ソーシャルワーク

2024年2月18日 (日)

多様性を声高に唱える人ほど、多様性に不寛容ではないのか?

社会福祉士(一応...)の一人として思うこと。

社会にはさまざまな属性を持つ人々が共住している。私自身、個人としては「男性」「19XX年生まれ」「静岡県出身」「独身(結婚歴がない)」「カトリック教会の信徒」、また社会の中では「浜松市で仕事をしている人」「社会福祉士」「介護支援専門員」「中道右派(政治的に)」などの属性を持っている。

これらの属性が、他者を傷付けるものでない限り、他者から尊重されるのが、社会のあるべき姿である。すなわち「多様性を尊重する」ことだ。

たとえば、カトリック教会は本来、同性婚を「罪」と位置付けていた。いまもなお、教会の秘跡としての「婚姻」の対象とは認めていないが、シビル‐ユニオン(市民としての法律上の婚姻)は否定しない立場だ。すなわち、同性愛者である信徒がミサに参列して聖体拝領の秘跡に与ることは、全く問題はない。信徒が同性愛者であっても、個人としては他の信徒と同様、司祭から祝福を受けることができる。

もちろん、ジェンダー平等の理想から見ると、いまだ不十分な点は少なくない(女性司祭が認められていないなど)が、保守的なカトリック教会でさえ、時代の流れを踏まえ、段階的に多様性を尊重する方向へ動きつつあるのだ。

さて、日本社会を顧みると、必ずしも理想とする方向へ進んでいない。たとえば、これまで多様性の尊重を訴えてきた人たちが、その趣旨に沿っているとは言い難い言動をした事案も見受けられる。

「宇崎ちゃん騒動(2019)」「戸定梨香騒動(2021)」などはその好例であろう。女性の性的な部分の強調が不適切であると主張した人たち(おもに女性の個人や団体)は、その体型の女性(希少であるが、街でもときどき見掛ける。筆者の仕事の上でも、何十年の間に数名程度だが、同様に胸の部分が大きめの体型の女性に会ったことはある)を差別していることに気が付いていなかった。そのため、表現の自由への抑圧だと主張する人たちの反発に遭い、激しい議論を巻き起こしている。

Tayousei

また昨年、埼玉県営プールでの水着撮影会が、特定政党の女性議員たちの要求を契機として(直接の因果関係はないとされているが...)中止された事案も、これを不当な介入だと考える人たち(当事者の女性たちを含む)からの強い反発により、大きな社会問題になった。

一部のフェミニストの人たち(...だけではないが...)が女性の「ジェンダー」を尊重するあまり、「自分たちにとって受け入れ難い」表現のすべてに「非を打つ」ことになっていないだろうか? 許容範囲をたいへん狭くしてしまい、その外側にあるものは、たとえ女性(たち)自身による自己実現行動の一環であっても、否定してしまうことになっていないだろうか?
(これらは一例として掲げたものであり、フェミニストの人たちをことさらに批判する意図はない。念のため)

これらの行動の根にあるのは、偏狭な視点に基づく「不寛容」である。多様性を声高に唱える人たちが、かえって自分たちの「間尺に合わない」多様な人たちを排除する、まことに皮肉な現象が起きている。

その結果、表現を抹殺する動きが、かえって「言葉狩りの弊害」で述べた、見当外れの反差別教育にも結び付く。事情を深読みしない人たちを中心に、水面下で歪な感情が広がり、互いの多様性を尊重する機運が遠のく。コロナ禍の最中に頻発した「マスク警察」「他県ナンバー警察」の類いの極端な行動に走る人たちも登場する。社会的に行き過ぎた規制が創出されれば、それに反対する市民たちが推進した人たちを「ノイジー‐マイノリティ」と攻撃する。「不寛容」が相手方の「不寛容」を増大させる事態になる。

筆者は、このような社会を決して良いものだとは思わない。

それぞれの主張をする市民たちが、互いに対立する側の見解にも耳を傾け、向き合ってコンセンサス(合意)とコンフロンテーション(対置)とを繰り返しつつ、議論を重ね熟成させた末に、合意に基づいて真に多様性を尊重する社会が形成されるのが、望ましい姿であろう。

日本社会がその方向へ進むことを、心から願っている。

2023年12月 9日 (土)

言葉狩りの弊害

12月9日は「障害者の日」である。

社会福祉士である筆者にとって、この日の意義付けは先刻承知のことであるが、別の視点から振り返ってみたい。

それは「差別用語」の事案である。

時代劇をほとんど見ない筆者にはよくわからないが、たとえば最近の「座頭市」では、悪役は座頭市に対して何と呼び掛けて罵倒するのだろうか? 「やい! この、たいへん目が不自由なヤツ!」とでも言っているのか?

さすがにこの表現は「ちょっと違うだろ?」と思うのだが、もし差別用語の排除を徹底すれば、こんな表現になってしまう。

私がドラマのプロデューサーや脚本家ならば、役者には当時使われていたであろう罵声のまま、「やい、このド○○○!」と言わせる。その上で「「○○○ら」とは人権意識の低い時代に使われていた差別用語であり、いまは視覚障害者に対して言ってはならない言葉です」とテロップを付ける。

他の障害を持つ人に対する差別用語も同様だ。たとえば「か□□(肢体不自由者に対し)」「き△△△(精神障害者に対し)」などは、私が生まれた時代にはまだ普通に使用されていた。それが人権意識の高まりとともに、不適切な表現にされるに至ったが、過去に使用されていた事実を消して良いものではない。

つまり、「かつてはこのような差別が行われていた」事実を明示した上で、それが対象者を侮辱し傷付けるものであるから、実社会では使用してはならないことをしっかりと教える。

これが本当の「反差別教育」であろう。障害者差別に限らず、民族差別など他の枠組みにも通じるものだ。

いま社会で行われていることは、言葉狩りの先行である。そのため、若者たちは「なぜその言葉を使ってはいけないのか?」をしっかり教えられる機会を持たない。だから何かの機会にそれらの言葉を掘り起こして、罪悪感もなく口にしたり書き込んだりしてしまうのだ。さらに、障害者の活動を特権とか利権とか批判している連中は、当事者たちを攻撃する言葉として、差別用語を平然と使う。

もちろん、反差別教育が徹底して行われたとして、このテの人間を減らせるにせよ、根絶させることは難しい。しかし、多くの市民が正しい理解をすることができれば、不適切な差別用語を繰り返す輩が排除される機運を醸成し、少数派の人たちが平穏に活き活きと過ごしていく社会を創り出すことができるのではないか。

介護業界における国語の指導を副業とする者として、この課題をみなさんとご一緒に考えてみたい。

2023年9月22日 (金)

「忖度」の言葉を恣意的に歪めるな!

日本語に限らず、世界各地で話されている言葉(口語)は、時代によって移ろうものだ。それは筆者自身、百も承知しており、単語、熟語、成語などが、年数を経るにしたがって、本来の意味とは異なる用例を呈する場合が増えることは、十分に理解しているつもりである。

その変遷が、市民の自然な社会活動の中から起きるものであれば、何の問題もない。

しかし、メディアが恣意的に言葉の意味を捩じ曲げているとしたら、話は別だ。

「忖度(そんたく)」

本来の意味は、「おもんぱかる」「おしはかる」こと。古代中国の『詩経』小雅・巧言の中に、「他人有心、予忖度之」とあるのが出典。詳細は割愛するが、前後の文脈からおおむねこんな意味になる。「小人の輩が悪心を持っていようが、君子や聖人の正しい政治を支持する私からは、すぐに推量できるぞ」。

Kanwajiten

つまり「忖度」自体は善悪の評価を伴わない人間の行為であり、ネガティヴな意味は全く含まれていない。

だからこそ、私たち社会福祉士をはじめ、精神保健福祉士、ケアマネジャー、さらに弁護士や司法書士など成年後見に携わる人たちも、アドヴォカシー(代弁)の一環として「忖度」を駆使している。自分の意思を十分に表明できない、伝えられないクライアント(認知症の利用者、知的障害者、精神疾患の患者など)の考えを代位して、「この方の本当の思いや願いは、これまでの考え方や振る舞いに基づき、こうであろうと推量します」と主張して、クライアントの意思に沿った生活の実現のために最善の努力をする過程が、「忖度」の先に開けている。

まさに、「人の心に寄り添う」仕事の人間にとって、「忖度」は必要不可欠な援助技術の一つだと言うことができよう。

ところが、2017年に「森友学園」の事案が政治問題化したとき、財務省の官僚が当時の内閣総理大臣の妻の意思を「忖度」したと、当時の学園経営者が述べたことを契機に、反体制側のメディアはこぞって、「忖度」が許されざる行為であるかのように論った。「忖度」があたかも「悪事の隠蔽」「権力者への媚び諂(へつら)い」と同義の汚らわしい行為であるかのように乱用したのだ。

私自身、ことが発生した当初には、さほど事態を重く考えず、消化器系の薬の名称に引っ掛けて「ザンタックより効果あるのはソンタック?」など、ダジャレを言っていた。しかし、特定のメディアの論調により、次第に常軌を逸した強引な意味の置き換え(転義)が目立つようになっていく。

そして、乱用はメディアやジャーナリズムの枠にとどまらなくなった。現在に至るまで、言葉の本来の意味に疎い各業界の論者が、自説の中で「忖度」をネガティヴな意味で安易に使用する事態が続いている。そもそも正しい意味で使われていれば、このような現象自体が起きなかったはずである。意図的な歪曲を惹起したメディアの罪は大きい。

この問題については、すでに清湖口敏(せこぐち さとし)氏も論評している。「産経は右派メディアだから、左派メディアを攻撃したんでしょ?」と思われる読者があるかも知れないが、言葉の原義・転義の解釈に右も左も関係ない。左派だろうが右派だろうが、日本語の意味を無理矢理歪めてはならないことは当然だ。引用した論評で氏が指摘している内容は、大枠でその通りだと筆者も思う。

この歪曲は日常のコミュニケーションに重大な支障を来たすことにつながる。意思表明が難しいクライアントに「忖度」すると表現するだけで、あたかも支援者がその人の悪事・不正・愚行を容認するかのように受け取られることは、決してあってはならないのだ。専門的な援助技術に基づき、クライアントの幸せを希求するために必要な行為であることを、私たちは多くの市民に広く訴えていかなければならない。

権利擁護に係る職業をはじめ、広く対人サービスに携わるみなさん。いまこそ、ひるむことなく堂々と「忖度」の言葉を使い、誤解している人たちには粛々と正しい意味を説明して、理解を深めていこうではないか!

2023年6月21日 (水)

名古屋城復元に関する大きな誤解

先に6月3日、名古屋城天守の木造復元に関する市民討論会が開催されたが、その際に「車いすの人たちが最上階まで観覧できる」エレベーター等の設置をめぐり、議論が白熱した。途中で、設置反対派の「健常者」から、障害者を非難する言葉や差別用語が飛び交うなど、常軌を逸した発言が続き、混沌とした討論会になったと伝えられている。

見聞きした範囲での話だが、筆者の正直な感想を一言で言えば、「この討論会は不要だった」。

多くの市民の間には、どうも大きな誤解があると思う。

障害者差別解消法の第五条(2016施行)によれば、「行政機関等及び事業者は、社会的障壁の除去の実施についての必要かつ合理的な配慮を的確に行うため、自ら設置する施設の構造の改善及び設備の整備、関係職員に対する研修その他の必要な環境の整備に努めなければならない」。また同法第七条の二によれば、「行政機関等は、その事務又は事業を行うに当たり、障害者から現に社会的障壁の除去を必要としている旨の意思の表明があった場合において、その実施に伴う負担が過重でないときは、障害者の権利利益を侵害することとならないよう、当該障害者の性別、年齢及び障害の状態に応じて、社会的障壁の除去の実施について必要かつ合理的な配慮をしなければならない 」となっている。

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それでは、「負担が過重でないとき」とはどのような意味なのか? 当然だが事例ごとに千差万別であるから、同法の施行令などに具体的な基準が示されているわけではない。

同法の基本方針によると、(1)事務・事業への影響の程度(事務・事業の目的・内容・機能を損なうか否か)、(2)実現可能性の程度(物理的・技術的制約、人的・体制上の制約)、(3)費用・負担の程度、(4)事務・事業規模、(5)財政・財務状況、これらの5項目に関して、過重にならないことが掲げられている。筆者はこの5項目に加えて、(6)他者の健康や安全に不利益や脅威を与えないことも、当然加えられるべきだと考える。

基本方針によれば、これらの諸点については、行政機関等及び事業者と障害者の双方が、お互いに相手の立場を尊重しながら、建設的対話を通じて相互理解を図り、代替措置の選択も含めた対応を柔軟に検討することが求められる、とされている。したがって、河村たかし市長が、復元天守の二階まで行くことができれば合理的配慮だと言えると解釈していること自体が誤っている。合理的配慮の度合いは、行政機関の首長の主観をもとに決められるものではないからだ。

他方で、障害者側(個人・団体)からの要求に対して、何が何でも100%の実現を目指すのが同法の趣旨ではない。だからこそ「お互いに相手の立場を尊重しながら、建設的対話を通じて相互理解を図る」必要がある。その建設的対話の当事者は「行政機関等及び事業者」と「障害者」である。この中に、合理的配慮自体を否定する(昇降設備自体に反対する、ましてや障害者を差別視する)一般市民を交えること自体が間違いだ。だから筆者は市民討論会自体が不要であると断言したのだ。

エレベーターが良いのか? 電動かごが良いのか? 他の方法があるのか? また、車いす利用者が最上階まで行くことは、上記(1)~(6)に抵触しないのか? 議論を尽くした上で協調点を見出し、その結果として、ほとんどの障害者が最上階まで観覧できる方法について双方了解したのであれば、市当局が「○○年までに史実通り復元する。他方で△△年までに昇降装置を設置する」と発表して踏み切れば良い。

あるいは河村市長や市当局が、内外の景観も含めた「史実に忠実な復元」を目指すのであれば、市長の主張にのっとった説明を丁寧に行い、障害者団体の理解を求めることも一つの考え方であろう。たとえば「(1)事業目的を尊重するのならば、景観を損なわないために、天守から離れた位置に外付けの昇降装置を備え、支援が必要な人が来場した際に装置を城へ近接させて利用する。ただし、それを設置すれば(3)(5)著しい建設費用と維持費用が掛かり、バリアフリー復元の見本として来場者数が増えることを見込んでも、他部門の無駄な経費を削減しても、市の財政逼迫は免れない(→(6)それによって配慮が必要な属性を持つ他の人たちへの福祉施策が後退する、または一回ごとに装置を移動させるため他の来場者に脅威や著しい不便をもたらす)」など、具体的な数字の試算やオペレーションの想定により、明らかな「過重」であることを丁寧に説明して、納得してもらうことも必要だ。

「やらずもがな」の市民討論会のため、心を大きく傷付けられた障害者の人たちの思い、察するに余りある。

河村市長には旧態依然たるポピュリズムのパフォーマンスを事とするのではなく、さまざまな属性を持つ一人ひとりの名古屋市民に寄り添った市政を展開してほしいと、(母の実家が名古屋市にある)筆者は願っている。

(※画像=城のイメージは(株)メディアヴィジョン(いまは社名変更?、または解消?)発行の、使用権フリーのものを借用しました)

2023年4月28日 (金)

コンフロンテーション

不慣れな概念にも一度接したら、それを吸収し、やがては自家薬籠中のものとしていきたい。そんな姿勢で38年間、仕事や社会活動を続けてきた。

私たち介護支援専門員や社会福祉士は、コンセンサス(一致、合意)を大切にする。クライアント(利用者)の意向を尊重し、アドヴォカシー(代弁)機能を働かせ、本人に寄り添った支援計画を立て、協働するチームを構成する機関・事業所などの人たちと課題を共有しながら、支援方針についての合意を形成する。介護・福祉の現場で調整役を担う専門職として、望ましい姿には違いない。

ところが、この原則に忠実過ぎることが、かえってクライアントにとって最善の支援にならない場合があるのだ。たとえば過剰なサービス利用が心身の機能低下を来たし、クライアントの自立を妨げる場合など。

そのような場合にはコンセンサスの前に「コンフロンテーション」の技法を駆使しなければならない。辞書を引くと「対立」とあるが、支援過程の議論の中で用いるのであれば、「対置すること」「直面させること」と理解するのが適切と思われる。クライアント側の意向とは異なる自分の見解をテーブルの上に持ち出して、クライアント側と向き合うことを意味する。

この場合、支援者は支援計画を法制度の枠にはめ込む役割を演じるわけではないので、対置する見解はノーマティヴ(規範にのっとった)である必要はない。むしろ規範から外れた柔軟な発想を持たないと、コンフロンテーションはうまく機能しない。クライアント側が「杓子定規」「がんじがらめ」と認識してしまうと、直面すること自体に不快感を覚えることになるからだ。

また、コンフロンテーションの過程で大切なのは、「両者の真ん中辺りで妥協すること」ではない。期日を決めて支援計画を仕上げなければならないのならば、どこかで「落とし所」を探る努力はしなければならないが、それは「中間点」とは限らない。「クライアントにとって最善の着地点」を見付けなければならない。

そう考えると、コンフロンテーションの技法を使いこなすには結構な力量を要する。私自身、日頃からこの技法を活用しているが、最終的に好結果を招いた事例ばかりではない。クライアント側の不満を招き、解約に至ったことも複数回経験している。

とは言え、利用者の要望を無批判でケアプランにしてしまい、厚労省や学識経験者たちから「御用聞きケアマネ」「言いなりケアマネ」と貶められる三流(?)の介護支援専門員たちが、コンフロンテーションの術(すべ)を弁えていないことは明らかだ。

私の周囲を見回しても、介護支援専門員や社会福祉士の中に、この概念を知らない人が多過ぎる。専門職能教育の場で、コンセンサスとコンフロンテーションとをしっかり学ぶ機会に乏しいのは、嘆かわしいことであろう。

2022年1月30日 (日)

「40年積み上げた信用を、5分で全部失いますか?」

最近、メディアを賑わせている記事の中には、相変わらず殺人事件や傷害事件が多く見受けられる。

まず、無差別の殺人事件が少なからず発生している。

いわゆる「劇場型犯罪」「拡大自殺」やその模倣犯罪などのため、理不尽に命を絶たれる人が跡を絶たない。まだまだ人生でやりたいことがたくさんあったのに、それが永久に不可能になり、突然生涯を終えさせられた人たちの無念を思うと、他人事とも思えず、悲しみに堪えない。

それらの犯人(今回のエントリーでは、犯罪の経過が明々白々であることを前提に、この呼称で統一する)の年代はさまざまだ。10代後半から80代までどの年代を取っても、一握りではあるが、この種の殺人事件を起こしてしまう人がいる。コロナ禍による閉塞感が影響していると評する論者もおり、無関係とは言わないが、コロナ禍以前からこの種の犯罪はしばしば見受けられている。「孤立」「引きこもり」「長年にわたる無職」だった犯人が相当数いることも確かだが、それにステレオタイプ化してはいけない。

もっとも、失うものが「ない」「たいへん少ない」人が犯人になってしまう場合が多いことも、これまた現実である。その意味では「信用」「名誉」「地位」などは、この種の破滅型・自暴自棄型の犯罪への抑止力になっているのかも知れない。

他方、無差別ではなく、誰かからの「何かのアクション」を受けて、短絡的に人を殺したり、人に暴力を振るったり威嚇したりする事件も、しばしば報道されている。他車の行為に腹を立てたことによる「あおり運転」もその好例だ。第三者から見ると、些細なトラブルが原因で、相手を殺したり傷付けたりする犯人の精神状態が、理解し難いかも知れない。

しかし、「立腹して相手に攻撃(反撃)したくなる」情動は、多くの人の心に発生するものなのだ。特に加齢に伴い、アドレナリンの分泌に影響される易怒性をコントロールするのが困難になると、予期しない暴発をしてしまって後悔することになるのだ。「高齢者は角が取れて丸くなる」は一面の真実を表しているのかも知れないが、不測のアクシデントやインシデントにより、それと相反する行為への動機付けが突発することも、日常茶飯事だと思っていたほうが良い。

私自身もときどき、他者からの些細なインパクトに立腹して、この情動を覚えることがある。そんなときには、自分自身に対して、こう問いかけることにしている。

「40年積み上げた信用を、5分で全部失いますか?」

幸いにも、この自己暗示?が奏効して、メディアに報じられる事件を起こさずに済んでいる日々である。

2020年11月 8日 (日)

片付け下手の断捨離(8)-個人情報が含まれているもの

60歳が近付いたころから、自宅に集積してあった不要なものを処分する作業を続けている。

その工程で相当量発見されたのが、個人情報や個別事業所の情報が含まれた書類だ。

指定居宅介護支援事業者としての範囲内で実践した業務については、保存期間が二年間と定められている。たとえば利用者Aさんが施設へ入所して居宅介護支援が終了した場合、その日から二年を過ぎたら所定の方法で破棄している。これは事業所の責任者として常にチェックしながら滞りなく実施しており、問題が生じているものではない。

しかし、私は「社会福祉士事務所」の看板も掲げており、これまで有償、無償でいくつかの活動に関与してきた。その過程で、自宅にかなりの分量の個人情報や個別事業所の情報が集まり、明確な処分方法が定められていないまま、積み置いてしまっていた。たとえばMAF=浜松外国人医療援助会の受診者情報(画像は当時の報告書-なお、こちらには個人情報は非掲載)や、静岡県社会福祉士会第三者評価事業の対象候補事業者名情報や、参加していた活動団体メンバーの住所や電話番号が記載されている書類である。

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本来ならば、明瞭な規定がなくても、専門職の倫理綱領に照らして、適切な時期までに処分しなければならなかったのであるが、私の怠慢のため放置してしまっていた。汗顔の至りであり、お恥ずかしい限りだ。

先日来、これらの書類をすべてシュレッダーにかけて破棄した。今後もまだ出てくるかも知れないが、もちろん、見付け次第同様に処理するつもりである。

処分過程で自分の歩みを振り返りながら、結構いろいろなことに携わってきたんだなぁ、と感慨深い。MAFでは保健師さん、薬剤師さん、理学療法士さんと組んで、外国人無料検診会の...「会場総合案内(!)」をしたこともあった。他に適切な配属部署がなかったので(笑)。それこそ介護のケアチームが一つ作れそうな専門職がそろった組み合わせだったが...(^^;

いちケアマネジャーとして単線で仕事に没頭してきた人生ではなく、さまざまな活動に参画できたことが、結果的に本職のケアマネジメントをより豊かなものにしてくれたのではないかと、勝手に評価している。

年齢こそ高くなったが、今後も何か自分の力を役立てることができる機会があれば、前向きに考えていきたい。

2019年6月 5日 (水)

東大卒のプライドは東大卒にしかわからない!

今回は、最近メディアを騒がしたいくつかの衝撃的な事件のうち、二つを取り上げてみたい。

4月19日、池袋で元上級官僚・I氏(88)の運転する車が暴走して、母子二人の命を奪い、九人に重軽傷を負わせた事故。

6月1日、練馬区の元上級官僚・K氏(79)が自宅で長男を刺殺した事件。

両事件とも、発生後にさまざまな視点からの議論が巻き起こっている。

前者に関しては、高齢者の運転技術や、警察や報道のありかたに関するものが多い。被疑者であるI氏が容疑者ではなく「さん」付けで報道されたこと。そしてI氏が退院後も容疑を実質否認しているのにもかかわらず警察に逮捕されていないので、もとの身分を忖度されたのかと評されていること。また、同年齢程度の高齢者の多くは運転能力に疑問があると考えられること。これを契機に運転免許証を返納する高齢者が急増したこと。等々。

後者に関しては、直前に発生した川崎の殺傷事件と関連付けた論評が主である。K氏の長男(44)が川崎の加害者(51歳。自殺)に類似した「ひきこもり」生活を送っていたこと。家庭内暴力があってK氏が身の危険を感じていたところ、長男が近くの小学校の運動会について「うるさい」と怒ったので、川崎同様の事件を起こさせないため殺害に踏み切ったこと。一人で抱え込んで公的機関に一度も相談しなかったこと。等々。

そして、さまざまな議論が交わされている中で、保健・福祉関係者をはじめとする多数意見は、前者について「高齢者は運転免許を返納しよう」、後者について「家族の生活課題を抱え込まずに地域資源を活用しよう」へ向かいつつある。

だが、あえて異論を一言。

I氏やK氏に対し、早くから上記のように提案しても、おそらく解決に結び付かなかった。

妨げになっているのが「東大卒のプライド」なのである。

(...もっとも、最近は東大の「権威」も低下しているので、「東大卒のプライド」にも変化が見られる。ここでは40代ぐらいから上の、一定以上の年代のOB・OGに共通するプライドの意味に使う)

誰も(←私が見聞する限り)二つの事件に共通するこの代物に斬り込んでいない。「上級官僚のプライド」に踏み込んだ論調はいくつも見受けられるが、両者はイコールではない。

上級官僚に限らず、大企業の経営者や役職者として成功した富裕な人とか、学会や業界の重鎮などは、他にも少なからず存在する。誰もがそんな知人を三人や四人持っている。つまり、数は少ないが自分の周囲にも結構いる存在なのだから、その人たち特有のプライドを感じることも、機会は少ないが日常の中でときどきあると思われる。外面からであっても、それらを理解するのはさほど難しくない。

だが、「東大卒のプライド」はそんな簡単に理解できるものではない。いや、おそらくこれは、該当する者(修了した学部・学科に関係なく)でなければ理解できないと思ってもらったほうが良い

そう言い切ってしまうと、「それでは評論のしようがないじゃないか!」と反論されるかも知れないが、それでも私はうなづくしかない。

I氏の場合。氏は事故について謝罪しつつも、「ブレーキが利かなかった」と言い張り、アクセルを踏み込んだことを否認している。他方で警察はブレーキに故障が認められないと結論付けている。この点について論者は、I氏の「認知症の兆候」、あるいは「正当化」「自己弁護」「隠蔽」の意思だと推測する。

私に言わせれば、これらは的外れだ。I氏の思考の中では、どこまでも「ブレーキが利かなかった」のである。間違えてアクセルを踏み込むはずはないのである。自分の行為は「ブレーキを踏み続けた」のに「利かなかった」以外にあり得ない。事故のとき、同乗の妻に対して「ああ、どうしちゃったんだろう」と言ったとされる言葉が、それを正直に表している。

ではI氏は亡くなった母子に対して申し訳なさを感じていないのかと言えば、決してそうではないと思う。自分の車が事故を巻き起こしたことについて、言いようのない慙愧を覚えているのではないか。しかし、その原因はあくまでも「自分は安全運転していたのに、ブレーキが利かなかった」なのである。I氏自身もそうとしか言いようがないのだと思う。

K氏の場合。氏は「長男が川崎のような事件を起こすかも知れないと案じて殺害に踏み切った」と供述しているという。長男の引きこもりは以前からあったのだから、同居した直後に公的機関などの社会資源に相談すれば良かったという人たちがいる。著名なソーシャルワーカーもそう言っている。

私は言いたい。それができない(できなかった)のだ。

結果から推測する限りであるが、何と言われても、できないものはできないのである。K氏の思考の中には、「他人に迷惑がかからないように、自分たち(家族)の中で始末する」のが唯一の選択だったのだ。K氏ほど人脈が豊かな人が、その気持ちさえあれば、自分の知人を通して適切な専門職に相談するのはたやすいことだったと判断される。しかし、それはK氏にとって容認できる手段の外であった。

理解に苦しむ読者が多いであろうことは承知しているが、この両氏の行動の根にあるのが「東大卒のプライド」である。

この二人の事例を見て気が付いたこと。「受援力」=「支援を求め、受ける力」の言葉があるが、「東大卒のプライド」は「受援力」の欠如に結び付いている。

なので、このプライドはある意味、危険な存在なのかも知れない。I氏やK氏の事例から見る限り、多くの人から見れば、「東大卒のプライド」の所産は、実体として「愚劣」に映るに違いない。

しかし、他方でこのプライドは、当人が「辛い、苦しい状況」に陥ったとき、歯を食いしばって耐え抜く原動力でもあるのだ。そして、その力が、政治、経済、科学技術、文化、社会保障などの多くの分野で、輝かしい成果を実らせてきたことも、また疑いのない事実なである。

I氏とK氏には、亡くなった人に対して心から贖罪することと、自らの心の安らぎがもたらされることを願いたい。

併せて、該当するすべてのOB・OGが抱いている「東大卒のプライド」が、社会にとって望ましい方向のエネルギーに転化されることを祈りたい。

2018年11月18日 (日)

機会をつかみに行かない人に、機会などめぐってくるはずがない!

浜松やその周辺地域、静岡県西部の介護・福祉業界仲間には、歴史的な風土にも影響される、一つの特性が見られるようだ。

一言で言えば、多くの若手・中堅の業界人が「居座って動かない」のである。

誤解を招くかもしれないので補足するが、彼ら・彼女らは、自分が所属する職能団体や業界団体の研修会や大会など、いわばお定まりの枠の中の集まりであれば、普通に参加して他の都道府県の業界人たちと交流してくる。

しかし残念ながら、そこから先への広がりがない。

昨年のエントリーで、県西部のことを「大きな田舎」だと評したことがあった。いまでもその現実は変わっていない。なぜこの表現を使ったかと言うと、政令市の浜松が多様性のモデル地域であり、さまざまな種別の団体や活動が共存しているので、浜松近傍の業界人たちの多くは、他地域の人たちと意欲的に交流しなくても、自分たちで情報を充足できると錯覚してしまう状況になっているからだ。インターネットが普及してからは、なおさらその感がある。制度や政策の変転についても、坐したままで「そんなこと、私もわかっている」となってしまうのであろう。

これは見当違いも甚だしい。

クールな情報のパッケ-ジを受動的に受信して、「わかっている」と思っているだけであり、その変転にまつわる各々のコンテンツの生々しい諸相について、各地の現場での現実はどうなっているのか?といったホットな情報は、能動的に求めていかないと把握できないのだ。浜松近傍の業界人たちはそこに気が付いているのだろうか?

むろん、各人がそれぞれ、他地域の業界仲間に全く知り合いがいないわけではないのだから、そのような人たちと互いに意見交換する機会はあるだろう。だが、気心の知れた同窓生などであればともかく、研修会や大会で知己になっただけの人同士が、多くは本音を語ることもない。それは自分の側も同様なのではないか。このレベルの交流から得られる情報は、勢い、点を線で結ぶレベルのものばかりになってしまう。

それでは、点と線でなく、「面」や「体」をなしている、より重厚な情報を獲得するにはどうしたら良いのか?

そんな情報が黙っていても向こうから来てくれると思っていたら大間違いだ。

獲得するおもな方法は二つ。

一つは、自分が稀少価値のある情報や技術を持っていること。

私の場合は、一人親方のケアマネジャーとして、独立開業の形態を続けてきた実績がある。また、マイナーな分野ではあるが、介護業界における「産業日本語」の分野で著書も出している。誰もが欲しがる情報を持っているわけではないが、稀少価値の存在としての私と情報や知識を分かち合いたい人も、業界の一部には存在する。そのような方々が礼をもってアクセスしてくれば、私も答礼しながら、仲間としてお付き合いをしていく。やりとりが多くなれば、手持ちの開示しづらい事情や、先取りして実践されている状況などの情報も共有できるようになる。

もし、あなたが業界人であれば、自分はそのような情報や技術を持っているのか、自己評価してみると良い。いくら大きな法人や組織に所属していても、自分自身が情報や技術を持ち合わせていないのに、坐したままで他人の情報や技術をもらえるわけがない。

もう一つは、自分の側が相手のフィールドに出向くこと。

私が各地の業界仲間と気軽に行き来できるのは、長年の間にときどき、全国のさまざまな仲間がいる場所に臆面もなく顔を出して、いろいろな人と図々しく名刺交換してきたからである。どんなに収入が乏しくても、衣食住を削ってこれには投資を惜しまなかった。最初は独立型のケアマネジャーやそれに共感する人たちの集まる場が多かったが、次第に限定しないようになり、いまは業界を超えて、ラーメン道などでつながった異業種の方と会うこともしている。

働き盛りの業界人には、確かにそれぞれの事情もあろう。職場で自分が不在になると業務がうまく回転しない、家庭で育児などの役割分担に制約されて遠出できない、などなど。

しかし、各地で注目されている仲間と出会う「機会」が、あなたの事情に合わせていつまでも待ってくれることは絶対にない。これだけは確実だ。あなたが逃した機会は、すでに別の誰かが獲得して活用しているかも知れない。

特に東北、首都圏、関西、中国地方、九州などの業界では、一部の人たちが始めた先進的な試みに、共感する他地域の人たちが呼応してネットワークを形作っていくなど、さまざまな交歓の輪ができている。その一端に入ると入らないとでは、先々の情報量や先進性に大きな差が出ることもある。こちらから動かない限り、「大きな田舎」浜松へは東西いずれからも、この種のうねりが直接的に波及する可能性が少ないからだ。

こう考えると、自分自身の工夫で時間をこじ開け、費用をひねり出してでも、インフォーマルな業界仲間が集まる場へ出向いて、立体的な情報交換を心掛けるべきであろう。その意義は十分にあるし、しないことによる損失も大きい。自分自身が職場で(経営者、被用者の別なく)輝くためには、大切なステップなのだ。

「その気持ちはあるが、きっかけがつかめない」と言う人には、厳しいようだが、「自分で探せ!」と苦言を呈したい。私自身、いまでこそFacebookのお付き合いが主軸になっているが、まだSNSなど無かったころには、各種の掲示板で同志や話せる相手を探し回り、電話やメールでズケズケと連絡を取って、交流範囲を広げていったのだから。

いまはSNSがあるだけ恵まれた時代だと言えよう。Facebookが嫌いならば、他のSNSでも何でも良い。自分の間尺に合った交流手段はいくらでも転がっている。

居座って動かず、地域に閉じこもっているだけで、機会をつかみに行かない人に、機会などめぐってくるはずがない。

浜松近傍の若手・中堅の業界人よ! 一歩踏み出す勇気を!

2017年8月 6日 (日)

「合理的配慮」が容易でないのはなぜか?

先日、車いす利用の男性と航空会社とのトラブルが報じられ、「障害者差別解消法」の浸透や、「合理的配慮」の度合いが話題となった。

この事案に踏み込む前に、「合理的配慮」を阻む障壁について、自分自身の経験から、エントリーに自論を述べておきたい。

2008年、カトリック教会の西部地区で、お一人の司祭(神父)の提唱によって、5人ほどのメンバーが集まり、数次にわたってキリシタン時代の「殉教者(信仰を守って処刑された人たち)」を崇敬し、事績を研究する会が結成された。もちろん、ポルトガル語やスペイン語の文献を参照して専門的研究をするのではなく、著名な研究者により積み上げられた数々の専門的研究を、一般の信徒にわかりやすい形で整理してまとめる作業であった。そこでは私ともう一人のA氏とが中心になり、A氏が信仰面・教理面からの整理、私が歴史的背景からの整理をして、殉教者に関する資料をまとめ、その二つをメインとした発表会を企画した。

さて、発表会の当日、会場となった浜松教会の聖堂で、先発のA氏の発表が始まったころ、同じ西部地区内で隣の教会に所属していたB氏が、奥さんと一緒に会場に入ってきたのだ。

B氏は当時60代後半、視覚障害者(全盲)であり、私の昔の勤務先の先輩でもあった。県内の視覚障害者の中でも指導的立場にある。教会の信徒たちからも尊敬される人であり、息子さんは司祭になっておられる。当然のように、地区全体に広報した企画である以上、B氏が来場する可能性は想定しておかなければならなかったのだが、なぜか私の頭の中からはその可能性が欠落していた。

私の発表は「キリシタン時代-その宣教と殉教者たち」と題して、54枚のスライドで構成される大部のものであった。前半がキリシタン時代の歴史的背景の解説であり、後半が各地を巡礼した画像であったので、説明を加えるのはおもに前半に比重を置き、後半ではスライドを見てもらいながら、早送りで流す予定であった。

しかし、B氏が会場にいる以上、後半を画像だけ見てもらって流すわけにはいかなくなった。そこで、前半の説明をかなり早口で進め、後半の画像についても、早口だったがすべてに解説を付けた。一枚ずつのスライドに関する説明は、部分的に割愛せざるを得なかった。

終わった後、メンバーで反省会を開いたとき、私から一言。「Bさんが当日行くことをあらかじめ知らせてくれていれば、そのつもりで構成を考えたんですが...」。

さて、ここに述べた私の事案を事例として整理してみよう。

まず、この企画はあくまでも一宗教団体の内部行事であり、公共の場で行われた作業ではない。かつ、私たちは対価をもらって講話をしたのではなく、A氏も私もまったく無償で時間を費やしてスライドを作成し、解説している。

したがって、障害のある人たちへの「合理的配慮」をどこまでするかは、主催者側の裁量に任せられていたことになる。すなわち明確な「努力義務」を負っていたわけではないので、日頃、教会を訪れる人たちの中に見受けられる障害者の人たちに対して、一通りの配慮をしていれば、過当な批判を受けるものではない。

次に、日頃来る人たちへの配慮である。B氏の来場を予測していなかったのは確かに不用意であったかも知れないが、B氏一人(他には視覚障害者と思しき人は来場していなかった)のために、すべてのスライドについて早口ながら口で説明を加え、少なくとも「合理的配慮」はしっかり行っている。「しなかった」わけではないのである。車いすの人は見た限りでは来場していなかったが、聖堂(残念ながら段差が多い)の後ろの席で見ることはできる状態であった。また聴覚障害者に対しては、少なくとも私のスライドでは、画像の傍らに見て理解できる説明を付けておいた。

しかし、反省会のときには私の口から、前述の「...あらかじめ知らせてくれていれば...」の言葉が出てしまったのだ。

私は介護・福祉業界の人間である。そして繰り返すが、B氏は業界の先輩として私自身も尊敬し、他の多くの人からも尊敬を集める人物である。そしてB氏の来場を予測しなかったのは、私の不用意でもある。

それでも、私としてはネガティブな感情を抑えられなかった。いや、おそらく話は逆で、知名度の低い「フツーの」視覚障害者である教会信徒が突然来場して、そのために私が講話の語り方の変更を余儀なくされたとしても、ネガティブな思いを抱かなかったのではないか。むしろ「Bさんほどの人が、なぜ事前連絡をしてくれなかったのか?」のほうが、当時の私の気持ちを正しく表現しているのかも知れない。

つまり、「合理的配慮」はしたい。したいが、その「合理的配慮」を円滑に浸透させる準備は、受益者側と向き合う側との双方がするものなのだ。どのような点に不自由な、不便な人が存在して、その不自由さ、不便さを解消するのにどのような配慮をすれば良いのか。そして、それを整えるための準備にどれだけの手間と時間がかかるのか。

「合理的配慮」はするのが当たり前で、あえて要請する手間がかかるのは、障害者側に負担を強いるものだとの意見もあるだろうが、それは理想論だ。人はみな生身の人間で、人間は感情の動物である。ネガティブな感情が残らないためには、やはり現実には双方の努力が大切なのである。そもそも論として、受益者側が不利な扱いを受けること自体が間違っているとの見解は、将来的にはその段階まで到達する社会が望まれるものであっても、現在(2017年)の時点の日本社会では、現実離れしている。受益者側があえて準備等の努力をしないまま行動に移して、そこでトラブルが起こり、社会問題を喚起することも、ある意味有益であろう。しかし、当事者双方に面白くない思いを残すことが、果たして良いことなのだろうか。

ここで、冒頭に掲げた事案に戻ると、...航空会社側には、以前も車いす利用者が搭乗できないトラブルが複数回あったことが報じられている。確かに「合理的配慮」への意識が組織として薄かったとは言え、今回のトラブルを受けて二週間で設備を改善するなど、何かのきっかけがあれば認識を改める用意はあったと考えられる。車いす利用者の側も、決して会社を貶める悪意からわざと無連絡で行ったわけではなく、自分流のやり方で旅行や出張を重ねているうちに起こった事案だというのが、どうやら真相のようだ。

したがって、当該人物のように各地で講演している知名度の高い人が、あらかじめ航空会社の不備を知った上で「解消法」の趣旨を説明し、時間的余裕を持って行政機関を巻き込み改善を要求していたら、出張前に改善されていた可能性も強い。双方の責任の軽重はともかく、双方の努力が十分でなかったと言うことができるであろう。本来、理想から言えば正論に則って行動したはずの当該人物が、かえってネットで炎上する事態に陥ったのも、経過から見ると致し方ないように映る。

これは日本人特有の行動様式である「和」に起因するものがあるので、ご関心のある方は加賀乙彦氏や井沢元彦氏のご著書をお読みになるのが良い。

人の心は「義務」や「強制」で変えられるものではない。地道な「歩み寄る努力」が続いてこそ、望ましい社会が到来する。良くも悪くも、それが日本社会の根強い伝統なのだ。障害者に限らず、受益者側と向き合う側とが深い相互理解を積み重ねてこそ、「合理的配慮」が空気のような当たり前のものとして世の中に充満するであろうと、私は考えている。

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