西洋史

2016年9月 4日 (日)

歴史上のマイナー王朝(6)

フランスとスペインとの間に、国があった。と言っても、アンドラ公国(1993年から独立国)のことではない。

ナバラ王国(スペイン語)。フランス語でナヴァール王国ともいう。バスク民族を中心とする国家であり、中世から近世にかけて、長く独立を保った国である。

この国の起源は、810年に領主になったイニーゴ‐アリスタが、824年にフランク王国から独立してパンプローナ侯国を建てたことに始まる。四代目のサンチョが初めて王位を獲得、六代目のサンチョ2世(位970-994)が987年に「ナバラ王」を称し、アラゴーンの領土をも兼有した。

八代目のサンチョ大王(位1000-35)は婚姻関係によってカスティーリャをも領有し、イベリア半島の半分を支配する。ナバラの首都パンプローナではバスク地方独特のキリスト教文化が繁栄した(下の画像はパンプローナのカテドラル内陣。2001年に巡礼)。大王の没後は、アラゴーンとカスティーリャはそれぞれ別の子孫によって統治され、ナバラはもとの領域に戻る。

Pamplona

周辺諸国の利害対立による紛争が続く中、次第に独立を保つことが困難になったナバラ王国は、西半部をカスティーリャに譲渡せざるを得ず、東半部はアラゴーン王国と連合して独立を維持した。同じくアリスタ王家ながら、アラゴーン王としてナバラ王を兼ねたアルフォンソ戦士王(1104-34)が連合王国として領土を拡張したが、その没後、再びナバラはアラゴーンと分離して周辺領土を失う。サンチョ賢王(1150-94)は国の内外を安定させて功績があったが、1234年にアリスタ王家は断絶した。

婚姻関係によりナバラの継承権を持つシャンパーニュ伯ティボーが、テオバルド1世(位1234-53)として新たなナバラ王家を創設したが、フランスとの関係を深め、1274年には一時フランス王がナバラと同君連合を形成する(その後解消)。14~15世紀にはフランス、アラゴーン、カスティーリャの干渉を受け、内乱もしばしば勃発、ナバラ王国は衰退した。1512年、カスティーリャ王(事実上のスペイン王)フェルナンド2世がナバラと対立して進攻し、首都パンプローナを含む領土の大部分をスペインに併合した。

ナバラ王国の相続権を有するアルブレ家のアンリ2世(位1513-55)は、フランスの庇護のもとにピレネー以北の「ナヴァール王国」国王として即位。ジャンヌ3世(位1555-72)を経て、三代目のアンリ3世(1572-89)は宗主国フランスの王位継承争いに参入、内戦を勝ち抜いてフランス国王アンリ4世となり、1589年にはナヴァル王位をフランス王位に統合させたので、ここに王国は幕を閉じた。

ナバラの歴史は、日本とも決して無縁ではない。特に私たちのカトリック教会には、ナバラ出身の人たちが大きく貢献している。日本に宣教の道を開いた聖フランシスコ‐ザビエル(1506-52)はナバラ王国の生まれである。また、フランシスコ会の神学教授であり、来日の翌年に長崎西坂で殉教した聖マルティーノ‐デ‐ラ‐アセンシオーン(1567-97)、禁教令下の日本に潜入し、関東から関西まで広く信徒たちを励まして活動を続け、殉教した聖ドミンゴ‐エルキシア(1589-1633)、東洋宣教をめざす途中に琉球で逮捕され、長崎に護送されて過酷な拷問を受け、殉教した聖ミゲル‐アオサラサ(?-1637)も、スペイン領となったナバラ地域出身の司祭なのだ。

現代になり、民族主義的な武装組織ETAのテロ活動で混乱を招いたナバラ地域であるが、多くのバスク人は決して過激な思想を持っているわけではない。欧州で地域の主体性が尊重されるようになった現在、バスク民族による国際平和への望ましい参画が、四人の聖人たちの取り次ぎにより実現されることを祈りたい。

2016年4月 8日 (金)

私の海外旅行歴

最近は全く海外旅行へ出かけていないが、私にも過去四回の海外渡航歴がある。

一回目は1983年、中国。大学で指導を受けていた教授のサークルによる企画であり、さらにその教授の師匠である大先生夫妻が代表となっていた20人ほどのグループに拡大させての、もっぱら史跡巡りの旅であった。上海から入り、蘇州、泰安を経て泰山に上り、曲阜の孔子ゆかりの廟堂を見学。さらに再度南下して、江南では南唐国の皇帝陵を巡り、南京で旅の終わりとなった。泰安あたりの村落都市では、現在とは比較にならないほどドメスティックな当時の中国人たちが、私たち外国からの旅行者を珍しいものでも見るように観察していたのが印象的だった。10日間。

二回目は1985年、インド。これは全くの一人旅である。カルカッタから入って近代インド以来の人間のるつぼ状態を経験し、そこから長躯デリーへ移動。西行してラージプート時代の史跡が残るジャイプル、チットールガル、ウダイプルを観光し、アグラでタージ‐マハルを見学、再度デリーに入って中世以来のいくつかの史跡を巡った。旅行中、一再ならずタクシーにつきまとわれ、かなりの金額をぼられてしまったが、それも楽しい旅の思い出である。17日間。

三回目は1988年、米国。職場の研修旅行であった。上司と同僚と3人での渡米。ニュー‐ヨークから入り、前半はワシントンDC、フィラデルフィアなどのナーシングホームを見学する真面目な行程。後半はニュー‐ヨークやボストン市内を観光、バッファロー経由でカナダ側に入国し、ナイアガラの滝を眺め、ニュー‐ヨークに戻った。ユダヤ教徒のためのホーム見学など、こんな機会でもなければなかなか思い立ってもすぐ行くこともできない、貴重な見聞であった。11日間。


Escorial_2

四回目は2001年、南西ヨーロッパである。これも一人旅であるが、おもな目的はカトリック教会への巡礼であった。折しも復活祭に続く時期で、どの国の人たちも活き活きとした表情だったのが印象的だ。

イタリアでは、まずローマで念願のヴァティカン巡礼を果たした後、数日かけてラテラーノ、サンタ‐マリア‐マッジョーレなどの大きな聖堂で祈りを捧げた。ピサの斜塔を見学し、フィレンツェに出向いてドゥオーモを中心とする花の都を満喫。ジェノヴァでは坂の多い街に意外さを感じながら、本場のパスタ‐ジェノヴェーゼを賞味して、西へ。

フランスではプロヴァンスのニース経由で、中世の教皇庁が残るアヴィニョンに数日滞在してお祭り気分を楽しみ、そこからニームやオランジュの古代劇場などの遺跡を見学。ボルドーへ移動してアキテーヌ地方の優しい風景を眺めながら、シャトーのワインで乾杯。

スペインではバスク文化の色濃いパンプローナに足を停めた後、ブルゴスやトレードに入って中世の旧都に思いを馳せた。マドリードを素通り同然にしてセビーリャへ駆け抜け、アンダルシアの香り高い文化に接しながら、信仰厚い人たちが担ぐパソ(聖マリア像を乗せた御輿)を見られる幸運に恵まれた。そこからコルドーバ、さらにグラナーダへ赴き、シエラ‐ネバダを望みながら世にも美しいアルハンブラ宮殿の魅力を心ゆくまで堪能した。最後はマドリードに戻り、森厳なエル‐エスコリアル修道院(上の画像)でハプスブルク朝時代の歴史の重みに触れることができた。最終日にはマドリードのカテドラルで祈りを捧げて、これから始まる新たな仕事への決意を新たにした。実に28日間にわたる旅であった。

それから15年。いま世界の各地で治安が悪化していることを考えると、その前にさまざまな文明の姿を自分の目で見てくることができた私は幸せなのかも知れない。だが他方で、飢餓や貧困、戦乱や暴力に苦しんでいる人たちが数多いことには心を痛める。確かニースに滞在したとき、一歩裏路地に入ると、ホームレスと思しき人たちが路上に寝泊まりしていたのを覚えている。繁栄するリゾート地の影の部分だったのだ。

異なる思想や文化や境遇を持つ人たちが、寛容の心で共生しながら、ともに豊かな生活を送ることができるように、改めて祈りを捧げたい。

2016年2月28日 (日)

歴史上のマイナー王朝(5)

現在、西アジアからのテロや移民流入を契機に、EUの統合理念をめぐって、各国の思惑の違いが火花を散らしている西ヨーロッパ(西欧)。

古代末期にも、ゲルマン民族が軍事集団として移住したことにより、それまで力によって西欧を支配していたローマ帝国の「たが」が緩むと、各地に独立政権が並び立ち、抗争を常とするようになった。

フランス、ドイツ、イタリアなど、いまのEUの中核をなす国々も、このような西欧の統合再編の中で形作られたのであるが、中世にはその一つの国として存在を認められながら、周囲の国々に吸収されてしまった民族共同体がある。

その名は「ブルグント王国(413?-592,877-1032)」。

フランスに「ブルゴーニュBourgogne」という地名があることは、多くの読者がご存知であろう。この「ブルゴーニュ」をドイツ語で発音すると「ブルグントBurgund」になる。ただし、古代末~中世のブルグント王国の領域は、いまのブルゴーニュ地方の南半フランシュ‐コンテの辺りからプロヴァンスの東部、ドイツのラインラントやバーデンの南西部、スイス西部、イタリアのピエモンテ北西部にまたがる地域であった。

411~413年頃、この地域の北部にブルグント族の王国を建てたのはグンダハール(グンディカール)。ヴォルムスに都を置いて領域を支配したが、フン族の王アッティラと正面衝突し、437年には国家壊滅の憂き目に遭った。この悲劇は長大な叙事詩『ニーベルンゲンの歌(作者未詳)』の中で語られ、グンダハールは「グンター」、アッティラは「エッツェル」(真のモデルは後世のハンガリー王イシュトヴァーン1世だとも言われる)として登場する。

数年後にブルグント族では、グンターの遺児グンディオック(位443-473)が王国を再建し、ヴィエンヌに都を置いた。ローマ帝国軍とあるときは同盟し、あるときは抗争しながら、勢力を拡大した。次のグンドバット(位473-516)は、兄弟たちを排除して王権を確立する一方、強大化するフランク王クローヴィス(いっとき国土の過半を占領される)に姪のクロートヒルトを嫁がせるなど、周辺諸民族との勢力均衡を図った。国内では法典を発行するなど統治にも意を用いつつ、領域を南部へ拡大した(画像は15年前に訪れたフランスのアヴィニョン。当時のブルグント領南端の街であり、クローヴィスの攻勢を逃れたグンドバットが短期間滞在していた)。

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次のジーギスムント(位516-523)も父の方針を継承したが、晩年にフランク王国との和平が破れ、最後の王グンディマール(位523-534)のとき、フランク王クロタール1世に滅ぼされた。後にグントラム(クロタールの息子、グンディオックの玄孫に当たる。位561-592)が一時的にブルグント国王になったものの、彼の死によって独立したグンダハール王家は事実上終焉した。その後はフランク国内の分国として、名目上は独立した地位を保ったが、単独のブルグント王を推戴することはなかった。

中世に入り、877年に貴族ボソーが西フランク王国から独立してブルグント王国を建設し、次代にはプロヴァンス(南部)とブルグント(北部)とに分かれた。後者はボソーの娘からヴェルフ家(ブルグント族の一系統)へ継承されたが、この王家は1032年に断絶してしまう。これをもって王国は神聖ローマ帝国に事実上併合され、以後、現在まで独立国としては存在していない。ブルグント族も周囲の諸民族と融合し、西欧の中で固有のまとまりを持つ共同体ではなくなっている。

しかし、『ニーベルンゲンの歌』に登場する人物たちの、剛毅、誠実、強固な信念、礼節といった美点は、決して滅びたわけではない。ブルグントが歴史の中で発展的解消を遂げても、その精神は現代のフランスやドイツなど、周辺諸国民の信仰や騎士道などに、脈々と受け継がれているのだ。

2016年1月30日 (土)

シェイクスピアの「影」

今年はウィリアム‐シェイクスピア(William Shakespeare / 1564-1616)の没後400年になる。言うまでもなく、英国史上最大の文学者・劇作家であり、その業績は不朽である。

私も幼少時から、シェイクスピア文学には親しんできた。『ハムレット』『オセロ』『リア王』『ヴェニスの商人』などの物語は、演劇として観賞する機会こそなかったが、私を古典文学に親しませるきっかけとして十分な役割を果たしてくれた。

さて、シェイクスピアの偉大な業績は認めつつ、この人に対して、史学の面から批判を加えても良いであろう。すなわち、宮廷の保護を受けた「御用劇作家」として、英国の史実をゆがめた責任である。もちろん、シェイクスピアはあくまでも文学者・劇作家であり、史家ではない。しかし、シェイクスピアの作品が人気を博してからは、観賞した多くの人々が、劇中の登場人物を史実の反映と受け取るのは自然の勢いであり、間違った人物像が英国をはじめ世界の人々の間に定着してしまっている。

その最たるものが、『リチャード3世(1593)』『マクベス(1606)』である。

20160106shakespeare

まず、史実のイングランド王リチャード3世(1452-85、位1483-85)は、兄の息子エドワード5世を廃位・幽閉して王位に即いたが、短い治世だったにもかかわらず、紋章院の設置、国王や有力者による議会を通さない権力乱用の禁止、また、徳税(強制献金)の廃止など、見るべき業績があった。

しかし、リチャードを攻め滅ぼしたヘンリ7世(エドワード3世の五代の子孫であったが、曽祖父のときに王位継承権を放棄していた)は、自分の王位継承を正当化するため、「リチャードが血なまぐさい暴君だったので、神の意思により自分が取って代わった」との虚構を作り上げた。

その虚構はリチャードの仇敵であった人たちの派閥によって作り上げられ、シェイクスピアによって完成したと言うべきであろう。まさにヘンリ7世の孫・エリザベス1世の治世に、『リチャード3世』が上演されているのだから。

続いて、史実のスコットランド王マクベス(1005?-57、位1040-57)。当時のスコットランドで、王位継承権を持つ人たちによる抗争が繰り返されていたことは事実であるが、マクベスはその中にあって無能なダンカン1世を殺害し、政敵バンクォウも粛清して、力で王位を獲得した。信仰心に篤く(在位中にローマ巡礼をしたほどだ)、武勇すぐれた国王であったのである。

それどころか、むしろ注目されるべきなのは王妃グロッホ(=「マクベス夫人」)である。この人は初代国王ケニス1世の七代の子孫に当たり、系図から見る限りは嫡流の中の嫡流、(当時の考え方では)最も正当な王位継承者と見なして差し支えない。ところが二代前の国王マルコム2世によって、グロッホや(前の夫との間に生まれた)息子ルーラッハは、王位継承権を奪われてしまう。したがって、グロッホにとってダンカン1世殺害は、本来持っていたはずの権利を回復したものに過ぎない。

現実にはダンカンの息子マルコム3世が、マクベス、ついでルーラッハを攻め滅ぼし、グロッホの系統は断絶した。皮肉なことに、マクベス一代は強盛を誇っていたスコットランドの国勢は、マルコム3世の頃から揺らぎ始める。しかし王統のほうは代々マルコムの子孫が継承し、13~14世紀にはイングランドの介入によってズタズタにされながらも、女系を通してブルース王家、そしてステュアート王家へと続くのだ。

このステュアート王家こそ、マクベスに殺されたバンクォウの直系の子孫であり、その九代目のジェイムズ6世は継嗣のないエリザベス1世の後継者として、イングランド王も兼位した(ジェイムズ1世)。シェイクスピアが『マクベス』の劇中、魔女の魔法により、マクベスの目の前で国王の姿をしたバンクォウの子孫を次々と登場させる場面があるが、これはジェイムズ1世への賛美なのである。

宮廷作家がダンカンとバンクォウとの共通の子孫に当たる新王ジェイムズ1世を寿(ことほ)ぐのであれば、この先祖二人を殺したマクベス夫妻をボロクソに貶めるのが一番である。かくして、「数か月で(本当は17年在位したのだが・・・)滅びた暴君」マクベスと、「稀代の悪女」マクベス夫人という、虚構ができ上がった。

この二つの作品は、シェイクスピアが「御用劇作家」とされるゆえんであり、彼がパトロンのために史実を曲げた「影」の部分であると言うことができよう。

人物の評価は一面的であってはならないとの教訓になる。

2015年12月19日 (土)

歴史上のマイナー王朝(4)

「ジョージア」と言うと、多くの人は米国南東部の州を想像すると思うが、これは全く別の土地の話である。

このシリーズも4回目となるので、これまでは中国や中国絡みの王朝だったが、こんどは少し西のほうへ目を転じてみた。

サカルトヴェロのバグラト王朝(1008-1801)。

いま、英語で「ジョージア」と称している。「グルジア」と言ったほうがわかりやすいかも知れない。あのソ連の独裁者、ヨシフ‐スターリンの出身地でもある。中世には独立国であったが、歴史の波に翻弄されてきた。

サカルトヴェロはカフカーズの北西部にあって、1008年にはバグラト3世(位1008-14)が統一国家を形成する。最盛期はタマラ女王(位1184-1213)のときであり、カフカーズ全域を制覇した。その後は勢力が衰退、モンゴル、ティームール朝、カラ‐コユン‐ル朝(トルコマン)などの属国になり、内紛を繰り返し、1490年に至ってカルトリ、カヘティ、イメレティの三国に分裂した。これらの分立国家はトルコ、イラン、ロシアといった大国の狭間に置かれ、これらの強国の属国にされることもしばしばであった。

1762年に、カヘティ王イラクリ2世がカルトリを併合して、「カルトリ‐カヘティ王国」が成立したが、1783年にはロシアの保護国となる。1798年にイラクリ2世か死去すると、後継のギオルギ13世は統治能力に欠けていたため、1801年、ロシア皇帝パーヴェル1世がバグラト王朝廃止を決定し、その年に次の皇帝となったアレクサンドル1世が、カルトリ‐カヘティをロシアに併合した。

その後、この土地はロシア領→ソ連領グルジアとなり、ソ連崩壊に伴って独立する。近年、ロシアと紛争状態になり、アブハジアと南オセチアには同国の主権が及ばない状況となっている。

ロシア語読みの「グルジア」から、英語読みの「ジョージア」を国際的な呼称にした国であるが、実はバグラト王朝の守護聖人が「聖ゲオールギオス」であったのだから、ゲオールギオスの英語読みである「ジョージ」の地名形「ジョージア」を名乗ったのも、うなづける話だ。何しろ、この聖人にちなんだ「ギオルギ(=ジョージ)」という国王が、800年の間に13人も出ているのだから。

もっとも、多くの日本人が「ジョージア」をカフカーズの国だと認識するようになるのは、まだ結構先のことになるだろうとは思う。

2013年12月21日 (土)

つくられた暴君(3)

隋の煬帝(ようだい)=楊広、古代中国の皇帝(569-618、在位604-618)。歴代皇帝の中でも「暴君」とされています。確かに、治世の晩年に至り、高句麗への無理な外征が引き金となって各地で反乱が起こったのを鎮圧できず、最終的に身の破滅を招いたことは、統治に失敗したと評されても、いたしかたのないことでしょう。

しかし、煬帝への評価には、多分に次の唐王朝の思惑が含まれています。唐の建国者である高祖神堯皇帝・李淵(566-635、在位618-626)は煬帝の母方の従兄になりますが(もちろん、本来隋から帝位を継承する権利は全くありません)、自分が軍を預けられていた太原で機会を窺い、全国的に煬帝への反乱が広がるのを見て挙兵、長安を占領しました。そしてまだ煬帝が江南で存命しているのに、勝手に煬帝の孫の恭帝を擁立。煬帝が臣下の宇文化及に殺害された報を受けると、ほどなく恭帝を廃位して自分が皇帝の座に即いているのです。この高祖の後を受けた二代目の皇帝が、太宗文武皇帝・李世民(599-649、在位626-649)で、「明君」の誉れが高い人物です。

リチャード3世を滅ぼしてイングランド王に即位したヘンリ7世とは違い、高祖や太宗は直接煬帝を殺したわけではありません。しかし、煬帝を殺害した宇文化及(戦乱で敗死)の弟・宇文士及は、太宗の宰相にまで出世しています。高祖や太宗が煬帝の非業の死を聞いて「タイミング良く殺されてくれた」と思ったであろうことは、証明する必要もないでしょう。煬帝の死からわずか二か月後に、隋王朝を滅ぼしているのですから。

太宗は煬帝が暴君だから隋が滅亡して唐が興ったのであり、自分が煬帝に比べて明君であると宣伝します。その事績をまとめたものが『貞観政要』ということになるでしょう。もちろん、太宗が名臣たちの補佐を得てセルフコントロールに努めたことは知られていますが、実は失点も少なくなく、「兄弟殺し」をして皇帝の座に即いたり、高句麗遠征に失敗したりしたことなど、煬帝と大差ないと評する論者もいます。

煬帝の大運河開削事業は、物流の利便という面で、その功績は計り知れないほど大きなものです。動員された当時の民衆にとっては、苦役にほかならなかったかも知れませんが、後世の中国にとって無窮の利益をもたらしているのです。この功績を過小評価して、煬帝のマイナス面ばかりを強調する史論は、唐代につくられた煬帝暴君論に呪縛されたものであると言えましょう。

2013年11月19日 (火)

つくられた暴君(2)

リチャード3世、中世のイングランド国王(1452-85、在位1483-85)。昨年、英国のレスターで遺骨が発見されたことで知られています。この人はシェイクスピアによって「悪人」のレッテルを貼られてしまった人物。残忍な暴君で、容姿も醜悪な人として、おとしめられています。

彼は特に、ヘンリ6世、エドワード5世と二人の国王を殺害した張本人とされていますが、実はこの「殺害」、いずれも証拠はありません。どちらの王に対してもリチャードが「幽閉」に加担した事実はありますが、「王殺し」の汚名を着せられるいわれはない。これは新王朝であるテューダ朝の、いわば御用作家であったシェイクスピア(トマス‐モアやホリンシェッドもこの「仲間」)が、前王朝であるヨーク朝のリチャードを悪王として評価を低落させる必要があったため、残虐な行為をすべて彼の責に帰してしまったことによるものです。

そのリチャードを敗死させてテューダ朝を創設したヘンリ7世(1457-1509、在位1485-1509)は、プランタジニット朝の国王エドワード3世(1312-77、在位1327-77)の四男、ジョン‐オヴ‐ゴーントの玄孫になります。系図上から見ると、ヘンリ7世が一族の間の抗争を勝ち抜いて王位に即いたとしても、正統性には何の問題もないように思われます。

ところが、ここに意外と知られていない事実が。ジョンの子どもたちのうち、ヘンリ7世の曽祖父に当たるジョン‐ボーフォートなど4名は、異母兄であるヘンリ4世との協定によって、王位継承権を放棄していたのです。ということは、その子孫であるヘンリ7世も王位を継承する資格はない。すなわち、彼は「簒奪者」であったのですから、リチャード3世を「国王に値しない人物」と決めつけないと、自分の王位を正当化できない状況にあったのですね。

現実のリチャード3世は、短い治世でありながら、すぐれた統治者として知られ、議会の議決を経ない臨時献金徴収の廃止や、紋章院の創設などの業績があった人物です。不運にも、イングランドの正当な王朝最後の君主になってしまったために、簒奪者から「悪王」に位置付けられてしまったというわけです。

まさに日本の徳川綱吉と同じく、「つくられた暴君」と言うことができるでしょう。

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