、それを超えたレベルの戦争が各地で勃発する危険性は、高まると予測せざるを得ない。また、「旧」核保有国が、核の再開発をチラつかせて、通常兵器での戦争を仕掛けやすくなることも軽視できない。

これ以外にもあると思われるが、この二つがおもに私が「核廃絶がかえって悪い結果を生むかも知れない」と予測する理由だ。

もちろん、広島や長崎の被爆者や、その心を受け継ぐ人々に、冷水を浴びせる意図はない。私自身、現在の暫定的な効果はともかく、長期的には決して核兵器の抑止力を良いものだと考えているわけではないので、誤解なきよう願いたい。冷静に分析すると、核廃絶だけに邁進するのが良策とは言い難いのだ。

私自身、クリスチャンとして、いずれはキリストが勝利し、戦争のない地球が実現することを信じている。それは遠い先のことであると言わざるを得ない。少なくとも、私がこの世に生きているうちには無理である。

これは人類永遠の課題であろう。

2019年4月23日 (火)

復活祭二題

今年の復活祭は、4月21日で、たいへん遅い暦日となった。それが影響したのか、しばしば「寒の戻り」「花冷え」といった現症が繰り返され、寒暖の差で体調を整えるのが難しい年だった。

とは言え、大病も大きな事故もなく、この時期を迎えることができた。ささやかではあるが、好きなワインを飲みながら、手製の一品料理でディナーを摂り、主のご復活を祝っている(画像はイタリア産、祝典用のバローロ)。

さて、復活祭に関連して、今年は二つの大きなできごとがあった。これはある意味で神様からの「発題」なのかも知れないと思い、それぞれの「お題」について黙想してみた。

一つの「お題」は、パリ(フランス)のノートルダム大聖堂の大部分が、火災によって消失した事案。

このニュースが報じられた直後に思ったのは、

「建物としての聖堂が焼失しても、心の殿堂は決して消失しない」。

その後、何日か経過すると、世界の各地から再建のための支援が続々と寄せられることが話題となった。

それに対して、「聖堂に寄付するよりも、困ってる人たちを助けろ」との批判。日本の介護・福祉関係者にもそう言い出す人がいる。

私が思ったのは、

「でも、その批判、『生活保護でパチンコ行くな!』って、外野が勝手に使途を決めて、受給者を非難攻撃するのと変わらないよね」。

宗教的情熱か、売名行為か知らないが、その国で法律上の問題さえ起こさなければ、個人の資産をどう使おうと自由なはず。まさに「自己決定」だ。

社会的成功を収めた人が、得た利潤を社会に還元するのは〔キリスト教的な〕義務であろう。しかし還元する対象が、人々の祈りの場である教会であったとしても、全く道義的に問題とされるものではない。

聖堂の再建へ向けて人々が心を合わせることにより、国境やセクトを超えた連帯が生まれるのならば、それは喜ばしいことではないだろうか?

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もう一つの「お題」は、コロンボ(スリ‐ランカ)の複数の教会など6箇所の建物が、おそらくテロリストが仕掛けたと推測される爆発物によって破壊され、多くの死者が出た事案である。

テロリストたち(-イスラーム過激派だと考えられるが、同国ではかつて仏教徒とヒンドゥー教徒も、血を血で洗う抗争を繰り広げた。キリスト教を含めた多くの宗教には、異教徒たちの殺戮をいとわない人たちは存在する。日本でもかつてオウム真理教がそうであった。イスラーム教だけが非難されるべきではない。念のため-)の所業は、道義的にも法的にも許されない行為である。これは圧倒的多数の人たちが共有する見解であろう。

しかし、イエス‐キリストは十字架上で想像を絶する苦痛の中にありながら、こう仰った。

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです(ルカ福音書23-34)」

この言葉をゴルゴタの丘で聴いた人たちの衝撃は、いかほどであっただろうか。

そして、私たちも信徒である以上、イエスにならうべきである。

テロリストたちが同国の法にのっとった裁きを受けるべきなのは当然であるが、彼らの魂の救済のために、神のお赦しを祈りたい。

2018年11月 5日 (月)

「死者の月」に当たり

世間では先週、ハロウィーンでにぎわっていたようだ。もともと日本社会には縁が薄かった米国輸入の祝祭が、1990年代あたりから注目され、民間ベースで各地の行事などに取り入れられた結果、近年は渋谷を中心として、全国的に異様な盛り上がりを見せている。

ところで、このハロウィーンは何の祝祭かと言うと、実は11月1日に定められているカトリック教会の「諸聖人の日」のいわば前夜祭なのだ。それも、元来はキリスト教が入ってくる以前に10月31日に行われていたケルト人ドルイドたちの祭りを、アイルランドやスコットランドの教会側が、地元ベースで結び付けたものである。したがって、公式にはカトリック教会の祝祭日になっているものではない。

このハロウィーンが、アイルランドやスコットランドからの移民によってアメリカ大陸へ伝えられ、全米的な大衆文化として広まった。それが日本でも、これを商機と捉える関連企業をはじめとする利害関係者によりPRされ、SNSなどネットを介して普及してきたのである。

さて、カトリック教会では、信仰のために大きな業績があった人たち、特に列聖された人たち(聖ペトロなど)や殉教者たちを記念し、神への取り次ぎを願って、11月1日に「諸聖人の日」を祝う。

その翌日、11月2日は、キリストを信じて帰天したすべての死者を祈念する「死者の日」である。信仰に生きた人たちに敬愛の念を捧げ、神に向かって執り成してくれるように祈願する。この日に限らず、11月を通して、一か月が「死者の月」とされている。

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浜松教会では、4日(日曜日)のミサの前に、信徒会の役員さんが今年帰天した信徒の名前を読み上げてくださった。私の母の名も入っていた。

主日のミサは山野内神父様の司式で行われ、祈願文の中ですべての死者のために祈りが捧げられた。講話では「神を愛することで、自分も神から愛される」意味について、説いてくださった。その話を聞いていて、私は教会のテーマを思い出した。

あと二か月を残すのみとなったが、2018年の浜松教会のテーマは、サレジオ会(山野内神父様の所属修道会)が掲げる「主よ、その水をください(画像)」である。ヨハネ福音書4章15節にある挿話。井戸に水を汲みに来たサマリア人の女性に対し、イエス‐キリストが「私が与える水を飲む者は決して渇かない」と言ったので、女性はイエスに「主よ、その水をください」と願ったエピソード。

ここでイエスが言われた「水」は、真理のことである。

キリストを信じて生きた人たちは、二千年の長きにわたって、その「水」を受け継ぎ、次の世代に伝えてきた。そこには人間社会をより理想に近付けようとする悠久の営みがあった。

私の母は晩年に受洗したので、典型的なキリスト者の生活を送ってはこなかったかも知れない。しかし、母が私に遺した訓戒「誰にでも心を開いて付き合いなさい」は、イエスの教えを母なりに受け継いだものにほかならないであろう。母はそれを自分の身に着けた流儀として、人生を生き抜いた。そしてそれを息子である私に伝えていく...

「死者の月」である11月、このようなことを題材に黙想しながら、自分が歩むべき道を模索してみたい。

仏教の「お盆」とはかなり異なるが、亡くなった親族を敬愛して偲び、その霊魂の働きによって、いま生きている自分たち家族の発展と平安とがもたらされるように願う点では、共通するものも大きいだろう。ハロウィーンの単発的なお祭り騒ぎに終わるのではなく、これを契機として、宗教が異なる多くの人たちにも、私たちの祈りの一か月を理解してもらえると幸いである。

2018年6月24日 (日)

殉教者ゆかりの地を訪ねて

ここ二年あまり、巡礼に行っていなかった。

それ以前も毎年どこかへ巡礼していたわけではないのだが、最近は自分自身の節目の企画や、母の介護のため浜松を離れるのが難しく、出かける余裕がないままに時が過ぎてしまっていたのだ。

そこで、母の追悼が一段落したのを機に、両親の安息を祈りながら心の平安を求めたいと思い立って、旅を企画してみた。

どこへ出かけようか考えたが、一昨年訪れた高槻教会、福者ジュスト高山右近に縁があった人の中で、福者ディエゴ(了五)加賀山隼人正興良の殉教地へまだ行っていなかったと思い、行き先を小倉教会に決めた。

私は2003年、用事で熊本を訪れた際に、福者マリア小笠原みや一家15人が藩主細川家の禁教令に従わなかったため斬首され殉教した、花岡山公園の碑文のところまで巡礼している。加賀山隼人は小笠原みやの父に当たり、細川家が熊本へ転封する前の豊前藩主時代、重臣として細川忠興に仕えていた。キリシタン時代、彼は小倉教会(当時)の中心人物であったのだ。

小倉教会には事前に問い合わせ、17日午前9時のミサに出る予定で、前日の16日夕方に小倉入りした。一年で一番日が長い時期なので、ホテルに荷物を置いて門司港まで足を延ばす。

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過去、ここに来たのは一回だけであるが、何年前だっただろうか、もう覚えていないほどである。海峡に面したレトロで風光明媚な街並みは、旅する人の気持ちを柔和にさせてくれる。一時間半ぐらい、ゆっくりと街を散策。屋外でヴァイオリンとピアノのジャズコンサートが演じられていた。

肌寒くなったので門司港から引き上げ、小倉に戻って夕食。知人から教わった店「あそび割烹・華柳」へ。

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ここでは関門蛸、ごまアジをはじめ、新鮮な北九州の味を満喫。お薦めの店だけあって一つ一つの素材が良い。また、皿のふちの裏側がしっかり洗ってあるなど、食器の扱いも丁寧である。満足度大。

一夜明けて、小倉教会の午前のミサに参列するためにホテルを出る。カトリックの巡礼は仏教のお遍路さんとは異なるが、目的地の教会までは聖歌を口ずさんだり祈ったりしながら、便利な交通機関をなるべく使わずに歩くのが基本だ。スマホで位置を確認しつつ、25分ほど歩き、時間に余裕を持って小倉教会に到着。

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北九州の拠点の教会だが、全体として簡素な造りで、人を招き入れる場にふさわしい。聖堂のイエス様は、長めのひげを垂らして老成したお姿を示し、独特のご像であった。この日はミサ後に信徒総会が予定されており、神父様は講話の中で、教会共同体の意義について述べ、神様への聖母マリアと加賀山隼人との執り成しを祈っておられた。

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加賀山隼人については、自分のHPに掲載しているので、そちらをご一読されたい。

教会の前、通りに面した側には、説教する隼人の姿と、歌会で詠んだ短歌を記した碑文が建てられている。信仰に生き、心の自由を守るために一命を捧げた人の生きざまに思いを馳せた。

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一時間余りでミサが閉祭。これでひとまず巡礼を済ませたので、次の目的地へ向かった。実は、信徒の方お二人が偶然、それぞれ別の用事で博多に滞在されていたので、午後と夜とにお会いすることになっていたのである。

次回へ続く)

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