西洋史

2018年2月17日 (土)

ヴェルディ歌劇の面白さ(12)

前回から続く)

(9)シモーネ‐ボッカネグラ(= Simone Boccanegra/?-1363)

ヴェルディ中期の歌劇『シモン‐ボッカネグラ』(1857初演)のタイトルロール(主人公)。
ジェノヴァ共和国の有力市民の家系に生まれ(父親は市長)、海上貿易の保安任務に携わっていた。1339年に平民勢力から推挙されて、初代ドージェ(国家元首)に選出され、平民と貴族との融和を図るべく尽力、国の内外を安定に導いた。しかし1344年、シモーネは貴族勢力の圧力により降板させられる。1356年に再選された後は、貴族側に強圧的な姿勢で臨んで恨みを買い、宴会の席上、ワインに毒を盛られて暗殺された。

ガブリエーレ‐アドルノ(= Gabriele Adorno/1320-83)はシモーネの没後、貴族勢力に推されてドージェに就任した。ただし、歌劇中のシモンの娘との恋愛や、そこに貴族フィエスコが絡む展開も虚構。他方、第二幕のシモンの語りの中に、人文主義者のペトラルカや、ローマのリエンツィの名前が登場するのは興味深い。

この台本はピアーヴェが書いたのだが、政治と家庭との狭間で悩み苦しむ父親の姿や、男と男の心理的な対決を活写しようとしたヴェルディの意図を十分反映できず、フェニーチェ劇場での初演は失敗に終わった。それから四半世紀近くの後、1881年、アッリーゴ‐ボーイトが手を加えた改訂版が大成功を収め、今日までヴェルディの傑作の一つとして、しばしば上演されている。

(10)グスタヴ3世(= Gustav Ⅲ/1746-92)

ヴェルディ中期の歌劇『仮面舞踏会』(1859初演)の主人公。
スウェーデンの王子で、1771年に父の後を継いで国王に即位。貴族層が支配していた身分制議会を廃止して、行政権や公職任免権を奪取、富裕な商人や農民層の支持を受け「啓蒙専制君主」として絶対王政を展開した。対外的にはロシアに譲歩せず、強国の地位を保ったが、そのために国家財政は危機に陥った。政策反対派の貴族たちは陰謀を企て、仮面舞踏会の最中、彼は反対派の一人アンカーストレーム(= Jacob Johan Anckarström/1762-92)により暗殺された。女性占い師ウルリカ‐アルヴィドソン(= Ulrica Alfvidsson/1734-1801)が数年前に暗殺を予言していたことが取り沙汰され、ウルリカは当局から調査を受けたが、事件と無関係なことが判明して放免されている。

アンカーストレームが自分の妻と国王との親密さに関する誤解から暗殺行為に走ったとの設定は創作である(真の理由は逆恨みだとも言われるが、未詳)。また臨死の国王が彼を赦免したのも劇中の作話であり、実在のアンカーストレームは反逆罪で処刑された。他方、ウルリカの予言は史実から脚色されながらも、歌劇第一幕の盛り上げどころに活用されている。

ヴェルディにとってこの歌劇は新たな境地に至る画期の作品だったが、当局の検閲によって舞台をボストンに変更することを余儀なくされ、グスタヴ3世は「ボストン総督リッカルド」、アンカーストレームは「秘書レナート」になった。今日ではこのボストン版が上演のスタンダードであるが、もとのグスターヴォ(グスタヴ)3世に戻したスウェーデン版もときに上演されている。

(11)ドン‐カルロス(= Don Carlos de Austria/1545-68)

ヴェルディ中期の歌劇『ドン‐カルロス』(1867初演)のタイトルロール(主人公)。
スペイン国王フェリーペ(フィリップ)2世(= Felipe Ⅱ/1527-98)の長男。王位継承を期待されていたが、身体が不自由で病弱でもあり、短絡的な思考が目立つ人であった。大審問官(カトリックの宗教裁判所長)を憎んで殺害を企てたことがあり、また、大貴族フェルナンド‐デ‐アルバ(ネーデルランドの弾圧者)もを嫌悪していたため、プロテスタント教徒たちに同情し、ネーデルランド行きを計画して失敗。怒った父王により幽閉され、ハンストにより23歳で死去した。

イサベル‐デ‐バロイス(エリザベート‐ド‐ヴァロワ= Isabel de Valois/1545-68)はフランス王アンリ2世の娘で、フェリーペ2世の王妃になったのは史実通りだが、フォンテーヌブローでの出会いから破局の場は創作である。ただ、カルロスが同い年の義母と親しかったのは事実で、イサベルはカルロスの死を悲しんで夭折したと言われている。カルロスの教育係ルイ‐ゴメス(= Ruy Goméz de Silva, Duque de Estremera/1516-73)は劇中のロドリーグのモデルで、カルロスにネーデルランド統治への関心を持たせた人物。その妻であったエボリ公夫人アナ‐デ‐メンドーサ(= Ana de Mendoza, Princesa de Éboli/1540-92)は夫の没後、フェリーペ2世の宮廷で活躍するが、後には謀略に加担した罪で失脚している。

シラーはこのカルロスの生涯をスケールの大きな戯曲『スペイン王太子ドン‐カルロス』に描いており、これをヴェルディが素材に選んでパリ‐オペラ座のためにフランス語版の歌劇を作り上げた。台本はジョゼフ‐メリが手掛け、その没後にカミーユ‐デュ‐ロクルが継承して完成。
カルロス、フィリップ、イサベル、ロドリーグ、エボリ、大審問官らは史実といささか異なるにせよ、劇中ではそれぞれの個性を十分に発揮している。また、結末をカルロスの逮捕で終わらせず、祖父カルロス5世の再来を思わせる修道士がカルロスを保護して修道院の中へ連れ去る、超自然的な収束にしたことも、一つの大きな工夫であろう。保守と自由、政治と恋愛、カトリックとプロテスタント、現実と理想など、さまざまな対立をはらんだ構図のもとに、この作品は人間の心の奥深くを見つめた傑作となった。

(12)あの「世界中がダジャレだ!」の太ったノーフォークの老騎士、『ファルスタッフ』(1893初演)のモデルは誰だったのだろうか?

シェイクスピアが中世の騎士ジョン‐オウルドカースル(= Sir John Oldcastle/1378-1417)をモデルにして、戯曲の原稿を作成していたところ、実在のオウルドカースルからかけ離れた人物像になっていたため、子孫から抗議を受けた。そのため同時代のジョン‐ファストルフ(= Sir John Fastolf/1378-1459)の名前に変更し、戯曲の設定も一部は後者の人生を反映させる形に直したため、二人を重ねた主人公フォールスタッフが、原作の戯曲『ウィンザーの陽気な女房たち』に登場することになってしまった。

オウルドカースルは王太子時代のヘンリ5世と親しかったのだが、異端とされたロラード派の指導者となって失脚し、逃亡して反乱を企てるも失敗、捕えられて処刑された。他方、ファストルフはまさに「ノーフォークの老騎士」には違いなかったのだが、放蕩者ではなく武将として活躍、また文書収集や学校建設の企画などに力を注入した人なのである。シェイクスピアはこの二人を合成しつつ、どちらの人物像とも異なる新たなキャラ「サー‐ジョン‐フォールスタッフ」を創作したのだ。

ヴェルディは最後の歌劇の素材にこのフォールスタッフを選び、ボーイトが台本を書いた。すでに高齢になったヴェルディ自身、疲れから作曲が停滞することもあったが、一人ひとりの台詞に独唱や重唱を絡ませながら丁寧に曲を付けており、すべての登場人物への愛情が感じられる。ミラーノ‐スカラ座での初演は大成功で、拍手が鳴りやまなかった。

以上、ワーグナーとヴェルディの作品に登場する実在人物を紹介してきた。両者の素材選びは、全く傾向が異なるものもあり、逆に同時代の人物をそれぞれの視点から作品化したものもあり、対照してみるとなかなか面白い。また、人物を大枠で史実に沿って登場させたものや、虚構を積み重ねて史実とは似ても似つかぬ人物像になったものもあるので、歴史ドラマ同様に、「本当はこんな人だった」という実像と比較しながら、楽劇や歌劇を味わってみるのも一興であろう。

2018年2月14日 (水)

ヴェルディ歌劇の面白さ(11)

前回から続く)

(5)マクベス(= Macbeth/1005頃-57)

ヴェルディ前期の歌劇『マクベス』(1847初演)のタイトルロール。
中世前期のスコットランドでは、王位をめぐる抗争が絶えず、王族マクベスは嫡流の王位継承権を持つ寡婦グロッホと結婚、1040年に無能な国王ダンカンを殺害して力で王位を獲得し、1043年には政敵バンクォウ(= Banquo)も殺害した。他方で彼は信仰心に篤く(在位中にローマ巡礼をしている)、武勇すぐれた国王であったが、晩年には貴族たちの離反を招き、1057年に至ってダンカンの息子マルコム3世(= Malcolm Ⅲ Canmore/1031-93)により攻め滅ぼされた。

シェイクスピアが宮廷作家として戯曲『マクベス』を書いたのは、ダンカンとバンクォウとの共通の子孫に当たるジェイムズ1世が、スコットランドから入ってイングランド王を兼位した時期である。そのため彼は、王の先祖二人を殺したマクベス・グロッホ夫妻を悪人に貶めることで、新王の治世を寿(ことほ)いだのである。かくして「民心を失って滅びた暴君」マクベスと、「稀代の悪女」マクベス夫人との、虚構カップルができ上がった。

歌劇もシェイクスピアが描いたこのマクベス夫妻の姿を継承している。ヴェルディ自ら本腰を入れて精力的に創作を進めたので、台本を担当したピアーヴェの仕事に不満を持ち、アンドレア‐マッフェーイが筆を加えた。初演は成功したものの、この歌劇は登場人物の内面に踏み込んでいるため、数十年の間は評価が定まらなかったが、いまではヴェルディ前期の歌劇の中で、比較的上演が多い作品となっている。

(6)トリブレ(= Triboulet /1479-1536)

ヴェルディ中期の歌劇『リゴレット』(1851初演)のタイトルロールのモデルになった人物。
脊椎側弯症だったが、技芸を積んで宮廷道化師となり、フランスのルイ12世、ついでフランソワ1世(= François Ⅰ/1494-1547。フランス‐ルネサンスを代表する君主)に仕えて高名になった。フランソワ王に同伴してイタリアにも来訪している。後代、宮廷の禁令に違反して王の怒りを買い、危うく処刑を免れたが、宮廷から追放されてしまった。

この人物を題材に、ユゴーが戯曲『王様はお愉しみ』を執筆。放蕩貴公子のフランソワ王(実像とは異なる)がトリブレの娘を弄び、怒ったトリブレの復讐が娘の死を招く悲劇である。ヴェルディはヴェネツィアのフェニーチェ座公開予定の歌劇にこの題材を選び、ピアーヴェに台本を書いてもらったが、当局による検閲のため、主人公をリゴレット、フランソワ王をマントヴァ公に書き改め、ようやく上演に漕ぎつけた。

ヴェルディがこの素材から人間の愛憎を主題に選んだことは確かであるが、サブテーマはやはり、悲劇に襲われる社会的被差別者に対する共感である。この流れはリゴレット(障害者)に始まり、『トロヴァトーレ』のアズチェーナ(非定住民)、『椿姫』のヴィオレッタ(娼婦)と続き、少し間を置いて『運命の力』のドン‐アルヴァーロ(南米先住民)で頂点に達する。史実からかけ離れたとは言え、「社会派」作曲家のヴェルディが本領を発揮する入口になった傑作と言えよう。

(7)マリ‐デュプレシ(= Alphonsine PlessisまたはMarie Duplessis/1824-47)

ヴェルディ中期の歌劇『椿姫』(1853初演)の主人公のモデルになった人物。
ノルマンディ出身。パリに出て仕立屋奉公をしていたが、ある料理店オーナーの愛人になったのを皮切りに、その美貌から次々とパトロンを獲得、彼らの支援を受けて教養を付けた。詩や音楽に堪能で、椿の花を愛好し、影の社交界でドゥミ‐モンド(=高級娼婦)として一世を風靡する。アレクサンドル‐デュマ‐フィスと恋愛関係にあったが、彼と別れた二年後、肺結核のために新たな恋人とも破局を迎え、孤独のうちに23歳で死去した。

デュマ‐フィスはマリとの体験を基にして小説『椿姫』を執筆、主人公の名を「マルグリート‐ゴティエ」に変え、相方を「アルマン‐デュヴァル」とした。さらにヴェルディがこの小説をフェニーチェ劇場(ヴェネツィア)から依頼された新作歌劇の題材に採用、主人公と相方とは再度名前が変わり「ヴィオレッタ‐ヴァレリー」「アルフレード‐ジェルモン」になった。台本はピアーヴェが作成。

歌劇は「社会派」のヴェルディらしく、若い二人の純愛とそれを阻むもの、との図式。ヴィオレッタと独善的なジョルジョ‐ジェルモン(アルフレードの父)との「対決」にドラマの中核を据える、ヴィオレッタがアルフレードと再会した後に息を引き取る設定にする、などの見せ場作りが奏功して、この歌劇は世界的に愛され、上演回数の多い作品となった。薄幸だったマリ‐デュプレシも、もって瞑すべし、と言うべきか。

(8)ギー‐ド‐モンフォール(= Guy de Monfort/1244-91)

ヴェルディ中期の歌劇『シチリアの晩鐘』(1855初演)の重要登場人物。
イングランドの出身。英国議会の元祖と称されるシモン‐ド‐モンフォールの四男。シチリアを征服して王位に即いたフランス王弟シャルル‐ダンジューの重臣になるが、イタリアに滞在していた仇敵ヘンリ‐オヴ‐アルメインを教会内で暗殺してしまったため、逮捕されて破門の憂き目に遭う。後にシャルルのシチリア王国へ戻ったものの、1287年にアラゴン王国との海戦に敗れて捕虜となり、解放されないまま没した。

歌劇のタイトルにもなっている、1282年に起こったシチリア住民のフランス支配への反乱「シチリアの晩鐘」事件には、ギーは直接関係していないが、この反乱の指導者として登場する医師ジョヴァンニ‐ダ‐プローチダ(= Giovanni da Procida/1210-98)は、事件を主導した実在の人物である。

破門歴などから、ギーには悪い印象が定着していたようだ。歌劇では前国王の処刑や島民への暴政など、主君シャルルが行った負の行動がすべてギーの所業にされ、反乱で殺される悪代官の役回りにされてしまったのは、気の毒な話。他方、プローチダは劇中、強固な意思で国の独立へ突進する役を担い、巻き込まれる人たちの悲劇を織り成している。

ウジェヌ‐スクリーブが作った台本の筋立てそのものをヴェルディは嫌っており、パリ進出のため不承不承受け入れて作曲するに至った。しかしながら、この歌劇は後の『ドン‐カルロス』や『アイーダ』へ発展するグランド‐オペラの形式に挑戦したヴェルディ過渡期の作品として、評価されるべきであろう。

次回へ続く)

2018年2月11日 (日)

ヴェルディ歌劇の面白さ(10)

歌劇に登場する主人公や重要登場人物のうち、歴史上実在した人について、現実の人物像を紹介するエントリー。

今回からはG.ヴェルディの作品である。

(1)ネブカドネザル2世(Nabû-kudurri-uṣur Ⅱ/紀元前634頃~前562)

ヴェルディ初期の歌劇『ナブッコ』(1842初演)のタイトルロール(主人公)。
バビロニア王国・カルデア王朝二代目の国王。父王ナボポラッサルを補佐して対外戦争を指揮、カルケミシュの戦(前605)でエジプト軍を撃破し、翌年には父の後を継いでバビロニア王となり、エジプトと交戦を繰り返した。前587年にはエルサレムを包囲してユダ王国を滅ぼし、多くのユダヤ人をバビロンに連行して強制移住させたが、これが「バビロン捕囚」である。領土拡大により通商の拠点を押さえ、首都バビロンでは土木事業を興してイシュタル門などを建設した。

歌劇の台本は旧約聖書『ダニエル書』の記述、ネブカドネザルがエルサレム征服後に(ユダヤ教の)神を信じたという伝承(おそらく虚構)を踏まえ、テミストークレ‐ソレーラが創作したものである。妻子を失った直後、最悪の精神状態だったヴェルディだが、支配人から押し付けられた台本を読んで次第に興味を示し、作曲を完成、成功を収めた。

自ら台本を書いたワーグナーと違い、ヴェルディはもっぱら作曲する人だったので、初期や前期の台本はヴェルディの意図をあまり反映していない。しかし、この歌劇は「偉大な神のはからいへの賛美と回心」を契機に、どん底にあったヴェルディが立ち直ることができた貴重な作品である。史実のネブカドネザルはユダヤ教の信仰とは無縁の、きわめてドライな政治家だったから、皮肉な話であるが...

(2)フランチェスコ‐フォスカリ(= Francesco Foscari/1373-1457)

ヴェルディ前期の歌劇『二人のフォスカリ』(1844初演)の主人公。
中世ヴェネツィア共和国の有力な家系に生まれ、1423年にドージェ(国家元首)に選出。34年もの長い間ヴェネツィアを統治し、その間、スフォルツァ家のミラーノ公国との戦争で大きな功績を上げた。しかし、晩年に息子のヤコポが汚職と対敵通謀のかどで十人委員会(もともと元首の独裁を阻むために創設された評議機関であるが、このころには委員会自体が強大な権力に変貌していた)から有罪とされ、クレタ島に配流、客死する。フランチェスコはその後もドージェの地位に留まったが、息子の罪を理由に十人委員会から廃位され、翌日に死去した。

フランシスコ‐マリア‐ピアーヴェの台本は、史実を反映させたバイロンの叙事詩に基づいたもので、かなり荒削りで評価はあまり高くないのだが、それにもかかわらず、ヴェルディの音楽は中・後期の作曲につながる独創的な構成により、フランチェスコとヤコポ夫妻との家族愛や苦悩を活写する作品に仕上げている。

(3)ジャンヌ‐ダルク(= Jeanne d’Arc/1412頃-31)

ヴェルディ前期の歌劇『ジョヴァンナ‐ダルコ』(1845初演)のタイトルロール。
日本ではジャンヌの名前を知らない人のほうが珍しいので、略歴は割愛する(^^;

歌劇の台本はシラーの原作を基にソレーラが書いたのだが、史実から大きく改変されてしまった。ジョヴァンナ(ジャンヌ)が悪魔の誘惑によってフランス王シャルル7世と恋に陥りそうになり、怒った父親ジャコモの差し金で敵の捕虜となるも、恋愛感情を克服したジョヴァンナの本心を知ったジャコモによって解放され、戦場に赴いて戦死する話。当然のように、上演の結果は多くの観客が納得するものではなく、不評であった。ヴェルディが一応売れっ子の作曲家になったとは言え、いまだ与えられた台本に依拠して作曲せざるを得なかった時期の、不運な作品の一つと言えよう。

(4)アッティラ(= Attila/406頃-453)

ヴェルディ前期の歌劇『アッティラ』(1846初演)のタイトルロール。
434年、伯父の後を継いでフン族の王になった(445年頃までは兄ブレダと共同統治)。437年にはヴォルムスを攻撃してグンダハール(「ワーグナー楽劇の面白さ(11)」参照)のブルグント王国を滅ぼし、ライン川からカスピ海に至る大帝国を建設、ヨーロッパ一帯で「神の鞭」と言われて恐れられた。しかし、451年にはカタラウヌムの戦でローマの将軍アエティウスと西ゴートの連合軍に敗れ、452年にはローマ侵攻へ向かう途中、軍団に疫病が発生したらしく、ローマ教皇レオ1世との会見を機に撤退している。不本意な膠着状況の中、453年に急死。子どもたちの後継者争いから、大帝国はまもなく瓦解した。

ローマの将軍アエティウス(= Flavius Aetius/391-454。劇中ではイタリア語読みのエツィオで登場)も、ローマ教皇レオ1世(= Leo Ⅰ/400-461。劇中では老人レオーネとして登場)も、アッティラに対峙した代表的な人物である。
歌劇の台本はヴェルディ自身の提案を受け、ソレーラが書き始めたが、彼が途中で仕事を投げ出したため、ピアーヴェが引き継いだ「つぎはぎ」の台本になってしまい、公演を重ねて成功を収めるまでに時間がかかった。
劇中でアッティラは北欧の神々の信者になっているが、これは虚構で、フン族の宗教についてはよくわかっていない。また、アッティラが家来に裏切られ、妃(劇中ではオダベッラ)に殺されるのは、俗説を受けたもので、史実では飲酒の後、鼻から大量出血したことにより死亡している。
しかし、ローマの将軍やローマ教皇が登場してアッティラを破滅に導く筋立ては、イタリアの愛国者たちから喝采を受けた。ヴェルディ自身も、中期の傑作へ結び付く管弦楽の手法をこの作品で披露し、先への見通しを開いたのである。

次回へ続く)

2018年1月30日 (火)

永遠のローマ?

家の中を整理していると、思いがけないものを発見することがある。

昨年末、冬になったので防寒具を出そうと、あまり出し入れしなかった引き出しを開けてみたところ、奥のほうにしまい込んであったものを見つけた。

それは、画像のマフラーである。

Muffler

17年前、ローマへ巡礼したとき、西欧は4月下旬にもかかわらず、季節外れの寒波に見舞われていた。到着して早々、マフラーを持って来れば良かった! と後悔した私は、取り急ぎ、カゼをひかないうちに調達しようと、衣類を扱っている店に立ち寄ったのだが、店の人からは、もう時期的にマフラーを置いていないと言われ、

「サッカーの店へ行きなさいよ!」

と告げられた。そもそもサッカーに縁のなく、サポーターのグッズについて無知だった私は、聞き間違いかな?と思いながら、半信半疑でサッカー用品を扱う店を訪れ、マフラーがあるか尋ねたら、店の人がこれを出してきたのだ。

「ここはローマだから、ローマ(=ASローマ。セリエAのクラブチーム)のマフラーを買ってくれ!」

こう言われたので、とにかく何か襟巻の類さえあれば良かった私は、一も二もなくこれを購入した。

さて、このマフラーを首に巻き付けてローマ市内を観光していると、現地の若い人たちがこれに注目したらしく、近くに寄ってきた。

「あなたは日本から来たの?」

「そうだよ」

「なら、ナカタの応援に来たんだな。きのうナカタが一点入れたぞ!...」

早い話が、当時ASローマで活躍していた中田英寿選手を応援するためにイタリアまで来たものと、勘違いされてしまったのだ! 「いやいや、私はただの観光客なので...」とその場を逃れたのだが...(^^;

イタリアではサポーターたちの地元クラブチームへの思い入れは、相当熱が入っているようだ。ま、「永遠のローマ」の象徴であるオオカミのシンボルを用いているこのチームは、日本のJリーグのチームよりもずっと歴史が古いのだから、当然かも知れないが...

そんな面白いエピソードを持つ一品だが、帰国後、大切にしまい込んで、使わないままになっていた。先の12月になって、偶然これを発見したので、寒波が厳しいこの冬の防寒具として重宝している。

さすがに日本では、サッカーのサポーターおじさんと間違われることはないだろうが、私がこれを着用して道を歩く姿は、若い人たちの眼には結構アンバランスに映っているかも知れない。

当分、冬の間は「永遠のローマ」仕様で行こうかと思っている(^^)v

2018年1月 8日 (月)

ワーグナー楽劇の面白さ(11)

前回から続く)

(4)ハンス‐ザックス(= Hans Sachs/1494-1576)

ワーグナーの楽劇『ニュルンベルクのマイスタージンガー』(1868初演)の主人公。
ニュルンベルクに生まれ、靴屋の修行を終えて各地を遍歴、帰郷してから靴屋の親方として独立する傍ら、詩や論文を次々と発表した。宗教改革ではルター(ルーテル)派を支持したため、カトリック側の市当局から作品の出版禁止処分を受けるが、のちに解禁されて創作活動を再開。作品は実に多様で、歌曲、詩作、劇作、散文など数千にのぼる。家庭的には不幸で、子どもたちや妻に先立たれ、晩年に若い寡婦と再婚、その後はおもに叙情詩を書いた。劇中第三幕で群衆が合唱する「ヴィッテンベルクの鶯」の詩は、ザックス自身の作品にほかならない。

劇中に登場するマイスターたちも実在の人物である。ハンス‐フォルツ(= Hans Folz/?-1513)は外科医・理髪師であり、マイスターの組合規則を一新させ、ザックスの先駆的人物となった。劇中ではコケ役にされているジクストゥス‐ベックメッサー(= Sixtus Beckmesser)は年代記に名前だけ登場するが、活躍した時期や事績は知られておらず、他のマイスターたちも多くは無名である。
現実にはニュルンベルク市当局の統制下の一組合に過ぎなかったマイスタージンガーたちだが、ワーグナーは彼らを市全体の仕切り役として誇大に位置付け、ドイツ芸術を賛美するとともに、国家の統一を後押しする作品に仕上げた。
ナショナリズムの色彩が強い楽劇であるだけに、後世に及ぼした功罪が取り沙汰されるが、ザックスをはじめとするマイスターたちは、いまでも古きヨーロッパに対する私たちのノスタルジーを湧き立てる存在だと言えよう。

(5)ブルンヒルド(= BrunichildまたはBrunhilda/543頃-613)

ワーグナーの楽劇『ワルキューレ』(1870初演)の主人公で、『ニーベルングの指環』全編を通しての重要登場人物。
この人が実在の人物だと聞いて驚く読者があるかも。「エッ? ブリュンヒルデって北欧神話のワルキューレじゃなかったの?」 実は話が逆で、12世紀頃のアイスランドにおいて『古エッダ』『ヴォルスンガ‐サガ』などの神話・伝説が文章化された時期、虚構のワルキューレの中へ、現実の王妃の姿が投影されたと考えるのが正しいようだ。
西ゴート(スペイン)の王女として生まれ、フランク王国の分邦であったアウストラシア国王ジギベルト1世に嫁いだが、実姉や夫を殺害した仇敵であるネウストリア王妃フレーデグンデや、その息子クロタール2世と抗争を繰り返した。実質的なアウストラシア女王として権力を掌握、政略再婚も辞さない強力な権謀術策を駆使し、自ら甲冑を着け馬にまたがり、武器を携えて戦場へ赴いている。義兄のブルグント王グントラムと結び、その没後は両国を事実上支配下に置き、ヴォルムスを都としたが、クロタール2世の偽計にかかって捕えられ、家族もろとも惨殺された。

ゲルマン民族の「戦う女性」の代表だったブルンヒルドは、北欧神話の世界アイスランドから、13世紀に成立した叙事詩『ニーベルンゲンの歌』によって、ブルグントへいわば里帰りを果たした。
ワーグナーはおもに『ヴォルスンガ‐サガ』を題材に『指環』を構成しているが、「権力の争奪」が主題の劇中で、ブリュンヒルデは強い良心や信念に基づいて行動する女性として登場する。史実では権力に執着した彼女が、『指環』では逆に権力争奪の混乱を終結させる役割を担うのも、皮肉な話である。

(6)グンダハール(= GundaharまたはGundikar/?-437)

ワーグナーの楽劇『神々のたそがれ』(1876初演)の重要登場人物。
劇中のグンターとは異なる勇猛果敢な君主であった。はじめはローマ帝国の同盟部族長としてガリア東部(いまの仏・独・スイスにまたがる地域)を統治していたが、413年頃にヴォルムスを都として、ライン川沿岸にブルグント族の独立国家を形成する。野心家のグンダハールはさらに勢力拡大を目指して北の低地地方へ攻め入ったため、危機を感じたローマの将軍アエティウスはフン族の王アッティラに救援を求めた。アッティラの騎馬軍団は大挙してヴォルムスを攻撃、グンダハールはおもな部下たちとともに戦死し、ブルグント王国は滅亡した(数年後に再建)。

史実では彼の6代後の子孫に当たるグントラム(独立ブルグント最後の王)の義妹・ブルンヒルドとは時代が違うから、二人が夫婦になる設定は全くの虚構なのだ。
とは言え、このグンダハールもブルンヒルド同様、アイスランドで『ヴォルスンガ‐サガ』中の「グンナール」として伝説に取り込まれ、叙事詩『ニーベルンゲンの歌』では「グンター」としてヴォルムスに里帰りした。ゲルマンの勇将も叙事詩では優柔不断な国王として描かれ、『神々のたそがれ』に至っては、ハーゲンに操られて身を滅ぼす哀れな殿様に貶められている。
ワーグナーの意図は、権力の争奪に翻弄されて進むべき道を見失う人たちの姿を描くことだったから、グンターには個性の強いブリュンヒルデ、ジークフリート、ハーゲンの間を右往左往するコケ役を割り当てたのであろう。天国のグンダハールは苦笑しているかも知れない(^^;

さて、少し間を置いて、こんどはヴェルディ歌劇に登場する実在人物たちの姿を追ってみよう。

2018年1月 7日 (日)

ワーグナー楽劇の面白さ(10)

今回は、昨年12月、Facebookに友達限定でエントリーした記事の再掲である。

現代でも、ドラマや映画の中で、実在の人物が史実とかけ離れた姿に描かれることは、日常茶飯事だが、19世紀を代表する二大オペラ作家の作品にも、それは多くあった。

私が愛好しているR.ワーグナー(1813-83)とG.ヴェルディ(1813-1901)の楽劇・歌劇に登場する主人公や重要登場人物のうち、歴史上実在した人について、現実の人物像を紹介してみたい。史実がどのように改変されたのか? その背景は? 現代にも生きる教訓は? ...などなど、私の主観と偏見であるが...

まずはワーグナーから。

(1)コーラ‐ディ‐リエンツォ(= Cola di Rienzo/1313頃-54)

ワーグナーの歌劇『リエンツィ』(1842初演)のタイトルロール(題名の主人公)。
ローマの公証人だったが、古代ローマ帝国の栄光を夢見てアヴィニョンへ赴き、教皇の支持を得てローマで議会を招集し、伝統の官職「護民官」を復活させて自ら就任。税制を改めて貴族たちを抑え込んだが、次第に誇大妄想が強くなり、敵対者から追放されてアヴィニョンに軟禁される。その後、ローマに戻って復権するが、強権政治に走ったため、一年もしないうちに民衆の反乱により逮捕、惨殺された。

ワーグナーの劇中でのリエンツィは、常に民衆を前にして大見得を切りながら登場、最後は敵の謀略により民衆から離反され、妹と手を携えて火中に死を遂げる。復権後の実在のリエンツォは生活態度も乱れた哀れな独裁者だったのだが、劇中では終始悲劇の英雄として描かれている。
ワーグナーはフランス‐グランド‐オペラの様式に初挑戦して、狙い通りの大成功を収めた。しかし後世、ヒトラーがこの歌劇に感動して政治家を目指したエピソードが伝わるなど、リエンツォの美化がドイツの政治に予想外の副作用を及ぼしたようだ。
敵対者のステファーノ‐コロンナも、民衆扇動者(劇中ではリエンツィの部下として登場)のバロンチェッリも、実在の人物である。都市国家の中で派閥抗争が常態化していた当時のイタリアの政情を、よく表現している歌劇である。

(2)ヴォルフラム‐フォン‐エシェンバッハ(= Wolfram von Eschenbach/1170前後-1220頃)

ワーグナーの歌劇『タンホイザー』(1845初演)の重要登場人物。
アンスバッハ近郊の村の従士層出身だが、さまざまな部門の学識をラテン語で身に着ける機会に恵まれたようだ。ドイツ各地の宮廷を遍歴して、おもに叙事詩を歌う吟遊詩人として活躍した。中でも『パルツィファル』はこの時代のドイツ文学を代表する長大な叙事詩として知られ、ワーグナー最後の作品『パルジファル』の素材にもなっている。

同時代のヴァルター‐フォン‐デァ‐フォーゲルヴァイデ(= Walther von der Vogelweide/1170頃-1230頃)も同じく高名な吟遊詩人で、叙情詩作家の代表格。この二人をはじめ、著名な詩人たちをテューリンゲンに招き、ヴァルトブルクの歌合戦(1206)を開催したヘルマン地方伯(= Landgraf Hermann von Thüringen/1155頃-1217)も実在の君主である。
ワーグナーはこの歌合戦と「タンホイザー伝説」とを合体させ、ヘルマンの息子の妻であった聖女エリーザベト(= Elisabeth von Ungarn/1207-31)の年齢や事績をかなり改変し、「理解されない芸術家」タンホイザーを救済する女性として、歌劇のストーリーに組み込んだ。
他方、ヴォルフラムは劇中では脇役の立場になり、ヴァルターに至っては史実から大幅に矮小化され、紋切り型の詩人になってしまっている。もっともワーグナーは、後の作品『ニュルンベルクのマイスタージンガー』の中にヴァルターの名を登場させ、その権威を少しく持ち上げてはいるが…

(3)ハインリヒ‐フォン‐リーウドルフィンガー(= Heinrich von Liudolfinger/876-936)

ワーグナーの歌劇『ローエングリン』(1850初演)の重要登場人物。
中世初期のドイツに分立する部族国家の一つ、ザクセンの大公(君主)であり、前国王コンラートの没後、貴族たちからドイツ国王に選出。狩猟が大好きで「デァ‐フォグラー(鳥を捕まえる王)」とあだ名されている。ドイツ国内の他部族を勢力下に置くことに腐心し、また、北方のデンマークや東方のマジャール(=ハンガリー)と戦ってドイツの領土を保全、西フランク(=フランス)との境界を定めるなど、国家の基盤整備に貢献した。

他方、敵役の魔女オルトルートは架空の人物だが、ラドボード家の息女という設定になっている。ラドボード家は古代末期の低地地方(現代のベネルクス)を代表する異教勢力で、フランク王国の拡張によるキリスト教化に対し頑強に抵抗した一族として知られている。
ワーグナーがローエングリン伝説と直接関係ないハインリヒ王の時代に歌劇の時代を設定したのは、ローエングリンとエルザの愛の破綻をメイン・テーマに据えながら、ハインリヒ王の統一事業に対するラドボード家による妨害を隠れたテーマとして扱い、19世紀のドイツ統一を阻む地方勢力を表現しようとしたものであろう。作曲当時の政治情勢を反映したものとして、興味深い。

次回へ続く)

2016年9月 4日 (日)

歴史上のマイナー王朝(6)

フランスとスペインとの間に、国があった。と言っても、アンドラ公国(1993年から独立国)のことではない。

ナバラ王国(スペイン語)。フランス語でナヴァール王国ともいう。バスク民族を中心とする国家であり、中世から近世にかけて、長く独立を保った国である。

この国の起源は、810年に領主になったイニーゴ‐アリスタが、824年にフランク王国から独立してパンプローナ侯国を建てたことに始まる。四代目のサンチョが初めて王位を獲得、六代目のサンチョ2世(位970-994)が987年に「ナバラ王」を称し、アラゴーンの領土をも兼有した。

八代目のサンチョ大王(位1000-35)は婚姻関係によってカスティーリャをも領有し、イベリア半島の半分を支配する。ナバラの首都パンプローナではバスク地方独特のキリスト教文化が繁栄した(下の画像はパンプローナのカテドラル内陣。2001年に巡礼)。大王の没後は、アラゴーンとカスティーリャはそれぞれ別の子孫によって統治され、ナバラはもとの領域に戻る。

Pamplona

周辺諸国の利害対立による紛争が続く中、次第に独立を保つことが困難になったナバラ王国は、西半部をカスティーリャに譲渡せざるを得ず、東半部はアラゴーン王国と連合して独立を維持した。同じくアリスタ王家ながら、アラゴーン王としてナバラ王を兼ねたアルフォンソ戦士王(1104-34)が連合王国として領土を拡張したが、その没後、再びナバラはアラゴーンと分離して周辺領土を失う。サンチョ賢王(1150-94)は国の内外を安定させて功績があったが、1234年にアリスタ王家は断絶した。

婚姻関係によりナバラの継承権を持つシャンパーニュ伯ティボーが、テオバルド1世(位1234-53)として新たなナバラ王家を創設したが、フランスとの関係を深め、1274年には一時フランス王がナバラと同君連合を形成する(その後解消)。14~15世紀にはフランス、アラゴーン、カスティーリャの干渉を受け、内乱もしばしば勃発、ナバラ王国は衰退した。1512年、カスティーリャ王(事実上のスペイン王)フェルナンド2世がナバラと対立して進攻し、首都パンプローナを含む領土の大部分をスペインに併合した。

ナバラ王国の相続権を有するアルブレ家のアンリ2世(位1513-55)は、フランスの庇護のもとにピレネー以北の「ナヴァール王国」国王として即位。ジャンヌ3世(位1555-72)を経て、三代目のアンリ3世(1572-89)は宗主国フランスの王位継承争いに参入、内戦を勝ち抜いてフランス国王アンリ4世となり、1589年にはナヴァル王位をフランス王位に統合させたので、ここに王国は幕を閉じた。

ナバラの歴史は、日本とも決して無縁ではない。特に私たちのカトリック教会には、ナバラ出身の人たちが大きく貢献している。日本に宣教の道を開いた聖フランシスコ‐ザビエル(1506-52)はナバラ王国の生まれである。また、フランシスコ会の神学教授であり、来日の翌年に長崎西坂で殉教した聖マルティーノ‐デ‐ラ‐アセンシオーン(1567-97)、禁教令下の日本に潜入し、関東から関西まで広く信徒たちを励まして活動を続け、殉教した聖ドミンゴ‐エルキシア(1589-1633)、東洋宣教をめざす途中に琉球で逮捕され、長崎に護送されて過酷な拷問を受け、殉教した聖ミゲル‐アオサラサ(?-1637)も、スペイン領となったナバラ地域出身の司祭なのだ。

現代になり、民族主義的な武装組織ETAのテロ活動で混乱を招いたナバラ地域であるが、多くのバスク人は決して過激な思想を持っているわけではない。欧州で地域の主体性が尊重されるようになった現在、バスク民族による国際平和への望ましい参画が、四人の聖人たちの取り次ぎにより実現されることを祈りたい。

2016年4月 8日 (金)

私の海外旅行歴

最近は全く海外旅行へ出かけていないが、私にも過去四回の海外渡航歴がある。

一回目は1983年、中国。大学で指導を受けていた教授のサークルによる企画であり、さらにその教授の師匠である大先生夫妻が代表となっていた20人ほどのグループに拡大させての、もっぱら史跡巡りの旅であった。上海から入り、蘇州、泰安を経て泰山に上り、曲阜の孔子ゆかりの廟堂を見学。さらに再度南下して、江南では南唐国の皇帝陵を巡り、南京で旅の終わりとなった。泰安あたりの村落都市では、現在とは比較にならないほどドメスティックな当時の中国人たちが、私たち外国からの旅行者を珍しいものでも見るように観察していたのが印象的だった。10日間。

二回目は1985年、インド。これは全くの一人旅である。カルカッタから入って近代インド以来の人間のるつぼ状態を経験し、そこから長躯デリーへ移動。西行してラージプート時代の史跡が残るジャイプル、チットールガル、ウダイプルを観光し、アグラでタージ‐マハルを見学、再度デリーに入って中世以来のいくつかの史跡を巡った。旅行中、一再ならずタクシーにつきまとわれ、かなりの金額をぼられてしまったが、それも楽しい旅の思い出である。17日間。

三回目は1988年、米国。職場の研修旅行であった。上司と同僚と3人での渡米。ニュー‐ヨークから入り、前半はワシントンDC、フィラデルフィアなどのナーシングホームを見学する真面目な行程。後半はニュー‐ヨークやボストン市内を観光、バッファロー経由でカナダ側に入国し、ナイアガラの滝を眺め、ニュー‐ヨークに戻った。ユダヤ教徒のためのホーム見学など、こんな機会でもなければなかなか思い立ってもすぐ行くこともできない、貴重な見聞であった。11日間。


Escorial_2

四回目は2001年、南西ヨーロッパである。これも一人旅であるが、おもな目的はカトリック教会への巡礼であった。折しも復活祭に続く時期で、どの国の人たちも活き活きとした表情だったのが印象的だ。

イタリアでは、まずローマで念願のヴァティカン巡礼を果たした後、数日かけてラテラーノ、サンタ‐マリア‐マッジョーレなどの大きな聖堂で祈りを捧げた。ピサの斜塔を見学し、フィレンツェに出向いてドゥオーモを中心とする花の都を満喫。ジェノヴァでは坂の多い街に意外さを感じながら、本場のパスタ‐ジェノヴェーゼを賞味して、西へ。

フランスではプロヴァンスのニース経由で、中世の教皇庁が残るアヴィニョンに数日滞在してお祭り気分を楽しみ、そこからニームやオランジュの古代劇場などの遺跡を見学。ボルドーへ移動してアキテーヌ地方の優しい風景を眺めながら、シャトーのワインで乾杯。

スペインではバスク文化の色濃いパンプローナに足を停めた後、ブルゴスやトレードに入って中世の旧都に思いを馳せた。マドリードを素通り同然にしてセビーリャへ駆け抜け、アンダルシアの香り高い文化に接しながら、信仰厚い人たちが担ぐパソ(聖マリア像を乗せた御輿)を見られる幸運に恵まれた。そこからコルドーバ、さらにグラナーダへ赴き、シエラ‐ネバダを望みながら世にも美しいアルハンブラ宮殿の魅力を心ゆくまで堪能した。最後はマドリードに戻り、森厳なエル‐エスコリアル修道院(上の画像)でハプスブルク朝時代の歴史の重みに触れることができた。最終日にはマドリードのカテドラルで祈りを捧げて、これから始まる新たな仕事への決意を新たにした。実に28日間にわたる旅であった。

それから15年。いま世界の各地で治安が悪化していることを考えると、その前にさまざまな文明の姿を自分の目で見てくることができた私は幸せなのかも知れない。だが他方で、飢餓や貧困、戦乱や暴力に苦しんでいる人たちが数多いことには心を痛める。確かニースに滞在したとき、一歩裏路地に入ると、ホームレスと思しき人たちが路上に寝泊まりしていたのを覚えている。繁栄するリゾート地の影の部分だったのだ。

異なる思想や文化や境遇を持つ人たちが、寛容の心で共生しながら、ともに豊かな生活を送ることができるように、改めて祈りを捧げたい。

2016年2月28日 (日)

歴史上のマイナー王朝(5)

現在、西アジアからのテロや移民流入を契機に、EUの統合理念をめぐって、各国の思惑の違いが火花を散らしている西ヨーロッパ(西欧)。

古代末期にも、ゲルマン民族が軍事集団として移住したことにより、それまで力によって西欧を支配していたローマ帝国の「たが」が緩むと、各地に独立政権が並び立ち、抗争を常とするようになった。

フランス、ドイツ、イタリアなど、いまのEUの中核をなす国々も、このような西欧の統合再編の中で形作られたのであるが、中世にはその一つの国として存在を認められながら、周囲の国々に吸収されてしまった民族共同体がある。

その名は「ブルグント王国(413?-592,877-1032)」。

フランスに「ブルゴーニュBourgogne」という地名があることは、多くの読者がご存知であろう。この「ブルゴーニュ」をドイツ語で発音すると「ブルグントBurgund」になる。ただし、古代末~中世のブルグント王国の領域は、いまのブルゴーニュ地方の南半フランシュ‐コンテの辺りからプロヴァンスの東部、ドイツのラインラントやバーデンの南西部、スイス西部、イタリアのピエモンテ北西部にまたがる地域であった。

411~413年頃、この地域の北部にブルグント族の王国を建てたのはグンダハール(グンディカール)。ヴォルムスに都を置いて領域を支配したが、フン族の王アッティラと正面衝突し、437年には国家壊滅の憂き目に遭った。この悲劇は長大な叙事詩『ニーベルンゲンの歌(作者未詳)』の中で語られ、グンダハールは「グンター」、アッティラは「エッツェル」(真のモデルは後世のハンガリー王イシュトヴァーン1世だとも言われる)として登場する。

数年後にブルグント族では、グンターの遺児グンディオック(位443-473)が王国を再建し、ヴィエンヌに都を置いた。ローマ帝国軍とあるときは同盟し、あるときは抗争しながら、勢力を拡大した。次のグンドバット(位473-516)は、兄弟たちを排除して王権を確立する一方、強大化するフランク王クローヴィス(いっとき国土の過半を占領される)に姪のクロートヒルトを嫁がせるなど、周辺諸民族との勢力均衡を図った。国内では法典を発行するなど統治にも意を用いつつ、領域を南部へ拡大した(画像は15年前に訪れたフランスのアヴィニョン。当時のブルグント領南端の街であり、クローヴィスの攻勢を逃れたグンドバットが短期間滞在していた)。

20160228avignon

次のジーギスムント(位516-523)も父の方針を継承したが、晩年にフランク王国との和平が破れ、最後の王グンディマール(位523-534)のとき、フランク王クロタール1世に滅ぼされた。後にグントラム(クロタールの息子、グンディオックの玄孫に当たる。位561-592)が一時的にブルグント国王になったものの、彼の死によって独立したグンダハール王家は事実上終焉した。その後はフランク国内の分国として、名目上は独立した地位を保ったが、単独のブルグント王を推戴することはなかった。

中世に入り、877年に貴族ボソーが西フランク王国から独立してブルグント王国を建設し、次代にはプロヴァンス(南部)とブルグント(北部)とに分かれた。後者はボソーの娘からヴェルフ家(ブルグント族の一系統)へ継承されたが、この王家は1032年に断絶してしまう。これをもって王国は神聖ローマ帝国に事実上併合され、以後、現在まで独立国としては存在していない。ブルグント族も周囲の諸民族と融合し、西欧の中で固有のまとまりを持つ共同体ではなくなっている。

しかし、『ニーベルンゲンの歌』に登場する人物たちの、剛毅、誠実、強固な信念、礼節といった美点は、決して滅びたわけではない。ブルグントが歴史の中で発展的解消を遂げても、その精神は現代のフランスやドイツなど、周辺諸国民の信仰や騎士道などに、脈々と受け継がれているのだ。

2016年1月30日 (土)

シェイクスピアの「影」

今年はウィリアム‐シェイクスピア(William Shakespeare / 1564-1616)の没後400年になる。言うまでもなく、英国史上最大の文学者・劇作家であり、その業績は不朽である。

私も幼少時から、シェイクスピア文学には親しんできた。『ハムレット』『オセロ』『リア王』『ヴェニスの商人』などの物語は、演劇として観賞する機会こそなかったが、私を古典文学に親しませるきっかけとして十分な役割を果たしてくれた。

さて、シェイクスピアの偉大な業績は認めつつ、この人に対して、史学の面から批判を加えても良いであろう。すなわち、宮廷の保護を受けた「御用劇作家」として、英国の史実をゆがめた責任である。もちろん、シェイクスピアはあくまでも文学者・劇作家であり、史家ではない。しかし、シェイクスピアの作品が人気を博してからは、観賞した多くの人々が、劇中の登場人物を史実の反映と受け取るのは自然の勢いであり、間違った人物像が英国をはじめ世界の人々の間に定着してしまっている。

その最たるものが、『リチャード3世(1593)』『マクベス(1606)』である。

20160106shakespeare

まず、史実のイングランド王リチャード3世(1452-85、位1483-85)は、兄の息子エドワード5世を廃位・幽閉して王位に即いたが、短い治世だったにもかかわらず、紋章院の設置、国王や有力者による議会を通さない権力乱用の禁止、また、徳税(強制献金)の廃止など、見るべき業績があった。

しかし、リチャードを攻め滅ぼしたヘンリ7世(エドワード3世の五代の子孫であったが、曽祖父のときに王位継承権を放棄していた)は、自分の王位継承を正当化するため、「リチャードが血なまぐさい暴君だったので、神の意思により自分が取って代わった」との虚構を作り上げた。

その虚構はリチャードの仇敵であった人たちの派閥によって作り上げられ、シェイクスピアによって完成したと言うべきであろう。まさにヘンリ7世の孫・エリザベス1世の治世に、『リチャード3世』が上演されているのだから。

続いて、史実のスコットランド王マクベス(1005?-57、位1040-57)。当時のスコットランドで、王位継承権を持つ人たちによる抗争が繰り返されていたことは事実であるが、マクベスはその中にあって無能なダンカン1世を殺害し、政敵バンクォウも粛清して、力で王位を獲得した。信仰心に篤く(在位中にローマ巡礼をしたほどだ)、武勇すぐれた国王であったのである。

それどころか、むしろ注目されるべきなのは王妃グロッホ(=「マクベス夫人」)である。この人は初代国王ケニス1世の七代の子孫に当たり、系図から見る限りは嫡流の中の嫡流、(当時の考え方では)最も正当な王位継承者と見なして差し支えない。ところが二代前の国王マルコム2世によって、グロッホや(前の夫との間に生まれた)息子ルーラッハは、王位継承権を奪われてしまう。したがって、グロッホにとってダンカン1世殺害は、本来持っていたはずの権利を回復したものに過ぎない。

現実にはダンカンの息子マルコム3世が、マクベス、ついでルーラッハを攻め滅ぼし、グロッホの系統は断絶した。皮肉なことに、マクベス一代は強盛を誇っていたスコットランドの国勢は、マルコム3世の頃から揺らぎ始める。しかし王統のほうは代々マルコムの子孫が継承し、13~14世紀にはイングランドの介入によってズタズタにされながらも、女系を通してブルース王家、そしてステュアート王家へと続くのだ。

このステュアート王家こそ、マクベスに殺されたバンクォウの直系の子孫であり、その九代目のジェイムズ6世は継嗣のないエリザベス1世の後継者として、イングランド王も兼位した(ジェイムズ1世)。シェイクスピアが『マクベス』の劇中、魔女の魔法により、マクベスの目の前で国王の姿をしたバンクォウの子孫を次々と登場させる場面があるが、これはジェイムズ1世への賛美なのである。

宮廷作家がダンカンとバンクォウとの共通の子孫に当たる新王ジェイムズ1世を寿(ことほ)ぐのであれば、この先祖二人を殺したマクベス夫妻をボロクソに貶めるのが一番である。かくして、「数か月で(本当は17年在位したのだが・・・)滅びた暴君」マクベスと、「稀代の悪女」マクベス夫人という、虚構ができ上がった。

この二つの作品は、シェイクスピアが「御用劇作家」とされるゆえんであり、彼がパトロンのために史実を曲げた「影」の部分であると言うことができよう。

人物の評価は一面的であってはならないとの教訓になる。

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