ソーシャルワーク

2017年8月 6日 (日)

「合理的配慮」が容易でないのはなぜか?

先日、車いす利用の男性と航空会社とのトラブルが報じられ、「障害者差別解消法」の浸透や、「合理的配慮」の度合いが話題となった。

この事案に踏み込む前に、「合理的配慮」を阻む障壁について、自分自身の経験から、エントリーに自論を述べておきたい。

2008年、カトリック教会の西部地区で、お一人の司祭(神父)の提唱によって、5人ほどのメンバーが集まり、数次にわたってキリシタン時代の「殉教者(信仰を守って処刑された人たち)」を崇敬し、事績を研究する会が結成された。もちろん、ポルトガル語やスペイン語の文献を参照して専門的研究をするのではなく、著名な研究者により積み上げられた数々の専門的研究を、一般の信徒にわかりやすい形で整理してまとめる作業であった。そこでは私ともう一人のA氏とが中心になり、A氏が信仰面・教理面からの整理、私が歴史的背景からの整理をして、殉教者に関する資料をまとめ、その二つをメインとした発表会を企画した。

さて、発表会の当日、会場となった浜松教会の聖堂で、先発のA氏の発表が始まったころ、同じ西部地区内で隣の教会に所属していたB氏が、奥さんと一緒に会場に入ってきたのだ。

B氏は当時60代後半、視覚障害者(全盲)であり、私の昔の勤務先の先輩でもあった。県内の視覚障害者の中でも指導的立場にある。教会の信徒たちからも尊敬される人であり、息子さんは司祭になっておられる。当然のように、地区全体に広報した企画である以上、B氏が来場する可能性は想定しておかなければならなかったのだが、なぜか私の頭の中からはその可能性が欠落していた。

私の発表は「キリシタン時代-その宣教と殉教者たち」と題して、54枚のスライドで構成される大部のものであった。前半がキリシタン時代の歴史的背景の解説であり、後半が各地を巡礼した画像であったので、説明を加えるのはおもに前半に比重を置き、後半ではスライドを見てもらいながら、早送りで流す予定であった。

しかし、B氏が会場にいる以上、後半を画像だけ見てもらって流すわけにはいかなくなった。そこで、前半の説明をかなり早口で進め、後半の画像についても、早口だったがすべてに解説を付けた。一枚ずつのスライドに関する説明は、部分的に割愛せざるを得なかった。

終わった後、メンバーで反省会を開いたとき、私から一言。「Bさんが当日行くことをあらかじめ知らせてくれていれば、そのつもりで構成を考えたんですが...」。

さて、ここに述べた私の事案を事例として整理してみよう。

まず、この企画はあくまでも一宗教団体の内部行事であり、公共の場で行われた作業ではない。かつ、私たちは対価をもらって講話をしたのではなく、A氏も私もまったく無償で時間を費やしてスライドを作成し、解説している。

したがって、障害のある人たちへの「合理的配慮」をどこまでするかは、主催者側の裁量に任せられていたことになる。すなわち明確な「努力義務」を負っていたわけではないので、日頃、教会を訪れる人たちの中に見受けられる障害者の人たちに対して、一通りの配慮をしていれば、過当な批判を受けるものではない。

次に、日頃来る人たちへの配慮である。B氏の来場を予測していなかったのは確かに不用意であったかも知れないが、B氏一人(他には視覚障害者と思しき人は来場していなかった)のために、すべてのスライドについて早口ながら口で説明を加え、少なくとも「合理的配慮」はしっかり行っている。「しなかった」わけではないのである。車いすの人は見た限りでは来場していなかったが、聖堂(残念ながら段差が多い)の後ろの席で見ることはできる状態であった。また聴覚障害者に対しては、少なくとも私のスライドでは、画像の傍らに見て理解できる説明を付けておいた。

しかし、反省会のときには私の口から、前述の「...あらかじめ知らせてくれていれば...」の言葉が出てしまったのだ。

私は介護・福祉業界の人間である。そして繰り返すが、B氏は業界の先輩として私自身も尊敬し、他の多くの人からも尊敬を集める人物である。そしてB氏の来場を予測しなかったのは、私の不用意でもある。

それでも、私としてはネガティブな感情を抑えられなかった。いや、おそらく話は逆で、知名度の低い「フツーの」視覚障害者である教会信徒が突然来場して、そのために私が講話の語り方の変更を余儀なくされたとしても、ネガティブな思いを抱かなかったのではないか。むしろ「Bさんほどの人が、なぜ事前連絡をしてくれなかったのか?」のほうが、当時の私の気持ちを正しく表現しているのかも知れない。

つまり、「合理的配慮」はしたい。したいが、その「合理的配慮」を円滑に浸透させる準備は、受益者側と向き合う側との双方がするものなのだ。どのような点に不自由な、不便な人が存在して、その不自由さ、不便さを解消するのにどのような配慮をすれば良いのか。そして、それを整えるための準備にどれだけの手間と時間がかかるのか。

「合理的配慮」はするのが当たり前で、あえて要請する手間がかかるのは、障害者側に負担を強いるものだとの意見もあるだろうが、それは理想論だ。人はみな生身の人間で、人間は感情の動物である。ネガティブな感情が残らないためには、やはり現実には双方の努力が大切なのである。そもそも論として、受益者側が不利な扱いを受けること自体が間違っているとの見解は、将来的にはその段階まで到達する社会が望まれるものであっても、現在(2017年)の時点の日本社会では、現実離れしている。受益者側があえて準備等の努力をしないまま行動に移して、そこでトラブルが起こり、社会問題を喚起することも、ある意味有益であろう。しかし、当事者双方に面白くない思いを残すことが、果たして良いことなのだろうか。

ここで、冒頭に掲げた事案に戻ると、...航空会社側には、以前も車いす利用者が搭乗できないトラブルが複数回あったことが報じられている。確かに「合理的配慮」への意識が組織として薄かったとは言え、今回のトラブルを受けて二週間で設備を改善するなど、何かのきっかけがあれば認識を改める用意はあったと考えられる。車いす利用者の側も、決して会社を貶める悪意からわざと無連絡で行ったわけではなく、自分流のやり方で旅行や出張を重ねているうちに起こった事案だというのが、どうやら真相のようだ。

したがって、当該人物のように各地で講演している知名度の高い人が、あらかじめ航空会社の不備を知った上で「解消法」の趣旨を説明し、時間的余裕を持って行政機関を巻き込み改善を要求していたら、出張前に改善されていた可能性も強い。双方の責任の軽重はともかく、双方の努力が十分でなかったと言うことができるであろう。本来、理想から言えば正論に則って行動したはずの当該人物が、かえってネットで炎上する事態に陥ったのも、経過から見ると致し方ないように映る。

これは日本人特有の行動様式である「和」に起因するものがあるので、ご関心のある方は加賀乙彦氏や井沢元彦氏のご著書をお読みになるのが良い。

人の心は「義務」や「強制」で変えられるものではない。地道な「歩み寄る努力」が続いてこそ、望ましい社会が到来する。良くも悪くも、それが日本社会の根強い伝統なのだ。障害者に限らず、受益者側と向き合う側とが深い相互理解を積み重ねてこそ、「合理的配慮」が空気のような当たり前のものとして世の中に充満するであろうと、私は考えている。

2017年6月17日 (土)

特別講演を終えて

去る10日(土)、特定非営利活動法人・静岡県介護支援専門員協会の総会があり、4期8年間在任した副会長を退任することとなった。

「老害」と謗られる(?)前に引っ込もうと思い、いささか遅きに失した感はあるが、職能団体での役割に、ひとまず区切りをつけた形である。後半の三年間は、母の体調変動により、いささかの無理をしながらの在任であり、特に最後の四か月は介護に追われながらの日々で、満足に職務を遂行できなかった。ご迷惑を掛けた関係者の方々には、なにとぞご寛恕いただきたい。

続いて、総会終了後に「特別講演会」と題して、講話をさせていただく機会を得られたのは、ありがたいことであった。

タイトルは「ケアマネジャーの可能性 -制度の中の仕事と制度の外でできること-」。

前半では、2018(平成30)年度医療・介護同時改定はもちろん、2021(平成33)年度改定で起こりそうなことまで大胆に予測する流れで、県内の介護支援専門員や県ケアマネ協会を鼓舞する一方、「副会長」の肩書では言いにくかった政策側や職能団体等への体制批判的な見解も、一会員の立場でしゃべらせていただいた。

後半で伝えたかったのは、制度上の「介護支援専門員」に限らなくても、ケアマネジャーの職能でできる仕事はいくつも存在すること。障害者相談支援、認知症サポート、コミュニティソーシャルワーク、民間保険、産業(介護離職防止)ケアマネジメント、成年後見制度関連業務、外部評価、外国人人材活用など、ケアマネジャーが経験知や技術を活かすことができる場を紹介し、制度の枠だけに捉われずに職能を生かしてほしいと訴えた。

もちろん、これらのすべての分野について、ケアマネジャーが占有できるわけではない。中には、「ケアマネジメント」の領域に隣接かつ一部重複する「ソーシャルワーク」の領域に及ぶ分野もあり、本来ならそれらの分野については両者の相互関係を整理して説明するのが望ましかったのだが、時間の関係で話を端折らざるを得なかった。聴講者にはいささかわかりにくかったかも知れない。

最後に、結びとして呼びかけたのは、ケアマネジャーには、共通する職業倫理や行動規範があり、利用者の代弁、人間の尊厳、公益、連帯、たゆまぬ研鑽を旨としてほしいこと。

そして、ケアマネジャーがどのような形態で仕事をしようが、専門職としての誇りを持ち、人頼みでなく自分から行動し、積み上げた実績を信じて前進してほしいことを述べ、いつかは民意が世を理想に近づけるのだから、希望を捨てないでほしい、と締め括った。

私自身、介護者でもあるため、これから人前で話をする機会も限られてくるであろう。数少ない「本音で話す」論者の意見として、県内のケアマネジャーのみなさんが受け止め、何らかの参考にしていただければ幸いである。

2016年12月23日 (金)

間違えてはならないこと

ネット社会になり、個人の動向がリアルタイムで報じられる世の中になったいま、私たちが間違えてはならないことがある。

もし、あなたが誰かのことを、クソ野郎-これは男性の場合であって、女性ならクソ女郎(めろう)になる-だと思っても、あなたはその人の人権を守らなければならない。

案外、この基本を忘れてしまっている人が多い。社会福祉や介護支援のプロフェッショナルであるケアマネジャーやソーシャルワーカーにも、そんな人が少なくない。

クソ野郎(クソ女郎)とは、たとえばこんな人たちのことだ。

・勝手な論理で人を殺傷したり、人の心を苦しめたりする人。

・本やブログや動画を売る目的で、特定の属性の人たち・組織・集団を攻撃する人。

・独り勝ちするために、仲間を踏み台にする人。

・何がしかの権力を背景にして、対抗勢力つぶしに手段を選ばない人。

・利益相反の立場にありながら恥じる色もなく、利権をあさる人。

・二重基準→自分(自派)には甘く、他人(反対派)には厳しい人。

このように凶悪な、あるいは卑劣な人々もすべて、人間である。人間である以上、人権は守られる。

もし、あなたが、「こんなクソ野郎(クソ女郎)の人権こそ守ってやる必要はない」と考えたら、あなた自身が「二重基準」のワナに陥ってしまっているのだ。

上記のような人たちが、あるいは法律で裁かれ、あるいは世論により非難される。それは当然のことであり、自ら招いた結果、(正しい意味での)自己責任であろう。

しかし、それはこの人たちの人権を否定することを許すものでは決してない。

くどいようだが、もう一度言う。

間違えてはならない。

(クリスマスを前にして)

2016年10月22日 (土)

介護離職についての考察(4)

以前、(3)を書いてからまたまた時間が経ってしまった。

この辺りで、「介護離職」についての根本的な課題に踏み込んでみたい。

政府なり自治体なりが、介護離職に歯止めをかけるための施策を実施しようとしている。ここで整理しなければならない重要な点は、施策によって「エンドユーザー」が異なることである。

たとえば、都道府県や政令市が地域内企業の「介護休業」「介護休暇」「時短」などの制度を拡充して、休める日数や時間を増やす、休んでいる間の代替社員の雇用にかかる費用を負担するなどの施策を採ったとする。この場合の「エンドユーザー」は、休暇を取る介護者である。

しかし、都道府県や政令市が地域に不足している介護サービスを拡充して、職員を育成し、仕事を持っている介護者が、介護を委ねられる事業所数を増やす施策を採ったとする。この場合の「エンドユーザー」は、介護を受ける利用者になるのだ。

したがって、「介護離職対策」と一括して良し悪しを論じるのではなく、この両者を分別して考察しなければならない。もちろん、それらを総括して政策論として取り上げること自体は問題ないのだが。

今回はまず、前者について述べてみたい。

「介護者」を「エンドユーザー」とする施策の最大のポイントは、その「受益者」である介護者にその施策を有効に使用してもらうことである。たとえば介護休業の三か月の間、介護者が介護に追われてしまい、期間が終わってから、さあどうしよう? もう少し時間が欲しい、しかたなく休職だ、いやそれにも限界がある、結局退職だ、・・・といった結末になれば、この施策はその介護者に取っても、勤務先にとっても、意味をなさないことになる(辞めさせられずに残った代替社員は正規雇用にしてもらえるかもしれないので、その人に取っては好結果になるかも知れないが...)。介護休暇にしても、時短にしても、大同小異である。

では、そうならないために何が必要なのか?

企業の経営をサポートしながら、休業した介護者「エンドユーザー」に地域資源を上手に使ってもらい、介護離職に至らないように支援する専門職の存在である。ソーシャルワークの一環としてそのような分野の支援がなされるのが望ましいわけだ。

ところが、このような「オキュペイショナル‐ソーシャルワーカー(OSW)=職業社会福祉士」とでも称するべき人材が、日本では育っていない(国際的にはすでに半世紀も前から、ソーシャルワークの一分野として開拓されてきたが、諸外国の例までは調べていないのでわからない)。

こう言ってしまうと、日本社会福祉士会ではいくつかの分野において認定社会福祉士、認定上級社会福祉士を養成しているではないか、と反論される方があるかも知れないが、これらの認定制度は、OSWの部門とはきわめて縁が薄いのだ。その方面に精通した一握りの稀少な社会福祉士を除けば、そもそもOSWとしては使いものにならない人が圧倒的に多いのが現実である。あえて乱暴な言い方をすれば、社会を知らない社会福祉士が多過ぎるのである。

たとえば食品衛生の企業で中間管理職を務める女性Aさんが、父親の介護のため90日の介護休業を取得するとしよう。Aさんが90日後に円滑に復帰できるために、地域資源を探し、介護サービスを探し、ケアマネジャーや施設相談員などと協働して、Aさんが仕事で家に居なくても父親が日中問題なく生活できるようにする。それだけならサルにも...いや失礼!m(_ _)m、私にも、つまり高齢者分野でそこそこに経験のある社会福祉士になら、だれにでもできる。認定資格など持っている必要はさらさらない(私も社会福祉士であるが、高齢分野の認定社会福祉士ではない)。

しかし、これらをするだけであれば、OSWとしては能力不十分なこと甚だしい。企業がお金を出してOSWを雇う意味はない。包括やケアマネジャーに相談すれば良いのだから。

OSWは企業の現実的な事業内容を踏まえ、その中でAさんがどのような役割を担っているのかをアセスメントしなければならない。Aさんが抜けたあと、その部門が大きな支障なく動いていくのか、企業の業績に影響がないか。Aさんの側は、三か月の空白で技術的な低下が生じないか、それを来たさないために、介護しながら何をすれば良いのか。Aさんは元の部署に復帰できるのか、もし他の部署に配転された場合、父親の介護を続けられる配慮をしてもらえるのか。

また、Aさんが介護を続けながら仕事をする影響は、会社の側に及ばないのか。業種によっても異なるが、たとえば食品衛生の会社ならば、「親の排せつ介助のため昼休みに帰宅しているAさんが午後から仕事で食品を扱っている」ことが取引先に知れて、先方の理解不足から会社のイメージダウンにつながる恐れはないのか。もしそのような恐れがあれば、それを解消する対策は立てているのか。

また、穴埋めのために異動してきた社員Bさんの福祉に、これまでになかった問題が生じていないか、たとえば、もしBさんに不登校気味の中学生の子がいたとすれば、Bさんの勤務場所や時間帯が変わったことにより、状況を暗転させることになっていないか。

さらに、このように企業が「エンドユーザー」である介護者の社員を大切にするのであれば問題はないが、そうとは言い難い業績本位の企業の場合はどうするのか。「エンドユーザー」である介護者を支援するのがソーシャルワークである以上、その最善の利益を図ってアドボカシーを実践するのがOSWの倫理であるはずだが、OSWの給料を出している企業側がそれを妨げる対応を示してきた場合、どのように調整するのか。

Aさんという一人の社員の介護休業に伴って生じる課題について、このような専門的な判断とそれに基づく職務を包括的にやりこなせるのがOSWであろう。会社の仕事内容や、Aさんの介護休業に影響される他の社員たちの実態などを、マクロな全体像からミクロな個別部門の状況まで把握しなければ、務まるものではない。務まらないOSWに用はない。

逆に言うと、Aさんの父親のサービス調整に限れば、包括やケアマネジャー、施設相談員等に任せてしまえば良いのだ。OSWが自ら調整に走り回る必要は全くない。節目の経過だけ把握していれば十分なのだ。

日本でこのようなOSWの仕事ができる人材が不足していることが、介護離職問題を巡る経済界、労働組合、介護業界の間に齟齬を来たしている一因になっているとしたら、遺憾千万である。

もっとも、私自身、いますぐにOSWが務まるかと問われても、正直、自信はないが...(^^;

2016年8月12日 (金)

自己責任論は国家の否定だ!

先日、炎天下に出先から事務所へ戻る途中、前方にある有料駐車場(屋根なし)のあたりを困り顔でウロウロしている、幼い子どもを連れた若い女性の姿があった。私が近づいて行くと、その女性から声を掛けられ、「すみません。両替していただけるお金をお持ちではないでしょうねぇ。実は車を出そうとして精算しようと思ったら、一万円しかないことに気が付きまして」と尋ねられた。幸い、五千円札一枚と千円札五枚があったので、両替してあげたところ、女性はホッとした顔で丁重なお礼の言葉を言ってから、精算機のほうへ向かった。

ときどきある話だ。その女性も子どもを遊ばせている間に不用意な買い物をして、千円札を使い切ってしまったのかも知れない。ともあれ、しばらく炎天下にいたらしい子どもが、早く車内に入れて良かったと思う。私自身も困ったときに見知らぬ人から助けてもらうことがある。同じ社会で共存する人間同士が助け合うのは自然の理だ。

ところで、私がこれと対照的な態度を取っていたら、どうだったであろうか?

たとえば、私が両替するお金を持っているにもかかわらず、「精算できないのは、貴女が千円札を準備していないのが原因でしょう? 自業自得じゃないですか。お子さんが熱中症にでもなったら、保護者の責任を問われますよ。ご自分の家族に連絡して千円札を持ってきてもらえば?」と叱責して立ち去ったとする。

もし、私がその顛末を誇らしげにエントリーして、「間抜けな母親にこう言ってやったよ!」なんて書いたら、非難ごうごう→炎上は間違いないであろう。

しかし、よく考えてほしい。

暴飲暴食で慢性疾患になったり、怠惰で貧困に陥ったりした人たちに対して、「本人の失敗や怠りが原因で社会保障(医療・保健・福祉・介護等)を必要とする事態に至った場合は、国や自治体がサービスを給付して助ける必要はない。自分自身や家族などの中で解決すべき」と主張する論者は、前述の若い女性を「間抜けな母親」だと非難する人と同じことを言っているのだ。

すなわち「自業自得論」である。これは、ソーシャルワークの原則とは全く背反する。当然であるが私自身は(すべてが基本通りに割り切れるとは限らないが、原則的には)採らない考え方である。もちろん、クライエントにその失敗や怠りを繰り返させないための側面的な支援をすることがソーシャルワークであるから、もし自分がそのような経過をたどったクライエントを担当すれば、まず社会保障サービスの給付を確保した上で、望ましい生活へ向けての相談援助を試みる。

他方、残念なことに「自業自得論」の考え方を採る人が減らないのも現実である。これを一歩進めれば、「自己責任論」となる。不可抗力により社会保障の給付を受ける人までバッシングの対象にしてしまう考え方だ。拙著『これでいいのか?日本の介護』の中でも少し触れておいたが、「二分割思考」で悪者探しをする思考形態とも密接に関連している。ターゲットにされるような記事が、ネット上で安易にシェアや拡散されていくことも、この潮流に拍車をかけている。

この「自己責任論」、いわゆる「保守派」「右派」と呼ばれる人たちに多い。皮肉な話だ。「保守派」「右派」の人たちは強い日本国の姿を理想としている。にもかかわらず、その強い国家が国民に対して果たさなければならない責任を否定してどうするのか? 筋が通らないと考えるのは私だけではあるまい。

もちろん、社会生活を送る以上、一人ひとりの国民には一定の自己責任が伴うのは当然である。しかし貧困の連鎖に象徴されるように、個人や家族だけではどうしようもない事態が生じるのも現実なのだ。

私は防衛力強化論者であるが、だからこそ社会保障の充実は国力の充実のために必須であると考えている。「自己責任論」を唱えて悪者叩きをしたい論者は、そんなヒマがあったら「国家責任」とは何なのか、頭を冷やして再考すべきであろう。その上で、真に国力、民力を強めるための提案を、しかるべき政党や政治勢力に働きかけていくことにエネルギーを費やすほうが、よっぽど建設的であると申し上げたい。

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