東洋史

2016年4月 8日 (金)

私の海外旅行歴

最近は全く海外旅行へ出かけていないが、私にも過去四回の海外渡航歴がある。

一回目は1983年、中国。大学で指導を受けていた教授のサークルによる企画であり、さらにその教授の師匠である大先生夫妻が代表となっていた20人ほどのグループに拡大させての、もっぱら史跡巡りの旅であった。上海から入り、蘇州、泰安を経て泰山に上り、曲阜の孔子ゆかりの廟堂を見学。さらに再度南下して、江南では南唐国の皇帝陵を巡り、南京で旅の終わりとなった。泰安あたりの村落都市では、現在とは比較にならないほどドメスティックな当時の中国人たちが、私たち外国からの旅行者を珍しいものでも見るように観察していたのが印象的だった。10日間。

二回目は1985年、インド。これは全くの一人旅である。カルカッタから入って近代インド以来の人間のるつぼ状態を経験し、そこから長躯デリーへ移動。西行してラージプート時代の史跡が残るジャイプル、チットールガル、ウダイプルを観光し、アグラでタージ‐マハルを見学、再度デリーに入って中世以来のいくつかの史跡を巡った。旅行中、一再ならずタクシーにつきまとわれ、かなりの金額をぼられてしまったが、それも楽しい旅の思い出である。17日間。

三回目は1988年、米国。職場の研修旅行であった。上司と同僚と3人での渡米。ニュー‐ヨークから入り、前半はワシントンDC、フィラデルフィアなどのナーシングホームを見学する真面目な行程。後半はニュー‐ヨークやボストン市内を観光、バッファロー経由でカナダ側に入国し、ナイアガラの滝を眺め、ニュー‐ヨークに戻った。ユダヤ教徒のためのホーム見学など、こんな機会でもなければなかなか思い立ってもすぐ行くこともできない、貴重な見聞であった。11日間。


Escorial_2

四回目は2001年、南西ヨーロッパである。これも一人旅であるが、おもな目的はカトリック教会への巡礼であった。折しも復活祭に続く時期で、どの国の人たちも活き活きとした表情だったのが印象的だ。

イタリアでは、まずローマで念願のヴァティカン巡礼を果たした後、数日かけてラテラーノ、サンタ‐マリア‐マッジョーレなどの大きな聖堂で祈りを捧げた。ピサの斜塔を見学し、フィレンツェに出向いてドゥオーモを中心とする花の都を満喫。ジェノヴァでは坂の多い街に意外さを感じながら、本場のパスタ‐ジェノヴェーゼを賞味して、西へ。

フランスではプロヴァンスのニース経由で、中世の教皇庁が残るアヴィニョンに数日滞在してお祭り気分を楽しみ、そこからニームやオランジュの古代劇場などの遺跡を見学。ボルドーへ移動してアキテーヌ地方の優しい風景を眺めながら、シャトーのワインで乾杯。

スペインではバスク文化の色濃いパンプローナに足を停めた後、ブルゴスやトレードに入って中世の旧都に思いを馳せた。マドリードを素通り同然にしてセビーリャへ駆け抜け、アンダルシアの香り高い文化に接しながら、信仰厚い人たちが担ぐパソ(聖マリア像を乗せた御輿)を見られる幸運に恵まれた。そこからコルドーバ、さらにグラナーダへ赴き、シエラ‐ネバダを望みながら世にも美しいアルハンブラ宮殿の魅力を心ゆくまで堪能した。最後はマドリードに戻り、森厳なエル‐エスコリアル修道院(上の画像)でハプスブルク朝時代の歴史の重みに触れることができた。最終日にはマドリードのカテドラルで祈りを捧げて、これから始まる新たな仕事への決意を新たにした。実に28日間にわたる旅であった。

それから15年。いま世界の各地で治安が悪化していることを考えると、その前にさまざまな文明の姿を自分の目で見てくることができた私は幸せなのかも知れない。だが他方で、飢餓や貧困、戦乱や暴力に苦しんでいる人たちが数多いことには心を痛める。確かニースに滞在したとき、一歩裏路地に入ると、ホームレスと思しき人たちが路上に寝泊まりしていたのを覚えている。繁栄するリゾート地の影の部分だったのだ。

異なる思想や文化や境遇を持つ人たちが、寛容の心で共生しながら、ともに豊かな生活を送ることができるように、改めて祈りを捧げたい。

2015年10月30日 (金)

歴史上のマイナー王朝(3)

天山ウイグル国(848以前-1318以後)という王朝の名前をご存知だろうか?

ウイグル人が初めて東トルキスタン(現在は中華人民共和国が実効支配している)を領土として建設した国家である。

モンゴル高原を支配する一大勢力であった遊牧ウイグル国家(744-840)は、異常気象や内紛のために統治能力を失い、キルギス人の侵入により最後の君主ホーサー‐テギンが840年に殺害され、瓦解、四分五裂した。

ホーサー‐テギンの親族であったパン‐テギンは、自派の諸部族を率いて混乱から逃れ、南西に進んでユルドゥズ高原を支配し、新天地に国家を建設した。これが天山ウイグル国である。866年以降は、ビシュ‐バリクが王城となり、パン‐テギン本人か次代か執政かと思われるブグ‐シュンなる人物が、統治者としての地位を確立したとされる。

パン‐テギンの没年は知られておらず、その後の君主も系図などは不明である。歴代王の称号として、「第四国ビルゲ天王(→954年前後)」「アルスラン(獅子)スュンギュリュグ(槍)カガン(→983年前後)」「ボギュ(賢)ビルゲ天王(→996年以降)」「コルトレ‐ヤルク(麗輝)テングリケン(→1007年以降)」「第三のアルスラン‐ビルゲ‐ハン(→1019年前後)」「テングリ‐ウイグル‐テングリケン(→1067年前後)」といった名前が知られているが、いずれも本名ではない。ビシュ‐バリクの仏教寺院の跡には、壁画の一部に11世紀中葉かと推測される「トゥグミシュ」を名乗る王の肖像が遺されている。これが「アルスラン‐ビルゲ‐ハン」と同一人物なのか、わからない。

かと言って、この王朝は闇に埋もれているわけでは全くない。むしろ漢民族王朝に朝貢しなくなったために、中国文献に詳細が残らなかったのだ。ウイグル人自らも、文字による記録をあまり残さず、文献史料は乏しい。しかしこの地には独自の仏教文化が花開き、シルクロード貿易の要衝として繁栄した。オアシス都市であるビシュ‐バリクを中心に、草原を占めて農耕社会が展開されていった。

対外的には、キタン王朝(契丹、西遼)の緩い圧力のもとに置かれることもあったが、おおむね独立を保っていた。13世紀に入ってモンゴルが勃興すると、天山ウイグル国はその傘下に入り、君主バルチュク‐アルト‐ティギン(?-1229以降)はチンギス‐ハンの養子の扱いを受け、厚遇された。しかしそれとは裏腹に、天山ウイグル国はモンゴルの大勢力に吸収される道をたどり、国家は衰退して消滅に至った。

民族国家は消滅したが、ウイグル人は東トルキスタンでオアシス生活を営み、やがて14世紀には急速にイスラーム化して、18世紀までチャガタイ系ハン国やジュンガルなどによる統治を受けた。1759年に「多民族国家」清王朝により征服され、新疆と命名された。

そして、はっきり言えることは、前近代において東トルキスタンのウイグル人が「漢民族国家」の統治下に置かれたことは一度もないということだ。にもかかわらず、孫文政権は清王朝の全領土を中華民国のものだと宣言し、毛沢東政権は旧ソ連との「取引」によって東トルキスタンを領有し、現在に至っている。チベットの場合と大同小異である。「歴史を直視」しなければならないのは、日本だけではないことは明らかであろう。

ウイグルの歴史を通して、民族とは何かという問題を三思してみたい。

2015年9月16日 (水)

歴史上のマイナー王朝(2)

ちょっと名前を聞いただけでは、いつの時代、どこの国の王朝かわからないような存在もある。

「ターネーサル(いまのインド・ハリヤナ州内)のプシヤブーティ王家」???

これを見ただけでは、何のことかチンプンカンプンな方が多いと思うが、

「ハルシャヴァルダナ(590-647、位606-647)」と言えば、ピンとくる方も多いのではないだろうか? インド古代から中世にかけての分裂時代、一時的に北インドを統一した国王である。政治家であるとともに、サンスクリットの詩作など文化人としても一流の人物であり、また仏教を厚く信奉した。

そして、この国王が何よりも知られているのは、630年頃に唐から経典を求めて訪れた僧・玄奘(三蔵。602-664)を手厚くもてなしたことである。玄奘はナーランダ学院に5年間滞在して修行したのち、膨大な仏教経典を唐へ持ち帰り、『大唐西域記』を著述して後世に残した。これを機にハルシャヴァルダナは「戒日王(シーラーディティヤ)」として中国文献にも記されることになった。

プシヤブーティ王家は、6世紀前半のナラヴァルダナに始まるとされる。はじめはターネーサル周辺を治める小王家に過ぎなかったが、次第に勢力を拡大、四代目のプラバーカラヴァルダナ(位585頃-605)のとき、周辺の国々を制圧して領土を大きく東西に広げた。続く五代目のラージヤヴァルダナ2世(位605-606)は、さらに東進してベンガルのシャシャーンカ王と対峙したが、暗殺された。

弟のハルシャヴァルダナが六代目の国王として後を継ぎ、隣国マウカリ朝の継承権をも獲得して、都をカニヤークブジャ(カナウジ)に移転、ベンガルを攻め併合して、北インド一帯を統一した。王一代の間、国は安泰で殷盛を誇った。歴代国王の名前に「ヴァルダナ」が付くので、一般的にヴァルダナ朝とも称されている。

ハルシャヴァルダナが647年に没したとき、後継者がいなかったため、王国はたちまち混乱状態に入り、領土は分裂状態となった。家臣のアルナシュヴァが一時王位に即いたことが知られているが、プシヤブーティ家の後裔がどうなったのか、杳として伝わっていない。歴史の闇に埋もれてしまったようだ。

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