将棋

2023年7月22日 (土)

甚だしいメディアの劣化(2)

かつてアイドルだったタレントが何か事件を起こして、報道されるたびに思う。

知名度の高い人はいつまで、すでに脱退したグループや組織の名前で「元○○」と呼ばれなければならないのだろうか? 中には脱退して20年、30年になる人もいる。メディアの側は視聴者や読者の耳目を引き付けたいので、すぐに過去の肩書きや経歴を持ち出してくるのだが、何かあるたびに名称を出されるグループや組織の現在のメンバーにとっては、迷惑千万に違いない。

さて......、

20日、滋賀県大津市で、40歳の男性が離婚した元妻の自宅へ侵入し、元妻とその父親をクワで襲撃して負傷させ、殺人未遂の容疑で警察に逮捕された。

この容疑者が将棋の元プロ棋士(八段)であったことから、メディア(テレビ、雑誌など)は彼の棋士としての半生を延々と伝えている。もちろん、どんな事件であっても、それを引き起こした人物の経歴を報道することは常の話であり、それ自体には何の問題もない。

しかし、容疑者は2021年に棋士から引退したのみならず、2022年には日本将棋連盟から退会している。つまりプロの将棋界にとっては、いまや直接的な関わりは何もない一個人である。

にもかかわらず、少なからぬ報道の中で、容疑者と現在の将棋界とを結びつけるかのような論評が見受けられる。中には事件のタイトルに「将棋界に激震」「将棋界を揺るがす」などの表現を用いているものもある。容疑者がかつて対戦した相手として、羽生九段(永世七冠)や藤井竜王/名人の名前を出しており、あたかも将棋界の体質が影響しているかのように印象操作している(と筆者には受け取れる)社もある。

全容が明らかになっていると言えない面もあるが、この事件の輪郭は以下の通りだ。

「30代(当時)の男性の妻が、子どもを連れて家を出て行き、一方的に離婚した。男性は子どもに面会できない状態が続いていることに激怒し、元妻を相手取って子どもの親権の回復を主張していたが、結果的に敗訴した。納得できない男性は元妻を誹謗中傷し、刑事責任を問われて執行猶予付きの有罪判決を受けた。ところが、さらに精神的に追い詰められた男性は、元妻の家に侵入して凶行に及んだ

つまり、これは子どもの親権をめぐる社会問題なのである。

すでに一昨日の事件については、共同親権の是非をめぐって、「子どもに会えない側の親が苦痛を味わうのが理不尽なので、共同親権を認めるべき(推進派)」「暴力的な親に親権を認める危険は大きく、単独親権が望ましい(反対派)」など、ネットでもさまざまな見解が飛び交っている。

日本将棋連盟は何のコメントも出していないし、出す必要もない。そもそも「将棋をめぐる事件」では全くない。

メディアが容疑者の属性として「元棋士」を強調することは、この問題の本質をきちんと報じないのに等しい。前述したネット上の意見は、これまで親権問題に取り組んでいた人たちを中心に、関心のある人たちに限られている感がある。いま、離婚や再婚、ステップファミリー、同性婚など、家族のありかたはどんどん多様化している。その中では、一人ひとりの子どもにとってどうすることが最善なのか? 筆者のような子育て経験のない人も含め、多くの市民が議論に加わるのが、日本社会の行く末のために望ましいはずだ。それこそ多様な意見を調整する役割を持つ「こども家庭庁」の出番でもある。

表題を「元棋士が...」とすれば、ミスリードになる危険性が大きい。才能あふれた高段者だったはずの元棋士の変転を嘆く人たちの気持ちは理解できるが、多くの視聴者・読者の関心が「将棋界」へ向いてしまうと、本質とは関係ない部分が大きな比重を占めてしまう。議論喚起のためにはマイナスでしかない。

ここにもメディアの劣化が窺えるのは、残念なことだと言えよう。

2022年10月25日 (火)

モニタリング敗戦???

過去、日本の将棋界に、大山康晴(1923-92)なる棋士がいた(敬称略。以下同)。

1958年から72年にかけて、名人を含めたタイトルの過半数を保持し続けた第一人者であり、失冠してもまた大山の手元にタイトルが戻ってきた。とにかく憎たらしいほど強かった。「タイトルは取った以上、防衛しなけりゃいけない」の名言は、タイトルに挑戦するだけで精いっぱいだった同時代のトップ棋士からは、全く異次元の人の言葉として受け止められた。

「大山時代」に誰かがタイトルに挑戦してきても、五番勝負や七番勝負で最終局(4-3、3-2)まで行くことはまれで、多くの場合はその前に終わらせた。番勝負を「最終的に勝ち抜く」戦略は群を抜いていたから、相手の棋士にとって巨岩のごとき壁であり、難攻不落の堅城となって立ちはだかった。ポスト大山を期待された二上達也(羽生善治の師匠)や、「神武このかたの天才」と称された加藤一二三が、いずれも獲得タイトル数の合計がひとケタ(二上は5期、加藤は8期)に終わった原因は、青年期に大山から何度も跳ね返されたことが大きい。

その大山でも、加齢や若手の台頭には抗えず、第一人者の地位を中原誠に奪われたのが1972年。それから半世紀、将棋界は中原時代→谷川浩司を中心とする争覇の時代→羽生時代→渡辺明を中心とする争覇の時代を経て、藤井(聡太)時代に入る。

さて、藤井のタイトル初挑戦は一昨年の棋聖戦だが、その第一局で渡辺に勝ったあとのインタビューで、「勝てて良かったですが、番勝負ですから」とあっさり答えた動画を見たとき、「この人は17歳にして、大山レベルの勝負術を持っているのではないか?」と直感した。

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もちろん、百戦錬磨の渡辺を意識した謙虚な言葉だったと思われるが、その後の彼の歩みがすごい。この棋聖戦で初タイトルを獲得して以来、計十回のタイトル戦を経て、藤井はまだ一度も敗退していないのだ。すべて「奪取」または「防衛」なのである。

特に印象に残ったのは、豊島将之の挑戦を受けた昨年の王位戦七番勝負と、永瀬拓矢の挑戦を受けた今年の棋聖戦五番勝負である。

前者は、藤井がまだ豊島に対する苦手意識を払拭できていないところで挑戦を受け、藤井の真価を占う試金石になると思われていた。そして第一局、二日目の早い時間に豊島が完勝した。ところがインタビューで藤井は「正確に指されてしまった」と言い、三日後の棋聖戦第三局では渡辺を破って3-0で防衛した。もし「すべての棋戦の全対局に勝」とうとしたら、どんな大名人でも無理が出て、かえって勝率を落としてしまう。決して手を抜いたわけではなく、棋界で勝ち抜く藤井の戦略の一端として、あえて王位戦第一局を、二日制対局での豊島の強さを測るモニタリング局にしていた印象がある。果たして第二局以降、藤井が押され気味の対局もあったものの、四連勝して4-1で王位を防衛した。

後者は、藤井が「練習仲間」である永瀬との初のタイトル戦を迎えた。永瀬は第一局を何と二度の千日手に持ち込み、二回目の指し直し局で「体力勝ち」しており、最強の相手を自分の土俵に引きずり込む見事な勝ち試合であった(余談だが、大相撲の情けない大関連中には、永瀬の爪の垢でも煎じて飲んでほしい!)。ところが、永瀬にとって皮肉なことに、しばらく前まで対局の間隔が空き過ぎて、勘が鈍っていた藤井は、いわば「気の置けない先輩から三局も教えてもらった」ことによって勝負感覚が覚醒してしまい、本来の調子を取り戻した。苦戦しながら第二局を勝つと、そのまま三連勝して3-1で棋聖位を防衛した。

つまり、藤井にとって第一局は番勝負の一場面であり、それだけで一喜一憂するものではないのである。この冷静な勝負戦略は全盛期の大山を彷彿とさせる。

いま展開されている藤井の竜王防衛戦でも、挑戦者の広瀬章人が第一局を制した。中原時代に活躍した棋士・田丸昇が「Number」の中でこの対戦を評しているが、末尾で大山の番勝負に言及している。もちろん、少なからぬ年輩プロ棋士たちが藤井の番勝負を見て、往年の大山の姿を重ね合わせているに違いない。

これもまた「モニタリング敗戦」ではなかったか? 番勝負では初めて対峙する広瀬の指し回しを体感して、対抗策を組み立てることが目的だったのではないか?

果たして第二局は難解な展開になりながら、結果的に藤井が勝利して、本日現在は1-1のタイになっている。それまでの間、A級順位戦の斎藤慎太郎戦、棋王戦トーナメントの豊島将之戦と、危なげないほどの順調な勝ち方をしているのだから、第一局の敗戦が尾を引いていないことを示して余りあるものであろう。

この竜王戦の結末がどうなるのか? また、今後の藤井がどこまで大山の域に近付いていくのか? 私たち「観る将」にとっては大きな楽しみだ。

2021年11月15日 (月)

若き王者に声援を!

「竜王」は「名人(17世紀に創設)」と並ぶ、将棋界の最高峰のタイトルである。

1902年に十二世名人・小野五平が初めて、名人は当時の最高段位であった八段より上位だとして「九段」を自称したが、その後は名人すなわち九段相当と認識されたものの、段位もタイトルも設けられなかった。戦後すぐの1947年、読売新聞社(現称で統一する)が主催する「全日本選手権」が創設され、翌々年には「九段戦」も始まった(名人と九段とが番勝負を行って全日本選手権者を決定)。しかし、段位としての九段に昇段する棋士(名人経験者など)が何人か出たので、1962年には新たな「十段戦」に改編された。九段位・十段位は名人に次ぐ一般のタイトルの一つであったが、1987年には読売と将棋連盟との間で、名人位と同格である「一席(他のタイトル保持者より序列上位)」を認める合意がなされ(契約金の大幅増が条件だった)、竜王戦が開始されて現在(第34期)に至っている。

そして、竜王位も名人位も、他の六つのタイトルに比べると挑戦するまでの過程が長い。名人はA級棋士しか挑戦権争いに加わることができないので、まず順位戦でA級まで昇級しなければならない。竜王は誰でも挑戦できるので、若手棋士が飛躍する可能性はあるが、ランキング戦を勝ち抜いた上、さらに決勝トーナメントを勝ち上がり、挑戦者決定戦三番勝負で二勝しなければ挑戦者になれない。

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したがって、理屈から言えば、竜王位や名人位を獲得すると異論なく将棋界の覇者(の一人)と認められる...はずなのだが、多くの場合、現実にはそうならなかった。若い棋士が初めて竜王や名人になっても、まだ力不足のため他のタイトルに手が届かなかったからだ。それまでの間、先輩タイトルホルダーなどの棋士に「上座を譲る」ことも余儀なくされた。

初めて竜王または名人を獲得した棋士がそのまま第一人者となった前例は、直近で1972年、中原誠(永世五冠。敬称略、以下同)の名人位獲得(24歳)である。それまでは「大山康晴(名人・王位・王将)」と「中原(十段・棋聖)」だったのが(当時のタイトル数は5つ)、名人戦で中原が勝利したことにより、明確にタイトル数が入れ替わり、中原が過半を占めた。

その後、谷川浩司(十七世名人。1983年に21歳で名人)、羽生善治(永世七冠。1989年に19歳2か月で竜王)、佐藤康光(永世棋聖。1993年に24歳で竜王)、森内俊之(十八世名人。2002年に31歳で名人)、渡辺明(永世竜王・棋王。2004年に20歳で竜王)と続く大棋士たちは、みな最高峰の二つのどちらかで初タイトル、それも森内以外の人は20代前半までに獲得している(中原以降に両タイトルの片方または両方を獲得した棋士は他にも9人いるが、ここでは割愛する)。

しかし、これらの将棋史に残る大棋士のいずれもが、そこから複数冠保持者になるまでに年数を要しており、速い人でも一年半(森内)、遅い人は六年強(渡辺)掛かっている。羽生でさえ二冠獲得までには三年弱を要した。先輩棋士やライバル棋士が壁となって立ち塞がったから、すぐに誰もが認める覇者になれたわけではない。

ところが、この11月12~13日にかけて開催された将棋の竜王戦七番勝負第四局において、挑戦者の藤井聡太は、竜王であった豊島将之を破り、4勝0敗で竜王位を奪取した。19歳3か月の青年が、すでに保持している王位・叡王・棋聖と合わせて四冠となり、八大タイトルの半数を占め、名人である渡辺(棋王・王将)を凌いで、全棋士の序列一位となった。中原以来、実に49年ぶりの快挙である。

竜王になった時点で、すでに藤井は第一人者なのだ。しかも中原の名人就位に比べて五歳も若く、(49年前にはまだ竜王のタイトルが存在しなかったことを割り引いても)たいへんなスピード出世である。19歳と思えないほど品格も申し分なく、立ち居振る舞いはすでにして王者の風格を備えている。「羽生時代」が終わってから三年を経過して、疑いもない「藤井時代」が幕を開けた。

もちろん、先輩棋士たちがこのまま引き下がってはいないだろうし、藤井自身も負け越している相手もあれば、克服しなければならない課題も存在する。後輩たちの実力が追い付き、藤井のライバルとして覇を競う可能性も大きい。とは言え、年齢や伸びしろを考えると、しばらくの間は「藤井一強」を軸に将棋界が回っていくことは確実であろう。

若き第一人者の誕生を祝福しつつ、藤井竜王が初めて揮毫した「昇龍」の言葉通り、さらに精進を重ねて最高のパフォーマンスを発揮し、多くのファンを楽しませてくれることを心から願う。

(イラストはA&Pコーディネートジャパンのものを借用しました)

2021年3月17日 (水)

AI評価値の「功罪」

将棋の棋戦。最近はこれまでの地上波や衛星放送TVのみならず、ネットTVでも実況されているので、いわゆる「観る将」にとっては選択肢が増えた。

このライブ放映される対局をスポーツと同様に楽しむことができる便利な道具として、AIによって算出される「評価値」がある。スポーツなら対戦者のスコアの途中経過により、どちらが優勢なのか視聴者が一見して判断できるが、将棋の場合はある程度の棋力がないと優劣の判断が難しい。

そこで、棋力をあまり持ち合わせていない私のような将棋ファンにとっては、AIが示してくれる優劣のパーセンテージを見ることで、いまどちらが有利(不利)なのか、優勢(劣勢)なのか、勝勢(敗勢)なのか、一見して把握できるので、評価値はたいへん便利である。

しかし、何ごとも良いことばかりではない。以下、二つの対局結果から考えてみたい。

昨年12月25日、A級順位戦。豊島将之竜王(30)VS羽生善治九段(50/永世七冠)。128手で豊島竜王の勝ち。AI評価値が終盤に大きな変動を繰り返した末、最後は羽生九段94%、豊島竜王6%だったのにもかかわらず、羽生九段が「負けました」と、まさかの投了。

もう一つの例。

今年2月11日、朝日杯オープン戦準決勝。渡辺明名人(36)VS藤井聡太二冠(18)。138手で藤井二冠の勝ち。AI評価値では終盤、渡辺名人が勝勢となり99%、藤井二冠1%になった。ところが渡辺名人が123手目を着手した直後に大逆転、藤井二冠のほうが90%超えとなり、そのまま勝利。

どちらの対局も一手違いの難解な将棋であり、最終盤では両者とも一分将棋、すなわち記録係が「59秒」を読み上げるまでに次の手を指さなければならない状況だったことも、共通している。

前者は羽生九段が、二転三転する局面の最終盤で、豊島竜王の玉を寄せる勝ち筋がたった一つだけあったのを読み切ることができず、もはや自分の負けを挽回できないと信じてしまった。後者は渡辺名人が最終盤、自玉が寄らないようにしつつ藤井二冠の中段玉を詰められる唯一の手順を見落とし、悪手を指してしまった。

AI評価値はあくまでも、「最善手を指し続ければ勝つ確率」を示している。したがって、棋士にとっては59秒で発見することが至難の業である手順も、容易に分析して数字を出す。それは時として、人の感覚からかけ離れた表示になってしまう。

にわか「観る将」の目には、「勝っているのに投了してしまった」羽生九段や、「詰みを逃して自滅した」渡辺名人が、あたかも間抜けであるかのように映ったかも知れないが、決してそうではない。

むしろ、超弩級、最高水準の強者同士の対局だからこそ起きた珍事なのだ。両者とも秒読みに追われる一分将棋の状況のもと、人智を尽くしても読み切れなかった筋があったゆえの敗戦と理解すべきである。前者の豊島竜王、後者の藤井二冠、いずれも最強レベルの難敵に対して、苦戦しながらも最後まで力を振り絞って競り合ったことにより、自らの勝ちを招き寄せた。その実力を称えるべきなのだ。

AI評価値の数字だけを踏まえて対局者を評するのは、あまりにも非情であろう。

衛星放送やネットTVの解説者たちも、しばしば「評価値は決して対局者の現実の感覚に沿っていない」趣旨の発言をしている。AIが登場したことによりライブ放送の評価値に一喜一憂してしまうのは、健全な「観る将」に当たらないと、私は考えている。

その道にかけては天才的な人たちばかりが織り成す将棋の対局。日々過酷な勝負を繰り広げる棋士たちに敬意を表しながら、余裕を持って観戦する楽しみを持ちたいものだ。

2020年12月29日 (火)

チャンスを生かして結果を出す

自分が若い時期に比べると、ネットが急速に普及して情報伝達が全く様変わりしてしまった現代、各界の若い人たちの活躍をリアルタイムで見聞きすることができる。起業して最先端の変革に取り組んだり、非営利な公益活動へ自主的に参画したり、スポーツや頭脳競技で一流どころの仲間入りをしたり、各地で活動する青年たちの姿に接すると、日本の次世代への期待は明るいものがある。まだまだ捨てたものじゃないな、と感慨深い。

「早熟」と呼ぶのが適切かどうかわからないが、ビジネスでは仁禮彩香氏(23)のように14歳で教育事業の会社を興して新風を巻き起こしている女性もいる。他方、公益活動では金子陽飛氏(17)のように高校在学中ながら町内会長を担う男性も登場している。もちろん、スタートが若ければ良いわけではないが、若者たちの活躍は同世代の人たちにも刺激になるので、それは大いに歓迎したい。

これらの若者たちに共通するのは、与えられたチャンスを生かそうと努めていることだ(私が若いとき、残念ながらその才能も力量も持ち合わせていなかった(笑))。家庭、経済、教育などの条件が影響して、チャンス一つさえ得られない若者のほうが圧倒的に多いのが残念な現実である(もちろんその中でも、20代後半以降にチャンスをつかんで大成する人はいくらでもいる)から、恵まれた環境にある若者には、それを生かして結果を出してほしいものだ。

過去の例で言えば、野球の斎藤佑樹投手(32)と田中将大投手(32)。2006年の高校野球では、甲子園で死闘を繰り広げた二人である。田中投手は高卒後に楽天入りして、連年輝かしい成績を上げ、2014年からは渡米してヤンキースの中核投手となり、年俸は25億に至る。他方、斎藤投手は大卒後の2010年に日本ハム入りしたが、デビュー前から指摘されていたフォームの改造を先送りにしたところ、初年度から故障の連続を招き成績は低迷が続いたため、年俸は1,250万まで低下した。フォームだけが原因ではないだろうが、チャンスを生かせなかったために結果を出せず、ライバルの200分の1の評価に甘んじている(次年度がラストチャンスかと言われているが...)。

いまの若者はどうだろうか。直接知っているわけではないが、報じられている知名度の高い人たちの中から、何人かの例を挙げてみよう。

山本みずき氏(25)、同じ発音の俳優さんとは別人。2015年に集団的自衛権をめぐる政治抗争が起きた際に、抗議活動を繰り広げた学生団体シールズのあり方に対し、冷静に疑問を投げ掛けて注目された論者である(当時20歳)。ここで論壇デビューのチャンスを与えられたわけだが、その後、慶大の大学院博士課程でおもに英国政治を専攻しつつ、氏は着実に成長、発信を続けている。一方に偏らず現実を踏まえた議論を展開できる数少ない人物だ。いまのメディア露出度は決して高くないが、急ぐ必要はないであろう。いずれ政治学者として大きな実績を上げることが期待されている。

花田優一氏(25)はご存知の通り、両親が名横綱と名アナウンサーであり、メディアに露出すると「鼻持ちならないお坊ちゃん」と見なされがちだ。本職は靴職人だと言っているが、他方で歌や絵画などのタレント活動にも余念がないだけに、本気度を疑わせる向きも多い。受注した靴が納期に間に合わなかったことを理由に、芸能事務所を契約解除されたことも報じられている。しかし2018年に、氏はイタリアの「PITTI IMAGINE UOMO」に靴を出品させてもらい、また将来注目すべき若いクリエイターに贈られるベストデビュタント賞を受賞している。チャンスを与えられたのだ。私自身はオーダー靴の世界とは無縁なので、氏が製作する靴が一定以上の水準なのかはわからない。仕事の評価は氏が作った靴を履く顧客たちや、全国の同業の巨匠たちから下されるべきであろう。本気で靴職人として大成したい思いが強いのであれば、仕事で結果を出してほしいものである。

久保建英選手(19)はサッカーの日本代表(2019-、現在最年少)であり、2017年からFC東京、2019年にスペインへ渡ってレアル‐マドリードに所属した。今年8月からビジャレアルに期限付きで移籍したのだが、ウナイ‐エメリ監督の起用方法が議論になっている。なかなか先発に起用してもらえず、出場しても十分な結果を出せないので、移籍まで取り沙汰されている状況だ。チャンスを生かせない同選手の側に課題があるのか、それとも監督側に起用ミスがあるのか? 小宮良之氏がSportivaで興味深い意見を述べているので、関心のある方は参照されたい。一言で要約すれば、「誰にも文句を言わせない仕事をしろ!」となるが...

藤井聡太棋士(18)こそは、与えられたチャンスをしっかりモノにしていると言えよう。昨年の王将戦では、事実上の挑戦者決定戦まで駒を進めながら、広瀬章人八段に大逆転で敗れて涙を呑み、史上最年少でのタイトル挑戦を逸した。そしてコロナ禍による緊急事態宣言のため、4・5月は愛知県から東京や大阪へ移動できずに対局延期が続き、決勝トーナメントのベスト4まで進出していた棋聖戦の進行が止まってしまった。移動解禁後、日本将棋連盟は棋聖戦の準決勝、決勝(挑戦者決定戦)、挑戦手合五番勝負第一局を、一週間の中に詰め込み、わずかに(それまでの記録より三日早い)最年少挑戦の可能性を与えた。同棋士は見事にその期待に応え、準決勝で佐藤天彦九段(元名人)、決勝で永瀬拓矢王座を連破して挑戦者となり、渡辺明棋聖(現名人)を3勝1敗で降してタイトルを奪取したのだ。続けて木村一基王位にも挑戦して王位を奪取し、史上最年少の二冠王となったことは周知の話。

あくまでも例として掲げたが、この四人に限らず、若者の将来は、大事な節目に集中力を発揮し、継続して努力精進できるかどうか、それ次第で変動する可能性は大きい。多くの若者たちには、ひとたび目の前にチャンスが到来したら、それを逃さずに飛躍して結果を出してほしいと願っている。

2020年11月30日 (月)

「地位が下がらないチャンピオン」の怪

大相撲11月場所はコロナ禍のために、福岡ではなく東京の国技館で開催された。大関・貴景勝関(24)と小結(元大関)照ノ富士関(28)との優勝争いとなり、最終的に決定戦(画像は自宅TV、NHKの中継画面)の結果、貴景勝関が二度目の優勝を飾った。

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さて、この場所で問題になったのが、看板力士の不在、とりわけ「横綱の不在」である。

白鵬関(35)は無観客の3月場所、13勝2敗で優勝したが、そのあと7月場所で途中休場、9月・11月と続けて全休。鶴竜関(35)は3月場所で12勝3敗、そのあと7月場所で途中休場、9月・11月と続けて全休。

11月場所後の横綱審議委員会はこの状態を看過できず、両横綱に対して「注意」の決議を出した。かつて稀勢の里関(現・荒磯親方)の八場所連続休場(うち全休四回)したときの「激励」より重い決議だ。横審は現任横綱二人が「延命を図っている」と見なしたのではないかと推測される。

その「延命」の理由、白鵬関は「年寄株の未入手」、鶴竜関は「日本国籍の未取得」だと報じられている。いずれも日本相撲協会に親方として残ることを前提とした話なので、二人それぞれが本心では他の道を考えているのであれば、当たっていない話かも知れない。とは言え、親方にならない道を選んだとしても、引退してすぐ何かを始める具体的な計画がないのであれば、現役を続けるしかない。

そこで障壁になるのは、「土俵に上がる以上は、横綱にふさわしい成績を上げなければならない」点なのだ。すなわち、「優秀な成績」または「引退」の二択しかないのである。通常はもう一つの選択肢、「降下(降格)」の道がある。大関以下にはそれが許されているから、地位が降下しても再起して巻き返すことができる。横綱は陥落しないので、それができない。いまの二横綱が外国出身であることはひとまず措いて、この二択しかなければ、現役を続けるために不本意ながら「休場」することになってしまう。

これは他のスポーツや頭脳(卓上・盤上)競技と比較しても異常である。それが横綱の「伝統」だとの考え方も、説得力に欠ける。国際的に見ると、どんなスポーツや競技にも発祥地で受け継がれてきた伝統があり、「チャンピオン」の決め方にもさまざまな「しきたり」があったが、いずれもそれを克服して近代化、現代化している。

たとえば将棋の「名人」(諸説あるが遅くとも17世紀前半から)は相撲の横綱(実質的には18世紀末から)より古い称号であるが、日本将棋連盟は1935年に終身名人制を廃止して実力名人制を開始した(ちなみに日本囲碁界のほうの名人戦開始は、これよりもかなり後年である)。これにより、翌期の七番勝負で挑戦者を退けて防衛できなければ、名人はその地位を失うことになった。名人と対等な地位の「竜王(1988年創設)」も同じ。かつては失冠後一年に限り認められていた「前名人」「前竜王」の呼称もいまは存在しない。将棋界のレジェンドであり、前人未到のタイトル99期を獲得した羽生善治氏も、いまの公称は「羽生九段」であり、資格を得ている「十九世名人」「永世竜王」等の称号も、名乗るのは原則として引退後となる。

他方、フィギュアスケートの「olympic champion(五輪優勝者)」や「world champion(世界選手権優勝者)」。アイスショーなど、競技以外の場では、過去の実績が出演料や滑走順などに影響することもあり、これらの肩書が通用する。日本中を感動の渦に巻き込んだ「トリーノの女王」荒川静香氏の場合は「(2004)world champion and (2006)olympic champion」となる。
しかし、競技の場では、五輪
は4年ごと、世界選手権は1年ごとに新たな大会が開催され、そのたびに国際スケート連盟が公認する称号保持者は入れ替わるから、前述の肩書はあくまでも「過去の最高位」の表記に過ぎない。直近の大会で優勝したタイトルホルダーは、「current」(=現在の)を付けて区別されており、前年以前のタイトルホルダーがずっとチャンピオンでいられるわけではない。成績が悪ければ地位が下がるから、当然のように国際大会でシードもされず、さらに降下すれば国の代表選手にさえ選ばれないことにもなる。その時点の実力に見合った競技者としてのパフォーマンスしか認められない。

このように見ていくと、「地位が下がらないチャンピオン」は、現代スポーツや頭脳競技の中で、かなり異質な存在なのだ。

もし、横綱にも降格制度があれば、稀勢の里関のように大きな負傷を抱えてしまった人が、時間を掛けてじっくりと治療した後、下がった地位からやり直すことによって、もっと長く活躍できたと思われる。現に照ノ富士関は、大関から序二段まで降下した後、再浮上して7月場所では二度目の幕内優勝に輝いているのだから。
過去、同様なことを期待できた横綱は他にも何人か存在した。残念でならない。

日本相撲協会はそろそろ、伝統の呪縛から離れ、大きな変革のために英断を下すべき時期ではないだろうか。

2020年8月23日 (日)

いま、将棋界が面白い!

むかし、銀行勤務のしがない勤め人だった父は、将棋のルールを覚えたころの私のために、支店で古くなって処分する新聞の将棋(棋譜)欄を切り抜いて、持ち帰ってくれた。家を建てた1970年の初め(私は小学4年生になるころだった)から、数年間は続いたと記憶している。

将棋界に関心を持ち始めたのはそれ以来だ。実際に他人と指した経験は乏しく、現代風に表現すれば「観る将」である。しかし、日本の伝統文化について言えば、スポーツなら大相撲のファンであっても、実際に自ら相撲を取る人は少ないだろうし、演劇なら歌舞伎のファンであっても、実際に自ら歌舞伎を演じる人はほとんどいないだろう。盤上遊戯の将棋で同様なスタイルがあっても、何ら差し支えない。

そして、本格的なネット社会の到来により、かつては見ることができなかったタイトル戦の対局風景も、Abema TVなどの手段で視聴することが可能だ。すでにエントリーした通り、私はむかし浜松で開催された大番解説会に一度だけ出向いたことがあったが、いまやスポーツや演劇と同じく、一流どころのパフォーマンスを中継で楽しむことができるようになった。かつてはタイトル戦終了後に新聞で棋譜を見ていた「観る将」にとっては、劇的な変化を遂げた半世紀なのである。

その「五十年来の観る将」の個人的な感想。

1970年は大山康晴(1923-92。なお棋士は故人か存命中かにかかわらず、敬称略。以下同)の全盛期で、五冠すべてを独占しており、その牙城を誰が崩すのかが注目の的であったが、まもなく中原誠(1947-)が大山から二冠を奪い、新時代の到来を思わせた。その後はタイトルが増えたこともあり、中原、米長邦雄(1943-2012)、谷川浩司(1962-)がタイトルの過半を同時に保持するが、全タイトル制覇には至らなかった。羽生善治(1970-)が1995年に七冠すべてを制覇したのは、実に大山以来の偉業だったのだ。

70年当時の観戦記では、大豪(本来の用字は「大剛」)、強豪などの表現が使われていた。

・大豪 → 大山、升田幸三(1918-91)、また中原は70年代半ばから大豪と呼ばれる。

・強豪 → 二上達也(1932-2016)、山田道美(1933-70)、加藤一二三(1940-)、内藤国雄(1939-)、のち米長など数名が加わる。

タイトルを何か取れると「強豪」、一時代を築けば「大豪」と称されたようだ。観戦記者によっても表現が異なっていたから、明確な定義も何も存在しないことを、誤解なきようにお断りしておく。

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しかし、これを半世紀後の現代にそのまま当てはめるわけにいかない。タイトルの数も八冠に増えて、多くのタイトルを兼位し続けるのが難しくなった反面、羽生一強時代の終焉(2016年前半)により、中堅・若手棋士がタイトルを獲得する機会は増え、一回だけ手が届いて翌期には失冠した棋士も数多く存在する。50年前に比べ、「大豪」の定義は少し甘く(広めに)、「強豪」の定義は少し厳しく(狭めに)規定しても良いだろう。

そこで、全く私の主観であるが、2016年度以降を基準に、「タイトルを三冠以上同時に、かつ二冠以上を継続的に保持した」棋士を大豪、「タイトルを複数同時に保持した」か、または「タイトルを(一度でも)防衛できた」かの、いずれかを満たした棋士を強豪とした場合、以下のようになる。

・大豪 → 羽生、★渡辺明(名人・棋王・王将。1984-)。

・強豪 → 久保利明(1975-)、佐藤天彦(1988-)、★豊島将之(竜王。1990-)、★永瀬拓矢(叡王・王座。1992-)、★藤井聡太(王位・棋聖。2002-)

そして、★印を付けた四人が現タイトルホルダーであるから、俗に「四強時代」とも称されるゆえんだ。もちろん、四強以外の若手や、羽生を筆頭とするベテランの実力者も、黙って見ているわけではない。四者の一角を崩し、タイトル戦線に食い込んでいくことを虎視眈々と狙っている。とは言え、八人の棋士がタイトルを分け合うほど分散した、2017~18年の大乱立時代と比較すれば、少しく「統合」されて、「雄峰並び立つ」時期に差し掛かった感がある。

いま最も注目されている「最年少二冠・最年少八段」の藤井が、一つ、また一つとタイトルを増やしていくのか? それとも、渡辺をはじめとする先輩棋士たちが厚い壁になるのか? しばらくの間は、将棋界から目が離せない。

2020年7月19日 (日)

祝!東海将棋界70年の宿願達成☆

7月16日、藤井聡太七段(きょう18歳の誕生日/愛知県瀬戸市)が、ヒューリック杯棋聖戦(産経新聞社主催)第四局に勝ち、渡辺明棋聖(38)を3勝1敗で破り、初のタイトルを獲得した(獲得時点では17歳。史上最年少)。

この「快挙」、簡単な言葉ではとても表せない歴史の重みがある。

1950(昭和25)年、三重県出身で東海将棋界の重鎮であった板谷四郎(1913-95)は、将棋界がこれまでの「名人」に加え、「九段(当時は最高位が八段)」「王将」の三タイトル制になったばかりの時期、「九段戦」の決勝まで進みながら、三番勝負では当時昇竜の勢いだった大山康晴(1923-92)に二連敗して、涙を飲んだ。

板谷は引退後、1959年に名古屋の将棋道場を開き、東海地区での棋士育成を開始する。何人もの弟子を育てたが、実子の板谷進氏が一門の中心的存在となり、愛知・三重・岐阜・静岡県の将棋界を牽引していった。

ところが、進氏はタイトル挑戦に手が届かないまま、1988年、47歳で急逝してしまう(追贈・九段)。

進氏の没後、弟子の杉本昌隆氏(現在51歳・八段)が1990年にプロ棋士(四段)に昇格を果たし、名古屋に在住しながら、弱小な東海将棋界の灯を絶やさずに守り続けてきた。

その杉本八段の弟子が藤井青年。板谷四郎から見れば、曽孫(ひまご)弟子に当たる。「東海地方にタイトルを」は、70年前の「無念の敗退」以来の悲願であった。杉本八段は棋聖戦第四局の控室に入った際に、板谷進氏の遺影を携えていたという。そして藤井七段がついに宿願を達成!

藤井新棋聖、杉本八段をはじめ、東海将棋界を長く支えてこられたすべての関係者に、心からお祝いを申し上げたい。

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私自身は将棋連盟とつながりがあったり、道場に通っていたりしたわけではないが、学生時代の1981年に一度だけ、中原誠・十六世名人の全盛期に、浜松で開催された王位戦(中原-大山戦)を観戦に行ったことがある。そのときに解説されていたのが板谷進氏であり、聴衆の一人としてではあるが、氏と一言二言交わしたことを覚えている。景品(画像)もいただいて帰った。東海将棋界とわずかながらご縁があったことになる。

愛知県やその周辺の出身であっても、多くの棋士が利便さを求めて首都圏や関西に移住してしまう。そんな中にあって、東海を拠点に活動する板谷→杉本一門は、とても貴重な存在である。藤井棋聖の活躍が追い風になり、杉本八段への入門を希望する親子が急増していると聞き、東海の将棋ファンの一人としてはたいへん嬉しい。

ただし、どんな業界でも地域レベルで盛り上げるためには、一人の活躍では限界があろう。名古屋将棋会館の建設まで期待する声があるようだが、そのためには東海から藤井棋聖に続く若手の棋士たちが輩出して、続々と棋戦に参入していくことが求められる。杉本一門を中心に、将来の棋界を担う若者たちが切磋琢磨しながら向上していく環境が整えば好いのだが。

また、藤井棋聖自身も、いまだ発展途上の人である。進行中の王位戦も木村一基王位(47)に二勝したとは言え、番勝負は全部が終わってみなければわからない。このところ大豪・渡辺二冠や強豪・永瀬拓矢二冠(27)に対しては相性が好いが、過去四戦して勝ったことがない第一人者の豊島将之竜王・名人(30)や、同期でプロ四段に昇格した苦手の大橋貴洸六段(27)などの壁も立ちはだかる。対局過密状態でありながら、さらに強みを増して、棋界制覇へ向け着実に歩みを進めていってほしいものだ。

「AI超え」と称される頭脳を持つ藤井棋聖が、いよいよ緻密さを増していく将棋ソフトとどう共存しながら、人間の叡智やひらめきの素晴らしさを証明していくかも、大きな課題になりそうだ。

世界の盤上遊戯の中で、日本独自の発展を遂げた将棋。藤井棋聖の快進撃に伴い、日本を代表する文化の一つとして、広く市民の間に普及することを望みたい。

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